昭和史 1926~1945

平凡社ライブラリー 2009 半藤一利

はじめの章 昭和の根底には”赤い夕陽の満州”があった

1853年にペルリの黒船が来る。近代がはじまって150年。それから3年後、国家建設を懸命に行い植民地にならないようになりました。1965年から国造りを始めて日露戦争に勝って1905年に完成した。その国を1945年には滅ぼす。アメリカに占領されて講和条約の調印を経て新しい国造りを始めたのが1952年。それから40年世界で1位2位の経済大国になり繁栄がはじける。1992年から40年は滅ぼす方向に向かっていっているようだ。
 日露戦争に買った日本は遼東半島を借り受ける。防衛ラインとなり、満州が生命線となる。関東州の旅順・大連二司令部を置いた関東軍が守る。資源を輸入しようと思ったが石油だけはでなかった。人口流出先として満州が重要視された。1914年には第一次世界大戦が始まり、列強の目がアジアから離れた時に中華民国政府に強引な要求を突きつける。反日運動も大きくなる。1926年には中国統一が完成に近づき、1917年にはロシア革命でソビエトで国造りが始まる。1922年にはワシントン海軍軍縮条約、1902年に締結した日米同盟が廃棄された。

第一章 昭和は”陰謀”と”魔法の杖”で開幕した

張作霖を支援して満州の大軍閥として育て、北京政府まで作ってしまい、言うことを聞かなくなる。関東軍が排除しようと列車を爆破する。天皇は陸軍が関与していないか確認するように田中首相に指示するが、ごまかす。そして辞職を求める。天皇は憲法を超えて政治に口を出したことを後悔して、今後は口を出さないことした。君臨するけれど統治せずという立憲君主の立場を取る。沈黙の天皇を作り出す。
 1922年のワシントン軍縮条約については海軍は反対する。それについて統帥権の干犯であると犬養毅や鳩山一郎が国会で言い出し、軍令部の意見に反して海軍省が勝手に調印したと息巻いた。海軍は条約賛成派と強硬派に2つに割れる。両成敗となるが、条約賛成派の海外経験が豊富で世界情勢に明るい秀才たちが海軍をさる。

第二章 昭和がダメになったスタートの満州事変

昭和天皇をとりまく元老、内大臣、侍従長、侍従武官長、宮内大臣は君側の奸と呼ばれる重臣グループ。公家の西園寺公望が唯一人の補佐になり、昭和前期の内閣総理大臣を一人で決めた。内大臣はハンコ持ち。侍従長は相談係。鈴木貫太郎が努めたときには天皇の拝謁スケジュールを管理して、影響力を行使した。
 1929年にウォール街の大暴落に続き、1930年のロンドン軍縮条約で、海軍軍人の整理が始まった。陸軍は機関銃も戦車も列強に劣った。石原莞爾という天才的な軍人が登場し、世界最終戦争論という大構想をまとめた。第一次世界大戦後、世界は平和になったが、列強は次の戦争を始める。最後はソ連、アメリカ、日本が残る。最終戦を前に日本はじっと国力を整えておけば準決勝でアメリカがソ連に勝ち、決勝は日本とアメリカが戦うというもの。日本は満州をしっかり確保し、発展させ国力を養う、中国とは戦わず、日中共同で満州を育てるという構想。1928年に旅順に赴任すると、関東軍満蒙領有計画などを書く。参謀本部は国策として満州に親日政権を樹立を目ざす。マスコミ対策も加味する。
 生命線、二十億の国費、十万の同胞の血などのスローガンが造られ、世論を作っていく。満州で中国の農民と朝鮮人農民が衝突する万宝山事件が起こる。昭和天皇はこの事態を憂慮していた。軍紀を厳正にせよと指示する。関東軍司令部はとどまるようにいわれるが、結局実行し、鉄道が爆発する。余計な攻撃をするなと命令があるが、吉林省に進軍する。国内では新聞は関東軍擁護に回る。天皇は戦争の拡大を認めず、朝鮮軍の越境も認めなかったが、政府は許可する。

第三章 満州国は日本を”栄光ある孤立”に導いた

石原莞爾が作った傀儡政権を作るという方針に沿った。新聞も煽る。満州では戦争が進められ、中国は権力争いに明け暮れていた。天皇は嘆いたが、占領範囲を広げていく。反日運動が広がる。中国は黙っていないし、国際連盟も眉をひそめる。好意的だったアメリカも不審表明をする。目をそらすために上海で事件を起こしたりする。上海を停戦で終わらせて、軍部には不満がたまり、暗殺事件が次々に起こる。
 1932年、5・15事件という犬養首相を暗殺する事件が起こる。そして斎藤誠という海軍大将が総理大臣になる。5・15事件の結果として、日本の政党内閣は尾張、軍人が政治や言論に君臨する時代になる。
 一方では満州国建設が始まっている。ラストエンペラー溥儀が元首に任命されたのち、満州国は独立宣言をする。イギリスのリットン調査団は好意的であったが、満州国から日本の撤退を要求した。1933年、内閣は強硬論が支配して、国際連盟から脱退だと外務大臣などが言い出す。国際連盟は満州国からの撤退韓国を国連で採択。松岡は反対し、脱退に至った。

第四章 軍国主義への道はかく整備されていく

防空訓練なども行われる。陸軍と警察のいざこざがあるが、力は拮抗している。軍部には統制派と皇道派に別れた。皇道派の小畑はソ連脅威論で今のうちに叩く予防戦争論、統制派の永田鉄山はまずは中国を叩く中国一撃論を唱えた。結局永田が勝ち小畑派を駆逐する。陸軍は天皇の軍隊として国家総力戦で戦うという統制国家を作る方向で統一された。
 天皇は国政には口出ししないが、陸海空軍の最高の指揮官であった。天皇機関説というものがあるが天皇は設題なので、天皇の権威と力を利用して国家を運営していくという形になる。言論界も天皇の位置づけについて議論し、天皇陛下が統治し給う国家であるとする。

第五章 二・二六事件の眼目は「宮城占拠計画」にあった

統制はの中でも中堅は憲法を停止して軍部が政治や経済をやるようなことを考えるが、エリート将校はそんなことをしなくても強固な軍事体制国家にすると言う。自由主義を否定した陸軍パンフレットというものが中堅により書かれる。
 1935年から皇道派の動きが明確になり、永田少将を切りつけて即死させるという事件がある。この皇道派の動きが青年将校運動として拡大して、1936年の2・26事件の革命運動につながる。天皇につながる人物を陸軍大臣だけにするという方向にするが、天皇に近しい人が殺されて、天皇はかなり腹を立てた。岡田首相が殺されたが、天皇の命令によって事件をおさめるという方針になった。天皇陛下をおさえる皇道派の動きは天皇陛下の理解をえることができず逆賊となり失敗した。皇道派は2・26事件で壊滅したが、軍部のテロの再発を脅迫の材料とした。
 事件がおさまり、岡田内閣は総辞職して広田弘毅内閣が発足する。この内閣は軍部に従属するような内閣になった。日本とドイツが防共協定を結んだ。これが日独伊三国同盟に繋がっていく。この内閣で北守南進の政策が基準となる。これあアメリカ・イギリスとぶつかるという政策だった。また言論弾圧もした。2・26事件は7月の17名の死刑で終わった。

第六章 日中戦争・旗行列提灯行列の波は続いたが

1936年に毛沢東の中国共産党と蒋介石の国民政府軍の戦いが終わる。軍閥の張学良が裏切り商会石を山上に追い込んで軟禁する西安事件が起こる。これにより対日抗戦が始まる。大日本帝国という呼称が決まる。1937年には国内は不穏な空気がある。盧溝橋事件が起こる。中国から銃弾が打ち込まれたというが、それで牟田口さんは独断で戦闘を始めてしまう。
 大軍が送り込まれて戦線は拡大し、中国軍は当時の首都・南京へ後退し、南京を目指して進撃した。南京戦史では戦闘による中国人死者は三万人、捕虜と一般人の死者はそれぞれ1万五千人ほど。軍紀は緩んでいたよう。石原莞爾は早くやめようと努力する。和平工作は頓挫し、国民政府を相手にせず、という奇怪な声明になる。

第七章 政府も軍部も強気の一点張り、そしてノモンハン

1934年には強硬派グループが穏健派グループの人を追い落とし、中堅クラスが強硬路線を切望する上申書を提出した。ワシントン軍縮条約から脱退が主。パナマ運河を通れない軍艦を作れとの指令が出る。アメリカにすると太平洋と大西洋を行ったり来たりできない。なので、アメリカに負けない。海軍は戦艦がぶつかり合って相手を撃滅するという、日露戦争の日本海海戦を思い描いていた。ワシントン軍縮条約は日本にとって要で日露戦争にも勝てた理由だった日英同盟を破棄したことが大きかった。
 1938年に近衛内閣で国家総動員法ができる。国民を好き放題に徴用でき、賃金を統制でき、物資の生産・配給・消費を制限でき、会社の利益を制限でき、賃金をせいげんできる。国民の権利を政府にゆずるというもの。これは国会で紛糾し、激論を交わした。左翼はこの法案に大賛成だった。国家社会主義的な議論を押し立てていけば資本主義を打倒できると思ったのか。
 1938年に東亜新秩序声明を発表する。これはヒットラーがヨーロッパ新秩序を作るといったことに呼応して、中国を叩き潰すとは言わずに、日本、満州国、汪兆銘政権の中号が仲良く手を結んでアジアに新しい秩序を作るという大名目。この声明でアメリカは硬化した。
 1940年にノモンハンを中心とするホロンバイル草原で大激戦をしてしまった。軍は戦争をして勲章をもらわないと出世しない。関東軍は独自の方針を作った。第23師団が偶発的におきたものを全力で対応していたが、スターリンはドイツと対戦する前に日本を叩きのめした方が良いと考え、これをチャンスとみて、最新鋭の戦車や重砲、飛行機を注ぎ込んできて、凄惨な戦いになり、2万人のうち70%が死傷して師団が消滅した。最前線で戦った連隊長はほとんど戦死あるいは自決だった。圧倒的な火力戦能力が足りないことが分かったが、顧みられなかった。ノモンハンの戦いを指揮したのは服部卓四郎中佐と辻政信少佐だった。二人は左遷されただけで中央に戻った。1944年にサイパンの戦闘で装備が悪いことが分かったが、今からでは間に合わないと服部が語った。

第八章 第二次大戦の勃発があるゆる問題を吹き飛ばした

1939年に平沼内閣が発足する。少し前からドイツから日独伊三国同盟が提案される。陸軍はソ連に対抗するために賛成したが、海軍大臣の米内光政と次官の山本五十六、井上成美がこれに反対した。1.対中国問題で英米との交渉に不利になる。2.日独伊に米英仏が経済的圧迫をしてきたときはどうするのか。3.日ソ戦の場合に独から実質的な援助はない。4.独伊に中国の権益を与える必要がある。海軍はイギリスから多くを学んできた。世論はドイツと日本の気質は似ているから良いのではないかという論調。山本五十六はテロリストに狙われるが、国家の百年の計で死ぬのならそれで良いと日記に残している。
 天津でイギリスが中国の容疑者を匿うという事件が起こる。泥沼の日中戦争の裏にはイギリスがいるとして反英運動に発展する。天皇は抑えようとするものの、新聞は反英の声明をする。イギリスと外務大臣が会談してイギリスが譲歩するが、その途端、アメリカが日米通商航海条約の破棄を通告してきて、はっきりと敵対の意思を表明する。
 1938年にドイツの物理学者オットー・ハーンがウランの核分分裂に成功する。アメリカも研究を始める。一方日本では1939年に零戦が誕生。満蒙に関東軍支援で青少年が送られたり、朝鮮戸籍令改正、国民精神総動員になり、生活刷新案として日常生活も制約される。またスターリンは日本軍総攻撃を命じ、ドイツと協定を結ぶ。三国同盟を推進していた参謀本部は驚く。推進していた平沼内閣は総辞職した。天皇は英米との協調を指示する。
 1939年9月にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まる。三国同盟、天津事件問題もふっとび、アメリカからの日米通商航海条約の破棄の通告だけ残った。

第九章 なぜ海軍は三国同盟をイエスと言ったか

1940年、陸軍が強くなり議員を除名したり米内内閣を打倒したりする。天皇はこれを憂いた。また近衛内閣になる。カタカナ英語の改正や贅沢は敵だや、生めよ殖やせよとなる。
 ドイツは西部戦線に大攻撃をしかけて本格的な第二次世界大戦になる。英仏連合軍をドーバー海峡にまで追い詰め、イギリスは本国に撤退する。パリも占領される。ヨーロッパ戦争に不関与でアメリカとの関係改善を目指す米内内閣が軍部にとって邪魔だった。近衛は反映米主義者で、三国同盟を結びたかった。外務大臣は強硬な反英米派の松岡が就任する。
 ドイツから特使が来てアメリカのヨーロッパ参戦と日本との戦争を抑止するために三国同盟を推す。御前会議で決まってしまう。理由は海軍が政府に一任し事実上賛成してしまう。理由はアメリカの日米通商航海条約の破棄があり、石油がなくては動けないので、南進しなくてはならない。そうすると対米戦争は必死。あとは軍事予算獲得も理由にあった。山本五十六は「アメリカと衝突する可能性があるが、航空兵力は不足している。条約を結べば資材を失う。これについてどのような計画があるか」聞いたが、無視される。天皇もアメリカから石油が鉄くずの輸出を停止してくることを懸念する。内乱を危惧して了承したことが独白録にある。
 イギリスはチャーチルのもとに団結し、抗戦をはじめる。ヒットラーは英本土上陸作戦を遅らせた。イギリスを空爆するがイギリス空軍にやられる。英国の航空機スピットファイアは性能がよかったのもある。ドイツは英本土上陸作戦を放棄する。

第十章 独ソの政略に振り回されるなか、南進論の大合唱

ベトナムにあるフランスの傀儡政権と交渉し、ハノイ周辺に軍隊を送り込んだ。米英の軍需物資が中国に送られているのを遮断するためにここを抑える必要があった。交渉の途中に銃火を交えてしまい侵略となってしまう。1940年には鉄くずを全面的に輸出禁止にした。海軍は軍艦の比率の関係から1941年には対米戦争をしなくてはならないというようなことを言い出す。山本五十六は好戦的な石川大佐などが戦争へ流行っているのを憂いて進言している。ヒットラー好きの海軍国防政策委員会ができ、南進などの国防政策を牛耳った。
 民衆は困窮し、報道ではABCD包囲陣という言葉が踊る。紀元2600年を祝う祝典をする。元老の西園寺公望がなくなる。1940年の終わりにはアメリカのルーズベルトは明示的に三国同盟を批判した。1941年になると松岡洋右外務大臣は日独伊ソの協定のためヒトラーとスターリンに会うためにベルリンとモスクワを訪問した。ヒトラーはイギリス打倒のためシンガポールの攻撃を勧める。松岡はシンガポールの攻撃はアメリカの参戦を誘発するのでできないと伝える。松岡はドイツびいきになって帰ってきたと天皇が鼻白む。スターリンと松岡もあい日ソ中立条約が調印される。スターリンの期待通り、日本は東南アジアへ進出していく。チャーチルは松岡にイギリスとアメリカが手を組めば日独伊を潰せると書簡を送る。アメリカの諜報機関はスターリンが千島列島を欲していることを察知して、後に対日戦争に使う。
 1941年の6月にはドイツがソ連に進行し、日本の日独伊ソの提携は雲散霧消する。日本は三国同盟を脱退することもできたが、ドイツの有利を信じてそうしなかった。松岡はソ連を攻撃を進言する。

第十一章 四つの御前会議、かくて戦争は決断された

1940年11月ごろアメリカから二人の神父が日米国交打開策を持ってやってきて、首相ともあった。外務省の野村さんがコーデル・ハル国務長官と会い、案を作り日本に送る。近衛首相は決められない人で松岡が帰ってきてから決めようとする。松岡は日ソ中立条約を携えて帰国して、浮かれていて、アメリカの案には見向きもしない。アメリカは日独伊三国同盟からはずれろ、中国および北部仏印からの撤退、満州国もアメリカにも機会均等にしろ、というもの。そんなときにドイツがソ連に侵攻した。
 「大本営政府連絡会議」が開かれ、どうするかを議論したが結論はでない。松岡は直ちにソ連を攻撃を進言したが、木戸は南方の石油、ゴム、鉄を入手するチャンスと捉えていて、代表的な考え方だった。両方の意見を取るということで合意して、1941年7月に第一回の御前会議が開かれた。天皇陛下の前で政府と軍部が議論した結果を報告する。ここで南方進出と対英米戦を辞さないことを表明した。アメリカは1940年10月ごろから日本の外交暗号を解読していて筒抜けだった。そしてアメリカは日本の在米資産を凍結すると発表。イギリス、フィリピン、ニュージーランド、オランダもこれに続く。日本はかまわず南部仏印上陸を開始する。その途端、アメリカは石油の対日輸出を全面禁止する。海軍で1年半、陸軍で1年しか戦えなくなった。永野修身軍令早朝は政府が決めたとし、負けるなら早いほうが良いし、日本海戦ごとき大勝はもちろん、勝ちうるかどうかもおぼつかないと天皇に答えている。陸軍はソ連をも攻めようとしていましたが、極東ソ連軍が半分にならないと勝ち目はなかったが、ドイツとの戦いに訓練十分の部隊をヨーロッパに送るとともに満州との国境にも送り込んできたので、勝ち目はなく訓練するだけだった。
 こうして大変なことになったが天皇は松岡を辞めるように言ったと書いてあり、松岡外相を首にするため内閣総辞職に踏み切る。天皇はまいっていて近衛に真意を聞くと、ルーズベルトとの直接会談を行うと回答した。第二回御前会議の議題の事前打ち合わせでは米英に対して戦争準備、日米交渉を進める、10月上旬まで日米交渉成立に目処が立たない場合には戦争を決意する、とした。杉山参謀長は南方は三ヶ月で片付くと言ったが、天皇に根拠を問い詰められて答えられなかった。それでも御前会議は開かれ決定する。近衛は外交交渉を天皇から言われたので動き出す。しかしアメリカはすでに石油輸出を禁止し、フィリピンや中国や太平洋の島々での戦争準備を進めている。そのためルーズベルトからサミット断りが通達される。東條英機は中国からの撤兵は陸軍にとっては降伏なのでできないという。そして近衛は逃げて主戦論者の東條英機内閣が成立する。天皇と木戸が話し合って決めた人事だった。山本五十六はやれば負ける戦争なので、日本近海で海戦をしても負けるので、ハワイの奇襲作戦に固執した。
 海軍が戦争にノーと言わなかったかは、なんとか頑張れる対米比率が七割になるのが1941年12月だった。戦艦も飛行機も七割だった。大本営政府連絡会議の結果、対米戦争が決まる。天皇は悲痛な表情だったが採算会の御前会議が開かれる。日米交渉は続けられるがアメリカも回答を遅らせた。山本は最後まで交渉の妥結を願っていた。大本営政府連絡会議では戦争を集結できるかを検討したが、ドイツの勝利を当てにしているところがあった。
 アメリカは日本の案を蹴って、ハル・ノートを提出する。受け入れられない満州事変以前の日本へ戻れということだった。これを受けて第四回御前会議が開かれ、交渉決裂の確認と戦争を行うと決定する。

第十二章 栄光から悲惨へ、その逆転はあまりにも早かった

宣戦布告は一時間前を目指したが一時間遅れる。結果大勝利となる。開戦後に大東亜戦争という名になる。その後は毎日勝った勝ったと日本中が喜んだ。シンガポール、フィリピン、インドネシア、を攻め落として、長期の作戦を考慮していなかった。ミッドウエー島を攻略する作戦を立てる。アメリカは東京に空襲を起こす。空母の上からB25を乗せて飛び立たせ、中国大陸まで飛んでいって蒋介石の飛行場に降りることを行う。ミッドウェー海戦ではアメリカの奇襲攻撃を受けて日本の四席が全滅し、搭乗員の多数が戦死。という状態になった。敵機動部隊の出現を予期して搭載機の半数は即時待機の態勢にしておくようにと指示を無視していた。この大敗は公表されなかった。

第十三章 大日本帝国にもはや勝機がなくなって

アメリカ軍は反攻を開始し、1942年8月にガダルカナル島の争奪戦が行われる。爆撃機はかなりの飛行距離を持っているが戦闘機は短い。ゼロ戦は約に千キロの飛行距離あるが往復するなら千キロ。戦闘をするなら800キロ。その範囲で飛行場を作り円を作り戦争を進めた。日本本土の防衛にはサイパン島、テニアン島、グアム島のマリアナ諸島を守らなければならない、それにはさらに先のトラック等を中心とするカロリン諸島をと進んでいき、ラバウルを守らねばとなる。さらにその千キロ先にガダルカナル島があった。日本軍が飛行場を作り終わるころにアメリカ軍が上陸してきて、アメリカの一大基地となってしまう。海軍は24隻撃沈され、飛行機は893機が撃墜されベテラン飛行機乗りの2362人が戦士する。陸軍は兵力三万三千のうち8200人が戦死、戦病死1万1千でそのほとんどが栄養失調による餓死。撤退。天皇にどこに攻勢に出るのかと聞かれニューギニアと答え17万の兵隊が終戦の日まで戦闘を続け生還したのは一万数千という悲惨な状態だった。
 ミッドウェーは1942年6月上旬なので、半年はいい気持ちだったのですが、後半は敗北が見えていて、アメリカが北上の進撃をしてくる。次々とお問われる。ラウバルは占領する必要なしで終戦まで戦争の外にいて自給自足をしていた。ガダルカナル戦の後、日本海軍もアメリカ海軍も船艇がいたんだので日本は本土へアメリカは真珠湾へそれぞれ引き上げ、海の戦いはこれで一段落となる。アメリカは航空母艦を主体に増産して飛行機乗りも育成して戦力を整えた。1943年の1月にルーズベルトとチャーチルがあってルーズベルトは世界平和はドイツと日本の戦争能力の殲滅を持って達成可能として、無条件降伏を主張した。4月18日に山本五十六が乗った飛行機が撃墜される。5月に北の方のアッツ島で玉砕がある。でかい戦闘はなかった。1944年の春にはインパール作戦が実行される。牟田口廉也が推進した。その上にいたのが河辺正三で盧溝橋事件のコンビである。牟田口は功名心が強い突撃型の軍人。補給を全く考えておらず3月似始めたが戦力は40%になり中止すべきという雰囲気になったが攻撃を主張した。結果的に日本軍は乾杯。交代交代で多くの方が戦死した。1943年末から1944年にかけてフィリピンを目指して攻撃を開始してきた。夏になるとサイパン、テニアン、グアムなどのマリアナ諸島が米軍最大の目標になった。日本軍はB29で日本本土を空爆することは分かっていた。東条はサイパンの防衛は安泰といったが、上陸からすぐに飛行場は取られる。航空母艦同士の戦いになるが、惨憺たる敗北。395機の航空機は壊滅。サイパンを取り戻そうと会議をひらいたがどうしようもなく、特殊兵器を考えるほかないと1944年春ごろから考えていた方法をいつどのように使うかを考え始めた。特攻は現場が考えたということになっているが、それ以前に神風攻撃隊という名前が電報に残っている。1944年度の軍事予算は国家予算の85.5%を占めた。

第十四章 日本降伏を前に、駆け引きに狂奔する米国とソ連

三度の飯を食えたのは1944年10月くらいまで。とにかく腹をすかせていた。1944年11月末くらいから筆者も勤労動員で向上で働いていた。1942年は戦争の話、43年は向上や食い物の話、44年は闇や空襲の話、45年は何も話さなくなった。
 上の方でも何とかこの戦争をやめなくてはという動きが出てきて、近衛、吉田茂、岩渕達夫、皇道派のエース小畑が密かに相談して終戦工作を始めていた。しかしルーズベルトがカサブランカで決めた無条件降伏が足かせとなった。2月4日からウクライナの避暑地ヤルタでルーズベルト、イギリスのチャーチル、スターリンが階段した。ドイツはまもなく降伏することが分かっているので、ヨーロッパをどうするかが主題だったが、日本の降伏についても話し合われる。当時はすべて機密だった。日本についてはルーズベルトはスターリンに日本への攻撃を強く希望した。スターリンは日本がロシアからうばったものを奪い返したいと答えた。そんなことを知らずに2月には陸軍と参謀本部の首脳が本土決戦完遂基本要綱を決定する。人海戦術というもの。一方でサイパン、テニアン、グアム島からB29による本土空襲が激化し、昼間は日本の戦闘機が追いついて来られない高高度から、精密照準による爆弾攻撃がされた。しかし冬だと風が強くてなかなか当たらない。日本本土上空で損害を受けて養生に不時着する爆撃機のために緊急着陸できる滑走路が必要だということで、マリアナ諸島と日本本土との間の島として、硫黄島が狙われた。日本軍は2万9戦の兵を送り込み米海兵隊7万5千との間に凄惨限りない戦闘が行われた。2月19日から3月26日の夜明けまで、米軍の死傷2万5千人、日本軍の死傷2万人(戦死1万9千9百人)。米軍の手に落ちた。ヨーロッパ戦線でドイツの空襲で大活躍したカーチル・ルメイ中将が、夜間の低空飛行による焼夷弾攻撃。1500−2000メートル。今までは1万メートル。各機は個別攻撃。3月10日の東京大空襲が皮切りとなった。東京の下町は全滅した。3月18日天皇陛下が視察した。
 陸海軍は次は沖縄に来るというので、4月1日アメリカ軍は大部隊できた軍艦千三百7隻、その上の飛行機1727機、18万人。迎え撃つ日本軍は7万人。男子中学校の1600人、女学校の600人。4月6日に大和も出撃するが翌日に壊滅。そのころソ連が日ソ中立条約を破棄することを通告してくる。無策の小磯内閣に変わって、最後の内閣と言われる鈴木貫太郎内閣が成立する。78歳の御老体だったが昭和天皇から頼まれた。陸軍は最後の一兵まで戦うとしたが、国民はまったく戦意はない。4月13日にルーズベルトがなくなるがトルーマンも政策を踏襲したので、あきらめる。4月28日にムッソリーニがイタリア国民によって銃殺され、ドイツではソ連との市街戦の最中にヒットラーが自決。5月7日に無条件降伏をする。日本だけが残る。
 ドイツ降伏をうけて、鈴木内閣も最高戦争指導会議を持った。沖縄は激戦が続いていて表向きは徹底抗戦だった。戦争完遂が御前会議でもきまったが、木戸さんは天皇の態度を見て和平をもとめているのではと和平構想をねる。ソ連仲介による戦争終結案を具体的に進めようとする。天皇は満州とシナの兵力はほとんど無く弾薬も一回分しかない、と報告を菊。本土決戦など無理じゃないかと驚く。また天皇の命により視察した航空基地を三ヶ月特命で視察してきた報告の戦力がすべてなくなった海軍の現状を報告した。つまり本土決戦などできませんと報告した。そんなことであろうと思っていたと労をねぎらったという。6月15日天皇は病んで倒れる。
 6月20日天皇は東郷外相に速やかに戦争を終結せしめることを希望すると伝える。6月22日最高戦争指導会議で明に和平が言われる。ソ連の仲介する和平案を披露し、7月半ばを目指しているという。6月22日に沖縄は日本軍の壊滅で終了する。戦死10万9千人市民十万人がなくなる。女性の竹槍訓練を始める。日本は参戦の機会があるソ連を当てにした。ドイツの降伏後のヨーロッパの処理でソ連が横暴とわかり、アメリカはソ連参戦前に日本を降伏させようとする。そして原子爆弾が登場する。
 日本も研究をしていたがアメリカと予算がまったく違った。ソ連は原爆投下前に参戦しようとしていた。ポツダム宣言が7月26日にきて、天皇は東郷に受諾するほかないと言うが、政府はソ連の返事を待っていた。鈴木首相の黙殺を外国新聞はRejectとしたため、原爆投下されたと取れるが事実は24日に原爆投下の命令が下っていた。

第十五章 「堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍び」

8月6日の広島に原爆が落とされる。ソ連の侵攻は8月下旬だったがアメリカの原爆製造が進んでいることが分かった時点で8月15日に改め、それを11日に早めていた。準備不足であるが8月9日に侵入するとした。スターリンは五人の原子力物理化学者を呼び、全力での開発を厳命した。トルーマンはチャーチルが原爆の使用に賛成すると言ったというが、チャーチルは知らないと言っている。アメリカのトップも使用になんのためらいもなかった。ただしラルフ・バードという海軍次官が日本への原爆使用に猛反対した。「どうしても使用するなら予告すべきであり、対処する時間を与えるべきである」と主張した。使用が決まるとバードは辞表を提出した。日本は相当の被害を受けたことだけを報じた。
 日本政府と軍部は一発で広島市街が吹っ飛んでしまう爆弾ができていることを翌日のアメリカからのラジオ放送で知り、他の都市への投下も示唆される。それでも日本のトップはソ連仲介による和平を待っていたが、8日に天皇は速やかに集結するように努力するように鈴木首相に伝えろという。さっそく最高戦争指導会議を開こうとするが9日朝にすることになり、9日の午前0時をすぎると、ソ連が満州の国境を突き破って侵入してきた。前日の晩に宣戦布告場を突きつけている。日本は中立条約を破棄せずに攻撃を受け続けることにした。鈴木首相は朝にそれをきくや何が何でもこの内閣で戦争の始末をつけると決めた。午前10時30分に会議が始まり、鈴木首相はいきなり、これ以上の戦争継続は不可能であるといい、ポツダム宣言を受諾するしかないと意見を聞いた。どのように受諾するかという議論になる。ポツダム宣言は世界征服の挙にでた権力の永久除去、日本本土の軍事占領、本州、北海道、九州四国の領地没収、外地の日本軍隊の完全撤収、戦争犯罪人の処罰と民主主義敵傾向の復活強化、巨大産業の不許可(財閥解体)、連合軍の撤収は平和的な政府ができあがったとき。一番の問題は「世界征服の挙にでた権力および勢力」というところ、これは天皇制ということではあるまいか、という疑問だった。
 議論はこちらからの条件などに移るが、東条外相は一条件にしようとして、紛糾するが、第二の原子爆弾が長崎に投下されたことが伝わる。次の日も話し合うが、4条件に固執する閣僚もいて結論がでず、鈴木首相は天皇の聖断を仰ごうとする。御前会議を開くには法的に参謀総長と軍令部総長の承認=花押が必要になる。初期の迫水久常が花押をもらってあったので法的にも問題なく、御前会議を招集できた。8月9日の午後11時50分に防空壕で開かれる。鈴木首相は天皇のご判断を仰ぎたいといい、軍部は発言しないはずの天皇に意見を求めるのはない、と思いましたが、天皇は発言しました。天皇は外務大臣の意見に同意、つまり一条件で良いとした。その後、「これ以上の文化の破壊を望まない、先祖から受け継いだ日本という国を子孫に伝えること。一人でも多くの国民に生き残って、将来ふたたび立ち上がってもらう他道はない。軍隊を解除するのも戦争犯罪人として処罰するのは忍び難いが、今日は汐見が滝を忍ばねばならぬ時と思う」と発言する。こうして日本は連合国に1条件のみ希望として伝えた。
 日本はスイスとスウェーデン駐在の日本公使を通して伝える。アメリカは困ったようだったが、イギリス、中国はこれ以上の流血の惨事より条件を飲んだほうが良いとした。ソ連とアメリカは議論が続き、8月12日の夜に連合国側からの回答が決まる。「日本国からの最終の政治形態は、ポツダム宣言に従い、日本国国民の自由に表明する意思により決定する」とした。それにつづき「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官にSubject toするもの」とした。これ対して軍部はがたがたいう。閣議をするが決まらない。
 こうしたなかで陸軍では強硬なるクーデタによって鈴木内閣を倒し、軍部によって内閣をつくる。これまでの動きをすべてご破算にして徹底抗戦に持っていかなければならない、と計画が侵攻していた。しかし14日の朝に阿南陸相と梅津参謀総長は反対し、計画は破断になり、中堅クラスだけでやるか、となったところ、天皇陛下から全員集合の通知がきて、最高戦争指導会議の構成員と閣僚全員による合同会議がひらかれる。天皇は自身はいかなろうとも国民の生命を助けたいという意思を伝え、そのまま受けいるとした。8月14日の午後に受諾をスイス、スウェーデン駐在の日本公使を通して伝えられた。
 しかし戦争は降伏の調印をするまで完全に終結していることをしらなかった。ドイツの場合は降伏を申し出て2日後に調印しているので、あっというまに戦争は終わった。日本の場合には本土にまだ兵隊がたくさんいるので、降伏調印に時間がかかった。それをソ連は利用した。8月17日大元帥陛下の命令にしたがって、関東軍も武器を投じて無抵抗になりました。そこへソ連軍が攻めてくる。悲惨な犠牲者を限り無く出した。戦死8万人。捕虜は57万人。シベリアで強制労働させられ10万人がシベリアの土の下に眠った。満州には150万人近く住んでいたとされていますが、一般民間人で満州でなくなった人は18万人とされちえる。9月2日アメリカの戦艦ミズーリ号の上で降伏文章の調印式が行われ、日本は太平洋戦争を降伏という形で終えた。アメリカの調整委員会は早くから日本占領の統治政策について研究し、アメリカが最初の3ヶ月間全土を統治し、次の9ヶ月間は米英中国ソ連の4過酷で統治、東京は4分割して統治するという案を8月15日に成分化していた。これは日本の降伏に寄って亡くなった。スターリンはトルーマンに極秘の文章を送っていて、降伏地域に千島列島全部、北海道の北半分を含めるというもの。トルーマンは真っ向から否定し、分断を免れた。

むすびの章 三百万の死者が語りかけてくれるものは?

昭和史は日露戦争の遺産を受けて、満州を国防の最前線として領土にしようとした所からスタートしました。最終的にはその満州にソ連軍が攻め込んできて、明治維新このかた日露戦争まで四十年かかって築いた大日本帝国をその後の40年で滅ぼす。日露戦争以前の50年間は無に帰した。第二次世界大戦での日本の死者は310万人を数える。
 日本人は熱狂しやすく、具体的な理性的な方法論の検討にかけ、縦割りの弊害、終戦の調印を知らなかった、対処療法的で大局観がなく複眼的な考え方がない、という昭和初期のトップの総括をしている。

こぼればなし ノモンハン事件から学ぶもの

司馬さんはノモンハンを取材したが書かなかった。ノモンハンの幹部が清潔な精神の持ち主ではなかったからでは。司馬さんは国を誤った最大の責任者である瀬島龍三大本営参謀と実に仲良く話していたの信用しないから書いてくれるな、と取材した須見元連隊長が手紙に書いてきたのもあった。ノモンハンでは分析をあやまるように書いたとしたが、火力千能力を速やかに向上せしむるにありという一行を書くことも大変なのだと旧陸軍にいた何人かはいう。一番まずかったのは多くの人が事実を知ることだったが、それをしなかった。天皇も戦力の70%を喪失したことを報告していなかった。つまり独断でことを運んでいたことが考えられる。作戦指導したのは服部卓四郎と辻政信。辻は議員もして本も出しているが、大本営とやりあい、引かなかったから負けたという論調。服部は意思不統一が拡大に繋がったと、した。また、人事的な処罰は現場の参謀は取らなくても良いという形になっていた。そのため辻も服部も一度引いたものの復活をしている。ドイツが勝ってハシャイで南進。辻は半年の研究と現地の作戦計画をねって数ヶ月で発動したのが太平洋戦争といっている。
 日本は明治38年にできた旧式武器で近代兵器と戦った。理由は作りすぎたため。戦車も装甲が薄いのは鉄道の狭軌が狭くて重戦車を運べないのと、港湾の起重機が弱くて戦車を持ち上げられないからと。