インカとスペイン帝国の交錯 (興亡の世界史 12)

2008 講談社 網野 徹哉

 インカは大好きである。その出会いは幼少期にまで遡り、太陽の子エステバンというアニメで大きな刺激をうけて、大学卒業時には今しかないとマチュピチュまで行って神秘を感じてしまった。この本を読んで少しインカへの見方が変わったと思う。

本の構成

 第一章「インカ王国の生成」ではインカ王朝創始の場所から始まり第9代パチャクティの時代に外敵との戦いに勝利しクスコ周辺の一部族から帝国を築くに至る。12代の王朝や帝国が築いた6000キロ以上のインカの道の紹介をする。アンデスの相互に依存する経済とインカが帝国した後の変質と富の集約を語る。インカ王が神格化されて過去の王のミイラの信仰などの様子が確立されていくと共に太陽信仰や農耕の儀式に携わる様子が描かれる。
 第二章「古代帝国の成熟と崩壊」では帝国を拡大するために各地に赴き戦うと共に献杯の儀式により周辺の社会を従わせ支配する様子が描かれる。皇帝の統治下ではインカの平和が築かれたが、地方社会は国領・神領・民領に分割されて統治され、地方社会は重税や人の派遣を負い、太陽神の信仰を強制された。しかし第11代ワイナカパックのころには帝国の北端で敗戦しこれ以上の拡大に影がさしてくる。また帝国の末期を示唆する事象として、虐げられる地方の説明が続く。クスコから1600キロ離れたカニャル地方に太陽の神殿の建設のための石が運ばれたという。ワイナカパックが死ぬと継承争いが起き、より保守的なアタワルパが勝利する。その頃に海から肌の白い異邦人が渡ってきる。多くの民族がこの異邦人にアクセスしてきていたが、より痛めつけられていたカニャル地方の人が積極的だったという。異邦人がアタワルパ王に接見し王が死ぬまでの様子が描かれる。
 第三章「中世スペインに共生する文化」では視点を中世スペインに移す。1532年のキリスト教徒側から見たインカ帝国の最後を見た後に、異文化であるインカ帝国への接し方の根源にあると筆者が考える1391年頃にスペインであったポグロムと呼ばれるユダヤ人の虐殺について語られる。その背景として7世紀からのスペイン社会からゲルマン民族の侵入と共にユダヤ人への抑圧が強くなっていくが、イスラム帝国による支配下で緩和される。その中で翻訳などによりイスラム圏のアラビア語で畜された知性をラテン語に解放していきヨーロッパの知識人を集めた。そこから聖ヤコブ信仰によりエネルギーを得たレコンキスタでイスラム帝国が排除される。しかしキリスト教下でも当初は制限があるもののユダヤ教への許容があったことが示される。それでも14世紀末にポグロムを経てユダヤ教からキリスト教に改宗する人が出てくる。コンベルソと呼ばれるこれらの人々が社会の上層部に上がっていくと、都市トレドで富裕層であるコンベルソ商人に対する不満が噴出し、コンベルソ地区で略奪が起こる騒ぎになった。
 第四章「排除の思想 異端審問と帝国」では引き続きスペイン帝国でのユダヤ人問題を取り上げる。カスティーリャ王国のエンリケ四世は異教徒に対する宥和的な姿勢がありイスラーム文化愛好家と揶揄されたりユダヤ人のダビラ家のディエゴ・アリアスを重用した。エンリケの後はカスティーリャのイザベル女王とアラゴン王と婚姻が成立しスペイン国家が誕生した。イザベル女王はエンリケ四世と対峙するように非宥和的な強権的な王権を指向し、グラナダのイスラーム王国での虐殺や奴隷化をした。セビーリャでは異端審問が始まりコンベルソが犠牲になった。アンデスの征服を遂行した男たちが育った地方にあるグアダルーペは聖母マリア信仰がありコンベルソに宥和的な姿勢があったが異端審問が始まり拷問や火刑など残忍な極刑が執り行われた。1492年にはユダヤ人追放令が出せれる。キリスト教への転向を条件に帰還も許されるも、キリスト教を軸としてイベリア半島を統一する。ただその王国を統治する文民の中には多くのコンベルソが含まれていた。
 第五章「交錯する植民地社会」では、、、1532年までのスペインの征服者たちの足跡を追う。フランシスコ・ピサロは1513年にパナマに降り立つ。フェルナンド王はダビラ家のディエゴ・アリアスの孫・ペドラリアスを金の探索に派遣するも、現地のバルボアと対立し、バルボアは処刑される。新世界は本国の反ユダヤを逃れたコンベルソたちの活路だったが、ベドラリアスはニカラグアを目指したため、ピサロはコンベルソから資金を得て1524年から南方を目指した。2回の航海を終えて巨大な社会があることを確認した後に一度スペインに戻り征服の許可を得てから三回目の航海に向かう。1532年にインカ王アタワルパを捕虜にして、命と引き換えに金を集めるが約束を保護にして処刑する。そして擁立された第11代ワイナ・カパックの子はクスコに向かう途中に謎の死を遂げる。またワイナ・カパックの別の子マンコ・インカがインカ王候補として出現したためピサロはそれを認める。インカに支配されていた民族はスペインの支配を歓迎する動きを見せて国王に臣従を誓った。ピサロは征服者に周辺の部族の支配をそれぞれに委託し、この委託者により中間搾取が行われる制度だった。委託者に自分の臣下を取られたマンコ・インカはクスコの包囲戦に打って出るが失敗し、その後アンデスの熱帯地方ビルカバンバに拠点を移しスペイン勢力と対立する。同じワイナ・カパックの子のパウリュが即位するがスペインの支配の中でインカを存続させようとする。一方のスペイン社会も不安定でありアルマグロにフランシスコ・ピサロが暗殺されると、ゴンサロ・ピサロはスペインに反旗を翻すが失敗し処刑される。委託制度を恒久化しようとする動きもあるが、ドミニコ会は中間搾取を行う委託制度が地域社会の活力を削ぐ制度として反対して、各部族に対して啓蒙活動を行う。インディオの自主性を主張する言論の中でスペイン社会とインディオ社会を両立させるという思想が出てくる。一方でインカの存在が社会の不安定さの原因になるとまずはビルカバンバの反スペインのインカ族が武力により制圧される。また親スペインのインカ族も追放しようするが強い反発がありクスコに戻ってくる。
 第六章「世界帝国に生きた人々」では帝国の物理的な広がりとその広大な帝国内を行き交う人や物を描く。まずは帝国の広さの話から始まり、神聖ローマ皇帝カルロス五世の移動量や旅行記を書いた冒険家の移動量、帝国内を異動させられた官僚の移動量を描く。本国からの移民の制限についての説明。1540年代にポトシで銀山が発見され採掘された銀は財政難のカルロス五世のもとに送られた。銀山での労働は過酷だったが人口の1/7が送られたが徒歩でポトシに移動しなくてはならないためクスコの住人は片道三ヶ月かけて家族で移動した。過酷な労働はコカの葉と交換されてインディオは中毒になっていた。もともとコカは宗教的儀式と結びつき、生産も国家や共同体で厳密に管理されていたが、スペイン人がそれを手中に収めインディオ社会に大量に流通させた。マゼランが太平洋を超えアジアに達するルートが発見されると、ポトシの銀はアジアに流れて中国の陶磁器や絹織物と交換されてアメリカにアジア製品をもたらした。このルートにのって人の行き来もありリマに移り住んだ中国人や日本人もいた。
 第七章「帝国内の内なる敵 ユダヤ人とインディオ」ではユダヤ人とインディオに対する異端審問による迫害を取り上げる。南米のポルトガル系商人はコンベルソでリマで審問をうけて監獄で拷問を受けていた。また本国では無理やりに改宗されたイスラム教徒が大反乱を起こしたが鎮圧されカスティーリアの各地に強制移動させられるという一件があり異教徒を暴力で排除しようという動きがある。一方ドミニコ会の修道士などは土着の言葉を覚え彼らを理解してアンデスの統治権を先住民に返そうとする。しかし副王トレドの違和を強行に排除するという思想によってインディオ宗教に対する寛容さは制限される。加えてインディオ・ユダヤ人同祖論があり、インディオがユダヤの失われた10支族の末裔であるという言説があり、キリスト教から敵視されていたのもある。トレド副王が一線から退くと抑圧は一時緩和されるが、17世紀の初頭に再び不寛容思想が覆う。1609年に偶像崇拝を根絶するためにインディオの村を急襲し証拠を収集し拷問をするようなインディオを目標とした異端審問が始まった。
 さらに1639年には隠れユダヤ教徒として63名が裁かれ11名が火刑となる異常な状態になった。これは密輸で儲けたコンベルソたちだった。1492年に追放令でスペインを追われたユダヤ人はポルトガルでコンベルソを中心とする強力な商人階層を形成し、同郷者集団=ナシオンとして大西洋にネットワークを形成し密輸により富を集積した。特に16世紀の後半からプレンテーション経営で重要が高まった黒人奴隷の交易で幅を効かせた。その後ナシオンの人々はポトシやリマなど新大陸各地に定着していったが、王室もインディオに悪い影響がないかを懸念する。インディアス海路で行われていた正規貿易に携わる特権的商人は大きな打撃を受けナシオンを規制する組織ができたり、ナシオンがポルトガル人でありながらオランダを支援しているという陰謀論も語られた。これらの反ナシオンの動きが1639年の隠れユダヤ教徒の断罪として結実した。
 第八章「女たちのアンデス史」では女性たちの扱いを描く。スペインからの移住者に女性はほとんどいなかったために男性はインディオ女性と結婚しメスティーソが生まれた。インカ社会でも女性は地方の首長から王国のために差し出したり逆に後宮から恩賞として地方の首長に贈与するケースもあったが、スペイン人政府に対しても女性がやり取りされた。その後、純潔主義からスペイン人はスペイン人と婚姻を結ぶことが奨励されインディオ女性との内縁関係の解消が奨励された。またメスティーソの女性が修道院に入り習慣や作法を学んだ後にスペイン人向けの花嫁市場に投入されたケースもあった。このようなミソジニー社会では女性は魔術にすがり状況を改善しようすることもあり、薬草や薬湯などで男性をコントロールしようとしたりコカをつかった儀式をする動きもあった。
 第九章「インカへの欲望」では手短にインカの大反乱の前駆的な動きについて語る。インカ族はスペインと対立して武力抵抗して破滅した人々と、スペイン人と協調した人々に別れたが、後者はクスコに12の王家を再生させることに成功した。毎年7月25日にキリスト教にまつわる聖ヤコブの祝祭が開催されたが、そこにインカのようなゴージャスな衣装をまとって参加し、スペインの支配下であるがインカ王朝の歴史を再現し継承し続けた。また17世紀後半には非インカのインディオたちがインカ貴族になるための事件が起こったりした。この事件をめぐってインカの純血性が強調されたが、また一般のインディオに対しても純粋なインディオであるべきだという考えもあった。またベタンクールは1750年代からインカの継承権を求めて活動をしていたが、同じようにホセ・ガブリエル・コンドルカンキも1776年にインカ王の末裔であると活動を始めた。ベタンクール家はインカの継承権を得られるが、コンドルカンキは敗北する。敗北したコンドルカンキは1778年に息子にインカ王の衣装を着せてクスコの街を練り歩くというデモンストレーションを行なった。
 第十章「インカとスペインの訣別」では1777年にインディオが放棄してスペイン人を皆殺しにするという噂がまことしやかに流れ実際に計画をしている人々もいた。まずはこの背景を調べていく。16世紀後半以降インディオ社会はスペイン王国に納税を続け、ポトシ銀山付近へも人を送りこまねばならず共同体は疲弊していった。またカルロス三世の元で行われた財政改革で南米での徴税も強化され人頭税や消費税も上がり、税金の徴収のための地方官僚コレヒドールも派遣された。彼らは商品を強制的に分配し料金を払わせるようなことで私腹を肥やした。またコンドルカンキが首長を努めるティンタ地方はポトシ銀山へも遠く負担が重く、インディオは帰れたとしても死んでしまう状態だった。1780年に入ると徴税の負担が各地で限界に達してまずはアレキッパの街で暴動が起きた。
 その後、ラ・プラタ市の首長フロレンシオ・ルパが殺されるが、スペインの利害のためにコレヒドールと共謀しインディオを犠牲にしていた。ラ・プラタ市の共同体はコレヒドールを介さずに直接ポトシの税務官に納税することにより、中抜きのないより多い税を納めることでフロレンシオ・ルパに対抗した。またティンタ地方のマチャでも同じようなことで、トマス・カタリがコレヒドールと対峙して合法的に辛抱強く行動していたがついに殺されてしまう。そしてコンドルカンキも行動に出る。ティンタ地方のコレヒドールの身柄を拘束し処刑する。コンドルカンキの反乱軍はクスコに進み、11月にはサンガララでスペイン支配者側の軍勢に勝利し、6000人ほどだった反乱軍は5万人に膨れ上がった。当初はスペイン王国の王の聴訴院での法廷闘争でインカであることを拒絶されたコンドルカンキはインカであることにスペイン王権の権威が必要なくなっていたのもあり、スペインからの独立してトゥパク・アマルとしてインカの末裔を名乗った。しかしクスコ攻防で失敗し、処刑される。反乱は止まることはなくトマス・カタリの兄弟が過激化させて継続させるがラ・プラタ市で敗北する。同じようにフリアン・アパサもラ・パス市を包囲するが敗北する。そしてインディオと白人の深い溝を残して数年の反乱は終息した。インカを恐れたスペインによってインカの衣装も禁止された。1808年本国スペインでもナポレオンがカルロス四世を廃位させるのと呼応して、アンデス地域でも独立革命の動きが加速していく。しかしインカの時代がしのばれるも、その主役であったインディオについては尊ばれないようになった。

気になったポイント

 まず南米の地には以前も帝国があったことがさらりと図示されていたのが印象的だった。これらの帝国の遺産の上にインカの道や技術などのインカ帝国の文明があったと考えるのが自然だと思う。好戦的な部族同士の衝突がたくさんがあったが、インカはその中でも戦いにうまく勝ち上がり、部族の統合を成し得たように読めた。

 本書はちょっとユダヤ人の視点が多いような気がするが、ユダヤ人からみたレコンキスタは印象的だった。寛容なイスラム国家で活躍していたユダヤ人がキリスト教国では迫害されていくようすは興味深かった。

 また修道士の様子が何度か出てくるが、布教を通じて現地の言語や文化に通じるようになる修道士はリベラルな態度を持っているというのは興味深かった。それはキリスト教自体は寛容なものだということにも思えた。

 反スペインの蜂起はうまくいなかったのは悲しかったが、スペイン人が混血を持ち込んだりしていることで、社会が分断されてうまくまとまらないのに加えて、カニャル地方の人々など反インカの部族などがいたことも原因である気もする。

最後に

 インカとスペインについてや、インディオとユダヤ人についてより深く学べたのは非常に良かった。インカの文化やスペイン支配について興味がある人にはおすすめです!