スキタイと匈奴遊牧の文明 (興亡の世界史 02)

2007 講談社 林俊雄

本の構成

 「はじめに」では騎馬遊牧民という用語、スキタイ・匈奴を取り上げる意味、二人の歴史家からの視点を説明する。ヘロドトスの歴史と司馬遷の史記、それぞれでスキタイが取り上げられているが似通った特徴があるとのこと。

 第一章「騎馬遊牧民の誕生」では主に考古学的な観点から騎馬民族を追っていく。現地の人がヒルギスフール(キルギス=クルグス人の墓)と呼んでいる円形または方形の積石塚と鹿が彫り込まれた石柱である鹿石群からなる遺跡を発掘する。墓は王朝の初期では威光を示すため大きく、のちに小さくなるという。墓であるかどうかについては人骨が出たとのこと、周りの積石塚からはいっしょに葬られたと思われる馬の骨が出ている。大きいヒルギスフールは1367基の積石塚があるものもある。次に動物の家畜化について定住集落と農耕の確立によって生まれたとされる。初めは羊や山羊の食肉から家畜化されたとされている。馬についてはウクライナの前4000年の遺跡から馬の骨が出たので騎乗が行われていたと言う説が出たが、放射性炭素測定からは馬の骨は前800-500年と出て騎乗の年代は大幅に下げれた。
 次に遊牧の発生については定住から徐々に集落外へ日帰りで放牧に出かけるようになっていったという説が説明される。農耕牧地は草原地帯の西部には前6世紀に伝わったといわれているが、草原地帯の放牧化は遅れており、前3500年ころにメソポタミアで車が発明されて放牧化を促したとされている。ただしモンゴル北部では車を使わずヤクに荷物を引っ張らせる方式が取られている。また前3000年紀中ごろから気候が徐々に乾燥化してカザフスタンでは半砂漠と草原が形成され、牧畜に適した風土となった。さらに馬車より騎馬の方が早いとされ、メソポタミアを中心とした地域で馬に乗った人物の粘土板などが発見されている。騎乗者は馬の腹に巻いた帯を持ち馬の尻にまたがっている。これは骨があるのでロバの乗り方で乗ったとされている。とこれは広く普及することがなく前2000年紀の初めにスポーク付き車輪の二輪車が登場する。銜(くつわ)とその留め具は草原地帯で発明された可能性がある。西アジアや地中海では全十四世紀後半には銜につけた手綱をもつ騎乗者の浮き彫りがあるが、ロバ式騎乗ではある。前10世紀に入ると西アジアや地中海世界で牙を表現した資料が急増する。草原地帯では前九〜前八世紀になると騎馬関係の証拠が増え始める。これがスキタイ文化の始まりである。一つは世界的な気候変動が乾燥期から湿潤期の威光期、半砂漠だったところが草原に変わり始めている。

 第二章「スキタイの起源」ではスキタイ以前や以後の集団の動きを分析する。まずは語り継がれているヘロドトスやギリシア人による二説を取り上げている。二説は外来の神と地元の神の交わりに起源をもち末っ子が王族になったとしている。さらにヘロドトスが語る農民スキタイや農耕スキタイについて分析する。さらにヘロドトスが最もらしいと語る第三説ではスキタイは初めアジアの遊牧民であったが別の騎馬遊牧民に攻められかなり東の方から移動してキンメリオイを追い出し北カフカス・黒海北岸の草原に現れたという。スキタイ外来説は以前はマイナーな説だったがそれを裏付けるアルジャン古墳が見つかり今では内陸アジア説が有力とされている。アルジャン古墳からは銜も見つかったが炭素14年代測定法では前9から前8世紀の先スキタイ時代と出た。ヘロドトスによると黒海北岸にスキタイが現れる前にはキンメリオイがいたはずである。キンメリオイがスキタイに銜(くつわ)をもたらしたのではないか。ヘロドトスによるとキンメリオイはスキタイが迫り一部がシノベのある半島に逃げたとされる。アッシリアの資料ではギミッラーヤやイシュクザーヤの名前でキンメリオイやスキタイが出てくる。キンメリヤは前640年ごろアッシリアに敗れ、前七世紀ごろリュディアにも敗れ姿を消す。スキタイはアッシリアの資料では同盟関係を結んでいた。ヘロドトスによるとアッシリアの首都が包囲された時にスキタイ軍が救い出しが、その後アッシリアはメディアと新バビロニアの連合軍に負けてアッシリア帝国は滅亡する。またスキタイが28年間アジアを支配したとあるが時期は定かでない。メディア王キャクサレスがスキタイを宴に招いて酒に酔わせた大部分を殺してしまった。生き残ったスキタイは故郷にもどったとされるが北カフカスが黒海北岸が濃厚である。また彼の治世に本国から反乱を起こしてメディアに庇護を求めてきたスキタイがいたが当初は信頼していたが一度彼がキレてしまったのが原因でスキタイがリュディアに移動し、リュディアが引き渡しに応じなかったので、メディアとリュディアの間で戦争になった。スキタイがキンメリオイを追って西アジアに現れたというヘロドトスの記述を信じる人は現在ではいない。またギリシアの資料では略奪を目的に侵入してきたとあるが傭兵として雇われていた可能性もある。考古学資料では先スキタイ時代の武器や馬具がアナトリア中部や東部の遺跡で見つかっている。また先スキタイから初期スキタイまでの遺物はアナトリアやカフカス南部で続々と見つかっている。これらの資料からは北カフカス・黒海北岸の部族がカフカス南部とアナトリアに移動していることを示している。

 第三章「動物文様と黄金の美術」では遺跡から出土する遺物の特徴からスキタイ文化を見ていく。スキタイ文化を特徴づけるものは動物文様、馬具、武器である。武器は伝播しやすいが文様は伝播しにくい。元々はスキタイが西アジアを28年支配したという記述もあり”蛮族”も美術に目覚めたという説が有力だったが、南シベリアの一角にはやくも初期の動物文様が現れていることからスキタイ東方起源説が一気に有利な方に傾いた。一方で古墳から出土したものも西アジアのものもある。金製装飾が施されているアキナケスの剣と木製鞘などは鹿の表現をつぶさにみていくとスキタイのものと異なっていたり、複数の文化が混ざっているのが分かる。次は初期スキタイの美術を見ていく。東部の草原地帯では盗掘は稀だったがロシア人が来てから毎年のように行われていた。これらの遺物に文化的な価値を見出したのはオランダ人の学者ヴィトセンだった。彼はモスクワに一年滞在し地理、民族、言語などの資料を集めオランダに帰ってからも資料を集め続け大著『北東タルタリア』を著した。ピョートル1世はシベリア出土の金銀に美術的な価値を認識して金製品を集めるよう命令したり個人売買を禁止したりした。この時に集められた完成品はエルミタール美術館の黄金の間に展示されている。カザフスタンの東部にも重要な初期スキタイ時代の遺跡がある。1971年頃にアルジャン古墳が調査されて学会に激震をもたらせたが、その30年後にアルジャン二号墳で盗掘を免れた金製品が5700点も発見された。初期スキタイ時代のモチーフのつま先だった鹿や脚を折りたたんだヤギの動物文様の短剣などが見つかっている。出土品全体からは西アジアやギリシアのモチーフがまったく見られない。石室のカラ松から前619年〜608年の範囲ものとされる。鉄製品は前5世紀にならないと現れないというスキタイ東方起源説の弱点を解消すると共に、スキタイ美術の東方起源説がますます有利になった。次は後期スキタイの美術である。後期になると動物文様が写実的になり植物文様もみられる。ギリシア風からの影響がみられギリシア風スキタイ美術と呼ばれる。これらの作品は黒海北岸のギリシア人植民都市に住んでいたギリシア職人が作ったと考えられている。黒海北岸で見つかった金の胸飾りの文様では動物闘争文や花とつる草の文様がみられ、さらに搾乳風景などスキタイの日常生活が描かれている。
 前六世紀後半にイラン高原に起こったアカイメネス朝がアッシリアをしのぐ大帝国を建設した。アカイメネス朝は西方へ進出してギリシア諸都市と衝突もしていたが東方へも遠征を行い、中央アジアの草原でサカと総称される騎馬遊牧民と接触することとなった。イラン西北部の碑文によるとサカには尖り帽子のサカと呼ばれた人々もいた。またヘロドトスはサカをサカイと表記し、クセルクセス一世のギリシア遠征に参加した一部隊として尖り帽子のサカイについて言及してペルシア人はスキタイをサカイと読んでいると書いている。全体をサカ文化と呼んでもよいが中央アジアの騎馬遊牧民についてだけサカの名称が適用されている。この中央アジアのサカの初期の美術はピョートルのシベリアコレクションの大部分も含まれる。後期のサカ美術ではイッシク古墳の出土品がある。発見された以外は金ずくめで尖り帽子、上着、ベルト、ブーツ、剣と鞘などは金細工で飾り立てられ、黄金人間としょうされるようになった。特に注目されたのは尖り帽子であった。尖り帽子といえば尖り帽子のサカであったので、本拠地はこの遺跡のあるカザフスタン南部であるという研究者もいるが、尖り帽子ははるか西のクリミアのクル=オバ古墳のツボにも表現されており、カザフスタン南部に限定されるものではない。筆者は動物文様に注目し初期スキタイの変形とみなすことができ、また体をひねった動物表現がみられることに注目する。またアルタイは金山でもあるが重要なパジリク古墳群がある。1929年に一号墳が発掘された盗掘はうけていたが盗掘の穴から雨水が流れ込み墓室の底は水浸しになった。木や皮革、繊維製品などの有機質の遺物がよく残る条件の一つは水に浸かって空気にふれないことである。アルタイは冬が長く8月末には雪が降り始め真冬にはマイナス40度まで下がる。墓室内の水は凍結する。しかし翌年の夏になっても氷は溶けなかった。いつの間にか盗掘坑もふさがる。夏には雨水が浸水したが氷を大きくし地下墓室には巨大な氷が形成され、有機質の遺物は水浸しよりもさらに条件の良い冷凍の状態で保存された。バジリクでは大型古墳も発掘されたが、すべて凍結古墳であった。そこから木製の馬車、革製の鞍、色鮮やかな馬具装飾、ペルシア風絨毯、巨大なフェルトの壁掛け、馬の痛い、刺青された人間の皮膚など貴重な遺物が次々と出土した。その後1991年にアルタイのウコク高原で凍結古墳の再発見に挑んだが氷はほとんど溶けており遺骸は朽ち果てていた。そのごアルタイ高地で女性と男性の凍結墓が見つかり、モンゴル領内でもやや溶けかかっている凍結墓を発見して髪がブロンドの男性が発見されている。アルタイのスキタイ時代後期の文化は古墳群からとったパジリク文化と呼ばれている。高品質の絨毯も出土されているがペルセポリスの浮き彫りと構図がまったくおなじなのでペルシア産とされている。しかし文様帯にはヘラジカが描かれているがペルシアにはいないので本当にペルシアさんかどうかはかなり疑わしくアルタイ産の可能性が高いと見る。最後にフェルト製鞍覆いにあるグリフォンの尻の文様に見られるギリシアの影響はどこから来たのかを分析する。ギリシア人植民地の黒海北岸から草原地帯を進みアルタイに至るルートが考えられる。北京とローマを結ぶ最短ルートを地球儀上でみるとほとんどが草原地帯で超え難い大山脈もなければ砂漠もない。またその途中にアルタイがある。オアシスルートの200~300年前に草原ルートのシルクロードが開かれていた。

 第四章「草原の古墳時代」では先スキタイ時代から後期スキタイ時代までの主だった古墳を分析していく。まずはスキタイ文化が栄えた前8世紀から前7世紀にかけての他のユーラシア大陸の西部の金属工芸美術をもつ文化をみていく。ケルト人が残したハルシュタット文化、イタリア半島中部のエトルリア文化、バルカン半島のトラキア文化とダキア文化、アナトリアのリュディア王国とフリュギア王国、アッシリアの影響があったウラルトゥ王国などである。美術様式遺骸にも円墳を築く共通点がある。エトルリア、トラキア、リュディアと終末期のスキタイは墓室が切石造りであるがギリシア文化の影響と思われる。古いハルシュタットと初期スキタイ、フリュギアの墳墓では石室が木槨であり、馬の埋葬を伴う点で共通している。さらにハルシュタットとスキタイでは円墳の周りに石囲いをめぐらし、墳頂に石人をたてることもあった。そのため墳墓は起源的にかんけいがあるのではないか、スキタイ墳墓が影響を与えたのではないかとする説もある。スキタイ世界では前9世紀末から前8世紀初頭の王と王妃が埋葬されていたアルジャン一号墳がありこれより古い古墳は見つかっていないが、積石塚で井形に組んだ丸太の中央に墓室があり、墳丘の外に二重三重の小石堆がめぐっている。アルジャン二号墳でも多数の金製品をまとった男女と殉死者や馬が埋葬されていたので王と王妃の墓と言えるが同じような構造になっている。この後初期スキタイの古墳を草原地帯の東から西に見ると木槨墓室を地上か浅い穴の中に設ける王墓が流行していたと結論付ける。
 後期スキタイの古墳について分析する。まずはヘロドトスが記録した王族の埋葬や葬儀の方法についてさらう。黒海北岸では高さ14メートルの最大級の古墳が6基発掘されている。そのうちの芝土レンガを使っているチョルトムリク古墳の構造を見てヘロドトスの記述と比べる。この遺跡は前四世紀ごろのものだが、そのころにアタイアスというスキタイ王がいたことが知られているが、チョルトムリクがアタイアスのものだと考える研究者も多い。アルタイのパジリク古墳では有機物が残っていたためにヘロドトスの記述にあるミイラかの手順などが確認され、五号墳から出た四輪馬車も出土してヘロドトスの記述を通りであった。また王権の象徴としてスキタイ古墳に伴って発見される石人について触れる。アルタイから西に2500キロほどにある古墳から出土される石人は三番目の鹿石と特徴が似ているので西方の鹿石と呼ばれることがあり先スキタイ時代のものである。スキタイ時代になると人間の顔がはっきりと書かれた石人が古墳の中や周囲で発見される。後期になると武器や衣服などの表現がやや写実的になってくる。西方の鹿石と石人は共通点があり石人の起源は西方の鹿石とする説が有力だが定かではない。
 前四世紀の初めにカザフスタンから西に移動してウラル山脈南部に本拠を置いた部族集団が徐々に強大になり、スキタイを圧迫し始めた。以前は南ウラルにはサウロマタイと呼ばれる人がいたが、東方から移動してきた集団はサウロマタイと合流しサルマタイと呼ばれることになる。バシュコルトスタン共和国でサルマタイ時代の大型の古墳が見つかっている。サルマタイは紀元前四世紀後半にフン族が来襲するまでカスピ海北方から黒海北岸までの草原地帯を支配した。

 第五章「モンゴル高原の新興勢力」では匈奴の出現を遺跡と史記から見ていく。まずは匈奴の起源を司馬遷の史記には李牧の匈奴の侵入に悩まされる逸話に匈奴は初めて登場する。その後に匈奴は秦に一時押されるが始皇帝がなくなると元に戻る。また遺跡から出土する遺品をみると中国北方の前四〜前三世紀の中国騎馬遊牧民の文化はユーラシア草原と繋がっていることが確認できる。匈奴の冒頓は単干になり東胡征服する。月氏は匈奴に攻撃され西に移動し大月氏と呼ばれる。大月氏はバクトリアに侵入しローマの資料にも記録され、世界史上初めて東西が同じ出来事を記録する。月氏の領域について議論があるが考古学の観点からはパジリク古墳群は月氏のものではないかという説がある。またパジリクから南へ900キロ離れているスバシ遺跡は同じようなスキタイ文化が見られる。冒頓と劉邦は戦うが最終的には和親条約により漢を事実上支配下に起き、匈奴遊牧帝国が出現する。毎年の貢物と公主の降嫁を続けたが侵寇は止むことはなく漢を悩ませる。

 第六章「司馬遷の描く匈奴像」では匈奴の風俗習慣、経済、社会構造を紐解く。まずは天を重んじる文化、二十四長と十進法に基づく軍事組織、南を向いて東にいる左賢王と西にいる右賢王、刑法と暦などを見ていく。冒頓がなくなると子が継ぎ老上単干と名乗る。漢の文帝は新単干に公女に見立てた劉氏の子女を嫁がせる際に中行説と遣わすが匈奴に忠誠を誓って管理の手法などを教示する。匈奴は幼少期から訓練をつんで国民皆兵制度を施行していたので人口が漢の一群以下でも軍事的に対抗できた。また寡婦となった兄嫁を娶る習慣は他の地域でもみられるが軍事体制を優先する騎馬遊牧社会特有の合理性が見られる。中行説は単干に中国に侵入する際に有利な地点と探らせていたとされるが、前169年に14万騎という大軍で現在の甘粛省中心部に侵入した。その後長安から80キロしか離れていない甘泉宮に至り、単干は一ヶ月ほどとどまるが14万騎と10万の兵が戦闘することはなく戻っていった。これは漢の反乱分子が匈奴に援助を求めたものと考えられる。前166年以降毎年毎年匈奴は人と家畜を殺略したので再度和親条約が確認された。その後の恵帝でも同じように和親条約が結ばれた。
 前141年に武帝も和親条約を結ぶが月氏が匈奴に敵対心を持っていることを知り月氏と共に攻勢に出ようとする。月氏と連絡をとるために張騫が選ばれ出発したがすぐに匈奴に捕まり単干のもとに連れて行かれ妻も娶らされそこで10年の月日を過ごす。ついに脱出の機会に恵まれ部下と共に月氏に逃亡し、中央アジアに栄える大宛にたどり着く。大宛王は張騫を厚遇し、通訳を付けて大月まで送り届ける。大月は匈奴に王を殺されていて王か女王が立っていたが、漢との同盟には積極的ではなかった。張騫は1年の滞在後、南のルートで帰還するがまたしても捕まってしまう。1年余勾留されるが軍臣単干が他界し後継者争いが起こるさなかにまた部下と匈奴の妻と漢に逃れる。この際に張騫は漢に中央アジアの様々な情報を持ち帰り、次に烏孫との同盟を進言し自らその任に当たる。武帝は一方で張騫の出張後に匈奴おびき出し作戦をするが失敗する。その後正攻法で武将に騎兵を与えて何度か攻めさせるが一進一退を繰り返す。前126年に軍臣単干が高いすると形勢は漢に傾いていく。その後も互いの攻撃は続くが次第に匈奴の有力者が漢に降伏することが増えてきて、匈奴の劣勢がはっきりとしてくる。前119年春に漢軍は総攻撃をかけて一時単干が行方不明になるような自体になり匈奴と漢の両軍に多大な被害が出たが、漢は黄河の北まで領土を広げた。

 第七章「匈奴の衰退と分裂」では漢との関係や干ばつや継承問題で分裂する匈奴を描く。前119年の漢の総攻撃の後、武帝の息子の死と財政難から大規模な攻撃ができなかった。これ以降は匈奴に従属している西域や烏孫を匈奴から引き離すことを目指した。この西方作戦を進言した張騫は自ら烏孫に向かったが成果を得ることはできず帰国後に亡くなる。しかし烏孫から漢に連れてきた使者たちが漢の国力を理解すると漢からの公主を娶った。また張騫が西方に放った使者たちが答礼使節を伴って帰国し漢と国交を結んだ。そして中央アジアのほとんどの国が国交を結ぶことになった。また漢は張掖郡と敦煌郡を結ぶ河西廻廊を確保し西方とのやり取りを活発化させると共に匈奴が南の国と連絡が取れなくなった。西方には良馬や珍奇なものがあると聞き武帝は西方にしきりに黄金と絹を持たせた使者を派遣した。基本的に西域では匈奴の使者に比べて漢の使者は軽んじられた。大宛は善馬を多くもっていたが漢には渡さなかったため、李広利を派遣し最終的には善馬を手に入れられるも一度目は途中の西域諸国の協力が得られず引き返す自体にもなった。匈奴の西域支配では駅伝制のようなものや支配国の王子を人質と出させたりしていた。車師は天山の南北にまたがった戦略上重要な国だったが、漢は楼蘭に車師を攻めさせた時は匈奴の右賢王が救援に来たために漢は引き下がった。再度西域六カ国の兵を率いて車師を打たせてやっと降伏させた。その後漢に服従したり匈奴に服従したり行ったり来たりした。
 何人かの単干を経て且鞮侯になったときには親漢的な振る舞いを見せて捕虜などを開放したが、また漢の大攻勢が始まる。前99年に李広利が3万騎で天山の右賢王を撃つが敗れる。この頃に小説になっている李陵も匈奴とぶつかり捕虜になり以降は匈奴の右校王という地位で戦う。李広利はこの後に何度か匈奴と戦うが李広利の妻が起こした問題で功を焦り大敗し匈奴に投降する。狐鹿姑単于が他界すると単于継承で問題が起こり単于の求心力が低下した。前71年には漢と烏孫が共同で匈奴に攻勢をかけられ大ダメージを受け、単于は烏孫に報復を試みるが大雪などで逆に大きなダメージを受ける。この苦境にさらに烏孫・丁零・烏桓などの攻撃を受け弱体化する。さらに西域諸国と漢が共同して匈奴側についていた車師を攻撃し制圧する。虚閭権渠単于の後にたった握衍朐鞮単于は国内では残忍にふるまったために離反が相次ぎ自害させられる。その後単于が乱立し内戦になり最終的には郅支単于が勝ち、破れた呼韓邪は南下して漢の臣下となって逃れる。郅支単于は漢とは国交を絶ち烏孫に対抗するため康居と近づく。康居は烏孫王がいる天山西部の赤谷城を襲撃し勝利するが郅支を軽んずるようになったために、郅支は康居を制圧してタラス側のほとりに城を作らせた。郅支が力を付けたのを心配し漢の西域都護府の陳湯が郅支の城を攻めて滅ぼした。
 南下した呼韓邪は漢と親和的に接し栄えていく。しかし王莽が実権を握ると亡命者の投降をやめるように要求したり名を漢字一字にするように要求したりと締め付けがきつくなり、王莽が新を立てると不満がさらに強くなり両者は決裂する。王莽は殺され更始帝が漢を再興したが、呼都而尸道皋若鞮単于は盧芳を担いで漢に侵入した。呼都而尸道皋若鞮の後にまた継承問題で南北に分裂し、北匈奴はバイカル湖などの西域まで進出する。

 第八章「考古学からみた匈奴時代」では、、、匈奴の王の埋葬については史記に簡素に書かれている。ノヨンオール遺跡は方墳だが墓坑は9メートルある。出土品には動物文様が施されている絹織物もあったが、紀年銘のあるものがあり東匈奴が漢から受け取っていた贈り物が支配者層にも回っていたことが考えられる。その後殉死者をともなうイリモヴァヤバチ遺跡などが紹介される。これらの遺跡と史記の記述を比較して、これらが単干の墓であったか分析する。山中に目立たないように作られているので王の墓といえるが前一世紀から後一世紀のものばかりで前二世紀の匈奴の最盛期の王墳はまだ見つかっていない。
 継ぎに定住があったからを見ていく。遊牧は生産性が低いことが知られている。漢書の中にも農耕が行われていたとみられる記述がある。また誰が行っていたかについてを分析する。漢書や史記には匈奴の襲来によって金銀が奪われたという記述はなく人と家畜であったことから、この人たちが農耕に従事させられていたと考えられる。また匈奴に一族と亡命したものもあったが民衆でも匈奴に行くものがあった。モンゴル高原の北側では定住の集落が20箇所ほど見つかっている。イヴォルガ城塞集落が代表的だが四方が土塁に囲まれている。出土品の分析ではほとんどの土器が漢代のものであったり鋤や鍬などの鉄製農具も中国のものと類似していたことが注目される。結論としては漢人が農耕と手工業に従事し、匈奴人兵士が護衛と監視を担っていたと考えられる。
 また南シベリアでみつかった中国風の宮殿から中国文化の広がりについて分析する。李陵の宮殿とされていたがそれは否定されて、年代を考えると王昭君が考えられる。ウイグル自治区にある遺跡の出土品からはサルマタイや漢や匈奴など広い地域から影響されていることが見て取れる。アフガニスタン北部の遺跡からの出土品からも漢、インド、ギリシア、サルマタイなどの影響が見られ、各文化が国際的だったことが伺われる。

 第九章「フン族は匈奴の末裔か?」では、、、、18世紀中頃にフランスの歴史家J・ドギーニュにより発表されたフン族を匈奴とみなす説はその後に賛否両論がかわされてきた。後漢書では北匈奴と後漢の間で車師とその周辺地域をめぐっての攻防が繰り広げられ、151年に後漢が伊吾に派兵に呼衍王は去っていったという記述を最後に後漢の記録から姿を消す。魏書の西域伝に91年頃北匈奴の単于が後漢と南匈奴の連合軍に敗れた後なら逃走したたする記事がある。この年代を150年代まで下げて後漢の記録と結びつける考え方もある。この説は東胡の末裔と言われる鮮卑の指導者が150年代にモンゴル高原東部に勢力を確立して烏孫にまでその支配を及ぼしたことに裏付けられる。北史の西域伝にも奄蔡と一緒に匈奴が出てくる。ただソクドの国がかつての奄蔡と書いてあり混乱を招いている。後漢書の記述には奄蔡国が阿蘭聊国に改名したとあり、西方の資料ではサルマタイの東部で遊牧部族集団が覇権をとったという記述がある。
 その後376年に黒海西北岸にいた西ゴート族が東方から現れた強力な騎馬集団に打ち破られローマとの国境まで逃げてきたのである。四世紀の後半の西方の歴史家によるとフン族はヴォルガ川を超えてアランに襲いかかったようである。375年かその前にはフン族は東ゴートに襲いかかったようだが、東ゴードは別のフンを傭兵に雇ったとある。それでもフンは東ゴートを破り西ゴートに襲いかかる。西ゴートの一部はハンガリーに逃げるがローマに庇護を求めるが、トラキアの将軍が食料を十分に渡さなかったため飢饉が起こり反乱になる。東の皇帝ヴァレンスは援軍を待たずにトラキアでゴートと会戦をするがゴート軍の一方的な勝利となる。このゴート軍にはフンとアランが参戦してたようで、続く2年間はバルカンを荒らし回るが、フンは北方に帰っていったとみられる。395年にはフンの大軍がドン川やカフカス山脈を超えてアルメニア、ローマの属州、ペルシアまで侵入した。侵入の目的は人と家畜だった。
 この後、フン族の文化や馬に乗った生活、多色装飾様式と呼ばれた金製品の美術が紹介される。また鞍と鐙の発展の分析に続き、フン型の鍑(ふく、儀式用の釜)の出土の分布とその起源を分析する。
 400年ごろフンのウルディンという指導者がトラキアを攻めた。422年にはルアという指導者がコンスタンティノープルまで迫ったので東ローマは和平条約を結んだ。あとを継いだのはブレダ(兄)とアッティラ(弟)だが共同統治はうまく行かず、弟が兄を殺しアッティラだけの体制になる。アッティラは東ローマと交渉し毎年の支払いを倍増させた。その後アッティラはガリアに侵入しそこにいた西ゴードと西ローマと激突し、激戦を戦い双方とも大損害をだしアッティラは本拠地のハンガリーに帰っていく。アッティラはある朝に血だらけで死んでいた。その後フンは急速に衰退していく。フンが国家だったかは定かではないが、フン族の侵入が西ゴードの移動を促し西ローマ帝国を倒壊させたことは事実である。

気になったポイント

 ドイツ語のブルグ、英語のバラ、フランス語のブール、スラブ語のグラードは城壁を示しているというのは興味深かった。障壁の文化圏の広がりが言語で表されている。

 西アジアに侵入したスキタイがアッシリアなどの傭兵となっていたというのは少し気になった。ギリシア人などが傭兵として雇われていたがどういう条件で傭兵となるのだろうと思う。人口増加などだろうか?とすると生産性が高い国家だったのかとも思う。

 スキタイと同時代の文化の紹介でエトルリア文化が出てきた。ローマにも多大な影響を与えたエトルリア人だと思うが、言語系統不明というのは知らなかった。非常に長い文化的蓄積があったのだろうと思う。

 サウロマタイの辺りでヘロドトスが女性だけの戦士集団であるアマゾンの伝説は興味深い。スキタイが若い男を差し出して一緒に生活するようになって、その子孫がサウロマタイになったというのは何か民族を超えたつながりを感じて夢がある。

 匈奴の墓が見つからないということに関して、森の中に盛り土がない墓ということでかなり見つかりにくいものだと思う。まだ誰も見つかっていないものがあると思うと、早く見つけないとくちてしまうと心配になる。人工衛星などで探すことはできないのか、と考える。

 匈奴と中国の人的交流や匈奴よる人の略奪に関連し、自分で匈奴に亡命する農民もいたとあったが、長城は長城の中にいる農民を外に逃げないようにしているという意味もあったのではと思う。日本は海に囲まれているが、陸続きだと外の国に逃げる人たちもいたのだと思う。

最後に

 スキタイも匈奴も中央アジアの文明が中国やヨーロッパに与えた影響は多大だし過小評価されていると思う。モンゴル人もテュルク系の国々も今は中国の参加にいるような状態で世界の中ではぱっとしない。これからまた時代が変わってきてまた活躍してくるのかもしれない。とにかくスキタイや匈奴など中央アジアの文化や影響を知りたい人にはおすすめです!匈奴はフンです。

大学4年間の経済学が10時間でざっと学べる

2015 KADOKAWA 堀 利宏

 経済について知りたくて手に取った。思ったよりも難しかったがいろいろな概念を一つずつわかりやすい図で説明してくれていたので、読みやすかった。

本の構成

 第一部「経済学とは何か」ではミクロ経済学とマクロ経済学の二つの経済学を説明する。第二部「ミクロ経済学」では消費者、企業、市場、所得分配、独占、寡占、不完全情報の世界などをそれぞれ細かい概念に分けて説明する。第三部「マクロ経済学」ではGDP、財政、金融、景気と失業、経済成長、国際経済、経済政策などをこちらもそれぞれ細かい概念に分けて説明する。

気になったポイント

 まずは財政赤字をことされに悪いことと煽ったり、プライマリーバランスなどを強調したり、とMTTが流行っている現在では古く感じてしまう。一方では経済学という広い分野を網羅的に学べるのはよかった。一方理系の自分にとっては、複雑系である経済を数少ない簡便な数式で表すというのは流石に単純化しすぎと感じた。

最後に

 経済学者というのはどんな研究をしているのかがよく分からない。普通は自分の研究分野があって、その分野で第一人者であったりする気がするが、新発見などはあるのだろうか?そういう分野ではないのだろうか?そのあたりはいつもモヤモヤするところ。

 全体を通しては、本のサイズも分量もコンパクトにまとまっていて「10時間」と銘を打っているのは納得できる。ただ10時間で学べても10時間で理解できるかは分からないところがポイントかも。とはいえ経済学に初めて触れる私のようなビギナーにはコンパクトな教科書としておすすめできるとは思った。

サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福 上・下

2016 河出書房新社 ユヴァル・ノア・ハラリ(著), 柴田 裕之(訳)

オクスフォード大学で中世史、軍事史を専攻して博士号を取得し、エレサレムのヘブライ大学で歴史学を教えているユヴァル・ノア・ハラリ氏の著作。流行っているので読んでみたが、著者の多岐にわたる知識が散りばめられた非常に面白い歴史の分析でだった。

本の構成

 第一部ではサピエンスが7万年前に認知革命によって架空の伝説、神話、神々を語ることで多くの人が共同作業できるようになったと論じ、第二部では1万に千年前に起こった農業革命によって大量の数字データを処理するために書記体系=文字を作るようになったとなったと分析する。第三部では貨幣・帝国・宗教による人類の統一を論じる。第四部では500年前に始まった科学革命によって神となったサピエンスを語り、サピエンスがサピエンスでなくなる未来を眺望する。

ポイント ー 第一部:認知革命

 200万年前に太古の人類であるアウストラロピテクス属はアフリカ・ヨーロッパ・アジアに広がった。そこから分化したネアンデルタール人やホモ・エレクトスは200万年近く生き延びた。何種類かの人類が一万年前まで生きていた。私達は大きな脳、道具の使用、優れた学習能力、複雑な社会構造というような大きな強みを使って史上最強の動物になったと思いこんでいる。しかし人類は200万年間に渡り弱い存在で、他の動物がとった獲物の骨から髄液を吸って生きてきた。人類は30万年前には火を使った調理によって消化しやすくなり腸を短くしてエネルギーを節約し、その分のエネルギーを脳に費やすことができ、現在は25%ものエネルギーを脳に消費している。1万年前までいたサピエンスの兄弟たちはどこにいったのか?従来は交代説と交雑説があり従来は交代説が支持されていた。2010年のDNAの研究によりヨーロッパ人で1〜4%、オーストラリア先住民で6%のDNAをネアンデルタール人から引き継いでいることが分かる。一部が交雑したが3万年ほど前にサピエンスがネアンデルタール人を絶命させている。

 10万年ほど前にサピエンスがネアンデルタール人と地中海東岸でぶつかったがサピエンスが勝つことができなかった。その頃のサピエンスの学習、記憶、意思疎通の能力は格段に劣っていた。しかし7万年ほど前いアフリカを離れたサピエンスはヨーロッパや東アジアに達した。4万5千年ほど前には海を渡りオーストラリア大陸にも上陸している。7万年前から三万年前にかけて、人類は船、ランプ、弓矢、温かい服を縫う針を発明した。ほとんどの研究者はこれらはサピエンスの認知能力に起こった革命だと考えている。原因は不明だが、他の動物と違う特別な言語を身につけ、意思疎通の能力を飛躍的に高めた。そして架空のものを語ることができ、伝説、神話、神々が現れた。それらによりサピエンスは150人を超える集団での協力ができるようになり、他の動物を圧倒する。またホモサピエンスの発展は生物学では記述できなくなり、その虚構を記述する”歴史”が必要になる。

 歴史という観点では7万年前から1万2千年前までは狩猟採集時代で多夫多妻性だっと考えられるが、石器時代というよりも木器時代であったため、たしかな証拠は少ない。現在に残っている狩猟採集の社会を研究するのは有用だが、農耕が行われなかった土地に住んでいると言った様々な制限がある。とはいえいくつか言えることがある。数百人の集団で住んでおり、一万五千年前から共に暮らす犬を除くと人間だけで家畜はいなかった。インドネシアの島々の海岸に漁村を作った。現地にあわせた生活を送り、周りの自然環境について知識が豊富だった。サピエンスの脳の大きさは狩猟採取時代以降にじつは縮小したという証拠もある。狩りは3日に一回で採集は一日3〜6時間、週35〜45時間しか働かないで理想的な栄養が得られた。子供の死亡率が高いものの80代まで生きるものもいた。多様な食物をとっていたため旱魃の影響も農耕社会よりは大きくなかった。家畜に由来した感染症も少なく小さい集団で移動していたため、蔓延しなかった。しかし事故による死や集団についていけない障害者や老人を置き去りにすることもあった。おそらくアミニズムの信奉者だった。

 認知革命後に人類は海を越えてアフロ・ユーラシア大陸の外に出始めた。4万5千年前には海洋社会を発達させたサピエンスが船と航海技術をもって100キロ離れたオーストラリアに到達し住み始めた。3万5千年前に台湾や日本にも到達した。そして人類への恐れを進化させることがなかった200Kgもあるカンガルーやフクロライオン、巨大なディプロトドンなど23種は数千年のうちに絶命つした。同じことは各所で起きた。紀元前1万2千年ごろアラスカからアメリカ大陸への氷河が溶け大挙して移住し、紀元前1万年までにはアメリカの南の果てに到達していた。その過程でマンモスやマストドン、アメリカライオン、オオナマケモノ、ラクダなどが人類の上陸2000年以内に絶滅した。キューバ、マダガスカル、ニューカレドニアも同様。19世紀まで人類が足を踏み入れなかったマダガスカルなどは多様な生物を残した。海の大型海洋生物も同じ危機にさらされている。

ポイント ー 第二部:農業革命

 サピエンスは1万年ほど前から農耕を始めた。トルコの南東部とイランの西部とレヴァント地方の丘陵地帯で始まった。紀元前9000年ごろまでに小麦が栽培植物化され、ヤギが家畜化される。他の動植物も家畜化・栽培化が進み紀元前3500年には一通り終わる。現在でも、私達が摂取するカロリーの九割以上は、先祖がこの期間に栽培化した、それらはほんの一握りの植物、すなわち小麦、稲、とうもろこし、ジャガイモ、キビ、大麦に由来する。農耕はいくつかの他の場所でもそれぞれ完全に独立した形で発生したという意見で、学者たちは一致している。農耕民は狩猟採集民よりも苦労して働いたのに、得られる食べ物は劣っており、満足度の低い生活を余儀なくされた。農業革命は、人口爆発と飽食のエリート層を生んだ史上最大の詐欺だった。小麦、稲、ジャガイモなどの一握りの植物種はサピエンスを家畜化した。サピエンスは小麦を守るために、朝から晩まで草取りや水やりをしたり、糞尿で地面を肥やしたりした。サピエンスは農耕への移行によってヘルニア、関節炎などの病気に悩ませれ、個人は栄養不良にも苦しんだが、単位面積あたりの土地からの多くの食料を得ることで千人規模の村がやっていけた。劣悪な環境でも多くのDNAが残せれば進化の勝利だが、誰も合意していない取引だった農業革命は罠だった。また紀元前9500年前に狩猟採集民族の構造物も見つかっている。この神殿の建設に必要な人々を養うために集約的な小麦栽培に移行した可能性もある。

 サピエンスは農耕に適する2%の大地に身を寄せていた。農耕民は天候などへの不安から働いた。それらのストレスが政治体制や社会体制の土台だった。農耕民から没収されたエリート層が食べていて、王や兵士、聖職者、芸術家などが歴史を形作っていたが、残りのほとんどの人は田を耕していた。農耕による余剰食料があっても土地や水の対立・紛争、戦争について集団が合意形成できないと不和が生じてしまう。これを回避する大規模な協力ができたのは神話のおかげだ。紀元前3100年にはファラオがナイル川全域を統一し、何十万もの人々を支配した。古代バビロニアのハンムラビ法典もアメリカの独立宣言も神話の例である。キリスト教、民主主義、資本主義などの神話を信じさせる方法はそれを誰かが言っているからではなく神や自然法則が定めたものとする。想像上の世界は物質的な世界や欲望を形作った。個人主義が”個室”を作り、ロマン主義が”旅行”を欲する。また共同主観の世界を壊すにはフランス法制度のような”プジョー”という企業のようにさらに大きな共同主観が必要になる。

 共同主観を作っている脳の容量と持続性を補って大量の数理データを扱うために、シュメール人は書記を作った。当時の書記は詩歌などを表せない不完全な書記体系で数字データを記録した。紀元前3000年から2500年にかけて楔形文字に変化し、同様にエジプト人は象形文字を開発し、紀元前1200年頃中国で、紀元前1000-500年頃中央アメリカで別の完全な書記体系が発達した。また膨大な税の記録簿と、それを処理する複雑な官僚制は不完全な書記体系とともに生まれた。9世紀にはインド人が考えた0〜9までの文字で表すアラビア数字が生まれる。

 人類の大規模な協力ネットワークを築くためにヒエラルキーや差別を生んだ。白人至上主義やカースト制、貧富の差が生む階層も同じだ。黒人は知能が劣っているからホワイトカラーになれず、黒人はホワイトカラーについていないから知能が劣っているというように、階層が階層を強化した。性別のヒエラルキーはほぼすべての社会で見られ、女性は男性の所有物だとされてきた。2006年でも夫が妻を強姦しても起訴できない国が53カ国あった。紀元前5世紀のアテネでも女性は独立した法的地位を持たず、民衆の議会への参加や裁判官になることなどが制限されていた。また”自然”とされている男女間の関係も主にキリスト教などから来ている。男女の女性の性質も生物学的には何も変わっていないが、男性らしさ女性らしさは社会的には変遷している。社会は男性の優位の家父長制を敷いているが、その優位性に納得のいく答えはない。

ポイント ー 第三部:人類の統一

 600年ほど前には人類の9割はアフロ・ユーラシア世界に暮らしていた。残りは4つに分かれていた世界に住んでいた。メソアメリカ世界、アンデス世界、オーストラリア世界、オセアニア世界である。その後300年でアフロ・ユーラシア世界が他の地域を征服した。貿易商人や征服者、預言者は世界を一体化させようと試みてきた。

 貨幣は相互信頼の制度であるが、これまで考案されたもので最も普遍的で最も効率的な制度だ。タカラガイは貨幣として使われていたが、シュメールで大麦貨幣が考案され、メソポタミアでは銀の重さが使われた。紀元前640年頃にリュディアの王が初めて価値と発行元の権威が記された硬貨を発行した。膨大な見知らぬ人々が交易や産業などで協力できるようになる一方で、知っている人たちの交流である各地の伝統や親密な関係が損なわれる。人々はコミュニティや神聖でなく、貨幣を信頼する。貨幣が亡くなったら信頼も失われる。そんな無慈悲な社会が訪れるかというというと、そんな単純ではなく、かつては戦士、信者、市民たちが計算高い商人を何度も打ちのめしてきた。

 帝国も人類の統一に向かう力になっている。帝国による支配や搾取を批判する声もあるが、過去2500年の間、世界でもっとも一般的な政治組織で、安定した統治形態だった。帝国はエリートを通して芸術分野の発展にも寄与しているが、共通言語も提供している。サピエンスは進化の過程で民族的排他性を発達させているが、支配者は帝国に住む人達の利益のために支配をしていた。小さな文化が持つ思想や財、テクノロジーを融合して、共通の文化を作り、支配を簡単にすると共に正当性を獲得した。21世紀に入り国民主義は衰えてきてグローバル帝国が生み出せれつつあり、多民族のエリートによって支配されている帝国に参加する人が増えてきている。

 通貨と帝国と並んで人類の統一を推し進めたのは、宗教だった。宗教とは超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度と定義できる。アミニズムは特定の場所や気候、現象の独特の特徴を強調する局所的だったので、王国や交易ネットワークの発達とともにより広範な権威として多神教が生まれた。多神教は一神教を生んだがどれも泡沫的なものだった。ユダヤ教は宣教も行わずユダヤとイスラエルの国民のための局地的な一神教だったが、その中の一宗派がイエスをメシアとして全人類に向けた広範な宣教を始めて成功した。イスラム教も小さな宗教だったが、キリスト教と同じように積極的に布教し勢力範囲を拡大していった。多神教の中でアミニズムが生き延びたように、一神教の中でも多神教の神々が生き延びていった。多神教は善と悪の2つの神を持つ二元論も生み、マニ教やゾロアスター教のように一時勢力を拡大したものの縮小したが、一神教に大きな影響を与えた。個々までの宗教は神や超自然的な存在への信仰に焦点を絞っていたが、仏教は人が苦しみから逃れるすべを普遍的な自然法則として、一時勢力を拡大した。ただ内部に多神教的な神々への崇拝は残った。近代では自由主義、共産主義、資本主義、国民主義、ナチズムなどの自然法則の宗教が多数台頭した。そのいくつかはホモ・サピエンスを崇拝する人間至上主義に分類でき、自由主義的な人間至上主義、社会主義的な人間至上主義、進化論的な人間至上主義の諸派に分化している。

 歴史は二次のカオス系であり予想が結果に反映される。たとえば石油市場も二次のカオス系である。明日の石油価格を予測できるプログラムを開発したら石油価格は予想に反して今日変わり、明日の石油価格は分からない。また歴史は人類の良い方に変わってきているという証拠もない。ローマ帝国がキリスト教でなくマニ教を国教としていた方が人類にとって良かったかもしれないが、分からない。ミームという思想のようにキリスト教が有益だったからでなくキリスト教の増殖力が他より強かったから発展していったことも考えられる。

ポイント ー 第四部:科学革命

 過去500年にわたって人は科学研究に投資することで自らの能力を高められると繰り返し証明してきた。宗教は重要なことはすべて明らかになっていて異議を認めないものだが、科学は積極的に無知を認め、知識を得る過程で過去の誤りには異議を挟む余地がある。観察結果を収集し、数学的なツールでそれらを説にまとめ、さらにそれらの説を使い、新しいテクノロジーの開発を目指す。統計学を使いスコットランドの長老派教会の牧師はなくなった牧師の妻や子供に年金を支給する生命保険基金を設立することができた。科学は人類に新しい力を与えてくれるが、真の価値は有用性だ。それにはテクノロジーのツールが重要だ。科学とテクノロジーが結びついたのは19世紀にはいってからで主に戦争を攻守から支えてきた。それまでは軍事技術によって救われるとも金持ちになるとも思われたいなかったからだ。科学と産業と軍事のテクノロジーが結びついたのは資本主義と産業革命が到来してからだった。科学革命以前は知るべきことをすべて知っていたムハンマドやイエス、ブッダ、孔子さえもが危機や疫病、貧困、戦争はこの世から無くせなかった。しかし新しい知識を応用することでどんな問題も克服できると、多くの人が革新を持ち始めた。死の問題ですら解決できるとプロジェクトが進行している。しかし科学研究には多額な投資が必要である。それを決めているのはイデオロギーや政治、経済の力を考える必要がある。重要な力が2つある帝国主義と資本主義である。

 18世紀半ばにクックがタヒチ島に太陽と地球の距離を測るために派遣されたが、多くの学者を連れていき、ニュージーランドやオーストラリアも寄ったが、その後の100年でヨーロッパ人に侵略されて先住民族が被害を受けた。タスマニアは1万年近く孤立して生きていた先住民族が絶滅した。なぜヨーロッパ人がオーストラリアを始めて探検したのか?その理由は近代前期に2つの潜在能力を伸ばしたからで、それは近代科学と近代資本主義だ。精神構造として近代科学と帝国は自分の無知を認めることで共通していて、以前の帝国は自らの世界観を広めたり富と権力を求めて征服をしたのに対して、ヨーロッパ人は領土に加えて新しい知識を求めるために海を越えて征服をしていった。古代アテネ、カルタゴ、インドネシアを支配していたマジャパピトも未知の海へ出ていくことはなかった。明朝では鄭和が300隻もの船で海を探検したが植民地を築こうとはせずに中国の文化として遠征していたわけではなかったので、この事業が次の支配者には引き継がれなかった。特異なヨーロッパ人だけが「これらの土地はすべて我々のものだ」と宣言したかったのだ。スペインはメキシコを征服した後に10年後にはインカ帝国を征服していた。近代のヨーロッパ人にとって帝国建設は科学的な事業であり、科学の学問領域の確立は帝国の事業だった。紀元前3000年に栄えていたモヘンジョダロの遺跡もその後の周辺の支配者は目に止めなかったが20世紀に入りイギリスの調査隊によってインド人も知らなかった大文明を発見した。楔形文字も1618年に発見されたものの200年以上だれにも解読できなかったが、ペルシアに派遣されたイギリスの士官であったヘンリー・ロンリンソンがザクロス山脈の碑文を見にし写しを作るところから始まり自ら業務の合間に時間を見つけて研究して解読にこぎついた。インドに派遣されたウィリアム・ジョーンズも体系的に言語を比較してインド・ヨーロッパ語族を突き止めた。それぞれの支配地域の知識を深めて効率的な帝国の支配につなげていった。一方でアーリア人は他人種よりも秀でているというイデオロギーも作ったりした。また科学と帝国の隆盛には資本主義という重要な力も潜んでいる。

 今の経済は将来のお金で現在を築くという信用で成り立っている。銀行は成長を見込んで預けられる貨幣の何倍も額の貨幣を信用により貸し付けられる。信用そのものは昔からあったが人々は信用供与を行わなかった。当時は経済のパイは限られていて取り合いだったので、キリスト教でも大金を稼ぐことが罪悪とみなされていた。その後、科学革命は進歩という考え方を登場させた。アダム・スミスは利己主義は利他につながると説いた。この資本主義という宗教は、近代科学の発展にも影響を与えてきた。利益を生むプロジェクトのみスポンサーが見つかるからだ。資本主義はヨーロッパ帝国主義にも影響している。コロンブスはスポンサーを探すのに国王を回ったが、のちに株式会社がスポンサーになった。オランダ商人が出資した東インド会社は商業的利益を最大化するためにインドネシアを支配した。インドを征服したのは国家ではなく株式会社であった。政治は何もするなという自由市場資本主義はカルト的である。自由市場資本主義は、利益が公正な方法で得られることも、公正な方法で分配されることも保証できないので、利益追求のため奴隷貿易なども生み出す。資本主義の欠点についてはもう少しで改善されるという意見もあるが、経済のパイの広がりは原材料とエネルギーを使い果たすという警告もあるが本当だろうか?

 技術の発達によって、人類が使用できる原材料やエネルギーは過去に比べて実は増加している。それまでは人や家畜の筋肉で行っていたエネルギー変換を、産業革命は熱エネルギーを力に変換するというエネルギー変換の革命だった。それ以降は安価で豊富なエネルギーと安価な豊富な原材料の新しい組み合わせが実現された。工業生産方式が生まれたが動物たちも機械と扱われ工業生産されるようになる。またそれを支えるために消費主義が宣伝された。資本主義と消費主義の価値体系は2つの規律が合わさっている。富める者には「投資せよ」それ以外の者には「買え」である。過去の宗教は楽園を約束されたが、思いやりと寛容さを養い、渇望と怒りを克服し、利己心を抑え込んだ場合のみだった。それに対して資本主義・消費主義の宗教は富める者に強欲でありつづけ、一般大衆が己の感情に従い買い続けることを求めるが、信者は忠実にそれを実際に実行しているので、史上最初の宗教である。信者たちは楽園が手に入ることをどのようにしるのか?それはテレビを通じてである。

 サピエンスは発展の過程で多くの種を絶命させてきたが、それは汚染や自然災害を引き起こし自分たちの種に住みにくい環境になる可能性もある。これを多くの人は”自然破壊”と呼ぶが、実際には”変更”である。自然は決して破壊できない。小惑星による恐竜の絶滅は哺乳類繁栄への道を切り開いた。6500年経つと知能を得たネズミたちは人間が起こした現在の大量殺戮に感謝するかもしれない。サピエンスは自然の気まぐれに振り回されなくなった一方で、産業の命令に支配されている。伝統的な農業のリズムは時間という新たな活動のテンプレートに置き換わった。その他では都市化、工業プロレタリアートの出現、庶民の地位向上、民主化、若者文化、家父長制の崩壊など大激変をもたらしたが、最も大きい社会変革は家族とコミュニティという人間社会の基本構成要素をバラバラに分解し、国家と市場の手に移したことだ。かつての王国や帝国はみかじめ料を取り立てる見返りに、近隣の犯罪組織や地元のチンピラなどが、自分の庇護下にある者たちにけっして手を出さないようにしていただけで、他は何もしていないに等しかった。それ以外のことは家族やコミュニティにまかせていたが、それは緊張関係と暴力に満ちたものだった。産業革命は市場と国家に力を与え、政府が自由に人々活用できるようにしたが、家族やコミュニティによって、国民主義的な教育制度の洗脳や軍隊への徴収、都市のプロレタリアートになっているのを阻まれた。国家や市場は、警察や裁判所を家族の監視や判決の代わりに導入し、さらに「個人になるのだ」と提唱し、家族やコミュニティを打ち砕いた。国家と市場は個人とは対立しておらず個人の生みの親である。以前は親の権威は神聖視されていて、親を敬い、従うことは尊ばれる価値観であったが、今日ではその権威は見る影もない。部族の絆を感情面の代替え物として、消費主義と国民主義は想像上のコミュニティを育成させてきた。マドンナのファンであるなど同じものを好きである消費者部族や国民神話などである。この二世紀の変革は大きいが、特に世界大戦後の70年以上の平和は格段に大きな変化である。以前はコミュニティ同士の復讐やコミュニティ内の犯罪で多くの命を奪っていたが、それが減り戦争や犯罪など暴力による人々に死亡は自殺により死亡よりも少ない。またヨーロッパの諸帝国の崩壊もこの平和に寄与している。国家間の戦争も減っている。理由としては戦争の代償が大きい一方で戦争の利益が減ってきた。

 過去500年間の革命は人類を幸福にしたか?中世時代より幸福だし、石器時代の狩猟採集民よりも幸せに違いないという進歩主義的な見方は説得力にかける。また人間の能力と幸福度は反比例すると主張するロマン主義的な見方も小児死亡率の現象や、戦争や飢饉の激減を考えると独善的だ。この最近の黄金期も後で振り返ると人類繁栄の基盤をそこなう原因の種を巻いている可能性もある。幸福度の測定にはヨーロッパ人だけ、男性だけではなく、犠牲になっている動植物を感情に入れずに人類だけというのも誤りだろう。研究結果では、富はある程度まで幸福に影響する。悪化しない病気は短期的に幸福度を下げるのみである。家族やコミュニティは富や健康よりも幸福感に大きく影響を与え、結婚生活が良好か劣悪かは大きな影響があることが研究により繰り返し示されている。過去二世紀で物質的な改善は、家族やコミュニティの絆の悪化により相殺されている可能性はある。一番重要な発見は幸福は客観的な条件と主観的な期待の関係によって決まる。牛に引かせる荷車がほしくて、それが手に入ったら幸福だが、フェラーリがほしくて、フィアットの中古車しか手に入らなければ惨めと感じる。現代のティーンエージャーは広告に出てくる映画スターや運動選手、スーパーモデルと自分と比べて自分に満足できない。化学から幸福を見ると、それはセロトニンなどの分泌だ。その分泌は永続的には続かないようにできており、現代の銀行がペントハウスを買った時と、中世フランスの農民が泥壁の小屋を立てた時で、セロトニンの分泌が変わらなかったら彼らの幸福度は変わらない。死後の幸福を信じる中世の人々の方が信仰を持たず目的のない人生を歩む現代人より幸福かもしれない。幸福は人生の意義について自分の妄想を集団的妄想に一致させればよいのか?仏教は幸福の問題を重要視してきたが、ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求だけではなく、内なる感情の追求もやめることだった。たいていの人は自分の感情や思考、好き嫌いと自分自身を混同している。感情は自分自身とは別のもので、特定の感情を執拗に追い求めても、不幸に囚われるだけであることに、彼らは決して気づかない。

 ホモ・サピエンスは自然選択の限界を突破するかもしれない。知的選択というものはなかったが1万年前に農業革命の間に変化が訪れた。選抜育種によって特異な選択圧をかけた。現代では科学者たちは遺伝子工学によって生き物を操作している。一つは生物工学によって大腸菌や菌類も改変されており、哺乳類も実験がされている。ジュラシック・パークのようにネアンデルタール人やマンモスを復活させることもできるが、人類を設計すればホモ・サピエンスはホモ・サピエンスでなくなる。また一部を機械化してバイオニック生命体を作ることもでき、脳をインターネットにつなぐこともできるが、意識や記憶やアイデンティティにどんな影響があるか分からない。このようなサイボーグのもつ心理的・哲学的・政治的な意味合いも分からない。あとは完全な非有機の自己増殖するもの、たとえばコンピュータ・プログラムも生まれるかもしれない。そしてある時点で過去の意味がなくなるビッグバンような特異点が到来する可能性がある。科学の進歩を止めることはできないが、影響を与えることはできるかもしれない。私達は何になりたいかではなく、何を望むかを考える時である。

 サピエンスは飢饉や疫病、戦争を減らし、人間の境遇に関しては多少は進歩した。とはいえ他の動物達の境遇はかつてない速さで悪化している。人間の力は強力だがその力をどこに使ってよいかは、ほとんど見当もつかない。物理法則しか連れ合いがなく、神にのし上がった私達が責任をとらなければならない相手はいない。他の動物達を悲惨な目に合わせているが、決して満足しない。自分が何を望んでいるかもわからない、不満で無責任な神ほど危険なものはるだろうか。

最後に

 ポイントを掻い摘んで説明したが、多くの要素があり要約のようになった。気になるのは「ビッグバン」で話が始まっているが、典型的な科学が強化している現代の物語だと思う。全体的に整理された抽象的な議論の中に、具体的な歴史的な逸話が折り挟まれていて、著者の広範な知識と広大な物語を整理する論理力に脱帽する。サピエンスの歴史が綺麗に整理されているので、理解はしやすいし、発展的にまたは批判的に著者の説を見ることができて素晴らしい。
 サピエンスのDNAも実は少しは混ざりながら発展してきているというのと、宗教というミームも土着の信仰と混ざりながら広がっているというのが気になった。1->2->3というのではなくて、1,2,2.5,3などが同時的に存在している。あと貝が通貨というなら貝塚は銀行だったのな。科学革命で現世を改善できるので現世主義になってきたというのは面白い。日本が例外的に19世紀の末に西洋に追いついたのは社会や政治を西洋を手本として作り直したからだと書かれているが、他の国ができなくて、なぜ日本にそれができたのかは他の書籍で勉強したい。戦争を克服して減ってきていると描いてあったが、戦争が経済的なものであれば、侵略は日本でも日々進んでいると感じる。

 とにかく歴史的情報と新しい視点などが多く、いろいろな発見や歴史についても学べる貴重な一冊であるとは思うので、歴史や経済に興味がある人だけでなく、科学やテクノロジーに関わっている人は読むべき本と感じました!