
はじめに
三国志の倭人伝、魏志倭人伝の邪馬台国がやたら尊重された。卑弥呼神社は荒唐無稽。第一の神武天皇=ニギハヤヒノミコトによる第一大和国、第二の神武天皇=祟神天皇意向の第二大和国、聖徳太子による神仏習合の国の第三の大和国。西洋の中世は破壊されていて存在しない。中国も漢民族の歴史ではない。秦の始皇帝はユダヤ系。土偶は近親相姦による奇形。高天原の神々の話は日高見国の話。天孫降臨によって西に移動した。「大祓詞」に出てくる「大倭日高見国」の誕生。
第一章 日本を目指す太陽信仰と日高見国
大陸から太陽の昇る国日本に来た。東方信仰。太陽と月をシンボル化した勾玉なのでは?皇室の菊の御紋はエジプトやイスラエルでもシンボルとして使われている。菊は中国のもので日本に入ってきたのは奈良時代。本来は太陽紋だったのでは?日本は都市国家ではなく、自然とも調和していた国家。古事記、日本書紀、風土記でも高天原が扱われている。高天原が日高見国という国で縄文時代から発生している。ツクヨミノミコトはアマテラスオオミカミから命ぜられて、ウケモチノカミのところへいく。これをころしてしまうが、死体から牛、馬、蚕、稲などが生まれ、穀物の期限となった。これは日本書紀の話。
日高見国の名前が土地に残っている。日高見国と通じる北海道の日高地方、日高見川といわれている東北の北上川がある。埼玉県の日高山、奈良県の日高山、大阪府の日高山。鹿島神社や香取神宮のそばに高天原という土地が3つも残っている。高天原には天地があり、最初にアメノミナカヌシノカミ(太陽神、最初の頭首?)、タカミムスビノカミ(高見?ムスビは統一?)、カミムスビノカミの三柱がうまれる。タカミムスビは、オモイカネノミコト、タクハタチジヒメという子供。アマテラスが天孫降臨を命じたアメノオシホミミはタクハタチジヒメと結婚し、子供がニニギノミコト。タカミムスビはニニギノミコトの外祖父、天皇家の祖父。古事記にはタカミムスビが7箇所も出てくる、勾玉は関東に多く発掘されている。
第二章 縄文文明と「神代七代」日高見国
縄文時代の遺跡は関東・東北に多い。千葉・東京には貝塚も多く、土器・土偶の出土も多い。具体的な地名が多いため縄文・弥生時代の記憶をもとにつくられた物語、歴史である。日本書紀の景行天皇の二十七年の記事に「東夷の中、日高見国あり、その国の男女、並びにかみをあげ<<みをもとうげて>>(入れ墨)、人となり、勇敢なり、これ総て蝦夷という」とある。ヤマトタケルノミコトの陸奥の戦い後の描写では、「蝦夷すでに平らぎ、日高見国より帰り、西南常陸を経て、甲斐国にいたる」と書かれている。鎌倉時代の釈日本紀には「孝徳天皇の御代つまり大化の改新の時代に、茨城に新しい行政区として信太郡が置かれたと風土記の常陸国編に残っていますが、この土地がもと日高見国と呼ばれた地域である」と解説されている。平安時代の延喜式に定められた祝詞「大祓詞」には、日本全体を示す「大倭日高見国」という言葉がある。中国の歴史書「旧唐書」には「倭国」と「日本国」とが別々に書かれている。
日本最初の土器は一万六千五百年前で、縄目模様の特殊な土器。土器は調理器具でもあり大型なので定住した。1988年青森県の大平山元遺跡で世界最古の土器が見つかった。漆器も北海道の南茅部町で発見された。1950年三浦半島で世界最古の1万年前の貝塚も発見された。世界最古級の二万年前の墓陵が大阪府藤井寺市のはざみ山古墳。定住は日本が世界で一番はやかった?一万数千年前から栄えていた縄文文化の代表格は三内丸山遺跡。5500年前〜4500年前。
関東地方で竪穴住居がある遺跡は65箇所。最大なものは東京都府中市の武蔵台遺跡。南関東では漁労もしていた。関東以外では北海道の函館の中野B遺跡に、縄文早期から中期と見られる五百棟以上の竪穴式住居跡。墓からは多数の土器。漁労を行う住居に即した土器、石皿。三内丸山遺跡は紀元前5100年から紀元前3800年に存続、常時600人と思われていたがそのごの調査で5000人が住んだ都市。1994年には大型建造物の存在を示す直径一メートルの6本の栗の木。
黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大玉が日本各地で出土。交易によるもの。縄文遺跡を地図上で見ると、甲信越から関東・東北に密集。そこに道があったと考えらえる。
紀元前5600年から紀元前4000年までは縄文中期だが、遺跡をみると東北・関東・北海道が発展していた。高天原=日高見国という国があり、中心地が来たから南へ、東北、関東、中部と変化した。常陸国地方、武蔵国地方、八ヶ岳周辺。高天原に三柱の現れ、タカミムスビ、カミムスビの二神が現れるときに<葦牙のごと燃え上がる物によりて成りし神>とあり、高天原に「葦牙(あしかび)」の存在を伝えている。葦牙は葦の芽のことで、ウマシアシカビヒコチノカミがそのことを示しているもう一つの神はトコタチノカミで、この二神が作った島々は<豊葦原の千秋の長五百秋の瑞穂の国>と言われている。葦はいずれも稲田を意味するが日本書紀では日本のことを豊葦原の国と読んでいる。
エドワード・モースは「記紀の国生み、天孫降臨、神武東征は天皇の祖先が渡来し、先住民を征服した」という見方をしていた。司馬遼太郎も「異本列島は紀元前300年ぐらいに稲を持ったボードピープルがやってくるまで闇の中にいた」との見解を述べた。
三柱の跡に五柱が現れ別格の天津神としている。その後にイザナギ、イザナミを含めた七神が現れた。この神世七代までが縄文早期に当たると筆者は考える。
第三章 イザナギの系譜と国譲り
縄文時代の中期から後期のはじめにかけては温暖な時代が続いていたが、後期からは日本はだんだんと寒冷化した。縄文海進で海が内陸に入り込んだ状態。寒冷化は今から三千年前から始まり、人口移動が始まった。当時の90%以上の人たちが関東、東北、北海道にいた。しかし人々は西や南、西南に移る。この時代、人口移動に伴い、島国としての日本の防御が問題になり、国生みにつながると筆者は考える。国生みは西半分だけである。東の日高見国は西の国大和国を作ったとする。大陸からの勢力に備え西の地方を防御するという。
イザナギが同族婚をやめ、多くの別の家系と関係を持ち始めるのが縄文と弥生の変わり目。イザナギが生んだ三貴子、アマテラスは太陽、ツクヨミは月、スサノオは海。スサノオは命に従わずイザナミに会いたい。古事記ではスサノオはイザナミの鼻から生まれた。日本書紀はイザナギの手にした白銅鏡。スサノオの母はアマテラスとツクヨミの母とは異なる女性で、先住民系ではなく帰化人系なのではにか。スサノオの髪型がユダヤ人特有のみずらである。スサノオは黄泉の国に行く前にアマテラスに会おうとするが高天原を占領しに来たと思い臨戦態勢をとる。左右のみずらにかずらをつけた。みずらはユダヤ教徒たちが古代から続けている髪型である。中央アジアの仏教壁がにみずらをしている人物が描かれる。スサノオは高天原で8つの悪行をするが農耕に関するタブー。これはスサノオが遊牧民族だとする。逆剥は馬を逆さに剥ぐことだが馬のいなかった日本人にはできない。スサノオは中部・関東・東北の日高見国で悪行をしたと考える。スサノオが統治するはずだった海の国、大和国以前の西国、出雲を中心とした神が、東国=日高見国を破壊しようとした。
アマテラスは天の岩屋に隠れて、世界が暗闇になる。日食は短すぎて古事記とは合わない。火山や噴火によって天空が闇に包まれる現象。富士山こそが高天原と葦原中津国を闇に覆うことができる規模の火山。紀元前15000頃〜紀元前6000年頃まで山頂噴火と山腹噴火など断続的に大量の玄武溶岩を噴出した。
スサノオは高天原を追放されるが財産没収、髪の毛を抜く、爪を剥ぐ、という処罰がくだされる。財産は千座置戸の没収で、千の倉に入るほどの財産を没収されたとされているが、なぜスサノオが高天原に財産を追っていたかは記されていない。古事記によるとスサノオは出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(今の奥出雲町鳥上)に降り立ったと記されている。注目すべきは降り立ったところに具体的な地名があることです。オロチを退治したスサノオはクシナダヒメを妻にすると出雲の根の堅洲国(島根県安来市)の須賀の地へ行った。オオクニヌシが根の国のスサノオのもとにやってきて、娘スセリヒメと互いに一目惚れをする。スサノオは試練を与えたが克服しオオクニヌシという名を送った。古事記によるとオオクニヌシはスサノオの六世の孫、日本書紀ではスサノオの息子、葦原中国を作った神。葦原中津国を主要な活動の場にしている神々を国津神、アマテラスはじめ高天原の神々を天津神という。
国譲りとは高天原のアマテラスが葦原中国、つまり地上の国・出雲を収めるオオクニヌシに向かって圧力をかけ、国の支配権を譲らせた神話。高天原から何度か使いを出すが葦語のタケミカズチノオノカミという剣豪が送られ、オオクニヌシの息子、タケミナカタノカミは国を譲る。タケミナタカは諏訪に連れて行かれる。オオクニヌシの降参を示すかもしれない遺物が発見されている。出雲大社近くの荒神谷遺跡から358本の銅剣、六個の銅鐸、銅矛16本が1984年に出土している。国譲りは銅vs鉄で銅が敗れたともみられる。
第四章 日高見国から大和国へー天孫降臨
天孫降臨はアマテラスの孫にあたるニニギノミコトが地上へ天降ることを指している。筆者は日高見国の中心地である鹿島から九州の鹿児島に統一に向かうという史実とする。ニニギノミコトの九州への天孫降臨より前、ニギハヤヒノミコトにより最初の天孫降臨があった。関東の鹿島から天の磐船に乗って伊勢から大和地方に入ったと伝えられるニギハヤヒノミコトを祀る神社は千葉や茨城に二十五社もあり、伊勢には三十から四十社あります。このようにニニギノミコトの天孫降臨より前に天孫降臨して大和に入ったニギハヤヒノミコトたちがいたことを証明している。鹿島から鹿児島(日向の高千穂峰)に天孫降臨したニニギノミコトは土地の豪族・オオヤマツミの娘コノハナノサクヤヒメを娶る。そこから生まれたのがホデリノミコト、ホスセリノミコト、ヒコホホデミノミコト=山幸彦である。山幸彦の三代目、ニニギノミコトの四代目にあたるのが、イワレヒコ=神武天皇です。のちに東征を行って、奈良・大和の地を平定する。
神武天皇の再統一は大陸から来る帰化人たちが多くなり、北から南下して西に定住する人たちも増えて、関西が非常に重要になってきた。徐福も秦の始皇帝の命で日本にやってきている。中国の春秋戦国時代に入り戦乱で大陸から九州に流入してくる難民の人が多かったと想像される。イワレヒコの東征は大陸からの侵入に備えたものとと筆者は考える。徐福は三千人の男女と技術者を連れて船出した。日本各地に徐福伝説が残っており、京都府与謝郡の新井崎神社、三重県熊野市の徐福の宮など徐福を祀る神社もあり、熊野市には秦の時代の半両銭が出土している。日本の建国には常に外圧が関係していた。神武天皇の時代、聖徳太子以降の天武天皇から聖武天皇の時代、そして明治天皇の時代と日本には大きく3つの「建国」がある。それぞれに共通するのが「外圧」だった。
ニギハヤヒノミコトは神武天皇の前に大和に天孫降臨されていた。「先代旧事本紀」によると、このニギハヤヒの天降りの時期は国譲り神話の前に書かれていることから、それ以前のことのことと考えられる。「旧事本紀」巻三「天神本紀」、第五の「天孫本紀」にニギハヤヒとその子、アマノカグヤマノミコト以降の子孫が十七代に渡って語られており、かなり長い間、大和地方を統治していことが分かる。
イワレヒコは17年かけて大阪の難波に着きます。日本書紀には神武天皇が浪速国の白肩津で待ち受けていたナガスネヒコとの闘いをもって一段つく。ナガスネヒコはニギハヤヒノミコトに使えていたが、天神の子を名乗って土地を奪いに来るイワレヒコに意義を唱える。しかしニギハヤヒとイワレヒコは天の羽羽矢とかちゆきをふたりとも持っていて、ニギハヤヒが天孫であることを確認する。しかしナガスネヒコは闘い殺害される。ニギハヤヒが物部氏の先祖で、ニギハヤヒが国譲りをしている。帰順しなかった豪族は滅ぼされる。禁忌を平定し神武天皇となる。神武天皇は日本書紀にハツクニシラススメラミコトと号されているが、第十代崇神天皇も同じ意味の初国知らしし御真木天皇(古事記)、御肇国天皇(日本書紀)、初国所知美麻貴天皇(常陸の国風土記)と記されている。神武天皇=崇神天皇と考えられるとする。欠史八代はニギハヤヒとう存在をないものにしたところから来た調整。記紀には陵は奈良県橿原市大久保町の畝傍山東北陵(山本ミサンザイ古墳)と書いてあるわけですが、確定できない。欠史八代は東国との関係が非常に強い人達で記録が欠落したのでは?
神武天皇の大和統一以降、興奮時代には数多くの古墳がつくられた。特に大和や川内にはひときわ巨大な古墳が築かれた。神武天皇の御陵は橿原市大久保町のミサンザイという場所にあるが、もともとは橿原神宮の敷地の中の畝傍山の中腹にあったとされている。小規模だが前方後円墳であったと見られる。前方後円墳は中国に破損ざんせず、朝鮮にもごくわずかし存在しない。奈良には原型はないが、関東の古墳には前方後方墳という形が見つかっていて一つ前の段階だと考えられる。
第五章 大和政権の確立
祟神天皇は、オオビコノミコトを高志道(北陸道)に、オオビコノミコトの子タケヌナカワワケノミコトを東国十二国(東海道)に、キビツヒコを西道(山陽道)に派遣し、ヒコイマスノミコを丹波国(山陰道)に派遣し、その国を服従させた。この四人を四道将軍という。オオビコノミコトは戦に勝ち、山代国を平定して、高志国ヘ向かい、息子と合流したので、アイヅと呼ぶようになった。 即位十二年、戸口を調査して初めて課役を課したと記されている。この偉業をもって所知初国御真木天皇と呼んだとされている。この治世で大和調整は大八洲を統一した。弟のイクメノミコトを皇太子として、兄のトヨキノミコトには東国を治めさせる。即位62年灌漑事業を行った。65年任那が使者ソナカシチを遣わしてきた。
景行天皇は息子のヤマトタケルノミコトは九州討伐をすると共に関東・東北を抑えるための東征を行っています。隼人は関東から鹿児島にやってきた人の子孫ではないかと考えている。理由は鹿島神宮、香取神宮と並んで東国三社に数えられる息栖神社と関わりがあると考えられるから。息栖神社に祀られているアメノトリフネノカミはタケミカズチノカミを助けて鹿島から鹿児島へやってきたとされる。アメノトリフネノカミは船の神であり、鳥の神。息栖神社は船の神社でもあり鳥の神社でもある。九州南部には熊襲もいた。この人も関東から来た人と考える。熊襲神社が関東・東北に多いから。紀伊半島の熊襲神社が有名だが、関東・東北に多く点在している。
子のヤマトタケルはユダヤ人の血を引いていたのではないかと考える。記紀にある殺人行為は日本人的でない。兄殺し。熊襲兄弟を惨たらしく殺害。イズモタケルを卑怯な手口で殺す。更に東国十二国に派遣され、火攻めに会い、焼津と呼ばれる。実際には天皇の巡幸だったのでは。それは軍勢を率いていない。常陸風時の記述では天皇として書かれており、巡幸されたと書いてある。たしかに討つ話は2つだけで後の十七件は天皇の巡幸に関わる内容である。常陸国風土記にはともに狩りを行ったり、清水を飲み御膳を供する様子が書かれている。福島県の都々古別神社の社伝にもヤマトタケルは東征の折に千回戦って千回勝った、とあり後代の八幡太郎義家は社号を千勝明神と改めた。ヤマトタケルは神剣である伊吹山に向かうが、大氷雨にあい、病身になり三十歳の若さでなくなる。
仲哀天皇はヤマトタケルの第二王子、皇后が神功皇后。熊襲が反抗的だったので仲哀天皇と神功皇后は熊襲征伐に赴く。神功皇后は朝鮮攻めを押すが、仲哀天皇はそのまま熊襲征伐を行い勝てず病気になり崩御する。神功皇后は船を集め、玄界灘を渡って新羅に攻めに行く。筆者はこれはユダヤ人の力があったと考える。海の道を作ったユダヤ人も日本に帰化して、三韓征伐をバックアップしたのではと。ユダヤ人は秦氏と呼ばれる日本人。新羅王は降伏する。高句麗と百済も降参する。神功皇后は身重の状態で朝鮮に渡ったが、その子が応神天皇。
応神天皇と時代の仁徳天皇が古墳時代の日本で一番栄えた時代だったが、その財力の豊かな秦氏が支えたと筆者は考える。応神天皇の時代に弓月国から百二十県の人々を率いて渡来した弓月君が秦氏の先祖。百済からの渡来人であった。日本書紀によれば弓月君が百済から来朝したのは応神天皇十四年。軍勢を派遣し、新羅の妨害を除去し、渡来を支援した。平安時代初期の新撰姓氏録では弓月君は融通王の中で記録されており、秦の帝室の末裔と書かれている。秦始皇帝三世孫、孝武王の末裔。日本書紀と新撰姓氏録は共に弓月君が秦氏の祖先であると記している。実際に中国の西、ウイグル、カザフスタンのあたりに弓月国は存在しており、そこからユダヤ人たちがはるばる日本に渡ってきた。
応神天皇は筑紫で生まれた。応神天皇は多くの渡来人を受け入れた。古事記によると王仁によって論語と千字文が伝わったとされている。応神天皇を祭神として弓月神社が丹波にある。秦氏が信仰していた八幡神社は中世に応神天皇と集合した。
仁徳天皇は第十六代天皇で、日本最大の墳墓は仁徳天皇陵であり、世界最大でもある。これを作った人々は土師氏と言われている。土師氏の先祖は野見宿禰といわれている。巨漢で西方の人と考えられる。もともとは難波についた船から見える高台につくられた。民に慕われていた。秦氏に土地を与え太秦という名前を授けたのも仁徳天皇だった。五十八年の条に中国の東晋の時代だった呉の国と高句麗から朝貢してきた。古代朝鮮の遺物である好太王碑に何度も日本が攻めてきて倭の軍が高句麗と新羅の軍を破ったと書いてある。日本が百済、加羅、新羅を臣民となしたと書かれている。
雄略天皇はヤマト王権の力を拡大させた。冷酷で貪欲な一面もあった。宋書や梁書に書かれている倭の五王の武であると考えられている。稲荷山古墳の鉄拳の銘や、江田舟山古墳の鉄刀に刻まれたワカタケル大王という銘によって、雄略天皇の実在性は具体的になった。稲荷山古墳の鉄剣の銘文では中華皇帝の臣下そていの王ではなく大王と明記されている。雄略天皇は478年に中国への遣使はやめている。雄略天皇は秦氏を厚遇した。果たしはもともとシルクロードとの関係が深く、機を営むことが多かった。絹、かたおりを朝廷に多く奉納していた。最後の遣使は478年で次の遣使は609年607年の遣隋使で、日本の自立性を示す。宋の順帝は倭王武に新羅・任那・加羅・奏韓・慕韓六国を治める倭王としている。
武烈天皇は非道な天皇として描かれている。暴君として仕立てたい作者の意図が顕著である。
継体天皇は58歳で即位した。武烈天皇は世継ぎがいなかったので、応神天皇の五世代孫で、越前国を治めていたおおどのおおき王を迎えた。日本はもともと朝鮮半島東武に大きな拠点をもっていたが、四世紀にあると高句麗が強くなり、南部では百済や新羅が台頭してくる。百済経由で鉄器や鉄の農具・兵器や漢字儒教などの中国文化が入ってくる。四世紀後半に百済が大和朝廷に救援をもとめてきて、救援の軍を九州北部に送ったが、新羅と通じた筑紫の磐井によって反乱が起きる。朝鮮での勢力が次第に衰えていった。
欽明天皇の時代では大陸から日本にやってくる人が急増した。大陸では南北朝時代にはいり、小国が乱立し、不安定だったので日本に渡来する人がおおかった。百済王は仏像と経典を献上した。日本書紀には仏像がキラキラ輝いているのに驚いた欽明天皇がこの像を慕っていいのだろうかと臣下に訪ねたというエピソードがあります。仏教を受け入れを巡って争いがあった。受け入れる蘇我氏で、拒否するのが物部氏だった。蘇我氏が勝って政治の主導権を握った。
敏達天皇は朝鮮半島南部の任那の復興を目指して、百済と協議しましたが、うまくゆかなかった。疫病が流行り始める。仏教を拒否してい物部守屋と中臣氏が勢いづいて仏教禁止令を出して仏像と仏殿をもやす。疫病は広がり敏達天皇も病に倒れる。後に蘇我馬子が願い出て仏教を許すとされる。二番目の皇后が額田部皇女だが、後の推古天皇である。
推古天皇が即位して、甥の聖徳太子が摂政として蘇我氏と協力して仏教を受け入れた政治を行う。共同宗教の神道と、個人宗教の仏教を受け入れ、日本人の精神性は豊かになっていく。仏教の寺院がたてられ、巨大古墳が消えた。