逆転の大中国史〜ユーラシアの視点から

文藝春秋 2016 楊 海英c

ユーラシア史を別の観点から知りたくて手に取った。モンゴル出身の著者が書いておりChinaの相対的な位置づけに説得力を感じた。

本の構成

 序章「中国の歴史を逆転してみる」では、中国四千年の歴史は想像上のものとする一方、漢文明は中原を中心するローカルなものであったとする。異民族に侵略を受け続けたという被害者史観からくる不寛容な中華思想が民族問題などを引き起こしているという。シナの歴史をたどると、国際的で栄えた王朝である随、唐、モンゴル、清などはいずれも異民族による征服王朝だった。またコンプレックスから来る自文化中心主義は現実の理解も曲げてしまっている。また中国を理解する上では「文明の海洋史観」での見方が有効と考える。第二地帯の遊牧民族には軍事力があり動物を管理する技術があり、さらに情報力もある。加えて有力な集団が現れるとそれに従属する流動的で開放的な組織力がある。これらがパワーとなっている。
 また海洋文明で選考していたのはイスラームが支配する環インド洋地域と、中国を中心とした環シナ海域であり、西欧も日本も周辺地域だった。またそれに対して西欧は産業革命により近代世界システムを構築し、日本は鎖国体制で勤勉革命で自給自足体制と生産理技術の向上を実現した。この次期、明は海洋アジアの盟主とあれた可能性もあったが、倭寇の取締に汲々としていた。その次期、満州南部で毛皮や薬用人参といった高額の物産の売買で強大な利益を得ていた武装商人集団のリーダーが女真族のヌルハチだった。かれらは放牧・農耕どちらも行う商業民であったが、貿易の儲けで武装を強化し、明王朝を倒すした。近代になると日本が近代化を成功させて、中国の劣等感を助長する。中国は負けじと経済発展を推進しているが、これを成功させるには多文化からの影響を許容するような国際的にひらかれた社会である必要があるとする。

 第一章「漢民族とはなにか」では、、筆者は中国の南モンゴルのオルドスで生まれたモンゴル人であるが、モンゴル人以外の人に何人ですか?と聞くと、漢民族とは言わず、漢人ですという答えになった。この漢人というのも国民国家がいうところの◯◯人とも違う。国家の概念も希薄で、宗教的な統合もない。中国語でもない。中国の標準語は1918年の五四運動で作られた歴史の浅いものだ。彼らを繋いでいるのは漢字である。この漢字システムは異なる言語を話す人々の間で意思の疎通ができる非常に強固なものである。逆の言い方をすると漢人は人種も言語も様々である。青い目と金髪の漢人もいる。筆者があった広東人はマレー人に近い肌も黒くて背も小さい人たちもいて山地人と自称した。揚子江を堺にして南側の漢人は南方人と自称するが、彼らはナニヌネノが発音できずラリルレロになってしまう。これは中国語のアルタイ語化が進んだせいだという。モンゴル語、テュルク語、朝鮮語、日本語、さらに満州語などのツングース語もアルタイ語でである。これらではrが語頭にくることが少ない。日本人もラリルレロをrで発音するようになったほは明治以降である。rやlといった子音が語頭にくるのはタイ系やポリネシア系の言語で、南方人のナがラに変わる理由は南方人に少しだけタイ系の発音の特徴が残っていて、南方人はn/r/lの区別がつかない。漢字システムはこのように多くの人を取り込む強固なシステムである。逆に漢字システムに取り込まれないように漢字を使わずゲルマン人由来のルーン文字を使わなかった突厥碑文の例もある。
 漢語のアルタイ語化は黄巾の乱で古い漢人がかなり減ってしまったためであるという。五胡十六国時代の匈奴・鮮卑などの五胡はアルタイ語系だった。また河というのはアルタイ語系の言葉で北の黄河などで使われ散るが、南に行くと江というタイ語系の言葉が長江などで使われている。
 言語学や考古学の研究からわかっているのは黄河中流域の中原にタイ系の夏人がいたとされており、紀元前13世紀ごろ満州・東北から狩猟民族の殷人が入ってきて、さらに西から遊牧民の周人が入ってきた。これあが中原で成立したとされている王朝である。漢字が成立したのは3000年前だが周の混乱で漢字の原則が乱れ、秦による漢字の統一が必要だった。ここでの注意はタイ系の夏人というのは現在のタイから来たのではなく、中原に住んでいた夏人が異民族に押し出されて南へ移動してタイ人になったのだ。漢人は中原で緩やかに形成される征服者たちではあるとは言えるが、漢人や漢民族という概念はじつは頻繁に変わっている。184年にはもうご百万人弱しかのこっていなかったプロト漢人があとから入ってきたアルタイ系の言葉を話す人達と混血して、新しい漢人になっていったからだ。次に漢人が大きく形成されるのは随と唐だが、両者とも鮮卑系の国家でアルタイ系の言葉を使う人たちが多かったために、漢語のさらなるアルタイ化が進んだ。また雲南省のトン族はポリネシア語系の言葉を話し、台湾にもポリネシア語系の先住民がいるが、両者ともポリネシアに行かずに陸にのこった民族と考えられる。
 このように漢人によって黄河文明が築かれて、勢力を拡大していったわけではない。中国は夏、商、周、秦、漢を継承国家として考えるのは無理があり、漢民族に周辺民族が同化したというよりも、お互いにミックスしたというのが事実であろうという。中華文明が五千年というのも考古学的に見ても難しい。また中原がそこまで富の蓄積ができる土地でないという。また漢詩の中に遊牧民の民謡がはいっていたりする。広東語も上海語も北京語もみな文法が違う。朝鮮もベトナムも日本も漢字圏ではあったが漢語を話していたわけではない。

 第二章「草原に文明は生まれた」では、、、日本は中国へコンプレックスがあるがモンゴルに生まれた筆者は威圧感も畏怖の念のない。モンゴルとシナとの関係が日本とシナとのそれとはまったく違う体。中国はユーラシアの東端に固定された存在にすぎず、遊牧のモンゴル高原からくだったところにある農耕地で、巨大でも強力でもない。筆者はオルドス高原のイケジョー盟ウーシン旗という清朝時代にできた行政区分の出身で、ウーシン旗には重要なシャラ・オソン・ゴール遺跡がある。黄色い水の川を意味し、黄河の支流である。この遺跡からはモンゴロイドの直接的な先祖とみなされているホモ・サピエンスの生活の跡がみつかっており、その新人はオルドス人と呼ばれている。
 中国は近年、中華文明は3つの文明からなると主張するように変わった。黄河文明と揚子江文明、それに草原文明が加わった。黄河文明も揚子江文明も断絶された文明で現代中国の中国人に直接には継承されていない。一方でかれらが草原文明と呼ぶ文明はいまの中国にも脈々とつらなっている。ウラーンハダには新石器時代の遺跡があるが、新石器文明から中国文字文明に連繋する継続性が確認されている。しかし蛮族の地であるはずの万里の長城の北に位置する。これらの遺跡にみられる草原文明は中華文明のひとつであり、現代中国は、その草原文明の継承者であると主張する道をえらばざるをえなかった。その背景にはモンゴル人も中華民族であるとの曲解を強いるワン・チャイナ的な政治的思惑があると指摘する。この文明は遊牧民が作り上げたもので、日本でもほとんどの研究者は放牧文明と呼んでいる。
 本書で「中国」は1911 年以降の中華民国以降の近代中国のことである。シナというのは秦が発祥の言葉で古代インドではチーナと読んでいたり、アラブ地域ではシンと呼ぶ。シンの最後にaが付いたのがシナであり、近代中国の成立以前のあの文明圏を指すのにふさわしい言葉はほかにない。日本の考古学者や東洋史学者のおおくはユーラシア草原を「縦」に分けて考えたがる。モンゴルやロシア、あるいは中国人は「横」に分けて考えることが多い。縦に分けて考えると河はほとんど西から東へ流れ海に注ぐという印象をいだくだろうが、横に分けて考えると河は北へと下っていく。そのためか、シベリアとモンゴルには、地球は太陽の沈む北西方向へ低くかたむいているという神話が伝わっている。「縦」でも「横」でもない第三の分類法を提唱したのは日本人である。名著「文明の生態史観」などでユーラシア大陸の西端と東端における人々の価値観や社会システムが良く似ている事実に注目した。東西両端の湿潤な地域を第一地域とした。第二地域はユーラシア草原であるが、歴史変動の内燃機関と考える。遊牧民は多くの家畜を持っている家が裕福とみなされ、利用している草原の広さや水に恵まれているかなどの条件も重要である。また狩猟採集民族への強い経緯を現している。遊牧民は自分たちよりも長い距離を移動する狩猟採集民はそれだけでも多くの情報を持っている知識人であるとみなす。一方でまったく移動しないシナ人農民のことは自分たちよりも保守的な存在だと考えている。『人は動くもの、山は動かないもの」ということわざが遊牧民の間にある。「移動性を基底においた生活では、累積的な富の蓄積は制限される。このため遊牧社会には極端な階層性のない平等な社会構造をもつ。」
 日本ではゴビ沙漠の名でしられるモンゴル・エレスは、シベリア南部からオルドスにかけてひろがっている。地図で見ると北西から南東へと横たわっている。その西の中央アジアにはまたカラコルム沙漠があり、こちらもはやり北西から南東にひろがっている。これは偏西風によるものだ。ユーラシアでは沙漠を冬営に適した土地と愛されている。文明的に見るとユーラシアの乾燥地にいわゆる世界四大文明が発祥している。またユーラシアの沙漠には豊富な水が含まれているので沙でなくてはならない。著者のふるさとには湖もあったが中国人農民が草原を農耕地に変えてしまい薄い地表が破壊されて沙漠になる。
 ユーラシア草原で放牧がはじまったのは、青銅器時代の紀元前1000年頃と考えられている。青銅器は宗教や哲学の形成にも関係している。シベリア南部にあるミヌシンスク盆地では数多くの青銅器が出土しており、青銅器を製造し、かつ、牧畜と狩猟・漁労を並行しておこなうミヌシンスク文明があったことがわかっている。その文明は出土した僧のちがいと青銅器の特徴により、古い方からアファナシェヴォ文化、アンドロノヴォ文化、カラスク文化と分類することができる。この時代はシナでいうと神話上の三皇五帝の時代から春秋戦国時代に相当する。ミヌシンスク盆地では、シナとは完全に違った文明が成立していた。まず紀元前4000年にはすでに銅石器と馬の利用がはじまっていた。そして紀元前3000年、アファナウェヴォ文化がおこるころに短剣などの青銅器の製造がはじまった。紀元前3000 年末になり、アンドロノヴォ文化へと移行するころ、シベリアのサヤン・アルタイ山脈の鉱床の利用がはじまった。さらに紀元前2000年から紀元前800年くらいになると、新たにカラスク文化が誕生して、青銅器の製造範囲は草原全体そして森林全体へとひろがった。このころにつくられた聖堂の短剣は東は満州平原から西は黒海沿岸まで、広大な範囲で出土している。シナ・殷でも同時期に青銅器はつくられていた。しかし農耕儀礼用の重厚な祭器であり、固定建築の神殿内におかれるような大きく思い物で、ユーラシアで作られてきたものとは違う。またシナでは馬や馬車の使用も遅れていた。
 ドイツの人類学者で政治地理学の祖ともいわれるフリードリヒ・ラッツェルは文化とはその地域に住む人が地理的風土的な影響を受けて作りだすものだとしている。どこかから伝えられる文化があったとしても、それはその土地の基本文化と接触世て新たな混合文化を生み出すという考え方である。文化とは、高いところから低いところへ下げ渡されるものであるという進化論的な考え方とは対立するものだ。オルドスでは双環柄頭の短剣や動物があらそう様子が描かれたバックルなどの特徴をもつオルドス式青銅器が数多く出土している地域でもある。1930年に江上氏と水野氏の二人の日本人考古学者が南モンゴルで積極的に調査した結果である。オルドス式青銅器には炉が見つかっておらず、広漠たるユーラシアのどこでつくられていたかがはっきりしない。モンゴル高原から黒海までのあいだで、高度に意匠化された、ほぼ同じ絵柄のスキタイ式とよばれる帯飾板がみつかっている。考古学者たちはそれをオルドス式青銅器またはスキタイ式青銅器と呼ぶ。肉食系動物が草食系の動物をおそう場面がえがかれていることが多い。また二人の男が取っ組み合いをしている様子も描写されている。カウボーイが幅広のベルトをつけるのには意味がある。荒れ馬に見をまかせていると、内臓が激しく動き、最悪の場合は腸がからみあって、腸閉塞となり死に至る。そうした事故をふせぐために幅広のベルトで内蔵をあるべき場所に固定するのだ。現在、日本の大相撲は契丹起源といわれている。契丹とは10世紀にユーラシア東部にいた民族だが、この帯飾板の存在を根拠に、大相撲は紀元前のスキタイ起源だと解釈できるのではないかと夢想している。オルドス式青銅器は日本でもいくつも発見されている。滋賀県の弥生中期の層から双環柄頭短剣が出土している。朝鮮半島にも九州にもない短剣がなぜ近江にあるのかという謎になっている。スキタイ文化やオルドス式青銅器文化は起源三世紀頃から衰退して、このあとユーラシアは鉄器の時代に入っていく。
 古代の遊牧民は多くの遺跡を残した。その一つがヘレクスルであり、青銅器時代の遊牧民が造影した古墳である。へレクスルはモンゴル語でキルギス人墓という意味だが、キルギスとは古くからシベリア南部からモンゴル高原にかけてくらしていた狩猟・遊牧民で、歴史の表舞台に踊るでるのは9世紀なかば頃だ。古墳に葬られているのはキルギス人ではない。もう一つの古代遊牧民による遺産は鹿石である。高さ1,2メートルの角柱の立石でモンゴリアでは500以上、他の地域でも確認されている。鹿が掘られているので鹿石と呼ばれ、青銅器時代のスキタイ時代以前のものとされている。筆者はこれをトナカイという説を唱える。トナカイ文化圏があり、シベリア原住民や、カナダのイヌイット、スカンジナビア半島北部のサーミ人はほぼ同じ文化を持っており、狩猟採集をし、シャーマニズムを侵攻する。人類拡散は南北2つのルートで東アジアにたどりついている。北方ルートでは西アジアからコーカサス山脈を経て4-5年万前までに南シベリアへ進出していたと推定されている。放牧民は狩猟採集民へのつよい敬意をあらわすが、それは先祖やルーツへの敬意である。いまもなお神に捧げる聖なる供物は家畜ではなく、狩りで捕らえた野生動物であるべきと考える。チンギスハーン一族の歴史を描いた元朝秘史では先祖は狩猟採集をしていたが10世紀か11世紀にようやく草原で放牧に転じた過程がよみとれる。こうした歴史的文化的背景から筆者は鹿石にえがかれているのはトナカイであり、狩猟採集をしえいた尊敬すべき先祖の象徴として刻んだ聖なる符号ではないかと解釈している。また鹿石は何のために建てられたものなのかが、わかっていない。ロシア人を含むシベリアのいくつかの民族は、北の空にかがやく大熊座を鹿と呼ぶ。ロシア連邦のサモヘド族は北極星を鹿に射止められた狩人とする。モンゴル人は北極星を黄金の柱と予備、オリオン座を三匹の鹿と表現する。私は鹿石侵攻は遊牧民の北極星信仰、拝天信仰と関係るすると解釈をこころみたい。シナ人は天について深く思い入れがなかったが、遊牧民は天が9つの層にそれぞれの層に神がすんでいることなどを想像した。

 第三章「西のスキタイ、東の匈奴」、、、家畜の飼育は一万年ほど前のメソポタミアで成立したというのが長年の定説であった。羊から始まり、8000年前に牛、6000年前に馬が加わったとされていた。しかし昨今では家畜の飼育の起源はユーラシア北部の草原地帯ではないかという説も有力視されるようになってきた。遊牧民が利用する家畜は毛皮と肉、乳といった人の衣食住に利用できる羊や山羊と、パワーとして利用でき、運搬に利用する牛やラクダ、軍事に利用する馬に分かれている。遊牧民の軍事的な強さは馬にあり、その優位は産業革命により蒸気機関や重火器が発明されるまで続いた。遊牧民の先駆者は西方ではスキタイ、東方では匈奴である。スキタイは紀元前7紀元前4世紀にかけて現在のウクライナ周辺に、匈奴は紀元前318年あたりから紀元後304年あたりまで中央ユーラシアを中心に活躍していた。スキタイや匈奴は共通点が多く、価値観も共通している。戦闘において形成がふりになるとそこから撤退する。匈奴は西方にもその名をフンとして知られていた。モンゴル人は匈奴をフンヌーと呼ぶ。筆者は家の近くの明代の万里の長城に小さい頃に馬でいったが、簡単に超えられたという。紀元5世紀にオルドスの知に統万城という城を築き大夏王朝を建国する。これは五胡十六国の一つである。統万城は大夏の夏季の都で、長安は冬季の都であった。大夏の始祖である赫連勃勃は匈奴の王族、単于の系統をひく人物である。五胡十六国の王朝のいくつかは匈奴系統の人物によってつくられた。オルドスはシナが秦であったころから五胡十六国時代まで匈奴とともにあった土地だ。中国人はモンゴル人を匈奴とよぶこともある。北部中国の中国人もまたモンゴル人を匈奴の末裔だと理解している。匈奴がオルドスに残した文化はいたるところで見つかっているが、もっとも有名なものは黄金で作られた王冠である。発掘されたのは文化大革命のさなかの1972年だったが筆者の周囲の大人たちはフンヌーの王冠がみつかったと興奮気味にはなしたという。モンゴル民族の先祖とみなす史観は近年、モンゴル国でも内モンゴル自治区でも広がっている。
 匈奴の先に立つスキタイ時代の遺跡としてはロシア連邦トゥパ共和国のアルジャン古墳が有名である。この遺跡からは300頭もの馬が生贄として捧げられた痕跡が見つかっている。この生贄を参加者によって食べられたとみなすなら一万人ほどの人間があつまっていた。アルジャン古墳からは紀元前9世紀から紀元前8世紀のオルドス式青銅器が見つかっている。動物が円を描くように体を曲げた様子があらwされているが、似たものが黒海北岸のクリミアからも見つかっている。スキタイの遺物をもっとも多く所蔵しているのはロシアのエルミタージュ美術館であるが、バジリスク古墳からの出土品も展示されている。代表的なものは馬車であり、東方のシナへ伝わったのはかなり遅くなってからであるが、シベリアでは相当早い段階で西方から草原ルートで場所が伝わっていた。エルミタージュ美術館に収蔵されているシベリア・黒海出土のマスクは顎骨が出っ張っていて、その顔は典型的なモンゴロイドである。ヘロドトスによるとスキタイはアキナケスという短剣を使っていた。古代シナの漢文記録では匈奴が使っていた短剣は径路刀と呼ばれていた。匈奴はフン族と同源説が主流であるが、紀元前318年にシナの歴史にはじめて登場し、西では紀元後453年にフン帝国崩壊が記録されている。オルドスの地で赫連勃勃が大夏を建国したのは407年。匈奴はじつに600年以上、ユーラシアの東と西で均質な文化と文明を醸成する大きな役割をになっていたのである。日本人はこの600年間の中国の元号を暗記することばかりに夢中になり、そのちかくで600年間もつづいた遊牧文化と遊牧文明に無関心ではなかっただろうか。シナの記録によれば、匈奴は野蛮人であり、シナの東方の少数民族の一つであるとされていたが、古代シナの北部だけに存在していた民族ではなく、遥か西方の黒海方面やローマン帝国方面へも大きな影響を及ぼしていた世界的な民族である。モンゴル国の国立歴史民族博物館の展示を見れば一目瞭然だが、モンゴル人は匈奴を自らの先祖だとみなしている。
 道教はアニミズムと神仙思想に八百万の神侵攻を取り入れた宗教である。それを信奉すると不老不死が叶うとされ、非常に呪術的な要素がつよい。哲学的な道士の道教と実践的な民衆の道教があり、民族道教は非常に原始的で悪鬼や悪霊を退治した人が髪になると考えられている。中国や台湾では道教の寺は道観とよばれ、超自然的な水の守り神である龍をかたどったぞうが多く設置される。媽祖も道教でよく奉られている。魔素は航海安全の女神で、十世期後半の福建省の林氏の巫女である。道教が生まれて時代ではシナではすでに人々が専制政治に不信感を持っていた。王朝はめまぐるしく何度もかわり、そのせいで生活が不安定でもあった。その原因を人々は悪鬼や悪霊に求めた。道教が教団として組織されるのは二世紀、匈奴が西を目指した時期に相当する。華北で張角という人物が太平道という組織を立ち上げた。これは人口過剰と困窮を背景に都市貧民層で秘密結社としてひろがっていく。張角は184年に構成員を軍として組織し政府に歯向かって黄巾の乱を起こすが、漢に制圧される。この時代、シナでは儒教の国教化も羽島ていたが、儒教は漢文が読めるエリートのものでしかなく、庶民は口伝の道教だった。遊牧民社会は実力社会であり、平等な社会でもあった。極端な貧富の差も生じない。単干やカガンは選挙によって選ばれる。シナではピラミッド型の権力が存在する。法輪功は、江沢民総書記の時代に登場した道教である。気功で体をきたえて、目指すは不老不死だ。勃興の背景は医療福祉制度の不備と貧困の差である。中国では指導者は自分たち個人の幸福のために道教を利用するが、道教にすがる一般の人々の不満を解決しようとはしない。

 第四章「唐は漢民族の国家ではなかった」、、、筆者のふるさとのオルドスには宥州の版築による城門が残っている。宥州は六胡州の一つで、唐は六胡州を羈縻支配していた。それぞれの部族長に唐風の官職を与えて関節支配するという統治方法である。ウイグル人はテュルク系であるが中央アジアにはカザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、アゼルバイジャン、トルコ共和国などテュルク系の国家があるが、近代的な国家をもたないのはウイグル人だけである。6世紀ころに草原では遊牧が、オアシス地帯では農耕がいとなまれていた。遊牧民はテュルク系、農耕民はインド・ヨーロッパ系の言語の話者であった。それぞれ互いに依存する関係であった。6世紀にテュルク帝国がモンゴル高原から中央アジアにおよぶ遊牧国家の大帝国を建設したが、その保護の元、ソグド人は積極的に東西交易に勤しんだ。テュルクにはオテュケンの地から発祥したとする伝説があり、北史・突厥伝にも「可汗恒にオテュケンに拠る」とあることからオテュケン山の具体的な場所を特定しようと一生懸命努力してきた。モンゴルでは語源的には女性の秘部を表し、母なる大地という意味もある。またテュルクには先祖が狼という伝説があり、モンゴル系民族も自分たちは青い狼の子孫と考えてる。西方からイスラームが伝わってくるが農耕民がまずイスラーム化し、その後放牧民がイスラーム化される。一方でテュルク語はソグド人、オアシス民、東トルキスタンの東にあったシナ人の植民地などに6世紀ごろに広がりはじめ10世紀に完成する。
 552年アシナ氏を中心とするテュルクが当時モンゴル高原の覇者であった柔然をたおし、テュルク帝国を作り上げた。初代の君主はイルリグ・カガンで東は渤海湾から西はカスピ海までの大帝国を築いた。これがテュルク第一帝国である。しかし内紛から583年にモンゴル高原を本拠地とする東テュルクと中央アジアを本拠地とする西テュルクに分裂した。そして7世紀にはどちらも唐の支配下に置かれ、7世紀半に六胡州が置かれた。しかし682年にテュルク系の人々はソグド人と連体し、テュルク王家のアシナ氏を擁して唐から独立を果たし、モンゴル高原から南モンゴルの陰山山脈にかけて祖国を再建する。これがテュルク第二帝国である。ウランバートル近郊にこの時代の石碑があり、トニュクク碑と呼ばれている。トニュククとはトルコ第二帝国建設の立役者である。この石碑にはテュルク文字、現在はルーン文字と呼ばれている文字が刻まれている。同じような石碑はウランバートルの西にあるホショー・チャイダムでも見ることができる。ホショー・チャイダムにはテュルク第二帝国の第三君主ビルゲ・カガンの弟にあたるキョル・テギンの墓もあり、周囲に石碑が建てられている。この中にオテュケン山より良いところはないと称賛しているものがある。タブガチに対して警戒を促すような文が綴られている。元々は拓跋は鮮卑系集団の一氏族だったが第5代献文帝まで鮮卑人本来の姓名であったが、次第にシナ風の姓を名乗るように変性していった。随を起こした楊一族、唐を興した李一族、ともに鮮卑系で遊牧民だが、当時のテュルクにとってもはや拓跋は策略にたけたシナ人の代名詞だった。同じ遊牧民でありながらあっさりとシナ化した拓跋を信頼していなかった。北魏の帝室が自らの源流を拓跋鮮卑に求めていたことを明確にしるした内容がゲゲーン河の畔のガシューン・アグイ洞窟から発見されている。テュルクは唐の皇帝をシナ風に皇帝とはよばず、草原のしきたりに則ってテンゲル・カガンと称していた。
 ユーラシア草原のテュルクの人々の精神世界を理解するには石人を知る必要がある。2つの説が対立していて、一つは死者が生前に殺した敵を石人として表現したとする説で、もう一つは石人を試写本人とする説である。前者の根拠として林氏は周書にある記述を参考にあげる。葬式がおわると墓所に石をたて、その石の数は生前に殺した敵の数におうじると書かれている。校舎の根拠は隋書で、死者の肖像は絵画で残されるとも書かれているが、それの拡大解釈である。また石人の近くにはバルバルとよばれる石柱が一直線に並んでいるので、これが周処に書かれている生前に殺した敵の数に応じて立てられる石ではないかと言う説もある。ここまで紹介したトニュクク碑も石人もモンゴル高原のものだが、東トルキスタンにも、当時をしのばせる石人が多く残っている。新疆ウイグル自治区の天山の山中にモンゴル・クレーとよばれる地域がある。ここでも、左手にナイフ、右手に酒器をもった石人がみつかっている。しかもこの石人の下半身にはソグド語による碑文がきざまれていたので、有名になった。この石人はニリ・カガン時代のもので、ニリ・カガンは西テュルクの指導者でカガンの地位に在した人物であり、石人とともにある古墳も本人のものでないかと言われている。8世紀半ばには東テュルクも西テュルクも滅びる。東テュルクはアシナ氏がウイグル氏に支配権を譲り渡すことで、その名がウイグル帝国に変わるだけである。755年には唐では安史の乱が起こる。ソグド系の安禄山と同郷の史思明とともに起こした氾濫だだが9年にも及び、唐はウイグルに助けを求め、なんとか乱を鎮めた。ウイグルは唐を救ってそのまま雲南省にモスクを縦すみ続けた人々もいる。ウイグル帝国の人々は757年にモンゴル中央部のセレンゲ河のほとりにバイ・バリクを作った。テュルク語で富貴・城である。ウイグルが大帝国だったころの東ユーラシアは三大帝国が鼎立していた時代であった。ウイングル帝国と唐王朝、そしてチベット帝国がそれぞれ栄えていたのである。しかし日本ではこの時代には唐との交流が盛んであったことも影響してのことであろうが、唐を過大評価し、当時西にあった大国は唐だけだと信じ、ウイグルとチベットへは目を向けてこなかった。また唐は鮮卑拓跋系の王朝であるから、国際色豊かな国であった。それを物語る分かりやすい例の一つとして、高仙芝という人物は朝鮮半島の高句麗系出身であるが、唐軍を率いて751年のタラス河畔の戦いでイスラーム軍と戦った。このタラス河畔の戦いでは唐軍がやぶれ、イスラーム勢力はソグド人の本拠地であるアム河、シル河地帯をふくめ、パミール以西のオアシス地帯の西半分を勢力圏にした。これによりユーラシアの東西を結ぶ通称ネットワークはソグド人でなくイスラームを信奉する、ムスリム商人が支配するようにかわっていく。そのため、ソグド人やテュルク系のあいだにイスラームが広まっていくことにもなる。また多様性にとんだ国であった唐はタラス河畔の戦いという世界大戦でやぶれ、それが中央ユーラシアがイスラーム化するながれを決定づけ、唐は漢民族を徴用してシナ化し国際色を薄くしていく。農耕民の天敵である自然災害(大雪)にウイグルは840年に見舞われた。さらに内乱もかさなり、これにより国家として力が低下すると、シベリアのイェニセイ河ちかくにすんでいたキルギスが存在感を高めてくる。そしてキルギスはモンゴリアに南進しウイグル知恵国の各地で住民たちと徐々に融合し、それがテュルク化をいっそう進めることになる。ウイグルの人々をうけいれた西の人々はそれまで話していたインド・ヨーロッパ系のことばを放棄して、テュルクのことばを選ぶようになる。9世紀中葉にいたると、天山山脈以南のタリム盆地のテュルク化も一段と進む。唐も9世紀には弱体化し、907年には幕を閉じる。天山沿いのオアシス地帯では宗教も変化する。ウイグル人には後述するマニ教が多かった。しかしマニ教にはテュルク語がほかの言語を一掃したような威力はもたなかった。天山では新しいマニ教と古い仏教が併存したが、徐々に仏教化してくる。今も天山に残る石窟寺院はすべて仏教文化が開花したときのものである。このときに西テュルクではテュルク化とイスラーム化が進んでいた。
 イスラーム化される前の中央アジアではゾロアスター教が信じられていて、長安と洛陽、北京にもゾロアスター教の遺跡が残っている。また中東生まれのマニ教もウイグルの間で広く信じられていた。また仏教も盛んで長安や洛陽にはソグド人に拠る仏教遺跡やソグド語の仏典も残されている。景教も635年に唐に伝えられている。イスラーム教徒は651年に唐へ使者を派遣している。7世紀から8世紀にかけてアラブ軍はアジアの制服をはじめている。タラス河畔の戦いもこの東方進出の一環である。アラブがユーラシアで勢力を強みるとまずは西テュルク支配下のイラン系の人々がイスラーム化していく。その代表例がゾロアスター教を国境としていたササン朝ペルシアのイスラーム化である。ササン朝がなくなり、やがてサーマン朝になるとさらにテュルク化が進む。新疆ウイグル自治区は今も東西の文化が交わる地である。ウイグルのポスターには西域のもじがあるが、古代シナから使われているが、西域三十六国は外国伝に載せられていた。古くからシナの地であったというのは荒唐無稽である。この時代は東では等があり、西ではテュルクによる征服王朝であるカラハン朝があった。13世紀になると西の中央アジアから東に移住したキプチャク人が再び石人を草原に造影した。

 第五章「3つの帝国が鼎立した時代」では、オルドス高原の筆者の生家の近くにはチンギス・ハーンにほろぼされたタングート人の城址があった。タングートとは日本では西夏で知られたチベット系民族の王朝だ。筆者は子供の頃にタングートの逸話としておお様の耳はロバの耳の話を聞いていたが、イソップ童話にも入っていると知って驚いた。十世紀から十二世紀ごろのユーラシアはモンゴル系のキタイによる遼、タングートによる西夏、そして宋という3つの大帝国があったが、そのうちのキタイとタングートという言葉は現代モンゴル語の中に行き続けている。漢人すなわち中国人のことをキタド(単数形はキタイ)といい、チベットをタングートと呼ぶ。なぜ本来の意味と違うように呼ぶのは分からないが、タングートの人がチベット系の言葉を話していたからではないかと推測される。キタイは南モンゴル自治区の東、大興安嶺の南麓に遊牧していたモンゴル系の集団である。その集団から耶律阿保機というリーダーが誕生し、カガンを自称する。907年のことだ。その後、耶律阿保機は916年に大キタイコクを作り、のちに国号を遼とするため、遼王朝としても知られている。渤海国を整復し、その名を東丹国としている。東丹国は930年に大キタイにほろぼされ、キタイは東は渤海国、西はパミール高原、北はモンゴル高原から南は黄河流域までの広大な土地を統治することになった。大キタkの半分は遊牧民で半分が主にシナ人の農民であった。北部の遊牧民は北面官が治め、未アンブの農民は南面官おさめる二重官制というユニークな統治体制を採用する。大キタイ国の滅亡の際に、追われた王子のひとり耶律大石が部隊を率いて北上し、1124年にモンゴル高原で勢力を立て直す。1130年になると中央アジアに移動し、グル・ハーンに即位して西遼を建国する。カラ・キタイとも呼ばれる。
 一方のタングート王朝は感じで表記すると大夏帝国となり、ユーラシアの東端にあるシナの視点では西夏だ。この王朝の誕生には生活で苦しくなた民商に拠る黄巣の乱(875-884年)をきっかけとした唐の衰退がおおいに関係している。唐はもともと鮮卑拓跋系の王朝でありながら、李姓を名乗るなどシナ化していった。現在のオルドス、当時の夏州にいた拓跋系集団のたすけをえて黄巣の乱を千夏する。唐王朝はそれへの対価として、夏州の拓跋集団に皇帝一族と同じ李姓と定難節度使という役職を与えた。節度使はとは唐の周辺異民族にそなえて募兵集団の指揮官であったが、のちに軍閥と貸して自立する者がおおかった。ここに誕生したオルドスの夏州李一族は、タングートらチベット系の集団をつぎつぎにとりこんでいき、巨大化していく。この動きを目の当たりにした大キタイ国は999年に夏州の拓跋とタングートという二大民族からなる軍団の統率者、李継遷に西夏王の称号を与えた。1032年にはその李継遷の孫である李元昊がタングート国を建て国王の座につき1038年には国号を大夏とあらためている。この大夏帝国は1227年にチンギス・ハーンによってのみこまれる。モンゴル時代の開幕だ。拓跋系とタングート系の人々は、モンゴル帝国に吸収され、モンゴル人と融合しながら活躍し続けている。
 宋は960年に南シナで勃興しているが、大キタイ国の支配者のほとんどがモンゴル系のキタイ人、大夏帝国の住民が拓跋系とタングート系とその混血であるのに対し、宋の人々がどういった人種であるかは定かではない。中国はそれを漢人としているが、その漢人は漢の時代の漢人とは完全に異質であると指摘している。それだけ南シナの人的な移動は激しく、つねに今日の東南アジアを巻き込む形で人種間の混合が進んでいた。シナは宋の漢人も漢の漢人とおなじであると純血主義を主張している。現在、香港を拠点とする航空会社にキャセイパシフィック航空があるがキャセイは契丹の意味である。これはキタイはヨーロッパ系の諸言語にも定着している事実をしめしている。
 大契丹国には5つの都があった。契丹は遊牧民であるから、皇帝は季節が変わるたびに自らの暮らす宮張をうつした。都市に定住しないのは遊牧民の伝統であり、のちのチンギス・ハーンも、ティムール朝を建国したティムールも同じように一箇所にとどまらず四方に遠征し続けた。キタイの人びとはいかにもモンゴロイドという顔をしていたことが絵に残されている。キタイ文化が優れていたことは当時の焼き物をみるとよくわかる。キタイの陶磁器の方が宋のものとくらべて文化の面では個性的で、技術の面でも焼き具合も秀でている。キタイのやきものにはのちの高麗青磁風のものもあるが、そのデザインにはシナの農耕文化の要素が希薄であり、遊牧民の影響を受けている。ある器には緑色の魚が描かれているが、この緑色はラピスラズリの使用による結晶だ。ラピスラズリはほとんどがアフガニスタンまたはエジプトからしか採掘されない好物で、それがキタイ人の器に使われているのは、当時からかれらのあいだでは国際貿易があったことの証でもある。元朝の染付は西方のラピスラズリと、中央アジアのイスラーム風デザインと、シナの焼き物の技術が一体化したことによって世界最高級の芸術品とされるが、キタイ時代にすでにその全長となる、東西文明の融合に拠る逸品が生まれていた。キタイでは天文学も発達していたことが墓誌蓋からわかる。内モンゴル自治区のバーリン草原の慶州には慶州釈迦仏舎利塔、俗に慶州白塔とよばれる美しい仏塔がたっている。これは契丹の皇后が夫の追善供養のために建立したもので、1049年に竣工したものである。おそくとも17世紀中葉まで慶州一体は草原の仏教センターのような場所でありつづけた。北面官がおさめていたモンゴル高原の東部には建築士ではおなじみの、キタイ式レンガ塔とよばれる密檐式磚塔ものこされている。磚はレンガを意味する。一望無尽の大草原にキタイ人の都城の跡があり、そこにこの仏塔が立っているのを見たときに感動を覚えた。この種のキタイ式の仏塔が南は北京から、北はモンゴル高原まで東は旧渤海国から、西は現在の寧夏回族じちくまでに100期以上たっている。とりわけ契丹の本拠地である内モンゴル(南モンゴル)に多く見受けられる。モンゴル国の西部にひろがる草原で「塔」とならんでキタイ人の時代をいまにつたえるのは「砦」(バルガスン)だ。砦の近くにも仏塔がありキタイ帝国期に建てられたものだが16世紀17世紀には再利用されたようだ。内部からは白樺にモンゴル語で書かれた大量の仏典が20世期半ば以降みつかっている。モンゴル人には古くなった仏典を仏塔へ持参し収める習慣がある。この仏塔下から発見されたモンゴル語の仏典はドイツやイタリア、モンゴル国の研究者によって研究されて、チンギス・ハーンを仏教の神として称賛する経典もある。内モンゴル自治区バーリン草原にあるキタイ帝国の太祖・耶律阿保機の墓は天幕を模した石室で中に入れるほど広い。
 筆者の故郷のオルドスには北魏時代の石窟がいくつか残されている。もっとも脚光を浴びたのはアルジャイ石窟だ。石窟の岩壁には仏塔が掘られてるが、キタイ人の仏塔とは似ても似つかないチベット風、典型的な大夏帝国のタングート系のものだという。その証拠は石窟の天井をみあげたところにある蓮華藻井だ。藻井とは天井の意味で

 第五章「3つの帝国が鼎立した時代」では、オルドス高原の筆者の生家の近くにはチンギス・ハーンにほろぼされたタングート人の城址があった。タングートとは日本では西夏で知られたチベット系民族の王朝だ。筆者は子供の頃にタングートの逸話としておお様の耳はロバの耳の話を聞いていたが、イソップ童話にも入っていると知って驚いた。十世紀から十二世紀ごろのユーラシアはモンゴル系のキタイによる遼、タングートによる西夏、そして宋という3つの大帝国があったが、そのうちのキタイとタングートという言葉は現代モンゴル語の中に行き続けている。漢人すなわち中国人のことをキタド(単数形はキタイ)といい、チベットをタングートと呼ぶ。なぜ本来の意味と違うように呼ぶのは分からないが、タングートの人がチベット系の言葉を話していたからではないかと推測される。キタイは南モンゴル自治区の東、大興安嶺の南麓に遊牧していたモンゴル系の集団である。その集団から耶律阿保機というリーダーが誕生し、カガンを自称する。907年のことだ。その後、耶律阿保機は916年に大キタイコクを作り、のちに国号を遼とするため、遼王朝としても知られている。渤海国を整復し、その名を東丹国としている。東丹国は930年に大キタイにほろぼされ、キタイは東は渤海国、西はパミール高原、北はモンゴル高原から南は黄河流域までの広大な土地を統治することになった。大キタkの半分は遊牧民で半分が主にシナ人の農民であった。北部の遊牧民は北面官が治め、未アンブの農民は南面官おさめる二重官制というユニークな統治体制を採用する。大キタイ国の滅亡の際に、追われた王子のひとり耶律大石が部隊を率いて北上し、1124年にモンゴル高原で勢力を立て直す。1130年になると中央アジアに移動し、グル・ハーンに即位して西遼を建国する。カラ・キタイとも呼ばれる。
 一方のタングート王朝は感じで表記すると大夏帝国となり、ユーラシアの東端にあるシナの視点では西夏だ。この王朝の誕生には生活で苦しくなた民商に拠る黄巣の乱(875-884年)をきっかけとした唐の衰退がおおいに関係している。唐はもともと鮮卑拓跋系の王朝でありながら、李姓を名乗るなどシナ化していった。現在のオルドス、当時の夏州にいた拓跋系集団のたすけをえて黄巣の乱を千夏する。唐王朝はそれへの対価として、夏州の拓跋集団に皇帝一族と同じ李姓と定難節度使という役職を与えた。節度使はとは唐の周辺異民族にそなえて募兵集団の指揮官であったが、のちに軍閥と貸して自立する者がおおかった。ここに誕生したオルドスの夏州李一族は、タングートらチベット系の集団をつぎつぎにとりこんでいき、巨大化していく。この動きを目の当たりにした大キタイ国は999年に夏州の拓跋とタングートという二大民族からなる軍団の統率者、李継遷に西夏王の称号を与えた。1032年にはその李継遷の孫である李元昊がタングート国を建て国王の座につき1038年には国号を大夏とあらためている。この大夏帝国は1227年にチンギス・ハーンによってのみこまれる。モンゴル時代の開幕だ。拓跋系とタングート系の人々は、モンゴル帝国に吸収され、モンゴル人と融合しながら活躍し続けている。
 宋は960年に南シナで勃興しているが、大キタイ国の支配者のほとんどがモンゴル系のキタイ人、大夏帝国の住民が拓跋系とタングート系とその混血であるのに対し、宋の人々がどういった人種であるかは定かではない。中国はそれを漢人としているが、その漢人は漢の時代の漢人とは完全に異質であると指摘している。それだけ南シナの人的な移動は激しく、つねに今日の東南アジアを巻き込む形で人種間の混合が進んでいた。シナは宋の漢人も漢の漢人とおなじであると純血主義を主張している。現在、香港を拠点とする航空会社にキャセイパシフィック航空があるがキャセイは契丹の意味である。これはキタイはヨーロッパ系の諸言語にも定着している事実をしめしている。
 大契丹国には5つの都があった。契丹は遊牧民であるから、皇帝は季節が変わるたびに自らの暮らす宮張をうつした。都市に定住しないのは遊牧民の伝統であり、のちのチンギス・ハーンも、ティムール朝を建国したティムールも同じように一箇所にとどまらず四方に遠征し続けた。キタイの人びとはいかにもモンゴロイドという顔をしていたことが絵に残されている。キタイ文化が優れていたことは当時の焼き物をみるとよくわかる。キタイの陶磁器の方が宋のものとくらべて文化の面では個性的で、技術の面でも焼き具合も秀でている。キタイのやきものにはのちの高麗青磁風のものもあるが、そのデザインにはシナの農耕文化の要素が希薄であり、遊牧民の影響を受けている。ある器には緑色の魚が描かれているが、この緑色はラピスラズリの使用による結晶だ。ラピスラズリはほとんどがアフガニスタンまたはエジプトからしか採掘されない好物で、それがキタイ人の器に使われているのは、当時からかれらのあいだでは国際貿易があったことの証でもある。元朝の染付は西方のラピスラズリと、中央アジアのイスラーム風デザインと、シナの焼き物の技術が一体化したことによって世界最高級の芸術品とされるが、キタイ時代にすでにその全長となる、東西文明の融合に拠る逸品が生まれていた。キタイでは天文学も発達していたことが墓誌蓋からわかる。内モンゴル自治区のバーリン草原の慶州には慶州釈迦仏舎利塔、俗に慶州白塔とよばれる美しい仏塔がたっている。これは契丹の皇后が夫の追善供養のために建立したもので、1049年に竣工したものである。おそくとも17世紀中葉まで慶州一体は草原の仏教センターのような場所でありつづけた。北面官がおさめていたモンゴル高原の東部には建築士ではおなじみの、キタイ式レンガ塔とよばれる密檐式磚塔ものこされている。磚はレンガを意味する。一望無尽の大草原にキタイ人の都城の跡があり、そこにこの仏塔が立っているのを見たときに感動を覚えた。この種のキタイ式の仏塔が南は北京から、北はモンゴル高原まで東は旧渤海国から、西は現在の寧夏回族じちくまでに100期以上たっている。とりわけ契丹の本拠地である内モンゴル(南モンゴル)に多く見受けられる。モンゴル国の西部にひろがる草原で「塔」とならんでキタイ人の時代をいまにつたえるのは「砦」(バルガスン)だ。砦の近くにも仏塔がありキタイ帝国期に建てられたものだが16世紀17世紀には再利用されたようだ。内部からは白樺にモンゴル語で書かれた大量の仏典が20世期半ば以降みつかっている。モンゴル人には古くなった仏典を仏塔へ持参し収める習慣がある。この仏塔下から発見されたモンゴル語の仏典はドイツやイタリア、モンゴル国の研究者によって研究されて、チンギス・ハーンを仏教の神として称賛する経典もある。内モンゴル自治区バーリン草原にあるキタイ帝国の太祖・耶律阿保機の墓は天幕を模した石室で中に入れるほど広い。
 筆者の故郷のオルドスには北魏時代の石窟がいくつか残されている。もっとも脚光を浴びたのはアルジャイ石窟だ。石窟の岩壁には仏塔が掘られてるが、キタイ人の仏塔とは似ても似つかないチベット風、典型的な大夏帝国のタングート系のものだという。その証拠は石窟の天井をみあげたところにある蓮華藻井だ。藻井とは天井の意味で天井に蓮華の花が彫られている。いまこのアルジャイ石窟があるオルドス北西部から黄河を西に渡ると、そこはムスリムが住む寧夏回族自治区だ。寧夏は大夏の本拠地であり、政府所在地がある銀川市の郊外の大草原には大夏タングートのころの仏塔が悠然と立っている。レンガ造りであることはキタイの仏塔と同じだが、やはり美的作風はまるで違う。大夏は仏教の国であったが、のちに主としてチベット仏教が顕著となっていく。1227年にチンギス・ハーンによって滅ぼされた跡もタングート系の人々は西夏語でかかれたチベット仏教の仏典を大切にして守ってきた。万里の長城にもうけられた関所のうちの一つだが、そこには漢文とモンゴル文字、西夏文字などさまざまな種類の文字で仏典が書き込まれている。西夏文字は日本人のめには読めそうで読めない漢字のように映るだろう。これは漢字から派生した文字で、日本の言語学者によってほぼ解読された。元朝はほかの草原帝国と同様に、複数の言語を同時に運用してきたが西夏語もその一つである。多言語に拠る記述はあるじゃい石窟の内部にも認められ、モンゴル語とサンスクリット語、それにチベット語でターラーの女神が称賛されている。元朝はモンゴル帝国の東の一部とはいえ、さまざまな民族からなる大帝国である。南モンゴル中央部のオンニュート草原には1335年に建てられたシナ人張応瑞の墓があるが、その墓碑銘には彼がいかにモンゴルの豪族に貢献したかが、漢文とモンゴル語の双方できざまれている。
 多民族多宗教のモンゴル帝国は儒教仏教道教の三つの宗教が共存し融合した。この時代は現実主義な民間信仰の道教と、阿弥陀仏信仰や弥勒仏信仰との同化が急速に進んだ。阿弥陀仏信仰とは南無阿弥陀仏という六字名号を唱えれば死後は極楽浄土へゆけるたいうものである。弥勒仏下生信仰の実践者として、当時力をつけていた白蓮教団から生まれた朱元璋をあげることができる。白蓮教系の宗教結社から、近代に入って義和団が誕生した。どちらも秘密結社である。このような秘密結社は政情が不安定になると、急速に力を伸ばし、国家転覆をはかる。国家が自分たちを守ってくれないのなら、自分たちの力でなんとかしようと考えるのである。これは義和団がかかげていた阪外国主義にも直結する。現代中国が半日主義であるのには様々な理由があるがゆえに、白蓮教的な考え方が中華文明の中に根付いている事実も要素の一つである。大元王朝の首都は大都だがそこにはチンギスハーンがシャーマニズム信仰に沿ってまつられていたかという気楽が元史などに残されている。モンゴル帝国、元王朝は宗教に寛容であったので、チベット仏教は国教の地位にあったが、シナ人の儒教もじつは元朝時代に隆盛をほこっていた。南モンゴルの草原にも孔子を尊崇するモンゴル帝国時代の石碑が残っている。モンゴル帝国時代のチベット仏教は元朝の帝室では高い地位を獲得していたものの、草原の遊牧民社会にどれほど浸透していたかは不明である。モンゴル高原にある都市ハラ・ホリムはモンゴル帝国の首都だったが、その周囲には穏やかな起伏のある草原がひろがっている。チベット仏教が再度、ステップに伝わると、草原の僧たちは往昔の帝都に使われていた石材やレンガを僧院の建築に活用し、新たにエルデニ・ジョーという寺院群が誕生した。このエルデニ・ジョー寺院群の裏にある谷間をチベット仏教の僧侶たちは、なまめかしい女性の秘部だと解釈した。そこで僧侶たちは、男根を模した石を折れた状態で草原のなかにすえた。
 キリスト教文化は845年に古代キリスト教の教派のひとつであるキリスト教ネストリウス派が伝わって以来、古代シナでは定着しなかったが、モンゴル高原では浸透し、13世紀にはケレイトやオングートなど有力な部族に信奉されていたという説がある。プレスター・ジョンは西欧で12世紀から16世紀にかけて、アジアかアフリカの何処かに存在するキリスト教国の国王のことで、イスラーム教団を叩きのめそうとしていると考えられていた。13世紀にキリスト教がモンゴル高原に根付いたきっかけは1267年、ネストリウス派キリスト教徒であったマール・セルギスが西方より元朝を訪れ、帝室に使えるようになったこととも関係があるかもしれない。その後、1294年には、ローマ教皇ニコラウス四世から派遣されたジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノがモンゴル帝国の大都を訪ね、今日の内モンゴルの草原にローマ教会堂をたてている。これが、草原のモンゴル人などの遊牧民がカトリックに改宗するおおきなきっかけともなった。オングーとがくらしていた地域からは、シリア文字のきざまれたキリスト教徒の墓石がおおくみつかっている。モンゴル高原の中北部に割拠していた有力なテュルク系の遊牧民のひとつであったケレイトもほとんどがネストリウス派のキリストっ教徒であった。なお代々、そのケレイトの女性はチンギス・ハーン家に嫁いでいる。
 北京にはキタイ時代に淵源するモスクがある。あまり中央アジアにあるようなモスクのようにみえないかもしれないが、牛街清真礼拝時がそれだ。996年に建立されたとされている。イスラームはモンゴル帝国の樹立語、神秘主義教団のスーフィーたちの活動もあって草原に広がっていく。ある宗教が別の宗教の信者たちの地域を思想的に塗り替えていく途中いは従前の設備を活用する。寧夏回族自治区南部の同心県にはチベット仏教の寺院をモスクに改修したものがある。今日の新疆ウイグル地軸東部にハミ市があるが、ハミ市内にたつハミ王の陵墓も、イスラーム風のたてものだ。ハミ王はチンギス・ハーンの次男チャガタイの系統だ。
 西夏文字は漢字から派生したものだが、契丹文字も漢字を改変したもので920年に作られた表意文字である。漢字文化圏の一員である。キタイ語はモンゴル系の言葉であることが分かっている。キタイ人は大小二種類の文字を創設した。漢字から派生したものを契丹大字と予備、表音文字の方は契丹小字である。言語に関しはモンゴル高原の遊牧の民はずっと西のものを導入してきた。テュルクがもちいたルーン文字しかり、キタイも大夏も同様である。契丹文字は大キタイ国滅亡後にものこった。雲南省の墓碑に契丹小字がつかわれていたという。フビライ・ハーンは宋を征服する前に雲南を陥落させている。このときの軍勢は、モンゴルに帰順したばかりのキタイの人々で構成されていたと伝えられている。その中に攻め入った雲南に駐屯し、子孫を残したものもいる。今の雲南のモンゴル人の中には、キタイの子孫が少なからずいるはずだ。現在ではモンゴル人と称している雲南省のキタイ後裔のなかには「阿」という姓がありこれはキタイ帝国の太祖・耶律阿保機の阿に由来すると現地に伝わっている。内モンゴル北東部に位置するフンボイルには、打ウールという遊牧狩猟民族がいる。かつては打ウール・モンゴルと自称していたかれらは、近年、自分たちは契丹の子孫であると主張している。ダウール語は明らかにモンゴル系の言葉である。大夏の子孫は東チベットにいる羌族でないかと目されている。

 第六章「最後のユーラシア帝国、清」では、中央ユーラシア最後の帝国について見ていく。1636年に建ち1912年に滅ぶ。ロジア帝国は1917年、オスマン帝国は1922年に崩壊しているので、ときをほぼ同じくしている。著者のふるさとのオルドスには清の第四代皇帝であった康熙帝が狩猟をしていたとか旅をしていたという伝説が多い。康熙帝は筆まめで手紙が残っている。その中にモンゴル人の礼節について称賛している箇所があるが、遊牧民はヨスンすなわち礼節を命のように大切にする。この価値観はウイグル人にもカザフ人にもすべてのテュルク系の人々にも、またアフガンにいるパシュトゥーンの人々にもきょうつうしている。遊牧民は義理人情を重視し、他者をもてなす文化を持っている。シナ人は遊牧民を野蛮だとするが、それは儒教的な礼節と違うからである。また1949年の協賛革命で中国共産党の指導者がそれまでのシナの伝統文化を破壊した。古くからの儒教風の品格や洗練の基準を否定し、粗野であることが素晴らしいと決めつけた。その顕著な例が文字であり、1980年代まで中国では下手な字こそ労働階級の字であり素晴らしいとされた。文化革命の被害はそれだけではなく、農村に下放されたりした二十歳前後の大学受験生は無学の世代になってしまい、大学の筆記試験でも中学生のレベルでも解けないようになってしまった。いまの習近平主席と同じ世代の人たちである。時代を十七世紀にもどすと、狩猟と放牧の療法をいとなむ満州人であった康熙帝は遊牧民の礼節を理解した。モンゴル人は満州人をどう見たかということでは筆者の体験がある。高校生の同窓に貴族出身の満州人がいて、とても優雅で上品であったという。清朝の名残はオルドスの南の檎林にもいられる。ここには無数の石窟があり、満州文字が刻まれている。満州文字はモンゴル文字をもとにつくられた表音文字なので、モンゴル人は読むことができるが意味がわからない。
 満州の金王朝の都はハルビン周辺だった。ハルビンは伊藤博文の暗殺で有名になった。冬になると札幌雪祭りのような氷祭りをする。金王朝は大女真金国で満州語ではアムバン・ジュシェン・アルチェン・グルンという。初代皇帝・完顔阿骨打によって突如、樹立された王朝とされているが、それ以前に、この地域に関する記録が少なかったからだろう。金王朝は建国後、キタイ帝国をほろぼし、1125年に宋をいったん滅亡に追い込む。このとき南へ逃走した人々は南宋王朝を樹立するが、その南宋も金王朝に絹や女性を貢ぐなどして臣従する。しかし中国はその事実を歪め、宋中心史観でこの時代を書き直し、宋が正統王朝であり、この金王朝やキタイ帝国、タングート人の大夏帝国は宋の地方政権であったかのように扱っている。このあやまりを当時のモンゴル帝国は許容しなかった。モンゴル帝国は自らが滅ぼしたキタイと大夏、それに金と宋の歴史をすべて平等にあつかって記録に残そうとした。大元ウルス治下で遼史、金史、宋史を1343-44年に国家編纂した。
 ともあれ金王朝はじつにユーラシア的な王朝であった。キタイ・タングートと同様に独自の文字を創成している。1119年に女真大字をつくり、そのおよそ二十年後に女真小字も創成していて、それは契丹のそれと同様に漢字を改変してつくったものだ。1173年にはシナ風の漢字を使った姓をもちいることを禁じているが、これはシナ化をおそれ、ふせぐためである。女真文字は金王朝がほろんでからも約二百年間、つかわれていた。 1179年には朱熹という人物が南宋朝廷に上奏して時事を論じる。知識人たる朱熹が皇帝に政権運営や国際関係についてしたためた手紙を送ったのである。皇帝は朱熹を気に入り、中華の南宋という国家をどう位置づけ、周囲にある夷狄国家とどのような序列関係を理念的に作るかの体系化を試みた。これが後世の中華思想の基礎になっている。なお1155 年にモンゴル高原ではテムジンが生まれている。その人物は1206年には遊牧集団を統一してチンギス・ハーンと称するようになる。このころ金王朝の関心は南宋に向けられていたが、1234年、北から攻めてきたチンギス・ハーンによってほろぼされる。その後モンゴルはさらに南下し、1279年に南宋を併合し、モンゴル帝国をたてる。南宋では新儒教が流行していたが、その骨子が朱熹による朱子学だった。朱子学では君臣間の忠誠が強調されていたので、皇帝は臣下のものたちに忠誠を求めるので、非常に便利な存在だった。元は宋をほろぼしたあと朱子学を部分的に保護し、奨励した。日本へも伝わり、徳川時代には漢学と呼ばれるようになる。1269年、モンゴルはパクパ文字を国字に制定し、ウイグル文字との併用をみとめた。しかし、漢字を国字にすることは選ばなかった。高麗王国でハングル文字をつくったのもシナに同化することをおそれたのだろう。
 1351年に紅巾の乱(白蓮教徒の乱)が勃発する。この叛乱で元朝は崩壊していく。元朝のあとに誕生するのは中華中心史観的には明朝だが、実際には権力の真空地帯が、今日で言う東北に生じている。そこで力を蓄えていたジュシェン人のヌルハチは1616年に後金国をたてる。この名前には自分たちは金王朝の後裔という意味がこめられてる。1635年、ヌルハチの子ホンタイジ(太宗)はモンゴル帝国最後の大ハーンであるリクダン・ハーンを追い詰め、大ハーンの玉璽をゆずりうけた。玉璽はシアの歴代王朝および皇帝に代々うけつがれてきた皇帝用の印である。1368年に明が統一され、モンゴル帝国の政権にあった人々が万里の長城の北へおいやられたとき、その大ハーンは玉璽を手放さなかった。何度も手に入れようと北のモンゴル草原へ兵を送り、その度に敗れて手に入れられず、その結果、玉璽を新しく捏造するという暴挙にでる。モンゴルの大ハーンがまもっていた元祖の玉璽は1635年にホンタイジの手にわたった。ホンタイジはそれにより、名実ともにユーラシア東部草原の大ハーンとなる。遊牧民に古くからの即位の儀式を踏んでハーンとして認められた。玉璽の譲渡をへて、モンゴル人とジュシェン人はパートナーとなった。新疆は1759年ごろに現れ、あの辺りにいたモンゴル人やテュルク人が清朝に帰順したことで、清朝に新たな国土が加わったのだが、新疆とはそのようにしてできた新しい土地という意味である。
 ホンタイジは1636年に国号をダイチンとして、ゆるやかにジュシェンと称していた人々をマンジュと統一した。マンジュの由来は文珠菩薩である。樹シェン人の間にも文珠菩薩信仰は根付き、かれらにマンジュを自称させるまでになった。清朝の皇帝はハーンと呼ばれていた事実から明らかなようにマンジュ人社会では遊牧民の伝統が受け継がれていた。清朝にはやっつの有力な部族が連なっていた。それを八旗と呼ぶ。部族ごとに異なる旗をもっていて、旗の違いはマンジュ人の間の部族の違いを表していた。各旗に属する者は旗人とよばれた。旗人は貴族の身分である。ダイチンはまず東北を統一し、それからモンゴルを支配下に入れた。その後、万里の長城を越えて明を征服するのだが、その征服のさいには満州八旗と蒙古八旗、それに漢軍八旗が構成されていた。マンジュ人で構成されていたもともとの八旗に加えて、あらたにモンゴル人や漢人(高麗人)も加わった。興味深いのは満州八旗が純粋にマンジュだけで構成されていたかというと、そうではなく、モンゴル人でも漢人でもなりたければマンジュ人=旗人になれた。旗人になるというのはマンジュとしての行き方と価値観をうけいれ、マンジュとして生きることである。どの旗人もマンジュの言葉をある程度、話せただろう。モンゴル人も漢人もマンジュと通婚し、ゆるやかなマンジュ化を勧めた。旗人たちは明の領土を手中におさめた大ハーンとともに北京に入った。大ハーンは紫禁城(現在の故宮博物館)に居を構え、その周辺を八旗がかためた。
 ここで再びハルビンに目を転じる。黒龍江省博物館には旗人と民族の関係を象徴するともいれる人物に関する展示がある。19世紀の吉林将軍、富明河の墓からの出土品だ。吉林将軍はマンジュ発祥の地である東北三省の最高支配者だ。富明河の富という姓はまさにマンジュ人の姓である。彼は明朝で兵部尚書をつとめたシナ人・袁崇煥とヌルハチ、ホンタイジについては有名な逸話が残されている。袁崇煥将軍の軍勢に拠るまもりはかたく、ヌルハチもホンタイジもなかなか万里の長城を超えることができなかった。そこでヌルハチの側は知略を講じる。すでに袁崇煥はマンジュと通じていると噂をながしたのだ。疑り深い明の皇帝はその噂を鵜呑みにした。そして袁崇煥を凌遅の刑という生きたまま体から肉を削ぐ刑に処する。その結果、袁崇煥の一族は流浪の民となった。漢の皇帝が匈奴に降った李陵一族を処罰するのと同じ手法である。袁崇煥の子供の袁文弼は後金国の軍に入隊した。そこで親譲りの能力を発揮し、つぎつぎと軍功をたて、そして漢軍八旗に登用されるまでになる。ここで袁文弼はマンジュ風の姓・富をいただく。ただし袁世も後々まで伝わり、富明河も袁世福という名も同時にもっていた。富明河の長男・寿山は日清戦争で日本とたたかい、そののちに義和団の乱でロシア軍とたたかってやぶれ、一家心中をはかっている。最後まで大清のために尽力した家計であった。1911年12月にモンゴル高原が独立を宣言したことの影響を色濃くうけて、三日後に清朝のハーンが政権を放棄。それによって清朝は崩壊し、革命のないまま中華民国が成立する。この中華民国は五族協和ー漢族・蒙古族・満州族・回(ウイグル)・チベット族を当初となえていた。清朝の旗人だった人びとは満州旗人も蒙古旗人も漢軍旗人も多くが、満州民族となった。のちに中華民国は各地の満城に駐在する満州人を大量虐殺するようになったため、元旗人のなかには漢族を自称するようになる者もでてきた。
 清朝六代のハーン、乾隆帝でこの節は終わる。乾隆帝は当時のハーンに求められていたように、公用語のマンジュ語、モンゴル語だけでなく、漢文にも通じ、さらにトルコ語もでき、アラビア語もまなんでいた多彩な人物であった。彼の姿は当時、清朝朝廷に仕えていたイタリア人画家郎世寧ことカスティリオーネによって数多く描かれている。彼の絵の中ではマンジュ人の乾隆帝は馬に乗っている。清朝のハーンは代々、夏には熱河(ジェホール)、いまでいう北京の北にある承徳のちかくにあった木蘭囲場で狩猟をするのが通例だった。ユーラシアの遊牧民の指導者たちをまねいてはともに楽しんでいた。これは乾隆帝自らも、遊牧民の価値観を重視するユーラシアの大ハーンであることを誇示するためのパフォーマンスだった。どれだけ学問ができても、馬に乗れなかったり狩りができなかったりするのはハーンの名折れであった。また木蘭囲場のあった熱河にはチベット仏教の寺も建立している。それはチベットの高層たちへのサービスでもあったが、乾隆帝は自らも生きたまま神になろうとしていた。今も残るのそのチベット仏教風の寺院にはマンジュ人に信仰されていた文珠菩薩だけでなく、乾隆帝自身が菩薩として描写されている。清朝史の専門家である杉山清彦氏によると、清のハーンはいくつもの身分の集積である。清朝の人々からみると八旗を束ねる議長であり、モンゴルの王侯からみれば玉璽をもつ大ハーンであるし、チベットの高僧からみれば影響力の大きな檀家であった。
 マンジュは同じ価値観を共有する人々を指す言葉であったが、それが地名の満州に変化していく。それには日本が大きく関わっている。1644年、越前の国の藤右衛門ら58人の一行は乗っていた船がナンパし、図門江に流れ着く。現在の中国と北朝鮮の間を流れるトマン河のことだ。トマンはモンゴル語やトルコ語で万を意味する。藤右衛門一行のうちの何人かは地元の住民に殺害されるが15人が生き残る。おりしも1644年はマンジュが明を征して北京に入場する年である。15人の日本人もそれに合流した。そして3年後、マンジュ語や漢文をまなびながら生活し、北京、朝鮮、対馬を経由して日本に帰り着く。当時の日本は鎖国していたので、幕府によって取り調べを受けた。その取り調べ記をもとに編まれたのが韃靼漂流記である。満州の歴史文化を研究していた衛藤利夫はその名著韃靼のなかでこの韃靼漂流記にも触れているが、注目すべきはこの韃靼という名称である。日本では韃靼そば、司馬遼太郎氏の韃靼疾風録、ロシア人アレクサンドル・ボロディンによるオペラ・イーゴリ公にある韃靼人の踊り、韃靼という言い方を政治的にもちいていたのは明朝である。韃靼とは古代シナ人が異民族を差別的に呼ぶときにつかわれた言葉だ。とりわけ明はその言葉を、モンゴル人を指す言葉としてつかってきた。当時の日本人は漢文を通じてユーラシアの知識をえていたので、その呼称に疑問を覚えることはなかったのだろう。1809年の幕府天分方をつとめた高橋景保による日本辺界略図では同じ地域が満州と明記されている。また1832年の高橋景保と交流のあったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトによる日本ではMandschureiとしるされちえる。これが欧州に地名そして民族名として伝わっている。それ以前は欧州でも漢文から情報を入手していたためか、その地域のことはタルタリアと呼んでいた。今、日本で満州、欧米でMandschureiという言葉がつかわれているのは、高橋景保のおかげなのだが、なぜ彼がかのちを満州と呼んだかは謎のままである。
 その満州は1931年の満州事変を機に翌年に日本の植民地となり、そこに満州国が建てられた。このときに皇帝に担がれたのが清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀だった。愛新覚羅とは清朝の皇帝一族の姓で、第六代ハーンの乾隆帝にも、愛新覚羅弘暦という名がある。愛新覚羅は黄金を意味し、現在中国に暮らす満州人で金姓を名乗っているのは愛新覚羅系の子孫である。満州国は1945年8月、ソ連蒙古連合軍によって崩壊し、日本の支配下から脱した。また川島芳子こと愛新覚羅顯㺭も清の皇族の王女であるが、清朝の復活を試みていた。彼女の願いは叶わなかったが、今の時代にも大いなる遺産を残している。中国の標準語はMandarinと呼ばれるが、満大人から来ていて、満州の身分が高い人=旗人の意味である。満州の旗人たちが話していた言葉が、いまの中国語の骨格となっている。また今の中国がモンゴルとチベット、そして新疆ウイグルへの支配を主張する直接の根拠は、満州人の清朝がそうしていたからである。今現在、マンジュ語を話せる人、読める人は少なくなっている。しかし新疆でくらす、中国がシボ族と称する数万の人々はじつは満州人である。かれらは故宮博物館に眠る膨大な遼のマンジュ語で書かれた古文書の整理をおこなっている。またチャイナドレスのことを旗袍は旗人のドレスという意味で、満州の女性が着ていたドレスである。深く入るスリットは馬に乗るためのものだ。
 日本人は三国時代の関羽が好きで、シナ人の支配者も関羽が好きだ。何があっても兄の劉備に使えた忠義の人だからだ。満州のハーンも叛乱を招かないようにと、関羽を利用した。あちこちに関帝廟をたて、そこに忠義絶倫の四文字を刻んだ看板を掲げ、関羽崇拝をすすめた。

 終章「現在の中国は歴史に復習される」では、チンギスハーンとその子孫は13世紀に朝鮮半島から東ヨーロッパにまたがる広大な帝国を創建した。モンゴルの支配者たちはすべて宗教に布教の自由をあたえ、さまざまな人種と民族があつまり、文化や経済の交流がさかんになった。東方見聞録を書いたとされるヴェネツィア商人、マルコ・ポーロもモンゴル帝国の一部をなす元朝の役人に登用され、雲南などで徴税の実務も担当していたほど、国際的に開かれた国家体制をしいていた。元朝のみならず、世界帝国とよばれるような広い国土をおさめるためには、支配者はあらゆる文化や宗教を受け入れる寛容さが必要とされる。しかし遊牧民が樹立した王朝は宗教的いに寛容な一方、シナ人が支配した時期には宗教弾圧や多民族の暴動がたえなかった。現在でも実際には共産党がおさめる国よりも神をうけにおく宗教がゆるされていない。中国共産党は宗教はアヘンだという西洋生まれのマルクス流のイデオロギーを振りがざしているが、根底には中華文明の先生主義的思想である。シナではしばしば民衆の氾濫によって王朝がほろんできた。おおくの場合、その引き金となったのは、宗教への弾圧である。あとえば漢王朝がたおれたきっかけは、中国で最初の大規模な宗教反乱であった黄巾の乱である。今の中国は宗教に対しても少数民族にたいしても不信と強圧をもってのぞんでいる。それはシナ人政権に共通する弱点である。
 では中国人の宗教観とはいかなるものか。中国の宗教といえば儒教と道教であり、特徴は圧倒的な現世への執着である。中国人がもとめるのはお金や出世といった生きているうちにえられる現世利益である。その執着がたんてきにあらわれているのが不老長寿へのあこがれである。不老長寿の薬を作る錬丹術は、道教の基本的な要素である。仏教やキリスト教、それにイスラームの世界三大宗教は早い時期にシナにつたわったが、中心部では定着せず、むしろ周辺の地域や民族によって受け入れられている。シナ人は仏教をうけいれようとせず、漢の第七代皇帝・武帝は紀元前136年、儒教を官学にさだめる。一方、五胡十六国時代にはあたゆる宗教が栄えた。このとき魏王となった鮮卑族の拓跋珪が今日の山西省の大同や河南省の洛陽につくらせた石窟は今でも世界遺産として有名な観光地になっている。6世紀末から10世紀はじめに成立した鮮卑拓跋系の随や唐の時代も仏教がさかんになる。この時代、遣隋使や遣唐使によって日本にも多くの僧や仏典がわたってきた。日本にはいまでも多数の仏教徒がいるがシナにな根付いていない。
 キリスト教は唐の時代に伝わった。781年に西安にたてられた大秦景教流行中国碑という碑文には景教がシナにつたわるまでの経緯がかかれている。しかし唐朝末期の845年、景教の布教は禁じられる。このときに伝教者たちが北方の高原に逃れた結果、高原地帯の遊牧民の間に景教がひろまったとみられている。12世紀の終わり、チンギスハーンに抵抗したケレイト族がいるがモンゴル族よりも規模が大きく、文明も進んでいたが宗教は景教だった。1271年に元はローマ教皇と外交関係をむすび、大司教インノケンティウスが派遣される。大司教の死後も信者たちは元にすみ続けた。景教とであったケレイト族のワン・ハーンはヨーロッパのキリスト教社会にひとつの伝説をのこしている。1095年にはじまった十字軍だったが、12世紀なかばになるとイスラーム教徒の反撃をうけて劣勢を余儀なくされた。このころ、ヨーロッパで広まったのが第五章でも述べたプレスター(司祭)・ジョンの伝説である。東の果てに住むキリスト教徒の王ジョンが軍勢を率いて、十字軍をたすけてくれるのだ、という半ば希望を込めた伝説である。このプレスター・ジョン伝説のもととなったのが、ワン・ハーンだと言われている。元が滅びると西北地域のモンゴル人の多くはイスラームに改宗したが、景教徒はその後もモンゴリア南部に残った。
 7世紀のはじめに成立したイスラームも、唐の時代にシナに入り、回教とよばれ、元の時代に定着した。モンゴル帝国の統治の特徴は、ペルシャやアラブ、トルコなどを整復すると、被征服民族のなかから人材を選び出し、役人や軍人として利用した。そのため多くのムスリムが登用され、元に移り住んだ。その影響をうけて、大勢のモンゴル人もイスラーム教信者、すなわちムスリムとなった。チンギス・ハーンの死後、モンゴル帝国の西半分は4つに分割されたが、そのうち多くの皇子たちがイスラームに改宗している。元を倒した明はイスラームを弾圧した。
 フビライ・ハーン治下の元朝はチベット仏教を国教にさだめる。その背景にはシナ古来の儒教や道教とは違う宗教を用いることによって、「漢民族」との同化をふせぐというねらいもあったと思われる。異民族がシナを支配しようとすると逆に漢民族と同化してしまうことに気づいていた。しかし、モンゴル人の宗教は放牧と狩猟に根ざした自然信仰、シャーマニズムが基本で、シナのような農耕文明後を収めることができるほど論理的ではなかった。そこでモンゴル人はチベット仏教を選んだ。こうして元が仏教やイスラームを取り込んでいく中で宗教論争が勃発した。それに決着をつけるべく、モンゴル帝国の第四皇帝のモンケはチベット仏教と道教、イスラーム、そしてキリスト教の代表者を呼んで、弁論大会をひらいた。四派の代表者が数週間に渡って、どの宗教が民の利益につながるかなどのテーマで自分の宗教のよさをうたった。興味深いのは、審判役のモンケが特定の宗教がかったという結論を出さなかったことである。これは非常にたくみな政治手法といえるだろう。モンゴル帝国はすべての文化に寛容であることをしめさなければならず、一つの宗教を選ぶことをさけたのである。また統治のもう一つの武器はモンゴル語で明代のかなり遅い時期までアジアの公用語、外交用の言葉として使われていた事がわかり、漢語よりもわかりやすかったことが伺われる。
 1368年にシナ人の民が元から政権を奪い取るが、イスラームへの弾圧が始める。異民族の反乱を抑え抑圧的な制作を取った。元の前の宋も明とおなじくシナ人の政権であったが、宋の時代は世界の三大発明といわれる火薬と羅針盤、活版印刷が発明され、現代では世界的に有名な景徳鎮の陶磁器がつくられるなど、独自文化が花開き、経済的にも発展した。この違いはどこにあるのだろうか。宋はもともと北部を北方民族のキタイや金人に抑えられていたため、東南沿岸部を中心とする小さなシナだったのである。この小さな規模でシナ人のみの民族国家を作ることが漢民族にはもっとも適していると断じていい。明のように宋より広い国土をえて、多くの多民族をとうちしなくてはならなくなると、他の文化、文明を認めない漢民族ではうまくいかない。これは現代の中国共産党による政権運営とも通ずる。ちなみに明は15世紀に大艦隊をアフリカに派遣しているが指揮をした鄭和はアラブ系のイスラム教徒でシナ人ではない。
 清は多民族・多文化国家であったが、王朝の後期には漢民族よりも漢民族らしい皇帝へと変質する。19世紀後半にはみっつの大きな宗教反乱があいついでおこり、清の屋台骨をゆるがせた。また清の滅亡の引き金をひいたといれるのが、1862年から77年までつづいた西北ムスリム大反乱である。陜西省でイスラーム教徒と漢人が武力衝突をおこしたことがきっかけとなり、甘粛と寧夏、それに青海に広がる大規模な反乱が発生する。回民とウイグル人、トルコ系のサラール人などが連携し、清は15年もつづいた反乱の鎮圧のために、すっかりその力をすり減らしてしまったのである。そして1899年、義和団の乱がおこる。はじめはキリスト教布教活動への反対運動だったが、外国人の排斥運動に発展した。
 中国の人口は現在、13億人を超えている。その中でキリスト教徒の数は一億3千人から1億5千人といわれ、将来、世界最大のキリスト教国になるという見方まで出ている。イスラーム教徒は1千二百万人をこえている。共産党政府はデータを公表しないが、その膨大な数をおそれて、弾圧を強めている。キリスト教はバチカンのローマ教皇との外交関係をむすぶに至っていない。一方、イスラームではキリスト教のような断絶状態にはない。メッカへの巡礼はいちおうゆるされちえる。ところがメッカで教えに接すると、中国できいたものとはどうもちがう。そうした宗教的な国家への不信が反共運動へ変わることを折れて、中国は巡礼を制限している。そのいっぽうで観光という名目でタイやミャンマーに出国し、そこからメッカに向かう抜け参りは年々族化し、いまでは公認の巡礼者の数倍にもなったという。仏教についてはチベット仏教とダライ・ラマ14世への打夏がよく知られるところである。1959年、ダライ・ラマの身柄をめぐって人民解放軍とチベット人との間であいだで武力衝突がおった。その結果、ダライ・ラマはインドに亡命し、臨時政府の樹立を宣言した。
 中国人が他の宗教をおそれるのはかれらの世界観と深い関わりがあるからである。道教の世界観は天帝思想とよばれ、頂点に天上界を収める天帝がいて、天帝に命じられた皇帝が現世を収めるという構造になっている。つまり宗教的世界観と現実が地続きになっている。すると他の宗教をみるとき、中国人はその宗教の教祖が皇帝であり、教団幹部が大臣、信者は兵隊と置き換えかのうだと考える。つまり宗教団体が多くの信者をあつめるということは反体制勢力が革命の準備をおこなっているようなものなのである。だから政府は外国からはいってくる宗教に対して、本来の教えに修正を加えて、中国人の思想をうけいれることをもとめ、従わなかったら弾圧することになる。
 中国はウイグル地区ではイスラーム教徒による反政府運動がさかんである。またトルコ共和国との関係も重要で、ウイグル人は中央アジアに広がるテュルクの民の一部で連帯意識が非常に強いが、中央アジアのテュルク系国家のように独立していない。中国では政権が不安定になると、地下に隠れていた宗教団体が反乱という形で姿をあらわす。1999年に一万人を超える法輪功の信者が北京の中南海をとりかこんだ事件はまさにその例である。中国共産党の覇権にほころびが生まれるとすれば宗教政策の失敗から始まる可能性が高い。

気になった点

 モンゴルでは日を崇拝するシャーマニズム進行があり、神々の頂点に立つ火の神をホルモスターとよぶのだが、ホルモスターはアフラ・マズダーがなまったものだというのは面白かった。

 p200東丹国から丹後に90人以上の使者が訪れているという。丹後とのつながりは興味深い。

 契丹文字は大小という漢字と仮名のような二種類を漢字から創設していて興味深い。日本語と同じではないか。文字がもつ力というか文化の意味を本書では非常によく理解できた。西夏もキタイもかんじをそのまま用いることができたのにわざわざ改変したのはシナに同化するのを恐れたから、とあったが、日本の漢字の輸入を考えると話し言葉が優先なので、話し言葉に文字を合わせたという見方のほうが自然な気がしたが、どうであろう。もちろん話し言葉を変えるというのはあり得ないだろう。

 高橋景保がマンジュの地を満州と名付けてそれが欧米にも広がったとのことだが、なぜその名前になったのかは謎という。不思議である。タルタリアはローマ風の響きがあるが韃靼なの?

 漢人が宗教に不寛容であるのは皇帝の権威が道教の考え方に根ざしているからだと理解した。するとイスラームの宗教と政治の同化のようなことが起こっているので、漢人の宗教は同じように政治と宗教の同化を求めるので、他宗教に不寛容に思える。中国の拝金主義は何なのだろうか?と長年疑問だったが、道教の現世主義に根源があったとすると腑に落ちた。未だ謎なのはあの共同体意識の無さ。仲間とか家族とのつながりは深いが他人は関係ないという意識。モンゴルやテュルクには共同体意識がある気がする。

 また中国の文明の同化力について強調されているが、それは文化の洗練度や魅力なのではないかとも思う。それが何なのか、他文明との比較ではどうなのかというのは重要なテーマであると感じた。

最後に

 内容が網羅的で他の研究や著書からの引用も多く、非常に勉強になった。また筆者のモンゴル人としての視点や過去の体験も降り挟まれており、字面だけでなく筆者の体験としての文化や歴史が感じられて、最後まで楽しく読めた。知らなかったことも多分に含まれていたし、基本的には反中国の視点で書かれているが、過去や現代のシナ人の国家を分析するにも宗教的な側面や文字などの文化的な側面など有用な情報が満載されていたと思う。中国や中央ユーラシアの国家を勉強したい人にはおすすめです!