明治維新とは何だったのかー世界史から考える

第1章 幕末の動乱を生み出したもの

明治維新と呼ばれるようになったのは明治13−14年ごろ。それまで御一新など。大統領からペリーへの命令は親書を伝えること。イギリス、フランス、オランダに遅れていたので、石炭の供給地にしたかった。日本の開港が不成功の場合には沖縄を取ろうとしていた。列強に勝つために太平洋航路を開く必要があった。シーパワー、通商がメインだった。各国の経済規模の推移。ペリーは日本を研究していた。
 当時の首相=阿部正弘によって幕府が開国に舵をきることを決めた。安政の改革で開明を登用した。35歳くらいで開国ー>富国ー>強兵の道筋を作った。ペリーが来たとき吉田松陰は24歳。勝麟太郎は22歳で佐久間象山のもとで学んだ。中国では林則徐が学んだ文献を魏源に託し、魏源はそれをもとに「海国図志」を著した。
 徳川は石高で管理するために交易を禁止し鎖国した。徳川250年の末期には日本人の平均身長や体重は小さくなる(★食事??)経済もマイナス成長だった。朱子学は徳川のため?士農工商もそこまででなかった?
 幕府は開国に踏み切った途端に財政破綻する。薩英戦争で幕府は多額の賠償金を払う。ドルと金銀の交換比率も間違っていた。薩英戦争と下関戦争で長州薩摩も開国しかないとなった。武器商人たちはとんでもなく儲かった。絹や生糸の密貿易で薩摩や長州はお金をためていた。長州は身分制度もやめて軍も近代的にした。イギリスは金払いの良い薩摩に付いた。

第2章 「御一新」は革命か内乱か

 光格天皇の時に変化があり、幕府はお伺いをたてろということになった。帝ー>天皇としたのも光格天皇。朝廷の孝明天皇はキリシタン嫌いで、岩倉具視や三条実美が焚き付け、幕府は開国を勝手に決めたということになった。けれど京都にも黒船が来て朝廷も開国になった。明治維新は関ケ原の恨みを晴らした暴力革命。慶応元年などに新政府の方針を考えるべきだった。坂本龍馬の船中八策もそう。
 イカサマの錦の御旗を三条実美が作って、賊軍になった慶喜は戦意を失って戦線離脱。会津藩は防衛戦争だった。坂本龍馬は文久二年から慶応三年までの5年間で超人的な動きをした。他の人のアイデアをまとめて実行した。
 長岡藩は5万石を盗まれて、米百俵で教育に力を注いだ。会津藩は全部取られて斗南藩に行き、死んでいく。朝敵の藩名の県は一つもない。軍隊でも著しい差別があった。日清日露戦争での大正はほぼ薩長。華族になった数も違う。
 大久保利通が企画した岩倉使節団は大きい。攘夷を改めるために必要だった。残ったのは三条実美や山縣有朋のようなレベルの低い人間。西郷隆盛が引っ張り出される。西郷隆盛は毛沢東に似ている。漢詩も作るし、農業主義、永久革命家。西郷さんは軍人。リアリストの大久保利通とは違う。手段を選ばず殿様に取り入ったりして存在感を高める。西郷が去った後は首を切って小さい政府を支配した。著者はリアリストが仕切ったのは良かったと思っている。
 維新三傑の後をついだ伊藤博文と山縣有朋はこぶり。伊藤博文は大久保利通が考えたことを実行した。山縣は人格がなかったので、とんでもない軍事政権を作ってしまった。吉田松陰は膨張主義。
 幕府側の阿部正弘が描いたものを、大久保利通が引き継いだ、という構図。

第3章 幕末の志士たちは何を見ていたのか

 勝海舟は一番はじめの開明的な人、日本人になった人。西郷隆盛と会話をしつつ、イギリスとも交渉した。西郷と対立しないように征韓論からは逃げていた。西郷さんが好きで碑もつくった。勝海舟は江戸の町を燃やす覚悟で交渉に臨んだ。
 西郷さんは毛沢東と違うのは権力欲がなかった。廃藩置県では反乱が予想されたが、実際には起こらなかった。
 井伊直弼の暗殺と226事件は歴史を大きく動かすテロだった。
 大久保利通は破壊と創造、両方した。保守主義、漸進主義、鄧小平のような人。暗殺されて日本が軍事国家になった。開国・富国・強兵というグランドデザインを作った。斬進主義。
 桂小五郎は西洋かぶれで発言をどんどんした。政治力や策謀はなかった。性急なところがあったが人は殺さなかった。
 岩倉具視は策謀家。公家、幕府がにくかった。
 伊藤博文と山縣有朋。伊藤博文は大久保のビジョンを実現に動いた。仕事はできるが蛋白で伊藤派はいなかった。山縣は可愛い可愛いと取り込むが裏切ると首にする。下級武士だった。伊藤博文も下級武士だったが、それよりも低い。吉田松陰は伊藤と山縣の権威付けに利用された。門下の優秀な人は死んで伊藤と山縣だけが残った。吉田松陰は山縣を丸太ん棒と評した。
 板垣退助は後に語った。会津の白虎隊はよく戦ったが農民は逃げるばかりだった。それは農民を軽視した政治が悪かったのだと。
 アーネスト・サトウは西南戦争のときには薩摩にいて薩摩が勝つと思っていた。各地にいる西郷の信奉者たちが加勢すると思った。政府軍の勝因は武器のレベルと通信網。大久保は嫌い。正当な政府ができる前は個人プレイでいろいろできた。

第4章 「近代日本」とは何か

岩倉使節団はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツで、GDPの大きい順に訪れた。海外から先生も呼んだが東大教授の6倍の給与を払っていた。なので留学して学ばせる方式に切り替えた。和製漢語を作って教育を加速化した。
山縣は西南戦争呉にシビリアン・コントロールを外した。天皇直下の組織で政府は関係ない。プロイセンの影響。自分で作った参謀本部長に自らがなった。
 大日本帝国は薩長がつくって薩長が滅ぼした。乃木希典、児島源太郎、東郷平八郎も薩摩。近代国家になったのは薩長のおかげではある。日露戦争の講和でアメリカを逆恨みした。日本人は開国を捨てて、攘夷になった。
 薩長が始めた太平洋戦争を賊軍出身者が終わらせた。終戦時の総理大臣の鈴木貫太郎は徳川譜代の名門の久世家。海軍大臣の米内光政は盛岡藩士。第一次大戦あたりから日本のリーダーは世界をみなくなった(★ほんとうか??)原子爆弾のウランの同位体の分離方法も分からなかった。対中戦争の講和の相手として国民党を相手にしないとしてしまった。講和相手がいないと戦争が終わらせられない。
 幕府側で開国を志向した阿部正弘や勝海舟はもっと評価されて良い。阿部正弘が作ったグランドデザインを大久保利通が引き継いだ。阿部正弘が一番の功労者で、大久保利通が二番。
 

大和朝廷 VS 邪馬台国 ~ 古代、2つのヤマトの戦い

2024 星雲社 澤田健一

中国とも絡めてあるのと、広く文献を参照しているので、大変参考になった。

序章1 出アフリカー大いなる弓の民族の旅立ち

縄の発明、縛る、狩り(★縄の研究?)。縄を使った弓矢の発明、弓の民族、弓矢は6万4千年前。9万年前、銛。12年前、装飾品+屈葬。(★ホモ・サピエンスでも出アフリカは数回あった、別の民族?)中東の人骨は9万年−8万年以降はネアンデルタール人。それまでにホモ・サピエンスは通過している。弓は象徴的、神武天皇と長髄彦でも天孫族の証として見せあった。随書倭国伝には正月一品に射儀・飲酒するとかる(★射と宗教)。南アフリカのブロンボス同期つからアクセサリーや赤色顔料が発見されている。

序章2 南インド・スリランカ

アフリカから東に向かった大いなる弓の民族(★ちょっと待って、陸路じゃないかも??)ヒマラヤの南側を歩いてスリランカまで来た。外洋航海できる船も技術もなかったので北上。インドのタミルナドゥ州にはヒンズー教以前の古いお祭りがあり、日本と近い文化がある。大野晋著「弥生文明と南インド」。スリランカ南西部のジャングルに覆われたファヒエン・レナ洞窟から骨製の矢尻が見つかっている。スリランカで赤色顔料のビーズが発見されていて、日本の北九州の古墳壁がでも使われている、さらに日本がにも使われている。インドとのつながりは言語や餅の形でつながり。

序章3 カリマンタンとコロボッククル

スンダランドには原人は到達していなかったが、フローレンス島にはいた。アボリジニはオーストラリアに上陸したいた、一万年以上の前の前の話をユーカリの樹皮に描いて創世記として伝えている。アイヌでは物語をユーカラと呼ぶ(★アイヌ語確認)。アボリジニ、アイヌ、台湾のルカイ族もムックリを大事にしている。人類は7万年前までには東南アジアに達している。インド南部のジュワラプラーム遺跡では七万四千年前に大噴火したドバの火山灰層の下からも石器が出てきている。(★日本はどうなのか)インドネシアのスラウェシ島のリアン・テドング洞窟から4万5500年前の壁画が見つかっている。アイヌ犬は南方のカリマンタンにいる犬と同じ遺伝子を持っている。

序章4 刀部磨製石斧と丸木舟

石斧作れるようになり、大木で高速な丸木舟が作れるようになった。天の磐船と名付けられた。イザナギとイザナミが乗り込み、3万8000年前ごろ。大和朝廷は夷をつちぐもと呼んだ、首長は女性であることが多い。

1 イザナギ日本初上陸とヤマトの命名

カリマンタンから西表島まで船で漕ぎ、イザナギとイザナミは日本に着く。宮古島から沖縄本島まで220キロある(★海面とルート確認、南アフリカから)そして南九州におりたった。成功を本国に伝えるとカリマンタンから続々と新たな蝦夷が渡ってきた。そのころは氷河期(最終氷期)。ナウマンゾウ、オオツノジカ、ヘラジカがいた。

ニニギ、ニギハヤトが各地を回った。天孫降臨に随伴した神々は32柱と先代旧事本紀にある。ニューギニアの船も5,6人が乗って漕ぐので4艘か。石垣島の洞穴遺跡からは2万3000年前の人骨が出土。台湾から100キロ離れている。宮古島や沖縄本島でも3万〜2万年前の人骨がはっけんされている。サキタリ洞遺跡では3万6500年前と約3万7000年前の日本最古の化石人骨が見つかっている。沖縄のサバニという船でフィリピンまで行ってた。装飾古墳の分布は九州と東日本、有明海から八代海の沿岸に集中。船の舳先に鳥が止まっていて、太陽と鳥、月とヒキガエル、矢と矢をいれる道具である靭が描かれている。

2 日本の後期旧石器時代

日本列島は1万にもおよぶ旧石器時代の遺跡が確認されている。世界のどの地域と比べても圧倒的。シベリアにも旧石器時代の遺跡があるが、新しい。テント式住居が使われて竪穴式住居はあるが少ない。黒曜石を石器作りに利用していたが、日本全国で見つかっている。神津島産の黒曜石が静岡県の見高段間遺跡で見つかっている。槍や弓矢に加えて3万5000年前から落とし穴が使われている。2万8000年頃ナウマンゾウ絶滅、1万七千年頃マンモスも絶滅。ナッツの利用、オニグルミなどの貯蔵庫が見つかっている。すみ潰してもいた。鹿児島湾北部の姶良カルデラの大噴火が起き、東日本と西日本に異なる文化圏が生まれた(★なんで??)。2万4000年ごろ北海道で細石器が生ませ、広まっていった。

旧石器時代の遺跡は山地に多く、低地海岸線にほとんどない。ただし旧石器時代は最終氷河期にあたり海面が現在よりも100~130mも低下していた、海底にある可能性はある。細石器は古北海道半島で生まれ、土器は青森で生まれた。

3 縄文土器の誕生

土器は日本では多民族より1万年以上前に始まっている。最古の縄文土器は青森県の外ヶ浜町にある大平山本1遺跡から出土した1万6500年前の土器である。ただし縄文がない。西日本でも縄文時代後期頃から縄文が無くなる。ところが関東では弥生中期まで、東北では古墳時代以降まで、北海道では室町時代頃まで縄文が残るという地域差がある。様々な土器があるが、亀ヶ岡式土器は沖縄を含む全国から出土していて、奈良県橿原市の橿原遺跡からは大量に出土している。土器は煮炊きの道具として使われていて煤や焦げが付いている。文様はヘビや猪である、ただ猪には牙がない。
 縄文時代前期後半の5500年頃からヒスイの加工が始まる。北海道八雲町シラリカ遺跡ではヒスイ製品の出土していて、きれいな穴を開けることに成功している。ヒスイはナイフより固く加工しにくい。北海道で生産されるヒグマの毛皮は非常に高価な物資であり、物々交換により全国の宝物が北海道に集まった。南方の島々に限定される例えばオオツタノハ貝を利用したブレスレットなどである。
 縄文時代の集落は北海道・東北に多く、縄文遺跡の八割が東日本に存在している。縄文集落の周囲にはクリやドングリなどの堅果類(ナッツ)の人工林が植林されていた。原始的な焼畑農耕も開始されていた。それらを何種類も使って酒を作っていた。共通レシピもあった。福井県ではウルシ材が見つかっていて、1万2600年前にウルシ製品も作り始めている。北海道ではウルシ染の糸を使った製品や9000年前のウルシ塗りの土器も発見されている。ウルシ装飾品としては世界最古である。

 エドワード・モースは出土した土器をアイヌのものだと考えていた。アメリカ先住民のものと似ていて、大森貝塚の人々とアメリカ古代人は同人種としていた。立川型尖頭器は北海道を中心に分布しているが、誕生した後すぐに北米でも出動している。縄文式集落は存在帰還が長く、常呂遺跡も標津遺跡群も8000年という長期間にわたって畝井されていた。これほど長期間存続した集落は日本以外では一つもない。縄文人は弥生人よりも手足がながかった。熱帯アフリカの集団は四肢が極めて長く、その頃の体型をたもっていた。弥生時代になり米食が中心になると消化のために胴がながくなり胴長短足のスタイルに変わっていく。長髄彦は実際にスネが長かったのでは。風土記には八束脛と呼んでいる。

4 河姆渡

蝦夷は雲南省にもたどり着き、高床式建物、お歯黒、歌垣、納豆、下駄、畳、鮒鮓、赤飯など日本文化をもっている。一部の少数民族の言葉には日本語と同じ発音があり、ワ族と呼ばれている。(★要確認)ワとは倭ではないか。雲南省は西南シルクロードの起点となっている地域で3つの河川によって外界と繋がっている。人々は村ごとに新嘗祭を執り行っている。最初期の稲作文化で有名なのは上海市の南側にある浙江省の河姆渡遺跡である。縄文人と同じく編布を使い、死者は屈葬されている。中国南方でも一番東側、つまり一番本国日本に近い河姆渡を稲作文化の拠点とした。しかし水田には灌漑設備が整っていなかった。北方域の蝦夷は中原に入り夏王朝を築き、それを倒して商(殷)王朝を樹立した。

5 アマテラスの帰還

アマテラスは大陸で水田を試していて灌漑設備を完成させて、日本の九州北部にやってきて、人々を指揮して水田稲作を始めた。3000年前である。

 世界初の灌漑設備を完備した水田は朝鮮半島南端に登場しているが、1ツボ未満や三坪程度の大きさ。殷王朝滅亡、周王朝誕生と同時期である。その数十年後には北部九州に灌漑設備を完備した本格的な大水田が突然登場する。ちなみに江南地方の水田稲作が始まってしばらくして、突然メソポタミアでも小麦の灌漑農耕が始まっている。しかし、塩害で失敗する。なので、朝鮮半島南端の小水田は実験用だっと考えている。日本最古の水田、菜畑遺跡である。ここから出動した石斧や石包丁は半島南端で出土するものと区別がつかない。またアマテラスやスサノオはイザナギの子ではなく、3万5000年の隔たりがある。

6 スサノオの怒り

アマテラスが集落周囲のドングリ林を切り倒して水田を作り始めたので、怒る。この戦いは千年以上続く。スサノオには三柱の女性神の子が板。田心姫、湍津姫、市杵島姫命の三柱。筑紫の宗像氏によって奉斎され、宗像大社に祭られている。沖ノ島の沖津宮(田心姫)、筑紫大島の中津宮(湍津姫)、宗像市田島の辺津宮(市杵島姫命)の三社。そうしてヤマトは二分されていく。

 糸島市の曲り田遺跡で住居跡の床面から板状鉄斧が出土したが、日本列島でもっとも古い灌漑式水田が出現する紀元前10世紀となる。ところが中国で鉄器が普及するのは紀元前6世紀ので、菜畑遺跡では紀元前10世紀に杭を尖らすのに多くの鉄斧が使われているとう研究結果まである。本格的な普及は紀元前4世紀であり、燕で大量生産が始まるより一世紀ほど古い。日本の研究者は鉄の普及が中国よりも早いのでこの発見をないことにしてしまった。答えはインドにあるインドでは紀元前1100年頃に製鉄が行われていた証拠がある。インドの製鉄は紀元前10世紀よりも前に始まっている。日本の鉄はインドから輸入したものなのであろう。インド南部では紀元前3000年紀以降に新石器文化が起こっており、前1000年紀まで存続している。中国の鉄の歴史は紀元前2000年紀後半の商王朝中期の中原である。これは日本の夷、縄文人の子孫である。中国の礼記の王政編には「東方のことを夷という、夷とは根本の意味である」と記している。原住民の周王朝の支配が広がる紀元前1000年頃に、考案文明の人々が本国へ帰還するのと同じく、黄河文明の人々も本国へと帰ってきた。本国へ帰った後も公益活動を続けて、「商」の人々が売り買いする品が商品であり、商の人々が売る行為が商売であり、その人々は承認と呼ばれた。だからこそ商売繁盛の神様は夷神社なのである。(★夷=商人?、海の民??、書経を読み直す)商が滅んだのは約3000年より少し前であるが、その頃に青森を中心とする亀ヶ岡文化が始まっている。複数の遺跡から三足土器が出土しているが、その祖型は日本国内では見当たらない、商の三足の青銅器である鼎が祖型なのではないか?と考える学者もいる。

7 神武東征

ヒコホホデミは水田稲作を開始してから300年なっているので、夷たちとは対立していた。東に良い土地があるので、東征を開始した。日向を出て筑紫に移り一年過ごす。そこから安芸国にわたり次に吉備国に移って行宮に入った。数年をすごし水田作りの指導を行った。そして高島宮では武器や兵糧を蓄え、ニギハヤヒが支配する土地を目指す。畿内へ押し寄せたが長脛彦との戦いが原因で兄井イツセが命を落とす。紀の国から北上しエウカシも撃破し長脛彦も倒して畿内を平定した。紀元前660年のころである。ナガスネヒコの兄アビヒコは畿内から脱出し、東北に身を寄せる。アビヒコを祖とする東北安倍家は大和朝廷と激しい対立関係になる。(★東北安倍氏の歴史)畿内地方の弥生時代の始まりは紀元前600年代であり、弥生時代前期である。この時期に近畿地方の水田稲作が開始された。(★これがニギハヤヒか?)水田稲作は紀元前7世紀から前5世紀にかけて伊勢湾沿岸地域にまで広がっている。紀元前4世紀には中部・関東南部地方をのぞく本州全域にまで広がる。

 紀元前10世紀後半にはい待った水田稲作は前8世紀の終わり頃には九州の東部や中部でも本格的に開始されている。山陰側は前7世紀前葉に鳥取平野まで到達、四国側は前6世紀に徳島市まで到達。近畿では前7世紀に神戸市付近、全6世紀には奈良盆地で始まり、伊勢湾に伝わっていく。伊勢湾沿岸地域から先は近畿の日本側を経由して一気に東北北部まで北上、前四世紀前葉には青森県に到達。前4世紀代には仙台平野、福島県いわき地域でも水田稲作が始まる。一方、太平洋側ルートは全3世紀になってから中部高地、関東南部に到達すると、国立歴史民俗博物館の藤尾先生がまとめられている(★藤尾慎一郎先生の著作を読む)弥生時代前期後半(約2500-2400年前)のなら水田は当時全国最大規模である。
 天香久山のカグは天から降ってきたという伝承があり、火の神カグツチのカグであり、天の火の山という意味である。あんぎんは弥生時代には姿を消してしまう。

8 項羽と劉邦・前漢の成立

大陸の夷として楚の項羽が新たな夷王朝を築いた。稲作文化を作った苗族が樹立したのが楚である。第六代の王ゆうきょになると「我は蛮夷なり、周の爵位にあずからない」と宣言して、自ら王を称した。楚には特殊な巫祝文化があり、日本の巫女である。中原諸国は春秋戦国時代の楚・呉・越を夷狄扱いしていた。それらの国々では文身(入れ墨)などの中原とは異なる文化を持っていたのである。項羽は楚の国に生まれたが項という地に封じられたいたため項氏を名乗った。戦えば勝った。項羽は夷だけを厚遇したため、信頼されなかった。劉邦は前漢の初代皇帝になるが、匈奴の攻撃を受け女を差し出して逃げ、毎年多くの貢物を献上して許してもらう。

 匈奴は鉄の矢尻をもつ、機動力のある騎馬集団である。匈奴は史記によると夏后の末裔である。(★史記を確認)鉄器に漢軍の青銅器は刃が立たなかったのである。孔子が触れる君子は暁や舜であり、夏の聖王であり、商の聖王である。夏の礼や殷の礼を称える。君子は争わず射戯をして飲酒する、など言う。商は入れ墨の道具から作られた文字である。東ユーラシアには夷が9族いたとされるが、DNA分析によると縄文人こそ東ユーラシア人の祖先集団であり、日本から大陸に出ていった。

9 倭国王師升の後漢唐使

菜畑遺跡で最古の水田稲作が始まってまもなく、有明海北岸でも水田稲作が始まった。玄界灘沿岸と同時期に佐賀平野にも水田稲作が入ってきた。そして吉野ケ里が邪馬台国連合の中核となっていく。武器の生産などを行っていた、銅矛や銅剣の鋳型が出動しており、匈奴のものが祖型とみられる細型銅剣が吉野ケ里でも製造されていて、交流を伺わせる。一帯は青銅器の生産工房であり、青銅器祭祀を行っていた。ヒスイの勾玉、碧玉製の筒玉などを用いていた。人々はコメ作りも始めていたが、基本的には海洋民族として生きていた。海外まで行っては盛んに交易していた。佐賀平野全体では40面以上の鏡が出土している。
 紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて吉野ケ里遺跡には多くの甕棺墓が残されているが、戦死者が埋葬されていることが分かる。九州北部は邪馬台国連合が支配しており、大和朝廷勢力と直接衝突をする最前線であった。吉野ケ里遺跡は中国の記録では面土国とされている。古墳時代には米多国造が吉野ケ里周辺を治めていて、代表的な王が師升である。後漢書では倭面土師升となっていて、後漢に使者を送っている。
 商が周に滅ぼされると、商の人々は日本にも来たが、朝鮮にも残った。商の最後の王である紂王の親族である箕子は朝鮮にわたり紀元前1100年ごろ箕子朝鮮を建国した。その後、燕という国が滅びると衛満は箕子朝鮮に亡命し使えたが、前195年ごろ衛氏朝鮮を建国した。前漢の武帝の時代になると衛氏朝鮮と匈奴の連帯を警戒し、前109年から征伐軍を送り衛氏朝鮮を滅ぼす。新は紀元23年に倒れるが25年に光武帝が即位して全国再統一が36年、封禅の儀式が56年。その翌年に倭から使者がやってきた。光武帝は漢倭奴国王という金印を送った。次の記録が紀元107年の倭国王師升である。邪馬台国があった山門県が魏志倭人伝の邪馬台国である。

 魏志の倭国大乱は2世紀末のことなので、甕棺墓とは時代が違う。中国の爵位には決まりがあり、王は金印、侯がメッキ印、君が銀印、長が銅印。高句麗も銅印

10 黄巾の乱から三国時代へ

後漢は混沌としていた。外戚や宦官が権力を奪いあい、王族は親族でさえ信用できなかった。民衆はもっと悲惨で184年に太平道の教祖を首領にした黄巾の乱が発生した。混乱に乗じて各国の群雄が割拠する。遼東半島から楽浪郡にかけて公孫氏が台頭してくる。楽浪郡の南に帯方郡をおく。楽浪郡は現在の平壌あたりで、帯方郡はソウルあたりでここが倭国との窓口になってくる。曹操は200年に官渡の戦いに勝ったが、208年の赤壁の戦いに敗れる。魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が睨み合う体制になる。呉は三国一の仏教国だった。公孫は魏と呉の間で外交で凌ぐが、238年に魏に滅ぼされる。

 日本は宦官を導入せず、中国のような混乱は回避した。李氏朝鮮は両班が特権階級を独占し世襲とし、民衆を搾取し続けた。外積の蘇我氏や平氏は滅ぼされた。魏書によると馬韓、わい、倭が鉄を採取して銭のように使っていた。後漢書でも魏書でも弁韓の南は倭に接しているとしていた。わいは倭人と同じで入れ墨の習慣があった。倭国は楽浪郡を通じて漢とつながっていた。公孫は燕という国を創立するが、山海経によると倭は燕に属すとある。魏志韓伝によると倭も漢も帯方郡に属すとされる。

11 卑弥呼が魏へ朝貢、そして卑弥呼の死

倭国は混乱し、180年女王卑弥呼が誕生する。菊池彦=狗古智卑狗だが、邪馬台国のすぐ南の菊池川一帯で製鉄を行い武力を蓄えて、もともと夷だが大和朝廷側になっていた。卑弥呼は魏に使いをだし援助をこう。魏は244年から高句麗に侵攻して高句麗を滅ぼす。247年には狗奴国は邪馬台国に攻め込んでくる。魏に助けをもとめ遣使を送ると、帯方郡から張政を派遣した。仲介に入ろうとするも卑弥呼はすでに殺されてしまう。張政は19年も伊都国に滞在する。そこで高齢者をたくさん見て驚き、魏志に記される。266年に魏が滅ぶと張政は帰る。邪馬台国は普に使いを出す。

吉野ケ里遺跡は後期以降に首長の墓がないことから権力が安定していなかったとされている。倭国大乱は梁書では霊帝の光和年間(178年から184年)と絞られている。そのため卑弥呼の擁立を180年ごろとした。新羅本紀では173年に女王卑弥呼が使いをよこしたとあるので、もっと早かった可能性あり。狗奴国は肥後国球磨郡であると考えられてる。菊池川流域にはおおくの製鉄遺跡があり、鋭い鉄器が出土している。魏から卑弥呼に送られた銅鏡100枚は三角縁神獣鏡だと学者は主張していた。それは三角縁神獣鏡が畿内地方の前方後円墳から出土するからであり、それが畿内説の有力な根拠だった。中国では三角縁神獣鏡が一枚も見つかっていないので説得力がない。そもそも古墳は卑弥呼の没後である。北部九州のダンワラ古墳から金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は2019年に曹操の陵墓から見つかった鏡と同型式である可能性がたかい。卑弥呼が大夫の難升米を送ったのは日本書紀が引用している魏志武帝紀の239年が正しいだろう。魏志倭人伝では使者は伊都国で留め置かれていて、その南にはいかせてもらえなかった。魏に邪馬台国が小国であることを知られたくなかったから、との説をとる。最後に小人の国に言及があり、これをフローレンス原人と一致する。

12 祟神天皇による四道将軍派遣

魏に支えられ邪馬台国は安定し、博多湾に面した西新町は国際貿易港となった。日本からは土器を輸出し、帯方郡からは魏の品物が届けられた。一方、奈良では弥生時代の中期には大集落になってくる。銅鐸をはじめ青銅器が鋳造される。その頃は三輪山信仰があり、雷槌の神大物主を信仰していた。三輪山の北西麓一帯が初期の大和朝廷の中心であり、飛鳥時代までの主な宮がここにあった。弥生時代の奈良盆地では首長墓とみられる大型の墳墓は明らかになっていない。弥生墳墓全体を見ても北部九州のような副葬品はほぼ皆無である。技術力では邪馬台国連合のほうが先行していた。それでも各地との交流は広がっており、西の方では吉備や瀬戸内のものが多く、北部九州のものも若干はある。それよりも東方の物が沢山あり、近江、伊賀、尾張、伊勢湾沿岸が多く、長野県・天竜川流域の時もある。西方地方の交流より東方地域との密に接していた。
 第十代の祟神天皇の御代に初めて本格的な古墳が登場する。280~290年頃に纏向(桜井市)に造影された箸墓古墳である。前方後円墳が大和町店の統治する国々に造営されていく。墓の主である倭迹迹日百襲姫命にも大物主との不思議な逸話が残っている。同時期に四道将軍を各地に派遣している。国内が安定してきたので、詔して戸口と人口調査を行い、役務を課した。出雲や吉備は二股外交をしていたが、ついに大和朝廷側につくとの立場を示した。

 大和の弥生大型遺跡の中で最も規模が大きく、調査が進んでいるのが唐古・鍵遺跡である。遺物から東日本との購入が多かった。纒向遺跡では東海系の土器が外来経土器全体の半分を占めて、鉄製品や青銅製品はかなり少ない。大和朝廷のシンボルであった銅鐸はその役割を終えたということか。これは祟神天王寺大の前方後円墳の拡張と、それに伴う三角縁神獣鏡の鏡祭祀の始まりへとつながるという指摘もある。天智天皇の7年に近江京では銅鐸が掘り出されたが誰も何か分からなかった。
 大和地域でも弥生時代後期前半から中期頃の高地性集落が多い。出雲では1984年に神庭荒神谷遺跡から大量の銅剣が出土した。それまで全国で300本ほどしか出土していなかったが、358本も出土した。そこからほど近い加茂岩倉遺跡でも39子の銅鐸が発見された。出雲は北部九州を中心とした銅剣・銅矛文化圏と、畿内を中心とした銅鐸文化圏と交流して独自の文化圏を形成していた。出雲で造影されていた墳丘墓は4つの角が飛び出している出雲独自のスタイルだが、三世紀後半になると姿を消してしまう。大和朝廷の支配下に入ったことで、ここでも前方後円墳が築かれるようになった。吉備も出雲同様、大和朝廷に匹敵する勢力であった。弥生時代後半から楯築墳丘墓に代表される首長の墓が築造された。箸墓古墳と同様の特殊器台型埴輪が出土している。
 任那の人が日本の聖王と会うために来日したが、長門にたどり着いてしまった。その後出雲を経由して大和朝廷に到来した。蘇那曷叱知という使者。新羅本紀によると、新羅建国のときの瓠公という重臣は倭人であり、第四代の王である脱解は(57−80年)は多婆那の国の生まれと描いてある。多婆那国は倭国の東北一千里のところにあると説明されていて、北部九州の倭国を基準として丹波のことを描いているのだと解される。新羅の人々は倭国と関係があったと、新羅人自身が記録している。三国遺事日本伝には第八代のあだつらの即位四年に東海の浜に夫婦あり、倭に行って王となったとある。

13 祟神天皇の治世と晋(西晋)の崩壊

265年に魏から禅譲を受けた普は280年には呉を滅ぼし中国を統一したが内乱が続き、河北には匈奴・鮮卑などの異民族が入り込んできた。そうして楽浪郡や帯方群の支配力も低下。高句麗の攻撃を受け続け313年には楽浪郡や帯方群は高句麗に編入された。邪馬台国は孤立無援となり、4世紀には博多湾の貿易港であって西新町は衰退し、4世紀後半には消滅する。垂仁天皇のち生に新羅の王子、天日槍が来日。妻を娶って子孫を残した。携えてきた宝物は但馬の国の神宝となった。蘇那曷叱知は赤絹を持たせて任那の王へ送ったが、新羅人に奪われる。

祟神天皇の時代に相撲が始まったとあり、治水事業も行った。任那国からの使者に任那(みまな)という国名を授けたとあるが、三国史記では急に説明もなく任那という地名が出てくる。普が滅びた後、倭国からの遣使が途絶え、邪馬台国も滅亡。150年間の間、中国の記録から倭国が消える。異民族王朝が東アジアを征していて、中国王朝はジリジリと領土を失っていく。

14 景行天皇とヤマトタケル

熊襲が背いたので景行天皇みずからが親征を行った。周防に入り平定し、筑紫に入り休養した。硯田国に入り平定し行宮を建てた。熊襲討伐に向かい平定し、日向から纏向に戻った。熊襲が背いたので小碓命を派遣し、平定した。纏向に戻ると東国の蝦夷が背き、日本武尊が再び征伐に向かった。

景行天皇の時代に日本再統一が現実のものとなる。日本書紀の景行天皇の記事では熊襲征伐が中心となっているが、風土記では土蜘蛛の征伐記事がたくさん記述されている。日本書紀に登場している速津媛は豊後国風土記にも登場している。熊襲征伐についても肥前国風土記に景行天皇が熊襲せお滅ぼす記述がある。肥前国風土記には祟神天皇の世に肥後国の土蜘蛛が180あまりの人を率いて反乱を起こしたので、征伐軍を送ったとの記事がある。常陸国風土記に記述があるが、大和朝廷側は夷のことを土蜘蛛と呼んでいた。

15 成務天皇の治世と東晋・高句麗の滅亡

成務天皇が国郡に造長をたてて、大和朝廷の基礎を固めた。大陸では普が滅ぼされ南方に逃げ、呉の首都であった建業を健康と改名した。東晋は外戚や功臣が政治権力を握り、混乱をしていた。河北中原は異民族の小国家が乱立する五胡十六国時代を迎えた。前燕は高句麗に攻め込み、高句麗は一将軍とうい地位に格下げされた。東晋や前秦に攻められた前燕は滅んだ。混乱の中で420年に南宋が建国された。

隋書倭人伝では国造が120人あり、80戸に一稲置を置き、10稲置は1国に属するとある。国造の120人は国造本紀とほぼ対応しているという。

16 神功皇后による邪馬台国滅亡

気長足姫尊を皇后とした仲哀天皇は熊襲を討つために船で穴門に向かい、敦賀にいた神功皇后を呼び寄せた。奴国や伊都国が天皇の臣下の礼をとった。香椎宮に入られた天皇と皇后は熊襲討伐に向かう。鉄器に阻まれ勝てないで帰ってくる。仲哀天皇は病でなくなるが、ふせられる。鉄器を持った吉備軍を呼び寄せ、熊野を打ち破り、服従させた。その後、皇后は香椎宮を出て山門県(邪馬台国)に入り、最後の女王の田油津媛をあっさり打ち破る。その後、田油津媛の兄,夏羽が率いる米多国(吉野ケ里遺跡)は大将を失って瓦解した。神功皇后が陣を構えた場所は前方後円墳があり、皇后が車を常駐させたことから車塚古墳と呼ばれている。その後、九州にも前方後円墳が築かれていく。邪馬台国は現在の藤の尾垣添垣添遺跡(瀬高町)一帯で、ここの遺跡群は弥生時代週末に終焉を迎えておる。瀬高町には権現塚と呼ばれる周囲140mの円墳があるが、卑弥呼の墓とされている。
 次は三韓征伐である。日本書紀には新羅を降伏させると百済と高句麗が降伏してきたとある。新羅はこの後に朝貢して人質まで差し出し、百済は2年後に朝貢を申し出る。そのため日本書紀は大筋では正しい。一方で新羅本紀には364年の条に倭軍大いに至るとあるが、大いに敗走するとある。重要な点は大和朝廷の正規軍が朝鮮半島に渡り、交流が始まることである。

仲哀天皇が筑紫に向かうとき岡県主の先祖の熊鰐が周防の沙麼でお迎えした。伊都県主の先祖、五十迹手が穴門の引島(彦島)でお迎えをした。両者とも船に賢木(親睦)を立てて鏡・県・勾玉を下げてやってきた。岡は奴国の須玖岡本であろう。香椎宮は古代には霊廟と位置付けられていた。邪馬台国の故地を藤の尾垣添遺跡としたが、断定できない。なぜなら遺跡の上を九州新幹線が走っているからだ。現在発掘できたのは細長い直線上の部分しかない。車塚古墳から藤の尾垣添遺跡の発掘地点の一番近い場所までは200mしか離れておらず、近すぎる。おそらく藤の尾垣添遺跡は広範囲に広がっていて、田油津媛の本陣は離れた場所にあったのだろう。この遺跡では幼児用の 棺墓が出土しており、それは縄文人の習俗である。もう一つの候補地は同じ瀬高町にある卑弥呼の墓とされる権現塚である。魏志倭人伝によると、卑弥呼の墓は径百歩とされるが、倭人が大きく伝えた可能性もある。田油津媛の兄が兵を構えていた場所は書かれていない。日本書紀には「移って山門県にいき、土蜘蛛ー田油津媛を殺した」だけあるが、重要なのは山門という音である。
 新羅討伐は仲哀天皇の時代になって突然はじまるが、理由があるはずだ。新羅本紀によると344年に倭国から婚を求むとある。この要求を新羅は断った。すると倭国から国交断絶を伝える書が届き、その翌年に軍隊が攻めてきた。日本書紀によると邪馬台国滅亡と三韓征伐は同じ年であるので、本書では364年と結論する。

17 大和朝廷と朝鮮半島の交流開始

366年に倭の使者斯麻宿禰が卓淳国に訪れた時に、百済の王が倭国を訪れたいと言っていた話を聞き、従者を百済に派遣すると厚遇された。367年には百済の使者が新羅の使者と共に訪れて、朝廷の朝貢した。半島が混乱していたため援護を求めた。百済王は371年に高句麗に攻め込み善戦するが、396年には大群に攻められ大打撃を受けた。これを挽回するために太子を大和朝廷に送った。高句麗は新羅にも圧力をかけて392年に王の人質を高句麗に送ったが、その後大和朝廷にも送っている。高句麗の19代王である広開土王は武力で領地を広げたが、石碑が残っている。
 朝鮮への渡航には沖ノ鳥島を通ったが、そこでの祭祀では畿内の古墳祭祀と同じである。交通は四世紀にさらに活発になり金官伽耶の王族の墓には倭の品々が副葬され、任那のちからは畿内と同じ銅器が副葬され、前方後円墳も築かれた。

卓淳国は任那七国の一国であり、新羅再征のときは朝廷軍が駐留している。卓淳国に使者を遣わした百済王は日本書紀では肖古王となっているが、年代があわないので、近肖古王の誤りと推定される。卓淳国は三韓征伐のときに朝廷に従うことになったのであろう。その年に百済からの使者が卓淳国に来ているので、三韓征伐の衝撃があったと推定される。新羅本紀には倭国には勝利したことになっているが、広開土王碑が正しいのだろう。この後、戦果で疲弊した朝鮮や大陸の人々が飛鳥時代の日本を目指して移民してくる。
 沖ノ島は邪馬台国連合の博多湾の西新町からのルートではよっていない。魏志倭人伝の航路でも沖ノ島は経由していない。

18 その後の呉王家と大和朝廷の交流

高句麗を虐待していた鮮卑族の前燕は東晋や前秦の攻撃により370年に滅びる。376年には前秦が華北を統一し、喜んだ高句麗は使者を送り、新羅の使者も同行させてた。382年には新羅単独で前秦に遣使を送っている。北方を目指した東晋は383年の淝水の戦いで前秦に勝利というか、自滅して華北は分裂状態に陥る。東晋は東晋で権力争いから禅譲が起こり劉裕が宋を建国する。皇帝になった劉裕は東晋の後続を殺しはじめ、異民族の地に逃げた。
 316年に西晋が滅んでから581年に隋が誕生するまで265年間も混乱が続いていた。記録上では413年の東晋へ遣使を送ったとされている。その国は10年前に一度滅亡して翌年に復興したばかり。遣使を送った数年後に臣下に皇帝が暗殺されている。
 大和朝廷は呉王家と交流していた。280年に滅ぼされたが、滅亡はしていない。熊襲の菊池氏を通して間接的に繋がっていた。有明海から江南まで海路で交流していた。日本書紀には朝廷の使者が呉から帰国した際に、有明間沿岸部に当たる水沼君の領域に上陸した。呉からの献上品であるガチョウが犬に食われ、かもの仲間と交換して許してもらったとある。呉王家と大和朝廷は繋がっていたが、魏晋南政権とはつながりがなく、記録には天皇の正式な名前が出てこない。

倭王武は雄略天皇で間違いない、というが、502年の倭王武から梁に送られた。5世紀の天皇が6世紀に遣使はできない。

19 大古墳建造から律令国家へ

大和朝廷は大古墳時代を迎え、各地に前方後円墳を築いていった。大陸からやって来る使者が通る海路と陸路から見える一の古墳は特に巨大に造られた。日本書紀によると第29代の欽明天皇の治世に仏教が伝来し、第31代の用明天皇の御代、587年に天皇は群臣を前に「仏・法・僧の三宝に帰依したいと思う」と相談した。反対派の物部氏を押し切って蘇我馬子がそれを支持した(★物部氏=秦系は古墳か)蘇我馬子が日本最古となる飛鳥寺(法隆寺)を完成さる。朝廷が仏教政策に力を入れるようになり、古墳は築かれなくなる(★背反的)この後、大和朝廷は中央集権国家として律令体制を築く。飛鳥時代は聖徳太子が大活躍する。同時に蘇我氏が力を付けた。馬子は甥に当たる崇峻天皇を暗殺し、その兄も殺害した。物部氏と対立し、物部守屋は仏殿を焼いた。馬子は聖徳太子とも深刻な対立関係にあったとされる。日本でも中国のように外戚が政治権力を握り始めたが、大化の改新で一掃され、整然とした律令国家を作っていく。飛鳥時代には中国が随によって統一され、奈良時代には朝鮮も新羅に統一される。隋書倭人伝では大和朝廷と邪馬台国を混同しているが、旧唐書や日本国伝では大和と倭国を分けて描いてある。

最古の前方後円墳は220年頃に纏向に築かれた石塚古墳(桜井市)である。そして280年から290年に築かれた箸墓古墳が完成形の前方後円墳となる。(★箸墓古墳は大物主と関係がある?)3世紀前半から6世紀末ごろまで約350年の間に、全国で5200基肄城の前方後円墳が築かれた。朝鮮半島に進出した大和朝廷は豊富な鉄資源を手に入れる。大和6号古墳からは872枚もの鉄挺(鉄の延べ板)が出土している。朝鮮の慶州市の5世紀の古墳からは約1300枚も出土している。おそらく朝鮮半島で採取した鉄を延べ板にして、大和朝廷が日本国内に大量移送していたのだろう。仏教伝来には2説あるが一般的な538年とする。この538年に百済は今日の夫余となる泗沘に二度目の遷都を遂げ、南方拡大を目論んでいた。神武天皇は正確でない推古天皇から天皇号が使われたとされている。

考察1 北方侵入説の幻想

細石器がシベリアで見つかっていたのでシベリアで誕生した細石器が北方から日本に入ったと思われていたが、実際は日本で見つかっている細石器の方が古かった。2万年前はシベリアは南下してきた氷河で住めなかった覚張助教授の「縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史」という研究で、日本民族の起源は南方系の人々であるとしている。現在東ユーラシアにすんでいるすべての人々はヒマラヤ山脈以南ルートを通っていることを示している。

考察2 コメの国・日本

あずイネの起源は長江の中華流域にあることはほぼ間違いないよう。江南地方の浙江における新石器時代の文化は上山文化から始まる。墓から発掘された男性は屈葬されていて、縄文の葬送手法が見て取れる。また遺跡はすべて河川流域に存在しており、古代文化の担い手が水上交通を行っていたことに符合する。8000年前の貝塚が見つかっており、大昔には縄文人が活動していた。稲作が本格化したのは8000年前頃で新たな文化は河姆渡文化と呼ばれる。灌漑農業を試行錯誤して紀元前10世紀に日本に持ち帰ったと筆者は考える。日本のように畔で区画され、灌漑設備を備えた定型化した畦畔をもつ水田*は中国では見つかっていない。畔畔を備えた最も古い水田*は朝鮮半島南部で見つかっている。オクキョン遺跡にあるのだが、どれも小さい。この水田稲作は日本へはすぐに伝わっているが、半島内部には伝わらず水田稲作が始まるのは李氏朝鮮時代である。それまでは直まきで1年毎に土地を休ませる休閑法であった。
 縄文集落の周辺にあるクリ林やドングリ林は人工林だった。その実を貯蔵する貯蔵穴があった。石斧で原子のうほうが営まれていた。一万年前からイネがあったという非確定的な証拠もあるが、縄文時代から稲が存在していたのは間違いない。縄文時代の稲作は小規模な焼畑農耕で他の作物との混作であった。このような農耕はカリマンタンに残されている(★カリマンタンは縄文人?)ケニアでは米はバナナやサトウキビといっしょに栽培サれている。

考察3 東アジアの中期旧石器時代

世界の旧石器文化は南フランスにおける編年をもとに前期(原人による石器)、中期(旧人による石器)、後期の三期(新人による石器)に分けられている。東アフリカのエチオピア南部二位置するコンソ遺跡では175万年前頃の両刃石器が出土している。これはアシュール石器と呼ばれ、フランスのサン・アシュール遺跡が基準とされ、握り斧と呼ばれる。この旧石器時代の初期(前期)におけるアシュール文化は25万年前ころまで長期間大きな変化なく継続された。100ま年々以上もの間一度も技術革新が起きなかった。中期旧石器時代は旧人によるアシュール文化とムスティエ文化(ネアンデルタール人によるもの)である。石器を二次加工して三角形にした尖頭器と呼ばれる石器が特徴である。
 東アジアでは、中国西部の山地から60万年前と推定される原人が出土している。東北では北京原人、ジャワ島のジャワ原人は130年前に生きていた。日韓の共同研究によると50万年前までには人類は朝鮮半島に到達していた。韓国忠清北道の満水里では約57万年前近くまで遡る石器が出土している。同じく韓国の全谷里では約30年前の石器が出土している。ナウマンゾウは35万年前に日本列島に現れているので、その当時の日本列島は大陸と陸続きであった。約50万年前にはトウヨウゾウが日本列島へ入ってきている。50万年前〜30万年前に原人・旧人は日本に入ってきた。日本列島からも中期旧石器時代の遺跡がいくつも確認サれて、60程度の遺跡が発見されている。

考察4 縄と弓

投槍器・投矢器であるアトラトルは中央アジアでも使用されており、最終氷河期の時代には全大陸で使用されていた。弓矢は別次元の構造であるが、全地球規模で使用される。アボリジニだけはブーメランを使い、弓矢を使わなかった。考古学者は日本の旧石器時代に弓矢はなかったというが、台形型石器は三万八千年前から使用されていた。日本列島上陸と同時に弓矢を使用していた(渡来していた人か)南方にいた頃から弓矢を利用していた太鼓の東南アジアやオーストラリや北端で弓矢を使っていたのは日本民族なのである。

考察5 夷とは

近年の核DNA解析は非常に重要で、東ユーラシア陣の先祖集団であると結論が出された。今までは大陸から日本列島に人が渡ってきたと考えられていたが、まったく逆だった。夷という漢字。『説文解字』(★よむか)は後漢の許慎が紀元100年に著したもので、夷=「東方の人なり。由大、由弓会意」と解説されている。東方と人は日本民族であり、核DNA解析の結果と同じことを描いている。文字の文の✗は入れ墨を著していて、甲骨文字は日本から大陸に渡った縄文人の末裔が甲骨文字を作った。彦は『説文解字』では立派な入れ墨をした男性という意味をもつ尊号である。彦の本字の上は文であり✗がある。甲骨文字は商王朝の時代に生まれた。商という漢字は入れ墨を入れる時に使う針を机の上に置いた形から来ている。中国初期の2つの王朝の人々は東方からやってきた夷だった。商民族とは満州・朝鮮に及ぶ東方海岸諸民族の一氏族であり、古くは東方にあった夷と称されたが、ついに西方の夏王朝を滅ぼして商王朝をたてた。それを中国の記録から見て取れる。『通典』東夷伝序略(★よむか)には「夏の最後の皇帝ケツが宮廷内で暴虐を恣にしている間に諸方の夷が中原に侵入した。天命が改まって、商王朝の成湯(武王)(★発音)がケツを討ち滅ぼし平定した」とある。これは東夷伝にある。西安東部の半坡村の彩陶文化遺しの地域が、夏の地域だとされる。この遺跡では小児は甕棺に収めて居住地内に埋葬されている。初期の住居しは半地下式(竪穴式住居)であり、約200に及ぶ貯蔵穴群があり、縄文土器がある。ただし縄文集落にはないものがある、それは防御用の周溝である。
 後漢書東夷伝には夷に九種ありと記されており、禮記の王政編に「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」とある。漢書地理志の有名な「楽浪海中に倭人あり」の直前に孔子が道徳を守っている日本に行きたかったという論語の内容を紹介している。夷(縄文人)は東ユーラシア人の祖先集団である。それは中国ばかりでなく、満州地方や朝鮮半島にも及んでる。東方海岸地域がもともとの拠点であった。その人々は夫余や高句麗王家・百済王家の人々、粛慎や渤海の人々となっていった。老河深墓地は夫余の遺跡であり、副葬品として高坏(豆)が出動するのだが、それは『三国志』夫余伝の「飲食には俎豆を用いる」という記述と符合する。魏志倭人伝にも倭人は食事の時に高杯を用いることが記されている。魏志夫余伝には殷の正月をもって天を祭るとある。倭と夫余と商の関連性の片鱗が浮かび上がる。高句麗に関しては「通天」高句麗伝においても「旧唐書」高句麗伝においても、「新唐書」高句麗伝においても、高句麗は夫余の別種であると記されている。夫余の王に殺されそうになった東名王が南方に逃げ延びて高句麗王となった。そして夫余の建国神話位においても、高句麗の建国神話でも、弓が重要な要素となっている。百済に関しても通天百済伝・旧唐書百済伝・新唐書百済伝いずれにおいても夫余系の種族であると記されている。百済王朝では夫余系の高句麗の言葉が使われて、百済の民衆の単語と相違していたという記録がある(★どこ)百済系の人々も元は夷だった(民衆?王朝?)韓国人にも明らかに夷(縄文人)の核DNAが含まれている。

考察6 文字と記憶力

一人の舎人の稗田阿礼に旧辞を暗証させたが、暗唱は一人で行ったが編纂は複数人で行った。後漢書を引用した文献では面土国の記載があるが、現存する後漢書にはその語句が抜け落ちている。他の引用文献がなければ面土国とする国は永遠に失われてしまうところだった。また同じく邪馬台国は翰苑では邪馬嘉国となっている。文字のない世界では強力な記憶者がいて、今日のわれわれからは想像しがたいほど、先祖について長い伝承などを語ることができた。アイヌの長老は文字を教えられ、アイヌ伝承を誰も覚えられなくなってしまったことを嘆いた。文字を拒んでいたのは意図的だった(★音のほうが記憶に残りやすいか)北海道諸地方において異型の文字がある古器物を多く集めていた。この他にカタカムカ文字、ヲシテ文字、阿比留文字などが有名。

考察7 倭人の天寿

魏志倭人伝には寿命は8,90年とある。古代天皇の百歳をはるかに超える寿命は真実ではないが、改年という風習によってだろう。南朝・宋の歴史化、裴松之は多くの資料を使って三国志に注を書き加え「倭人は歳の数え方を知らない、ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」としるした。この記述から春秋期という発想が出てくる。筆者もその考え方に賛同する時期もあった。だか、それは明らかな間違いだと気づく。大化以前の天皇紀は偶数年は春と夏だけ、奇数年は秋と冬だけにならなければいけない。あるいはその逆でなければならない。ところがそんな年紀は一つも見当たらない。初代神武天皇から大化の改新の皇極天皇まで、春秋期が当てはまる天皇はお一人もいない。紀元前7世紀に水田稲作の東方拡散がはじまっており、それは記紀の記す神武天皇の東征開始時期と符号している。記紀は改年を含んでいる年代となる。神武創業は記紀によると紀元前660年であるので、1.2で割って逆算すると紀元前550年になり、奈良盆地で水田稲作が開始された年代とピッタリ合う。
 帯広市の大正3遺跡から出土した爪形文土器についは1万三千年前という結果が得られ、それは酒をにて浮いている油を採取して、調味料や燃料として使っていた可能性が高いことが分かってきているのだという。これを魚油最終節と呼ぶそうだ。多民族と比較すると一万年以上も早く煮炊き料理を始めて、さらに出汁でコクを取って美味しく食べていた。狩猟も漁労もし、木の実などを蓄えて、豊かな食事をしていたので、長寿になっていった。

考察8 巨石文化の発祥

ロシア西北部のコラ半島で9000年前のピラミッドが発見された。年代は事実かどうかわからない。ロシア西部にある中部ウラルの東傾斜から世界最古の木星の彫像が発見されて、年代測定によると1万千年前のものと判明した。シギルの偶像と呼ばれているが、偶像の顔と体には無数の千が刻まれており、明らかに入れ墨を入れた人々である。日本にも巨石文化があり、三石神社の巨石、岩手県遠野市の続石、鬼の差し上げ岩など。この他にも夏至に太陽光が差し込んで三角形を描き出す巨石遺構(下呂市の岩屋岩陰遺跡)もある。三内丸山遺跡の六本の木柱列はクリの大木であるが、その柱は二十メートル近くもあるのだが、普通ならある程度の高さになると枝分かれしてしまう。そのような大木を探すと、ウラル西方のソチ近郊で見つかった。運んだのではないかということと、そこにも縄文人がいたのでは。

考察9 柱・鳥・蛇信仰

世界には柱信仰、鳥信仰、蛇信仰が多く見られる。環太平洋には山を崇拝し、玉を崇拝し、鳥を崇拝し、柱を崇拝し、蛇を崇拝し、天地の結合に豊穣を祈る共通の世界観があると指摘されている。縄文土器では蛇とイノシシが圧倒的に多い。イノシシ信仰はインドネシアあたりの南方系と、クマ送りは極北地方との強い関係性が見られる。メソポタミアでは鳥と蛇の思想があり、インドのガルーダとナーガに伝承される。中国には女媧と伏羲という男女の神がおり、下半身が蛇の姿をしている。この男女の蛇神は全人類の始祖とされて、下半身を絡み合っている。この図像は殷墟にも残されている。南ロシアの草原地帯に六世紀ごろに王国を建設したとされるスキタイ人も蛇を始祖としている。筆者はこれも夷の子孫とする。ヘラクレスは子供らのうち、この弓をこのように引き絞り、この帯をこのように締める者があったらならば、その子をこの国に住まわせよ、といって自分の弓を引いてみせ、帯の占め方をしめした。長男と次男はできなかったのだが、末子のスキュテスはこれを果たしてその国にとどまった。スキュテスがスキタイ人となったとされるが、弓が重要な要素になっている。日本の蛇信仰は台湾のパイワン族が持つ百方蛇信仰から来ている。女媧と伏羲の神話を伝える苗族が村を作るときには、必ず柱を広場の真ん中に立てる。この柱こそが、その集落の中心のシンボルとなり、その柱の上には鳥が止まっている。鳥は東の方向を向いている。日本の国生みでもイザナギとイザナミは天の御柱を一本立てて、国生みを行った。伊勢神宮の正殿の床下には心御柱が一本立てられている。しかし上端はどこにも繋がっておらず、なにかの荷重を支える構造物でもない。

考察10 東夷そして蝦夷そしてアイヌ

水田稲作が始まると大和民族と夷に別れた。紀元前10世紀頃。大和民族はアマテラスから始まった。邪馬臺国が滅亡した後に西日本の海に残った夷たちは海民という存在となり、海軍勢力となったり海賊行為も行った。熊襲や隼人も夷だが心中を繰り返しながら徐々に朝廷にしたがった。東夷の中でも蝦夷は強く、日高見国と称していた。7世紀に入っても抵抗を続ける東方の蝦夷を征伐するために阿倍比羅夫の遠征が開始され、北海道(渡島)までやってきて、シリベシに大和朝廷の成長を設置している。再度入ったときは大河に入っていて、これは大川遺跡のことである。ここは北海道の重要な輸出港であった。その後も東北の蝦夷は神武天皇と戦ったアビヒコの子孫である安倍氏を中心として、朝廷に対して反乱を繰り返す。安倍家は滅びるが、その血糖から奥州藤原家が誕生し、東北地方を支配下に治めた。鎌倉時代に入るとアビヒコの血統である安東家が蝦夷代官ににんめいされる。室町時代にはいると東北安東家は源氏である南部家によって劣勢に立たされ、北海道南端に中心拠点を移すことになる。この頃から「蝦夷地」とは北海道以北をさす。源氏に押され、安東家から独立した蠣崎家は次の天下人となるであろう松平(徳川)と前田から一字ずつもらって松前と称した。蝦夷人はアイヌだけなってしまった。現代のアイヌは縄文人の核DNAを七割近くも保持している。

あとがき

アイヌのクジラ梁とインドネシアのクジラ漁は離頭銛が使われており、全く同じだった。

「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて: 幻の旧石器を求めて

1973 講談社文庫 相沢 忠洋

古代史に興味があり、この本にたどり着いた。とにかく素晴らしい物語だった。

登場人物

相沢 忠洋先生が幼少期の体験や戦前・戦後をどのような生きてきたか。それは日本の歴史をひっくり返す「岩宿」の発見にどうやって行き着いたかを詳しく語っている。

物語のはじまり

相沢 忠洋先生は納豆売りをしてまずしく暮らしていた。両親と共にあった幼い頃からの記憶を辿っていく。

テーマ

興味があることに打ち込むとはどういうことなのか。人間世界には汚いこともたくさんあるが、真摯であるということはどういうことなのか。

最後に

戦前・戦後の情景も描かれているので、そのあたりも非常に興味深い。ただ何よりも相沢先生のお人柄、情熱が素晴らしく、かくも真摯に生きられるのかとも思った。幼少期から辛い体験をいくつも重ねており、その中でも希望を失わずに生きられていたお姿には何度も心を打たれた。厭世的なのは相沢先生の優しいお人柄がそうさせている気がした。この10年で一番感動した作品かもしれない。多くのひとにぜひ触れてほしい。

大人の学び直し 正しく読む古事記

2019 春燈社 武光誠

序章 古事記の始まり

712年に完成した。それまで神話を伝える「旧辞」や、和歌を伝える「旧辞」があった。「帝紀」もあった。古事記は上巻、中巻、下巻に分かれており、上巻は5つに分かれる。1神々の出現、2国生み、3高天原、4出雲の神々、5日向三代だ。スサノオノミコトと後継者のオオクニヌシに多くが割かれている。中巻は神武天皇から応神天皇までになっている。下巻は仁徳天皇から推古天皇まで、物語は顕宗天皇で終わる。仁賢天皇以下は系譜だけになっている。
 やまと言葉でかかれている。日本書紀との違いとしては、卑弥呼を神功皇后だと考えていた。神武天皇の時代以降は特定の日付があるが、推古天皇以前はあやしい。

第一章 国の創世神話

造化三神から始まる。神世七代に続く。日本書紀は神世七代から始まっている。(★島を作った話は島ができたという時期)
 秩父神社:知知夫彦命の祖先が八意思兼命。(八代神社:渡来系武士)高御魂神社:高御産巣日神の子孫と称した津島下県氏。

国生み。日本書紀にはヒルコは三歳になるまで足が立たなかったとある。大八洲を生む。淡路島では国魂と呼ばれた土地の守り神がいる。淡路市に古代のイザナギ信仰の流れを引くイザナギ神宮がある。天地の間を行き来する天鳥船神などを生んだ。鉱山の神。日本書紀には迦具土神が埴山姫と結婚してワクムスヒという食物の神を生む伝承がある。(★イザナギは淡路に関係するか)

黄泉の国訪問。帰ると、イザナギは筑紫の日向の橘小門のあわきはらで禊祓いを行った。宮崎市の阿波岐原町にある江田神社をその地とする説もある。様々な神が生まれる。綿津見三神は阿曇氏が祭る神で、住吉三神は津守氏の氏神。外交や貿易に従事した航海民を束ねる豪族。
 伊射奈岐神社@淡路市、花窟神社@和歌山県:イザナミの御陵。伊射奈美神社:海神信仰。西宮神社:ヒルコが西宮の海岸に戻ってきた。龍田大社:イザナミ・イザナギの子シナツヒコトトミコトという風の神=国御柱大神。

高天原。イザナミはアマテラスに首飾りを授けた。高天原にスサノオが向かう。イザナギは近江の多賀の地にお隠れになった。天ヶ原でスサノオは、福岡県宗像市の宗像神社で海の神として祀られている三柱の女神を生んだ。また皇室の祖先の五柱も生んだ。スサノオは事故を犯しアマテラスは天の岩屋にこもる。スサノオは献上品を差し出した。(★スサノオと高天原の関係)

ヤマタノオロチ。スサノオは出雲で進行された土着の神。くしなだひめを妻に。須賀ですがすがしいので和歌。2世紀ごろに出雲全域の豪族連合がつくられ、荒神谷遺跡で豪族たちの共同の祭事が行われるようになったと見られる。主導したのは神門氏の先祖。荒神谷遺跡に近い飯石郡須佐郷に須佐神社がある。現在の宮司家はクシナダヒメの親の足名椎の神の子孫だと称している。出雲氏は須賀で勢力を拡大し、意宇郡と呼ばれた島根県松江まで勢力を広めた。松江市の八雲町に熊野大社という有力な神社がある。出雲市は四世紀半ば大和朝廷と結んで神門氏を従えた。(★スサノオは出雲関連)
 祟神天皇の祭祀場を伊勢に移したと日本書紀。月読神社@長崎県壱岐市:壱岐は月神の子孫としていた。八坂神社@京都:スサノオ、クシナダヒメ。氷川神社@さいたま市:五代孝昭天皇に始まる、スサノオ、稲田姫。

オオクニヌシの迫害。いなばのうさぎ。オオクニヌシが焼けた岩を受け止めたのは赤猪岩神社@米子駅の近く。焼け死んだオオクニヌシに神産巣日神は女神を送る。紀伊の国の大屋毘古神を頼る。根の国のスサノオも訪れ、スセリヒメを娶る。出雲の伊賦夜坂を下って根の国に行くと信じされていた。オオクニヌシは因幡の八上比売や、越(北陸)に行って、沼河比売に求婚、中のよい夫婦になった。沼川郷(新潟県糸魚川市)の女神で奴奈川神社がある、ヒスイが取れた場所。この他に宗像大社の多紀理毘売命、建物の神、神屋盾比売命、鳥を取る職業の人々が進行する鳥取神の三柱が妻。オオクニヌシは少名毘古那神の助けを得て、国作りをした。日本書紀の異伝の中に少名毘古那神は高皇産巣日神の子神とするものがあるし、伊予国風土記にはスクナヒコが温泉に入って生き返った話が記されている。
 大国主神を祭る中心神社は出雲大社だが、中世以降に各地に分社ができた。少名毘古那神は対を成す神として人々に愛されてきた。赤猪岩神社@鳥取県南部町:大国主が赤く焼いた岩をやいてなくなった、淡島神社@和歌山市:神功皇后が帰りに難破して友ヶ島(神島)にたどり着いた。白兎神社@鳥取市:素兎が体を乾かした身干山につくられた。

 日本神話のルーツ。3つの道筋。1つめはオセアニア、インドネシア、フィリピン。2つ目は江南から中国の長江下流域から九州にいたる道。3つ目は中央アジアの草原地帯から中国東北地方を経由して朝鮮半島から日本に来る道。南方系神話は知らない海の向こうから神々が訪れる物語。古代の江南は南方の国々の公益の中心地として栄えていた。紀元前1世紀には江南の有力な航海民がまとまって日本に移住して同鏡を用いる祭祀などを伝えている。北方系の神話は神々が点から降りてくる。遊牧民の文化は5世紀末から日本に入ってきた。

第二章 皇室の起源

 国譲り。大国主神は大物主神の教えに従って国をよく治めた。ただ天之忍穂耳命に地上に降って日本を治める。天の浮橋からみると日本国は騒がしく、君主の命令のもとに、地方豪族が秩序だった政治をするのが望ましいととし、アマテラスは造化三神の中の高御産巣日神と会議をし、天菩比神の派遣を推薦した。四度に渡って高天原から出雲の大国主神の下に使者が送れた。出雲国風土記に天乃夫比命が意宇郡屋代郷(島根県安来市)に天降ったという伝説が記されている。彼は三年たっても連絡なし。天若日子に宝器を与えて送り込むが大国主神の娘を妻とし8年戻らず。鳴女をおくるが射殺される。剣の神の建御雷神が船を操る天鳥船神と共に出雲に向かう。この二柱は中臣氏が祭った神。二柱は出雲大社の近くの伊邪佐の浜(稲佐の浜)に降り立った。建御名方神と建御雷神が争って、諏訪に来てそこにとどまった。遷却祟神祝詞という朝廷の祝詞に、この話の原型が見られる。(★3番め、大国主神は高天原の関係)

 天孫の天降り。アマテラスが天之忍穂耳命を呼び地上を降りることを命じたが、子神の邇邇芸命に命じる。子神の母は高御産巣日神の娘の万幡豊秋津師比売命だった。つまりアマテラスの子神と高御産巣日神の子神が夫婦になって、その間に生まれた子が皇室の先祖として地上に降ったことになる。高御産巣日神は重要な神だがアマテラスと並んで国譲りの交渉を主導しており、日本書紀の異伝では高皇産霊尊の指導のもとに国造りがなされたと記すものもある。高御産巣日神を豪族たちが氏神として祭る国魂の神の上に置かれた農耕の守護神だとする説もある。古くは高御産巣日神がその子孫を地上に送る神話があったという意見もある。国魂の神の祭祀が行われた五世紀以前には産霊の神が信仰されていたと筆者は考えている。大和の大物主神を助けた産霊の神が高御産巣日神とされ、大国主の治めた出雲を守る産霊の神が神産巣日神になったと考える。王家の祭祀を担当する五氏を邇邇芸命に同行するようにいう。お供の神の多くは天の岩屋神話に見れる神であるので、天孫降臨神話とは一体のものとされる。また三種の神器の紀元にもなりアマテラスが邇邇芸命に三種の神器を授けたとしるしている。一行は猿田彦神の道案内によって高千穂の峰に降り立ったという。お供の天宇受売命に猿田毘古神まで送っていくのと、妻になるのを命じた。猿田毘古神は伊勢で古くから祭られていた神、中流豪族の宇治土公氏の先祖。宇治土公氏の下で祭祀の芸能を担当とする猿女氏によって中臣氏とつながりをもつ。猿女氏は猿田毘古神に仕える天宇受売命という巫女の神の子孫と称している。中臣氏は猿女氏の一部を大和に移住させて、神事の歌舞の担当とした。

高千穂の峰に降り立った邇邇芸命は「韓の国に向き合い、笠沙の峰(鹿児島県南さつま市)に一本の道が通じている。朝日のまっすぐに射す国で、夕日の照り輝く国である。この場所こそ最も良い土地である」。邇邇芸命は神阿多都比売(鹿児島県西部の阿多の地女神)に出会い結婚を申す今田が、石長比売とも結婚を希望するが断る。これは東南アジアに広く分布するバナナと石を選ぶバナナ型神話の変形である。
 鹿島神社@茨城県鹿嶋市:武槌大神。息栖神社@茨城県神栖市@岐神、天鳥船神。美保神社@松江市:三穂津姫命、事代主神は大国主神の最も格の高い子神。諏訪大社@諏訪市:四社、建御名方神、八坂刀売神。英彦山神宮@添田町:アマテラスの御子神。霧島神社@霧島市:邇邇芸命。猿田彦神社@伊勢市。
 三種の神器。銅鏡は紀元前1世紀後半、北九州に江南の航海民の集団が移住してきて魔除けの宝器として広めた。朝鮮半島あら銅剣。一世紀半ば頃から青銅器が国産化された。二世紀末に青銅器が量産。同時に鉄製の刀剣が輸入、鉄剣が宝器となる。大和朝廷の誕生は銅鏡と鉄剣と勾玉が祭器の中心に置かれた時代にあたった。(★時期が分かる)平安時代には賢所に安置されていたが、現在の皇居にも賢所がある。

木花開耶姫命は邇邇芸命の子供を日の中で生む。これは南方に広くみられる「火中出生説話」を元にしている。山幸彦と海幸彦の争いは南方に広く見られる「失われた釣針」の話にならった。山幸彦が瑞穂の国主となり、隼人を従わせるという内容につなげている。そのあと海神の娘の豊玉毘売が山幸彦の子を宿して地上に来て、鵜葺草葺不合命を生むが姿をみられたとして海に戻る。これも南方の伝説の異型である。豊玉毘売の妹の玉依毘売が地上にきて鵜葺草葺不合命と結婚し4人の子をもうけた。二人の姫は海神に仕える巫女であるとする。
 潮嶽神社@宮崎県日南市:海幸彦。若狭彦神社@福井県小浜市:山幸彦と豊玉姫。塩竈神社@宮崎県塩釜市:建御雷神が去った後、藍土老翁神がとどまり人に漁業や製塩を教えた。和多都美神社@対馬市:山幸彦、豊玉姫。海神の宮殿は対馬にあった。青島神社@宮崎市:玉の井という井戸で初めて山幸彦と豊玉姫が出会ったとされる。(★海神は島の豪族か?)

コラム:国造りはアマテラスを上位におくための神話。王家はかつて大物主神が大国主神の上位だったが、それを変えた。古くからある穀魂(穀霊)の降臨神話が国造りと結びつけられて天孫降臨神話がつくられた。邇邇芸命というのはもとは各地で進行されていた稲魂の神であった。高千穂は稲穂を高く積み上げたありさまであった。

神武東征:日本書紀では神武天皇の実名が彦火火出見で、邇邇芸命の子にあたる山幸彦の名前が彦火火出見尊である。古事記の中巻は伊波礼毘古命が高千穂宮で兄の五瀬命と話し合って、都とすべき地を探すために東方に行こうと決める所から始まっている。かれらはあちこちに寄港して大和に近づく。明石海峡を通る時、さ根津日子という国津神に出会い、道案内をさせた。この初代の稚根津日子は大和神社の祭祀を担当した倭氏の先祖である。倭氏の本拠地は大和朝廷を開いたとされる纏向(奈良県桜井市)のすぐ北に当たる奈良県天理市南部である。纏向遺跡から吉備(岡山県から広島県東部)特有の出土品が多く見つかっている。保久良神社の存在からみると倭氏は古くは保久良神社のある神戸市東部を治めた豪族であったと考えられる。220年ごろにそれまで何もなかったところに広さ一平方キロメートルの巨大な纏向遺跡を開いた。最初の大王と呼ぶべき人物。どのように神武東征に反映されているか不明。登美能那賀須年泥毘古という者が待ち構えていた。登美は地名。長脛彦は各地で祭られていた嵐の神を指すと言われている。五瀬命が重傷を負ったので船に戻って逃げたが、紀伊国の竈山でなくなる。
 高倉下が渡した神剣を伊波礼毘古命が手にすると熊野の悪神は退散する。この神剣は石川神社で物部氏が祭った布都御魂である。王家は三輪山の山の神である大物主神を土地の守り神として祭り始めた。大物主神は国魂と呼ばれる人々に水の恵みを授ける農耕神であった。物部氏と尾張氏の系譜を記した「先代旧事本紀」は高倉下を尾張氏の先祖としている。「高天原から降った邇芸速日命の長子を天香語山命という。彼は尾張氏の始祖で、別名を高倉下といった」(★別に降っている)この天香語山命の弟が物部氏の始祖とされた宇摩志麻遅命である。このような伝承によると建御雷神から降ろされた布都御魂は、高倉下から伊波礼毘古命に献上されたのち、高倉下の弟の宇摩志麻遅命に下げ渡されたことになる。神武東征伝説は継体天皇の時代に創作されたとされた説が有力であり、その次代は大連の大伴金村と物部アラカイが国政を動かしていた。高御産日神が夢に出て八咫烏を送ると告げている。八咫烏は葛野主殿県主という士族の祖先が見である。京都盆地の東方に本拠地を置き、賀茂大社の神職を務める賀茂氏は子孫である。葛野主殿県主は儀式の松明などの照明を担当していたために道案内の話がつくられたと考えている。
 宇陀の地は兄宇迦斯、弟宇迦斯(★発音)の兄弟が治めていたが、伊波礼毘古命を殺そうとしていた。弟宇迦斯は氷を管理する豪族。忍坂(奈良県桜井市)で八十建と呼ばれる豪族を騙し討ちする。
 邇芸速日命のみことは伊波礼毘古命に「故追いて参下り来つ」と行って従った。物部氏は「最初に王家に従い王家による日本統一を助けてきた」と主張した(★日本統一はすでにされていた、アレキサンダーか)古事記では邇芸速日命が長髄彦の妹の登美夜毘売と結婚して設けた宇摩志麻遅命が物部氏の祖先としている。
 長髄彦は嵐を起こす手長足長の神で縄文時代から祭られており、国魂の神とは土地の守り神で、稲などの作物を育てる農耕神であった。(★嵐の神:長髄彦→農耕の神:国魂→太陽の神:アマテラス)
 高千穂神社@高千穂宮町:十社大明神の祭神の三毛入野命は神武天皇の兄にあたり、常世国に渡った。(★常世国にわたった?)亀山神社@和歌山市:五瀬命を葬った。宮崎神社@宮崎市:神武天皇の孫の建磐龍命が伊波礼毘古命を祭ったのが始まり。保久良神社@神戸市:倭国造の祖である椎根津彦が青い亀に乗って近くの浜にやってきた。八咫烏神社@宇陀市:建角見命。刺田比古神社@和歌山市:戦士たちの指導官、道臣命。物部神社@島根県太田市:宇摩志麻遅命が天香山命と共に物部一族を率いて各地を平定した、美濃から越国を巡り、石見国に来た。石切劔サヤ神社@東大阪市:神武東征の後、饒速日命が祭られた。
 欠史八代とは。6世紀のはじめの時点で2代目綏靖天皇と10代祟神天皇の物語しかなかった。祟神天皇の物語は3世紀末に実在した「みまきいりひこ」という大王の事跡を下敷きにまとめられたと考えられている。5世紀の王家の人々は祟神天皇を始祖を意味する「はつくにしらすすめらみこと」と呼んでいた。しかし神武東征伝説ができたあと、神武天皇も「はつくにしらすすめらみこと」の敬称で呼ばれるようになった。2代目綏靖天皇と10代祟神天皇の7代の治世に関する記事が「旧辞」にはなかった。そのため古事記や日本書紀は開化天皇にいたる部分には物語を入れずに系譜だけを記した。

第三章 天皇と大和朝廷

五世紀までは三輪山の大物主神を自分たちの先祖神としていた。大物主神はお置けの先祖を指導者とする人間や動植物その他の霊魂の集合体だと考えられていた。必要な時に古墳に降りてくると言われていた。三輪山の登り口に拝殿が建てられて、大神神社の形ができたのは7世紀末。大和の地の守り神の「国魂の神」として信仰されていた。みまきいりひこ(祟神天皇)が三輪山の神の祭祀を始めた。(★祟神天皇が神道の始祖?)古事記は「意富多多泥古というものに私(大物主)を祭らせれば、疫病が収まる」と大物主が語る。祟神天皇は彼を探し祭らせ、伊加賀色許男命に祭りの土器をつくらせた。そして意富多多泥古の先祖の活玉依姫が大物主神の妻になる話が続く。意富多多泥古は大王の下で三輪山の祭祀を行った大神氏の先祖である。大三輪氏の祖先の女性が大物主の神となる話。これに対して日本書紀では王家の巫女が大物主の妻になる話になっていて、箸墓古墳がでてくる。箸墓古墳野跡にこの形式を真似た古墳が広がっている。これは王家が各地の豪族を組み込んでいったことを表している。

四大将軍の派遣。これは阿部氏の勢力は北陸地方や東海地方、吉備氏の協力を得て山陰地方まで及んだ。祟神天皇の子の垂仁天皇は沙本毘女を妻にしていたが、妻の兄が反乱を起こしたため、毘女と共に滅ぼされた。子供の本牟智和気王は話さなかったが、出雲を参拝して話すようになった。これは出雲の豪族が大和朝廷の支配下に入ったという史実を踏まえたものと見られる。垂仁天皇の治世に相当する330年頃から350年頃にかけて古墳が出雲の各地に広まっていることと対応している。
 豪族の始祖を祭る神社。田村神社@高松市:猿田彦大神、高倉下命を含む5柱を合わせた田村大神。大直禰子神社@桜井市:大直禰子命(意高多多泥古)、敢國神社@伊賀市:敢國津神(大彦命)。

倭健命の遠征。12代の景行天皇はおしろわけという名前を持っていた。4,5世紀には別という敬称をもっていた豪族が多く見られる。景行天皇は80人の王子をもうけて、若帯日子命、倭健命、五百木之入日子命の三人を手元に残し、あとの王子は国作りなどの地方官にした。倭健命は小碓命といい、大碓命という兄が言った。日本書紀には大碓命は蝦夷平定の将軍を言いつけたところ逃げ出したので美濃に領地を与えて王宮から追放した。これが美濃の身毛津氏と近江の守氏の祖先とある。古事記にも大碓命が美濃の宇泥須氏と牟宜都氏の祖先とする。筆者は近畿地方東辺部の近江、美濃、越前の三国に王家の子孫と称した中流氏族がいくつか見られることに注目する。4世紀はじめから有力な古墳が広まっているので、初期の大和朝廷と深い関わりをもった地域なのではと考える。
 西征。小碓命は叔母の倭比売命のもとをおとずれる。垂仁天皇の娘でアマテラスの祭祀を行ってきた。伊勢神宮は七世紀末にできる。七世紀半ばには太陽神を祭った笠縫邑に行く形だったとみられる。倭比売命は小碓命に女性の服と探検を与える。熊曾の地では除草して熊襲建の兄のそばに寄って短剣で刺し殺し、逃げ出す弟も殺す。熊曾は日向、大隅、薩摩を合わせた地域を支配した。しかしくまそなるものが存在したことを示す確かな文献はない。隼人との対立から話を創作したか。その後、出雲建と仲良くなり殺す。出雲建の和歌を読むが、日本書紀では同じ和歌を出雲氏の振根と飯入根の兄弟争いのときに読まれたものとしている。飯入根が兄の騙し討にあって命を落としので出雲たけると呼んでその死を悼んだ。
 東征。草薙剣の霊験譚として構想された。火に囲まれたところ草薙剣で助かり、手放したので伊吹山の神のたたりでなくなっている。かつては相手に対して相手が住む土地の神を祟ることによって相手に対して敬意を示した。景行天皇は息子に「東の方十二道の従わない豪族たちを説き伏せて来なさい」といっている。伊勢の倭比売命から火打ち石。尾張の美夜受比売。相模の火攻めで向火の話。房総へ船の途中で弟橘比売命が海神に身を捧げる。継体天皇は6世紀はじめにアマテラスの祭祀を始め、娘の大角豆皇女を太陽神を祭る斎宮とした。帰る途中に美夜受比売と会い夫婦になる。伊吹山で病気になり亡くなる。

 古事記では倭健命がなくなったので、弟の若帯日子が大王になり、葛城市や蘇我氏の先祖と言われる建内宿禰を大神に任命した。お時期は成務天皇が亡くなった後に倭健命の子、帯中日子が大王になったとある。仲哀天皇である。この天皇は息長帯比売命(神功皇后)を妻に迎えて、筑紫に赴いて熊曾を討とうとしたという。ここい記した成務天皇、仲哀天皇、神功皇后は7世紀末に新たに創作された人物と筆者は考えている。
 倭姫宮@伊勢市:倭姫命。焼津神社@焼津市:向火の場所。走水神社@横須賀市:日本武尊から授かった冠を御神体。橘樹神社@千葉県茂原市:弟橘比売命の櫛を葬った。
 コラム。常陸国風土記には倭武天皇を主人公にした伝承がいくつか記されている。また鹿島神宮の近くの乗浜は倭武天皇が来られたときに多くの海苔が干されているのをご覧になられた。そこで乗浜のち名ができた。

 神功皇后の三韓遠征。仲哀天皇が熊曾を討つために筑紫の香椎宮(福岡市)にいたときに皇后が神がかりになって神託を述べるが、それを疑った仲哀天皇はなくなる。改めて神託を伺うとお腹にいる皇女が統治する。三柱の住吉の神。新羅に向かいなさい。船団が津波お起こし新羅国の半分が瞬く間に海に沈んだ。新羅は戦うことなく神功皇后に降伏した。古代史の研究者の多くは37代斉明天皇という女帝をモデルに白村江の戦いを下地に構成されたのではとしている。神功皇后伝説の最も古い形は宗像三神の霊験譚であったと考えられる。4世紀なかばに大和朝廷と朝鮮半島南丹との貿易がさかんになったときに、王家による宗像三神の祭祀が始められた。対馬海峡の航路近くにある沖ノ島(福岡県宗像市)には祭事遺跡が多く見つかっている。

 神功皇后は新羅を従えて帰国した後、九州の宇美で王子を産んだ。しかし王子の二人の異母兄弟が反乱を企んでいた。反乱を鎮圧し、王子は伊奢沙和気。いざさわけは天理市の石神神宮に伝わる七支刀銘文に名前が出てきて「倭王旨に贈る」とあり。この後に宋書に賛・珍・・興・武の五人の倭王が続く。百済と国交が開始され、盛んに貿易が行われた。
 香椎宮@福岡市:仲哀天皇、神功皇后。高良大社@久留米市:高良玉垂命、筑後の国魂、武内宿禰と同一神としている。


 

新日本古代史

2021 育ほ社 田中英道

はじめに

三国志の倭人伝、魏志倭人伝の邪馬台国がやたら尊重された。卑弥呼神社は荒唐無稽。第一の神武天皇=ニギハヤヒノミコトによる第一大和国、第二の神武天皇=祟神天皇意向の第二大和国、聖徳太子による神仏習合の国の第三の大和国。西洋の中世は破壊されていて存在しない。中国も漢民族の歴史ではない。秦の始皇帝はユダヤ系。土偶は近親相姦による奇形。高天原の神々の話は日高見国の話。天孫降臨によって西に移動した。「大祓詞」に出てくる「大倭日高見国」の誕生。

第一章 日本を目指す太陽信仰と日高見国

大陸から太陽の昇る国日本に来た。東方信仰。太陽と月をシンボル化した勾玉なのでは?皇室の菊の御紋はエジプトやイスラエルでもシンボルとして使われている。菊は中国のもので日本に入ってきたのは奈良時代。本来は太陽紋だったのでは?日本は都市国家ではなく、自然とも調和していた国家。古事記、日本書紀、風土記でも高天原が扱われている。高天原が日高見国という国で縄文時代から発生している。ツクヨミノミコトはアマテラスオオミカミから命ぜられて、ウケモチノカミのところへいく。これをころしてしまうが、死体から牛、馬、蚕、稲などが生まれ、穀物の期限となった。これは日本書紀の話。
 日高見国の名前が土地に残っている。日高見国と通じる北海道の日高地方、日高見川といわれている東北の北上川がある。埼玉県の日高山、奈良県の日高山、大阪府の日高山。鹿島神社や香取神宮のそばに高天原という土地が3つも残っている。高天原には天地があり、最初にアメノミナカヌシノカミ(太陽神、最初の頭首?)、タカミムスビノカミ(高見?ムスビは統一?)、カミムスビノカミの三柱がうまれる。タカミムスビは、オモイカネノミコト、タクハタチジヒメという子供。アマテラスが天孫降臨を命じたアメノオシホミミはタクハタチジヒメと結婚し、子供がニニギノミコト。タカミムスビはニニギノミコトの外祖父、天皇家の祖父。古事記にはタカミムスビが7箇所も出てくる、勾玉は関東に多く発掘されている。

第二章 縄文文明と「神代七代」日高見国

縄文時代の遺跡は関東・東北に多い。千葉・東京には貝塚も多く、土器・土偶の出土も多い。具体的な地名が多いため縄文・弥生時代の記憶をもとにつくられた物語、歴史である。日本書紀の景行天皇の二十七年の記事に「東夷の中、日高見国あり、その国の男女、並びにかみをあげ<<みをもとうげて>>(入れ墨)、人となり、勇敢なり、これ総て蝦夷という」とある。ヤマトタケルノミコトの陸奥の戦い後の描写では、「蝦夷すでに平らぎ、日高見国より帰り、西南常陸を経て、甲斐国にいたる」と書かれている。鎌倉時代の釈日本紀には「孝徳天皇の御代つまり大化の改新の時代に、茨城に新しい行政区として信太郡が置かれたと風土記の常陸国編に残っていますが、この土地がもと日高見国と呼ばれた地域である」と解説されている。平安時代の延喜式に定められた祝詞「大祓詞」には、日本全体を示す「大倭日高見国」という言葉がある。中国の歴史書「旧唐書」には「倭国」と「日本国」とが別々に書かれている。
 日本最初の土器は一万六千五百年前で、縄目模様の特殊な土器。土器は調理器具でもあり大型なので定住した。1988年青森県の大平山元遺跡で世界最古の土器が見つかった。漆器も北海道の南茅部町で発見された。1950年三浦半島で世界最古の1万年前の貝塚も発見された。世界最古級の二万年前の墓陵が大阪府藤井寺市のはざみ山古墳。定住は日本が世界で一番はやかった?一万数千年前から栄えていた縄文文化の代表格は三内丸山遺跡。5500年前〜4500年前。
 関東地方で竪穴住居がある遺跡は65箇所。最大なものは東京都府中市の武蔵台遺跡。南関東では漁労もしていた。関東以外では北海道の函館の中野B遺跡に、縄文早期から中期と見られる五百棟以上の竪穴式住居跡。墓からは多数の土器。漁労を行う住居に即した土器、石皿。三内丸山遺跡は紀元前5100年から紀元前3800年に存続、常時600人と思われていたがそのごの調査で5000人が住んだ都市。1994年には大型建造物の存在を示す直径一メートルの6本の栗の木。
 黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大玉が日本各地で出土。交易によるもの。縄文遺跡を地図上で見ると、甲信越から関東・東北に密集。そこに道があったと考えらえる。
 紀元前5600年から紀元前4000年までは縄文中期だが、遺跡をみると東北・関東・北海道が発展していた。高天原=日高見国という国があり、中心地が来たから南へ、東北、関東、中部と変化した。常陸国地方、武蔵国地方、八ヶ岳周辺。高天原に三柱の現れ、タカミムスビ、カミムスビの二神が現れるときに<葦牙のごと燃え上がる物によりて成りし神>とあり、高天原に「葦牙(あしかび)」の存在を伝えている。葦牙は葦の芽のことで、ウマシアシカビヒコチノカミがそのことを示しているもう一つの神はトコタチノカミで、この二神が作った島々は<豊葦原の千秋の長五百秋の瑞穂の国>と言われている。葦はいずれも稲田を意味するが日本書紀では日本のことを豊葦原の国と読んでいる。
 エドワード・モースは「記紀の国生み、天孫降臨、神武東征は天皇の祖先が渡来し、先住民を征服した」という見方をしていた。司馬遼太郎も「異本列島は紀元前300年ぐらいに稲を持ったボードピープルがやってくるまで闇の中にいた」との見解を述べた。
 三柱の跡に五柱が現れ別格の天津神としている。その後にイザナギ、イザナミを含めた七神が現れた。この神世七代までが縄文早期に当たると筆者は考える。

第三章 イザナギの系譜と国譲り

縄文時代の中期から後期のはじめにかけては温暖な時代が続いていたが、後期からは日本はだんだんと寒冷化した。縄文海進で海が内陸に入り込んだ状態。寒冷化は今から三千年前から始まり、人口移動が始まった。当時の90%以上の人たちが関東、東北、北海道にいた。しかし人々は西や南、西南に移る。この時代、人口移動に伴い、島国としての日本の防御が問題になり、国生みにつながると筆者は考える。国生みは西半分だけである。東の日高見国は西の国大和国を作ったとする。大陸からの勢力に備え西の地方を防御するという。
 イザナギが同族婚をやめ、多くの別の家系と関係を持ち始めるのが縄文と弥生の変わり目。イザナギが生んだ三貴子、アマテラスは太陽、ツクヨミは月、スサノオは海。スサノオは命に従わずイザナミに会いたい。古事記ではスサノオはイザナミの鼻から生まれた。日本書紀はイザナギの手にした白銅鏡。スサノオの母はアマテラスとツクヨミの母とは異なる女性で、先住民系ではなく帰化人系なのではにか。スサノオの髪型がユダヤ人特有のみずらである。スサノオは黄泉の国に行く前にアマテラスに会おうとするが高天原を占領しに来たと思い臨戦態勢をとる。左右のみずらにかずらをつけた。みずらはユダヤ教徒たちが古代から続けている髪型である。中央アジアの仏教壁がにみずらをしている人物が描かれる。スサノオは高天原で8つの悪行をするが農耕に関するタブー。これはスサノオが遊牧民族だとする。逆剥は馬を逆さに剥ぐことだが馬のいなかった日本人にはできない。スサノオは中部・関東・東北の日高見国で悪行をしたと考える。スサノオが統治するはずだった海の国、大和国以前の西国、出雲を中心とした神が、東国=日高見国を破壊しようとした。
 アマテラスは天の岩屋に隠れて、世界が暗闇になる。日食は短すぎて古事記とは合わない。火山や噴火によって天空が闇に包まれる現象。富士山こそが高天原と葦原中津国を闇に覆うことができる規模の火山。紀元前15000頃〜紀元前6000年頃まで山頂噴火と山腹噴火など断続的に大量の玄武溶岩を噴出した。
 スサノオは高天原を追放されるが財産没収、髪の毛を抜く、爪を剥ぐ、という処罰がくだされる。財産は千座置戸の没収で、千の倉に入るほどの財産を没収されたとされているが、なぜスサノオが高天原に財産を追っていたかは記されていない。古事記によるとスサノオは出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(今の奥出雲町鳥上)に降り立ったと記されている。注目すべきは降り立ったところに具体的な地名があることです。オロチを退治したスサノオはクシナダヒメを妻にすると出雲の根の堅洲国(島根県安来市)の須賀の地へ行った。オオクニヌシが根の国のスサノオのもとにやってきて、娘スセリヒメと互いに一目惚れをする。スサノオは試練を与えたが克服しオオクニヌシという名を送った。古事記によるとオオクニヌシはスサノオの六世の孫、日本書紀ではスサノオの息子、葦原中国を作った神。葦原中津国を主要な活動の場にしている神々を国津神、アマテラスはじめ高天原の神々を天津神という。
 国譲りとは高天原のアマテラスが葦原中国、つまり地上の国・出雲を収めるオオクニヌシに向かって圧力をかけ、国の支配権を譲らせた神話。高天原から何度か使いを出すが葦語のタケミカズチノオノカミという剣豪が送られ、オオクニヌシの息子、タケミナカタノカミは国を譲る。タケミナタカは諏訪に連れて行かれる。オオクニヌシの降参を示すかもしれない遺物が発見されている。出雲大社近くの荒神谷遺跡から358本の銅剣、六個の銅鐸、銅矛16本が1984年に出土している。国譲りは銅vs鉄で銅が敗れたともみられる。

第四章 日高見国から大和国へー天孫降臨

天孫降臨はアマテラスの孫にあたるニニギノミコトが地上へ天降ることを指している。筆者は日高見国の中心地である鹿島から九州の鹿児島に統一に向かうという史実とする。ニニギノミコトの九州への天孫降臨より前、ニギハヤヒノミコトにより最初の天孫降臨があった。関東の鹿島から天の磐船に乗って伊勢から大和地方に入ったと伝えられるニギハヤヒノミコトを祀る神社は千葉や茨城に二十五社もあり、伊勢には三十から四十社あります。このようにニニギノミコトの天孫降臨より前に天孫降臨して大和に入ったニギハヤヒノミコトたちがいたことを証明している。鹿島から鹿児島(日向の高千穂峰)に天孫降臨したニニギノミコトは土地の豪族・オオヤマツミの娘コノハナノサクヤヒメを娶る。そこから生まれたのがホデリノミコト、ホスセリノミコト、ヒコホホデミノミコト=山幸彦である。山幸彦の三代目、ニニギノミコトの四代目にあたるのが、イワレヒコ=神武天皇です。のちに東征を行って、奈良・大和の地を平定する。
 神武天皇の再統一は大陸から来る帰化人たちが多くなり、北から南下して西に定住する人たちも増えて、関西が非常に重要になってきた。徐福も秦の始皇帝の命で日本にやってきている。中国の春秋戦国時代に入り戦乱で大陸から九州に流入してくる難民の人が多かったと想像される。イワレヒコの東征は大陸からの侵入に備えたものとと筆者は考える。徐福は三千人の男女と技術者を連れて船出した。日本各地に徐福伝説が残っており、京都府与謝郡の新井崎神社、三重県熊野市の徐福の宮など徐福を祀る神社もあり、熊野市には秦の時代の半両銭が出土している。日本の建国には常に外圧が関係していた。神武天皇の時代、聖徳太子以降の天武天皇から聖武天皇の時代、そして明治天皇の時代と日本には大きく3つの「建国」がある。それぞれに共通するのが「外圧」だった。
 ニギハヤヒノミコトは神武天皇の前に大和に天孫降臨されていた。「先代旧事本紀」によると、このニギハヤヒの天降りの時期は国譲り神話の前に書かれていることから、それ以前のことのことと考えられる。「旧事本紀」巻三「天神本紀」、第五の「天孫本紀」にニギハヤヒとその子、アマノカグヤマノミコト以降の子孫が十七代に渡って語られており、かなり長い間、大和地方を統治していことが分かる。
 イワレヒコは17年かけて大阪の難波に着きます。日本書紀には神武天皇が浪速国の白肩津で待ち受けていたナガスネヒコとの闘いをもって一段つく。ナガスネヒコはニギハヤヒノミコトに使えていたが、天神の子を名乗って土地を奪いに来るイワレヒコに意義を唱える。しかしニギハヤヒとイワレヒコは天の羽羽矢とかちゆきをふたりとも持っていて、ニギハヤヒが天孫であることを確認する。しかしナガスネヒコは闘い殺害される。ニギハヤヒが物部氏の先祖で、ニギハヤヒが国譲りをしている。帰順しなかった豪族は滅ぼされる。禁忌を平定し神武天皇となる。神武天皇は日本書紀にハツクニシラススメラミコトと号されているが、第十代崇神天皇も同じ意味の初国知らしし御真木天皇(古事記)、御肇国天皇(日本書紀)、初国所知美麻貴天皇(常陸の国風土記)と記されている。神武天皇=崇神天皇と考えられるとする。欠史八代はニギハヤヒとう存在をないものにしたところから来た調整。記紀には陵は奈良県橿原市大久保町の畝傍山東北陵(山本ミサンザイ古墳)と書いてあるわけですが、確定できない。欠史八代は東国との関係が非常に強い人達で記録が欠落したのでは?
 神武天皇の大和統一以降、興奮時代には数多くの古墳がつくられた。特に大和や川内にはひときわ巨大な古墳が築かれた。神武天皇の御陵は橿原市大久保町のミサンザイという場所にあるが、もともとは橿原神宮の敷地の中の畝傍山の中腹にあったとされている。小規模だが前方後円墳であったと見られる。前方後円墳は中国に破損ざんせず、朝鮮にもごくわずかし存在しない。奈良には原型はないが、関東の古墳には前方後方墳という形が見つかっていて一つ前の段階だと考えられる。

第五章 大和政権の確立

 祟神天皇は、オオビコノミコトを高志道(北陸道)に、オオビコノミコトの子タケヌナカワワケノミコトを東国十二国(東海道)に、キビツヒコを西道(山陽道)に派遣し、ヒコイマスノミコを丹波国(山陰道)に派遣し、その国を服従させた。この四人を四道将軍という。オオビコノミコトは戦に勝ち、山代国を平定して、高志国ヘ向かい、息子と合流したので、アイヅと呼ぶようになった。 即位十二年、戸口を調査して初めて課役を課したと記されている。この偉業をもって所知初国御真木天皇と呼んだとされている。この治世で大和調整は大八洲を統一した。弟のイクメノミコトを皇太子として、兄のトヨキノミコトには東国を治めさせる。即位62年灌漑事業を行った。65年任那が使者ソナカシチを遣わしてきた。

 景行天皇は息子のヤマトタケルノミコトは九州討伐をすると共に関東・東北を抑えるための東征を行っています。隼人は関東から鹿児島にやってきた人の子孫ではないかと考えている。理由は鹿島神宮、香取神宮と並んで東国三社に数えられる息栖神社と関わりがあると考えられるから。息栖神社に祀られているアメノトリフネノカミはタケミカズチノカミを助けて鹿島から鹿児島へやってきたとされる。アメノトリフネノカミは船の神であり、鳥の神。息栖神社は船の神社でもあり鳥の神社でもある。九州南部には熊襲もいた。この人も関東から来た人と考える。熊襲神社が関東・東北に多いから。紀伊半島の熊襲神社が有名だが、関東・東北に多く点在している。
 子のヤマトタケルはユダヤ人の血を引いていたのではないかと考える。記紀にある殺人行為は日本人的でない。兄殺し。熊襲兄弟を惨たらしく殺害。イズモタケルを卑怯な手口で殺す。更に東国十二国に派遣され、火攻めに会い、焼津と呼ばれる。実際には天皇の巡幸だったのでは。それは軍勢を率いていない。常陸風時の記述では天皇として書かれており、巡幸されたと書いてある。たしかに討つ話は2つだけで後の十七件は天皇の巡幸に関わる内容である。常陸国風土記にはともに狩りを行ったり、清水を飲み御膳を供する様子が書かれている。福島県の都々古別神社の社伝にもヤマトタケルは東征の折に千回戦って千回勝った、とあり後代の八幡太郎義家は社号を千勝明神と改めた。ヤマトタケルは神剣である伊吹山に向かうが、大氷雨にあい、病身になり三十歳の若さでなくなる。

 仲哀天皇はヤマトタケルの第二王子、皇后が神功皇后。熊襲が反抗的だったので仲哀天皇と神功皇后は熊襲征伐に赴く。神功皇后は朝鮮攻めを押すが、仲哀天皇はそのまま熊襲征伐を行い勝てず病気になり崩御する。神功皇后は船を集め、玄界灘を渡って新羅に攻めに行く。筆者はこれはユダヤ人の力があったと考える。海の道を作ったユダヤ人も日本に帰化して、三韓征伐をバックアップしたのではと。ユダヤ人は秦氏と呼ばれる日本人。新羅王は降伏する。高句麗と百済も降参する。神功皇后は身重の状態で朝鮮に渡ったが、その子が応神天皇。

 応神天皇と時代の仁徳天皇が古墳時代の日本で一番栄えた時代だったが、その財力の豊かな秦氏が支えたと筆者は考える。応神天皇の時代に弓月国から百二十県の人々を率いて渡来した弓月君が秦氏の先祖。百済からの渡来人であった。日本書紀によれば弓月君が百済から来朝したのは応神天皇十四年。軍勢を派遣し、新羅の妨害を除去し、渡来を支援した。平安時代初期の新撰姓氏録では弓月君は融通王の中で記録されており、秦の帝室の末裔と書かれている。秦始皇帝三世孫、孝武王の末裔。日本書紀と新撰姓氏録は共に弓月君が秦氏の祖先であると記している。実際に中国の西、ウイグル、カザフスタンのあたりに弓月国は存在しており、そこからユダヤ人たちがはるばる日本に渡ってきた。
 応神天皇は筑紫で生まれた。応神天皇は多くの渡来人を受け入れた。古事記によると王仁によって論語と千字文が伝わったとされている。応神天皇を祭神として弓月神社が丹波にある。秦氏が信仰していた八幡神社は中世に応神天皇と集合した。

 仁徳天皇は第十六代天皇で、日本最大の墳墓は仁徳天皇陵であり、世界最大でもある。これを作った人々は土師氏と言われている。土師氏の先祖は野見宿禰といわれている。巨漢で西方の人と考えられる。もともとは難波についた船から見える高台につくられた。民に慕われていた。秦氏に土地を与え太秦という名前を授けたのも仁徳天皇だった。五十八年の条に中国の東晋の時代だった呉の国と高句麗から朝貢してきた。古代朝鮮の遺物である好太王碑に何度も日本が攻めてきて倭の軍が高句麗と新羅の軍を破ったと書いてある。日本が百済、加羅、新羅を臣民となしたと書かれている。

 雄略天皇はヤマト王権の力を拡大させた。冷酷で貪欲な一面もあった。宋書や梁書に書かれている倭の五王の武であると考えられている。稲荷山古墳の鉄拳の銘や、江田舟山古墳の鉄刀に刻まれたワカタケル大王という銘によって、雄略天皇の実在性は具体的になった。稲荷山古墳の鉄剣の銘文では中華皇帝の臣下そていの王ではなく大王と明記されている。雄略天皇は478年に中国への遣使はやめている。雄略天皇は秦氏を厚遇した。果たしはもともとシルクロードとの関係が深く、機を営むことが多かった。絹、かたおりを朝廷に多く奉納していた。最後の遣使は478年で次の遣使は609年607年の遣隋使で、日本の自立性を示す。宋の順帝は倭王武に新羅・任那・加羅・奏韓・慕韓六国を治める倭王としている。

 武烈天皇は非道な天皇として描かれている。暴君として仕立てたい作者の意図が顕著である。

 継体天皇は58歳で即位した。武烈天皇は世継ぎがいなかったので、応神天皇の五世代孫で、越前国を治めていたおおどのおおき王を迎えた。日本はもともと朝鮮半島東武に大きな拠点をもっていたが、四世紀にあると高句麗が強くなり、南部では百済や新羅が台頭してくる。百済経由で鉄器や鉄の農具・兵器や漢字儒教などの中国文化が入ってくる。四世紀後半に百済が大和朝廷に救援をもとめてきて、救援の軍を九州北部に送ったが、新羅と通じた筑紫の磐井によって反乱が起きる。朝鮮での勢力が次第に衰えていった。

 欽明天皇の時代では大陸から日本にやってくる人が急増した。大陸では南北朝時代にはいり、小国が乱立し、不安定だったので日本に渡来する人がおおかった。百済王は仏像と経典を献上した。日本書紀には仏像がキラキラ輝いているのに驚いた欽明天皇がこの像を慕っていいのだろうかと臣下に訪ねたというエピソードがあります。仏教を受け入れを巡って争いがあった。受け入れる蘇我氏で、拒否するのが物部氏だった。蘇我氏が勝って政治の主導権を握った。

 敏達天皇は朝鮮半島南部の任那の復興を目指して、百済と協議しましたが、うまくゆかなかった。疫病が流行り始める。仏教を拒否してい物部守屋と中臣氏が勢いづいて仏教禁止令を出して仏像と仏殿をもやす。疫病は広がり敏達天皇も病に倒れる。後に蘇我馬子が願い出て仏教を許すとされる。二番目の皇后が額田部皇女だが、後の推古天皇である。

 推古天皇が即位して、甥の聖徳太子が摂政として蘇我氏と協力して仏教を受け入れた政治を行う。共同宗教の神道と、個人宗教の仏教を受け入れ、日本人の精神性は豊かになっていく。仏教の寺院がたてられ、巨大古墳が消えた。

世界史とつなげて学ぶ中国全史

2019 東洋経済新報社 岡本 隆司

非常にバランスがとれていてい良かった。

第一章 黄河文明から「中華」誕生まで

地理的な話から。乾燥地帯と湿潤地帯。農耕民と遊牧民。文化がまったく異なり、その境界で文明が生まれた。有名な文明地図。西方が開かれていて文化が流入してきていた。黄河流域で都市国家の成立。漢字圏。外夷に対する中華。秦のあとの前漢は匈奴に負けて和睦し毎年貢物を送っていた。前漢は匈奴を倒しシルクロードで発展した。金を送っていたが途中からシルクになった。最大の発展を遂げるが、これはローマ帝国はトラヤヌスの時代で、パクスロアーナの時期と重なり、東西で平和が訪れる。交易を通して発展した。

第二章 寒冷化の衝撃 ー 民族大移動と混迷の300年

三世紀あたりから寒冷化してくる。豊かでない土地での影響が大きい。民族大移動が起こる。西洋ではフン族の侵入からの大移動は克明にわかっているが、東洋ではどうであったか。乾燥地帯の遊牧民である匈奴は、かつて一大帝国を築いて漢王朝と退治していましたが、やがてバラバラになり、一部は中国の中心地に移住する。寒冷化は農耕民にも影響を及ぼし、農作物の生産量が低下し、飽和状態だった人口は淘汰される。城壁のない新開地である「邨(むら)」が点在するようになる。そこは荘園のようになり逃げ込んできた流民・移民を収容し、強制労働させる。三國志の曹操は屯田制を国家事業として行い、軍人に耕作させ、唐の時代まで続く。ローマでも没落農民を貴族が小作人として雇う農奴制が始まる。邨の時代では自給自足で手一杯で商業は衰退し、金銀よりも現物が重視される。こうして小さな政治ブロックで集中的に経済を支えるという形態が生まれ、地域が分断された。それが4〜5世紀の「五胡十六国」と呼ばれる時代である。五胡は漢人以外の5つの部族で、匈奴、けつ、てい、きょう、鮮卑を示す。5〜6世紀には南北朝時代に入る。華北・中原は北魏によって統一される。北の地の鮮卑は騎馬軍を補給できたので強く中原にいた他の胡を倒す。経済ブロックの統一はうまくいかずと東魏と西魏に分裂する。南朝は魏蜀呉を統一した晋が胡族の襲撃から南方に逃れて立てた王朝で、その後宋王朝に変わり、斉、梁、陳と交代していく。中心地は今日の南京と、長江の中流の江陵。実態は「五胡十六国」の自体と同様に小規模な勢力が分立していた。貴族が出現しコミュニティが形成される。
 紀元前後までもっとも豊かだったのは陝西省の長安周辺だった。山あいの高地であり、水が豊かだった。暮らしやすい乾いた土地で、生産性が高い場所だった。しかし長安も次第に乾燥し始める。代わりに開発が進んだのが大河周辺の平原だった。経済的に優勢になり、人口も増加する。ちょうど東魏のちの北斉が支配した地域である。一方山間部の西魏は貧しかったが徐々に力をつけ、最終的には北周が北斉を併合する。北斉は断絶し外戚に奪われ随を打ち立て南朝の陳を滅ぼし、南北朝時代は終わる。

第三章 随・唐の興亡 ー 「一つの中国」のモデル

随は北西の辺境に位置した北周政権が、東の隣国、北斉政権を滅ぼしたことから始まる。さらに南朝の鎮静件も合わせ、統一を成し遂げる。そのため中国の伝統的な歴史館では、隋は北朝の一つと認識されている。隋王朝は親子二代、30年ほどで幕を閉じる。隋を打ち立てた文帝・楊堅は大運河の開削という大事業を成し遂げた。それは黄河流域と長江を繋ぎ、さらに黄河流域から北京に伸びた運河だった。大運河で南北間の物流が促進され、文化・経済の南朝と政治・軍事の北朝と双方の役割分担が明確になった。秦や漢の時代は政治・経済・文化が中原に集約されていた一元的な構造だったが、隋により南北分業の時代が始まった。運河と長江の交差点である揚州は栄えた。塩産地が近くにあったことで唐時代は長安よりも栄えた。長安は秦・漢の時代から首都だったが山の中なので、長安を東の都とし、西の都・洛陽を建設した。文帝は外戚から皇位を継承した際に北周の皇族一門を根絶やしにした。その怨恨があり、煬帝は揚州に逃亡したあげく、背いた近衛兵に暗殺された。
 隋の混乱を解決する形で唐が台頭した。反面教師にした唐の二代目の皇帝太宗、李世民は武勇にすぐれており、武力を中心として中国全体の統治を進めた。李世民は中国屈指の名君とされ、貞観の治として知られている。唐は三国時代だった朝鮮半島にも介入し、新羅と組んで、百済と高句麗を滅ぼし、統一した。百済を支援していた飛鳥時代の日本にとっても対岸の火事ではなく、対抗できる国造りを急いだ。
 唐は広大な勢力範囲を誇ったが最も大きいのが北部であり、突厥が支配していた地域だった。突厥との力関係では南北朝時代の北周と北斉に分かれていた頃は突厥のちからは圧倒的で、突厥は両国を属国とみなしていた。しかし、7世紀になると突厥が中原の王朝に屈服する形になります。突厥は南方の人々とも積極的に交流を図っていましたが、シルクロードを掌握して、そこの商業民とタイアップしていた。その町業の担い手となったのがソグド商人であった。ソグド商人は中核のオアシスであるソグディアで巨大な財閥・多国籍企業のような存在になっていた。唐は突厥やその下のソグド商人なども取り込み、さらに様々な宗教も取り込んで多元的な国家であった。長安も国際都市として栄えた。しかし、その唐も安史の乱から栄華は衰えていく。ソグド人の安碌山の反乱を発端とした胡人と漢人の争いだった。
 その後、五代十国と呼ばれる時代に入る。北部は5つの王朝が受け継いでいき、南方では十の小国が乱立する。五胡十六国のときは南側は一つにまとまっていましたが、隋と唐の時代を経て、南側でも小国が分立できるまでとなった。

第四章 唐から宋へ ー 体外共存と経済成長の時代

8世紀から9世紀にかけて、唐は解体していき、中央アジアにも影響した。10世紀になるとウイグルはソグディアナの位置に移動した。その西側はトルコ系のカラハン朝があり、トルキスタンになっている。その西にはサーマーン朝があり、ペルシア系のイスラーム政権である。ウイグルにはイスラームは及ばす、マニ教や仏教が広く信奉されていた。
 なぜトルコ系遊牧民のウイグル人は東から西に移動して定住生活を始めたのか。一つの要因は温暖化であり、縮小していた草原地帯が広がり、遊牧民の活動が活発になった。東西に唐とイスラームの両帝国が成立したことは寒冷化の一つの到達点であり、温暖化と同時にあらためて多元化が進行した。ウイグルが抜けた東アジアではモンゴル系・ツングース系の遊牧民・狩猟民が力を持つ。モンゴル系では契丹、ツングース系では渤海という国が代表的だ。またこれらの勢力が勃興したのには中国側の事情も関係している。
 唐と宋の間でおきた変化を唐宋変革という。①エネルギー革命で、石炭が使われだした。②水田化と人口増大で、土木技術の進歩もあり低湿地を水田化できるようになり、人口も増大した。科挙も始まる。③貨幣経済の成立。花柄は唐の時代から作られていたが、宋では宋銭を大量に鋳造発行した。政府も現物で行われていた税金を少しづつ貨幣に切り替えていった。④商業化の進展。貨幣が潤滑油となり余剰生産物のやり取りが増えた。⑤都市化の進展。市場が発展し、市や鎮などの商業都市になる。宋の商業化の進展は日本にも影響し、平清盛による日宋貿易につながる。唐との貿易では贅沢品で正倉院にあるようなものだが、日宋貿易は民間ベースで陶磁器やお茶、生糸など庶民の暮らしに結びつくものだった。
 五代十国の時代では長安デルタ地域の低湿地を、呉越の時代に排水工事をし、一面の水田に変えた。以後は中国でもっとも豊かな地方になった。石炭や、ミョウバン、お茶など適地があり、経済開発が経済ブロックとなり政治ブロックになり乱立してくると、戦争が起こりやすくなる。宋王朝はそれに答えを出そうとして、官僚制・君主独裁制を導入した。宋政権は令外の官を系統立てて官僚化し、変化の激しい社会の実現への対応を各地方に任せた。軍事の指揮権は中央においた。君主独裁というと中央集権的なイメージがあるが、多元化・多様性を前提として、君主がそれを統制していた。また脅威の契丹は毎年の歳幣により不正だ。この時代は人口も増大し文化も発展した。唐宋八大家のような文人も登場し、朱子学の源流もできた。
 そうしているうちに遊牧民の住む草原地帯の状況が変わってくる。モンゴリアの草原の空白地帯からモンゴル部族が登場し、商業民のウイグルと結びついて、チンギス・カンの西征服が始まった。

第五章 モンゴル帝国の興亡 ー 世界史の分岐点

モンゴル帝国の改題。チンギス・カンがなくなるまでに中央アジア、西アジアの乾燥地域・草原地域を制覇した。トルコ系のウイグルやイラン系のムスリムを取り込み、ユーラシアの主要な草原地帯を抑えた。跡を継いだ息子オゴデイは濃厚のできる乾燥地帯を完全制圧した。華北全域を支配下に入れた。乾燥世界と草原世界に加え、農耕地域に勢力を拡大した。オゴデイの兄ジョチとその息子バトゥは南ロシアの草原地帯まで制圧した。オゴデイの死後10年のお家騒動の末、オゴデイの弟の血筋に変わる。カーンの地位についた長男モンケは征服事業を再開する。西アジアを担当したのが三男フラグでイランを制覇した。東アジアは次男クビライが南宋の長江上流域まで戦線を拡大した。モンケ自身も南宋遠征を敢行するも突如陣没し、お家騒動となる。最終的にクビライが継承者となる。フラグは引き返すが跡目争いに間に合わずイラン周辺でフラグ・ウルスとして自立する。同じようにジョチが征服したキプチャク草原あたりにジョチ・ウルスとして自立する。中央アジアはチャガダイ後筋が支配しており一旦カイドゥにうばわれますが、奪いかえす。クビライはモンケの時代から南宋の征服をめざし、最終的には南宋を接収する。そしてクビライは国名を大元ウルスと改め、首都を現在の北京の地に建設した。
 モンゴル軍の強さの要因の一つは宣伝。戦闘で徹底的に相手を殲滅することを宣伝し威嚇し、戦わずに降伏させていた。もう強さの一つの要因は商人との関係。草原地帯で攻められたウイグル商人から持ちかけられた協働にのり、資金・情報の提供と引き換えに、軍隊による保護と商売の権益を保護した。モンゴルは駅などを設置しシルクロードの交通を拡充した。また税を高度にシステム化していた。
 唐宋変革を通じて昔ながらの銅銭が主に流通していましたが、銅が不足して鉄銭や紙幣が代用された。クビライは銀を準備として政府が溜め込み、市場にはその兌換紙幣を発行した。クビライは紙幣の兌換として銀・貴金属だけでなく塩も準備した。政府は塩を専売にし課税しました。中国は広大な大地に対して海岸線が短いので塩の産地が限られていて、コントロールしやすかった。
 13~14世紀初頭のころ、アジアの物流や交易は海洋を通じても行われていた。主導したのはムスリム商人で、かれらはマラッカ海峡を経て、広州方面にも商圏を広げていた。代表的な存在としては広州に住み着いて福建省南部の泉州に移住した蒲寿庚である。クビライは国家主導で海洋商人たちを組織し、インド洋や中国沿岸での海洋貿易・海上交通に力を入れた。クビライはカーンに即位したあたりで軍事的な拡大を停止し、世界的スケールの経済圏の構築に力を注いだ。それはイラン系ムスリムやウイグル人たちであり、モンゴル系やトルコ系の遊牧民が軍事力でバックアップした。またその延長に元寇がある。
 そんなモンゴル・大元ウルスの経済力を根幹で支えたのが、南宋の豊かな生産力や経済力だった。隆盛をきわめたモンゴル抵抗ですが、14世紀半ばの直後から崩壊し始めた。主な原因は地球の寒冷化でした。この時期、ヨーロッパではいわゆる「黒死病」が大流行した。感染源は同じだろう疫病が、中国でも大流行した。農作物の作柄も悪化させ、生産量が落ちて、商業も振るわなくなる。シルクロードの幹線も支線も分断され、ユーラシア東西が分離された。その後は回復したが、中央アジア・シルクロードはローカル線と化した。中央アジアはイスラームしてくる。
 中国の経済も大打撃を受ける。紙幣や有価証券も紙くずになり、中国国内は物々交換のような現物経済の世界に逆戻りした。特に都市部では治安が悪化し、安全や食料を求めて農村部に移転する人が増えた。南宋の江南地域では抵抗勢力による反乱が各所で発生する。特にモンゴルに大打撃を与えたのは塩の密売人・張士誠による反乱だった。かれれはヤミ商売をして私腹を肥やしつつ塩を安く提供することで庶民のみかたであったが弾圧に失敗した。その結果、専売が運営できなくなり専売収入が途絶え、塩引の価値が暴落し有価証券が不渡りになり、信用不安を引き起こした。また張士誠が拠点としたのは蘇州で、中国最大の米どころだった。大都にいるモンゴルは塩の収入のみならず、米も手に入らなくなり、大打撃を被る。14世紀後半になるとモンゴルは明を建国した朱元璋によって大都を追われ、今日のモンゴル高原まで撤退した。モンゴルによって融合した東西と南北、農耕地域と遊牧地域は再び分断され、それまでの政治・経済・社会のシステムはリセットされる。

第六章 現代中国の原点としての明朝

 ティムール朝は4つに分かれたモンゴル帝国のうち、西方のチャガタイ・ウルスを相続して興った遊牧王朝。首都は中央アジアの真ん中に位置するオアシス都市・サマルカンド。かれれはそこから四方を征服し、一大勢力を築いた。一方、東アジアは南方の貧しい農家出身の朱元璋が明王朝を建国し、初代皇帝につく。当時の中国にはまだ多数のモンゴル勢力が残っていた。朱元璋が目指したのは農耕世界だけの分離独立で、華夷殊別と表現された中華と外夷の分断だった。象徴的なのが鎖国政策で、万里の長城で農耕民と遊牧民を明確に分けるのみならず、沿岸も出入りを制限します。漢人だけを「中華」として内部に取り込み、それ以外を「外夷」とした。中国内で交通または商取引したい外部の人は「朝貢」という手続きを踏むことを求めた。朝貢事態は秦や漢の時代からあったが、周辺国との付き合い方において、朝貢以外のすべての手段を禁じた。朝貢する側にもメリットはあり持参したお土産よりはるかに高額な引き出物「回し」を授かることができた。また朝貢団に随行してきた使節団には、儀礼の公式行事とは別に、中国国内の売買取引が認められたので、こぞって朝貢団に加わった。
 朱元璋は物々交換の世界を前提として、農業生産の回復に注力した。その一つが「魚鱗図冊」に現れる土地調査で年貢取り立ての前提を整備し、「編審」と呼ばれる国勢調査で成人男性の労役を管理した。これらは貨幣を介さない徴税の2本柱だった。明朝が構想した経済に商人や商業は登場しない。また南北格差の解消を目指した。モンゴル時代のクビライは、華北と港南を別の方法で統治していた。経済成長の源泉という位置づけで江南に力を注ぎ、商業が大きく発達し人口も急増した。明朝は江南を弾圧して貧しくさせ、華北の水準に合わせるという方法をとる。江南の地主や官僚にさまざまな嫌疑をかけ、連座制を理由に何万という単位で皆殺しにした。海禁で海路の交通も遮断した。経済界は打撃を受け、南方の有力者を弾圧したとミられる。二代目の建文帝は有力な朱元璋の四男・朱棣を倒そうとするが、逆に挙兵され永楽帝になる。ここで首都を北に移し北京と改称した。永楽帝も江南の地主たちを蹂躙する。江南から北京への大量の物資の移動のために大運河を回収したが、財政を圧迫した。北から南を支配しようと官僚の採用でも江南の人々を露骨に差別する。この時代のムスリム鄭和による七回の大遠征が有名だが、造船や航海技術はモンゴル時代の遺産に頼っていた。
 一方で明朝が構想した現物主義の財政経済システムはほころび始める。上海のある江南デルタは水はけが良くなりすぎ、稲作ができなくる。桑を植え生糸の一大産地に転換し、中国の一大ブランドとなった。この一体では工業化・商業化が進み、それに従事する労働者も急速に増えた。減った分の稲作は長江のさらに上流の湖広と呼ばれる地域を開墾し、水田とし、たちまち穀倉地帯になった。そうして自然発生的に地域分業体制が整った。ここで民間では私鋳銭が流通し始め、さらにモンゴル時代に流通していた銀が貨幣として流通する。さらに官僚の給料も銀で支払われるようになり、現物主義の財政経済は破綻した。中国で銀需要のため新しく銀山を開発させ、ヨーロッパやアメリカの一部、日本列島などから銀が中国に向かった。この民間貿易は日本の経済成長にも影響した。この時期、密貿易の弾圧により南の沿岸で倭寇が大暴れする事件がおき、同時に中国のお茶を欲しいモンゴルが長城を超えて侵入し、北京を包囲してた。どちらも明朝政府が折れて、モンゴルとは和議を無杉、内蒙古での取引を認め、日本との交易も、中国人が厦門から会場に出ていくことを可能とした。経済の活性化は社会・文化に影響を与える。民間での出版業の多様化により、経書・史書の解説本やダイジェスト版がたくさん出た。また有能な官僚であった王守仁が作った儒教の一派の陽明学を打ち立てた。政府権力から一定の距離をとって地域社会で民衆の指示を得たエリートを郷紳と呼んだが、政府と社会が乖離した高級官僚ばかりになり、民治の実部に手が及ばなくなってきた。それはデータにも現れており、人口三千人以下の都市が急増し、行政の目が民間まで行き届いていなかった。この民官の管理がその後の中国社会に尾を引いた。

第七章 清朝時代の地域分率と官民乖離

清国はマンジュ人が建国したアイシン国である。満州語のアイシンは金を表す。その後、1636年に大清国に改称した。かれらは狩猟民族であったがモンゴル人とにていてモンゴル帝国のような政権を目指した。満州人の西隣にはチンギス・カンの血筋を継ぐチャハルというモンゴルの部族が住んでおり、満州人はそこに攻め込み、モンゴル帝国から伝わったとされる正統の証とされる伝国璽という印章を譲り受けた。明朝が1644年に内乱で滅びると、万里の長城の最東端にある要塞を突破する。清朝は多種族からなる政権だったので、明朝のよる「華夷殊別」の方針を転換し、「華夷一家」を掲げ、漢人・満州人・モンゴル・チベット・ムスリムという五大種族の共存を図った。康煕帝の時代にはモンゴルとチベットを帰服させた。ムスリムの住地になっていた東トルキスタンも取り込んだ。この大きな版図をどうやって統治したかについては教科書では直轄領と間接統治の藩部、さらに朝貢国に分けたとしているが、正確ではない。基本的に政治的な組織には手を付けずに温存し、直轄と間接をことさら区別したわけではなかった。二代目の雍正帝は種々の改革を行ったが、目的は官僚・官界の腐敗撲滅であった。
 明朝は貿易を促進する制度を整え、朝貢国も本当に朝貢している国だけに整理した。日本とも同駅を認めるので中国の商人が日本へ出向けるようにし、日本では長崎が栄えた。またモンゴルが起伏したため北方の隣国は露になり、条約が結ばれ政府公認の貿易が始まった。交易により銀が必要になったがヨーロッパからアジアへの銀供給も途絶えて一大デフレに陥った。17世紀末には景気が回復し、イギリスが大量の銀を供給し、紅茶を輸入した。18世紀半ばまで一億人だった人口は19世紀初頭までに三億人を超え、19世紀なかばには四億人、20世紀初頭には四億五千万人に達する。一方で行政都市や官僚機構の数はさほど増えていない。行政の数少ない仕事といえば税金の取り立てと犯罪の取り締まりくらい。徴税も地主や大商人のようなコミュニティの、顔役がとりまとめ、支払っていた。増加し溢れた人口は、新開地に向かう。清代には東三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)の森林地や長江流域の山岳地帯などの開発が進んだ。新開地では生活か厳しく植えていたため不満がたまり、秘密結社のような宗教団体が多数生まれた。政府が弾圧すると武装して反抗し大きな反乱に至った。白蓮教徒の乱や太平天国などである。
 19世紀の半ば以降、清朝は富国強兵を目指し、軍事や技術面で西洋化・近代化をお勧めます。また銀価の下落から多種多様なものを輸出することになります。各地域が個別に各国と貿易をした。工業化した外国列強の旺盛な需要に答える中で、中国各地の経済力も個別に伸びた。それに伴い各省を管轄する地方官の監督はそれぞれ力を持つようになり、地域に応じた政策を個別に打ち出した。李鴻章や張之洞だ。ところが、日清戦争を経て様相が変わり、東アジア全域での権威も失われた。朝貢国は自主権があるため日本などに取られてしまう。清朝がバラバラになる前に国民国家の考えを導入し、国家の領土を明確にしようとする。このころから中国を名乗り始める。

第八章 革命の20世紀 ー 国民国家への闘い

1911年になると地方が独立し省政府を樹立した。1912年の元旦に代表者が集まり、南京臨時政府を樹立した。中華民国である。モンゴルもチベットも独立を目指す。中華民国は軍隊を送り込むが撃退された。理念は国民国家だったが、多元共存していた。また南北格差は縮まったものの、東西格差が大きな課題となった。これは国民国家建設や国内統合の問題と同じだった。中華民国は地域の軍閥同士で戦争を繰り広げた結果、全体像は少しづつ整理されてきた。1910年代〜20年代にかけて綿製品の製造に機械が導入される。中国版の産業革命がおきた。また第一次大戦が始まり、金本位制をいじできなくなると銀の価値があがり、輸入価格もあがり、自国生産の流れが起きたのが原因。この変化を利用して、国内の社会的・経済的な統一を果たそうと考えたのが、孫文の後継者と目されていた蒋介石だった。蒋介石の勢力範囲は経済の鍵を握る江南デルタ地帯だったので、軍閥は蒋介石には歯向かえなかった。全国一律に通用する紙幣を発行し、世界お基軸通貨のドルやポンドと交換可能にした。満州国はこれに乗らず、中国のナショナリズムの矛先は日本帝国主義の利権に向けられる。1928年、国民政府の北伐軍と日本軍の衝突が起きる。国民政府は国外に日本、国内に中国共産党という敵を抱えていた。共産党を潰そうとしたが説得され和解する。これにより日中の全面戦争に至る。当初、日本軍は先進地帯の沿岸部・都市部のみを支配していた。これに対して、蒋介石の国民政府は内陸の重慶に拠点を移した。毛沢東は農村の庶民の力で先進地域の都市部を奪い返そうと共産主義を標榜した。日中戦争で日本が敗北し、中国から撤退すると、中央政府に蒋介石・国民政府が戻って来るが、基盤社会の下層の人々と乖離する。下層の人々の心をつかんでいた毛沢東と、対立し内戦に発展する。経済運営に失敗し、都市部の有力者からも指示を失った蒋介石は大陸を追われる。台湾でも共産党や反体制派を弾圧したことから、毛沢東の評価が高まった。1949年に建国された中華人民共和国の基本理念は基層社会に降りることでした。農地解放や官僚の汚職の一掃運動などを展開し、ついに1966年から十年にわたる文化大革命に行き着く。上層の人々を叩きすぎた結果、国全体が疲弊して大失敗に終わる。
 その反動で打ち出されたのが、鄧小平による改革開放路線で、市場経済を取り入れ、海外貿易も推進して、豊かさを追求しようとした。これにより急速な発展を続け、富裕層も格段に増えました。ただ農民工など下層の人々に応じる有効な政策は見えていない。結局、中央と下層は乖離したままで、明代以降の中国が抱える構造的な課題は、むしろ増幅されて今日に至っている。習近平国家主席をはじめとする共産党がもっとも恐れているのは、下層の人々が政権から乖離するとともに、裕福層が諸外国と強く結びついて国家を顧みなくなることだ。それは今以上の格差拡大と政治・社会の分断を意味する。

結 現代中国と歴史

今日の中国社会の構造を端的に表すと、多元化と、上下の乖離である。分水嶺は寒冷化による「14世紀の危機」とそれに続く大航海時代だろう。バラバラで混乱と対立相剋を繰り返す社会を調整し、共存を図るかの答えは13世紀に登場したモンゴル帝国だった。しかし寒冷化には敵わず14世紀には解体され、多元的な世界に逆戻りします。その後、統合に向けた納得の行く回答が見つからないまま今日に至っている。
 14世紀には中央アジア・遊牧世界のプレゼンス低下と、海洋世界の比重増大を示している。南北よりも東西の格差が顕著になっていっている。つまり大航海時代の影響で、中国には南北の違いに加え、東西の違いも生まれいっそうバラバラになった。社会構造も多元化・複雑化した。17世紀以降に、さらに顕著化して、バラバラな社会をいかに秩序をたもって共存を図るかという、時々の政権による腐心の歴史である。清朝の小さな政府では産業革命以後の近代に対応できなかった。西洋や日本に対抗するために「国民国家」を目指したが、多元的な中国社会にはそぐわなかった。一つの中国というスローガンも欺瞞に満ちている。多元的な社会をまとめようとする試みはアジア史にも少なからずある。その手段として用いられたのが宗教だった。世界三大宗教はすべてアジア発症である。多元性をまとめるための秩序体型を提供することがアジアの全史を貫く課題だった。アジア各地では宗教という普遍的なものも、多元に共存していた。つまりアジア史において政教分離は成立しにくい。中国の場合も統合の象徴として儒教・朱子学が用意された。
 現代は欧米スタンダードが主流で、歴史というのも西洋中心史観に則っている。日本史と西洋史は近似した歴史課程をたどっている。もともと日本人と中国人は同じ東アジア人であり顔も似ているが、日本人は中国人の言動に、違和感や不快感を覚えることが少なくない。それは西洋史観に浸っている日本に対して、中国は前提条件がまったく違う中国史、アジア史を経過して今日に至っているからだ。日本人は中国という国家を異質な存在ととらえず、西洋化した日本人の既成概念をいったん削ぎ落として、中国の歴史に向き合う必要がある。

[復刻版] 大衆明治史

復刻版ダイレクト出版 1943 菊池寛

GHQが発禁にしたというのに惹かれて読んで見た。日本男子なら読んだ方が良い一冊。簡素で細かく章立てされていて、読みやすい。

第一章 廃藩置県

大久保利通が転向し公議政治を否定して、薩長連合をもって国内統一を図る。西郷隆盛という旧勢力の重鎮を呼び寄せ、廃藩置県を了承させ断行する。西郷隆盛がどういう存在でどういう役回りだったのかが良くわかった。

第二章 征韓論決裂

西郷は征韓論を唱えるが、決裂して、帰国する。

第三章 マリア・ルーズ号事件

支那の人をアメリカに売る奴隷貿易をしていた船が難破する。あえて公法をたてに日本で裁判にかけ清国に奴隷を引き渡した。

第四章 西南戦争

西郷は鹿児島に帰ったが、鹿児島で西郷王国を築くが如くである。内務改革のために鹿児島県の役人を更迭する人事が行われる。さらに西郷を暗殺する計画があるときき、軍を組織する。二百日も転戦するがついに西郷の自害とともに幕を閉じる。

第五章 十四年の政変

内務卿の大久保も刺客に殺される。その後釜とし伊藤博文か大隈重信ということになるが、大隈重信はその職を免ぜられるというクーデターがあった。これは北海道開拓使有物払い下げ問題に端を発して、薩長政府に批判が集中した。これを伊藤が利用して逆に土佐の政敵を葬ったとしている。

第六章 自由党と改進党

板垣退助も武人で、西洋との人民の在り方の違いを憂いていた。なぜ人民が国や地域のために戦わないのか?ということだ。また土佐の坂本龍馬以来の民権思想も引き継がれて、板垣退助は自由党を作る。またより穏健な政党として肥前出身の大隈重信が立憲改進党を作った。土佐と肥前が政府の薩摩と長州に対抗したとも見える。

第七章 国軍の建設

大村益次郎は軍政家として国軍の改革を進めていたが、保守主義者の刃にかかって死ぬ。その後を継いだのが洋行した山縣有朋であり、徴兵制をしく。土百姓や素商人に鉄砲をもたせて何ができるかという雰囲気だった。山縣は平民から組織された奇兵隊の力を見ていた。また大村は内乱鎮圧を目的としていたが、山縣は外敵を目的としていた。桂太郎はドイツで軍を研究していたが徴兵令を評価した。またメッケルを召喚し戦術を抗議した。

第八章 憲法の発布

伊藤は憲法の視察のために洋行するが、デモクラチック・エレメントが必要で、それは今までの日本にないものとしている。神武天皇以来の大きな変遷としている。日本に帰ると横須賀の夏島につめて秘密裏に井上、伊藤、金子とともに草案を書く。特に皇室典範を担当した井上毅の仕事が大きいとしている。明治天皇も一条一条を確認した。
 11月12日の会議中に四男が亡くなった知らせを受けた明治天皇が会議を続けなさったとのことに驚いた。他国では憲法の発布とともに流血があるというが日本がないというのは、いろいろ考える。

第九章 大隈と条約改正

大隈は鹿鳴館の猿芝居がこたえて、不平等条約改正のために再び政府に入って動き始める。自分が東京で交渉する形をとった。メキシコで成功すると、米国、ドイツと条約を改定していった。英国と交渉する段になり、秘密裏に進めていた条約の概要が英国の新聞に載ってしまう。条文に憲法違反になる項目があることがわかり、世論が沸騰し、ついに爆弾の被害に遭って、条約改正は頓挫してしまう。

第十章 日清戦争前記

朝鮮の扱いをめぐって支那と対立する。伊藤博文は李鴻章と会談を持ち天津条約を調印する。朝鮮に東学党が政治革命を企てるのに乗じて、支那は朝鮮に出兵する。

第十一章 陸奥外国の功罪

陸奥宗光のこれまでについて。伊藤は軍部と協調して、講和の交渉相手を残しつつ戦いをした。清国側から講和の申し出あり米国を仲介として下関に李鴻章一行を招き行われた。交渉三日目に李鴻章が狙撃される。伊藤はなぜ俺を狙撃しなかったのだと言ったという。一転、日本は不利な状況に転じたが、挽回して、下関条約を結んだ。
 伊藤博文が中国語を少し話せるのは驚いた。

第十二章 三国干渉

国民が戦勝に酔いしれている中、ロシアは遼東半島の放棄を求めてきた。その後、ドイツ、フランスも同一の覚書を持ってくる。イギリスも当初は同様な論調だったが、ロシアの拡大を懸念し、むしろ日本側につく。イギリスはインドでもロシアの脅威にさらされていた。結局、遼東半島を放棄する。著者はなぜ未来にわたっても遼東半島を他国が割譲しないことを約束させなかったのか?と悔しがる。

第十三章 川上操六と師団増設

三国干渉があり、軍拡が世論となった。川上操六は一人で日清戦争の陸軍を指導したと言われている。モルトケに指導された川上の話が続く。国防の観点から内地は元より、朝鮮や支那へも旅行している。川上は河野広中に六ヶ師団増設をロシアが想定するよりも早く準備することで優位に立てるとして認めさせた。
 権力に興味がなく、死ぬ頃には人当たりは益々柔らかくなり、給仕の少年にまで一々挨拶を返した、という人柄は心を打った。

第十四章 北清事変

列強たちは清国の利権を取得していった。ロシアは鉄道、旅順、大連。フランスは南全体、海南島。イギリスは威海衛や九龍半島、鉄道。民衆は政府は当てにできなかった。そんな中、山東省に起こった義和団は外国人駆逐に熱を上げて、支那全体に広まった。ついに天津居住地を攻撃し、北京の各国の公使館を包囲するに至った。各国は兵を持っていたが挙匪と官兵も加わっていて膠着状態になる。英国も日本も当てにしだす中で、天津で露独仏の連合軍が負けた翌日、日本が占拠した。日本を加えた混成軍が北京に向かい各国兵が功を急いぐ中、正面から撃破して、包囲された人々を救った。占領された清朝末期の北京は天下の宝物に溢れていたが、日本兵は保存のために尽力した。一方の列強の各国軍は略奪や破壊、婦女への暴行を尽くし、日本に助けを求めるほどであった。

第十五章 対露強硬論と七博士

韓国大使に任命された林権助は陸軍の参謀将校から対ロシアの観点で朝鮮の防衛が大事だと言われる。一年後、ロシアの艦隊が来ると基地を作ろうとしている場所を聞き込んで、その土地を商社に買い占めさせた。このような積極的な対露路線に対して、伊藤博文は消極的な態度をとっていた。満州でロシアの権益を認める代わりに韓国で日本の権益を見てめてもらうという満韓交換論である。軍も議会もロシアと開戦する時期を逸すと紛糾し、民間の学者も開戦を進言した。
 当時は軍も政府もかなり風通しの良い組織だったことに驚かされた。

第十六章 日露海戦

日本は日英同盟や満州還付条約など日露海戦への外交上の布石を打っていた。内政としても桂内閣と伊藤博文が和解をして外交の一本化を図った。桂首相も明治天皇へも報告を入れている。その折、露国参謀本部では対日作戦計画の裁可がおりて、増援部隊が到着し次第、日本に戦争を始めるという情報が届いた。日本は御前会議を開き満場一致で開戦を決議し、翌日に軍は勅諭を賜った。財政面も不安があるなかで、伊藤博文は金子伯をアメリカに派遣して、調停への布石を打っておくように頼んだ。その時の言が以下である。
 「いよいよロシア軍が海陸からわが国に迫った時には、伊藤は身を卒伍に落して鉄砲をかつぎ、山陰道か九州海岸に於て、博文の生命のあらん限り戦い、敵兵に一歩たりとも日本の土地はふませぬ決心である。昔、元寇の時、北条時政は、身を卒伍に落として敵と戦う意気を示した。その時彼は妻に何と言ったか、汝も吾と共に九州に来れ。そうして粥を炊いて兵士を労えと言った。今日伊藤も、もしそんな場合になればわが妻に命じ、時宗の妻と同様に九州に行って粥を炊いて兵士を労い、そうして斯く言う博文はは、鉄砲を担いでロシアの兵と戦う。」
 金子は伊藤の熱意に動かされて、アメリカ行きを承諾したが、参謀本部に児玉次長を訪ねて戦局観を聞いた。「まあ君がニューヨークで演説している最中、六度は勝報がいくだろうが、四度は負け戦の電報が行くものとして覚悟していてくれ」と答えた。海軍の状況を山本に聞きに行くと、「僕の方は半分は軍艦を沈める。又人間も、半分は死んでもらわねばならぬが、君もアメリカでどうかその心算でやってくれ」と言われる。

第十七章 児玉総参謀長

参謀次長がなくなり、降格になるが児玉がその地位に治った。前任の田村の作戦をさらに練りあって作戦を決定した。メッケルも児玉を英才としていた。台湾総督にも選ばれ混乱した台湾を建て直した。どの地位にあっても人ができない成果をあげている。
 第一軍は仁川から順次上陸させ、一気に北上し鴨緑江岸九連城付近で敵の軍とはじめて遭遇し、これを撃滅させ、全軍の士気を鼓舞した。第二軍は遼東半島の敵を駆逐するため、半島の一角へと敵前上陸を敢行し、旅順港内の敵戦を撃沈したりした。一軍が大勝したその時に第三軍の大将として乃木に声がかかる。乃木は児玉とは西南戦争からの知り合いで、反対の性格だったがウマがあった。第四軍まで編成されたが軍事司令官は維新からの歴戦者たちで、補佐する参謀長は士官学校の一期生二期生ばかりだった。満州総司令部が設置され、悠然と構える大山を尊敬していた児玉は人を食ったような態度はなく慇懃に務めた。
 第三軍は旅順を攻めた。第一回攻撃でも第二回攻撃でも大量の死傷者を出しながら戦況はまったく好転しなかった。歯がたたない旅順の要塞のために、二十八柵の巨砲を内地から運んだ。据えるのにも一二ヶ月かかるような大砲を横田大尉の超人的な努力でわずか九日で発射の準備ができた。しかし思ったような戦果はあげられなかった。ここでやっと正面攻撃を反省をして203高地という比較的手薄な場所を目標にする話も出てきたが、変更はまとまらず正面攻撃は続いた。203高地に目標が移されると、9昼夜連続の攻撃で屍山血河という言葉通りの戦場になる。児玉も戦況が良い時は冗談を飛ばすこともあったが塹壕内を往復し203高地の下を匐伏して戦況を視察した。203高地から旅順の街が見えると、二十八柵砲を中枢部や敵艦に向かって飛び、敵艦はほぼ殲滅した。これにより他の地域も占領し、開城を迫った。旅順に入場した第三軍は陣没将士の鎮魂祭をした。終わるとただちに奉天に向かう司令を受ける。

第十八章 奉天会戦

両軍の戦闘品は日本軍が24万、露軍が36万。当時世界でも例のない規模だった。日本は劣勢だったがとった作戦は包囲作戦だった。孫子に「十ならば即ち囲む」とあるが、十倍の戦力で初めて包囲は成功するのだ。ロシアでさえこの事実をなかなか認めなかった。しかし日本軍少数での包囲は危機的でところどころに綻びがあった。日本の右翼を餌にして左翼の第三軍を急進させて回り込ませるという作戦だった。ロシアは旅順を堕とした第三軍を心配していたが、右翼にいた第三軍11師団にロシアが気付き、予備兵をすべてこれに当ててしまった。正面左側の第二軍が半数を失う中、第三軍は急進行した。そんな中、敵の左翼は敗走し始め、第三軍の近くの鉄道から退却する列車が見えていた。戦闘はまだ奉天市内や郊外で行われていたが、日本軍は堂々と奉天入場式を行い、南門から入城した。東洋の地で、はじめて完全に武装された東洋人が、白色人種を完膚なきまでに叩きのめした。

第十九章 日本海海戦

くロシアの海軍は開戦時は戦艦七隻、装甲巡洋艦十隻であったが、開戦と同時に仁川港で二隻、旅順港の夜襲で三隻を失っている。陸上の敗走により士気が上がらないためにバルチック海にある精鋭艦隊を日本海に派遣することを決める。周到な準備を終えたロシア軍艦はクロンスタット港を出発し、紅海とアフリカを回る二手に分かれ、落ち合ったのち、日本に迎い、いよいよ津島海峡東水道を通過した。警戒をしていた日本はそれを発見する。日本戦隊の無線が激しくなったことでロシアが発見されたことを知る。
 日本も「敵艦見ゆとの警報に接し、吾戦隊は直ちに出動、之を殲滅せんとす。この日、天気晴朗なれど波高し」という有名な第一方が、まず大本営に飛んだ。敵艦隊と並進しながら報告し、その報告は、敵の戦列部隊が太平洋第一、第二艦全部に特務艦が七隻あること、その陣形が二列縦陣であること、その速力は十二浬であることなど詳細を極めた。そこで東郷提督は時刻と距離を計算して、午後2時ごろ、沖の島北方で主力艦隊が敵を迎える予定を立てた。敵艦は予定のごとく姿を現した。「皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」このまま進めば、両戦隊は縦陣を以てすれ違い、互いに敵を左舷に見る反航戦になる。利害共に等しいから、先頭としても平凡に終わりそうである。
 日本海海戦に於ける丁字戦法は有名だが、黄海海戦でも行ったことがあり日本海軍戦法の定石だった。ただこの日に、この戦法をやるには、あまりにも彼我の距離が近すぎた。それは朝来ガスが海上一面を蔽っていたため、遠望がきかず、敵影を認めるのが遅かったため、強いて旋回をすれば敵弾を浴びなければならず、むしろ避けなければならないのである。東郷大将は突然右手を真直に挙げ、左へ振ると、参謀長を見た。わが戦隊が敵八千メートルに於て、逐次旋回を試みるや、敵の旗艦にあったロジェストウェンスキーの幕僚たちは手を拍って「我勝てり、東郷狂せり」と叫んだという。先頭の三笠は敵の巨砲の前に暴露し、甲板に数弾を浴びた。しかし逐次旋回したわが第一第二両艦隊十二隻の精鋭は、敵の二列縦陣の戦闘を遮り、丁字先方が出来上がった。ここで形勢は逆転し、敵の二列の戦闘艦たるスウォーロフとオスラビーヤはわが片舷百二十七門の巨砲の前に、すっかりその全体を暴露することになった。この二艦を目指して打ち出した砲撃に二艦は煙に包まれて見えなくなった。日本艦隊はロシア艦隊に比べて速力は五割ほど優れていた。この快速を利用して急旋回をした日本艦隊は更に乙字型をなして、あくまで敵の先頭を圧迫するので逃げられない。スウォーロフは全艦蜂の巣のようになり列外に出て、オスラビーヤは炎上後に沈没した。開戦三十分にして、すでに勝利に対する確信を掴んだ。夜も魚雷攻撃で1艦は沈み、3艦は航海不能になる。翌日も五艦はそうそうに白旗をあげた。

第二十章 ポーツマス会議

 ニューハンプシャー州のポーツマスが軍港が整備されているという理由で講和の地として選ばれた。小村寿太郎が全権大使として選ばれれ、出発は国民の期待があり盛大なものだった。しかし政府関係者は困難な仕事として考えており、伊藤博文は帰還の際は自分は出迎えると伝えている。交渉相手は海千山千の王男ウイッテだった。小村は遅れて到着するが当てられたホテルの一室を二時間で事務所に改造した。初日の本会議で我が方の十二条よりなる講和条件を提示した。ロシアのまだ負けたわけでないという態度によって難航したが、講和は成立した。賠償金は放棄し、樺太の半分を獲得した。
 講和を成立させて日本に戻っていた小村に耐えられないニュースが舞い込んだ。米国の鉄道王ハリマンとの南満州鉄道を共同計画しようというハリマン協定である。小村は諸元老たちを説得してまわりついに協定の取り消しに持っていく。

第二十一章 明治の終焉

 日露戦争で勝利した日本は東亜で指導的地位をかくりつした。韓国での日本の宗主権が認められると、伊藤博文は総督として京城に赴き近代化を図った。伊藤は後藤新平で厳島で会談した。大アジア主義を唱える後藤を諌めたが、各国を回ることは了承し、人と会うためにハルビン駅に着いたが、そこで凶弾に倒れた。
 明治を通して日本は外国が二三百年かかってなした変革をわずか50年で成し遂げた。外国文化の接種においても常に日本の伝統が基調をなしていた。

 

本日公休

2024 ザジフィルムズ/オリオフィルムズ フー・ティエンユー

単館映画のサイトで見て気になったので映画館に足を運んだ。台湾が好きなので見たのもあったが、物語が期待以上の作品だった。

登場人物

 アールイは台中の下町で40年にわたり理髪店を営む店主。時が止まったような佇まいのお店である。アールイはお客さんを大事にして、そろそろ散髪の時期ではないかと電話をする。チュアンは次女リンの別れた夫だが、近くで自動車修理を営む。温厚で優しくアールイに息子を見せにきたりと、周辺にいろいろ世話を焼く。長男ナンは定職につかずアールイの周りをウロウロしている。

物語の始まり

 アールイのお店には何十年も通っている常連客が入ったり出たりしていて、半ば溜まり場のようにもなっている。しかし、そんなある日、アールイは古びた愛車をチュアンに修理してもらうと、店に「本日公休」の札を掲げ出発する。偶然に家を空けたアールイに近所の人や家族は心配する。そんなアールイは、遠くの町に住む常連客が病床にあると聞き、出張散髪に向かっていた。

テーマ

 人と人のつながりによって人生はできている。そして時の流れは恐ろしく早く、すぐに年老いてしまう。けれど、ときの流れにそって人と人とは交わって、心の交流がある。理髪店は時には家族とよりも長い間、人によりそっていく存在。時間はみなに平等に与えられている。時間や人の交流はお金よりも貴重なものである。

最後に

 めずらしく素晴らしい台湾映画だった。人と人の人生をかけた交流には涙が出る。お客様との濃厚な関係も台湾ぽっくで良い。あと自分の子供たちもうまくいっていないのが現実的だった。そういうことはありそう。

 人生がこれから始まろうとしている人よりは30代から40代の人にささるんじゃないかな。人生って一瞬です。まだまだ人生はあると鷹を括っている人におすすめです!

しあわせ仮説

どこかで紹介されていたので、何年も前から読みたくて買って読んでいたがなかなか進まず。

本の構成

本書は10の偉大な思想について述べている。社会心理学者である筆者は多く書物を読み古代〜過去の書物や過去の世界文明を調べた。そこから得た世界文明が発見したいくつかの幸せについての10の思想を吟味し、一つづつ章をに分けて説明している。

第一章 ~ 分裂した自己

心は分裂している。プラトンは統制された自己と、混乱する欲望に満ちた制御が難しい自己があるとした。同じようにフロイトは3つの自己、たとえるなら馬車を操る運転手(エゴ)と反抗的な馬(イド)、後部座席の運転手の父親(スーパーエゴ)に分かれているとした。今では心は情報処理をするコンピュータに例えられるが、筆者は馬と運転手という馬車のメタファーを使っていく。
 さらに心は4つに分裂している。まず第一に内臓は脳と独立で自動で意思とは分かれて働く。第二に右脳と左脳に分かれて働いている。左半球は言語処理や分析的な処理を専門として、右半球は顔を含む図形や空間的パターンの処理に長けている。右脳と左脳を繋いでいる脳幹を切断すると、行動に齟齬が生まれるが、左脳がすぐさまそれを作り話を使って理由を説明することがわかった。この説明する機関は説明モジュールとされるが、これは象使いである。
 第三の分裂は旧皮質と新皮質である。基本的な欲求や動機の調整に特化した古い部分と、情緒的な学習や反応に特化した新しい部分である。その中の前頭皮質は新たな連合関係を生み出したり、思考や計画や意思決定に関係している。これはプラトンの御者であり、悪馬である大脳辺縁系から支配権を引き継いだ理性で、これをもたない他の動物よりも人間は上位に位置しているという優位性を正当化している。事実この前頭皮質に損傷があると性欲を公然と示すなどの例がある。一方でこの前頭皮質によって感情も大きく進化した。前頭皮質の一部である前頭目●皮質の神経細胞は快楽や苦痛、損失や利得などの即時的な可能性があるときに激しく発火する。食事や景色や素敵な人に魅力を感じた場合や、反対に死んだ動物や下手くそな歌や相手に不快な感情を感じた場合に、接近したいとか離れたいなどの欲求の情緒感情を生み出している。前頭目●皮質はどちらかというとイドの候補である。前頭目●皮質の損傷の研究では情緒を失った人が感情がわかないことがわかったが、完璧な論理性を身に着けるのではなく、様々な選択肢のなかで好き・嫌いの感情が瞬時に浮かばないために簡単な意思決定などもできなくなる。人間の合理性は情緒に依存している。
 第四の分裂は制御されたプロセスと自動化されたプロセス。大半の心理的プロセスは意識的な注意や制御を必要とせず無意識的に起こる。制御されたプロセスは限界があり、一度に一つしか考えられない。自動的プロセスは平行に動作して、一度に多くのことをこなすことができる。制御されたプログラムには言語は必要だ。意識的な計画等能力は、進化の歴史上においては最近のほんの短期間にえたものである。一方で自動化されたプロセスは、すでに数千回の生産サイクルをくぐり抜けており、ほぼ完璧だ。進化の過程では人間の脳波その能力を象使いへと譲り渡すように作り変えられはしなかった。すべての物事ははすでにかなりうまく機能していたし、言語能力は象が何か重要なことをより良い方法で行うのに役立つという範囲で広まった。象使いは、象に仕えるために進化したのだ。言語の効用の一つは人間を部分的に刺激制御から開放することである。制御されたシステムのおかげで人は長期的な目標について考えることができ、視覚的にはそんざいしない他の可能性について想像することができる。ただ制御されたシステムは行動を引き起こす上では比較的小さな力しかもたず、助言者と考えた方がふさわしい。象使いは、象がより良い選択をするのを助けるために象の背中に乗っているが、象の意思に反した命令をすることはできない。
 象と象使いの3つの例。1つ目は幼少時代に欲望を制御できた子供が大学入試試験で良い点を取れること。2つ目は自動化されたプロセスは連想をとおして何千という思考やイメージを生み出している。日常で怖かったり恥ずかしかったりする考えを制御されたプロセスが抑圧しようとして失敗すると、自動化されたプロセスに引き渡され繰り返し心の中に現れる。3つ目は道徳的な議論では象が手綱を握り、象使いを誘導している。何が良く何が悪いか、何が美しく何が醜いかを決めるのは像である。象使いは象の弁護士となる。
 このように私たちの心は様々な部分が緩やかに連合したものだが、意識的な言語による思考という一つの部分に注目しすぎている。わたしたちは時々、自分の無意識やイド、動物的な自己と戦っているという考えに陥る。しかし、本当のところは、私たちはその全てなのだ。

第二章 ~ 心を変化させる

 大衆心理学では「世の中の出来事は私達の解釈を通じてのみ私達に影響を及ぼすので、自分の解釈をコントロールできれば、世界をコントロールできる」とする。この洞察へと達し、これまでのやり方やものの見方を変えようとしても、3ヶ月後には下に戻ってしまったに違いない。象使いが計画に従うように象に命令することはできない。象を訓練し直すことによってのみ、永続的な変化が可能になる。本章ではあまりに多くの人々において象が不安で悲観的になりやすいのかを説明し、それを訓練しなおす3つのツールを紹介する。
 情動があるような複雑な脳をもつ動物は快か不快かを自動的にひらめく好悪計をもっていて常に作動している。その影響力は捉えにくいが感情プライミングとして知られる実験で象と直接会話できる。また自分の名前の響きなどのささいなことも住む場所、パートナーや職業の選択に影響を与えていることが分かっている。
 助けをもとめにきている患者は心配を減らしたい人でいっぱいだ。象はあまりにも多くの物事を悪くとらえており、良い面をみていない。しかし生物は悪いことは良いことよりも強く反応するように設計されている。脅威や不安に対する反応は、好機や快さに対する反応よりも早く、強く、抑制するのが困難であり、ネガティビティ・バイアスと呼ばれる。動物の行動は相反する動機づけのシステムで支配されている。接近システムはポジティブな情動を引き起こし、物事に対して接近したくなるように仕向ける。回避システムはネガティブな情動を引き起こし、物事を避けたり、それから退いたりしたくなるように仕向ける。両システムは同時に相反する動機を生じさせることもあるが、その相対的なバランスによって進路が決定される。見知らぬ人に話しかけたいと思うが、その人に近づくと突然動けなくなってしまう。回避システムがすばやくフルパワーで動き出し、それよりも遅い接近システムを上回ってしまう。回避システムが素早く強制的である理由の一つは、入ってくるすべての情報をまっさきに得るからである。目と耳から入力されるすべての神経パルスは視床を経由して大脳皮質に送られるが意思決定には1~2秒かかってしまう。一方で視床を通って扁桃体に送られる近い道もある。扁桃体は闘争・逃避反応を活性化させる脳幹部分に直接結合していて、以前の恐怖エピソードを構成するパターンを見つけると、体に非常警報を発令する。たとえば一人きりで部屋にいると思いこんでいるのに後ろで声を聞いたりしたときは、ビクっとし、心拍数が急上昇する。最初の10分の1秒間で恐怖に対する反応を示す。また扁桃体は思考を変えるために前頭皮質にも伸びていて、脳全体を回避方向へと転換させ、情報処理にバイアスをかける心のフィルターを生起させる。性格を説明する際は生来の気質と環境が影響すると考える。しかし生来の気質のが思った以上に影響している。双生児研究では人の平均幸福度における全分散の50~80%が人生経験よりもむしろ遺伝的な相違で説明できることを示している。ある人の幸福レベルはその人の感情スタイルであると言える。左前頭葉が右前頭葉のどちらが活発かでその感情スタイルが決まることが分かっている。
 ここで自分の感情スタイルを変える3つの方法を紹介する。瞑想、認知療法、プロザックである。一日一回服用すればよく副作用はあるが、良い副作用ばかりである。自尊心や共感、信頼感を増強し、さらに記憶力さえも改善する。その薬はすべて自然なものでお金もまったくかからない。そんな薬は存在する。瞑想である。瞑想は多くの宗教的伝統で見出され、インドでは仏陀より以前から長くから用いられてきたが、瞑想を西洋文化の主流へともたらしたのは仏教である。瞑想は象を飼いならして鎮める。2つ目は認知療法である。うつ病の治療でベックが見出した方法であるが、歪んだ思考プロセスの過程をとりまとめ、これらの思考を受け止めて挑戦するように患者をトレーニングしたのである。彼の勇気と粘り強さは報われ、うつ病や不安章、その他の数多くの症状に対する適用において、最も効果的な治療法のひとつである認知療法を作り上げた。認知療法が効果的である理由は、象使いに、議論によって象を直接的に打ち負かす方法でなく、象を訓練する方法を教えるからである。3つ目はプロザックは選択的セロトニン再取り込み阻害薬の代表選手だ。どのような作用しているかわかっていないが、コカインやヘロインのような即効性がないため常用性がない。どのような効き目があるかどうかはわかっていて、うつ病や全般性不安障害、パニック発作、社会恐怖、月経前深い気分障害、一部の接触性が、強迫性障害など、驚くほど多様な精神疾患に対して効果がある。プロザックは大脳皮質くじの不公平を埋め合わせる方法の一つである。視力の悪い人がコンタクトレンズをするようなものである。

第三章〜報復の返報性

 賢者が何か高尚な言葉を選ぶなら「愛」か「報復性」だろう。報復性は根深い本能であり、社会生活の基本通貨と言える。人間以外のすべての超社会的な種において、その特徴とは血縁性利他主義の遺伝的特徴である。動物が自分の子供たちの安全のためには自分の生命を危険にさらすことははっきりしている。協調的な集団で暮らすほとんどすべての動物が近親者の集団でせいかつしているため、動物界における大半の利他主義は、遺伝子の共有が利益の共有と等しいという原理原則を反映している。ハチやシロアリやハダカデバネズミの集団では皆、兄弟姉妹なのである。超社会的な動物は超血縁状態へと進化することで、自動的に超協調行動が生まれ、さらにそれが壮大な分業化を可能とし、ひいては、ミルクや蜜やその余剰分にあふれた巣を作り出した。
 動物における相互作用の大半はゼロサム・ゲームである。ある動物の利得は他の動物の損失だ。しかし一日では食べ切れないくらいの獲物を見つけることがあるかもしれない。獲物が豊かな日の余剰を、必要となる日のために貸して取引できる動物は、偶然の予期せぬ変化に対して生き残る可能性が高くなる。その中で毎回成功した個体にものをねだる詐欺師に対して非協調だけで対応した場合にはあまり多くの集団をまとめられない。人間は詐欺師に対してこっぴどく叩きのめす。復習と感謝はしっぺ返し戦略を増幅し強化する、道徳感情なのである。詐欺師の利得は彼らが敵を作り出すことによって支払うコストによって減じられ、誠実であることの利得は友人を得ることで増幅する。
 大きな行為に対してお返しをし損ねるような恩知らずは叩きのめされるだろうと述べたときに触れなかったことがある。最初の攻撃はまさしくゴシップだろう。そんな奴の評判を貶めるのだ。脳は飛び抜けて稼働コストが高い器官であり、重さは体重の2%だが、20%のエネルギーを消費する。一般的に動物がある特定の大きさの脳を持っているかについて説明している唯一の理論は、脳の大きさと社会集団の大きさを関連づけたロビン・ダンバーのものである。ダンバーは霊長類、肉食動物、鳥、爬虫類、魚のいずれの脊椎動物のグループ内においても、脳の大きさの対数がほぼ完璧にその社会集団のサイズの対数に比例することを示した。言い換えればすべての動物界において、脳はより大きな集団を管理するために大きくなったということである。またダンバーはチンパンジーなどの身体的な毛づくろい行動の代理として言語が進化したのではないかと低減している。言語は小集団を素早く結合し、他社の交友関係について簡単に情報交換できるようにする。実際に言語が主として他人について話すことに使用されていると指摘した。誰が誰に何をしているか、誰が誰とつながっているか、誰が誰と喧嘩しているか。あなたが何を知っているかではなく、誰をしっているかが重要なのである。また美味しいゴシップは誰かに話さなければとかんじたりするが、そのゴシップを誰かに伝えると反報性の反射が動作して、友人はその行為にお返ししなければならないというプレッシャーをわずかにせよ感じてしまう。ゴシップはゴシップを引き出し、互いに情報を与え合うので失うものはなく、しかも両者が情報を受け取れるという利得があり、非ゼロサムゲームを作り出す。
人生を導く最もふさわしい言葉として反報性を上げた孔子は賢明だった。セールスでも交渉でも反報性はうまく機能する。反報性は関係性における万能薬である。正しく使えば社会的な絆を強め、引き伸ばし、活性化してくれる。それがとてもよく効く理由の一つは、象が生来の模倣者であるということである。例えば、私たちは、誰か好きな人と交流すると、自動的かつ無意識的に、その人の動作を逐一模倣するという傾向がわずかにせよある。しかし、単に自分の好きな人の模倣をするだけではない。私たちは、自分の模倣をする人を好む。客の模倣をするウェイトレスは、より多くのチップをもらう。模倣による一体化の快楽は、人が一つのことを同時に行うラインダンスや応援団、ある種の宗教儀式などの同期的活動において特に明確だ。

第4章 〜 他者の過ち

社会心理学者は近年、自身の目の中の丸太に対して盲目となるメカニズムを分離抽出した。これらの発見が道徳に対して持つ意味合いはいささか困惑させられるもので、実際に、私たちの確固とした道徳的確信を揺るがすものである。人は利己主義であり、みつからないとわかっていれば時に不正を行う、ということは明白である。その一方で、何がさほど明白でないかというと、こういう研究のほとんどにおいて、人々は自分が何か間違ったことをしているとは考えていないという事実である。
 日常生活の推論にかんする研究では、私たちの象は探究心旺盛なクライアントではないということが分かっている。たとえば、最低賃金が引き上げられるべきかどうかなど、考えるのが難しい問題が与えられた時、一般的には即座にどちらか一方の意見へ傾く。それから、その見解に対する指示がすぐに得られるかどうかを確かめるために推論を呼び出す。ハーバード大学の心理学者のデビッド・パーキンスは思考とは一般的につじつまが合うと停止するというルールに従うというルールを発見した。また、コーヒーを飲むというような嗜癖の一つが健康に良くないということを示している研究結果を読むように求められた人は、コーヒーを飲まない人なら気づきもしないような不備を、その研究に見つけ出すことに躍起になる。
 ニック・エプリーとデビッド・ダニングの実験では自身の特についてはひどく過大評価していたが、他者についてはかなり現実に近かった。曖昧さはその幻想をさらに助長する。リーダーシップのような多くの特性に対して言えば、それを定義するにはあまりに多くの方法があるので、自分を最もよりよく見せるであろう基準を自由に選び出すことができる。もしこのように蔓延している自尊心膨張バイアスの影響が、人を良い気分にさせているだけなのであれば、なんの問題もない。実際に、自分自身や自分の能力、自分の将来展望に対して講義にポジティブな幻想を持っている人は、そのような幻想を持っていない人に比べて、より精神的に健康で、幸福であり、人に好かれやすいという証拠がある。しかし、そのようなバイアスによって、人は自分がすること以上に報われるべきであると感じるようになると、同じようにもっと報われるべきであると感じている他人との際限のない争いへの舞台が用意される事となる。無意識的な過剰主張に関する研究では、夫と妻がそれぞれ、自分が行っている家事分担のパーセンテージを見積もると、二人の見積もりの合計は120%以上となることが示されている。
 もし配偶者や仲間、ルームメイト同士がそんなにもたやすくいがみ合うとしたら、共通した目標や愛着のない人と交渉しなければならない場合、事態はさらに悪くなる。人は実際、他者の行動を予測する情報は受け入れるが、自己査定を修正することは拒絶するのである。他人にはバイアスがあることは認めるが、自分にバイアスがあることは認めない。プロニンとロスは素朴実在論と呼び、私たちは皆、世界を直接あるがままに見ていると考えている。さらに私たちは、物事は私たちが見えているように存在するのであり、他のすべての人たちにも同じように見えていると信じている。
 筆者が悪の必要性について考えたところバウマイスターによると、邪悪であると考えられる行為をする人は、彼らは攻撃や挑発に対して正当な方法で反撃したと考えている。ほとんどの場合、暴力をふるう時には何らかの理由があり、その理由にはたいてい不正を感じての報復か、自己防衛が関与している。加害者はしばしば甚だしく過剰反応したり、誤解していたりする。私たちには暴力や残虐行為を理解しようとする枠組みをバウマイスターは純粋悪の神話とする。これは悪事を働く人は、純粋に邪悪な動機をもっていて、被害者は純粋に被害者であり、邪悪は外からやってきて、私たちのグループを攻撃する軍隊を結成しているということである。さらにこの神話の適用を疑問視する人や道徳的な確かさをあえて濁すような人は誰でも、邪悪な同盟の一員なのである。純粋悪の神話は、究極の自己奉仕バイアスであり、素朴実在論の究極形態だ。
 内なる弁護士、バラ色の鏡、素朴実在論、そして純粋悪の神話。このようなメカニズムがすべて共謀して意味の網目を紡ぎ出し、その上で天使と悪魔が戦いを繰り広げている。見晴らしの良い位置から見れば、このような道徳主義や正義、偽善はすべて愚かなものと思えてくる。おろか以下であり、悲劇だ。古代インド発祥の偉大な教によると、私たちが経験する人生は「サムサラ」と呼ばれるゲームである。そのゲームの中でそれぞれの人は大きな劇の中の役割として、それぞれの「ダルマ」を演じている。仏陀は更にその先を行く。彼はゲームを完全にやめてしまうように勧めた。仏教は、サムサラと永久に続く転生の循環から逃れるための一連の訓練なのである。初期の中国の禅僧である僧*は、8世紀の詩の中で完全無欠の道へと至るためには無分別主義となることが前提条件だと主張している。分別主義は心の病であり、それは怒りや苦悩、葛藤を導く。しかし、それは心の通常の状態であもある。像は、いつも評価して、常に「それは好き」とか「それは好きでない」と言っている。ではどうすれば、この自動的な反応を変化させることができるだろうか。瞑想や認知療法があるが、認知療法は一旦怒りが入り込むと別の視点を理解したり、共感したりすることが非常に難しくなる。自分自身や自分の目の中の丸太に取り組むことが最初になる。傷つくだろうが、自分の過ちを捉えるようにして、内なる弁護士の話を聞かない。あなたが侮辱や敵意のある身振りで対応していたときには、自己奉仕バイアスで増幅された返報性によって、二人の溝は深まる一方であったが、あなたはそのプロセスを方向転換することで、葛藤を終わらせ関係性を救うために返報性を用いることができるのである。

第5章 〜 幸福の追求

 旧約聖書の伝道の書の二章では、富の中から降伏を見出すために快楽関する思考実験をしている。そこでは自分の望むように世界を合致させることは、常に風を捉えるようにするようなものであると説いている。しかし近年の心理学における研究結果からは世の中には努力して手に入れる価値があるものもあり、どこを探すべきか知っていれば、幸福の一部はあなた自身の外側からも訪れることを示唆している。欲しいものを手に入れたときの喜びは一瞬で過ぎ去ってしまう事が多い。何かを手にしたときに典型的には幸福感などはまったく訪れず、開放の喜びである。進化的な観点から見ると、理にかなっている。動物が、自身の進化的な利益をまし、人生ゲームでコマを進める何らかの行動を取る場合はいつでも、快楽の神経伝達物質であるドーパミンが急激に増加する。食物やセックスは快楽を与え、その快楽はさらなる食物やセックスを見つける努力をするように動機づける強化子の役割を果たす。しかし、人類の場合はより複雑で、高い地位を得たり、良い評判を得たり、友情を育んだり、最良の結婚をしたり、財産を蓄えたり、同じゲーム上で子供が成功するように育てたりすることによって、人生ゲームに勝つ二。重要な目標で成功した場合でも大量で長時間続くドーパミンを受け取ることはない。この強化子はその行動のあと、数分や数時間ではなく、数秒のうちにもたらされる場合にのみ、よく作用する。
 象も正しい方向に一歩進んだときはいつも快楽を感じチエル。目標を追求する際に本当に重要であるのは、その道中であって目的地ではない。何でもお望みの目標を設定してみれば良い。大半の喜びは、目標へと近づく道中の一歩一歩においてもたらされるだろう。成功という最後の瞬間には、長いハイキングの終わりに思いリュックサックを下ろした時の安堵以上の興奮は感じられないことが多い。短期間の、そこそこの喜びしか見いだせなかった時、自問する。たったこれだけ?これは「進歩の原理」と呼ぶことができるだろう。快楽は、木法を達成することからよりも、目標に向かって前進することによって訪れる。
 あなたは自分に起こり得る最も悪いことを10秒であげよと言われたら下半身不随と答えるかもしれない。多くの人は下半身不随になるぐらいなら死んだほうがマシだと考える。しかし、あなたが考えるほど悪くはない。おそらくあなたはそこのことに適応するだろうが、実際に起こる前には、適応できるとは考えられないからである。四肢麻痺患者は最初に甚大な幸福の損失を被るが、数カ月後には自分の新しい状況に適応し始め、より控えめな目標を設定する。彼は理学療法によって自分の能力を高められることに気づく。状況は良くなっていく以外にないので、その一歩一歩が彼に進歩の原理による喜びを与える。適用は単なる神経細胞の性質である。新しい刺激に対しては活発に反応するが、徐々に馴化し、慣れてしまった刺激に対してはほとんど発火しなくなる。生命に関わる重要な情報を含んでいるのは変化であり、安定状態ではない。人間は認知的な極限に対しても適用してしまう。一連の成功のあとには目標を高くし、首の骨をおるような大きな挫折の後には、目標を低くする。この適応の原理と人間の幸福の平均水準は遺伝性が高いという発見を結びつけると、衝撃的な可能性にたどり着く。長期的には、あなたに何が起こるかということはさして重要ではない。幸運であれ不幸であれ、あなたは、常に自分の幸福の基準点、つまり幸福におけるあなたの脳の初期水準へともどってくる。それはあなたの遺伝子によって決定されることが大きい。人生においても好きなだけ一生懸命働き、欲しいだけ富を蓄え、果樹を植え、愛人を囲うことができるが、少しも先に行くことができない。私たちは努力が無駄であることに気づくことなく、それが人生ゲームで勝つために役立っている限り、努力し続ける。
 仏陀やエピクテトス、その他多くの賢者がこういう無益なネズミのレースを止めるように勧め、幸福とは内面から訪れるものであり、自分の欲望に合致するように世界を構築することによって見出すことはできないと言った。それは本当だろうか。幸福に関する研究において、遺伝子が人の平均的な幸福水準に強い影響力を持つということに次ぐ大きな発見は、大半の環境的、人口統計学的要因は幸福にほとんど影響しないということである。良い結婚は最も強く一貫して幸福と関連している生活要因のひとつである。幸福な人はより低い幸福の基準を持っている人よりも早く結婚し、その結婚は長続きする。なぜなら彼らはデートをする相手としても魅力的であり、また配偶者としてもいっしょに生活しやすいからである。また信心深い人は平均的に、無宗教である人よりも幸福である。これは神との結びつきという感覚と宗教的なコミュニティに参加するという社会的な結びつきからもたらせる。男性は女性より自由で権力を持っているが、平均的にはより幸福であるということはない。人は魅力的な人は魅力的でない人よりも幸福であろうと考えているが、それもまた間違いである。財産については心理学者のエド・ディーナーの調査によると、どのような国においても、所得規模の最底辺においては、お金で幸福を買うことができる。食事や住まいの支払いについて毎日心配しなければならない人は、それをしなくても良い人に比べて有意義に幸福感が低いと報告されている。しかし、一度、基本的に欲求の心配がなくなって中流階級に入ると、罪と幸福との関係性は小さなもとのなる。多くの先進国において裕福度は過去50年間で2倍から3倍になり、生活の快適さにおいて改善をもたらしたが、現在ではこのような改善された生活がもはや通常の状態になってしまった。
 1990年代に幸福研究における2つの大きな発見が、心理学会を震撼させた。フロイトイラ、性格は主に子供時代の環境によって形成されるという考えを半ば宗教的な盲信のごとく共通理解としてきた。しかしながら双生児研究によって、遺伝子が恐るべき影響範囲を持ち、その兄弟が共有している家庭環境は比較的重要ではないことが明らかになると、古代における幸福仮説は以前にもましてもっともなものとなった。おそらく実際に各人の脳には定められた設定点があるのだろう。それゆえに、おそらく、幸福を手に入れる唯一の方法は、その人の環境を変えるだけではなく、瞑想やプロザック、認知療法を用いて内部設定を変える以外にはないのだろうか。しかしながら、生物学者がヒトゲノムの最初の見取り図を解明するにつれて、遺伝と環境についてのもっと洗練された理解のしかたが現れてきた。遺伝子は誰も想像できなかったほど私たちについて多くのことを説明してくれるが、遺伝子そのものは、多くの場合、環境因子に対して敏感だということが明らかになった。そして、確かに人は個人ごとの幸福水準を持っているが、それは今では、設定というよりはむしろ可能範囲、もしくは確率分布のようなものと見られている。
 マーティン・セリグマンが1990年代後半にポジティブ心理学を打ち立てた時、彼は特定の問題に取り組むための専門家集団を招集した。一つの集団は幸福を左右する外界の条件を研究するために結成され、外界の条件には根本的に異なる2つの種類があるということに気づいた。それは生活条件と、行っている自発的活動である。生活条件には、人生でかえることができるもの(財産、配偶者の有無、住んでいる場所など)と、変えることができない事実(人種、性別、年齢、障害など)の療法が含まれる。生活条件は、少なくとも自分の人生のある期間においては一定であるので、それらはあなたが艇王するであろう類のものである。一方で、自発的活動は、瞑想やエクササイズ、新たなスクルの学習、休暇を取るなど、あなたが自ら進んで選択するもののことである。その大半は努力や関心をもって行うものなので、生活条件とは異なって,いつのまにか意識から消えてしまうということはありえない。それゆえ、自発的活動は適応の影響を受けずに、幸福の増加をより確実に約束してくれる。
 ポジティブ心理学における最も重要な考えの一つは、リュボミルスキー、シェルドン、シェケード、そしてセリグマンが幸福の方程式と呼んでいるものである。H=S+C+V。経験する幸福の水準Hは、生物学的な設定点Sと生活条件Cと自発的活動Vによって決定される。ポジティブ心理学の課題は、科学的な手法を用いて、どのような類のCやVが潜在的な範囲の一番上までHを押し上げることができるかを見出すことである。賢者たちの知恵を検証するためには、この仮説、H=S+Vを検証しなければならない。しかし実際に幸福にとって重要な条件Cがいくつかがあることがわかった。騒音、通勤、コントロールの欠如、恥、人間関係が代表的なものであり。
 しかしながら、すべての行為が役に立つわけではない。富や名声を追い求めることは通常は裏目に出る。お金や名声、美容に最も関しがあると答えた人たちは、人生において物質的でないものを目標として追求している人よりも、一貫して幸福度が低く、不健康でさえあることが分かっている。それでは幸福の方程式の正しいVとはどういったものだろうか。チクセントミハイの研究では人が実際に何をして楽しんでいるのかを研究し、2つの異なったタイプの楽しみがあることを見つけ出した。1つ目は身体的もしくは肉体的な快楽であり、食事中やセックスの最中に平均的に高い水準の幸福度が報告されたが、一定の満足水準を超えて続けることはできない。チクセントミハイの大発見は多くの人が、その人の能力にほぼ適しているが少し挑戦的な課題に取り組んで、完全に没頭している状態に価値をおいていることで、これをフローと名付けた。何か身体的な動作をしている時、スキーで滑っている時やカーブの続く田舎道を高速で運転している時、団体競技をしている時などに起こることが多い。またフローは絵を書いたり、文章を書いたり、写真を撮ったりといった一人きりの創作活動においても起こり得る。鍵となるものは、注意を完全に注ぐ挑戦があること、その挑戦に見合った能力を有していること、そして、課題解決の各段階において、どの程度できているか、すぐにフィードバックが得られること(進歩の原理)である。フロー状態では象と象使いは完全に調和している。
 チクセントミハイの成果を利用して、セリグマンは快楽と充足の基本的な区別を提案した。快楽とは食物やセックス、背中のマッサージ、涼しいそよ風のように「はっきりとして感覚的要素とつよう情動的要素を伴う喜び」である。充足とは完全に没頭し、自分の強みが生かされ、我を忘れさせてくれるような活動である。充足はフローを導きうる。快楽の可能性を維持するためには、間隔をあけることが重要である。象は快楽に溺れやすいので、象使いは象が立ち上がって新たな活動へ移るように促さなければならない。
 感覚的快楽に哲学が警戒する理由の一つは、その効用が長く続かないからである。それによって賢くも強くもならない。次なる快楽をもとめ、長い目で見ればより良いと思われる活動から人を遠ざけてしまう。しかし充足は私たちに試練を課して、能力を伸ばすことを求める。充足は多くの場合、何かを達成したり、学んだり、改善したりした時にもたらされる。私たちがフローの状態へ入ると、困難な仕事も努力のいらないものとなる。セリグマンは自身の充足を見出す鍵となるのは、自信ならではの強みを知ることであると述べている。筆者の350人の学生への実験ではアイスクリームを食べた時に得られる幸福は続かないが、親切や感謝の活動はその日はずっと気分が良い状態が続いた。そのためあなたならではの強みを特に友人を助けたり、恩人に感謝の気持を伝えたりと言った人間同士の結びつきを強化する活動に用いることで、幸福感を増加させることができる。それらに関わる5つの活動をリストアップすれば毎日少なくとも1つは確実に充足をえることができるだろう。
 人々がそれぞれ合理的に自分の利益を追求することで市場がうまく機能するという考え方が経済学の原則である。一方で人の好意の中でこの経済学の原則に当てはまらないものがある。家から遠く離れたレストランでチップを渡したり、お金をかけてまで復習を追い求めたりする。ロバート・フランクはこれは愛、恥、復讐や罪悪感などの道徳感情の産物であるという以外に説明がつかず、このような感情は進化の産物であるとした。進化は時に自分自身のために戦略的に不合理なことをさせるようなものである。たとえば人は騙された時、怒りコストを度外視してでも復讐を求め、評判を得る。それは騙そうとするものを牽制する。さらにフランクは他のタイプの不合理、すなわち、人が自分の幸福とは反対に作用する多くの目標を追求するのに精力的であることを理解するために同様のアプローチを用いて、なぜ国家の富が上昇しても、国民はちっとも幸福にならないのか、どうして人は自分たちをさらに持続的に幸福にするようなものよりも、完全に適応してしまうような、贅沢品やその他のものにお金を費やすのに夢中になってしまうのか、などについて考察した。フランクの結論は誇示的消費と非誇示的消費は異なった規則に従うというシンプルなものである。身につける腕時計は誇示的だが、休暇の取得は非誇示的でない。誇示的なものは他者と引き離す一方で、非誇示的なものは他者と自分を結びつけるものであり、別の実験でも非誇示的な消費のほうが幸福感を増幅させた。つまり最新の流行を追うことは止め、誇示的消費にお金を消費するのは止めるべきである。その第一歩として勤務時間を減らして、稼ぎを減らし、貯蓄を減らして、家族との時間や休暇、その他の楽しめる活動にもっと「消費」すべきである。進化の過程で象は幸福ではなく、名声に関心を寄せて人生ゲームで勝つように定められている。
 現代社会には他にも数多くの罠がある。その一つが選択のパラドクスだ。大半の人は多くの選択肢から選んだ方が完璧に満足するものが見つかると期待する。しかし、選択肢が多いほど、自分では選択しない傾向があり、一番良いものを選ぶ確率は低くなる。自分の選択に自身が持てず、公開し、自分が選ばなかった選択肢について考える。もし選ばないで済むならそうする可能性が高い。私たちは選択が幸福の低下を招くとしても選択を重視する。追求者はすべての選択肢を評価して多くの情報を集めて選択しようとする、一方で満足者は選択に関しておおらかで、過剰な選択肢に悩むことはない。追求者が一ドルあたりの消費から得られる快楽は少なくなる。
 筆者がこの本を書き始めたときには、仏陀こそが「この3000年間の最もすぐれた心理学者」章の最有力候補であろうと考えていた。努力は無益であるという彼の分析は非常に正しいものに思えた。しかし、調査の末、仏教は過剰反応にもとづいており、誤りであるかもしれないと考えるようになった。仏陀は王宮を出て老人、病人や死人を見て絶望して、森に入り悟りへの旅を始めた。しかし、もし若い王子が惨めであると思った人たちと話しをしていたなら何が起こっただろうか?若き大胆な心理学者の一人、ロバート・ディーナーが世界中を旅をして、人々の生活と人々がその生活にどの程度満足しているかについてインタビューしてまわった。ディーナーはカルカッタの貧困層の人々は、うらやましがられるような生活は送っていないが、湯意義な生活を送っている。彼女たちは手に入る非物質的な資源を十分に活用して、生活の多くの面で満足を見出している」と結論づけている。若き仏陀が憐れんだ四肢麻痺の人や、老人、その他の階級の人々と同様に、カルカッタのスラム街の娼婦たちの生活も、内側から見れば、外側から見るよりはるかに良いものなのである。
 また仏陀が執着心を捨てるように強調したもう一つの理由は、彼が動乱の時代に生きていたことだろう。生活が予想不能で危険である時に、外界を制御することで幸福を追求するのは愚かなことであっただろう。しかし、現代は違う。豊かな民主主義世界に生きる人々は、長期的な目標を立て、それを達成することが期待できる。多くの人は、あの時に比べれば暮らし向きは良くなったと思える。だから、すべての執着を断つこと、喪失や敗北の苦痛から逃れるために、努力して感覚的な快楽や勝利を回避すること、これらはいまや、私には、どんな人生にもあるいくばくかの避けられない悩みに対する反応としては、筆者は不適切であるように思える。多くの西洋の思想家たちは、仏陀と同様に、病気、廊下、避けられない死といった苦痛について考え、彼とまったく異なる結論に達したー人や目標や快楽に対する情熱的な執着を通して、人生は充実したものとなるに違いない。
 現代社会における仏教の適切性や、幸福を見出そうと自らに働きかけることの重要性に疑問を投げかけているわけではない。むしろ、私は幸福仮説に陰陽説を取り入れて拡張することを提案したい。幸福は心の内から訪れ、さらに、幸福は心の外からも訪れる。

第6章 〜 愛と愛着

 その昔アメリカの行動主義の主唱者であったジョン・ワトソンは、「幼児と子どもの心理的ケア」というベストセラーを出版した。ワトソンは、いつの日か赤ちゃんは、間違いの多い両親の影響下から引き離され、赤ちゃんの養育場で育てられるだろうという夢を書いている。しかし、その日が訪れるまでは、両親は、行動主義的テクニックを用いて強い子どもを育てるようにと努めた。つまり、子供が泣いていても抱き上げず、寄り添ったり甘やかしたりせず、ただ、ひたすら良い行いに対して報酬や罰を与えなさいと説いた。なぜ、医者や心理学者は、子供にはミルクと同様に愛情も必要であるとわからなかったのだろうか?この章では、他者の接触、親密な関係性に対する欲求について述べる。
 ここからはハリー・ハーロウとジョン・ボウルビィという二人の心理学者の話である。二人は行動主義や精神分析は、それぞれ何か重要なことを見逃しているということが分かっていた。ハリー・ハーロウは猿のあかちゃんの観察の中で、幼い哺乳類が母親との身体的な接触を求める「接触のやすらぎ」は基本的な欲求であると見出した。愛着のみなもととされていたミルクにはしがみつかず、すべての猿は布でできた母親のソフトなひだにしがみついて一日の時間を過ごした。
 ジョン・ボウルビィは両親との分離が子供にどのような影響を与えるか研究していた。1957年にはボウルビィはハーロウによる布の母の研究を知り、ハーロウは手紙を書いた。偉大な実験家であるハーロウが、優れた理論家であったボウルビィの理論への実験的検証を提供した。ボウルビィの統合理論は「愛着理論」と呼ばれる。この理論はサイバネティックス科学を取り入れている。これは周囲の環境や自身の内部が変化する中で、機械的なシステムや生物的なシステムがあらかじめ設定された目標値を達するために、いかに自己を制御するかの学問である。愛着理論は安全と探索という2つの基本的な目標が子どもの行動を導くという考えから始まる。安全にとどまる子供は、生き延びる。良く探索し、遊ぶ子供は、大人になってからの生活に必要なスキルや知識を発達させる。しかしながら、これら2つの欲求は相反することが多いので、それらは周囲の安全レベルを監視するアルシュのサーモスタットによって制御されている。安全レベルが適切であれば、子供は遊び、探索する。だが、安全レベルが低くなりすぎるとすぐにスイッチが入り、突如、安全への欲求が優先事項となる。子供は遊ぶのをやめ、母親の方に向かう。もし、母親が届かないところにいれば、子供は次第に絶望感を増しながらなく。母親が戻ってくると、子供は母親に触れるなどして、安心の再確認をする。それからシステムはリセットされ、遊びを再開する。もし、あなたの子供が健康で独立した人間に育ってほしいと願うのであれば、子供を包み込み、抱きしめ、寄り添い、愛して上げるべきである。子供に安全基地を提供すれば、彼らは自ら探索をはじめ、自分で世界を克服するだろう。
 ハーロウの研究はまったく非の打ち所がなかったが、懐疑的な人たちはそれは人類には当てはまらないと主張した。この反論を退けるためにより多くの証拠が必要だったが、1950年に偶然に応募してきたメアリー・エインズワースによってもたらされていた。彼女は子供たちにサルたちと同様の実験をした。エインズワースは見知らぬ女性が部屋に入ってくる実験で示した様子によって子供を3つに分類した。母親が去っても安定していた「安定型」、不安を示すが自分で苦痛を抑制する「不安型」、極端に動揺した「抵抗型」と名付けた。エインズワースは最初、これらの違いは、育児の善し悪しによって生じると考えた。彼女は家まで行って母親たちを観察し、温厚で子供に良く反応する母親はたいてい安定型を示した子供を持つことに気づいた。これらの子供たちは、自分たちの母親が頼れる人だということを学習しているため、最も勇敢で自信に満ちていた。冷淡で反応の鈍い母親は、回避型の子供をもつことが多い。そういう子供は、母親からあまり助けや慰めを期待できないと学んでいる。反応が不安定で予測しにくい母親は、抵抗型の子供を持つことが多い。子供たちが、安らぎを求める彼らの努力が報われる時と報われないときがあることを学んでしまっているからである。
 しかし筆者は母と子のこの相関関係については、常に懐疑的である。母と子の遺伝的な理由かもしれない。またエインズワース以降のたいていの研究においては、母親の反応性と子どもの愛着行動パターンのあいだに小さな相関関係しかみつけられていない。一方、双子研究では、遺伝子が愛着行動の方の決定にはほんの少ししか関与していないということが分かった。育児方法とも遺伝子とも相関関係が弱いのだとすれば、この特性は、いったいどこからやってくるのだろうか?これは従来の生得的か獲得的かといった論争の外に出て考える必要がある。愛着スタイルは何千回という相互作用の間に徐々に現れてきた性質であるとみなさなければならない。
 成人の愛について深く掘り下げて研究すればするほど、愛着理論が成人の相いついても成り立つということが分かってきた。シンディ・ハザンとフィル・シェイバーは3つのスタイルが成人になって関係を築く上でもまだ働いているかどうかをテストするために、簡単な方法を開発した。そしてそれらは働いていることが分かった。考えてみれば、恋愛関係と親子関係に類似性があることは明白である。恋人たちは、母親と赤ちゃんを結びつけるのと同じオキシトシンというホルモンの分泌を半ば中毒のように楽しむ。オキシトシンは哺乳類の雌の出産準備に必要なものであるが、脳にも影響し、養育行動を促し、母親が子供に触れている時にストレス感情を軽減する働きをする。子どもの不安信号は、母親の養育本能を呼び起こすからこそ有効なのである。オキシトシンは、双方のつなぐのりの役割を果たす。このように成人の恋愛関係は連動する古い2つのシステムから成り立っている。子供を母親と結びつける愛着システムと、母親を子供に結びつける養育システムである。これらのシステムあh、哺乳類の誕生と同じくらい古い。鳥類も有している。また「交配システム」は他の2つのシステムとは完全に別のシステムである。
 しかし、どうして人間の女性は排卵のサインをすべて隠して、彼女に恋に落ちる男性を見出し、子供を得るようになったのだろうか?それは誰も知る由もない。一番もっともらしい理論は初期のホミニドのときに大きな脳と高い知性を持つことは脳の成長を促した。しかし脳の大きさは産道というボトルネックに遭遇する。私たちの先祖である種のホミ二ドは脳が体を制御できるほど十分に発達するずっと前に赤ちゃんを子宮から出してしまうという奇抜な手段を進化させた。このため人類では生まれた後の子供は何年もの間、完全に無力である。その人間の子供の養育という重荷を背負った女性は生産性の最も高い年頃の男性の保護と大量の食物に依存した。競争の激しい進化のゲームでは男性にとって自分の子でない子供に資源を提供することは、負けの一手である。だから、積極的な父親、男女の絆、男性の性的嫉妬、そして大きな赤ちゃんはすべて、徐々にではあるが、共進化したと考えられる。この理論はすいろんにすぎないが、大きな苦痛を伴う出産や、長期に渡る養育期、大きい脳、高い知性などといった人間の生活における独自の特徴の多くをうまく結びつけている。
 古い愛着システムの一つに、同量の養育システムを混ぜ合わせて、そこへ改良された交配システムを放り込むと、さあ、恋愛の出来上がり。恋愛は、これらの部分を足し合わせた以上のものではないだろうか。トロイ戦争を引き起こしたり、世界で最高の音楽や文学を生み出したり、私達の人生に最良の日々をもたらしたりという究竟の心理状態がそこにはある。しかし恋愛というのは広く誤解されていると筆者は考える。ここで心理学的な下位の構成要素について見直しておくことは、数々の謎を解き、愛の落とし穴を避けるための手がかりとする。どこかの大学で教授たちが講義しているだろう吟遊詩人たちが私たちにもたらしたものは「真実」の愛という独特の神話である。つまり、本当の愛は、輝かしく情熱的に燃え、死に至るまで燃え続け、死後においては天国で恋人たちはまた一つになり、愛の炎をさらに燃やし続ける。真実の愛は情熱的な愛であり、永遠に消えることはない。もし、あなたが真実の愛をみつけたら、あなたはその人と結婚すべきだ。エレン・バーシェイドとエレイン・ウォルスターは二種類の愛を区別した。情熱愛と友愛である。情熱愛は「優しさと性的感情、多幸感と苦痛、不安と安堵、利他と嫉妬などが感情の混乱の中に共存する」ものである。友愛は恋人たちが愛着システムと養育システムを互いに適用しつつ、互いに頼り合う、気遣い、信頼しながらゆっくり何年もかけながら育んでいくものである。情熱愛は麻薬である。その症状は、ヘロインやコカインとかさなっている。情熱愛は、ドーパミンの放出に関与する部位を含め、いくつかの脳部位の活動をかえてしまう。強く気分がよくなるような経験はどれもドーパミンを放出するが、ここではドーパミンとの関連が決定的に重要である。脳は慢性的なドーパミン過剰に反応し、それを妨害する神経科学的な反応を発達させて、自身の均衡を取り戻そうとする。そういうわけで情熱愛が麻薬だとするとやがては消え去ってしまう。それぞれ別のプロセスなので情熱愛は友愛に変化しない。筆者は真実の愛は存在すると信じているが、それは永遠に続く情熱ではないし、ありえない。真実の愛とは、結婚を強固に補強するような愛であり、それはちょうど、互いに深く関わり合う二人の間の強固な友愛に、少しばかりの情熱を加えたものである。
 古代東洋では愛の問題は明白であった。愛は執着である。愛着、特に感覚的で性的な執着は、精神的な進化を可能とするためには打ち破るべきものである。仏陀は否定的で、古代ヒンズー教のマヌ法典ではさらに否定的である。西洋では話がことなり、愛はホメロスこのかた、詩人に広く讃えられている。ただし二人の間の愛着という本質的な愛の性質は拒否されている。愛が尊厳を持ちうるのは、一般的な美への感得へとと転換した時のみである。またキリスト教は古典的な愛への恐怖の多くを全面に押し出した。キリスト教の愛はある種の強い善意や博愛心の「カリタス」、特定の他者への執着や性欲のないある種の無私の精神的な愛である「アガペ」である。カリタスとアガペは美しいが、人間が必要としている種類の愛とはまったくもって関係ない。同じように哲学者は現実の人間の愛には否定的である。
 また19世紀末、社会学の創始者の一人であるエミール・デュルケームが学術的な奇跡を成し遂げた。彼はヨーロッパ中、そして世界中からデータを集め、自殺率に影響する要因を研究した。彼の発見は、一言でまとめると、束縛である。どのようにデータを解析しても、社会的な束縛や絆や義務が少ない人ほど、より自殺する率が高かった。デュルケームは「宗教社会との統合度」や「家族社会との統合度」を調べた。100年間のさらなる研究によりデュルケームの診断が正しかったことが証明されている。強い社会関係を持つことは、免疫システムを強め、寿命を伸ばし、手術からの回復を早め、うつ病や不安障害に対するリスクを軽減してくれる。内向的な人もより社交的であることが強いられた場合でも通常それをたのしみ、気分が晴れやかになる。また「誰か頼れる人が必要だ」というだけでない。社会的サポートを与えることに対する最近の研究によると、他者の世話をすることは、援助を受けるよりも、しばしばより有益であることが分かっている。私たちには、他者と相互作用し、結びつきをもつことや、持ちつ持たれつの関係や、所属することが必要である。極端な個人の自由のイデオロギーは、人が個人的な充実や職業的な充実をもとめて、家や仕事、町、結婚生活を捨てることを助長し、またそれゆえに、そのような充実を得るのに最も見込みのある人間関係をこわしてしまうという意味で、危険なのである。私たちは、他者を愛し、仲良くし、助け、分かち合い、さもなければ、自分の生活が他者と絡み合うように見事に調整された情動に満ちた、超社会的な種である。

第7章〜逆境の効用

 ニーチェは「私を殺さないものは全て、私を強くする」と言ったが、自分の子供の将来の苦悩についてはどうだろう。この章では「逆境仮説」とも呼べるものについて述べる。最も高い水準の強みや充実、個人的な発達のためには、逆境や挫折、トラウマさえもが必要であると説く。ニーチェの格言が、文字通り正しいとは言い切れない。死の恐怖に現実的に直面したり、暴力による他者の死を目撃したりした人は、不安や過剰反応などが後遺症となり虚弱状態となる、トラウマ後ストレス障害を引き起こすことがある。そのため逆境仮説を受け入れるのには注意が必要である。それではどんな時に逆境は役に立ち、どんな時に有害なのか、科学的な研究を見てみよう。その答えは「限界を超えない程度の逆境」というだけではない。それよりもずっと興味深い話があり、人はどのように成長するのか、どうすればあなたやあなたの子供が将来に必ず出会う逆境から最も利益を得られるのかが明らかになる。
 健康心理学は何十年間もストレスとそのダメージの効果について研究してきた。主な関心の対象は、常にレジリエンス(回復力)であった。しかし、研究者たちがレジリエンスを超えて、深刻なストレスの恩恵に焦点を当てるようになったのは、ついこの15年ほどのことである。これらの恩恵は、トラウマ後ストレス障害と直接たいひさせて、集合的に「トラウマ後成長」と呼ばれることがある。研究者たちはいまや、癌、心臓病、HIV、レイプ、殺人、麻痺、不妊、家の消失、飛行機事故、地震などのような多くの逆境に直面した人々を研究している。研究者たちは、人々が子どもや配偶者、恋人、両親と言った最も強い愛着を持つ人の死にどのように立ち向かっているのかについて研究してきた。大半の研究はトラウマや危機や悲劇にはさまざまなかたちがあるものの、人々はみっつの基本的なやり方でそれらから恩恵を受けることを示している。
 1つ目の恩恵は、難題を乗り越えることで、気づいていなかった能力を発見し、この能力によって自己概念が変わることである。私たちは誰も、本当のところ自分が何に耐えられるのかということを知らない。近親者との死別やトラウマから人が得る最もよくある教訓は、自分は思っていたよりずっと強いということであり、この新しい自己の強さへの認識により、人は将来何台に直面した時に地震が持てるようになる。2つ目の恩恵は、人間関係に関するものだ。逆境は、フィルターとなる。癌と診断された時や夫婦が子どもを失った時は、友人や家族の中には、何か役に立ったりサポートしたりできないかと立ち上がってくれる人もいる。遠ざかってしまう人もいる。逆境は、本当の友人を都合の良い友人の中から選別するだけではない。そのことによって関係が強まり、互いに心を開くことになる。近親者の死による影響の研究では、残された者は人生において今までよりも他者に対して大きな感謝の心を持つようになり、我慢強くなることが分かった。この変化が3つ目の一般的な恩恵へとつながる。トラウマは優先事項や哲学を現在、そして他者へと変化させる。権力や金を有する人が、死に直面して道徳感情に変化が起こったという話は誰でも聞いたことがあるだろう。
 逆説仮説には、弱いバージョンと強いバージョンがある。弱いバージョンでは、逆境は上記に説明してきたトラウマ後成長の3つのメカニズムによって、成長や強み、喜び、自己改革を導いてくれる可能性がある。弱いバージョンの仮説は研究によって十分指示されているが、どのように人生を送るべきかということに対するはっきりとした含意はほとんど示されていない。強いバージョンの仮説はもっと困惑するものである。それは人が成長するためには逆境に耐えることが必要であり、最も高い水準での成長や発達は、大きな逆境に直面し、克服したものにのみ開かれているというものである。もし、強いバージョンの仮説が当てはまるとすると、私たちがどのように生き、社会をどのように構成すべきかに対して重大な含意を持っている。私たちは、より多くの危険を冒し、より多くの失敗を経験すべきであることを意味する。私たちは、子供に対して危険なほど過保護であり、音質の人生を提供し、あれこれ助言しすぎている一方で、彼らが強く成長し、深い友情を育むために必要な「決定的な出来事」に出会う機会を奪っていることになる。
 しなし、その強いバージョンの仮説はだとうなのだろうか?人はよく、逆境によって心底変わったというが、暇のところ、そのような報告以上の逆境による性格変化の証拠はほとんどない。しかしながら、これらの研究はまちがったところに変化を見出そうとしてきたのかもしれない。心理学者はよく「ビッグファイブ」(神経症傾向、外向性、新しい経験への開放性、協調性、誠実性)のような、基本的な特性を測定することで性格を測定しようとする。これらの特性は、象についてのもの、つまり、さまざまな状況に対するその人の自動的な反応についてのものである。これらは、別々に育てられた一卵性双生児のあいだでもかなり類似していることから、生活状況や親になるなどといった役割の変化の影響を受けるものの、部分的には遺伝子が影響していることを示唆している。しかし、心理学者のダン・マクアダムスは正確には3つの層があり、これまでは基本的なと曲である最下層のみを重視しすぎてきたと指摘している。二層目の性格である「性格的適応」は人が特定の役割や分野で成功するために発達させるものであり、個人的な目標、防衛や対処のメカニズム、価値、信念、ライフステージでの関心などを含んでいる。これらの適応は、基本的な特性の影響を受ける。この中間層において、人の基本的特性は、環境やライフステージといった事実と絡み合う。薄遇者の喪失などによってそれらの事実が変化すると性格的適応も変化する。第三層目は性格はライフストーリーである。象使いによって書かれるが本当の原因がわからずに脚色や解釈によってつなぎ合わされた歴史小説のようなものである。
 この3つの層の観点でみると、なぜ最適な人間発達には逆境が必要かということが明確になる。人間は幸福でなく成功を追い求めるように進化の過程で形成されてきたため、ゼロサム競争の中で名声を勝ち取ることに役立つよな目標を必死で追い求めてしまう。このような競争での成功で気分は良くなるだろうが、恒久的な快楽は得られず、将来に対するハードルを上げてしまう。しかし、悲劇にぶち当たるとトレッドミルから振り落とされ、決断を迫られる。いつもどおりの仕事へと戻るか、なにか別のことに挑戦するか。悲劇の後は他のことに対して自由に考えられる期間がある。もしあなたが家族や宗教、ひとだすけなどのその他の目標へと向かっていくことになれば、非誇示的消費へと推移することとなり、そこからもたらされる快は、適応効果によって完全にしはいされない。それゆえに、これらの目標の追求はさらなる幸福をもたらすが、富を減らすことになる。数多くの人が、逆境の目覚めによって目標を変える。仕事を減らし、もっと遊ぼうと決意する。走るのをやめ、あちこちに分岐している道に気づき、自分が本当に行きたい場所について考えさせてくれるという意味で、逆境は成長にとっておそらくは必要なのである。
 三層目の性格において、逆境の必要性はさらに明白である。良い物語をかくためには、面白い素材が必要である。変遷なくして良いライフストーリーはありえない。トラウマはしばしば信念体系を粉々にして、人を意味の感覚を剥ぎ取ってしまう。そのかけらを下に修復しなければならず、その時に、神やその他の崇高な目的を統一原理として用いることがよくある。人が逆境を乗り越えて成長したと報告する時、自分の内部の新たな統一の感覚について説明しようとすることがある。この統一感は、友人たちにはわからないかもしれないが、内部から湧き上がる成長や強さ、成熟、知恵のように感じられるのである。
 危機にぶち当たった時、人は主に3つの方法で対処する。能動的対処、再評価(思考を正したり、希望の兆しを死がしたり)、回避的対処(出来事の否定、飲酒や麻薬、その他で気を紛らわしたりする)である。楽観主義者は努力が実を結ぶと期待しているので、すぐに問題を対処しようとする。もしそれに失敗しても可能な限りなにか利点を見つけようとする。そのような利点を見つけ出すと、彼らは絶え間ない克服と成長の物語としてのライフストーリー(マクアダムスの第三層目)に、新たな章を書き加える。対照的に、ネガティブな感情スタイルの人にとって世界はより驚異に満ちたものであり、それらを対処することにあまり自信が持てない。彼らは回避やその他の防衛メカニズムにより大きく依存した対処スタイルを発達させてゆく。問題を解決することよりも苦痛に対処することに注力するために、問題をしばしば悪化させてしまう。世界は不公平で制御不能であり、物事はしょっちゅう最悪の事態に陥るという教訓を導き出して、その教訓を自分のライフストーリーに織り込み、物語全体を汚してしまう。悲観主義者は暗い気分になってしまうが、成長するための鍵は楽観主義そのものにあるのではなく、楽観主義者がたやすく見出す意味付けにある。ジミー・ペネカーは人々にトラウマを開示してもらうことよって健康的な利点を作り出す実験をした。連続4日間15分ずつ書き続けるようにした結果、1年間の間に医者や病院にかかった回数が少なかった。これは「怒りを開放する」というようなことではなく、より深く言葉を使って再評価し、意味のある物語を作り出すことに寄与した結果だった。つまり、悲観主義者の場合には、象をやさしく正しい方向へと導くために、余分にいくつかのステップ、いくぶん意識的な象使い主導のステップをふまなければならないが、誰でも逆境から恩恵を受けることができる。
 もし逆境仮説が本当で、その恩恵のメカニズムに意味付けとこれら三層の性格の一貫性が関与しているのだとすれば、人生において逆境がより恩恵となる時期とならない時期があるはずだ。子どもの発達で最も影響力のある環境要因の一つは脅威と安全の総合的な水準である。楽観主義や接近的な動機が総じて報われる安全な世界に住んでいる西洋の国々では、遺伝的で可能な中でもっともポジティブな感情スタイルを発達させるのが望ましい。大きな逆境は、ほとんど子供に対して良い影響はないだろう。十代になると話は変わってくる。自分の過去、現在、未来を首尾一貫した物語へとまとめ上げようと積極的に長期的に努力し始めるのは、十代の半ばから後半になってからである。30際を超えた人が、人生の中で最も重要で鮮明な出来事を思い出すように求められると、15際から25際のあいだに起こった出来事に偏って思い出す傾向がある。これは人生が開花する年齢である。初恋、大学と知的成長、自立した生活とおそらくは一人旅。そして、若者が人生を決定づけるような数多くの選択をする時期である。この時期はその後のライフストーリーに多大な影響を及ぼす時期である。
 様々な世代の人にトラウマを起こさせるという実験は倫理的に行うことができないが、人生はこれらの事件を行っている。大恐慌、第二次世界大戦といった20世紀の大きな出来事はさまざまな世代の人を直撃した。エルダーは、なぜある人は成長し、ある人は崩壊しているのかの多くは家族やその人の社会的統合の程度に依存していることを見出した。成人と同様に、危機にさらされた子供は、強い社会的なグループやネットワークに組み込まれている場合はうまく切り抜けていた。社会的なネットワークは苦痛を軽減してくれるだけでなく、意味や目的地を見つける手段を提供していた。しかし逆境にはタイムリミットがある。エルダーは二十代後半までに人生は結晶化し始めると述べており、30歳を超えてから初めて本当の人生の試練に直面した人は回復力が弱く、経験から成長しにくい。エルダーの研究結果は、行為は相互作用の中にあるということをよく思い起こさせてくれる。ある人の独特の性格が、出来事やその社会的な状況の詳細と相互作用することで、特殊でしばしば予想しがたい結果を生み出す。多くの人にとって、特に二十代に逆境を乗り越えた人たちにとっては、逆境はそれがなかった場合よりも、彼らをより強く、場合にやってはより幸せにしてくれたのだ。
 子供を持ったら、他の親たちと同じく、彼らの額にかかれた運命を書き換え、すべての逆境を消してしまいたくなるだろう。たとえ、24歳の時に経験したトラウマが娘に重大な教訓をあた、そのことによってより良い人間になるとわかっていたとしても、こう考えるに違いない。なぜ、私が彼女に直接そのような教訓を教えられないのか?世界中の賢人の共通見解は、人生における最も重要な教訓は、直接教わることができないというものである。最近の研究では知識は主に二つの形式でもたらされる。明示的なものと暗示的なものである。明示的知識とは、あなたが知っていて、意識的に報告できる事実のすべてであり、文脈からは独立している。しかし知恵研究の第一人者であるロバートスタンバーグによると、知恵は暗黙知に基づいていて、手続的なものであり、他社の直接的な援助なしに身につくもので、その人が価値を置いている目標に関係し、象に備わっているものである。人生経験の中で徐々に身につけていく技能である。それは状況に依存する。恋愛関係を終わらせり、友人を慰めたり、する上で、普遍的で最善の方法など存在しない。スタンバーグは二つの物事のバランスをとるための暗黙知であると言う。賢明な人は、自身の欲求、他者の欲求、そして直接的な相互作用のない人々の欲求や物事の間でバランスをとることができる。無知な人は全ての物事を白か黒かで見たがり、自己利益に強く影響される。賢明な人は他者の視点から物事を見ることができる。
 親にできる最善のことは、子供が人生のさまざまな領域において暗黙知を獲得して行くのを助けるようなさまざまな人生経験を提供してやることである。親はまた自分自身の人生の中で知恵の手本となり、子供が状況について考え、異なる観点で眺め、困難な局面でバランスをとれるよう、優しく励ましてやることもできる。子供が十代や二十代になっても保護して続けていたら、苦痛だけでなく知恵や成長も締め出してしまうだろう。苦難は、自己と他者とのバランスを見つけ出すのにやくだち、多くの場合、人をさらに思いやりがある人にする。
 強いバージョンの逆境仮説はおそらく真実であるが、それは注意書きを加えた時のみである。逆境が最大限に恩恵的であるためには、適切な時間(青年期)に、適切な人(恩恵を引き出せる人)に、適切な程度で生じなければならない。子供の額に書かれた運命については、幼い頃のトラウマは消してやるべきであるが、残りは消す前に将来の研究を待つべきである。

第8章〜徳の至福

 賢者や年長者が若者に徳を勧めるときは「あなたを幸せに、健康に、豊かに、そして賢明にする秘薬があります。それは高潔であることです」と説く。若者は自分たちの目標に突き進む手段を見つけ出し、面倒を起こし、それがしばしば人格を形成する冒険となる。若き仏陀も父親の宮殿を後にし、森の中で精神性の探求を始めた。ベンジャミン・フランクリンも徳の効能を訴えるが、快楽を嫌悪するような徳ではなく、古代ギリシアに発するもっと広義の徳であった。アリストテレスは貧者に与え、性欲を抑圧することによって幸福がもたらされるなど言いはしなかった。彼は、良い人生というのは、人が自分の長所を伸ばし、可能性を実現し、生来あるべき姿になることができる人生だといっている。多彩なフランクリンは様々な事業に着手して実現・成功させた。二十代の後半、若い印刷業を営む実業家であった時代に、彼は「道徳的完成に到達しようという不敵な、しかも困難な計画」と自らが呼ぶものに着手した。高めたいという徳を幾つか挙げ、それに従って生活するよう試みるが、すぐに象使いの限界に気づいた。そして象使いが成功する唯一の方法は象を訓練する以外にないと気付き訓練計画を考え出した。そして晩年に徳のおかげで幸福にしてこられたとつづる。筆者は「徳を磨くことはあなたをより幸福にする」という考えを徳仮説と呼ぶ。
 子どもの道徳的発達に関心を持ち、数ページ以上の書物を残している文化では道徳への考え方を示す記述を見出すことができる。大まかなアウトラインには類似点があり、誠実さ、公正さ、勇気、博愛心、自制、権威の尊重などのは大半の文化で重視されている。道徳を説く最古の作品「アメンエムオペトの教訓」はエジプトの文書だが、幸福の案内書であるとしてさまざまな実践的な内容になっている。これらの古代の文章は共通して、証明や論理よりも格言や模範を多用している。格言は洞察と産道を生み出すように表現されていて、模範は人望と畏敬の念が引き出されるような人が語られる。孔子や仏陀の知恵は時代を超越した印象深い格言の宝庫として受け継がれ、今日でも楽しみや助言のために読まれている。多くの古代文書は知識よりも実践や習慣を強調している。仏陀は弟子たちに、実践することで倫理的なそして精神的に鍛錬されたひととなるための「八正道」を説いた。古代の人達は皆、徳はよく訓練された象に宿るものであることを知っていた。道徳教育は、暗黙知を感得させるものでなければならない。社会的近くや情動の技能がうまく調整されれば、人は自動的に状況に応じて何が正しいかを感じ、何をすべきかを知り、そうする。古代人にとって、道徳とはある種の実践的な知恵であった。
い 道徳に対する西洋の手引も素晴らしいスタートをきった。他の古代文化と同様、徳に焦点を当てていた。「旧約聖書」「新約聖書」、ホメロス、イソップなど、どれを読んでも私たちの基礎としている文化は、ことわざや格言、寓話、徳を例示し教える模範を多用していたことがわかる。ギリシア哲学の二大作品であるプラトンの「国家」とアリストテレスの「ニコマコス倫理学」は、基本的には徳とその育成に関する専門書である。快楽が人生の目標であると考えていたエピクロス主義者ですら、快楽をはぐくむためには徳が必要であると信じていた。しかし、ギリシア哲学における初期の勝利の陰には、後の誤りの種が含まれていた。第一に、道徳的探求をもたらしたギリシアの精神は、科学的探求のきっかけとなった。その目的は、世界の莫大な数の出来事を説明することのできる最小限の法則の集合を探し求めることである。科学は倹約を重要視するが、長いリストを持っている徳の理論は、まったく倹約的でない。他のすべてをそこから導くことのできる一つの徳、原理、規則があれば、科学的精神をどれほどか満足させるだろう。第二に、広く行きわたった哲学の理性崇拝によって、多くの哲学者が徳の基礎を習慣や感情に置くことを不愉快に思うようになった。倹約の原理の探求と理性に対する崇拝というこれら2つの種は、ローマ帝国の陥落後、何世紀ものあいだ眠っていたが、18世紀におけるヨーロッパの啓蒙主義の中で目を出し、開花した。技術と商業の発展によって新たな世界が作り出され始め、社会的・政治的計画を合理的に正しいものにしようと模索する人たちが現れた。17世紀に著書を書いたフランスの哲学者ルネ・デカルトは、倫理システムが神の慈悲のもとにあることに十分満足していたが、啓蒙主義者たちは、神の啓示や執行によらない倫理の基礎を模索した。
 その倫理の基礎を提唱したと言えるのはドイツの哲学者イマヌエル・カントである。彼はプラトンと同様にカントも、人間は、動物的な部分と合理的な部分という2つの性質を持っていると考えていた。動物的な部分は自然界の法則にしたがうが、合理的な部分はある種の異なる法則に従いうる。行為の規則を尊重することができるため、人はどの程度正しいルールを尊重したかに対する道徳的な判断を受ける。この道徳的規則が法則であるためには対象や条件によらず普遍的に適用できるものでなくてはならないと彼は推論した。そして「定言命法」と呼ぶ単純だが強力なテストを提唱し、倫理を応用論理学の一部にすることを提案した。その十年後にイギリスの哲学者であるジェレミー・ベンサムも典型的な啓蒙主義の勇敢さをもって、明白な目標について言明し、その目標を達成するための最も合理的手段を提案することによって、法律と立法システム全体を新たに構想した。すべての立法における最終的な目標は人の役に立つことである、と彼は結論付けた。ベンサムは功利主義の父であり、その信条はすべての意思決定において、その目標は、全体としての利益の最大化であるべきというものであるが、その利益を誰が得るかについてはほとんど関心を払わない。以来、カントとベンサムの間の議論はずっと続いている。
 しかしながら、多くの違いにもかかわらず、この2つの陣営は重要な点については同意している。両者とも倹約の原理を信じている。意思決定は、究極的には定言命法か効用の最大化というたった一つの原理に基づいてなされるべきである。両者とも、道徳的な意思決定には論理的思考や、時には数字的な計算さえもが必要であるため、象使いだけがそのような意思決定をすることができると主張する。どちらも洞察や直感に不信感を抱いており、良い推論の妨げになると考えていた。どちらも抽象を好み、個別性を回避する。そこに関与した人たちやその人達の信念、文化的な風習についての豊富で詳細な記述の必要はない。これら2つの哲学的なアプローチは陽や政治の論理の実践に対して多大な貢献をした。人々の利益に対して効率的に機能しながらも(ベンサム)、個人の権利を尊重する社会を作り出す(カント)のに役立った。しかし、これらの考え方が、西洋文化においてさらに一般的に浸透したため、いくつかの意図せざる結果をもたらした。哲学者のエドモンド・ピンコフスは帰結主義者と義務論者はあいまって、道徳性とは道徳の板挟みやジレンマについての研究であると、20世紀の西洋人に信じ込ませたと論じた。ギリシア人が人の自覚に焦点を当て、どのような人になることを目指すべきかを問いかけたのに対して、現代の論理は行為に焦点を当て、ある特定の行為がどんな時に正しく、どんな時に間違っているかを問いかける。5人を救うために一人を殺すのはただしいか?堕胎した胎児を幹細胞の資源として用いることはゆるされるか?この人格の倫理から板挟みの倫理への転換により、道徳教育は、徳から離れて、道徳的推論へと変わってしまった。もし、道徳性がジレンマに関わるとすれば、道徳教育とは問題解決の訓練である。1970年代と1980年代にアメリカ合衆国では民族的多様化が進み、教育の権威主義的な方法にさらなる逆風が服用になると、特定の道徳的な事実や価値観を教えるという考え方は流行遅れとなった。そのかわりに、両親や教師は合理主義者の遺産である板挟みの倫理を指示するようになった。
 筆者はこの人格から板挟みの論理への変更は深刻な誤りであると考えている。まず、それは道徳性を弱体化させ、その範囲を限定してしまう。古代の人は徳や人格は人の行動のすべての面で作用していると考えていたが、現代の概念では、道徳性とは、各人が週に数回程度しか出会わない、自己利益と他者の利益とが矛盾するような状況に限定されている。私たちの薄っぺらで制限された現代の概念では、道徳的な人とは、事前的な施しを与え、他者を助け、規則に従って行動し、全般的に自己利益を他人の利益よりも優先しすぎない人のことである。したがって、人生における大半の活動や意思決定は、道徳的な懸念から分離される。しなしながら、道徳性が自己利益の反対へと縮小される時、徳仮説は逆説的なものとなる。つまり現代の用語では、徳仮説は、自己利益に反して行動することは自己利益のうちだと述べている。これが真実であると説得するのは困難だし、おそらく、すべての状況において真実であることもありえないだろう。
 道徳的推論への転換に伴う2つ目の問題点は悪しき心理学に依存しているという点である。1970年代以降、多くの道徳教育は、象使いを象から下ろして、象使いだけで問題解決できるように訓練しようとしてきた。何時間もの事例研究や同等的なジレンマに関するクラス討論、ジレンマに直面して正しい選択をした人たちのビデオを見せられた後、子供たちはどのように考えるか学ぶ。授業が終わると、象使いは象の背中にまたがる。休憩時間になれば何も変わらない。上手に推論することを教えることによって子供たちに論理的に振る舞うようにしようとするのは、尻尾を振って犬を喜ばせようとするようなものである。因果関係が逆なのだ。
 1960年代の社会混乱と1970年代の経済停滞と犯罪の増加以降、アメリカでは進むべき道を見失ってしまったという嘆きが特に顕著となった。政治的保派、とりわけ宗教的に強い信念を持つ人達には、道徳教育にかんする「価値判断に基づかない」アプローチと、子供たちに考えるべき事実や価値を教えるのではなく、自分自身で考えるように「力をつけさせる」ことに憤慨した。1980年代、保守派の人たちは、学校で人格教育プログラムを強く推奨したり、自分の子供たちを在宅学習させたりすることによって、既存の教育に挑戦した。1980年代には幾人かの哲学者が徳の理論の復活に手を貸した。その中でも、アラスデア・マッキンタイアは「徳なき時代」において、普遍的で文脈自由な道徳を作り出そうとする「啓蒙計画」は最初から失敗する運命にあったと論じた。共通の価値観と豊かな伝統を持つ文化は必ず、人々が互いを重視し、評価するフレームワークを生み出す。人は、紀元前4世紀のアテネにおける僧や兵士、母親、商人の徳についてたやすく話すことができる。しかしながら、アイデンティティや背景をすべて剥ぎ取ってしまったら、つかみどころがなくなってしまう。特定の性別や年令、職業、文化を持たない、空中をふわふわと漂っているような一般化されたホモ・サピエンスの徳について、どれほどのことが言えるだろうか?倫理が特殊性を無視するという現代の要件は、私たちの道徳性を弱体化させた。
 近年では心理学までそれに加担してきた。1998年マーティン・セリグマンは心理学は道を見失ってしまっていると主張して、ポジティブ心理学を創設した。心理学は、病理や人の声質の暗い側面ばかりをきにかけて、人の良い側面や優れた側面はみないまま終始してきた。心理学者は、考えうるすべての精神疾患や問題行動を診断するためにDSMとしられる膨大なマニュアルを作成してきたが、人の健康や才能、可能性などの達成部分については、語る言語さえ持っていないとセリグマンは指摘した。セリグマンがポジティブ心理学の創設に乗り出した時、彼の第一の目標の一つは、強みや徳の診断マニュアルを作成することであった。最初のステップとして、ピーターソンとセリグマンは、主要な宗教の聖典からボーイスカウトの宣誓書すべてを調査した。彼らは、大きな徳の表を作成し、リストの中で共通しているものを見つけ出そうとした。すべてのリストに登場する特定の徳はなかったが、知恵、勇気、人間性、正義、節制、超越性(自己よりも大きな何かとつながりを形成する能力)という6つの大きな徳、ないしそれに関連している一群の徳が、ほとんどすべてのリストに登場していた。これらの徳が広く採用されていたのは、それらが抽象的であるためである。すなわち知恵、勇気や人間性を示すためには数多くの方法があり、これらの徳についていずれの形態をもすべて否定している文化を見つけることなど不可能である。しかし、この6つのリストの本当の価値は、さらに特化した人格の読みをつ組織化するフレームワークとして機能する点にある。どの徳にもいくつかの道がある。それぞれの道にどの程度、価値を置くかは、文化と同様に、ひとによって、それぞれ異なる。これが、この分類の本当の力である。いずれか一つの方法があらゆる時代のあらゆる人にとって不可欠であると主張することなく、広く重要視されている目標に向かって成長するための特定の手段を指し示している。この分類は、人の多様な強みを診断し、その長所を伸ばす方法を見つける手助けをしてくれる道具なのである。ピーターソンとセリグマンは24の主要な人格の強みがあり、それぞれが上位レベルの6つの徳のうちの一つに通じていると指摘した。24の項目ついては各自で異議があるかもしれないが、ピーターソンとセリグマンはあえて具体的にまちがうことで、独創性とリーダシップ、そして希望を示し、詳細に関しては科学や治療のコミュニティに任せた。この分類について筆者が気に入っているのは弱みでなく、強みに対して取り組もうという考え方である。自分の弱みや欠点にに対して対応するために強みを仕えることがよくあり、彼のクラスでも実践している。徳というと何かしらの努力しなければならないように聞こえるし、実際にそうであることが多い。しかし、徳とは人格のいくつかの強みを実践することによって達成される長所であり、これらの強みの実践は本来報酬的なものであると捉え直せば、その作業は突然、チクセントミハイの言うフローのように感じられ、苦労ではなくなる。
 徳はそれ自体が報酬となりうるが、それが明らかなのは、徳が報酬的であると分かる場合だけである。自己利益に反して他者の利益のために行動することは、自分の意に反している場合でも、自分にとって良いことなのだろうか?賢者や道徳論者の答えは時と場合によって一様でない。宗教的な賢者にとって、安易な方法とは来世における神の返報性を思い起こさせることである。神は悪徳には罰を与え、特には報酬を与えるであろう。キリスト教には天国と地獄がある。ヒンズー教徒には、カルマという非人格的な作用がある。
 筆者は神や天国、来世が存在するかどうかについて語る立場にないが、心理学者としては死後の正義の信念が2つの道徳的な思考の兆候を示しているとする。1つ目は内在的な正義であり、規則を破ったら自分に何か悪いことが起こると考えることである。成人も病気の原因に対する文化間比較の調査では、生物医学的な説明の他に過去の過ちの中に答えを探し出そうとする場合がある。2つ目の問題は純粋悪の神話に依存していることである。道徳的動機は、テロリズムや戦争を含む、大半の暴力行為に関与している。大半の人は、自分の好意が道徳的に正当化されると信じている。
 この疑問に対する科学的なアプローチも安易で不十分な回答から始まる。徳は、ある状況下において、あなたの遺伝子に役立つ。「適者生存」が「適した遺伝子の生存」を意味する場合、適者の遺伝子が以下の2つのシナリオで親切で協力的な行動を取るように動機づけられるのであろうということを理解するのはたやすい。その遺伝子のコピーを生むものに利益をもたらす場合か、しっぺ返し戦略を用いて非ゼロサム・ゲームで余剰を手に入れるのに役立つことによって直接的に遺伝子の算出者に利益をもたらす場合のいずれかである。これら血縁性利他主義と互恵的利他主義という2つの過程は、実際に、人類以外の生物におけるほぼすべての利他的行為と、人類の利他的行為の大部分を説明できる。しかしながら、この回答は不十分である。なぜならば、遺伝子とはある程度まで、遺伝子のためには役立つが、私たち自信のためにはならないようなことをしたくなるように動機づける人形遣いだからである。
 キリストが「受けるよりは与えるほうが、さいわいである」と述べたと聖パウロが引用している。他者を助けることは本当に助けるものに幸福や繁栄をもたらすのであろうか?ボランティアに携わる人は、携わらない人よりも幸福で健康である。しかし、いつものように、逆相関の問題を検討しなければならない。研究では幸福の人はより親切で人を助けようとする結果がでている。私たちが見出さなければならないのは利他的行為が直接に幸福や他の長期的な恩恵をもたらすという逆向きの影響である。心理学者のジェーン・ビリアビンは県k都度なーを詳しく調査して、献血は実際に人の気分をよくし、自身を与えることが分かった。ビリアビンは、あらゆる種類のボランティア活動に関する膨大な文献をレビューして、人助けは自己を助けるが、それは複雑な形でその人のライフステージに依っているという結論に達した。高校生では幸福につながっていなかったが、成人については幸福との因果関係がしめされた。また老人は成人よりも更に効果があり、特にボランティアが人対人による直接的な助けに関連していたり、宗教団体を通じて行われたりする場合には顕著であった。老人にとって、ボランティア活動の利点はとても大きく、健康状態の改善や寿命の増加さえ示されている。ボランティア活動における2つの大きな利点が、人を結びつけることと、マクアダムス流のライフストーリーを構築する手助けとなることであることを示唆している。
 科学的な研究は、利他主義があなたのためになるという主張へと弱められたとしてもなお、徳仮説を指示している。徳についての主張をより広義に捉え、ベンジャミン・フランクリンが意味していたように評価してみると、それはかなり真実であるように思えるので、文化的な保守派による現代生活やその限定的で寛大な道徳性に対する批判は正しいのではないかという疑問が生じる。筆者は実際、大切な何かを失ってしまったと思っている。それは広く共有される徳や価値観を持つ、豊かな手触りの共通精神である。1930年代や1940年代の映画を見るだけで、人々が道徳という糸で織られた濃密な綱の周りを動いているのが見て取れるだろう。登場人物は名誉や批判、適切に見えるかどうかに関心を払っている。子供たちはしばしば両親以外の大人たちによって躾けられている。善人は常に勝利し、悪事はけっして報われない。現代の私たちにとっては堅苦しく、縛り付けるものに聞こえるかもしれないが、そこがポイントである。ある程度の抑制は私たちにとって良いものであり、絶対的な自由はそうではない。社会的な結びつきから自由になることが自殺と相関していることを発見した社会学者のデュルケームは「アノミー」ということばも低減している。アノミーとは明白な規則や規範、価値基準がない社会状態のことである。何でも好きなことができるとすれば、人はしたいことを見つけることが困難となる。拠り所のない感覚や不安を生み出し、非道徳的で反社会的な行動の増加を導くのである。現代の社会学の研究もデュルケームを強く指示している。アメリカの地域の健全性を最もうまく予測するものの一つは、他人の子どもの悪い行いに対して、大人がどの程度反応するかである。
 ジェームス・ハンターはデュルケームの考えを最近話題の人格教育に取り入れた。著書「人格の死」の中でアメリカの徳や人格についての考え方の変遷を描き、豊かさによる個人主義と、多様化による道徳教育の変化がこれの変化を生んだとしている。著者はハンターの分析は正しいと考えているが、それでも、現代の制限された道徳によって全体として悪くなってしまったという点については、まだ納得していない。古い映画やテレビ番組を見て1960年代にさかのぼるだけでも、女性やアフリカ系アメリカ人の生活があまりにも制限されていることに、しばしば苦痛を覚える。私たちは、包括性に対する代価を払ったが、人種的少数派や女性、同性愛者、障害者、その他のひとたち、つまりほとんどの人がより多くの機会を得ることのできる、より人道的な社会を手に入れた。その代償が高かったとしても後戻りすることはできない。私たちは多数の階級の人達を排除することなく、アノミーを軽減する方法を探すことしかできない。
 多様性という言葉は1978年の最高裁判決以降のことである。それ以降、多様性は正義や自由、幸福などと同様に、疑いの余地なく良いものとみなされるようになった。筆者は道徳性に関する研究の中で、そのことに疑問を抱いた。些細な違いに基づいて、いかに人々はたやすく敵対する集団へと分かれるかということを考えると、共通性の賛美が凝集性の高い集団やコミュニティの形成に役立つ一方で、多様性の称賛は分裂を促進するのではないか。多様性とは人口統計的なものと道徳的なものという二種類があることに気づく。人口統計的な多様性とは、人種、民族、性別、性的志向、年齢、障害状態などという社会人口統計上のカテゴリーに関するものである。人口統計的な多様性を求めるということは概ね、以前には排除されていたグループを包括することであり、正義を求めるということである。他方で、道徳的多様性とは、本質的には、道徳的な規範や価値観の合意が欠けている状態、すなわちデュルケームがアノミーと叙述したものである。道徳的な多様性を好む人などいない。あなたが堕胎の問題について賛成だとして、あなたは幅広い数多くの意見があり、しかもしのどれもが有力でないという状態を好むだろうか?それとも、皆があなたと同意見であり、その土地の法律に反映される方を好むだろうか?筆者の研究で人口統計上のカテゴリーにおいて多様性を増大させることについては、学生の間で強く指示されていることを見出した。政治的保守派という学生にすら指示される。一方で、道徳的多様性については大半の状況において指示されなかった。多様性とはコレステロールのようなものであり、善玉と悪玉があり、おそらく両方を最大化しようとすべきではない。
 保守派とリベラル派では対立が続いている。現在の文化戦争の対立の中では、誰も相手側の考えの中に価値を見出すことはできないのかもしれない。それとも私たちは、ベンジャミン・フランクリンという偉大な道徳模範のほ教えに立ち戻ることができるだろうか。自己利益の追求のために互いに激しく戦う人々や団体によって動かされてきた歴史を反省して、フランクリンは「徳のための統一党」を創設することを提案した。多くの子供達の多くの生活エリアにまたがる道徳的一貫性を作り出すことに同意して、町の人々が一体となるような運動からもたらされなければならないだろう。そのような運動が現在起こっている。発達心理学者のウィリアム・デイモンが「青少年憲章」運動と呼んでいるものだ。それは、コミュニティで共有されている理解や義務、価値観を述べた憲章に賛同した子育てに関わるすべての人々ー両親、教師、コーチ、宗教指導者、そして子供たち自信ーが協力し合うもので、すべての環境においておなじ高い基準の行動を指示し、期待している。

第9章〜神の許の神聖性、あるいは神無き神聖性

 エドウィン・アボットが1884年に帰った「フラットランド」は、二次元世界の四角形が三次元世界の説明を聞いても理解できず、そこにいって一瞬ですべてを理解し畏敬の念を抱く物語だ。すべての人類の文化において、社会世界は2つの明白な次元を持っている。親密さや好き嫌いと言った水平次元と、社会階層や地位と言った垂直の次元である。多くの言語では、親密さを区別するのと同じ言語的手法を用いて、社会階層を区別する。さてここで、二次元の社会、親密さのX軸と階層のY軸からなるフラットランドを幸せに動き回っている自分自身を想像してみよう。そしてある日、並外れた何かを行う人に出会うか、圧倒されるような自然美を体験し、あなたは「高められた」ように感じる。しかしそれは階層が「高まった」のではなく、何ほかの種類の上昇である。この章では、その垂直的な動きについて述べる。この章は信仰心が篤い人々は理解しているが、非宗教的な思想家はほとんど理解していない古代の心理について述べている。孟子やムハンマドは神聖性を見失ってしまったら人類はダメになってしまうだろうとしている。しかし、その対極で3次元社会を作り出し、それをすべての住人に共用しようとするのは、宗教的な原理主義の顕著な特徴である。
 道徳性について研究し始めたとき、筆者は数多くの文化の道徳律を読んだ。最初に学んだことは、ほとんどの文化が食べ物や性、月経、死体処理について非常に留意していることだった。それまで、道徳性とはいかに人が互いを扱うかに関わると思っていたので、「純潔」や「汚れ」についてのこれらの事柄は、現実の道徳性とは無関係のものとして片付けてしまっていた。しかし、資料を読み勧めていくうちに、その背後にある論理に気づいた。嫌悪の論理である。1980年代のポール・ロジンによる嫌悪に関する先駆的な理論によると、嫌悪は大部分が動物や動物の体の生成物に関与しており、嫌悪される物事は接触によって感染する。それゆえに嫌悪は、動物の生成物や、洗浄や、接触への懸念と何らかの関連があるように見える。
 嫌悪には、人々が何を食べるかを決定する際に役に立つという進化的な起源がある。私たちの先祖の脳が進化的な変遷の中で拡大する間に、道具や武器の製造が変化し、したがって肉の消費にも変化が生じた。しかし古代人が、他の肉食動物の食べ残しの死肉をあさるなどして肉を口にするようになると、新たな細菌や寄生生物の世界にさらされることとなった。それらの多くは植物性毒素とは違って接触感染する。嫌悪はもともと、口の守護者として自然淘汰によって形成されたものであった。食べることが可能かもしれないものに対して感覚的特徴を超えて判断できることや、それがどこからやってきて何に触れたのかについて考えることは、その個人を有利なものとする。日常的に、死体や排泄物、ゴミ山をあさったり這い回ったりする動物は嫌悪を引き起こす。私たちはそれらを食べないし、それらが触れたものはすべて汚れていることになる。私たちはまた、他人の肉体の生成物、特に人々の間に病気を伝染させる可能性のある排泄物、粘液、血液を嫌悪する。嫌悪は欲望を消滅させ、洗浄や、手遅れの場合には嘔吐としった洗浄行動を促す。
 しかし嫌悪を口だけを守っているのではない。それは誘導体として働くことで、生物的、文化的に進化していく間に拡大し、いまやもっと広く体を守っていく。嫌悪は、人が文化的に許容できる性的パートナーや性行為を狭い範囲へと限定することで、性機能においても食物選択におけるのとよく似た役割を果たしている。繰り返しになるが、嫌悪は欲望を消し、清浄、分離、清掃に関心を持つように仕向ける。嫌悪はまた、皮膚病、奇形、四肢切断、極度の肥満や痩せ、その他の人類の体形において文化的に理想とされる外見と異なる人にあった時、私たちを不安な気分にさせる。問題となるのは、外見である。顔にできた腫瘍や指の欠損に嫌悪を感じるのに対し、肺がんや肝臓の欠損に嫌悪は感じない。
 口の守護から体の守護へというこの拡大は、純粋に生物学的な観点で納得できるものだ。私たち人類は常に、他のほとんどの霊長類よりも大きく密集した集団で生活し、樹上ではなく地上で生活してきた。そのため、肉体的な接触によって広がる最近や寄生生物の被害にさらされることが多かった。嫌悪のお陰で接触にもっと注意深くなる。しかし、最も興味をそそられるのは、文化がそれ自身を定義するさいに用いる、非常に多くの規範や儀式や信念をサポートするために嫌悪が使われているという点である。たとえば、多くの文化は、人類と動物のあいだにははっきりと線を引き、人は他の動物よりも何かしら上で、より良く、より神に近いと主張する。
 しかし、人類は動物でないとか、身体は神殿であるという文化は、大きな問題に直面する。私たちの肉体は、食べること、排泄すること、性交すること、血を流すこと、死ぬことなど、すべて動物と同じ行為をする。私たちが動物であるということを示す圧倒的な証拠があり、私たちの動物性を否定する文化は、その証拠を隠すために多大な苦労をしなければならない。人を中心として下位の動物から上位の神へと通る、神聖性という第三の次元の考え方は、自身の動物性を卑しいと思わせ、清潔を神性に近いとする。
 文化心理学の分野で著名な思想家であるシカゴ大学の心理人類学者、リチャード・シェウェダーと共に働いた。シェウェダーの道徳性に関する研究は、人が道徳性について考える時、その道徳概念はみっつのグループに類型できることを示している。シェウェダーは、それらを自律性の論理、コミュニティの論理、神聖性の論理と名付けた。自律性の論理を用いて考え、行動するときの目標は、害悪から個人を保護し、最大限の自律性をかなえることであり、自分個人の目標を追求するためにそれが用いられる。コミュニティの論理を用いる時の目標は、集団、家族、仲間、国家などの保全を確保することであり、服従や忠誠、賢いリーダーシップのような徳が重視される。神聖性の論理を用いる時の目標は、それぞれの個人に依存する神聖性が劣化しないように保護することであり、強欲や貪欲、憎悪といった道徳的なけがれのない、純潔な尊い生き方が重要視される。大まかには先のX軸Y軸Z軸に対応している。
 筆者がマヌ法典を読んだときにロジンとマッカーレイと筆者が研究した嫌悪に関するすべてのカテゴリが僧侶が聖なるベーダを朗読することを考えることすらいけない時間のリストに入っていることに驚嘆した。神聖性と嫌悪は常に分離されていなければならないことを示している。筆者はヒンズー教の神聖性の研究のために3ヶ月ブバネスワルを訪れた。ブバネスワルに到着するとすぐに、神聖性の論理は単なる古代の歴史ではないことに気づいた。外国人は神聖性の高いエリアにはいることは許されなかった。また頭や右手は純潔であるが、左手と足は汚れているとされた。僧侶らへのインタビューを通じて、純潔と汚れは、本当に神性性を生物学的な必要性から切り離すためだけに存在しているのか、それともこれらの習慣が徳や道徳性とより深い関係性をもっているかを見出すことが筆者の目標であった。それには様々な意見があった。教育水準があまり高くない、ある村の僧侶は、純潔と汚れに関連する儀式をゲームの基本ルールのように考えていた。しかし多くの人はより幅広い見方を持っており、純潔と汚れに関する習慣を、魂や道徳の進歩や第三次元上で上昇するなどの最終目的に至る手段とみなしていた。純潔は魂に関係し、もし自身の中に神性性があるとかんがえるなら、あなたはそれにふさわしく振る舞うと語った。
 アメリカでは純潔や汚れについて何も考える必要はなかった。第二の次元である階級についてもさほど考える必要はなかった。つまり生活は親密さという一次元に縮減されて、誰かを木津つけない限りは何をしても許されるという、自律性の論理だけに制約される。しかし、いったん三次元で物事をみることを学ぶと、靴を履いたまま、自分の家やベッドルームにまでズカズカと入って歩き回るアメリカの風習に嫌悪感をもつようになった。学術研究に携わる中で、第一次世界大戦の時代まではアメリカも神聖さの論理が公の議論の中心だったが、それ以降消え始めたということを発見した。「若者は何を知るべきか」というタイトルの本において、シルバヌス・ストールは、ある章全部を割いて「個人の純潔さ」について述べている。しかし、科学や技術、産業の時代が発展するにつれて、西洋世界は「非神聖化」されていったと偉大な宗教歴史学者であるミルチャ・エリアーデは論じている。また神聖性の知覚は人類の普遍的な特性であるとも述べている。すべての宗教には、それぞれ相違点があるにもかかわらず、超俗的で純潔な何かと接触し、コミュニケーションする場所(寺院、神社、神木)や時間(聖なる日、日の出、夏至や冬至)や活動(祈祷、特別な踊り)がある。聖と区別するために、それ以外の時間、場所、活動は属として定義される。聖俗の協会は注意深くまもらなければならず、それこそが純潔さと汚れのルールのすべてなのである。
 インドの滞在によって筆者は知的な覚醒へと導かれた。神聖さの垂直次元で「下降」する人を見たときにどのように社会的な嫌悪が引き起こされるかについて、もう一つ論文を書いた。その執筆中、突然、それまでいちども「上昇」する人を見た時の感情反応について真剣に考えたことがなかったことに気づいた。「高められた」感覚について言及はしたが、高められることが実在し、紛れもない本物の感情であるかどうかについては、疑問に思ったことさえなかった。筆者は友人や家族、学生に質問してみた。ほとんどの人は、このような感覚によって、善行をしたり何かの意味でもっと良い人間になりたくなるといった。ヴァージニア大学の創始者であるトーマス・ジェファーソンはその著書の中で感情の要素をあげている。誘発・起因条件、身体の生理的変化、同期、そして身体的な感覚を超えた独特の感覚である。それから7年間、筆者はこの「高揚」の感覚について研究してきた。研究ではジェファーソンが正しい事がわかった。人は本当に道徳的に美しい行為に対して感情的に反応していた。そして、これらの感情反応は胸の温かで心地よい感覚と、他者を助けたいという欲望やより良い人になりたいという欲望に関わっていた。その後の学生の研究では感謝や称賛の感覚に関係する迷走神経を疑った。迷走神経の活動を測定することは難しく、落ち着き、愛情、絆や愛着を促進するオキシトシンというホルモンの測定を試みた。それにより高揚がオキシトシンの分泌を示唆しており、オキシトシンは絆を引き起こし、人々を愛情や信頼、寛大さの感情で満たし、新たな関係性に対してより受容的になるのかもしれない。ある教会の信者は教会で涙を流すが二種類あるとし、一つは「慈悲の涙」もう一つは「祝福の涙」であるとした。それは世の中のなにか正しいことを受容するときに流れるものとした。世の中には良い人たちがいて、人には素晴らしさがあり、愛は実在するものであり、それは私たちに生来備わっているのだと感じるときに流れる。筆者は教会に行く理由の一つは高揚であることに気づく。人は教会で日常の俗な存在から抜け出して、キリストや、聖書の高潔な人物や、聖人や、そのコミュニティの規範となる他のメンバーについての物語の中から「高揚」感を得ることを同じように望んでいる人々からなるコミュミュニティと一体となる。人々は愛情にあふれていることに気づくが、それはアガペと呼ばれるもので、全人類への愛情のような感覚である。このような体験は神は各人の中に宿っているという直接的で主観的に説得力のある証明となる。神聖さと矛盾しない生き方がある。より高潔で、気高い自己へ導く生き方である。
 第三次元上の動きを起こすのは徳だけではない。自然の広大な美しさは、ただ、魂を揺り動かす。ばがする。、イマヌエル・カントは、純粋な畏敬の2つの原因が「天上の星空と内なる道徳法にある」と宣言して、道徳性と自然を明示的に結びつけた。自然の広大さと美しさの何かが、自己を矮小でとるにたらぬものと感じさせ、自己を萎縮させるものは何であれ、霊的体験の機会となる。人は時に分裂し多重の自己や知性を持っているように感じる。それは低俗な浮世の自己である肉体に縛り付けられた高貴で優雅な精神的な自己である魂を持つと仮定することで説明される。しかし、生前にも霊的な鍛錬や偉大な説教や、自然への畏敬によって、魂は自由の到来を味わうことができる。そのような前兆を得る道が他にもたくさんある。偉大な芸術を鑑賞したり、交響曲を聞いたり、宗教体験となる演説を聴いたりしたことに言及する。一時的にではあるけれど、本格的な脱出を与えてくれる。幻想誘発薬であるLSDやシロシビンはサイケデリック(精神を顕現する)やエンセオゲン(内から神を生成する)という用語を作った。このような変性精神状態を作り出す薬物は、世俗と隔絶する神聖な経験をもたらす上では明らかに有用であるため、いくつかの文化の宗教儀礼で役割を果たしている。薬物の効能はティモシーリアリーやその他の初期のサイケデリック探究者がセッティング理論と名付けた、使用者の精神的な窯跡薬物を接種する状況に依存している。いくつかの伝統的文化で通過儀礼としてなされるように人々が畏敬の念を持ち、安全ですべて支持的な上京において接種する時、これらの薬物は霊的、人格的な成長の触媒となりうる。神学の学位に取り組んでいた医師ウォルター・パンケは触媒仮説のテストでシロシビンを接種した群が、宇宙との一体感時間と空間の超越、喜びなどの感覚とともに、深い絶頂感や恐れや畏敬の念を感じたと報告した。著者とダッチャー・ケルトナーとの研究では人が何か広大なものに出会い、且つ、その人の現在の精神構造ではその広大な何かに順応できない時に畏敬の感情が生じると結論づけた。またバガヴァット・ギーターの劇的なクライマックスにもクリシュナがアルジュナに神や世界の真の姿を見ることがでから宇宙の目を与え、太陽、神、無我の時間を見て驚嘆に満たされる様子が描かれている。そして神の前にひざまずき、仕えさせてくられるように懇願する。これらは聖典の出来事であるが、ウィリアム・ジェームズは宗教的体験の諸相を分析し、薬物や自然に伴う、急速であったり段階的であったりする改宗や宗教体験の類似性を見出し、深い心理学的な真実を表していると考えた。ジェームズは欲望に引き裂かれた分裂した自己として人生を体験しているという。宗教体験は人に全体感をもたらし、安らかな気持ちにさせる。些細な心配事や疑いに満ちて執着心にとらわれていた古い自己が、深遠な畏敬の瞬間の中で洗い流されてしまう。それはより高い力に意思が降伏し、より深い真実の直接的な体験が許された瞬間である。
 エイブラハム・マズローは人間心理学の創設者であるが、至高体験として名付けられた自己超越の瞬間についての報告を収集し、特徴をまとめた。マズローの目標は精神生活には自然主義的な意味があり、試行体験が人類の心の基本事実であることを実証することであった。どの時代や文化でも、多くの人がこのような体験をしており、マズローは全ての宗教は、誰かの至高体験の洞察に基づいていると示唆した。そして現代の宗教は正当性を守ろうとする官僚や会社人間に受け継がれ、その起源と乖離してしまっていて、若者が組織宗教に幻滅していると分析する。さらに自然界に対して驚嘆の念をしめしていた科学者や哲学者も16世紀後半において驚嘆を見下し始め、良さや美しさよりも立証に力を注いでいることを批判した。マズローは人間学は相対主義の中に引きこもり、真実の可能性に懐疑的になり、美より新規性や偶像打破を好んで、責任を放棄したと避難した。そして、広範囲な価値に関する知識の欠乏を満たす、また人が私服で体験の中で垣間見るある種の真理を探求するために、人間性心理学を創設した。マズローは宗教が基づいている真理を科学の心理と結びつけたいと思っていた。
 社会心理学者であるマーク・ラーリーは著書の中で人ほど自身についての思考に時間を費やす動物はいないと指摘した。自己を作り出す能力が長期的な計画の立案や意思決定や自己制御などの数多くの有益なスキルや、他者の観点かや物事を眺める能力を授けたと示唆する。しかし、無意味な内的なお喋りを生み、ネガティブな予測や社会的な比較、評判への懸念などを持ってしまい、自己は個人的な悩みの種も与えてしまった。自己の問題の第一は問題の自己は些細な世俗的な心配などにより神聖さや神々しさに気づくことができない。第二に霊的変質とは本質的には自己の変質であり、自己を弱め、取り除き、ある意味では殺してしまうことである。第三に霊的な道に従うことは常に困難な作業であり、長年の瞑想や、祈祷や、自己制御や、時には自己否定を必要とする。自己は否定されることを好まない。多くの宗教において、快楽や名声に対する利己的な執着は、徳の道をはずさせる普遍的な誘惑であると解いている。自己は悪魔であり、少なくとも悪魔への入口なのだ。
 2つの選択肢がある。(1)自尊心はいかなる民主主義においても基礎となる。(2)それがすべてではない。1つ目は1970年のフィミニスト運動の創始者であるグロリア・スタイネムの引用である。2つ目はキリストへの信頼と聖書の啓示を通じて目的と人生の意味を見つけるための案内所としてベストセラーとなったリック・ウォレンの「人生を導く5つの目的、じぶんらしく生きるための40章」の冒頭である。アメリカの文化戦争における主な戦いの多くは、本質的に、人生のある側面を、自律性の倫理か神聖性の倫理か、そのどちらかによって構築すべきかについての争いである。リベラル派はたいてい、自分の意に反して参加を強制されないよう、公的生活から宗教を排除したがるが、宗教的保守派は学校や裁判所を再び神聖化することを望んでいる。保守派は、子どもたちが独自の三次元の世界に生きることを望んでおり、学校がその場を提供しないのであれば、代わりに家庭学習へと向かうこともある。相次ぐ問題に対して、リベラル派は限界や障害、制限を取り除くことで自律性を最大化しようとする。一方、宗教的右派は、三つの次元上で、個人と社会と政治の関係性を構築し、制約が聖と俗の分離を維持するような純潔と汚れの地勢を作り出そうとする。宗教的な右派にとって、この世の地獄とは無限に自由なフラットランドであり、そこでは自己は自身を表現し、発展すること以上の目的を持たずに彷徨っているのである。
 著者は神聖さによって人類の経験に付加される豊かさをわかり始めているが、過去数百年の西洋における人生のフラット化を完全に嘆いているわけではない。三次元社会の残念な傾向は、あるグループを三次元軸上で引きずり下ろし、そのグループを不当に扱ったり、それよりひどい仕打ちをしたりすることがあるからである。インドにおけるアンタッチャブルの状況や、純血主義に取り憑かれたナチス・ドイツにおけるユダヤ人の苦境、南部で人種差別されたアフリカ系アメリカ人の屈辱を考えてみよう。アメリカの宗教的右派は、今や似たような方法で同性愛者を辱めようとしている。リベラル主義と自律性の論理は、そのような不正に対する素晴らしいプロテクターなのである。多様な現代の民主主義政治において、神聖さの倫理が自律性の倫理より完全に優先されるのは危険なことだと思う。しかしながら、神聖さの倫理をまったく無視してしまった社会生活は、醜く、不満足なものになるだろうとも思っている。第三次元と神聖さの知覚が人類の本質の重要な一面であるとすれば、信仰心は人類の本質の正常で健康的な一面であり、性や言語と同様に深淵で、重要で、興味深い一面である、ということを科学コミュニティも受け入れるべきである。

第10章〜幸福は「あいだ」から訪れる

 筆者は高校卒業の時点で前途に楽観を感じられなかった。人生の不条理への実存主義者の瞑想について考えていて、無神論者であり、人生の意味についての問いに取り憑かれていた。一方でその時分、筆者の人生は完璧だった。素晴らしい恋人や友人や愛すべき両親がいた。陸上部のキャプテンで、父はオープンカーを乗り回していた。しかし、それのどこが重要なのだと考え続けていた。「みな空であって風を捉えるようである」と考えていた。漠然と自殺について一週間考えたあとに、その問題をひっくり返してついにその鬱状態から抜け出すことができた。神は存在せず、人生には外から与えられる意味はないと考えた。「明日自殺することなど大したことではない。それならば明日以降の全ては、なんの縛りも期待もない授かりものである」と。
 だが人生の意味における関心は続いたので、大学では哲学を専攻したのだが、答えは見つからなかった。現代の哲学者は言葉の意味を分析することを専門とし、実存主義者はさておき、人生の意味についてほとんど何も述べていない。心理学の大学院に入ってはじめて、現代哲学がなぜ不毛に思えたのかがわかった。人類の本質に関する深い理解に欠けていたのだ。古代の哲学者はたいてい優秀な心理学者でもあったのだが、現代哲学は論理と合理性の研究に没頭してゆき、だんだんと心理学に対する関心を失い、情熱的で状況に埋め込まれた人生の本質に触れることがなくなっていった。心理学や関連する分野の科学は、人類の本質について多くのことを明らかにしてきており、今や答えを打ち出すことができることがわかった。実際、その答えの大半はこの百年のあいだにわかってきたものであり、その残りの多くの部分はここ十年間の成果である。
 「人生の意味は何か」という問いは「聖なる問い」と呼べよう。その探求は高貴であり、すべての人が答えを見つけたいと思っているのだが、それを見つけることができると期待している人はほとんどいない。哲学が著者に教えてくれたことは、質問の分析のしかた、つまり答えを出す前に厳密には何が尋ねられているかを明らかにする方法である。Xの意味は何か?と尋ねられたら、どのような種類の答えに私たちは満足するだろうか?
 最もよくある意味の種類は定義することである。人生の意味を辞書で調べても期待する答えになっていない。意味の二番目は象徴や置き換えによるものである。人生は何も象徴したり表したりしていない。意味について問う三番目の方法は、通常は何らかの人々の意図や信念について述べてもらって意味が理解できるように助けを求めることである。映画の冒頭30分、終わりの30分を見ていない場合、くりくり頭の男があの少年にウインクしたのは、どういう意味?と尋ねる。その行為は映画の筋の中で何か重要であることは気づいているが、何かの事実を知らなければならないと考える。これは「そのウインクは何を意味していたか?」という質問が本当に意味するのは、「私がそのウインクを理解するためには何を知る必要があるのか?」ということである。人生とは、オープニングシーンがとっくに終わってしまった後から見始めた映画のようなものであろう。そして、物語の筋の大半を残して、結末へと至るずっと前に席を外さなければならない。実際に見た複雑なほんの数分を理解するためには、たくさんのことを知らなければならないと感じている。何を知らないかを正確にはわからないので、うまく質問を組み立てることができない。直接的な答えを期待しているのではなく、何らかの啓示、つまりこれまで重要なことだと理解も認識もしていなかった物事を突然納得するような「アハ!」体験を与えてくれるような何かを求めている。
 聖なる問いへの答えは人類を啓発するある種の開示を含むものでなければならない。そこには特定的な二次的質問がある。1つ目の二次的質問は「人類は何のために地球上にいるのか?なぜ私たちはここにいるのか?」答えは大きく2つある。何らかの思想、欲望、意図を持つ神、精霊、知性体によって世界が作られたと信じるか、または、純粋に物質的世界の中で、あなたや世界が理由があって想像されたのではなく、物質とエネルギーが自然の法則によって相互作用することで生じたと信じるかである。多くの宗教がこれに答えを提示してきた。アメリカでは科学はダーウィン龍の進化論を唱えていたので、対立していた。2つ目の二次的質問は「私はどのようにいきるべきか?良い、幸せな、満ち足りた、意味深い人生を送るにはなにをすべきなのだろうか?」というものである。人々は、行動を導き、自分の選択に意味や価値を与えてくれる原理や目標を元mている。ターゲットや目標がなかったら、象の気の向くままに徘徊して群れの皆と同じことをするだけになる。しかし、人類には象使いがいて、より抽象的な思考を始め、群れの端を通り過ぎて、疑問を持つときがやってくるかもしれない。私たちはどこに向かっているのだろう?それはなぜだろうか?これが高校3年生になったときに筆者におこったことだ。
 青年期における実存主義において、筆者は2つの二次的質問をごちゃまぜにしていた。人生の目的という問いに対して科学的な答えを採用したことで、人生における目的を見つけることは除外されたと考えた。多くの宗教がその2つの問は分離できないものであると説いているため、犯しやすい誤りであった。もし、神が「神の」計画の一部としてあなたを創造したと信じるなら、時分の役割を適切にまっとうするためにいかに生きるべきかを見つけ出すことができるだろう。しかしながら、それら2つの説いは分割できる。1つ目の問いは人生についての外側からの問いである。人、地球、星などが存在している理由について、神学者、物理学者、生物学者によって探求される。2つ目の問いは人生についての内側からの問いである。主体として「いかにして意味や目的の感覚を見出すことができるのか?」という問いであり、神学者、哲学者、心理学者によって探求される。2つ目の問いは実に経験的、つまり科学的な手段によって研究されうる事実としての問いである。活力、献身、意味に満ちた人生を送る人がいる一方、空虚で定まらないものであると感じる人がいるのだろうか?
 コンピュータのメタファーはあまりにも広く普及しているため、人をコンピュータのように考えて、壊れた際には修理や再プログラミングのようにして直すことを考えてしまう。人は植物のようであるというメタファーがより適切だと思う。植物がしおれて枯れかけた時には、水、日光、土壌という正しい条件を整えて、待つだけである。もし人が植物のようなのであれば、繁茂するために必要な条件とは何だろう?第5章の幸福の方程式のH(幸福)=S(設定点)+C(生活条件)+V(自発的な活動)におけるCとは正確には何だろう。第6章で述べたように、Cの最大の部分は愛である。男も女も子供も誰も孤島ではない。私たちは超社会的な生物であり、友人や他者との安心できる愛着なしでは幸せにはなれない。Cにおいて次に重要なのは、フローや没頭している状態を作り出すために、適切な目標を持ち、追求することである。現代の世界においては、人々はいろいろな状況下で目標とフローを見出すことができるが、大半の人々はフローの大部分を仕事に見出す。人にとっての愛と仕事は、植物にとっての水や日光と明白に類似している。健全な人は何がうまくできなければならないか、という問いに対してフロイトは「愛し、働くこと」と答えたそうだ。もし、心理療法がこれら2つの物事をうまくdけいるように手助けできたなら、それは成功である。マズローの有名な欲求ヒエラルキーでは、いったん生理的欲求がみたされると、欲求は愛へ、そして次に尊敬へと移行する。それらの大部分は、仕事を通じて獲得するものである。フロイト以前でさえ、レフ・トルストイはこう書いた。「どのように働くかを知り、どのように愛するかをしり、愛する人のために働き、時分の仕事を愛しているなら、その人はこの世界で豊かに生きることができる。」愛については言い尽くされているので、仕事について少し書いていく。
ハリー・ハーロウは動物園で猿人類やサルたちが、ただ楽しむためだけに問題解決をすることに驚いた。行動主義では、そのような強化されていない行動は説明できなかった。1959年にハーバード大学の心理学者ロバート・ホワイトは行動主義と精神分析の研究を調査した後、両方の理論共にハーロウの指摘を見過ごしていると結論付けた。人や他の多くの哺乳類が何か物事を起こしたいという基本的な欲求を持っているという圧倒的な証拠である。自分から退職したのか、クビになったのか、それとも宝くじが当たったのかにかかわらず、働くことをやめた人がしばしば無気力となってしまうことを見ることがあるだろう。心理学者はこの基本的な欲求を、能力、勤勉、達成に対する欲求として言及してきた。ホワイトはそれを、自分の環境と交わり、制御することを通じて能力を発達させようとする欲求や動機と定義し、「効力動機」と呼んだ。効力感は食物や水と変わらないぐらい基本的な要求であるが、満足してしまうと数時間は消えてしまう飢えのような欠乏欲求ではない。効力感は私たちの生活に常に存在していると述べた。効力動機は進歩の原理を説明するのに役立つ。シェイクスピアが「喜びは、その過程にある」と言ったように、私たちは、目標の達成よりも、目標に対する進歩からより多くの喜びを得る。
 現代の仕事の状況を見てみる。カール・マルクスによる資本主義批判は、産業革命が、職人と生産物とのあいだの歴史的な関係性を壊してしまったというもっともな主張に基づいている。組み立てラインは人を巨大な機械の歯車へと貶め、機会は労働者の効力感に対する欲求など気にかけなかった。1964年に社会学者のメルヴィン・コーンとカーミ・スクーラーの調査で「職業的な自己主導性」と名付けたものが、職業の満足度の高さを知るためのキーとなっていることを見出した。複雑度が低く、ルーチン性の高い仕事に従事し、きっちりと管理されている人は最も高い度合いの疎外感を示した。変化に富んだ難しい仕事で取り組み方により多くの裁量を持つ人たちは、その仕事をより楽しむ傾向にあった。もっと最近の研究では、ほとんどの人は仕事に対して、労働、キャリア、転職の三つのうちのどれかのアプローチをしているということがわかった。仕事を労働とみなす人は、お金のためだけに働き、週末を夢見ながら頻繁に時計を眺め、おそらくは、仕事上よりも効力感に対する欲求を包括的に満たしてくれる趣味を追求するだろう。仕事をキャリアと見なす人は、進歩や昇給、名声といったより大きな目標を持っている。これらの目標の追求がしばしばエネルギーを与え、業務を適切に完了したいがために時とり家に仕事を持ち帰る。しかしたまに、なぜこんなに一生懸命に仕事をしなければならないのか疑問に思う。仕事が、競争のための競争をするラット・レースのように見えてしまうこともある。しかしながら、仕事を転職と見なす人は、その仕事自体に本質的に満足している。何か別のことを達成するために行うのではない。仕事を、大きなる善行への貢献や、明らかに価値があると思える何らかのより大きな計画への貢献だと考えている。仕事中に頻繁にフローを体験する。急にとても裕福になったとしたら、おそらく給料がもらえなくても、その仕事を続けるだろう。
 ブルーカラーの労働者が労働と感じ、管理職がキャリアと感じ、より尊敬される専門家(医者、科学者、聖職者)が転職だと感じるとおもうかもしれない。ニューヨーク大学の心理学者であるエミー・ウェズニスキーは、彼女は彼女が研究したすべての職業に、この3つの志向が見られることを発見した。組織の中で下層の労働者である清掃員の中でも職業的な自己主導性を増加させ、効力動機づけを満足させる労働を創り出していた。このような方法で働いていた清掃員は彼らの仕事を転職としてみなしており、それを労働と見なしている人たちよりも楽しんでいた。
 ポジティブ心理学における研究から明らかとなった楽観的な結論は、ほとんどの人が自分の仕事からより多くの満足を得ることができるということである。最初のステップは自分の強みを知ることである。強みのテストを受け、強みを日常的に使うことができる仕事を選択すれば、少なくとも随所でフローの瞬間を得ることができる。もし、自身の強みに合致しない職業で行き詰まっているいるなら、合致するようにその仕事を見直し、再解釈してみよう。もし、強みを用いることができたらなら、仕事にもっと満足できるようになるだろう。そして満足したら心構えがポジティブになり、より大きな計画を進めるための貢献という大きな絵を見ることがたやすくなり、その労働は転職へと変化するかもしれない。だから、仕事の最高の状態は、絆、従事、コミットメントに関係する。うまくいけば、自分の殻を破り、自分自身の外にある人や計画と結びつけてくれるのだから、愛と仕事は人類いよって重大なものである。幸福は、これらの正しい結合によってやってくる。
 植物は特定の条件下で育つ。生物学者はいまや、日光や水がどのように変換されて植物に成長をもたらすかを知っている。人も特定の条件下で育つ。心理学者はいまや、いかに愛や仕事が変換されて幸福や人生の意味の感覚になるのかを知っている。ミハイ・チクセントミハイはフローの瞬間を研究することでは満足せず、創造的な人々の人生においてフローが果たす役割を知るべく、芸術と科学の世界で成功している専門家について調べ始めた。何百人者成功している人々にインタビューをして、大半の人は同じ方向性で導かれていたことがわかった。最初に興味をもったり楽しんだりしてから、フローの瞬間を得て、人間関係や練習や価値観が長年かけて深められ、それによってさらにフローの期間を長引かせることができるようになる。チクセントミハイとジーン・ナカムラを中心とする学生は、この進化過程の最終状態を研究し、それを「フロー体験と人生の意味付けの両方の特徴を持つ世界との関係」と定義し、「バイタル・エンゲージメント」と名付けた。バイタル・エンゲージメントとは、仕事は「目に見える愛」となることの別の言い方である。自己と客体との間に結合を強く感じ、仕事は天職となっている状態である。
 バイタル・エンゲージメントは、人か環境かのどちらかに属するものではない。それは2つの間の関係の中に存在する。バイタル・エンゲージメントは筆者が高校の三年生のときに見失っていたものであった。あなたと仕事のあいだに正しい関係性を確立することは、すべてあなた次第というわけではない。規制のバイタル・エンゲージメントをもたらす職業もあれば、バイタル・エンゲージメントを得るのが困難な職業もある。1990年代のアメリカ合衆国では、市場の力によって多くの専門職が再形成を呼びなくされた。チクセントミハイはハワード・ガードナーとウィリアム・デイモンとチームを組んだ。そして良いこと(質の高い仕事)をすることが良い結果(富の達成や専門家としての向上)に結びつく時、その分野は健全である。ジャーナリストは真実や世界を変えるというのぞみや、言論の自由という理想をもっていたが、台頭した企業系メディア帝国の関心事は他者よりも売れるか否かになってしまった。恐怖を煽る話、誇張、対立のでっち上げ、性的スキャンダルのほうが、たいてい儲かるので、ジャーナリストが自分の道徳基準を犯したり背いたりすることを共用されたという感覚を持っていて、整合がとれておらず、バイタル・エンゲージメントを得ることができなかった。
 コヒーレンスという単語は大抵は体形や思想や世界観の各部分が一貫した効果的なかたちで適合していることを指して用いられる。コヒーレントな物事はうまく機能する。インコヒーレントな世界観は内なる矛盾によって妨害される。多階層でのシステムの分析が可能なときは常に、階層同士が調和して相互にうまく連動している時、コヒーレンスが起こる。性格の分析に、この階層間コヒーレンスを見ることができる。下層である性格が、対処メカニズムとうまく調和し、あなたのライフストーリーと一貫している場合、性格はうまく統合されており、日常生活をうまくこなしていくことができる。これらの階層がコヒーレンスとでないと、内部矛盾とその神経症的な葛藤に引き裂かれたりしがちだ。その調整のためには、逆境が必要なこともある。あなたがもしコヒーレントに達したなら、物事が一体となったその瞬間は、人生における最も意味深い時となるだろう。最初の30分に何をみのがしてしまったかが後でわかった映画鑑賞者のように、突然人生がより理解できるものとなる。階層間のコヒーレンスを見出すことは、悟りを開くようなものであり、人生に起こる目的という問いに答えるためには不可欠だ。
 人は別の面でも多階層なシステムと言える。私たちは、物理的なものであり、どういうわけかそこから心が出現する。そして、心から何らかの形で、社会や文化が形成される。私達自身を完全に理解するためには、物理、心理、社会文化の3つの階層すべてを研究しなければならない。この三つはこれまで長い間、学問的には分業されてきた。生物学者が物理的な肉体として脳を研究し、心理学者が心を研究し、社会学者や人類学者が、その中で心が発達し機能する、社会的に構築された環境を研究してきた。しかしその分業は、それぞれの仕事がコヒーレントである場合、つまり、それぞれの一連の仕事をまとめると最終的にはその集合体以上の何かになる場合のみ、生産的である。20世紀の大半、そうはならなかった。それぞれの分野は他分野を無視し、自身の問題に没頭した。しかし最近、専門分野をまたがった仕事が発展し、広がってきた。中間層(心理学)から架け橋に沿って、下層の物理層(たとえば、認知脳科学の分野)へ、上層の文化社会層(たとえば、文化心理学)へと広がりつつある。科学は結合して分野をまたがったコヒーレンスを生み出し、手品のように、大きく新しいアイデアを生み出し始めている。
 ここで、進行中の統合によってうまれた、最も重要な考えの一つを紹介する。人生が、その人の存在の三階層でコヒーレントである時、人生の意味が感じられるというものである。
 インドに戻ってみると、もしブラフミンとして育ったと考えてみる。毎日の生活で、俗な空間から聖を分けて見えない線を尊重しなければならず、事前に人の清潔レベルの変動に常に目を配って置かなければ、人に触れたり人から何か物を受け取ったりできない。宗教的奉納の前には必ず、短時間水浴びしたり、聖水に少し浸ったりして、一日に何度も沐浴をしなければならない。これらを20年も実践すると、ヒンズー教の儀式に対する理解は直感的なものになる。明示的理解は何百もの身体感覚に裏付けられる。あなたの新理想での理解は身体的な具体性を帯びて広がる。そして、概念的な層と直感的な層が結合した時、その儀式は正しいものと感じられる。儀式の理解は上層の文化社会層へも広がる。4千年も続く宗教的伝統の中の中にどっぷり使っている。子どものときに聞いた物語の多くはその宗教的伝統がもたらしたものであり、その数多くのストーリーは純潔や汚れの要素を備えている。純潔と汚れの地形図によって物理的空間が構造化される。ヒンズー教は魂は神聖さの垂直次元を上り下りすることによって生まれ変わるという宇宙観も与える。だから、神に捧げ物をする時はいつでも、あなたの存在の三層がすべて調和し、互いに噛み合っている。あなたの身体感覚と意識的思考は行為とコヒーレントであり、あなたの属する大きな文化の中で、すべてが完全に道理にかなったものになる。繰り返して言うが、幸福、つまり、体験に豊かさを与えてくれる有意味性の感覚は、あいだから訪れる。
 記号的意味の理解だけを通じて良い儀式を作り出すことなどできない。その記号がうめこまれている伝統が必要であり、何らかの適切な連合を伴う身体的感覚も起こらなければならない。そして、それを受け入れ、長年にわたって実践するコミュニティが必要だ。そのコミュニティが三層間でコヒーレントする数多くの儀式をおこなっていればいるほど、そこに属する人はたいてい、そのコミュニティや伝統とつながっていると感じる。もしそのコミュニティが、どのように生き、何に価値があるのか導いてくれれば、人は人生における目的の問いに悩むこともないだろう。必ずしも国民としてのアイデンティティの中に意味を見出す必要はない。実際、アメリカ、ロシア、インドのような規模の大きい多様性のある国家では、階層間コヒーレンスと人生における目的については、宗教のほうが期待できるかもしれない。
 筆者が大学で哲学を専攻し、初めて道徳性について勉強し始めた時、父親は「なぜ宗教も勉強しないんだ?神なくしてどのようにして道徳性が持てるのか?」といった。強い道徳心を持つ若い無神論者だった筆者は、父親の提案を侮辱的に思った。当時の筆者にとって道徳性とは、人間関係に関わるものだった。自己利益に反していたとしても正しいことをする、という責務に関わるものであった。そして、当時の筆者にとっては宗教とは、筋の通らないルールと、人によって書かれ、偽って超自然的な存在のものとされた、けっして起こり得ない物語の集合であった。今では、道徳性は宗教にその起源があるという父親の説は正しかった、と思っている。道徳性と宗教はどちらも、すべての人類文化に何らかの形態で生じ、ほぼ常に文化の価値やアイデンティティや日常生活と結びついている。人間の本性について、そして人類がどうやって人生における目的と意味を見出すかについて、十全に、禅僧にまたがる説明をしたいならば、その説明は、道徳性と宗教について知られていることとコヒーレントでなければならない。
 進化論の観点から見れば、道徳は問題である。もし適者生存が進化のすべてであるならば、なぜ人はこれほどまで互いに助け合う必要があるのだろうか?ダーウィンは単純に利他主義はその集団のために進化すると説明した。しかし理論進化論者がコンピュータ・シミュレーションをするとただ乗り問題が起こり、利己主義が適応し、利他主義は適応しなかった。超社会性への2つの途中段階として、血縁性利他主義と互恵的利他主義が紹介されると利他主義の問題は解決されたものとみなしてしまい、群淘汰は本質的に間違っていると宣言した。利他主義は利己主義の特殊ケースとして片付けられた。群淘汰の廃止には一つの抜け穴があった。他の超社会的な動物(ハチ、じがばち、あり、しろあり、ハダカデバネズミ)のような現実にグループとして競争し、生活し、死んでいく生物に関しては、群淘汰の説明は適切である。この抜け穴は人類にも同様に適用されるのだろうか?人類はグループとして競争し、生き、死ぬのだろうか?種族や民族集団は成長し、拡大したり消滅したりする。そして、時としてこのプロセスは集団殺戮によって起こった。その上、人類社会はしばしば桁外れに分業化されているため、ハチやアリと比較したくなる。しかし個人が再生産する機会を持っている限り、自分自身の幸福や子孫に投資することへの進化上の見返りは、グループに貢献する見返りよりもたいていいつでも上回る。だから、長期的に見れば、利己主義的な特性は利他主義的な特性を犠牲にして広まっていく。
 しかし、もう少し考えてみよう。グループ内の個人間の競争が、人類の進化において最も重要であるとしても、群淘汰(グループ間の競争)も何らかの役割を果たした可能性はある。進化生物学者のデビッド・スローン・ウィルソンは近年1960年代に始まった過度に単純化されたいくつかのコンピュータ・モデルがもっと現実的で、本物の人間に近ければ群淘汰はすぐに起こるとする。人類は遺伝と文化の2つのレベルで、同時に進化したと指摘している。1960年代の単純なモデルは、文化を持たない生物についてはうまく説明している。しかしすべての人の行動は、遺伝子だけでなく文化の影響も受け、その文化もまた進化する。文化の要素は、多様性を持ち、淘汰もするので、身体的な特性とおなじように、文化的な特性もダーウィン主義の枠組みの中で分析することができる。しかしながら、文化的な要素は、思想を持つというゆっくりとしたプロセスによって広がるのではない。人が新しい行動や技術や信念を採用した時、いつでも急速に拡大する。鋤、印刷機、視聴者参加番組といったものが、各地で急速に人気になったように、文化的な特性は種族や国家を超えて広がっていく。文化と遺伝の進化は互いに結びついている。互いに学び合い教え合い、習ったことを積み重ねていくという強い傾向という文化に対する人間の能力は、それ自体が、この数百万年の諸段階で起こった遺伝的な革新なのである。おそらく8万年前から10万年前、一旦私たちの脳が臨界期に達すると、強い淘汰圧によって、脳は文化からさらなる恩恵を受けるようになった。他者から学習することに最も優れた個人は、あまり「文化的」でない同胞よりも成功した。そして脳がより文化的になり、文化がより複雑になると、文化的な脳を持つことの有利性がさらに増す。今西のすべての人類は一連の遺伝子と一連の文化要素の共進化の産物である。たとえばカースト制度は同一カースト内でのみ結婚するように制限すると、遺伝的進化の方向性を変え、千年にわたるカースト内での同系交配の後、たとえば肌色の濃さなどいくつかの遺伝的特性においてわずかな分化が起こる。それによって、単なる職業よりもむしろ肌の色とカーストの文化的な連合関係が育まれていくことにもなる。このようにして、遺伝子と分化は共進化する。ウィルソンはこの共進化の観点から宗教を研究した。世界中の宗教は、多様性に富んでいるにも関わらず、常にお互いやグループ全体に対して、人の行動を調和し方向づける役割を果たすことを示した。ときに他のグループと競争することを目的にして、人々を結びつける。ウィルソンは宗教的習慣が、いかにメンバーが調整問題を解決するのに役にたつかを示した。たとえば、信頼と信頼に基づいた取引は、全メンバーが同じ宗教コミュニティの一員であり、神はメンバーの公正さを知り、気にかけているという宗教の信念を持つ時、強化される。たとえもし超自然的な存在への信念が認知の進化の偶然な副産物だとしても、それらの信念を社会的な強調装置に活用したグループは、ただ乗り問題に対する文化的解決を見出し、信頼と協力の多大な恩恵を受け取ることができた。より強い信念によって、より多くの個人が利益をうけるか、グループがその信念や習慣を共有しない人たちを罰して除外する方法を発展させるかしたなら、宗教と宗教的な脳が共進化するための条件は完ぺきに整っている。ウィルソンのダーウィンの大聖堂を読むことは、スペースランドを旅行するようなものである。人類文化の広大なタペストリーを見下ろして、なぜ物事が今ある姿に編まれているのかを見ることができる。彼にとっての地獄とは、宗教の善悪について、たとえば、多数の宗教は、愛や慈悲や徳について説いているのに、時として戦争や憎悪やテロを引き起こしているということについて議論している人々に埋め尽くされた部屋に永久に閉じ込められることであろうと言っている。より高い視点から見れば、そこに矛盾はない。群淘汰は、他のグループと競争するための時グループの能力を増加させるという明確な目的のために、グループ内の平和や調和や協力を促進する遺伝適応と文化適応の連動を作り出す。ウィルソンは、なぜ神秘主義はいつでもどこでも自己を超越し、自己よりも何か大きなものに融合することであるのかという2つ目の謎も解決する。ウィリアム・ジェームズが神秘主義を分析した時、「宇宙意識」の心理的状態と、主要なすべての宗教がそれを得るために発展させた技術に焦点を当てた。ヒンズー教と仏教は「主客の区別や、個人としての自己の感覚は、究極の平和や祝福や明光の一つとして叙述される状態の中に消え去ってしまう」状態を得るために、瞑想やヨガを用いる。キリスト教やイスラム教の神秘主義にも同様の目標を発見した。ウィルソンの観点では神秘体験は自己のオフボタンである。自己がオフになると、人は大きな身体の中の一つの細胞、または、大きな巣の中の一匹のハチとなる。人はしばしば、神に自分を近づけることによって、神への貢献や他者を助けることへの責任をより強く感じる。また神経科学者のアンドリュー・ニューバーグは神秘体験をしている人々の脳をを調べて、脳の頭頂葉の後部には彼が見当識連合野と呼ぶ2つの皮質区域があるが、この領域が不活性となっているようだった。動きや詠唱が繰り返されるような儀式が、特に多くの人数によって同時になされる時、「共鳴パターン」が参加者の脳内に起こりやすくなり、それによって神秘状態が起こりやすく鳴るとニューバーグは考えている。
 豊かで、幸せで、満たされていて、そして意味のある人生を送るために、何ができるのだろうか? 人生における目的という問いに対する答えは何だろう? 私たちがこうして分割されているように、多種多様に分割された私たちという生物種について理解することによってのみ、その答えは見出すことができるではないだおるか。私たちは、個人淘汰によって、資源や快楽や名声のために戦う利己的な生物へと形成された。また群淘汰によって、より大きな何かに自己を犠牲にすることを望む群生物として形成された。私たちは、愛や愛着を必要とする社会的な生物であり、仕事でバイタル・エンゲージメント状態に入ることが可能な効力感を必要とする社会的な生物である。私たちは象使いであると同時に造でもあり、精神的健康はその二者が一緒に機能して、互いに他方の強みを活用することに依存している。私は「人生の目的とは何か?」という問に対して、なるほどということ絵があるとは思わない。しかし古代の知恵と現代の科学を利用して、人生における目的というという問いに対する説得力のある答えを見出すことはできる。幸福仮説の最終バージョンは、幸福はあいだから訪れるというものである。幸福はあなたが直接的に見つけたり、獲得したり、達成したりできるものではない。正しい条件を整えたうえで、待たなければならない。性格の階層やその要素間のコヒーレンスのように、あなたの中の条件もある。他の条件はあなたを超越した物事との関係性が必要となる。ちょうど植物がせいほうするために日光、水、良い土壌を必要とするように、人には愛と仕事と自分より大きな何かとのつながりが必要だ。あなたと他者、あなたと仕事、そしてあなたとそれよりも大きな何かとのあいだに正しい関係性を築くように努力することには勝ちがある。もしこれらの正しい関係を得られれば、人生の目的と意味の感覚はおのずと湧いてくるだろう。

結論〜バランスの上に

 古代中国のシンボルである陰と陽は一見正反対の原理のあいだの、永遠に移り変わるバランスという価値を表している。これは時代を超えた見識である。対抗者と考えられがちな科学と宗教、古代宗教と現代科学、宗教と心理学、西洋と東洋、リベラル派と保守派。文化心理学の重要な見識はそれぞれの分化は人間存在のある側面について専門性を発達させるが、すべての側面に秀でた文化はないということである。同じことが政治的なスペクトラムにおける両端についても言える。筆者の研究ではリベラル派は犠牲、平等性、自律性、個人、特に少数派や不適合者の権利に関する問題について考えることに長じているという一般的な見解を裏付けている。他方で、保守派は集団に対する忠誠や、権威、伝統、神聖性の尊重について考えることに長じている。一方が他方を圧倒すればひどい結果となるだろう。だから、知恵を探すなら、決して見つけられないとおもうような場所、つまりあなたに相反する精神の中を探すべきである。古いものと新しいもの、西洋と東洋、リベラル派と保守派といったもののバランスのとれた知恵を利用することによって、満足で、幸福で、意味を感じられる人生への方向を選択することができる。私たちは、単に目的地を選択肢、直接その場所にむかって歩きだすことなどできない。象使いは、それほど多くの権限を持っていない。しかし人間性の偉大な思想や最善の科学を利用することによって、私たちは造を訓練し、自身の可能性と限界を知ることで、賢く生きることができるのだ。

あんのこと

2024 キノフィルムズ 入江悠

単館映画のサイトで気になったので、映画を見た。新聞の小さな記事を掘り起こして映画化された実話に基づいた壮絶な物語。

登場人物

 杏は母子家庭に生まれ、母の春海からの虐待を受けて育つ。小学校4年で不登校となり、12歳にして母から売春を強いられ薬物依存症となった。多々羅は人情味あふれる刑事で、薬物更生者の自助グループ「サルベージ赤羽」を主宰する。桐野は更生施設を取材する週刊誌記者で、多々羅とは数年にわたり親交がある。

物語の始まり

 21歳になった杏は東京の団地に住み、ホステスの母、足の不自由な祖母の恵美子を支えるためだけに生きている。2018年秋のある日、杏は覚せい剤使用容疑で逮捕され、刑事の多々羅保と知り合う。多々羅が生活保護や更生の世話をしたことで、杏は少しずつ心を開く。家を出てシェルターに避難して家族との縁を断ち、新しい生活を立ち上げようと奮闘する杏に2020年のコロナ騒動が起きる。

テーマ

 人によって壮絶な過去があり、壮絶な家庭がある。ただその家庭環境は子供の素養とは関係がない。ただ親との関係はそう簡単に断ち切れるものではない。

最後に

 過酷な現実を描いている映画だと聞いていて心してみた。当人にはどうしようもない家庭環境というものに翻弄されている杏をみるとやるせない。人生はなぜこうも不公平なものか。自分はこの映画を見るということだけで酷く恵まれている側にいると感じた。また人とのつながりは血が繋がっていなくても大切なものなのだ。コロナ騒動という人工ウイルスによるカネに目が眩んだ狂人たちが起こした詐欺は、人間がここまで悪になれるのかと恐ろしい。またこのような被害者を一人でも減らすために活動しなければとも思った。思っただけではダメであるのはわかっている。

 杏が健気にしがらみから解放されようとしている姿は胸を打つ。自分の努力によって現在の自分や地位が築き上げられたと思っている人にはぜひともみてほしい!