「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて: 幻の旧石器を求めて

1973 講談社文庫 相沢 忠洋

古代史に興味があり、この本にたどり着いた。とにかく素晴らしい物語だった。

登場人物

相沢 忠洋先生が幼少期の体験や戦前・戦後をどのような生きてきたか。それは日本の歴史をひっくり返す「岩宿」の発見にどうやって行き着いたかを詳しく語っている。

物語のはじまり

相沢 忠洋先生は納豆売りをしてまずしく暮らしていた。両親と共にあった幼い頃からの記憶を辿っていく。

テーマ

興味があることに打ち込むとはどういうことなのか。人間世界には汚いこともたくさんあるが、真摯であるということはどういうことなのか。

最後に

戦前・戦後の情景も描かれているので、そのあたりも非常に興味深い。ただ何よりも相沢先生のお人柄、情熱が素晴らしく、かくも真摯に生きられるのかとも思った。幼少期から辛い体験をいくつも重ねており、その中でも希望を失わずに生きられていたお姿には何度も心を打たれた。厭世的なのは相沢先生の優しいお人柄がそうさせている気がした。この10年で一番感動した作品かもしれない。多くのひとにぜひ触れてほしい。

大人の学び直し 正しく読む古事記

2019 春燈社 武光誠

序章 古事記の始まり

712年に完成した。それまで神話を伝える「旧辞」や、和歌を伝える「旧辞」があった。「帝紀」もあった。古事記は上巻、中巻、下巻に分かれており、上巻は5つに分かれる。1神々の出現、2国生み、3高天原、4出雲の神々、5日向三代だ。スサノオノミコトと後継者のオオクニヌシに多くが割かれている。中巻は神武天皇から応神天皇までになっている。下巻は仁徳天皇から推古天皇まで、物語は顕宗天皇で終わる。仁賢天皇以下は系譜だけになっている。
 やまと言葉でかかれている。日本書紀との違いとしては、卑弥呼を神功皇后だと考えていた。神武天皇の時代以降は特定の日付があるが、推古天皇以前はあやしい。

第一章 国の創世神話

造化三神から始まる。神世七代に続く。日本書紀は神世七代から始まっている。(★島を作った話は島ができたという時期)
 秩父神社:知知夫彦命の祖先が八意思兼命。(八代神社:渡来系武士)高御魂神社:高御産巣日神の子孫と称した津島下県氏。

国生み。日本書紀にはヒルコは三歳になるまで足が立たなかったとある。大八洲を生む。淡路島では国魂と呼ばれた土地の守り神がいる。淡路市に古代のイザナギ信仰の流れを引くイザナギ神宮がある。天地の間を行き来する天鳥船神などを生んだ。鉱山の神。日本書紀には迦具土神が埴山姫と結婚してワクムスヒという食物の神を生む伝承がある。(★イザナギは淡路に関係するか)

黄泉の国訪問。帰ると、イザナギは筑紫の日向の橘小門のあわきはらで禊祓いを行った。宮崎市の阿波岐原町にある江田神社をその地とする説もある。様々な神が生まれる。綿津見三神は阿曇氏が祭る神で、住吉三神は津守氏の氏神。外交や貿易に従事した航海民を束ねる豪族。
 伊射奈岐神社@淡路市、花窟神社@和歌山県:イザナミの御陵。伊射奈美神社:海神信仰。西宮神社:ヒルコが西宮の海岸に戻ってきた。龍田大社:イザナミ・イザナギの子シナツヒコトトミコトという風の神=国御柱大神。

高天原。イザナミはアマテラスに首飾りを授けた。高天原にスサノオが向かう。イザナギは近江の多賀の地にお隠れになった。天ヶ原でスサノオは、福岡県宗像市の宗像神社で海の神として祀られている三柱の女神を生んだ。また皇室の祖先の五柱も生んだ。スサノオは事故を犯しアマテラスは天の岩屋にこもる。スサノオは献上品を差し出した。(★スサノオと高天原の関係)

ヤマタノオロチ。スサノオは出雲で進行された土着の神。くしなだひめを妻に。須賀ですがすがしいので和歌。2世紀ごろに出雲全域の豪族連合がつくられ、荒神谷遺跡で豪族たちの共同の祭事が行われるようになったと見られる。主導したのは神門氏の先祖。荒神谷遺跡に近い飯石郡須佐郷に須佐神社がある。現在の宮司家はクシナダヒメの親の足名椎の神の子孫だと称している。出雲氏は須賀で勢力を拡大し、意宇郡と呼ばれた島根県松江まで勢力を広めた。松江市の八雲町に熊野大社という有力な神社がある。出雲市は四世紀半ば大和朝廷と結んで神門氏を従えた。(★スサノオは出雲関連)
 祟神天皇の祭祀場を伊勢に移したと日本書紀。月読神社@長崎県壱岐市:壱岐は月神の子孫としていた。八坂神社@京都:スサノオ、クシナダヒメ。氷川神社@さいたま市:五代孝昭天皇に始まる、スサノオ、稲田姫。

オオクニヌシの迫害。いなばのうさぎ。オオクニヌシが焼けた岩を受け止めたのは赤猪岩神社@米子駅の近く。焼け死んだオオクニヌシに神産巣日神は女神を送る。紀伊の国の大屋毘古神を頼る。根の国のスサノオも訪れ、スセリヒメを娶る。出雲の伊賦夜坂を下って根の国に行くと信じされていた。オオクニヌシは因幡の八上比売や、越(北陸)に行って、沼河比売に求婚、中のよい夫婦になった。沼川郷(新潟県糸魚川市)の女神で奴奈川神社がある、ヒスイが取れた場所。この他に宗像大社の多紀理毘売命、建物の神、神屋盾比売命、鳥を取る職業の人々が進行する鳥取神の三柱が妻。オオクニヌシは少名毘古那神の助けを得て、国作りをした。日本書紀の異伝の中に少名毘古那神は高皇産巣日神の子神とするものがあるし、伊予国風土記にはスクナヒコが温泉に入って生き返った話が記されている。
 大国主神を祭る中心神社は出雲大社だが、中世以降に各地に分社ができた。少名毘古那神は対を成す神として人々に愛されてきた。赤猪岩神社@鳥取県南部町:大国主が赤く焼いた岩をやいてなくなった、淡島神社@和歌山市:神功皇后が帰りに難破して友ヶ島(神島)にたどり着いた。白兎神社@鳥取市:素兎が体を乾かした身干山につくられた。

 日本神話のルーツ。3つの道筋。1つめはオセアニア、インドネシア、フィリピン。2つ目は江南から中国の長江下流域から九州にいたる道。3つ目は中央アジアの草原地帯から中国東北地方を経由して朝鮮半島から日本に来る道。南方系神話は知らない海の向こうから神々が訪れる物語。古代の江南は南方の国々の公益の中心地として栄えていた。紀元前1世紀には江南の有力な航海民がまとまって日本に移住して同鏡を用いる祭祀などを伝えている。北方系の神話は神々が点から降りてくる。遊牧民の文化は5世紀末から日本に入ってきた。

第二章 皇室の起源

 国譲り。大国主神は大物主神の教えに従って国をよく治めた。ただ天之忍穂耳命に地上に降って日本を治める。天の浮橋からみると日本国は騒がしく、君主の命令のもとに、地方豪族が秩序だった政治をするのが望ましいととし、アマテラスは造化三神の中の高御産巣日神と会議をし、天菩比神の派遣を推薦した。四度に渡って高天原から出雲の大国主神の下に使者が送れた。出雲国風土記に天乃夫比命が意宇郡屋代郷(島根県安来市)に天降ったという伝説が記されている。彼は三年たっても連絡なし。天若日子に宝器を与えて送り込むが大国主神の娘を妻とし8年戻らず。鳴女をおくるが射殺される。剣の神の建御雷神が船を操る天鳥船神と共に出雲に向かう。この二柱は中臣氏が祭った神。二柱は出雲大社の近くの伊邪佐の浜(稲佐の浜)に降り立った。建御名方神と建御雷神が争って、諏訪に来てそこにとどまった。遷却祟神祝詞という朝廷の祝詞に、この話の原型が見られる。(★3番め、大国主神は高天原の関係)

 天孫の天降り。アマテラスが天之忍穂耳命を呼び地上を降りることを命じたが、子神の邇邇芸命に命じる。子神の母は高御産巣日神の娘の万幡豊秋津師比売命だった。つまりアマテラスの子神と高御産巣日神の子神が夫婦になって、その間に生まれた子が皇室の先祖として地上に降ったことになる。高御産巣日神は重要な神だがアマテラスと並んで国譲りの交渉を主導しており、日本書紀の異伝では高皇産霊尊の指導のもとに国造りがなされたと記すものもある。高御産巣日神を豪族たちが氏神として祭る国魂の神の上に置かれた農耕の守護神だとする説もある。古くは高御産巣日神がその子孫を地上に送る神話があったという意見もある。国魂の神の祭祀が行われた五世紀以前には産霊の神が信仰されていたと筆者は考えている。大和の大物主神を助けた産霊の神が高御産巣日神とされ、大国主の治めた出雲を守る産霊の神が神産巣日神になったと考える。王家の祭祀を担当する五氏を邇邇芸命に同行するようにいう。お供の神の多くは天の岩屋神話に見れる神であるので、天孫降臨神話とは一体のものとされる。また三種の神器の紀元にもなりアマテラスが邇邇芸命に三種の神器を授けたとしるしている。一行は猿田彦神の道案内によって高千穂の峰に降り立ったという。お供の天宇受売命に猿田毘古神まで送っていくのと、妻になるのを命じた。猿田毘古神は伊勢で古くから祭られていた神、中流豪族の宇治土公氏の先祖。宇治土公氏の下で祭祀の芸能を担当とする猿女氏によって中臣氏とつながりをもつ。猿女氏は猿田毘古神に仕える天宇受売命という巫女の神の子孫と称している。中臣氏は猿女氏の一部を大和に移住させて、神事の歌舞の担当とした。

高千穂の峰に降り立った邇邇芸命は「韓の国に向き合い、笠沙の峰(鹿児島県南さつま市)に一本の道が通じている。朝日のまっすぐに射す国で、夕日の照り輝く国である。この場所こそ最も良い土地である」。邇邇芸命は神阿多都比売(鹿児島県西部の阿多の地女神)に出会い結婚を申す今田が、石長比売とも結婚を希望するが断る。これは東南アジアに広く分布するバナナと石を選ぶバナナ型神話の変形である。
 鹿島神社@茨城県鹿嶋市:武槌大神。息栖神社@茨城県神栖市@岐神、天鳥船神。美保神社@松江市:三穂津姫命、事代主神は大国主神の最も格の高い子神。諏訪大社@諏訪市:四社、建御名方神、八坂刀売神。英彦山神宮@添田町:アマテラスの御子神。霧島神社@霧島市:邇邇芸命。猿田彦神社@伊勢市。
 三種の神器。銅鏡は紀元前1世紀後半、北九州に江南の航海民の集団が移住してきて魔除けの宝器として広めた。朝鮮半島あら銅剣。一世紀半ば頃から青銅器が国産化された。二世紀末に青銅器が量産。同時に鉄製の刀剣が輸入、鉄剣が宝器となる。大和朝廷の誕生は銅鏡と鉄剣と勾玉が祭器の中心に置かれた時代にあたった。(★時期が分かる)平安時代には賢所に安置されていたが、現在の皇居にも賢所がある。

木花開耶姫命は邇邇芸命の子供を日の中で生む。これは南方に広くみられる「火中出生説話」を元にしている。山幸彦と海幸彦の争いは南方に広く見られる「失われた釣針」の話にならった。山幸彦が瑞穂の国主となり、隼人を従わせるという内容につなげている。そのあと海神の娘の豊玉毘売が山幸彦の子を宿して地上に来て、鵜葺草葺不合命を生むが姿をみられたとして海に戻る。これも南方の伝説の異型である。豊玉毘売の妹の玉依毘売が地上にきて鵜葺草葺不合命と結婚し4人の子をもうけた。二人の姫は海神に仕える巫女であるとする。
 潮嶽神社@宮崎県日南市:海幸彦。若狭彦神社@福井県小浜市:山幸彦と豊玉姫。塩竈神社@宮崎県塩釜市:建御雷神が去った後、藍土老翁神がとどまり人に漁業や製塩を教えた。和多都美神社@対馬市:山幸彦、豊玉姫。海神の宮殿は対馬にあった。青島神社@宮崎市:玉の井という井戸で初めて山幸彦と豊玉姫が出会ったとされる。(★海神は島の豪族か?)

コラム:国造りはアマテラスを上位におくための神話。王家はかつて大物主神が大国主神の上位だったが、それを変えた。古くからある穀魂(穀霊)の降臨神話が国造りと結びつけられて天孫降臨神話がつくられた。邇邇芸命というのはもとは各地で進行されていた稲魂の神であった。高千穂は稲穂を高く積み上げたありさまであった。

神武東征:日本書紀では神武天皇の実名が彦火火出見で、邇邇芸命の子にあたる山幸彦の名前が彦火火出見尊である。古事記の中巻は伊波礼毘古命が高千穂宮で兄の五瀬命と話し合って、都とすべき地を探すために東方に行こうと決める所から始まっている。かれらはあちこちに寄港して大和に近づく。明石海峡を通る時、さ根津日子という国津神に出会い、道案内をさせた。この初代の稚根津日子は大和神社の祭祀を担当した倭氏の先祖である。倭氏の本拠地は大和朝廷を開いたとされる纏向(奈良県桜井市)のすぐ北に当たる奈良県天理市南部である。纏向遺跡から吉備(岡山県から広島県東部)特有の出土品が多く見つかっている。保久良神社の存在からみると倭氏は古くは保久良神社のある神戸市東部を治めた豪族であったと考えられる。220年ごろにそれまで何もなかったところに広さ一平方キロメートルの巨大な纏向遺跡を開いた。最初の大王と呼ぶべき人物。どのように神武東征に反映されているか不明。登美能那賀須年泥毘古という者が待ち構えていた。登美は地名。長脛彦は各地で祭られていた嵐の神を指すと言われている。五瀬命が重傷を負ったので船に戻って逃げたが、紀伊国の竈山でなくなる。
 高倉下が渡した神剣を伊波礼毘古命が手にすると熊野の悪神は退散する。この神剣は石川神社で物部氏が祭った布都御魂である。王家は三輪山の山の神である大物主神を土地の守り神として祭り始めた。大物主神は国魂と呼ばれる人々に水の恵みを授ける農耕神であった。物部氏と尾張氏の系譜を記した「先代旧事本紀」は高倉下を尾張氏の先祖としている。「高天原から降った邇芸速日命の長子を天香語山命という。彼は尾張氏の始祖で、別名を高倉下といった」(★別に降っている)この天香語山命の弟が物部氏の始祖とされた宇摩志麻遅命である。このような伝承によると建御雷神から降ろされた布都御魂は、高倉下から伊波礼毘古命に献上されたのち、高倉下の弟の宇摩志麻遅命に下げ渡されたことになる。神武東征伝説は継体天皇の時代に創作されたとされた説が有力であり、その次代は大連の大伴金村と物部アラカイが国政を動かしていた。高御産日神が夢に出て八咫烏を送ると告げている。八咫烏は葛野主殿県主という士族の祖先が見である。京都盆地の東方に本拠地を置き、賀茂大社の神職を務める賀茂氏は子孫である。葛野主殿県主は儀式の松明などの照明を担当していたために道案内の話がつくられたと考えている。
 宇陀の地は兄宇迦斯、弟宇迦斯(★発音)の兄弟が治めていたが、伊波礼毘古命を殺そうとしていた。弟宇迦斯は氷を管理する豪族。忍坂(奈良県桜井市)で八十建と呼ばれる豪族を騙し討ちする。
 邇芸速日命のみことは伊波礼毘古命に「故追いて参下り来つ」と行って従った。物部氏は「最初に王家に従い王家による日本統一を助けてきた」と主張した(★日本統一はすでにされていた、アレキサンダーか)古事記では邇芸速日命が長髄彦の妹の登美夜毘売と結婚して設けた宇摩志麻遅命が物部氏の祖先としている。
 長髄彦は嵐を起こす手長足長の神で縄文時代から祭られており、国魂の神とは土地の守り神で、稲などの作物を育てる農耕神であった。(★嵐の神:長髄彦→農耕の神:国魂→太陽の神:アマテラス)
 高千穂神社@高千穂宮町:十社大明神の祭神の三毛入野命は神武天皇の兄にあたり、常世国に渡った。(★常世国にわたった?)亀山神社@和歌山市:五瀬命を葬った。宮崎神社@宮崎市:神武天皇の孫の建磐龍命が伊波礼毘古命を祭ったのが始まり。保久良神社@神戸市:倭国造の祖である椎根津彦が青い亀に乗って近くの浜にやってきた。八咫烏神社@宇陀市:建角見命。刺田比古神社@和歌山市:戦士たちの指導官、道臣命。物部神社@島根県太田市:宇摩志麻遅命が天香山命と共に物部一族を率いて各地を平定した、美濃から越国を巡り、石見国に来た。石切劔サヤ神社@東大阪市:神武東征の後、饒速日命が祭られた。
 欠史八代とは。6世紀のはじめの時点で2代目綏靖天皇と10代祟神天皇の物語しかなかった。祟神天皇の物語は3世紀末に実在した「みまきいりひこ」という大王の事跡を下敷きにまとめられたと考えられている。5世紀の王家の人々は祟神天皇を始祖を意味する「はつくにしらすすめらみこと」と呼んでいた。しかし神武東征伝説ができたあと、神武天皇も「はつくにしらすすめらみこと」の敬称で呼ばれるようになった。2代目綏靖天皇と10代祟神天皇の7代の治世に関する記事が「旧辞」にはなかった。そのため古事記や日本書紀は開化天皇にいたる部分には物語を入れずに系譜だけを記した。

第三章 天皇と大和朝廷

五世紀までは三輪山の大物主神を自分たちの先祖神としていた。大物主神はお置けの先祖を指導者とする人間や動植物その他の霊魂の集合体だと考えられていた。必要な時に古墳に降りてくると言われていた。三輪山の登り口に拝殿が建てられて、大神神社の形ができたのは7世紀末。大和の地の守り神の「国魂の神」として信仰されていた。みまきいりひこ(祟神天皇)が三輪山の神の祭祀を始めた。(★祟神天皇が神道の始祖?)古事記は「意富多多泥古というものに私(大物主)を祭らせれば、疫病が収まる」と大物主が語る。祟神天皇は彼を探し祭らせ、伊加賀色許男命に祭りの土器をつくらせた。そして意富多多泥古の先祖の活玉依姫が大物主神の妻になる話が続く。意富多多泥古は大王の下で三輪山の祭祀を行った大神氏の先祖である。大三輪氏の祖先の女性が大物主の神となる話。これに対して日本書紀では王家の巫女が大物主の妻になる話になっていて、箸墓古墳がでてくる。箸墓古墳野跡にこの形式を真似た古墳が広がっている。これは王家が各地の豪族を組み込んでいったことを表している。

四大将軍の派遣。これは阿部氏の勢力は北陸地方や東海地方、吉備氏の協力を得て山陰地方まで及んだ。祟神天皇の子の垂仁天皇は沙本毘女を妻にしていたが、妻の兄が反乱を起こしたため、毘女と共に滅ぼされた。子供の本牟智和気王は話さなかったが、出雲を参拝して話すようになった。これは出雲の豪族が大和朝廷の支配下に入ったという史実を踏まえたものと見られる。垂仁天皇の治世に相当する330年頃から350年頃にかけて古墳が出雲の各地に広まっていることと対応している。
 豪族の始祖を祭る神社。田村神社@高松市:猿田彦大神、高倉下命を含む5柱を合わせた田村大神。大直禰子神社@桜井市:大直禰子命(意高多多泥古)、敢國神社@伊賀市:敢國津神(大彦命)。

倭健命の遠征。12代の景行天皇はおしろわけという名前を持っていた。4,5世紀には別という敬称をもっていた豪族が多く見られる。景行天皇は80人の王子をもうけて、若帯日子命、倭健命、五百木之入日子命の三人を手元に残し、あとの王子は国作りなどの地方官にした。倭健命は小碓命といい、大碓命という兄が言った。日本書紀には大碓命は蝦夷平定の将軍を言いつけたところ逃げ出したので美濃に領地を与えて王宮から追放した。これが美濃の身毛津氏と近江の守氏の祖先とある。古事記にも大碓命が美濃の宇泥須氏と牟宜都氏の祖先とする。筆者は近畿地方東辺部の近江、美濃、越前の三国に王家の子孫と称した中流氏族がいくつか見られることに注目する。4世紀はじめから有力な古墳が広まっているので、初期の大和朝廷と深い関わりをもった地域なのではと考える。
 西征。小碓命は叔母の倭比売命のもとをおとずれる。垂仁天皇の娘でアマテラスの祭祀を行ってきた。伊勢神宮は七世紀末にできる。七世紀半ばには太陽神を祭った笠縫邑に行く形だったとみられる。倭比売命は小碓命に女性の服と探検を与える。熊曾の地では除草して熊襲建の兄のそばに寄って短剣で刺し殺し、逃げ出す弟も殺す。熊曾は日向、大隅、薩摩を合わせた地域を支配した。しかしくまそなるものが存在したことを示す確かな文献はない。隼人との対立から話を創作したか。その後、出雲建と仲良くなり殺す。出雲建の和歌を読むが、日本書紀では同じ和歌を出雲氏の振根と飯入根の兄弟争いのときに読まれたものとしている。飯入根が兄の騙し討にあって命を落としので出雲たけると呼んでその死を悼んだ。
 東征。草薙剣の霊験譚として構想された。火に囲まれたところ草薙剣で助かり、手放したので伊吹山の神のたたりでなくなっている。かつては相手に対して相手が住む土地の神を祟ることによって相手に対して敬意を示した。景行天皇は息子に「東の方十二道の従わない豪族たちを説き伏せて来なさい」といっている。伊勢の倭比売命から火打ち石。尾張の美夜受比売。相模の火攻めで向火の話。房総へ船の途中で弟橘比売命が海神に身を捧げる。継体天皇は6世紀はじめにアマテラスの祭祀を始め、娘の大角豆皇女を太陽神を祭る斎宮とした。帰る途中に美夜受比売と会い夫婦になる。伊吹山で病気になり亡くなる。

 古事記では倭健命がなくなったので、弟の若帯日子が大王になり、葛城市や蘇我氏の先祖と言われる建内宿禰を大神に任命した。お時期は成務天皇が亡くなった後に倭健命の子、帯中日子が大王になったとある。仲哀天皇である。この天皇は息長帯比売命(神功皇后)を妻に迎えて、筑紫に赴いて熊曾を討とうとしたという。ここい記した成務天皇、仲哀天皇、神功皇后は7世紀末に新たに創作された人物と筆者は考えている。
 倭姫宮@伊勢市:倭姫命。焼津神社@焼津市:向火の場所。走水神社@横須賀市:日本武尊から授かった冠を御神体。橘樹神社@千葉県茂原市:弟橘比売命の櫛を葬った。
 コラム。常陸国風土記には倭武天皇を主人公にした伝承がいくつか記されている。また鹿島神宮の近くの乗浜は倭武天皇が来られたときに多くの海苔が干されているのをご覧になられた。そこで乗浜のち名ができた。

 神功皇后の三韓遠征。仲哀天皇が熊曾を討つために筑紫の香椎宮(福岡市)にいたときに皇后が神がかりになって神託を述べるが、それを疑った仲哀天皇はなくなる。改めて神託を伺うとお腹にいる皇女が統治する。三柱の住吉の神。新羅に向かいなさい。船団が津波お起こし新羅国の半分が瞬く間に海に沈んだ。新羅は戦うことなく神功皇后に降伏した。古代史の研究者の多くは37代斉明天皇という女帝をモデルに白村江の戦いを下地に構成されたのではとしている。神功皇后伝説の最も古い形は宗像三神の霊験譚であったと考えられる。4世紀なかばに大和朝廷と朝鮮半島南丹との貿易がさかんになったときに、王家による宗像三神の祭祀が始められた。対馬海峡の航路近くにある沖ノ島(福岡県宗像市)には祭事遺跡が多く見つかっている。

 神功皇后は新羅を従えて帰国した後、九州の宇美で王子を産んだ。しかし王子の二人の異母兄弟が反乱を企んでいた。反乱を鎮圧し、王子は伊奢沙和気。いざさわけは天理市の石神神宮に伝わる七支刀銘文に名前が出てきて「倭王旨に贈る」とあり。この後に宋書に賛・珍・・興・武の五人の倭王が続く。百済と国交が開始され、盛んに貿易が行われた。
 香椎宮@福岡市:仲哀天皇、神功皇后。高良大社@久留米市:高良玉垂命、筑後の国魂、武内宿禰と同一神としている。


 

新日本古代史

2021 育ほ社 田中英道

はじめに

三国志の倭人伝、魏志倭人伝の邪馬台国がやたら尊重された。卑弥呼神社は荒唐無稽。第一の神武天皇=ニギハヤヒノミコトによる第一大和国、第二の神武天皇=祟神天皇意向の第二大和国、聖徳太子による神仏習合の国の第三の大和国。西洋の中世は破壊されていて存在しない。中国も漢民族の歴史ではない。秦の始皇帝はユダヤ系。土偶は近親相姦による奇形。高天原の神々の話は日高見国の話。天孫降臨によって西に移動した。「大祓詞」に出てくる「大倭日高見国」の誕生。

第一章 日本を目指す太陽信仰と日高見国

大陸から太陽の昇る国日本に来た。東方信仰。太陽と月をシンボル化した勾玉なのでは?皇室の菊の御紋はエジプトやイスラエルでもシンボルとして使われている。菊は中国のもので日本に入ってきたのは奈良時代。本来は太陽紋だったのでは?日本は都市国家ではなく、自然とも調和していた国家。古事記、日本書紀、風土記でも高天原が扱われている。高天原が日高見国という国で縄文時代から発生している。ツクヨミノミコトはアマテラスオオミカミから命ぜられて、ウケモチノカミのところへいく。これをころしてしまうが、死体から牛、馬、蚕、稲などが生まれ、穀物の期限となった。これは日本書紀の話。
 日高見国の名前が土地に残っている。日高見国と通じる北海道の日高地方、日高見川といわれている東北の北上川がある。埼玉県の日高山、奈良県の日高山、大阪府の日高山。鹿島神社や香取神宮のそばに高天原という土地が3つも残っている。高天原には天地があり、最初にアメノミナカヌシノカミ(太陽神、最初の頭首?)、タカミムスビノカミ(高見?ムスビは統一?)、カミムスビノカミの三柱がうまれる。タカミムスビは、オモイカネノミコト、タクハタチジヒメという子供。アマテラスが天孫降臨を命じたアメノオシホミミはタクハタチジヒメと結婚し、子供がニニギノミコト。タカミムスビはニニギノミコトの外祖父、天皇家の祖父。古事記にはタカミムスビが7箇所も出てくる、勾玉は関東に多く発掘されている。

第二章 縄文文明と「神代七代」日高見国

縄文時代の遺跡は関東・東北に多い。千葉・東京には貝塚も多く、土器・土偶の出土も多い。具体的な地名が多いため縄文・弥生時代の記憶をもとにつくられた物語、歴史である。日本書紀の景行天皇の二十七年の記事に「東夷の中、日高見国あり、その国の男女、並びにかみをあげ<<みをもとうげて>>(入れ墨)、人となり、勇敢なり、これ総て蝦夷という」とある。ヤマトタケルノミコトの陸奥の戦い後の描写では、「蝦夷すでに平らぎ、日高見国より帰り、西南常陸を経て、甲斐国にいたる」と書かれている。鎌倉時代の釈日本紀には「孝徳天皇の御代つまり大化の改新の時代に、茨城に新しい行政区として信太郡が置かれたと風土記の常陸国編に残っていますが、この土地がもと日高見国と呼ばれた地域である」と解説されている。平安時代の延喜式に定められた祝詞「大祓詞」には、日本全体を示す「大倭日高見国」という言葉がある。中国の歴史書「旧唐書」には「倭国」と「日本国」とが別々に書かれている。
 日本最初の土器は一万六千五百年前で、縄目模様の特殊な土器。土器は調理器具でもあり大型なので定住した。1988年青森県の大平山元遺跡で世界最古の土器が見つかった。漆器も北海道の南茅部町で発見された。1950年三浦半島で世界最古の1万年前の貝塚も発見された。世界最古級の二万年前の墓陵が大阪府藤井寺市のはざみ山古墳。定住は日本が世界で一番はやかった?一万数千年前から栄えていた縄文文化の代表格は三内丸山遺跡。5500年前〜4500年前。
 関東地方で竪穴住居がある遺跡は65箇所。最大なものは東京都府中市の武蔵台遺跡。南関東では漁労もしていた。関東以外では北海道の函館の中野B遺跡に、縄文早期から中期と見られる五百棟以上の竪穴式住居跡。墓からは多数の土器。漁労を行う住居に即した土器、石皿。三内丸山遺跡は紀元前5100年から紀元前3800年に存続、常時600人と思われていたがそのごの調査で5000人が住んだ都市。1994年には大型建造物の存在を示す直径一メートルの6本の栗の木。
 黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大玉が日本各地で出土。交易によるもの。縄文遺跡を地図上で見ると、甲信越から関東・東北に密集。そこに道があったと考えらえる。
 紀元前5600年から紀元前4000年までは縄文中期だが、遺跡をみると東北・関東・北海道が発展していた。高天原=日高見国という国があり、中心地が来たから南へ、東北、関東、中部と変化した。常陸国地方、武蔵国地方、八ヶ岳周辺。高天原に三柱の現れ、タカミムスビ、カミムスビの二神が現れるときに<葦牙のごと燃え上がる物によりて成りし神>とあり、高天原に「葦牙(あしかび)」の存在を伝えている。葦牙は葦の芽のことで、ウマシアシカビヒコチノカミがそのことを示しているもう一つの神はトコタチノカミで、この二神が作った島々は<豊葦原の千秋の長五百秋の瑞穂の国>と言われている。葦はいずれも稲田を意味するが日本書紀では日本のことを豊葦原の国と読んでいる。
 エドワード・モースは「記紀の国生み、天孫降臨、神武東征は天皇の祖先が渡来し、先住民を征服した」という見方をしていた。司馬遼太郎も「異本列島は紀元前300年ぐらいに稲を持ったボードピープルがやってくるまで闇の中にいた」との見解を述べた。
 三柱の跡に五柱が現れ別格の天津神としている。その後にイザナギ、イザナミを含めた七神が現れた。この神世七代までが縄文早期に当たると筆者は考える。

第三章 イザナギの系譜と国譲り

縄文時代の中期から後期のはじめにかけては温暖な時代が続いていたが、後期からは日本はだんだんと寒冷化した。縄文海進で海が内陸に入り込んだ状態。寒冷化は今から三千年前から始まり、人口移動が始まった。当時の90%以上の人たちが関東、東北、北海道にいた。しかし人々は西や南、西南に移る。この時代、人口移動に伴い、島国としての日本の防御が問題になり、国生みにつながると筆者は考える。国生みは西半分だけである。東の日高見国は西の国大和国を作ったとする。大陸からの勢力に備え西の地方を防御するという。
 イザナギが同族婚をやめ、多くの別の家系と関係を持ち始めるのが縄文と弥生の変わり目。イザナギが生んだ三貴子、アマテラスは太陽、ツクヨミは月、スサノオは海。スサノオは命に従わずイザナミに会いたい。古事記ではスサノオはイザナミの鼻から生まれた。日本書紀はイザナギの手にした白銅鏡。スサノオの母はアマテラスとツクヨミの母とは異なる女性で、先住民系ではなく帰化人系なのではにか。スサノオの髪型がユダヤ人特有のみずらである。スサノオは黄泉の国に行く前にアマテラスに会おうとするが高天原を占領しに来たと思い臨戦態勢をとる。左右のみずらにかずらをつけた。みずらはユダヤ教徒たちが古代から続けている髪型である。中央アジアの仏教壁がにみずらをしている人物が描かれる。スサノオは高天原で8つの悪行をするが農耕に関するタブー。これはスサノオが遊牧民族だとする。逆剥は馬を逆さに剥ぐことだが馬のいなかった日本人にはできない。スサノオは中部・関東・東北の日高見国で悪行をしたと考える。スサノオが統治するはずだった海の国、大和国以前の西国、出雲を中心とした神が、東国=日高見国を破壊しようとした。
 アマテラスは天の岩屋に隠れて、世界が暗闇になる。日食は短すぎて古事記とは合わない。火山や噴火によって天空が闇に包まれる現象。富士山こそが高天原と葦原中津国を闇に覆うことができる規模の火山。紀元前15000頃〜紀元前6000年頃まで山頂噴火と山腹噴火など断続的に大量の玄武溶岩を噴出した。
 スサノオは高天原を追放されるが財産没収、髪の毛を抜く、爪を剥ぐ、という処罰がくだされる。財産は千座置戸の没収で、千の倉に入るほどの財産を没収されたとされているが、なぜスサノオが高天原に財産を追っていたかは記されていない。古事記によるとスサノオは出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(今の奥出雲町鳥上)に降り立ったと記されている。注目すべきは降り立ったところに具体的な地名があることです。オロチを退治したスサノオはクシナダヒメを妻にすると出雲の根の堅洲国(島根県安来市)の須賀の地へ行った。オオクニヌシが根の国のスサノオのもとにやってきて、娘スセリヒメと互いに一目惚れをする。スサノオは試練を与えたが克服しオオクニヌシという名を送った。古事記によるとオオクニヌシはスサノオの六世の孫、日本書紀ではスサノオの息子、葦原中国を作った神。葦原中津国を主要な活動の場にしている神々を国津神、アマテラスはじめ高天原の神々を天津神という。
 国譲りとは高天原のアマテラスが葦原中国、つまり地上の国・出雲を収めるオオクニヌシに向かって圧力をかけ、国の支配権を譲らせた神話。高天原から何度か使いを出すが葦語のタケミカズチノオノカミという剣豪が送られ、オオクニヌシの息子、タケミナカタノカミは国を譲る。タケミナタカは諏訪に連れて行かれる。オオクニヌシの降参を示すかもしれない遺物が発見されている。出雲大社近くの荒神谷遺跡から358本の銅剣、六個の銅鐸、銅矛16本が1984年に出土している。国譲りは銅vs鉄で銅が敗れたともみられる。

第四章 日高見国から大和国へー天孫降臨

天孫降臨はアマテラスの孫にあたるニニギノミコトが地上へ天降ることを指している。筆者は日高見国の中心地である鹿島から九州の鹿児島に統一に向かうという史実とする。ニニギノミコトの九州への天孫降臨より前、ニギハヤヒノミコトにより最初の天孫降臨があった。関東の鹿島から天の磐船に乗って伊勢から大和地方に入ったと伝えられるニギハヤヒノミコトを祀る神社は千葉や茨城に二十五社もあり、伊勢には三十から四十社あります。このようにニニギノミコトの天孫降臨より前に天孫降臨して大和に入ったニギハヤヒノミコトたちがいたことを証明している。鹿島から鹿児島(日向の高千穂峰)に天孫降臨したニニギノミコトは土地の豪族・オオヤマツミの娘コノハナノサクヤヒメを娶る。そこから生まれたのがホデリノミコト、ホスセリノミコト、ヒコホホデミノミコト=山幸彦である。山幸彦の三代目、ニニギノミコトの四代目にあたるのが、イワレヒコ=神武天皇です。のちに東征を行って、奈良・大和の地を平定する。
 神武天皇の再統一は大陸から来る帰化人たちが多くなり、北から南下して西に定住する人たちも増えて、関西が非常に重要になってきた。徐福も秦の始皇帝の命で日本にやってきている。中国の春秋戦国時代に入り戦乱で大陸から九州に流入してくる難民の人が多かったと想像される。イワレヒコの東征は大陸からの侵入に備えたものとと筆者は考える。徐福は三千人の男女と技術者を連れて船出した。日本各地に徐福伝説が残っており、京都府与謝郡の新井崎神社、三重県熊野市の徐福の宮など徐福を祀る神社もあり、熊野市には秦の時代の半両銭が出土している。日本の建国には常に外圧が関係していた。神武天皇の時代、聖徳太子以降の天武天皇から聖武天皇の時代、そして明治天皇の時代と日本には大きく3つの「建国」がある。それぞれに共通するのが「外圧」だった。
 ニギハヤヒノミコトは神武天皇の前に大和に天孫降臨されていた。「先代旧事本紀」によると、このニギハヤヒの天降りの時期は国譲り神話の前に書かれていることから、それ以前のことのことと考えられる。「旧事本紀」巻三「天神本紀」、第五の「天孫本紀」にニギハヤヒとその子、アマノカグヤマノミコト以降の子孫が十七代に渡って語られており、かなり長い間、大和地方を統治していことが分かる。
 イワレヒコは17年かけて大阪の難波に着きます。日本書紀には神武天皇が浪速国の白肩津で待ち受けていたナガスネヒコとの闘いをもって一段つく。ナガスネヒコはニギハヤヒノミコトに使えていたが、天神の子を名乗って土地を奪いに来るイワレヒコに意義を唱える。しかしニギハヤヒとイワレヒコは天の羽羽矢とかちゆきをふたりとも持っていて、ニギハヤヒが天孫であることを確認する。しかしナガスネヒコは闘い殺害される。ニギハヤヒが物部氏の先祖で、ニギハヤヒが国譲りをしている。帰順しなかった豪族は滅ぼされる。禁忌を平定し神武天皇となる。神武天皇は日本書紀にハツクニシラススメラミコトと号されているが、第十代崇神天皇も同じ意味の初国知らしし御真木天皇(古事記)、御肇国天皇(日本書紀)、初国所知美麻貴天皇(常陸の国風土記)と記されている。神武天皇=崇神天皇と考えられるとする。欠史八代はニギハヤヒとう存在をないものにしたところから来た調整。記紀には陵は奈良県橿原市大久保町の畝傍山東北陵(山本ミサンザイ古墳)と書いてあるわけですが、確定できない。欠史八代は東国との関係が非常に強い人達で記録が欠落したのでは?
 神武天皇の大和統一以降、興奮時代には数多くの古墳がつくられた。特に大和や川内にはひときわ巨大な古墳が築かれた。神武天皇の御陵は橿原市大久保町のミサンザイという場所にあるが、もともとは橿原神宮の敷地の中の畝傍山の中腹にあったとされている。小規模だが前方後円墳であったと見られる。前方後円墳は中国に破損ざんせず、朝鮮にもごくわずかし存在しない。奈良には原型はないが、関東の古墳には前方後方墳という形が見つかっていて一つ前の段階だと考えられる。

第五章 大和政権の確立

 祟神天皇は、オオビコノミコトを高志道(北陸道)に、オオビコノミコトの子タケヌナカワワケノミコトを東国十二国(東海道)に、キビツヒコを西道(山陽道)に派遣し、ヒコイマスノミコを丹波国(山陰道)に派遣し、その国を服従させた。この四人を四道将軍という。オオビコノミコトは戦に勝ち、山代国を平定して、高志国ヘ向かい、息子と合流したので、アイヅと呼ぶようになった。 即位十二年、戸口を調査して初めて課役を課したと記されている。この偉業をもって所知初国御真木天皇と呼んだとされている。この治世で大和調整は大八洲を統一した。弟のイクメノミコトを皇太子として、兄のトヨキノミコトには東国を治めさせる。即位62年灌漑事業を行った。65年任那が使者ソナカシチを遣わしてきた。

 景行天皇は息子のヤマトタケルノミコトは九州討伐をすると共に関東・東北を抑えるための東征を行っています。隼人は関東から鹿児島にやってきた人の子孫ではないかと考えている。理由は鹿島神宮、香取神宮と並んで東国三社に数えられる息栖神社と関わりがあると考えられるから。息栖神社に祀られているアメノトリフネノカミはタケミカズチノカミを助けて鹿島から鹿児島へやってきたとされる。アメノトリフネノカミは船の神であり、鳥の神。息栖神社は船の神社でもあり鳥の神社でもある。九州南部には熊襲もいた。この人も関東から来た人と考える。熊襲神社が関東・東北に多いから。紀伊半島の熊襲神社が有名だが、関東・東北に多く点在している。
 子のヤマトタケルはユダヤ人の血を引いていたのではないかと考える。記紀にある殺人行為は日本人的でない。兄殺し。熊襲兄弟を惨たらしく殺害。イズモタケルを卑怯な手口で殺す。更に東国十二国に派遣され、火攻めに会い、焼津と呼ばれる。実際には天皇の巡幸だったのでは。それは軍勢を率いていない。常陸風時の記述では天皇として書かれており、巡幸されたと書いてある。たしかに討つ話は2つだけで後の十七件は天皇の巡幸に関わる内容である。常陸国風土記にはともに狩りを行ったり、清水を飲み御膳を供する様子が書かれている。福島県の都々古別神社の社伝にもヤマトタケルは東征の折に千回戦って千回勝った、とあり後代の八幡太郎義家は社号を千勝明神と改めた。ヤマトタケルは神剣である伊吹山に向かうが、大氷雨にあい、病身になり三十歳の若さでなくなる。

 仲哀天皇はヤマトタケルの第二王子、皇后が神功皇后。熊襲が反抗的だったので仲哀天皇と神功皇后は熊襲征伐に赴く。神功皇后は朝鮮攻めを押すが、仲哀天皇はそのまま熊襲征伐を行い勝てず病気になり崩御する。神功皇后は船を集め、玄界灘を渡って新羅に攻めに行く。筆者はこれはユダヤ人の力があったと考える。海の道を作ったユダヤ人も日本に帰化して、三韓征伐をバックアップしたのではと。ユダヤ人は秦氏と呼ばれる日本人。新羅王は降伏する。高句麗と百済も降参する。神功皇后は身重の状態で朝鮮に渡ったが、その子が応神天皇。

 応神天皇と時代の仁徳天皇が古墳時代の日本で一番栄えた時代だったが、その財力の豊かな秦氏が支えたと筆者は考える。応神天皇の時代に弓月国から百二十県の人々を率いて渡来した弓月君が秦氏の先祖。百済からの渡来人であった。日本書紀によれば弓月君が百済から来朝したのは応神天皇十四年。軍勢を派遣し、新羅の妨害を除去し、渡来を支援した。平安時代初期の新撰姓氏録では弓月君は融通王の中で記録されており、秦の帝室の末裔と書かれている。秦始皇帝三世孫、孝武王の末裔。日本書紀と新撰姓氏録は共に弓月君が秦氏の祖先であると記している。実際に中国の西、ウイグル、カザフスタンのあたりに弓月国は存在しており、そこからユダヤ人たちがはるばる日本に渡ってきた。
 応神天皇は筑紫で生まれた。応神天皇は多くの渡来人を受け入れた。古事記によると王仁によって論語と千字文が伝わったとされている。応神天皇を祭神として弓月神社が丹波にある。秦氏が信仰していた八幡神社は中世に応神天皇と集合した。

 仁徳天皇は第十六代天皇で、日本最大の墳墓は仁徳天皇陵であり、世界最大でもある。これを作った人々は土師氏と言われている。土師氏の先祖は野見宿禰といわれている。巨漢で西方の人と考えられる。もともとは難波についた船から見える高台につくられた。民に慕われていた。秦氏に土地を与え太秦という名前を授けたのも仁徳天皇だった。五十八年の条に中国の東晋の時代だった呉の国と高句麗から朝貢してきた。古代朝鮮の遺物である好太王碑に何度も日本が攻めてきて倭の軍が高句麗と新羅の軍を破ったと書いてある。日本が百済、加羅、新羅を臣民となしたと書かれている。

 雄略天皇はヤマト王権の力を拡大させた。冷酷で貪欲な一面もあった。宋書や梁書に書かれている倭の五王の武であると考えられている。稲荷山古墳の鉄拳の銘や、江田舟山古墳の鉄刀に刻まれたワカタケル大王という銘によって、雄略天皇の実在性は具体的になった。稲荷山古墳の鉄剣の銘文では中華皇帝の臣下そていの王ではなく大王と明記されている。雄略天皇は478年に中国への遣使はやめている。雄略天皇は秦氏を厚遇した。果たしはもともとシルクロードとの関係が深く、機を営むことが多かった。絹、かたおりを朝廷に多く奉納していた。最後の遣使は478年で次の遣使は609年607年の遣隋使で、日本の自立性を示す。宋の順帝は倭王武に新羅・任那・加羅・奏韓・慕韓六国を治める倭王としている。

 武烈天皇は非道な天皇として描かれている。暴君として仕立てたい作者の意図が顕著である。

 継体天皇は58歳で即位した。武烈天皇は世継ぎがいなかったので、応神天皇の五世代孫で、越前国を治めていたおおどのおおき王を迎えた。日本はもともと朝鮮半島東武に大きな拠点をもっていたが、四世紀にあると高句麗が強くなり、南部では百済や新羅が台頭してくる。百済経由で鉄器や鉄の農具・兵器や漢字儒教などの中国文化が入ってくる。四世紀後半に百済が大和朝廷に救援をもとめてきて、救援の軍を九州北部に送ったが、新羅と通じた筑紫の磐井によって反乱が起きる。朝鮮での勢力が次第に衰えていった。

 欽明天皇の時代では大陸から日本にやってくる人が急増した。大陸では南北朝時代にはいり、小国が乱立し、不安定だったので日本に渡来する人がおおかった。百済王は仏像と経典を献上した。日本書紀には仏像がキラキラ輝いているのに驚いた欽明天皇がこの像を慕っていいのだろうかと臣下に訪ねたというエピソードがあります。仏教を受け入れを巡って争いがあった。受け入れる蘇我氏で、拒否するのが物部氏だった。蘇我氏が勝って政治の主導権を握った。

 敏達天皇は朝鮮半島南部の任那の復興を目指して、百済と協議しましたが、うまくゆかなかった。疫病が流行り始める。仏教を拒否してい物部守屋と中臣氏が勢いづいて仏教禁止令を出して仏像と仏殿をもやす。疫病は広がり敏達天皇も病に倒れる。後に蘇我馬子が願い出て仏教を許すとされる。二番目の皇后が額田部皇女だが、後の推古天皇である。

 推古天皇が即位して、甥の聖徳太子が摂政として蘇我氏と協力して仏教を受け入れた政治を行う。共同宗教の神道と、個人宗教の仏教を受け入れ、日本人の精神性は豊かになっていく。仏教の寺院がたてられ、巨大古墳が消えた。