大和朝廷 VS 邪馬台国 ~ 古代、2つのヤマトの戦い

2024 星雲社 澤田健一

中国とも絡めてあるのと、広く文献を参照しているので、大変参考になった。

序章1 出アフリカー大いなる弓の民族の旅立ち

縄の発明、縛る、狩り(★縄の研究?)。縄を使った弓矢の発明、弓の民族、弓矢は6万4千年前。9万年前、銛。12年前、装飾品+屈葬。(★ホモ・サピエンスでも出アフリカは数回あった、別の民族?)中東の人骨は9万年−8万年以降はネアンデルタール人。それまでにホモ・サピエンスは通過している。弓は象徴的、神武天皇と長髄彦でも天孫族の証として見せあった。随書倭国伝には正月一品に射儀・飲酒するとかる(★射と宗教)。南アフリカのブロンボス同期つからアクセサリーや赤色顔料が発見されている。

序章2 南インド・スリランカ

アフリカから東に向かった大いなる弓の民族(★ちょっと待って、陸路じゃないかも??)ヒマラヤの南側を歩いてスリランカまで来た。外洋航海できる船も技術もなかったので北上。インドのタミルナドゥ州にはヒンズー教以前の古いお祭りがあり、日本と近い文化がある。大野晋著「弥生文明と南インド」。スリランカ南西部のジャングルに覆われたファヒエン・レナ洞窟から骨製の矢尻が見つかっている。スリランカで赤色顔料のビーズが発見されていて、日本の北九州の古墳壁がでも使われている、さらに日本がにも使われている。インドとのつながりは言語や餅の形でつながり。

序章3 カリマンタンとコロボッククル

スンダランドには原人は到達していなかったが、フローレンス島にはいた。アボリジニはオーストラリアに上陸したいた、一万年以上の前の前の話をユーカリの樹皮に描いて創世記として伝えている。アイヌでは物語をユーカラと呼ぶ(★アイヌ語確認)。アボリジニ、アイヌ、台湾のルカイ族もムックリを大事にしている。人類は7万年前までには東南アジアに達している。インド南部のジュワラプラーム遺跡では七万四千年前に大噴火したドバの火山灰層の下からも石器が出てきている。(★日本はどうなのか)インドネシアのスラウェシ島のリアン・テドング洞窟から4万5500年前の壁画が見つかっている。アイヌ犬は南方のカリマンタンにいる犬と同じ遺伝子を持っている。

序章4 刀部磨製石斧と丸木舟

石斧作れるようになり、大木で高速な丸木舟が作れるようになった。天の磐船と名付けられた。イザナギとイザナミが乗り込み、3万8000年前ごろ。大和朝廷は夷をつちぐもと呼んだ、首長は女性であることが多い。

1 イザナギ日本初上陸とヤマトの命名

カリマンタンから西表島まで船で漕ぎ、イザナギとイザナミは日本に着く。宮古島から沖縄本島まで220キロある(★海面とルート確認、南アフリカから)そして南九州におりたった。成功を本国に伝えるとカリマンタンから続々と新たな蝦夷が渡ってきた。そのころは氷河期(最終氷期)。ナウマンゾウ、オオツノジカ、ヘラジカがいた。

ニニギ、ニギハヤトが各地を回った。天孫降臨に随伴した神々は32柱と先代旧事本紀にある。ニューギニアの船も5,6人が乗って漕ぐので4艘か。石垣島の洞穴遺跡からは2万3000年前の人骨が出土。台湾から100キロ離れている。宮古島や沖縄本島でも3万〜2万年前の人骨がはっけんされている。サキタリ洞遺跡では3万6500年前と約3万7000年前の日本最古の化石人骨が見つかっている。沖縄のサバニという船でフィリピンまで行ってた。装飾古墳の分布は九州と東日本、有明海から八代海の沿岸に集中。船の舳先に鳥が止まっていて、太陽と鳥、月とヒキガエル、矢と矢をいれる道具である靭が描かれている。

2 日本の後期旧石器時代

日本列島は1万にもおよぶ旧石器時代の遺跡が確認されている。世界のどの地域と比べても圧倒的。シベリアにも旧石器時代の遺跡があるが、新しい。テント式住居が使われて竪穴式住居はあるが少ない。黒曜石を石器作りに利用していたが、日本全国で見つかっている。神津島産の黒曜石が静岡県の見高段間遺跡で見つかっている。槍や弓矢に加えて3万5000年前から落とし穴が使われている。2万8000年頃ナウマンゾウ絶滅、1万七千年頃マンモスも絶滅。ナッツの利用、オニグルミなどの貯蔵庫が見つかっている。すみ潰してもいた。鹿児島湾北部の姶良カルデラの大噴火が起き、東日本と西日本に異なる文化圏が生まれた(★なんで??)。2万4000年ごろ北海道で細石器が生ませ、広まっていった。

旧石器時代の遺跡は山地に多く、低地海岸線にほとんどない。ただし旧石器時代は最終氷河期にあたり海面が現在よりも100~130mも低下していた、海底にある可能性はある。細石器は古北海道半島で生まれ、土器は青森で生まれた。

3 縄文土器の誕生

土器は日本では多民族より1万年以上前に始まっている。最古の縄文土器は青森県の外ヶ浜町にある大平山本1遺跡から出土した1万6500年前の土器である。ただし縄文がない。西日本でも縄文時代後期頃から縄文が無くなる。ところが関東では弥生中期まで、東北では古墳時代以降まで、北海道では室町時代頃まで縄文が残るという地域差がある。様々な土器があるが、亀ヶ岡式土器は沖縄を含む全国から出土していて、奈良県橿原市の橿原遺跡からは大量に出土している。土器は煮炊きの道具として使われていて煤や焦げが付いている。文様はヘビや猪である、ただ猪には牙がない。
 縄文時代前期後半の5500年頃からヒスイの加工が始まる。北海道八雲町シラリカ遺跡ではヒスイ製品の出土していて、きれいな穴を開けることに成功している。ヒスイはナイフより固く加工しにくい。北海道で生産されるヒグマの毛皮は非常に高価な物資であり、物々交換により全国の宝物が北海道に集まった。南方の島々に限定される例えばオオツタノハ貝を利用したブレスレットなどである。
 縄文時代の集落は北海道・東北に多く、縄文遺跡の八割が東日本に存在している。縄文集落の周囲にはクリやドングリなどの堅果類(ナッツ)の人工林が植林されていた。原始的な焼畑農耕も開始されていた。それらを何種類も使って酒を作っていた。共通レシピもあった。福井県ではウルシ材が見つかっていて、1万2600年前にウルシ製品も作り始めている。北海道ではウルシ染の糸を使った製品や9000年前のウルシ塗りの土器も発見されている。ウルシ装飾品としては世界最古である。

 エドワード・モースは出土した土器をアイヌのものだと考えていた。アメリカ先住民のものと似ていて、大森貝塚の人々とアメリカ古代人は同人種としていた。立川型尖頭器は北海道を中心に分布しているが、誕生した後すぐに北米でも出動している。縄文式集落は存在帰還が長く、常呂遺跡も標津遺跡群も8000年という長期間にわたって畝井されていた。これほど長期間存続した集落は日本以外では一つもない。縄文人は弥生人よりも手足がながかった。熱帯アフリカの集団は四肢が極めて長く、その頃の体型をたもっていた。弥生時代になり米食が中心になると消化のために胴がながくなり胴長短足のスタイルに変わっていく。長髄彦は実際にスネが長かったのでは。風土記には八束脛と呼んでいる。

4 河姆渡

蝦夷は雲南省にもたどり着き、高床式建物、お歯黒、歌垣、納豆、下駄、畳、鮒鮓、赤飯など日本文化をもっている。一部の少数民族の言葉には日本語と同じ発音があり、ワ族と呼ばれている。(★要確認)ワとは倭ではないか。雲南省は西南シルクロードの起点となっている地域で3つの河川によって外界と繋がっている。人々は村ごとに新嘗祭を執り行っている。最初期の稲作文化で有名なのは上海市の南側にある浙江省の河姆渡遺跡である。縄文人と同じく編布を使い、死者は屈葬されている。中国南方でも一番東側、つまり一番本国日本に近い河姆渡を稲作文化の拠点とした。しかし水田には灌漑設備が整っていなかった。北方域の蝦夷は中原に入り夏王朝を築き、それを倒して商(殷)王朝を樹立した。

5 アマテラスの帰還

アマテラスは大陸で水田を試していて灌漑設備を完成させて、日本の九州北部にやってきて、人々を指揮して水田稲作を始めた。3000年前である。

 世界初の灌漑設備を完備した水田は朝鮮半島南端に登場しているが、1ツボ未満や三坪程度の大きさ。殷王朝滅亡、周王朝誕生と同時期である。その数十年後には北部九州に灌漑設備を完備した本格的な大水田が突然登場する。ちなみに江南地方の水田稲作が始まってしばらくして、突然メソポタミアでも小麦の灌漑農耕が始まっている。しかし、塩害で失敗する。なので、朝鮮半島南端の小水田は実験用だっと考えている。日本最古の水田、菜畑遺跡である。ここから出動した石斧や石包丁は半島南端で出土するものと区別がつかない。またアマテラスやスサノオはイザナギの子ではなく、3万5000年の隔たりがある。

6 スサノオの怒り

アマテラスが集落周囲のドングリ林を切り倒して水田を作り始めたので、怒る。この戦いは千年以上続く。スサノオには三柱の女性神の子が板。田心姫、湍津姫、市杵島姫命の三柱。筑紫の宗像氏によって奉斎され、宗像大社に祭られている。沖ノ島の沖津宮(田心姫)、筑紫大島の中津宮(湍津姫)、宗像市田島の辺津宮(市杵島姫命)の三社。そうしてヤマトは二分されていく。

 糸島市の曲り田遺跡で住居跡の床面から板状鉄斧が出土したが、日本列島でもっとも古い灌漑式水田が出現する紀元前10世紀となる。ところが中国で鉄器が普及するのは紀元前6世紀ので、菜畑遺跡では紀元前10世紀に杭を尖らすのに多くの鉄斧が使われているとう研究結果まである。本格的な普及は紀元前4世紀であり、燕で大量生産が始まるより一世紀ほど古い。日本の研究者は鉄の普及が中国よりも早いのでこの発見をないことにしてしまった。答えはインドにあるインドでは紀元前1100年頃に製鉄が行われていた証拠がある。インドの製鉄は紀元前10世紀よりも前に始まっている。日本の鉄はインドから輸入したものなのであろう。インド南部では紀元前3000年紀以降に新石器文化が起こっており、前1000年紀まで存続している。中国の鉄の歴史は紀元前2000年紀後半の商王朝中期の中原である。これは日本の夷、縄文人の子孫である。中国の礼記の王政編には「東方のことを夷という、夷とは根本の意味である」と記している。原住民の周王朝の支配が広がる紀元前1000年頃に、考案文明の人々が本国へ帰還するのと同じく、黄河文明の人々も本国へと帰ってきた。本国へ帰った後も公益活動を続けて、「商」の人々が売り買いする品が商品であり、商の人々が売る行為が商売であり、その人々は承認と呼ばれた。だからこそ商売繁盛の神様は夷神社なのである。(★夷=商人?、海の民??、書経を読み直す)商が滅んだのは約3000年より少し前であるが、その頃に青森を中心とする亀ヶ岡文化が始まっている。複数の遺跡から三足土器が出土しているが、その祖型は日本国内では見当たらない、商の三足の青銅器である鼎が祖型なのではないか?と考える学者もいる。

7 神武東征

ヒコホホデミは水田稲作を開始してから300年なっているので、夷たちとは対立していた。東に良い土地があるので、東征を開始した。日向を出て筑紫に移り一年過ごす。そこから安芸国にわたり次に吉備国に移って行宮に入った。数年をすごし水田作りの指導を行った。そして高島宮では武器や兵糧を蓄え、ニギハヤヒが支配する土地を目指す。畿内へ押し寄せたが長脛彦との戦いが原因で兄井イツセが命を落とす。紀の国から北上しエウカシも撃破し長脛彦も倒して畿内を平定した。紀元前660年のころである。ナガスネヒコの兄アビヒコは畿内から脱出し、東北に身を寄せる。アビヒコを祖とする東北安倍家は大和朝廷と激しい対立関係になる。(★東北安倍氏の歴史)畿内地方の弥生時代の始まりは紀元前600年代であり、弥生時代前期である。この時期に近畿地方の水田稲作が開始された。(★これがニギハヤヒか?)水田稲作は紀元前7世紀から前5世紀にかけて伊勢湾沿岸地域にまで広がっている。紀元前4世紀には中部・関東南部地方をのぞく本州全域にまで広がる。

 紀元前10世紀後半にはい待った水田稲作は前8世紀の終わり頃には九州の東部や中部でも本格的に開始されている。山陰側は前7世紀前葉に鳥取平野まで到達、四国側は前6世紀に徳島市まで到達。近畿では前7世紀に神戸市付近、全6世紀には奈良盆地で始まり、伊勢湾に伝わっていく。伊勢湾沿岸地域から先は近畿の日本側を経由して一気に東北北部まで北上、前四世紀前葉には青森県に到達。前4世紀代には仙台平野、福島県いわき地域でも水田稲作が始まる。一方、太平洋側ルートは全3世紀になってから中部高地、関東南部に到達すると、国立歴史民俗博物館の藤尾先生がまとめられている(★藤尾慎一郎先生の著作を読む)弥生時代前期後半(約2500-2400年前)のなら水田は当時全国最大規模である。
 天香久山のカグは天から降ってきたという伝承があり、火の神カグツチのカグであり、天の火の山という意味である。あんぎんは弥生時代には姿を消してしまう。

8 項羽と劉邦・前漢の成立

大陸の夷として楚の項羽が新たな夷王朝を築いた。稲作文化を作った苗族が樹立したのが楚である。第六代の王ゆうきょになると「我は蛮夷なり、周の爵位にあずからない」と宣言して、自ら王を称した。楚には特殊な巫祝文化があり、日本の巫女である。中原諸国は春秋戦国時代の楚・呉・越を夷狄扱いしていた。それらの国々では文身(入れ墨)などの中原とは異なる文化を持っていたのである。項羽は楚の国に生まれたが項という地に封じられたいたため項氏を名乗った。戦えば勝った。項羽は夷だけを厚遇したため、信頼されなかった。劉邦は前漢の初代皇帝になるが、匈奴の攻撃を受け女を差し出して逃げ、毎年多くの貢物を献上して許してもらう。

 匈奴は鉄の矢尻をもつ、機動力のある騎馬集団である。匈奴は史記によると夏后の末裔である。(★史記を確認)鉄器に漢軍の青銅器は刃が立たなかったのである。孔子が触れる君子は暁や舜であり、夏の聖王であり、商の聖王である。夏の礼や殷の礼を称える。君子は争わず射戯をして飲酒する、など言う。商は入れ墨の道具から作られた文字である。東ユーラシアには夷が9族いたとされるが、DNA分析によると縄文人こそ東ユーラシア人の祖先集団であり、日本から大陸に出ていった。

9 倭国王師升の後漢唐使

菜畑遺跡で最古の水田稲作が始まってまもなく、有明海北岸でも水田稲作が始まった。玄界灘沿岸と同時期に佐賀平野にも水田稲作が入ってきた。そして吉野ケ里が邪馬台国連合の中核となっていく。武器の生産などを行っていた、銅矛や銅剣の鋳型が出動しており、匈奴のものが祖型とみられる細型銅剣が吉野ケ里でも製造されていて、交流を伺わせる。一帯は青銅器の生産工房であり、青銅器祭祀を行っていた。ヒスイの勾玉、碧玉製の筒玉などを用いていた。人々はコメ作りも始めていたが、基本的には海洋民族として生きていた。海外まで行っては盛んに交易していた。佐賀平野全体では40面以上の鏡が出土している。
 紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて吉野ケ里遺跡には多くの甕棺墓が残されているが、戦死者が埋葬されていることが分かる。九州北部は邪馬台国連合が支配しており、大和朝廷勢力と直接衝突をする最前線であった。吉野ケ里遺跡は中国の記録では面土国とされている。古墳時代には米多国造が吉野ケ里周辺を治めていて、代表的な王が師升である。後漢書では倭面土師升となっていて、後漢に使者を送っている。
 商が周に滅ぼされると、商の人々は日本にも来たが、朝鮮にも残った。商の最後の王である紂王の親族である箕子は朝鮮にわたり紀元前1100年ごろ箕子朝鮮を建国した。その後、燕という国が滅びると衛満は箕子朝鮮に亡命し使えたが、前195年ごろ衛氏朝鮮を建国した。前漢の武帝の時代になると衛氏朝鮮と匈奴の連帯を警戒し、前109年から征伐軍を送り衛氏朝鮮を滅ぼす。新は紀元23年に倒れるが25年に光武帝が即位して全国再統一が36年、封禅の儀式が56年。その翌年に倭から使者がやってきた。光武帝は漢倭奴国王という金印を送った。次の記録が紀元107年の倭国王師升である。邪馬台国があった山門県が魏志倭人伝の邪馬台国である。

 魏志の倭国大乱は2世紀末のことなので、甕棺墓とは時代が違う。中国の爵位には決まりがあり、王は金印、侯がメッキ印、君が銀印、長が銅印。高句麗も銅印

10 黄巾の乱から三国時代へ

後漢は混沌としていた。外戚や宦官が権力を奪いあい、王族は親族でさえ信用できなかった。民衆はもっと悲惨で184年に太平道の教祖を首領にした黄巾の乱が発生した。混乱に乗じて各国の群雄が割拠する。遼東半島から楽浪郡にかけて公孫氏が台頭してくる。楽浪郡の南に帯方郡をおく。楽浪郡は現在の平壌あたりで、帯方郡はソウルあたりでここが倭国との窓口になってくる。曹操は200年に官渡の戦いに勝ったが、208年の赤壁の戦いに敗れる。魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が睨み合う体制になる。呉は三国一の仏教国だった。公孫は魏と呉の間で外交で凌ぐが、238年に魏に滅ぼされる。

 日本は宦官を導入せず、中国のような混乱は回避した。李氏朝鮮は両班が特権階級を独占し世襲とし、民衆を搾取し続けた。外積の蘇我氏や平氏は滅ぼされた。魏書によると馬韓、わい、倭が鉄を採取して銭のように使っていた。後漢書でも魏書でも弁韓の南は倭に接しているとしていた。わいは倭人と同じで入れ墨の習慣があった。倭国は楽浪郡を通じて漢とつながっていた。公孫は燕という国を創立するが、山海経によると倭は燕に属すとある。魏志韓伝によると倭も漢も帯方郡に属すとされる。

11 卑弥呼が魏へ朝貢、そして卑弥呼の死

倭国は混乱し、180年女王卑弥呼が誕生する。菊池彦=狗古智卑狗だが、邪馬台国のすぐ南の菊池川一帯で製鉄を行い武力を蓄えて、もともと夷だが大和朝廷側になっていた。卑弥呼は魏に使いをだし援助をこう。魏は244年から高句麗に侵攻して高句麗を滅ぼす。247年には狗奴国は邪馬台国に攻め込んでくる。魏に助けをもとめ遣使を送ると、帯方郡から張政を派遣した。仲介に入ろうとするも卑弥呼はすでに殺されてしまう。張政は19年も伊都国に滞在する。そこで高齢者をたくさん見て驚き、魏志に記される。266年に魏が滅ぶと張政は帰る。邪馬台国は普に使いを出す。

吉野ケ里遺跡は後期以降に首長の墓がないことから権力が安定していなかったとされている。倭国大乱は梁書では霊帝の光和年間(178年から184年)と絞られている。そのため卑弥呼の擁立を180年ごろとした。新羅本紀では173年に女王卑弥呼が使いをよこしたとあるので、もっと早かった可能性あり。狗奴国は肥後国球磨郡であると考えられてる。菊池川流域にはおおくの製鉄遺跡があり、鋭い鉄器が出土している。魏から卑弥呼に送られた銅鏡100枚は三角縁神獣鏡だと学者は主張していた。それは三角縁神獣鏡が畿内地方の前方後円墳から出土するからであり、それが畿内説の有力な根拠だった。中国では三角縁神獣鏡が一枚も見つかっていないので説得力がない。そもそも古墳は卑弥呼の没後である。北部九州のダンワラ古墳から金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は2019年に曹操の陵墓から見つかった鏡と同型式である可能性がたかい。卑弥呼が大夫の難升米を送ったのは日本書紀が引用している魏志武帝紀の239年が正しいだろう。魏志倭人伝では使者は伊都国で留め置かれていて、その南にはいかせてもらえなかった。魏に邪馬台国が小国であることを知られたくなかったから、との説をとる。最後に小人の国に言及があり、これをフローレンス原人と一致する。

12 祟神天皇による四道将軍派遣

魏に支えられ邪馬台国は安定し、博多湾に面した西新町は国際貿易港となった。日本からは土器を輸出し、帯方郡からは魏の品物が届けられた。一方、奈良では弥生時代の中期には大集落になってくる。銅鐸をはじめ青銅器が鋳造される。その頃は三輪山信仰があり、雷槌の神大物主を信仰していた。三輪山の北西麓一帯が初期の大和朝廷の中心であり、飛鳥時代までの主な宮がここにあった。弥生時代の奈良盆地では首長墓とみられる大型の墳墓は明らかになっていない。弥生墳墓全体を見ても北部九州のような副葬品はほぼ皆無である。技術力では邪馬台国連合のほうが先行していた。それでも各地との交流は広がっており、西の方では吉備や瀬戸内のものが多く、北部九州のものも若干はある。それよりも東方の物が沢山あり、近江、伊賀、尾張、伊勢湾沿岸が多く、長野県・天竜川流域の時もある。西方地方の交流より東方地域との密に接していた。
 第十代の祟神天皇の御代に初めて本格的な古墳が登場する。280~290年頃に纏向(桜井市)に造影された箸墓古墳である。前方後円墳が大和町店の統治する国々に造営されていく。墓の主である倭迹迹日百襲姫命にも大物主との不思議な逸話が残っている。同時期に四道将軍を各地に派遣している。国内が安定してきたので、詔して戸口と人口調査を行い、役務を課した。出雲や吉備は二股外交をしていたが、ついに大和朝廷側につくとの立場を示した。

 大和の弥生大型遺跡の中で最も規模が大きく、調査が進んでいるのが唐古・鍵遺跡である。遺物から東日本との購入が多かった。纒向遺跡では東海系の土器が外来経土器全体の半分を占めて、鉄製品や青銅製品はかなり少ない。大和朝廷のシンボルであった銅鐸はその役割を終えたということか。これは祟神天王寺大の前方後円墳の拡張と、それに伴う三角縁神獣鏡の鏡祭祀の始まりへとつながるという指摘もある。天智天皇の7年に近江京では銅鐸が掘り出されたが誰も何か分からなかった。
 大和地域でも弥生時代後期前半から中期頃の高地性集落が多い。出雲では1984年に神庭荒神谷遺跡から大量の銅剣が出土した。それまで全国で300本ほどしか出土していなかったが、358本も出土した。そこからほど近い加茂岩倉遺跡でも39子の銅鐸が発見された。出雲は北部九州を中心とした銅剣・銅矛文化圏と、畿内を中心とした銅鐸文化圏と交流して独自の文化圏を形成していた。出雲で造影されていた墳丘墓は4つの角が飛び出している出雲独自のスタイルだが、三世紀後半になると姿を消してしまう。大和朝廷の支配下に入ったことで、ここでも前方後円墳が築かれるようになった。吉備も出雲同様、大和朝廷に匹敵する勢力であった。弥生時代後半から楯築墳丘墓に代表される首長の墓が築造された。箸墓古墳と同様の特殊器台型埴輪が出土している。
 任那の人が日本の聖王と会うために来日したが、長門にたどり着いてしまった。その後出雲を経由して大和朝廷に到来した。蘇那曷叱知という使者。新羅本紀によると、新羅建国のときの瓠公という重臣は倭人であり、第四代の王である脱解は(57−80年)は多婆那の国の生まれと描いてある。多婆那国は倭国の東北一千里のところにあると説明されていて、北部九州の倭国を基準として丹波のことを描いているのだと解される。新羅の人々は倭国と関係があったと、新羅人自身が記録している。三国遺事日本伝には第八代のあだつらの即位四年に東海の浜に夫婦あり、倭に行って王となったとある。

13 祟神天皇の治世と晋(西晋)の崩壊

265年に魏から禅譲を受けた普は280年には呉を滅ぼし中国を統一したが内乱が続き、河北には匈奴・鮮卑などの異民族が入り込んできた。そうして楽浪郡や帯方群の支配力も低下。高句麗の攻撃を受け続け313年には楽浪郡や帯方群は高句麗に編入された。邪馬台国は孤立無援となり、4世紀には博多湾の貿易港であって西新町は衰退し、4世紀後半には消滅する。垂仁天皇のち生に新羅の王子、天日槍が来日。妻を娶って子孫を残した。携えてきた宝物は但馬の国の神宝となった。蘇那曷叱知は赤絹を持たせて任那の王へ送ったが、新羅人に奪われる。

祟神天皇の時代に相撲が始まったとあり、治水事業も行った。任那国からの使者に任那(みまな)という国名を授けたとあるが、三国史記では急に説明もなく任那という地名が出てくる。普が滅びた後、倭国からの遣使が途絶え、邪馬台国も滅亡。150年間の間、中国の記録から倭国が消える。異民族王朝が東アジアを征していて、中国王朝はジリジリと領土を失っていく。

14 景行天皇とヤマトタケル

熊襲が背いたので景行天皇みずからが親征を行った。周防に入り平定し、筑紫に入り休養した。硯田国に入り平定し行宮を建てた。熊襲討伐に向かい平定し、日向から纏向に戻った。熊襲が背いたので小碓命を派遣し、平定した。纏向に戻ると東国の蝦夷が背き、日本武尊が再び征伐に向かった。

景行天皇の時代に日本再統一が現実のものとなる。日本書紀の景行天皇の記事では熊襲征伐が中心となっているが、風土記では土蜘蛛の征伐記事がたくさん記述されている。日本書紀に登場している速津媛は豊後国風土記にも登場している。熊襲征伐についても肥前国風土記に景行天皇が熊襲せお滅ぼす記述がある。肥前国風土記には祟神天皇の世に肥後国の土蜘蛛が180あまりの人を率いて反乱を起こしたので、征伐軍を送ったとの記事がある。常陸国風土記に記述があるが、大和朝廷側は夷のことを土蜘蛛と呼んでいた。

15 成務天皇の治世と東晋・高句麗の滅亡

成務天皇が国郡に造長をたてて、大和朝廷の基礎を固めた。大陸では普が滅ぼされ南方に逃げ、呉の首都であった建業を健康と改名した。東晋は外戚や功臣が政治権力を握り、混乱をしていた。河北中原は異民族の小国家が乱立する五胡十六国時代を迎えた。前燕は高句麗に攻め込み、高句麗は一将軍とうい地位に格下げされた。東晋や前秦に攻められた前燕は滅んだ。混乱の中で420年に南宋が建国された。

隋書倭人伝では国造が120人あり、80戸に一稲置を置き、10稲置は1国に属するとある。国造の120人は国造本紀とほぼ対応しているという。

16 神功皇后による邪馬台国滅亡

気長足姫尊を皇后とした仲哀天皇は熊襲を討つために船で穴門に向かい、敦賀にいた神功皇后を呼び寄せた。奴国や伊都国が天皇の臣下の礼をとった。香椎宮に入られた天皇と皇后は熊襲討伐に向かう。鉄器に阻まれ勝てないで帰ってくる。仲哀天皇は病でなくなるが、ふせられる。鉄器を持った吉備軍を呼び寄せ、熊野を打ち破り、服従させた。その後、皇后は香椎宮を出て山門県(邪馬台国)に入り、最後の女王の田油津媛をあっさり打ち破る。その後、田油津媛の兄,夏羽が率いる米多国(吉野ケ里遺跡)は大将を失って瓦解した。神功皇后が陣を構えた場所は前方後円墳があり、皇后が車を常駐させたことから車塚古墳と呼ばれている。その後、九州にも前方後円墳が築かれていく。邪馬台国は現在の藤の尾垣添垣添遺跡(瀬高町)一帯で、ここの遺跡群は弥生時代週末に終焉を迎えておる。瀬高町には権現塚と呼ばれる周囲140mの円墳があるが、卑弥呼の墓とされている。
 次は三韓征伐である。日本書紀には新羅を降伏させると百済と高句麗が降伏してきたとある。新羅はこの後に朝貢して人質まで差し出し、百済は2年後に朝貢を申し出る。そのため日本書紀は大筋では正しい。一方で新羅本紀には364年の条に倭軍大いに至るとあるが、大いに敗走するとある。重要な点は大和朝廷の正規軍が朝鮮半島に渡り、交流が始まることである。

仲哀天皇が筑紫に向かうとき岡県主の先祖の熊鰐が周防の沙麼でお迎えした。伊都県主の先祖、五十迹手が穴門の引島(彦島)でお迎えをした。両者とも船に賢木(親睦)を立てて鏡・県・勾玉を下げてやってきた。岡は奴国の須玖岡本であろう。香椎宮は古代には霊廟と位置付けられていた。邪馬台国の故地を藤の尾垣添遺跡としたが、断定できない。なぜなら遺跡の上を九州新幹線が走っているからだ。現在発掘できたのは細長い直線上の部分しかない。車塚古墳から藤の尾垣添遺跡の発掘地点の一番近い場所までは200mしか離れておらず、近すぎる。おそらく藤の尾垣添遺跡は広範囲に広がっていて、田油津媛の本陣は離れた場所にあったのだろう。この遺跡では幼児用の 棺墓が出土しており、それは縄文人の習俗である。もう一つの候補地は同じ瀬高町にある卑弥呼の墓とされる権現塚である。魏志倭人伝によると、卑弥呼の墓は径百歩とされるが、倭人が大きく伝えた可能性もある。田油津媛の兄が兵を構えていた場所は書かれていない。日本書紀には「移って山門県にいき、土蜘蛛ー田油津媛を殺した」だけあるが、重要なのは山門という音である。
 新羅討伐は仲哀天皇の時代になって突然はじまるが、理由があるはずだ。新羅本紀によると344年に倭国から婚を求むとある。この要求を新羅は断った。すると倭国から国交断絶を伝える書が届き、その翌年に軍隊が攻めてきた。日本書紀によると邪馬台国滅亡と三韓征伐は同じ年であるので、本書では364年と結論する。

17 大和朝廷と朝鮮半島の交流開始

366年に倭の使者斯麻宿禰が卓淳国に訪れた時に、百済の王が倭国を訪れたいと言っていた話を聞き、従者を百済に派遣すると厚遇された。367年には百済の使者が新羅の使者と共に訪れて、朝廷の朝貢した。半島が混乱していたため援護を求めた。百済王は371年に高句麗に攻め込み善戦するが、396年には大群に攻められ大打撃を受けた。これを挽回するために太子を大和朝廷に送った。高句麗は新羅にも圧力をかけて392年に王の人質を高句麗に送ったが、その後大和朝廷にも送っている。高句麗の19代王である広開土王は武力で領地を広げたが、石碑が残っている。
 朝鮮への渡航には沖ノ鳥島を通ったが、そこでの祭祀では畿内の古墳祭祀と同じである。交通は四世紀にさらに活発になり金官伽耶の王族の墓には倭の品々が副葬され、任那のちからは畿内と同じ銅器が副葬され、前方後円墳も築かれた。

卓淳国は任那七国の一国であり、新羅再征のときは朝廷軍が駐留している。卓淳国に使者を遣わした百済王は日本書紀では肖古王となっているが、年代があわないので、近肖古王の誤りと推定される。卓淳国は三韓征伐のときに朝廷に従うことになったのであろう。その年に百済からの使者が卓淳国に来ているので、三韓征伐の衝撃があったと推定される。新羅本紀には倭国には勝利したことになっているが、広開土王碑が正しいのだろう。この後、戦果で疲弊した朝鮮や大陸の人々が飛鳥時代の日本を目指して移民してくる。
 沖ノ島は邪馬台国連合の博多湾の西新町からのルートではよっていない。魏志倭人伝の航路でも沖ノ島は経由していない。

18 その後の呉王家と大和朝廷の交流

高句麗を虐待していた鮮卑族の前燕は東晋や前秦の攻撃により370年に滅びる。376年には前秦が華北を統一し、喜んだ高句麗は使者を送り、新羅の使者も同行させてた。382年には新羅単独で前秦に遣使を送っている。北方を目指した東晋は383年の淝水の戦いで前秦に勝利というか、自滅して華北は分裂状態に陥る。東晋は東晋で権力争いから禅譲が起こり劉裕が宋を建国する。皇帝になった劉裕は東晋の後続を殺しはじめ、異民族の地に逃げた。
 316年に西晋が滅んでから581年に隋が誕生するまで265年間も混乱が続いていた。記録上では413年の東晋へ遣使を送ったとされている。その国は10年前に一度滅亡して翌年に復興したばかり。遣使を送った数年後に臣下に皇帝が暗殺されている。
 大和朝廷は呉王家と交流していた。280年に滅ぼされたが、滅亡はしていない。熊襲の菊池氏を通して間接的に繋がっていた。有明海から江南まで海路で交流していた。日本書紀には朝廷の使者が呉から帰国した際に、有明間沿岸部に当たる水沼君の領域に上陸した。呉からの献上品であるガチョウが犬に食われ、かもの仲間と交換して許してもらったとある。呉王家と大和朝廷は繋がっていたが、魏晋南政権とはつながりがなく、記録には天皇の正式な名前が出てこない。

倭王武は雄略天皇で間違いない、というが、502年の倭王武から梁に送られた。5世紀の天皇が6世紀に遣使はできない。

19 大古墳建造から律令国家へ

大和朝廷は大古墳時代を迎え、各地に前方後円墳を築いていった。大陸からやって来る使者が通る海路と陸路から見える一の古墳は特に巨大に造られた。日本書紀によると第29代の欽明天皇の治世に仏教が伝来し、第31代の用明天皇の御代、587年に天皇は群臣を前に「仏・法・僧の三宝に帰依したいと思う」と相談した。反対派の物部氏を押し切って蘇我馬子がそれを支持した(★物部氏=秦系は古墳か)蘇我馬子が日本最古となる飛鳥寺(法隆寺)を完成さる。朝廷が仏教政策に力を入れるようになり、古墳は築かれなくなる(★背反的)この後、大和朝廷は中央集権国家として律令体制を築く。飛鳥時代は聖徳太子が大活躍する。同時に蘇我氏が力を付けた。馬子は甥に当たる崇峻天皇を暗殺し、その兄も殺害した。物部氏と対立し、物部守屋は仏殿を焼いた。馬子は聖徳太子とも深刻な対立関係にあったとされる。日本でも中国のように外戚が政治権力を握り始めたが、大化の改新で一掃され、整然とした律令国家を作っていく。飛鳥時代には中国が随によって統一され、奈良時代には朝鮮も新羅に統一される。隋書倭人伝では大和朝廷と邪馬台国を混同しているが、旧唐書や日本国伝では大和と倭国を分けて描いてある。

最古の前方後円墳は220年頃に纏向に築かれた石塚古墳(桜井市)である。そして280年から290年に築かれた箸墓古墳が完成形の前方後円墳となる。(★箸墓古墳は大物主と関係がある?)3世紀前半から6世紀末ごろまで約350年の間に、全国で5200基肄城の前方後円墳が築かれた。朝鮮半島に進出した大和朝廷は豊富な鉄資源を手に入れる。大和6号古墳からは872枚もの鉄挺(鉄の延べ板)が出土している。朝鮮の慶州市の5世紀の古墳からは約1300枚も出土している。おそらく朝鮮半島で採取した鉄を延べ板にして、大和朝廷が日本国内に大量移送していたのだろう。仏教伝来には2説あるが一般的な538年とする。この538年に百済は今日の夫余となる泗沘に二度目の遷都を遂げ、南方拡大を目論んでいた。神武天皇は正確でない推古天皇から天皇号が使われたとされている。

考察1 北方侵入説の幻想

細石器がシベリアで見つかっていたのでシベリアで誕生した細石器が北方から日本に入ったと思われていたが、実際は日本で見つかっている細石器の方が古かった。2万年前はシベリアは南下してきた氷河で住めなかった覚張助教授の「縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史」という研究で、日本民族の起源は南方系の人々であるとしている。現在東ユーラシアにすんでいるすべての人々はヒマラヤ山脈以南ルートを通っていることを示している。

考察2 コメの国・日本

あずイネの起源は長江の中華流域にあることはほぼ間違いないよう。江南地方の浙江における新石器時代の文化は上山文化から始まる。墓から発掘された男性は屈葬されていて、縄文の葬送手法が見て取れる。また遺跡はすべて河川流域に存在しており、古代文化の担い手が水上交通を行っていたことに符合する。8000年前の貝塚が見つかっており、大昔には縄文人が活動していた。稲作が本格化したのは8000年前頃で新たな文化は河姆渡文化と呼ばれる。灌漑農業を試行錯誤して紀元前10世紀に日本に持ち帰ったと筆者は考える。日本のように畔で区画され、灌漑設備を備えた定型化した畦畔をもつ水田*は中国では見つかっていない。畔畔を備えた最も古い水田*は朝鮮半島南部で見つかっている。オクキョン遺跡にあるのだが、どれも小さい。この水田稲作は日本へはすぐに伝わっているが、半島内部には伝わらず水田稲作が始まるのは李氏朝鮮時代である。それまでは直まきで1年毎に土地を休ませる休閑法であった。
 縄文集落の周辺にあるクリ林やドングリ林は人工林だった。その実を貯蔵する貯蔵穴があった。石斧で原子のうほうが営まれていた。一万年前からイネがあったという非確定的な証拠もあるが、縄文時代から稲が存在していたのは間違いない。縄文時代の稲作は小規模な焼畑農耕で他の作物との混作であった。このような農耕はカリマンタンに残されている(★カリマンタンは縄文人?)ケニアでは米はバナナやサトウキビといっしょに栽培サれている。

考察3 東アジアの中期旧石器時代

世界の旧石器文化は南フランスにおける編年をもとに前期(原人による石器)、中期(旧人による石器)、後期の三期(新人による石器)に分けられている。東アフリカのエチオピア南部二位置するコンソ遺跡では175万年前頃の両刃石器が出土している。これはアシュール石器と呼ばれ、フランスのサン・アシュール遺跡が基準とされ、握り斧と呼ばれる。この旧石器時代の初期(前期)におけるアシュール文化は25万年前ころまで長期間大きな変化なく継続された。100ま年々以上もの間一度も技術革新が起きなかった。中期旧石器時代は旧人によるアシュール文化とムスティエ文化(ネアンデルタール人によるもの)である。石器を二次加工して三角形にした尖頭器と呼ばれる石器が特徴である。
 東アジアでは、中国西部の山地から60万年前と推定される原人が出土している。東北では北京原人、ジャワ島のジャワ原人は130年前に生きていた。日韓の共同研究によると50万年前までには人類は朝鮮半島に到達していた。韓国忠清北道の満水里では約57万年前近くまで遡る石器が出土している。同じく韓国の全谷里では約30年前の石器が出土している。ナウマンゾウは35万年前に日本列島に現れているので、その当時の日本列島は大陸と陸続きであった。約50万年前にはトウヨウゾウが日本列島へ入ってきている。50万年前〜30万年前に原人・旧人は日本に入ってきた。日本列島からも中期旧石器時代の遺跡がいくつも確認サれて、60程度の遺跡が発見されている。

考察4 縄と弓

投槍器・投矢器であるアトラトルは中央アジアでも使用されており、最終氷河期の時代には全大陸で使用されていた。弓矢は別次元の構造であるが、全地球規模で使用される。アボリジニだけはブーメランを使い、弓矢を使わなかった。考古学者は日本の旧石器時代に弓矢はなかったというが、台形型石器は三万八千年前から使用されていた。日本列島上陸と同時に弓矢を使用していた(渡来していた人か)南方にいた頃から弓矢を利用していた太鼓の東南アジアやオーストラリや北端で弓矢を使っていたのは日本民族なのである。

考察5 夷とは

近年の核DNA解析は非常に重要で、東ユーラシア陣の先祖集団であると結論が出された。今までは大陸から日本列島に人が渡ってきたと考えられていたが、まったく逆だった。夷という漢字。『説文解字』(★よむか)は後漢の許慎が紀元100年に著したもので、夷=「東方の人なり。由大、由弓会意」と解説されている。東方と人は日本民族であり、核DNA解析の結果と同じことを描いている。文字の文の✗は入れ墨を著していて、甲骨文字は日本から大陸に渡った縄文人の末裔が甲骨文字を作った。彦は『説文解字』では立派な入れ墨をした男性という意味をもつ尊号である。彦の本字の上は文であり✗がある。甲骨文字は商王朝の時代に生まれた。商という漢字は入れ墨を入れる時に使う針を机の上に置いた形から来ている。中国初期の2つの王朝の人々は東方からやってきた夷だった。商民族とは満州・朝鮮に及ぶ東方海岸諸民族の一氏族であり、古くは東方にあった夷と称されたが、ついに西方の夏王朝を滅ぼして商王朝をたてた。それを中国の記録から見て取れる。『通典』東夷伝序略(★よむか)には「夏の最後の皇帝ケツが宮廷内で暴虐を恣にしている間に諸方の夷が中原に侵入した。天命が改まって、商王朝の成湯(武王)(★発音)がケツを討ち滅ぼし平定した」とある。これは東夷伝にある。西安東部の半坡村の彩陶文化遺しの地域が、夏の地域だとされる。この遺跡では小児は甕棺に収めて居住地内に埋葬されている。初期の住居しは半地下式(竪穴式住居)であり、約200に及ぶ貯蔵穴群があり、縄文土器がある。ただし縄文集落にはないものがある、それは防御用の周溝である。
 後漢書東夷伝には夷に九種ありと記されており、禮記の王政編に「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」とある。漢書地理志の有名な「楽浪海中に倭人あり」の直前に孔子が道徳を守っている日本に行きたかったという論語の内容を紹介している。夷(縄文人)は東ユーラシア人の祖先集団である。それは中国ばかりでなく、満州地方や朝鮮半島にも及んでる。東方海岸地域がもともとの拠点であった。その人々は夫余や高句麗王家・百済王家の人々、粛慎や渤海の人々となっていった。老河深墓地は夫余の遺跡であり、副葬品として高坏(豆)が出動するのだが、それは『三国志』夫余伝の「飲食には俎豆を用いる」という記述と符合する。魏志倭人伝にも倭人は食事の時に高杯を用いることが記されている。魏志夫余伝には殷の正月をもって天を祭るとある。倭と夫余と商の関連性の片鱗が浮かび上がる。高句麗に関しては「通天」高句麗伝においても「旧唐書」高句麗伝においても、「新唐書」高句麗伝においても、高句麗は夫余の別種であると記されている。夫余の王に殺されそうになった東名王が南方に逃げ延びて高句麗王となった。そして夫余の建国神話位においても、高句麗の建国神話でも、弓が重要な要素となっている。百済に関しても通天百済伝・旧唐書百済伝・新唐書百済伝いずれにおいても夫余系の種族であると記されている。百済王朝では夫余系の高句麗の言葉が使われて、百済の民衆の単語と相違していたという記録がある(★どこ)百済系の人々も元は夷だった(民衆?王朝?)韓国人にも明らかに夷(縄文人)の核DNAが含まれている。

考察6 文字と記憶力

一人の舎人の稗田阿礼に旧辞を暗証させたが、暗唱は一人で行ったが編纂は複数人で行った。後漢書を引用した文献では面土国の記載があるが、現存する後漢書にはその語句が抜け落ちている。他の引用文献がなければ面土国とする国は永遠に失われてしまうところだった。また同じく邪馬台国は翰苑では邪馬嘉国となっている。文字のない世界では強力な記憶者がいて、今日のわれわれからは想像しがたいほど、先祖について長い伝承などを語ることができた。アイヌの長老は文字を教えられ、アイヌ伝承を誰も覚えられなくなってしまったことを嘆いた。文字を拒んでいたのは意図的だった(★音のほうが記憶に残りやすいか)北海道諸地方において異型の文字がある古器物を多く集めていた。この他にカタカムカ文字、ヲシテ文字、阿比留文字などが有名。

考察7 倭人の天寿

魏志倭人伝には寿命は8,90年とある。古代天皇の百歳をはるかに超える寿命は真実ではないが、改年という風習によってだろう。南朝・宋の歴史化、裴松之は多くの資料を使って三国志に注を書き加え「倭人は歳の数え方を知らない、ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」としるした。この記述から春秋期という発想が出てくる。筆者もその考え方に賛同する時期もあった。だか、それは明らかな間違いだと気づく。大化以前の天皇紀は偶数年は春と夏だけ、奇数年は秋と冬だけにならなければいけない。あるいはその逆でなければならない。ところがそんな年紀は一つも見当たらない。初代神武天皇から大化の改新の皇極天皇まで、春秋期が当てはまる天皇はお一人もいない。紀元前7世紀に水田稲作の東方拡散がはじまっており、それは記紀の記す神武天皇の東征開始時期と符号している。記紀は改年を含んでいる年代となる。神武創業は記紀によると紀元前660年であるので、1.2で割って逆算すると紀元前550年になり、奈良盆地で水田稲作が開始された年代とピッタリ合う。
 帯広市の大正3遺跡から出土した爪形文土器についは1万三千年前という結果が得られ、それは酒をにて浮いている油を採取して、調味料や燃料として使っていた可能性が高いことが分かってきているのだという。これを魚油最終節と呼ぶそうだ。多民族と比較すると一万年以上も早く煮炊き料理を始めて、さらに出汁でコクを取って美味しく食べていた。狩猟も漁労もし、木の実などを蓄えて、豊かな食事をしていたので、長寿になっていった。

考察8 巨石文化の発祥

ロシア西北部のコラ半島で9000年前のピラミッドが発見された。年代は事実かどうかわからない。ロシア西部にある中部ウラルの東傾斜から世界最古の木星の彫像が発見されて、年代測定によると1万千年前のものと判明した。シギルの偶像と呼ばれているが、偶像の顔と体には無数の千が刻まれており、明らかに入れ墨を入れた人々である。日本にも巨石文化があり、三石神社の巨石、岩手県遠野市の続石、鬼の差し上げ岩など。この他にも夏至に太陽光が差し込んで三角形を描き出す巨石遺構(下呂市の岩屋岩陰遺跡)もある。三内丸山遺跡の六本の木柱列はクリの大木であるが、その柱は二十メートル近くもあるのだが、普通ならある程度の高さになると枝分かれしてしまう。そのような大木を探すと、ウラル西方のソチ近郊で見つかった。運んだのではないかということと、そこにも縄文人がいたのでは。

考察9 柱・鳥・蛇信仰

世界には柱信仰、鳥信仰、蛇信仰が多く見られる。環太平洋には山を崇拝し、玉を崇拝し、鳥を崇拝し、柱を崇拝し、蛇を崇拝し、天地の結合に豊穣を祈る共通の世界観があると指摘されている。縄文土器では蛇とイノシシが圧倒的に多い。イノシシ信仰はインドネシアあたりの南方系と、クマ送りは極北地方との強い関係性が見られる。メソポタミアでは鳥と蛇の思想があり、インドのガルーダとナーガに伝承される。中国には女媧と伏羲という男女の神がおり、下半身が蛇の姿をしている。この男女の蛇神は全人類の始祖とされて、下半身を絡み合っている。この図像は殷墟にも残されている。南ロシアの草原地帯に六世紀ごろに王国を建設したとされるスキタイ人も蛇を始祖としている。筆者はこれも夷の子孫とする。ヘラクレスは子供らのうち、この弓をこのように引き絞り、この帯をこのように締める者があったらならば、その子をこの国に住まわせよ、といって自分の弓を引いてみせ、帯の占め方をしめした。長男と次男はできなかったのだが、末子のスキュテスはこれを果たしてその国にとどまった。スキュテスがスキタイ人となったとされるが、弓が重要な要素になっている。日本の蛇信仰は台湾のパイワン族が持つ百方蛇信仰から来ている。女媧と伏羲の神話を伝える苗族が村を作るときには、必ず柱を広場の真ん中に立てる。この柱こそが、その集落の中心のシンボルとなり、その柱の上には鳥が止まっている。鳥は東の方向を向いている。日本の国生みでもイザナギとイザナミは天の御柱を一本立てて、国生みを行った。伊勢神宮の正殿の床下には心御柱が一本立てられている。しかし上端はどこにも繋がっておらず、なにかの荷重を支える構造物でもない。

考察10 東夷そして蝦夷そしてアイヌ

水田稲作が始まると大和民族と夷に別れた。紀元前10世紀頃。大和民族はアマテラスから始まった。邪馬臺国が滅亡した後に西日本の海に残った夷たちは海民という存在となり、海軍勢力となったり海賊行為も行った。熊襲や隼人も夷だが心中を繰り返しながら徐々に朝廷にしたがった。東夷の中でも蝦夷は強く、日高見国と称していた。7世紀に入っても抵抗を続ける東方の蝦夷を征伐するために阿倍比羅夫の遠征が開始され、北海道(渡島)までやってきて、シリベシに大和朝廷の成長を設置している。再度入ったときは大河に入っていて、これは大川遺跡のことである。ここは北海道の重要な輸出港であった。その後も東北の蝦夷は神武天皇と戦ったアビヒコの子孫である安倍氏を中心として、朝廷に対して反乱を繰り返す。安倍家は滅びるが、その血糖から奥州藤原家が誕生し、東北地方を支配下に治めた。鎌倉時代に入るとアビヒコの血統である安東家が蝦夷代官ににんめいされる。室町時代にはいると東北安東家は源氏である南部家によって劣勢に立たされ、北海道南端に中心拠点を移すことになる。この頃から「蝦夷地」とは北海道以北をさす。源氏に押され、安東家から独立した蠣崎家は次の天下人となるであろう松平(徳川)と前田から一字ずつもらって松前と称した。蝦夷人はアイヌだけなってしまった。現代のアイヌは縄文人の核DNAを七割近くも保持している。

あとがき

アイヌのクジラ梁とインドネシアのクジラ漁は離頭銛が使われており、全く同じだった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です