菊と刀―定訳

1967 社会思想社 ルース・ベネディクト, 長谷川 松治

 

西洋人には奇妙に見える日本人の行動基準を人類学者ルース・ベネディクト女史が説明する。訳者のあとがきが昭和23年になっている。

日本も40年もたてば行動基準は変わるとは思うが、はっとさせられることが多く、基本的なところは変わっていないと思った。それにしても彼女のニュートラルなものの見方ができる才能が、ここまでバランスのとれた分析を可能にしたのかもしれないと驚いた。中国やアジアの文化にも精通している彼女が初めに言っていることもおもしろい。『徳と不徳は西洋人が考えているものとはまるで違ったものであった。その体系は全く独自のものであった。それは仏教的ではなく、また儒教的でもなかった。それは日本的であった』

義理や恩の概念なども客観的に分析されていて、今まで省みることがなかった概念を、なるほど、と思ってしまった。

ベター・ハーフ

2005 集英社 唯川 恵

 

バブル絶頂期、文彦と永遠子の盛大な結婚式。文彦の浮気相手が控え室の永遠子を刺そうとする。新婚旅行先のハワイから永遠子は不倫相手だった人に電話をかける…。バブル期から2000年にかけて、時代を象徴する事件を織り込みながら、結婚した二人が長い月日と事件を経て夫婦になっていく物語。

ちょっと典型的な事件を強引に主人公夫婦に背負わせた感がある。最近も周りに離婚の話があったが、月日を経て夫婦になっていく人はどのくらいいるのだろう。その前に別れたり、夫婦にならずに共同生活を営み続けたり、そんな感じなのかな。ストーリーとしては目新しさは感じなかった。

レクサスとオリーブの木―グローバリゼーションの正体〈上〉

2000 草思社 トーマス フリードマン, Thomas L. Friedman, 東江 一紀

 

レクサス=グローバリゼーションの象徴。オリーブの木=文明や個々人の文化やアイデンティティの象徴。レクサスとオリーブの木のせめぎあいを、筆者自身が見聞きした小さいエピソードの集合によって描いた作品。相手は中東のインターネットカフェであった若者からグリーンスパンまで様々。筆者のフリードマンは“継続可能な”グローバリゼーションを指向している。グローバリゼーションは貧富の格差を助長するが、最低の生活を底上げすることができるもので、かつ、腐敗した政治などを壊す力もある。しかし、グローバリゼーションによってマクドナルドがどこにでもあるというように、世界が均質化してしまうことはさみしいことで、オリーブの木は必ず必要なものであるとも。いずれにしてもグローバリゼーションは通信技術に裏打ちされているもので、衛星放送、電話、インターネットなどによって相互に情報が行きかうことで人々がより良い外の世界を知ることができるために、それを止めることはできない。

たまたま見つけた黒川清先生が薦めていた本の中に入っていたので遅ればせながら読んでみた。マクドナルドがある国同士は戦争をしない、という直感的に法則を提言があったり面白い。永続的な持続にはセイフティネットが必要だという説は私がグローバリゼーションをイメージしたときには対極にあるものだと思っていたが、そういうものではないらしい。たしかにインターネットを初めとした昨今の著しい通信技術の発達がある限り、グローバリゼーションという世界が相互に接続する仕組みを止めることはできないと思う。エピソードにもあったがグローバリゼーション反対の運動すらもインターネットを通じてグローバルに行われているという状態である。アメリカ文化の流入だけでなくて逆流もあるということだったが、たしかに日本のアニメ文化が世界に広まったりしているし、アメリカ以外の地域との接続による文化の相互作用もある。これは均質化ではなく相互作用だ。これがパクス・グローバリアーノに結びついてくれれば良いと切に願う。

パール・バック聖書物語 旧約篇 (1)

1981 社会思想社 パール・バック, 刈田 元司

 

旧約聖書を読みやすくした翻訳本。作者は「大地」のパールバック(大地はカナリお薦め)。アダム、ノアの箱舟、アブラハム、モーゼの出エジプト、ダビデとゴリアテの対決、その後ダビデが王になる、などのエピソードがつづられている。イスラエル、ユダヤ人の歴史がわかる。始めの方は放牧生活を中心としているが、後のほうは国と戦争の話が主になっているような印象。

叔母から「旧約聖書は人類の闘争などの歴史のすべてが書いてある」と以前聞かされたので読んで見たいと思っていたが、やっと簡易版を読むに至った。どうだろう。少なくても簡易版を読んだ限りでは人類の普遍的な大きな流れを感じるとまではいかなかった。けれど旧約聖書そのものだと筋を追いにくいようなイメージがあるが、こちらは普通に物語していてサラサラ読める。

物語の始めの方で「遠方から嫁いで来たリベカはラクダの上から、遠くに夫となるイサクを見とめると、結婚式まで顔が見れないようにベールをした」との記述があったが、この遊牧民族の風習が2000年以上の月日を越えて、今も教会で行われていて日本人が真似をしていると思うと壮大さと滑稽さが入り混じる。出てくることは知っていたがレンズ豆のスープも登場。女性が子供をもうける箇所で「○○が新しい国民を生んだ」みたいな記述が使われていたが、一人の子供が国民になるというスケールのデカさにビビッた。ほかには、、、従わないものをやたらに殺している気がした。モーゼも隣人を殺すべからずみたいな十戒を受けておきながら、一緒に逃げてきたけど十戒に従わない人たちを皆殺しにしている…汗。あと主からの飢えを凌ぐために謎の食物“マナ”が毎朝降ってきた、とあったがこれはいったい何だろう。マナ食べたし。

歴史としてはイスラエル国とユダ国という二つの国に分かれてイスラエル国は滅びた、という過去にはちょっとビックリした。その後、ユダ国も征服されるが、その国民は捕虜になるが彼らをユダヤと呼ぶというのも知った。ユダヤ民族は過去によく捕虜になっているが、どうも占領国の中枢に入って行くのがうまいように感じた。それでいて自分の国を運営するのはあまり得意でないような印象を受けた。いずれにしろ、世界で重要な地位にいるユダヤ民族をもう少し学びたい。旧約聖書はユダヤ教キリスト教イスラム教の聖典なので一度で3度美味しい(?)ので、やはりもう少し詳しい旧約聖書の簡易版をまず読んで、その後にオリジナルかな。

地球 塩の旅

2004 日本経済新聞社 片平 孝

 

世界の塩の生産について写真を中心に紹介している。

塩湖、岩塩鉱山、塩田などが順番に説明されている。なにしろ絶景と呼べるような風景が美しい。シャンデリアまで塩でできた教会、インカの高山にある塩田など興味深い。いろいろ行ってみたいところも多数あった。日本古来の塩の生成についても説明してある。最後に説明されているサハラ砂漠で塩を決死の思いで運ぶキャラバンは胸を打つ。

塩屋さんが書いた塩の本

1990 三水社 松本 永光

 

「伯方の塩」の社長が書いた塩の本。塩の歴史、製造法、活用法、自然塩の普及を目指した起業の顛末なども書かれている。基本的に現在の減塩の流れを否定するなど、全編に渡って塩の効用を賛美している。

歴史の話は世界の塩にまつわるエピソードが書かれていて面白かった。塩田などによる方法が最も原始的な方法だと思っていたが、海藻(カイソウ)に海水をかけて、それを燃やして、かん水(濃い塩水)を作る方法が日本で古来から行われており、百人一首などにも登場するということだった。より効率的な塩田による製法ができたことにより、この製法は行われなくなったが、皇族などはこれを食べていたとか書かれている。この塩を食べてみたい。減塩がより健康的というのは科学的な観点からは微妙らしい。岩塩の色は泥や鉄などの不純物らしい。最も驚いたのは「赤穂の天塩」が(今はわからないが)この本によると中国で科学的に精製された塩化マグネシウム(にがり)を“添加”しているということだった。原料の塩は赤穂の天塩も伯方の塩もメキシコなどの外国の塩だ。これは専売公社時代に海水から塩を精製することが制限されていたから。

今は海水から塩を精製しても良くなったようなのでシママースなどの海水塩を使ってみたいなぁと思った。

食品の裏側―みんな大好きな食品添加物

2005 東洋経済新報社 安部 司

 

著者は1500種類の添加物の知識があり、食べてそれを判別できるという添加物業界のトップセールスマンだった。消費者には低価格な商品を提供できるし、捨てなくてはいけないような食材も再生させることができる添加物は素晴らしい“クスリ”。生産者からは感謝されて、相談が山のように舞い込む日々。あるときに自分の娘が誕生日に著者が作った添加物まみれのミートボールをうれしそうにほうばるのを見て、動揺して食事を制止する。そこで初めて自分の作っているものが家族に食べさせたくないものだということに気付き、業界から足を洗う。

豆腐の製造に使う“にがり”なども添加物であり、添加物は悪くないのであるが、まだ歴史的に安全が確認されていないものが急速に広まっていることを危惧している。今まで安全と言われていたものも突然、発がん性が確認されて使えなくなることもあるという。最後は、食事というのは「命をいただく」という尊い行為であり、手間暇をかけることによって美味しく安全なものを食することができる、と単に添加物の危険を断罪するだけではなく、高く昇華した形で結論しているのには好感が持てた。

まさにマトリックスの世界。真実を知りたいか?真実は恐ろしいものだった。業界ではプリンハムと呼ばれているらしいが100キロの肉から130キロのハムができるらしい。ハム、明太子、漬物が3大添加物まみれ食品とのこと。また、低塩と謳っている漬物、梅干も低塩でも保存が利くように添加物が駆使されているということだ。

自社の食品を食べない工場長なども少なくないらしい。A社の人はA社の製品を食べない。B社の人はB社の製品を食べない。けど、A社とB社の人はお互いの製品を食べる、というようなことが広く行われているとしたら、世の中、自分だけが助かろうと互いに騙しあって、全員が自滅する、という構図なのじゃないか?と思った。たぶん、この騙し合いの構図は食品、飲料だけでなく、野菜や外食、メディアなどあらゆるところで行われているのではないか?化粧品も石油から作る原液を見るととても使えなくなるという話を聞いたことがあし、レストランは手作りといって既製品を出しているかもしれないし、添加物まみれの手作り料理を出しているところもあるかもしれない。鶏だって肉牛だって乳牛だって抗生物質まみれと聞くし、携帯メーカーの社員は携帯電話を肌に近いポケットに入れないという話も聞いたことがあるし、農家が自分で食べるものは別に作っているというのはよく言われている話だ。結局、本が言っているように消費者が値段だけではなく、なぜ安いか?などの素朴な疑問を持って、安全なものを選ぶようにすることにより、企業の廉価化に対するモチベーションを安全の方にシフトさせるような消費者主体の行動が必要なのだと思う。

ナショナルジオグラフィックには昔ならありえなかったアトピーや食物アレジーも急増しているようなことがかかれていたので、やはり食品などがすくなからず影響していると考えるのが自然な気がする。安全とは時間もお金もかかるものだが、将来体に与えるリスクなどを総合的に考えると安いのかもしれない。資本主義では貨幣価値に基づいて経済活動が行われるが、タバコは医療費の増大という形で貨幣価値に健康への被害が換算されることによって国家によって抑制される方向に至った。資本主義的に利益を生むという理由で発展した添加物も、資本主義的に医療費の増大などで損するという理由によって抑制される日が来るのかもしれない。しかし、ダイオキシンなどと同じように、害された健康が貨幣価値に換算され、国家が抑制の方向に動くのには時間がかかる。見えざる手は俊敏でないことがあるのかもしれない。先んじて貨幣価値を超えて、リスクを回避する行動にでるしかないのかもしれない。

日本の中の朝鮮文化―相模・武蔵・上野・房総ほか

2001 講談社 金 達寿

 

関東を中心とした神社や地名などに残る朝鮮文化にせまるフィールドワーク。さまざまな研究者の文献を引用してあり、筆者の研究熱心さが伝わってくる。

昔に韓国に行ったときにたまたま会った韓国人の大学教授に「日本には韓国由来の地名などがたくさんあるから調べてみなさい」と教えられたのを覚えていて、かなり前に買ったのだが家に眠っていた。しょっぱなから神奈川出身の私が馴染み深い「秦野」などの名前が出てくるが、この秦は帰化人を意味するらしい。そもそも相模、寒川神社の寒川も古代朝鮮語のサガに由来するらしい。寒川ももともとは寒河と書いてサガと読んだらしい。相模人としては驚きだ。韓国からの日本への移住の模様はわかったがきっと中国、インド、東南アジアからの移住もあったに違いない。その辺の本も探してみたい。

ともあれ、この本はシリーズらしいので現在住んでいる奈良付近の本も読もうと思う。

日本人とは何か

1976 講談社 加藤 周一

 

はじめは芸術の話から始まり、戦争、天皇制まで話は及ぶ。“西洋”を強く意識した比較論であったと感じた。

第二次世界大戦についても私たちが知らされているように国民が軍部にだまされて踊ってしまった、というようなことは一方ではあったが、知識層はその無謀さをよく理解していて、それを止められなかったとの記述には驚いた。現在も同じことが起こっているのではないか。

平和の訴え

1961 岩波書店 エラスムス, 箕輪 三郎

 

エラスムスが平和の神として人間におろかな戦争をやめるように問いかけている。

キリスト教がベースとなっている。他の宗教と争うならともかくキリスト教同士争うのはキリストの教えからしてどういうものか。と言った論調。キリスト教が戦争に使われているという指摘もあった。現在でもこの構図は変わらない。対話集がEUでは一般的に読まれているらしいけど、とりあえず他の作品も読まないと。