フロイトを超えて

エーリッヒ・フロム 紀伊國屋書店 1980年1月

 

「すべての体系はその創始者が展開し、提示する段階において必ず誤りがあること、そしてそれはなぜかということを理解しなければうまく行かない」

「この理論がラディカルであったのは、自らの全能と全知に対する人間の信念の最後のとりで、すなわち人間経験の究極的データとしての意識的思考に対する信念を、それが攻撃したからである。ガリレオは人間から、自分たちの地球が宇宙の中心であるという幻想を奪った。ダーウィンは人間が神によって創造されたという幻想を奪った。しかし、意識的思考が人間の依存しうる最後のデータであることは、だれも疑わなかった。フロイトは人間から自らの合理性に対する誇りを奪った。」

社会学者エーリッヒ・フロムがフロイトの成果を再評価する。フロイトは何を間違えたために誤解されたのか。フロイトが囚われていたものを取り除き、本当に発見したものを丹念に検証していく。その中からフロイトの科学的な姿勢なども明らかになっていく。

フロイトを好きではなかったが、フロムが語るフロイトを読むと、大きなパラダイムシフトをもたらした人だったと感じた。しかし、それを結論するフロムは素晴らしい。フロムが語る科学については感動したので、引用したい。

「選択した事実、実験、そして結果の確かさの単純な連続を科学であるとするこの概念は、もう時代遅れである。そして今日の真の科学者は、物理学者であれ、生物学者であれ、化学者であれ、天文学者であれ、科学的方法についてのこの種の原始的な概念をとうの昔に捨てているのは、意味深いことである。
社会科学における今日の創造的科学者を疑似科学者から区別するものは、理性の能力に対する信念であり、人間の理性と人間の想像力は現象の欺瞞的な表面を貫いて、表面ではなく底に流れる力を扱う仮説に到達しうるという信念である。肝心なこと、彼らは決して確実さを期待しないということである。彼らのすべての仮説は他の仮説に取って代わられるが、第二の仮説は必ずしも第一の仮説を否定するものではなく、それを修正し、拡大するものであることを知っているのである。
科学者がこの不確実さに耐えられるのはまさに人間の理性に対する信念があるからである。彼にとって重要なことは結論に達することではなく、その幻想度合いを減らし、より深い根源まで洞察することである。科学者は誤りを犯すことさえ恐れない。彼は科学の歴史は、誤ってはいても生産的で含蓄深い所説の歴史であって、そこから新しい洞察が生まれて、古い所説の相対的な誤りを克服し、さらに新しい洞察を生むものであることを、知っている。」

よくよく考えると、デカルトが定義した科学も「間違えに負けず、確かさに近づいていく」という考え方が主だったものだった気もしてくる。

生命とは何か―物理的にみた生細胞 (岩波文庫 青 946-1)

シュレーディンガー 岩波書店 2008年5月16日

 

物理学者のシュレディンガーが分野を超えて、物理学の見地から生物を語り、分子生物学の生みの親となった。

「生物と無生物のあいだ」に書かれていたことが、書いてあった。驚くのがまだDNAの存在が確認されていないときに書かれたということだ。