新訂 福翁自伝

1978 岩波書店 福沢 諭吉, 富田 正文

 

「・・・砲術を遣ろうというものもなければ原書を取り調べようという者もありはせぬ。それゆえ諸方の書生が幾年勉強して何ほどエライ学者になっても、頓と実際の仕事に縁がない。すなわち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めるということにも思い寄らぬので、しからば何のために苦学するかといえば一寸と説明はない。前途自分の体は如何なるであろうかと考えたこともなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生といえば世間に悪く言われるばかりで、既に焼けに成っている。ただ昼夜苦しんで六かしい原書を読んで面白がっているようなもので、実にわけの分からぬ身の有様とは申しながら、一歩を進めて当時の書生の心の底を叩いてみれば、おのずから楽しみがある。これを一言すれば-西洋日進の書を読むということは日本国中の人に出来ないことだ、自分たちの仲間に限ってコンなことが出来る。貧乏をしても苦渋をしても、粗衣粗食、一見見る影もない貧書生でありながら、知力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すという気位で、ただ六かしければ面白い、苦中有楽、苦即楽という境遇であったと思われる。」

慶応義塾を創設した福沢諭吉先生が60歳を過ぎて口述筆記させた自伝。波乱万丈、数奇で濃厚な人生を披露する。

お酒が飲みたくてたまらなかったり、ケンカのまねごとをして遊んだり、ニセのラブレターを書いて友達をからかったり、とハチャメチャ。しかし、本当に度が外れているのは、その向学に対する熱意であろう。アメリカに渡ったときにアメリカ人がいろいろ製作所を見せてくれて日本人に教えてくれようとするが、彼はちゃんと知っている。

「砂糖の製造所があって、大きな釜を真空にして沸騰を早くするということを遣っている。ソレを懇々と説くけれども、こっちは知っている、真空にすれば沸騰が早くなるということは。且つその砂糖を清浄にするには、骨炭で漉せば清浄になるということもチャント知っている。先方ではそういうことは思いも寄らぬことだとこう察して、ねんごろに教えてくれるのであろうが、こっちは日本に居る中に数年の間そんなことばかり詮索していたのであるから、ソレは少しも驚くに足りない。」

一方で風俗風習のことは明るくない。

「他に知りたいことが沢山ある。例えばココに病院というものがある、ところでその入費の金はどんな塩梅にして誰が出しているのか、またバンクというものがあってその金の支出人は如何しているか、郵便法が行われていて、その法は如何いう趣向にしてあるのか、フランスでは徴兵制を励行しているが、イギリスには徴兵令がないというその徴兵令というのは、そもそも如何いう趣向にしてあるのか、その辺の事情が頓とわからない。ソレカラまた政治上の選挙法というようなことが皆無わからない。」

その熱意の根源は身分制度にあったのではないか。

「上士族の家に生まれた者は、親も上士族であれば子も上士族、百年経ってもその分限は変わらない。従って小士族に生まれた者は、おのずから上流士族の者から常に軽蔑を受ける。人々の痴愚賢不肖に拘わらず、上士は下士を目下に見下すという風が専ら行われて、私は少年の時からソレについて如何にも不平でたまらない。」

「幾ら呼びに来ても政府へはモウ一切出ない」という反政府的な一面もあるが、日本を思う心はある。

「…日本国中いやしくも書を読んでいるところはただ慶応義塾ばかりという有様で、その時に私が塾の者に語ったことがある。『むかしむかしナポレオンの乱にオランダ国の運命は断絶して、本国は申すに及ばずインド地方までことごとく取られてしまって、国旗を挙げる場所がなくなったところが、世界中纔に一箇所を遺した。ソレは即ち日本長崎の出島である。出島は年来オランダ人の居留地で、欧洲兵乱の影響も日本には及ばずして、出島の国旗は常に百尺竿頭に翻々してオランダ王国は曾て滅亡したることなしと、今でもオランダ人が誇っている。シテみるとこの慶応義塾は日本の洋学のためにはオランダの出島と同様、世の中に如何なる騒動があっても変乱があっても未だ曾て洋学の命脈を絶やしたことはないぞよ、慶応義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大日本は世界の文明国である、世間に頓着するな』と申して、大勢の少年を励ましたことがあります。 」

長男と次男をアメリカに六年間留学させるが、自身の向学熱とは異なるような子供への教育方針も面白い。

「学問を勉強して半死半生の色の青い大学者になって帰って来るより、筋骨逞しき無学文盲なものになって帰って来い、その方が余程喜ばしい。」

不思議な人である。

氷葬

2004 文芸春秋 諸田 玲子

 

夫の知己を名乗る男に辱められ、激情からその男を殺める。死体を沈めた沼は氷結したが、悪夢は終わらない。

映画化でも狙っていたんじゃないかというようなコテコテの展開。