シルクロードと唐帝国 (興亡の世界史 05)

講談社 2007 森安 孝夫

 中央アジアをもっと学びたいと手に取った本。序章から作者の思いが爆発する。何か上品な他人事な本よりもこういう本の方が面白い。非常におもしろかった。

本の構成

 序章「本当の自虐史観とはなにか?」では日本人の西洋コンプレックスやそれに対する歴史的な事実。歴史を学ぶ理由。人種や民族、国民について、言語族についても批判的に解説し、作者が考える”自虐史観”とは何かということと、それに対してこの本に込めた作者の熱い想いのたけを詰め込む。

 第一章「シルクロードと世界史」ではまずは地形を見ていき、歴史の中で遊牧民を位置付ける。中央ユーラシアが草原ベルト・砂漠ベルト・半草原半砂漠ベルトと三層構造となっていて、また縦に見ると天山山脈などの海抜2000~3000メートルの盆地は草原になっていて高度を上げると草木がなくなりそらに上は万年雪に覆われる。高度を下げると山肌が見えて更に下には砂漠が広がる。パインプラク高原は東西に250キロ以上、南北に百数十キロの大草原である。そしてこれらの草原や砂漠を通ったシルクロードは東西や南の文明を繋ぐ役割をになったと同時に騎馬遊牧民を生み出した。農業は世界各地で発明されたが騎馬遊牧民はユーラシアにしか現れなかった。また中央ユーラシアの西側のコーカサス地方にインド=ヨーロッパ語族の発祥の地があり、東部のモンゴリアにアルタイ語族の発祥の地があるようにこの草原地帯の歴史的な重要性を物語る。唐帝国の中心は中国本土であるが本書では華北の北方はゴビ砂漠以北をモンゴリア、ゴビ砂漠以南を内モンゴルと区別し、北中国の西方の西域または中央アジアの定義を整理する。もともとは内モンゴルの南にも広々とした草原地帯があり、匈奴を始めとする様々な牧畜民が活躍した。この草原地帯は研究者により重視され様々な名称で呼ばれているが筆者は農業と遊牧が交雑する地域として農業接壌地帯と呼ぶ。農耕都市民と遊牧民がこの地帯で北に南にせめぎ合っていたが唐朝では両者が一体化した最初の王朝であった。
 シルクロードは19世紀にドイツ人の地理学者によって作り出された言葉だが20世紀前半までは絹交易に関する文書が発見されるのがオアシス地帯に限られていたので「オアシスの道」を意味したが、我が国の東西交渉史学が発展をとげ、中央ユーラシアを貫く「草原の道」と東南アジアを経由する「海洋の道」とを含むようになっていく。本書でシルクロードは「オアシスの道」と「草原の道」合わせた「陸のシルクロード」とする。このシルクロードとは線ではなく面である。またどこを通っても良い草原地帯では道があるわけでもない。さらにシルクロードとは東西交易路だとごかいされてしまうこともあるが、南北にも伸びていて多くの支線が網目状になり大小の都市が網の結び目になっている。また絹以外にも金銀器・ガラスなど世界中の特産品が運ばれたが、多数の結び目を持つネットワークであったので中継する方式が一般的であった。また前漢の武帝時代の張騫がシルクロードの開拓者というのも誤解であり一人ですでにあったルートを遠くまで旅しただけである。大航海時代以降のグローバル世界史であり「海洋の時代」には重くてかさばる食料や原材料の大量輸送が可能になったが、アフロ=ユーラシア世界で完結していたユーラシア世界史の時代では軽くて貴重な商品、すなわち奢侈品や嗜好品の中〜長距離輸送が主流だった。これらはアラム商人・インド商人・バクトリア商人・ソグド商人・ペルシア商人・アラブ商人・シリア商人・ユダヤ商人・アルメニア商人・ウイグル商人・回回商人などによって行われていたことが知られている。これらの商人は金銭財物を喜捨して伝播した様々な宗教の活動を支えた。貿易の記録が後世に残ることはまれであるが、建築遺構や高価な顔料を使う壁画などには流通経済による繁栄が残る。先に列挙したシルクロード商人のうち紀元一千年紀を通じて最も活躍したのはソグド商人である。主要な拠点であるソグディアナの諸都市の遺跡では一般のためものからでさえ次々と壁画が発見されている。都市遺跡のペンジケントでは貴族や大聖人の邸宅などの建物では主要な部屋が豪華な壁画によって飾られていたことに驚かされる。このソグディアナは大帝国の中心となったことはなく穀倉地帯でもなく、国際貿易のみで栄えていた。ペンジケントはソグディアナの中のオアシス都市でも大きい方ではないにもかかわらず、豪華な壁画が見つかる。
 筆者は東西交易を軽視する反シルクロード史観を否定する。大航海以前にはシルクロードの東西交易は経済的にも文化的にも重要だった。最後に時代区分については世界史の8段階を提唱している。農業革命、四大文明、鉄器革命、遊牧民の登場、中央ユーラシア型国家優勢、火薬と海路、産業革命と鉄道、自動車と航空基地の8段階である。

 第二章「ソグド人の登場」ではソグド研究史から始まる。日本では明治末期から日本人による研究が進み1924年の「栗特国考」が初期の代表作である。20世紀に華々しい成果を挙げたソグド研究は21世紀には地位が危うくなる。中国の研究者の台頭である。その後フランスでも最新情報を含む書籍が発行され、英訳もされたため、日本での研究結果を欠いた本社が欧米の研究の基礎になることを憂いている。
 ソグディアナはソグド人の土地の意であり、ユーラシア大陸の真ん中に位置するソグド人の故郷である。アム河とシル河なら挟まれたマーワラーアンナフルやトランスオクシアナと呼ばれた土地の一大中心がソグディアナで、鉄器の使用が普及した紀元前6〜前5世紀ごろが灌漑網が整備されて、農業を基本とするオアシス都市国家が栄えた土地である。ソグディアナはほとんどウズベキスタンに属しているが東の一部はタジキスタン国領になっている。ここにはサマルカンドをはじめ多数の都市国家があるが豊かな土地で前6〜前5世紀に発展し、5〜6世紀に大発展期を迎える。人口増加に対してオアシス農業には限界があったので交易に従事する者が出てきたと分析する。そしてこの地は東の中国、東南のインド、西南のペルシア・地中海地域、西北のロシア・東ヨーロッパ、東北のセミレチエ〜ジュンガリア〜モンゴリアへと通じる天然の交通路たるシルクロードに続いてたので、ソグド人は国際的なシルクロード商人に発展し、広い範囲にコロニーを築いた。
 ソグド人はコーカソイドであり白皙、緑や青い目、深目、高鼻などの身体的な特徴を持つ。ソグド語は今は滅びたが中世イラン語の東方言であった。紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアのキュロス二世の制服を受けて、アラム語がアラム文字で書かれるようになりアケメネス朝滅亡後にアラム文字でソグド語が書かれるようになり、さらにアラム文字が草書化しソグド文字となった。ソグド文字は突厥・ウイグルに伝播して、ウイグル文字やモンゴル文字へ、そして満州文字になった。ソグディアナはアレクサンドロスの遠征の東の最終地点になり、セレウコス朝シリア、バクトリア王国の領域に含まれるが、その後は8世紀前半にウマイヤ朝の支配を受けるまではほぼ独立を保っていた。その後はイスラム帝国の支配を受けゾロアスター教からイスラム教、ソグド語もペルシア語に変わっていく。9世紀終わりのサーマーン朝はペルシア人王朝でありアラビア文字ペルシア語が主流となり現在のタジク語に繋がっていく。10世紀後半からは草原からトルコ人王朝が支配を強めてきてトルコ語が優勢となる。
 ソグド人が商業をしている記録は漢文史料やイスラム資料にあり、商いを良しとすることや紙を生産している記述がある。またソグド語の古代書簡は312~4年くらいの5通の手紙がみつかっているが、中国国内からサマルカンドの親族に当てたものであり、中国の政治的な動きや中国内のサマルカンド人などの言及がある。これにより匈奴がフンと呼ばれていたことが確証された。また郵便制度があったこともわかる。また敦煌の遺跡のミイラが履いていた紙の靴から偶然見つかった書簡は商業税に関するものであり、課税や取引の実態を示していて登場する象がんの多くがソグド人でありソグド人商人の存在感を表している。社会構成としては自由人と非自由人が別れていて、商人の地位が高く聖職者が重視されていない。男女とも財産を渡せば離婚できるなど女性の地位は比較的高かった。私兵として奴隷の軍人がいたことがうかがえる。
 漢文史料の中で商胡など胡と付けばイラン系商人や西域商人とみなしてよいとされてきたが、本書ではこれらの多くはソグド商人であるという説を打ち出す。特に唐代では興生胡や興胡とあれば100%、それ以外でも十中八九をソグド商人と見て良いとする。ただし後漢から魏晋南北朝時代ではそうではない。またサマルカンドなら康国というよに、漢文書の行政上の必要からソグド人は出身国によって姓を持たされていて、安・米・史・何・曹・石などであり、ソグド姓と呼ぶ。東方に発展したソグド人商人の足跡は四世紀前半には中国に及んでいることは明白だが、古くは後漢から三国魏の時代まで遡ることは疑いがない。河西地方だけでなく長安・洛陽や四川でも活躍した足跡を見る。ソグド人が残した遺跡や墓地、碑文や岩壁銘文からその集団での居住跡をたどると、同郷の仲間や家族、親族を各地に配置しネットワークを構成していた様子が見えてくる。
 ソグド人の軍事面は積極的だったという説が最近に定着しつつある。三国志にも支富が月氏を康植が康国の軍団を率いて参画した記述がある。彼らは西域商人のリーダーであるばかりでなく軍団長になりうる人物だったのかもしれない。また初唐のソグド人の墓では被葬者は大夏月氏人也と書かれたので月氏も広義のソグド人に含まれていた可能性がある。また外構ネットワークにも寄与したことがわかっており、安吐根という人物は柔然や北魏の実力者と通じ、東魏と柔然の政略結婚に尽力し、さらに北斉で高位高官まで上り詰めた。また酒泉胡は西魏の公式使節団の長として突厥を訪れた。また虞弘墓から発掘された墓誌によると父は柔然の官職で北魏に来た経歴があり、虞弘も柔然の官職でペルシアや吐谷渾国を訪れてその後北斉に派遣されたときに関係悪化から勾留され北斉・北周・隋に仕える。彼もソグド人だったと推測される。また当時ソグド語は国際語であり、突厥のモニュメントにもソグド語で記されていて公用語だっただけではなく、突厥の政治・経済・外交の顧問としてソグド人が使えていたことが判明している。ソグド人にとって重要な地域は河西地方だが重要な都市としては敦煌が挙げられるが涼州は河西最大の都市として玄奘の伝記にも挙げられている。439年には河西地方を支配していた北涼は北魏に整復されて、ソグド人も奴隷の身分になったとされるが、ソグド王は奴隷の身分からの解放に尽力したと予想している。東方に向かったソグド人は北魏〜隋では薩宝という官称のリーダーに率いされていたことがわかっており、これはソグド語のサルトパウに由来する言葉でキャラバンのリーダーという意味だがこれが転化したものだと判明している。唐の建国に多大に尽力した安興貴の祖父も涼州薩宝だったことが知られている。隋末617年に三万の兵を率いて太原を出た李淵は長安城に入り618年に唐朝を創業し武徳と改元した。そのころ涼州薩宝の家系に生また安修仁は他の漢人胡人と涼州に李軌政権を擁立した。兄の安興貴は唐に使えていたが李軌を唐朝に帰属させるために涼州に戻り説得したがうまく行かず胡人集団を率いてクーデターを起こし李軌を捕らえ、武徳二年に河西地方を唐に献上した。この安一族は最初から両者を天秤にかけて一族の安全保証を計っていたと見られる。最近この安修仁の墓碑銘が見つかり隋朝の武官として涼州在住の胡人集団を統率して、李軌政権を傀儡とできた背景にはこのソグド人軍団がいたことを指摘した。この新説は隋王朝に五胡以外のソグド人が府兵制の一部を担っていたという新事実を明らかにしている点で意義深い。安興貴の息子の安元寿は李世民のそばで秦に仕え、元武門の変の際にはソグド人兵力を動員したこともわかっているがその後官職を辞し涼州で家業の東西貿易や馬の生産を継いだと考えられる。このように馬を生産し馬とラクダを機動力にした東西貿易に従事する一方で騎馬を中心とする武装集団として発展し、さらにトルコ系や漢人軍閥へも軍事力を提供して政治にも関与していたと読み解ける。

 第三章「唐の建国と突厥の興亡」では、、まず唐までも当時の異民族の王朝として拓跋国家と呼ばれ、中国国内でも同じような認識である。また現在の中国内の少数民族の定義の中に匈奴、鮮卑、柔然、突厥などは含まれていないが、それは魏〜唐までの間にこれらの民族が漢民族に融合したからである。唐の国際性・開放性はこのような異民族との血と文化の融合によって生み出されている。突厥やソグドなどの異民族たちも漢語を話した。この唐帝国の創建を担ったのは北魏の武川鎮に由来する鮮卑系集団であることが定説である。この武川鎮は北魏が配置した辺境軍鎮六鎮の一つである。孝文帝が洛陽に遷都すると六鎮の将兵への待遇が悪化して不満が六鎮の乱となった。そして混乱によって北魏は東魏と西魏に分裂し、西魏に入った武川鎮出身の少数派は在地豪族と手を組み胡漢融合集団を形成し、それを基板にして北周の宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏が相次いで政権の座についた。隋の煬帝が三度の高句麗遠征に失敗すると、煬帝と同じ胡漢融合集団出身の李淵が617年に挙兵して長安を目指した。618年に煬帝の孫の楊侑が殺させると李淵は初代皇帝・高祖となった。そこから5年かけて各地の群雄が平定されて国内が統一させる。また霊州・夏州を擁するオルドスは重要な地でありオルドスを支配していた匈奴系の集団が李淵を支援したと考えられている。唐の最大のライバルは突厥第一帝国であったが、北斉・北周の時代はほぼ属国で貢物をしたり血縁関係を結んで何とか耐え忍んでいた。しかし隋の時代になると突厥を東西に分断させることに成功し、北の突厥が南の分裂中華を操っていた時代を逆転させ、北中国を再統一した隋が分立した突厥を操るようになる。東突厥の突利可汗は懐柔策に乗せられて漠南に移って自立し隋本土を転々とするが最終的には隋の後押しで東突厥可汗として返り咲いた。しかし突厥第一帝国の第十二代可干の始畢になると周辺の王国を臣下において勢いも増してきた。中華では反乱が相次ぎ分裂状態になったが群雄は突厥には服従し可汗の称号をもらっており、突厥が中華を上回っていた。また西突厥も隋の影響を脱して勢いを回復してきており、中央アジアを制圧してくる。またかつて突厥に嫁いだ義城公主が隋の末裔を呼び寄せて隋の亡命政権を漠南においた。漢文資料には唐を興す李淵は突厥の大可汗の臣下だったとは書かれていないが、あとから消されたと推測される。ソグドは李淵への帰属を決断し唐を軍事的にも支えたので、その反映が約束された。
 建国直後の唐は各地の群雄を制圧していったが活躍したのは次男の李世民であった。李世民はクーデターを起こし最終的には大宗という最高指導者になる。突厥分離政策で唐への投降を促し東突厥を弱体化させ隋の亡命政権も撃破する。こうして建国から10年を経た630年に国内の群雄や隋の亡命政権、東突厥を制圧し統一を果たす。唐に投降した旧東突厥人の扱いで意見が別れたが、オルドス長城地帯の農牧接壌地帯に遊牧民として集住させた。ところが639年に反乱を起こしたので、故郷の内モンゴル草原地帯に帰した。
 唐の太宗は草原遊牧地帯の族長たちから天可汗と称されていた事実を捉えて、これは農耕中国では皇帝として草原地帯では大可汗として世界帝国になったという解説も見られる。しかし古代トルコ語資料ではタブガチという拓跋から訛ったと思われる名称で認知されていたので、北魏以来の拓跋国家の天子はトルコ=モンゴル系遊牧世界から見れば唐の太宗は北方の拓跋国家の血を正当に引いているので、天可汗と呼ばれることは自然なことだった。筆者は太宗とその皇后の墓である昭陵に団長として調査にあたった。山陵の中腹にある外国人の石像が遊牧国家やオアシス国家のリーダーであることを解説し、遊牧世界からの認識を裏付ける。646年太宗は薛延陀を打倒し鉄勒諸部を内属させた。そして緩やかな支配地域である羈縻(きび)府羈縻州をおいて支配し、馬や食料を備えた郵駅をおいて使者の往来の便を確保した。一方で西方に目を向けると東トルキスタンにはオアシス国家と、ハミ地方にはソグド人やゼンゼンの植民都市が形成されておりインド=ヨーロッパ系言語の住民が占めていた。それらの諸国はすべてトルコ族の間接支配をうけていた。唐が東突厥を滅ぼすと西域情勢は唐に傾き、ソグド人国家も唐に来降した。648年に安西四鎮を設置してトルコ勢力排除を完了した。天山以北に西突厥がいたが617年頃に即位した統葉護可汗の時に大発展した。玄奘に安全保障を与えたのはこの人物である。西突厥は一旦は唐に属したが太宗の死去の651年にトルコ系所属が統合して唐に反旗を翻し、唐支配が瓦解した。しかし唐は討伐軍を派遣し6年かけて西突厥を敗北させた。この戦勝に功績のあった西突厥王族を可汗として冊立し、太宗時代以上に西域支配を安定させた。7世紀後半以降は北上してきたチベット帝国の勢力も加わり、唐とチベット、トルコ所属が三すくみになって争っていく。筆者は唐の太宗までが遊牧国家に似た武力国家であり唐が世界帝国であった時期とする。

 第四章「唐代文化の西域趣味」では胡姫を中心とした文化について説明する。唐代は胡風・胡俗が大流行した時代であり、それゆえに国際的であったとされる。胡服・胡帽だけでなく、胡食・胡楽・胡粧さえも歓迎された。ここで言われる「胡」は前漢までは匈奴を指し、五胡十六国時代では匈奴・鮮卑・ 羯 ・ 氐 ・ 羌の遊牧民を指し、後漢時代からはソグド人を始めとする西域人を含むようになり、隋唐時代にはオアシス都市の人々を指すのが優勢になる。場合によっては突厥・ウイグルを指すこともある。次に胡を含む言葉を取り上げる。胡桃や胡瓜、胡麻に加えて、胡椒、胡食、胡服について分析する。胡姫と呼ばれるダンサーに金持ちが通う様を唄った詩を取り上げる。胡姫は従来ではペルシア系の女性と思われていたが、ソグド人の墓から胡姫をモチーフにした石製葬具が発掘されており、ソグド人であると変わってきている。この胡姫が踊ったとされる小さな円の絨毯の上で回りながら踊る胡旋舞や跳躍する胡騰舞の様子や詩を紹介し、これらの胡姫たちのパトロンであった貴族や玄宗が作った梨園などの国家的な機関の説明が続く。

 第五章「奴隷売買文章を読む」では、、筆者がウルムチの博物館で女奴隷売買契約文章を見つけたところから始まり、様々な困難を乗り越え1989年の出版に至り、その後様々なところで参照される文章となった。内容は売主はサマルカンドのソグド人、買主は漢人の仏教僧侶、トルキスタン生まれの女奴隷をいくらで買うというものである。それより100年以上前の漢語で書かれた契約書もあるが、それらもソグド人が売主である。ソグド語の文章の中には「彼女を好きなように打ったり、酷使したり、縛ったり、売り飛ばしたり、人質としたり、贈り物として与えるなり、何でもしたいようにしてよい」という文があるが、同じ時期のバクトリア語の契約書の中にも似たような文章があることが発見された。
 ここから奴隷の説明が始まるが、基本的には奴隷は主人の所有物であったが以前は精密機械であり、生産奴隷、家内奴隷、軍事奴隷に分類される。国によるが男性の場合には主人の部下や代理人として重要な地位を占めるものもいたり、女性は貴族や富豪の家内奴隷の場合には主人の性交渉もさせられる悲惨さはあるが一般の女性よりも裕福な暮らしをしたものもいた。後漢時代でも賄賂として馬や奴隷が使われていたことや、胡姫などは私奴隷であったと筆者は推測する。唐代の人民の身分は戸籍を持つ良民と持たない賎民に別れていた。さらに賎民は上層と下層があり、下層は官と私に別れていた。官賎民は犯罪者や戦争の捕虜などであり、私賎民は奴婢であった。良民の売買は禁止されていたが実際にはあり、賎民を良民として放つことは善行とされていたり自身で蓄財して良民となることもあり、唐代の良賎の身分は固定的なものではなかった。
 また奴隷市場の存在を示すトゥルファン出土の漢文文書や敦煌文章でも人身売買が行われた例がある。良馬は現代の高級車に匹敵するが、そのくらいの値段で現在の精巧なロボットとも言える奴隷が売買された。それらは口馬行と呼ばれる店舗で売買され、口とは奴隷のことであった。唐前半の安定期では普通の普通の馬<普通の奴隷<名馬<高級奴隷のような値づけだったという研究がある。馬を持つことができるのは王侯・貴族・官僚・富豪などに限られていて、突厥馬などの外来馬は今で言えば高級外車とも言える。一般庶民はロバを使っており国内馬にも手が届かなかった。
 唐代の胡姫・胡児の売買は遠距離間で行われたので近代アメリカの奴隷貿易のケースに似ている。ソグド人が唐帝国内を奴婢を連れて旅行していたことは兼ねてから指摘されていて、これらは商品であった可能性がでてきている。また大量のソグド姓を持つ奴婢が一つの家で同居生活したような資料もあり、奴婢の寄宿舎のようなものであったと考えられている。シルクロードでは絹馬交易だけでなく絹奴交易も行われていたと説を紹介している。

 第6章「突厥の復興」では、、、、630年に滅ぼされた東突厥は679年に旧東突厥の王族を擁立し復興のために反乱を起こした。周辺の突厥集団も呼応し一時は唐を圧倒するが唐は30万の勢力を投入し翌年に鎮圧された。また同じ年にソグド系突厥集団は六胡州に置かれる。旧東突厥は翌年また反乱を起こし鎮圧されるも682年の反乱は成功しイルテリシュをリーダーに東突厥第二帝国を復興させる。一方でソグド集団は721~722年に反乱を起こすが失敗し独立できなかった。突厥第二帝国は漠南の山陰山脈地方に本拠地を置いたが、漠北にも勢力を拡大し、漠北に勢力を移した。この突厥復興に大きく寄与した第二のリーダーであるトニュククは突厥として初めて碑文を残す。碑文によるとイルテリシュとトニュククが蜂起した勢力はわずか700人で2/3が騎馬、残りは徒歩だった。こうして唐の羈縻支配体制は崩壊するが突厥にとっては630年以降の50年間のタブガチという異民族による支配は屈辱の時代として記憶される。次のカプガン可汗が即位して中国の武州革命の時期で則天武后に対して中国侵略と和睦を繰り返した。696年には中国に残っていた突厥降戸の変換と単干都府の割譲と、その地での農耕のための種子と農具を要求し、則天武后は憤激したものの6州と農具を与えた。またカプガン可汗は中国に婚姻を求めたのに対し、則天武后は自分の一族を派遣して彼にアプガン可汗の娘を娶らせようとしたが、アプガン可汗は唐の王族の李氏ではないと激怒し、華北各地に入寇させて大量の漢人男女を略奪した。これは内モンゴルの可耕地に従事させるためだと思われている。706年以降では突厥は北方・西方経営に忙殺され、南方の漠南に隙が出て唐の張仁愿が黄河大屈曲部に受降城をもうけると形勢が逆転した。一方の突厥は西方にいる旧西突厥系や他のトルコ系の部族や唐支配下の東部天山北麓への遠征など兵を出し、国家は拡大していた。アプガン可汗の次に即位したビルゲ可汗は南の唐とは宥和政策をとり東西に勢力をふりむけ、唐とトルコ族が南北を分け合い、草原の道の支配権はトルコ族に戻る。この頃のソグド人資料はあまりない。そこで唐の玄宗期に大反乱を起こした安禄山の生い立ちに関する資料にあたると、716年にカプガン可汗がなくなると多数の突厥人・ソグド人・ソグド系突厥人が党に亡命してきたことがわかり、その中に安禄山やその養父がいたことがわかる。また安一族の中で唐に使える胡将軍がいたことが注目される。701年には突厥軍がオルドスに進軍し六胡州を経略したことからソグド人・ソグド系突厥人が唐から突厥に移動したとみられる。
 ここで25歳で夭折した突厥可汗の王女の墓碑銘を紹介する。カプガン可汗の死後、その娘は唐に亡命した。唐はビルゲ可汗を包囲攻撃しようとするが失敗して敗退する。そしてビルゲ可汗は唐に公主降嫁を求めてきたが唐側は選定に苦慮し、後宮にいるカプガン可汗の娘を唐の公主にしたてた。しかし嫁入り準備をしていたが何の前触れもなく死去してしまう。筆者は王女が自分の父を殺した一家の宿敵に嫁ぐことを憂いで自殺したのではと想像する。

 第7章「ウイグルの登場と安史の乱」では、、、ビルゲ可汗の没後、突厥第二帝国は急速に衰える。742年にはバスミル・カルルク・ウイグルの三者連合がユーラシアの東半分の覇者であった。744年にはバスミルを撃破し、745年にはウイグルが漠北を100年間を支配する。シネウス碑文によればセレンゲ河畔にソグド人と漢人を駆使してバイバリク城を築いたとある。古代ウイグルが果たした歴史的役割は安史の乱の鎮圧し唐を延命させたこととマニ教の国教化だ。家畜の解体を常とする放牧民族が殺生を戒めるマニ教に改宗したかは謎である。またソグド人商人はウイグルと結びついて絹馬交易を行なっていたが、状況を考えるとソグド人とマニ教が結びついていた影がみられる。牟羽可汗は強い抵抗を押し切って改宗を進めたが、ソグドネットワークの利用という経済的・政治的な理由があったように思われ、779年にクーデターによって殺される。第七代懐信可汗のときにマニ教を名実ともに国境にしマニ教徒ソグド人を優遇した。
 安史の乱の安禄山は10代で突厥から亡命し、山西地方の安貞節の元に腰を落ち着け、六種類の弦を操り、国際商業市場の仲介者になり、軍事にも通じて武人としても成長していった。張守珪に抜擢され契丹・奚討伐で活躍したことで彼の養子となり武人として出世して玄宗や楊貴妃の恩寵を受ける。755年安禄山は玄宗の側近にある奸臣楊国忠を除くことを目的として兵を挙げる。親衛隊8000騎を中心として10万から15万の大軍を率いて河北地方を南に降り洛陽を陥れた。756年玄宗は蜀(四川)に、皇太子は郭子儀の本拠地であった霊武へ向かい粛宗として即位する。粛宗はウイグルに支援を求めるためにモンゴリアに敦煌群王承寀やトルコ系・ソグド系の武人を派遣する。オルホン河畔にある首都オルドバリ区で会見が実現すると第二可汗である磨延啜 は喜んで承寀に自分の妹を娶らせる。安史勢力は突厥・同羅・僕骨車5000騎を率い、長安より北方へ進軍し、唐の支配下で河曲にいた九姓府・六胡州らの勢力数万と合流し、粛宗のいる霊武を襲わんとした。郭子儀は、可汗の磨延啜自身が率いてきたウイグル本軍を陰山から黄河流域への出口に当たる呼延谷出迎え、これと合流して安史勢力を退け、河曲を平定した。757年に安禄山は実子の安慶緒や部下によって暗殺された。安禄山の盟友である史思明は独立分離し范陽(北京)に帰還した。粛宗は鳳翔まで南進しさらに派遣された葉護に率いられたウイグル軍を加え15万に膨れ上がり、広平王を総帥とし鳳翔を出発した。唐の郭子儀軍やウイグル軍によって都市を奪還しついに洛陽まで奪回した。粛宗は葉護を労い司空の位を与え、金銀器皿を下賜し、毎年絹二万匹を支給することを約束した。758年ウイングルの使者一行が長安に来て、公主降嫁を要求した。粛宗は幼少であった実の王女を寧國公主に封じて降嫁させた。759年史思明は安慶緒を殺し大燕皇帝として即位する。同年ウイグルの磨延啜可汗が急逝すると、長男葉護は罪で殺されていたので、末子の移地健が第三可汗として即位する。史思明は洛陽に入城し、再び東西対立する政権が誕生した。しかし史思明は長男の史朝義に変わって妾腹の子・史朝清を溺愛し貢献者にしようとしたため長男の史朝義の部下が史思明を捉えて幽閉し、761年には史朝義が即位した。762年に玄宗が死去した10日後に粛宗が崩御し代宗が即位する。ウイグルの牟羽可汗は唐の君主の崩御に乗じて10万の兵を率いて南進する。同じ頃、代宗は史朝義を打倒するためにウイグル軍を要請する使者・劉清潭を派遣していた。劉清潭はゴビ砂漠に入る前に牟羽可汗と遭遇し、思いとどまるように説得するもうまくいかず、妻の実夫である僕固懐恩が説得し再び当側に着く。ウイグル軍と僕固懐恩の軍が共に戦い、ついに洛陽を奪還する。763年に追い詰められた史朝義は自殺し、安史の乱が落ち着く。牟羽可汗はそのままモンゴリアに戻る。これらの経緯はオルホン河畔に残されたカラバルガスン碑文に断片的に残されている。この碑文はウイグル語・ソグド語・漢文で書かれており、シルクロード東部でのソグド語の重要性を示している。この碑文では牟羽可汗の方が磨延啜より大きく取り上げているが、それはマニ教との関わりが深かったからだと分析する。
 安史の乱は唐帝国に大きな影響を及ぼし、安史の乱の前は自力で軍事力を調達する武力国家であったが、安史の乱の後では経済力で平和を維持する国家になったという研究もある。筆者は安史の乱を10世紀の中央ユーラシア型国家優勢時代の先駆けとなった現象と捉え、安史の乱の時代にはまだ安定的な征服王朝が構築される要素である文字などが整備されていなかったことを安史王朝が維持できなかった理由として挙げている。

 第八章「ソグド=ネットワークの変質」では、、唐の初期までのソグド人と、太宗高宗時代のソグド人では中国での扱いが変わってきているという研究がある。かつては中国内に大人数で住もうとも外国人であったが、唐がソグディアナを羈縻支配し外国人ではなく興胡という地位を与えた。これにより道途でさまざまな公的なサービスを受けることができた。牟羽可汗とソグド人の分析が続く。
 次に、五人のホル人の報告を書き写したという敦煌出土のペリオ=チベット語文章1283番の更新版の全訳とその分析が続く。中に出てくる安禄山に見出された張忠志は762年に支配下にあった五州をもって唐に帰順した。唐の後半は張忠志のような節度使に半独立国家に割拠されるようになる。このホル人の報告はシルクロード東部から唐本土を除いた全地域になり、ホル王国・ホル人の情報網の広がりが分かる。そして筆者はこのホル人とはソグド人であるとしている。
 シルクロードではソグド人が高額貨幣として金銀に加えて絹織物が使われていたことが漢文文書から明らかになっている。780年になると納税には銅銭が使われていたものの、遠距離を運ぶ必要がある場合には軽貨と呼ばれていた絹織物が使われていた。絹馬交易の研究では突厥・ウイグルにとって絹織物が重要なものであったとされている。この絹織物をさらに中央アジア・西アジア・東ローマに送っていたと考えられる。しかし筆者は唐に売られた馬に比べて対価として流入した絹が多すぎると感じていたが、輸出の中に大量の奴隷があったとしたら納得できるという。またソグドの胡旋舞を学んでサロンで気に入られた武延秀の逸話にもあるように、突厥宮廷の文化もいけていたと言える。またウイグルのソグド商人は絹馬交易を担いウイグルマネーで唐本土の金融資本を支配した。

 終章「唐帝国のたそがれ」では、、、筆者は中央アジアの大勢を決した関ヶ原の戦いは八世紀末のウイグルとチベットで行われた北庭争奪戦と考える。八世紀を通じて中央ユーラシアの真ん中にある中央アジアの覇権を争ってきたのは、東の唐帝国、南のチベット帝国、西のイスラム帝国、そして北のトルコ帝国(途中からはウイグル帝国)の四者である。西のイスラム帝国にはパミール声の余力がなく、東の唐は安史の乱で西域支配の手を緩めざるを得ない。残ったのは北のウイグルと南のチベットである。ウイグルは安史の乱以降に唐とは友好的だったのに対して、チベットは敵対的だった。チベットは一時的には北庭を襲撃しウイグルをモンゴリアまで退却せさるが、最終的にはウイグルが勝利し、唐が退場した中央アジア東部を南北に分け合う。
 821年ごろに唐とチベットが講和条約を結んだことはよく知られている。安史の乱後に唐とウイグルは密接な関係にあったので、ウイグルとチベットが講和を結んでいれば三国が会盟を結んでいれば大きな出来事なので筆者はその証拠を探していた。ペリオ文章の断片とサンクトペテルブルグにある敦煌文書の断片がぴたりと接合し、三国会盟の証拠になり、チベットの国境線まで判明した。ゴビ砂漠が三国の国境となっている。また関連してゴビ=アルタイ東南部のセブレイにカラバルガスン碑文があり、ウイグル語・ソグド語・漢語で書かれているが、筆者はこれを三国会盟をウイグルで記念したものと解釈している。漢王朝でも明朝でもゴビ砂漠は国境であり、国境でなかったのはモンゴル帝国・元朝・清朝だけである。
 ウイグルは830年代の終わりに自然災害と内訌につづき、キルギスの侵攻を許して崩壊する。西に向かったウイグル人たちは東部天山山脈に落ち着き、840年代にチベット帝国が内部瓦解し河西回廊から撤退すると、ウイグル族は南進し甘州ウイグル王国を建てる。ここから中央アジアのトルキスタン化が始まったとする。一方でソグド人はソグディアナがアッバース朝の支配下になりイスラム化してくるとソグド人の宗教的文化的な独自性が失われていった。西部天山の北麗には11世紀までソグド人集団が確認されているが、彼らはトルコ語を話しトルコ服をきていた。シルクロード東部のソグド人は西ウイグル王国、甘州ウイグル王国などの中で商業経済を支えるものや武人として生き残っていった。ソグド文字はそのままウイグル文字となり、ウイグル文字がモンゴル文字となって、モンゴル文字が改良され満州文字となっている。

 「あとがき」では、筆者は文明の発展の中で中央ユーラシアの騎馬遊牧民の重要性を確認し、西洋中心主義も中華主義思想も不要とする。また「世界史」に値するのは14世紀初頭の「集史」でありイスラム圏で生まれている。日本は明治維新以降に西洋中心史観をそのまま需要した。一方で明治体制への復古を願う刻主義者などは極端に日本民族と日本文化の純粋性を美化する方向にはしっているという。『民族も文化も元も全ては長い人類史の中で互いに混じり合いながら生成発展してきたものであって、純粋という名の排他的思想に学問的根拠は微塵もないと認識すること、これこそが人類の未来を切り開く道である」と筆者は信じているという。また世界史の教科書が肥大化しすぎているので西洋史を大幅に削減して、近隣の挑戦・北アジア・東南アジアの歴史と遊牧騎馬民族の動向についても記述をふやしてはどうかと提言する。

気になった点

 途中にゴビ砂漠がなくなっていた時期があったとあったが、そこのところを詳しく知りたいと思った。ゴビ砂漠が国境になっていたというのであれば、そのような地形の変化は国家の関係に影響すると感じた。
 言葉には興味があるので胡服についてや、洋服の起源・発展などは興味深かった。麺が小麦というのは知っていたが、餅については知らなかった。しかし、なぜ日本ではあれが餅(モチ)なのか。店舗の並びを”行”とよび、それが銀行の行になっているというのも知らなかった。
 ソグド人については奴隷貿易があったのは衝撃的だった。ソグド人がそれで儲けていたというのであれば納得できる。
 遊牧騎馬民族などの軍事国家は国を維持するために他国への進攻を続けなければならず、兵を休められず生産性が低いというのは興味深かった。国の結束が弱ければ弱いほど他国への侵攻を続けなければならないのは理解できる。

最後に

 序章から作者の思いが爆発したような書籍で楽しかった。何か上品な他人事な典型的な本よりも新しい視点を積極的に提案しているので刺激が多かった。冗長な部分もあるのでちょっと長く感じたりするかもしれませんが、中央アジアの歴史や脱西洋中心主義に興味がある人にもおすすめです!

ロシア・ロマノフ王朝の大地(興亡の世界史 14)

 そろそろロシアについて読んでみても良いかと読み始めた。キエフ公国のあたりから現代の最近の歴史まで網羅できたのは非常に有益だった。

本の構成

 序章では、1550年頃のモスクワ公国から植民政策を通して領土を拡大した歴史、ピョートル大帝によるヨーロッパ化など大きな流れをさらう。第一章「中世ロシア」では、ノルマン人によるキエフ王国の建立からリューク朝による統一までのロマノフ王朝以前の歴史をさらう。
 第二章「ロマノフ王朝の誕生」からは民主的なミハイルと専制的なアレクセイの時代を説明する。第三章「ピョートル大帝の革命」ではピョートルの時代のヨーロッパ化をさらう。第四章「女帝の世紀」ではエカチェリーナ時代の地方政治の整備などを主に語る。第五章「ツァーリたちの試練」ではナポレオンの進軍からクリミア戦争の敗北までをさらう。第六章「近代化のジレンマ」では、リベラルな思想を持ち農奴解放を行ったアレクサンドル二世の治世を取り上げる。第七章「拡大する植民地帝国」では中央アジア・極東への帝国の拡大を見ていく。第八章「戦争、革命、そして帝政の最期」ではニコライ二世が日露戦争・第一次世界大戦を経てロマノフ王朝の終焉に向かう様子を描く。
 第九章「王朝なき帝国」ではロマノフ朝の後のレーニンからゴルバチョフまでを解説する。つづく「結びに変えて」ではいくつかの作者がポイントをさらう。

第一章「中世ロシア」

 ノルマン人の移動により8〜9世紀ごろにキエフ国家をたてコンスタンティノープルと通商条約を結び交易して栄えたところから始まる。ノルマン人は少数派でスラブ人と同化した。キエフ太公ウラジミールはビザンツ帝国のバシライオス二世に反乱鎮圧を要請され、交換に妹アンナを妻にすることを同意されたが、その際にキリスト教への改宗をした。15の公国に分裂したキエフ国家は12世紀後半には事実上解体した。その中で交易で栄えた共和国のノヴゴロドが力をつけた。
 13世紀前半に東方のタタール人の攻撃に合い、略奪と殺戮により徹底的に荒廃させられる。信仰の自由を認められたが人頭税を始め厳しい税を課される。240年のモンゴル人のロシアの支配は団結を促したものと肯定的に捉える研究家がいるもののキエフの人口は数百世帯まで減少したなど都市を荒廃させたため文化的に200年も後退したと見積もられている。
 その後、地の利もあったモスクワ公国が勃興する。クリコーヴォの戦いでキプチャク・ハン国を敗走させた後、イヴァン三世はノヴゴロドに勝ちロシアを統一しツァーリを名乗る。国を失ったビザンツ皇帝の姪ソフィアを妻にし、正教ロシアがビザンツの遺産を引き継いだともされ、コンスタンチノープルからの技術者の流入や文化的にもイタリアとの交流も活発化した。次のイヴァン四世は専制を志向した特殊な皇帝だったがカザン・ハン国を制服し、タタール人貴族たちを従属させた。しかしイヴァン四世の子は世継ぎを残さないままなくなりリューリク朝は途絶えた。

第二章「ロマノフ王朝の誕生」

 リューリク朝断絶による混乱から始まり、1612年ゼムスキー・ソボールという全国会議が開かれ波乱があったもののミハイル・ロマノフが選出される。戦乱と混乱の時代には国民の支持が必要でゼムスキー・ソボールは毎年開催された。ポーランドとの和解が成立しミハイルの父フィラレートが帰国するとゼムスキー・ソボールは開催されなくなる。新軍が結成され西部の国境の町を取り戻そうとポーランドと戦闘になるがその中でフィラレートは命を落とし戦いにも敗北する。敗北の直接の原因がタタール人の侵入との知らせにより士族が戦線を離脱したことだった。これによりロシアの万里の長城であるベルゴロド線が20年かけて建設された。ミハイルがなくなり子のアレクセイが後を継ぐ。すぐに税制改革に反対した国民の一揆により改革を主導していた寵臣モロゾフの更迭を余儀なくされる。同時に1648年にゼムスキー・ソボールが開催され都市と農村の再編を促した。農民は移転の自由があったが士族には不利なものだったため、士族は移転の自由の禁止や不法な移転を取り締まりを認めさせ最終的には農奴が成立した。この農民問題が解決されたことと、士族の役割の変化と、都市民の中の富裕層が生まれ、ゼムスキー・ソボールも開催されなくなった。17世紀後半の軍政改革により士族的は地方をまとめる騎兵軍から将校になることで地方との関係が薄れ、地方はモスクワから派遣される地方長官による統治に置き換わった。貴族会議は残っていたものの人数が増し形式化し、アレクセイは専制君主として国を治める。
 ロシアが正教の正当性をコンスタンティノープルから引き継ぐという重圧からキリスト教の形式を正すことになって行ったが、土着の宗教形式を弾圧した徹底的なものだった。ある修道院が蜂起して軍と戦闘が行われた。また古い儀式を守り集団自決をした地方もあった。地方ではこの強引なキリスト教化に加えて地方長官の不正も重なり、1670年にコサックを主体としたラージン軍の反乱が起こるが政府軍に倒される。

第三章「ピョートル大帝の革命」

 1676年にアレクセイが亡くなるとアレクセイが再婚したナルイシュキナ家の子供として生まれたピョートルは後継者争いに巻き込まれるが、正妻の息子フョードルが亡くなり正妻の娘ソフィアをおいやり最終的に実権を手にする。軍事に興味があったピョートルは一度は失敗したものの1696年にオスマンの要塞アゾフを落とすことに成功する。1697年から250人を連れて大使節団をヨーロッパに送り出す。ただしピョートル自身もコッソリと入っていた。アムステルダムで船大工として働き、ロンドンに移動し造船所やその他博物館などを見学したり買い物をしたりして、ウイーンを訪れ、一揆の知らせを受け帰国する。その後、北方同盟で対スウェーデンの準備を整え宣戦布告するものの若いカール12世の奇襲を受け初戦で大敗北を喫した。カールはポーランドに向かい7年を費やし傀儡政権を建ててからロシアとウクライナで対峙する。7年の準備期間も幸いし、ウクライナの裏切りがあったものの首尾よく処理し、スウェーデン軍を全滅させる。そこでバルト三国を手に入れる。ピョートルの時代は戦争の連続だったために村単位の徴兵制や貴族の軍人化、人頭税の導入などを中央集権化が進められる。また強引なサンクト・ペテルブルグの建設、参議会の発足、教会の従属化、バルト海貿易ルートの開拓などが行われた。世継ぎがない状態で世を去る。ピョートルの時代はロシア人にもっとも誇りを感じる時代という。

第四章「女帝の世紀」

 まずピョートルの側近のメーンシコフが擁立された皇帝を介して支配するようになるが反発を買いすぐに終わる。名門貴族ドルゴルキーも同様に支配を試みるが最終的には失敗する。アンナの次にエリザヴェータが実権を握るが、跡継ぎとしてピョートル大帝の孫のペーターがエカテリーナ二世を妻とする。ピョートルはドイツ贔屓でクーデターで失脚させられ、皇后が帝位につく。コサックの反乱があり何とか鎮圧したが、再来を防ぐために地方の強化を急ぎ、県や群を増やして発展を促した。ポーランド分割に関わり、その後クリミアを併合し、クリミア視察旅行にも出かける。エカテリーナ二世のあとは息子のパーヴェルが継ぐが反発を買いクーデターで殺害される。
 第五章「ツァーリたちの試練」ではナポレオンの進軍からクリミア戦争の敗北までをさらう。

第五章「ツァーリたちの試練」

 即位したパーヴェルの子であるアレクサンドル1世は初期はリベラルな思想を持っていたが、統治の基盤を固めるために保守的な思想を採用する。ナポレオンとの戦いでは初戦では破れ、プロイセンとのイエナの会戦で対照しプロイセンと和平を結ぶ。ナポレオンのモスクワ遠征に備える中、1812年に両軍は動き始める。短期決戦を望んだナポレオンに対してロシアは後退し一度対決するが再度後退する。ついにモスクワからも後退し住民も避難する。ナポレオンが入ったモスクワが蛻の殻で、その後数カ所で火の手が上がり五日間燃え続け3分の2が灰になり、ナポレオン軍は焼け野原への野営を余儀なくされる。さらにゲリラ的な攻撃により今度はナポレオン軍が退却を余儀なくされるが、飢えと冬将軍で兵を減らす。最後はべレンジ川渡りでロシア軍の攻撃によりナポレオン軍は壊滅する。ナポレオン失脚の立役者となったアレクサンドルはウィーン会議をリードしてポーランド王国とフィンランド大公国を統治下においた。
 そのアレクサンドルは1825年の初めに48歳の若さで亡くなる。子の後継者がいなかったため生前に継承者を指名していたが本人に知らされていなかったために混乱があったが、結局は指名どおりにニコライが継承する。立憲制を導入させようという若い貴族将校たちは目論んで近衛軍に皇帝への誓いを拒否させようとしたがうまく行かず、軍が蜂起軍に一斉射撃をして56人が亡くなることとなり特別法廷では121名がシベリア流刑になった。ニコライは即位とともに検閲など治安の強化や専制肯定の教育・国歌の整備も進める。インテリの間ではロシアの後進性の優位という議論からビザンツからロシアが受け入れたものは愛と自由と真理で結ばれた共同体の精神だという議論につながる。そこからゲルツェンは共同体的社会主義の思想を見出す。
 貴族に不信感を強めたニコライは官僚の拡充を図り人数としても5倍以上になる。またピョートル時代からの伝統のヨーロッパの文化と技術に明るい人の東洋を進めた結果、30〜50%がドイツバルト系が占めた。経済方面ではモスクワでの起業や鉄道の導入が行われた。1843年から6年をかけてモスクワーペテルブルグの650キロが完成し、その効用が明らかになり1861年には1500キロに拡張している。農奴問題。対外政策についてはポーランドの憲法と軍を廃止し、ハンガリー革命を鎮圧したり強硬に対応した。エカテリーナ2世の時代に獲得した黒海の通商権を巡って、イギリスとフランスと対立し、クリミア戦争に発展する。ロシアの帆船は最新の蒸気船にはかなわず、一年近くの攻防で50万人を失い敗北する。ニコライはその最中に亡くなる。またこの戦争では徴兵制の他に国民義勇軍を募集したが応募した者の家族が開放されるという噂が広まり志願が増えて領主や地方当局との衝突が各地で発生した。ニコライの時代に進捗がなかった農奴問題が、クリミア戦争で顕著化した。

第六章「近代化のジレンマ」

 リベラルな思想を持ったアレクサンドル二世は農奴解放は待ったなしと1861年に農奴解放令に著名した。人格については無償、土地に着いたは有償とされて、結婚、裁判、売買などについて自由が与えられた一方、土地については国がお金を貸し付け領主から土地を買い、農民は国に対し分割ローンで返済する形となった。貸付は村単位で行われたので制限はあったが10年後には農民の3分の2は土地を買い戻した。一方で領主である地方貴族からは反感を買った。その他では情報公開、軍制改革、地方自治制度の整備を進めた。一方でポーランドの民族解放の蜂起には強硬に対応した。その最中1866年に銃撃されたこともあり、リベラル路線から治安への強化にシフトしていく。
 地方自治組織ゼムストヴォでは教育、道路、保険、医療などで成果を上げて、医者や教師の数は増えた。ゼムストヴォで活動する人々には聖職者が多かった。1874年夏頃に技師・医者・教師などインテリたちが農村に入って革命と社会主義について宣伝を初めたが、農民には理解されず政府には厳しく取り締まり1500人の逮捕者が出て失敗に終わった。二年後にこの運動を引き継いだ若者は自らをナロードニキと名乗った。この組織は三年後に分裂したが、皇帝暗殺によって政治革命を目指す組織「人民の意志」はが生まれた。またこの運動には女性が15%ほど占めていて女子の高等教育が西欧よりも先進的であったという背景がある。1870年代は異常な社会的緊張につつまれていたが、78年には市長狙撃事件がおこる。皇帝暗殺も79年から二年間で7回も暗殺未遂事件に遭遇したが、1802年には遂に「人民の意志」党員に狙撃され絶命する。彼の子供アレクサンドル三世が即位して事態の収集にあたる。人民の意志の関係者6人が公開処刑されるとともに大学の自治の制限や高等女学院の閉鎖などの措置がとられ検閲も強化された。そんな中でアレクサンドル三世の暗殺未遂事件がおき10月革命の指導者レーニンの兄であった。皇帝暗殺に関与した組織にユダヤ人がいたと公表したあとからユダヤ人攻撃が増えた。ウクライナでは血なまぐさい殺戮を引き起こした。また地方を活性化したゼムストヴォも制限され地方司政官により社会の引き締めが図られた。
 農奴解放は専有農民を使っていた工場では一時的な停滞をもたらした。1860年代後半から工業化が本格化し、鉄道は65年に3800キロだった鉄道が83年には24000キロに達した。また65年に3万人だった民間労働者は四半世紀語には25万人に達した。また農奴解放は出稼ぎ農民を生んだが、彼らは都市に住まずに夏には農村に帰った。その動きは家族制度に影響を与え、家父長制の大家族から核家族に変化していった。モスクワは商人の街だったが敬虔な正教徒でだったので寄進や寄付などを積極的に行った。貴族は資本家的経営者になれたものは一握りで中小の貴族は雇用などで細々と農業を続けた。また貴族から軍人や官僚になる特別な近道も失い都市で専門職業人として暮らした。

第七章「拡大する植民地帝国」

 中央アジア・極東への帝国の拡大はカフカス地方への拡大から始まる。エカテリーナ二世のころからクリミアに続いてカフカース地方への侵略を進めるがイスラム教徒の山岳民族の抵抗が終わることはなかった。1834年に宗教指導者になったシャミーリのもとで25年に渡る抵抗が続いたが1857年の総攻撃によって遂にカフカースを平定する。アゼルバイジャンはイランと二分するがバクーで石油産業が栄える。
 中央アジアにも進出し1847年にカザフスタンを併合する。1881年には中央アジアを制圧した。中央アジアの綿花栽培が鉄道と結びつき発展し、アメリカの南北戦争で暴騰した綿花の供給源になった。シベリアにも植民が進み10人に9人だった先住民が1905年には10人に9人がロシア人になった。イルクーツクの商人は中国との貿易で茶の文化をロシアに広めた。1891年にはシベリア鉄道が着工され1901年にはバイカル湖を船で渡るがモスクワーウラジオストークを13人で結ぶ鉄道が完成する。政府は移民を促すために海路を利用すると共に税金の免除や移住費を負担するなど積極的に対応した。

第八章「戦争、革命、そして帝政の最期」

 ロマノフ王朝最後の皇帝であるニコライ二世は1890年に世界各国をめぐる旅に出たが日本で刀で襲われ日本での予定を打ち切り、シベリアを数カ所回り帰途につく。その後にアレクサンドル三世が倒れると皇帝を継ぎ、すぐに結婚する。経済政策では1890年代はヴィッテを頼るが、工業化は農業の衰退を促し、町に浮浪者や乞食が溢れたことからヴィッテを解任する。そんな中でマルクス主義が広まっていくが、1903年のユダヤ人が殺害され家が破壊された事件もあり、帝政に反感を持ったユダヤ人がマルクス主義の活動に参加するようになる。
 日露戦争が開始される中で教会司祭に率いられた嘆願書をもったデモ隊が武力で鎮圧される血の日曜日事件が起こり、ニコライ二世のイメージが悪化する。日露戦争は日本海海戦で敗北し戦況が決定的になった。講和はヴィッテが主導しサハリンの半分を割譲するという小さな損害に抑えた。反専制の流れは止まらず国会開設のために選挙が行われるが皇帝側は第二の議会を作って対抗する。農業の生産性低下に対応するためにストルイピンは一揆の主体である共同体の解体と、自主性を引き出す個人農業の推進のために1906年に個人の私有化を認める土地改革が行われた。彼は5年後に銃撃され死ぬ。
 ニコライ二世の即位以来、ロシアの近代化は進んでおり穀物輸出も世界一で工業生産も4倍になり、文化的にも各方面で逸材が活躍した。そんな中でロマノフ朝300年記念祭が行われたが、1914年には第一次大戦が始まりニコライ二世は総動員令を発するが物資の不足になやませれる。一般市民にも大きな影響が出て配給制が敷かれる。1917年に女性労働者の労働に対するデモが反皇帝デモになり再び軍による鎮圧を試みて150人以上が倒れるがこれが労働者代表による臨時政府樹立の革命につながりニコライが退位しロマノフ王朝が終わる。

第九章「王朝なき帝国」

 47際のレーニンが帰国して土地を国有化して農民に委ねるボリシェヴィキ革命を始める。土地に関する布告が出て10月革命が達成された。穀物供給を拒否した共同体の富裕農民たちには労働者舞台を差し向けて強制的に挑発をした。列強の軍事干渉も始まる。内戦になりつつある。新政府首脳は皇帝一家を銃殺した。赤軍が志願制で結成されたがドイツ軍の信仰が始まると徴兵制になり、54万人に達する。レーニン自身も標的になり反革命の白軍もモスクワに迫り農民軍でかろうじて防いでいた。1920年末には内戦は落ち着いた。一方で国外脱出する文化的エリートは150万人に達した。またこの混乱の中でも共産主義の理想が追求され、計画経済も開始される。ソヴィエトが連邦化して参加する国を増やした。
 レーニンは参加国の平等を重視したが後を継いだスターリンは中央集権的な体制を目指した。工業製品輸入のために穀物輸出を増やしたが、国内の穀物は少なく穀物危機がおきた。これを解決するために集団農場により農民を拘束し生産性をあげようとした。また大学も教育を制限され、教会の文化も破壊され修道院や聖堂も閉鎖された。政治面では反対派や反対派と目される人が4万人以上も半数が逮捕され銃殺され大テロルと呼ばれる事態を引き起こした。1941年にナチスドイツがレニングラードを包囲したが二年間耐え、最期にはベルリンに入りナチスドイツを破ったが、2700万人という大量の犠牲を出した。
 1952年にスターリンが倒れると、ウクライナ生まれのフルシチョフは頭角を表し、スターリン批判を行い大テロルで標的となった人の名誉回復を行った。1957年には人工衛星の打ち上げ成功で世界を驚かすできこともあったが、アメリカには生活水準は及ばず生産力で追いつこうと七カ年計画を策定した。穀物生産もあげようとするがうまく行かず1964年に職を解かれる。ブレジネフが第一書記になっても穀物生産はアメリカの三分の一で、人々の無気力・無関心やアルコール依存による労働規律の低下などが顕著化してきた。1980年にオリンピックが華々しく開催されたものの事態は好転せず1982年にブレジネフが亡くなる。短命政権が続いた後に1985年にコルホーズ農家で生まれたゴルバチョフが党書記長となり立て直しと情報公開を推進する。1986年にはチェルノブイリの原発事故が起こる。社会の民主化を進め1988年には宗教政策を改め、過去の政権の宗教政策の誤りを認めて千年祭を境に信仰が公然となった。経済が混乱し貧しいままの15の共和国ではゴルバチョフ批判があり独立の動きがあった。1991年クーデター騒ぎがあり12月にはゴルバチョフは職を辞してソヴィエト連邦は終了した。

「結びに変えて」ではいくつかのポイントをさらう。まず社会と民衆によりフォーカスして書いたこと、ロシアの拡大政策により200もの民族がいた多民族国家であったこと、国家の中枢には非ロシア人が少なくなかったこと、植民政策により人口圧がなく農業革命が生まれなかったこと。筆者は、欧米と比べてタタールのくびきによる都市の衰退によって都市文化が育まれなかったと推測する。

気になったポイント

 まず確認できたのはロシアのもとのキエフ王国が交易を得意とするノルマン人由来だったことである。しかしタタール人のキエフ攻撃でその文化は失われてしまったのかもしれない。そしてタタール人を防ぐためのベルゴロド線はロシアの万里の長城と書かれていたが、騎馬民族対策で東西に壁があったのは興味深い。

 士族統治からの中央政府の地方長官による統治へ転換が描かれているのは興味深かった。どの帝国でも同じような地方vs中央のような構図があり、中央集権化していくのは難しいと感じた。

 ノーベル賞のノーベル家はダイナマイトを開発した一人の人がいたのだと思っていたが、ロシアの油田事業に参入して技術的に様々な新しい方法を取り入れつつ利益を上げていたのを初めて知った。科学的技術的な視点と商業的な才覚をもった類稀なる一族だったのだと気づく。

 フランス革命も大変な犠牲を出したが、ロシアの共産主義革命も死亡者数だけでなく文化的破壊も含めて甚大な犠牲を出したのだとわかる。ピョートル大帝の革命の方は、明治維新と似ているように感じたが、犠牲がすくなく済んでいる。革命というよりも維新だったのかという印象。

最後に

 ロシアというと全体主義的で領土を拡大していった帝国というイメージがあったが、リベラルな思想をもった皇帝などによってリベラル方面にも改革がなされていた時期があったことなどを知ることができて有益だった。タタール人の攻撃の教訓から防衛を軸としている国家運営というのは理解できるが、それだけで植民国家のすべてを理由づけるのも少し無理があるとは思う。とはいえ中国もロシアも長城を築くほどタタール人に悩まされていたのは同じである。中国もどちらかというと全体主義的だが内部が他民族でないのはロシアとは違うと感じた。

 まだまだ理解ができないことがたくさんあるがロシアについて初期から最近までの歴史を皇帝だけでなく民衆などの反動なども含めてある程度みることができたのは貴重だった。ロシアについて理解したい人にはおすすめの一冊です!

太古からの啓示

2022 Netflix

 古代遺跡に惹かれて見始めたが面白くて2,3日で見てしまった。

構成

 失われた文明の謎を追うグラハム・ハンコックがその証拠をもと求めて世界をかけめぐる。インドネシアのグヌンパダン遺跡、メキシコのチョルーラの丘、マルタ島の巨石神殿、ビキニ沖の海底の石造物、トルコの巨石のギョベクリテペ遺跡、アメリカのバティポイントの遺跡、トルコのデンリユグの地下都市、北米大陸の洪水の跡。古代の遺跡たちをまわり、闇に包まれたその遺跡が意味するものを解明しようとする。

気になったポイント – 大洪水

 神話を重視している姿勢に共感したが、各地に伝わる神話にある共通性に注目していたのは興味深かった。ノアの方舟で有名な洪水の伝承はいろいろな場所にあると聞いたことがあり、実際に洪水の跡も発掘されていると聞いていたが、それがヤンガードリアス期の海面上昇と結びつけているのが真実味があった。

最後に

 ムー大陸があったとは思わないし、古代に現代を超える文明があったのは簡単に信じられないが、とにかく古代には現代人が思っているよりも高度で長い歴史に支えられた文明があったと思う。神話や古代遺跡が好きな人にはおすすめです!

還魂2

Netflix 2022

パート2が出たということで主人公は変わっていても期待して見た。1ほどではなかったが1から出演している俳優たちが盛り上げてなかなか面白かった。

登場人物

 チャン・ウクはチャン家のお坊ちゃん。3年前にムドクに殺されたが、体に宿っていた氷の石の力で蘇った。氷の石の力で還魂人を退治するため、「怪物を捕まえる怪物」と恐れられている。チン・ブヨンはムドク(ブヨン、ナクス)の身体を湖から引き上げ、ブヨンの真気を使って治療した。容姿はナクスに変わっており、過去の記憶がなくなっている。

物語の始まり

 シーズン1から3年。氷の石の気を得たことで強大な力を得て周囲から腫れ物のように扱われいる。孤独の中で、その力を還魂人の討伐に捧げている。ある日、還魂人を追って鎮妖院に侵入するが、そこでチン・ブヨンに巡り合う。ウクは自分がしたいことのためにブヨンと結婚することを画策する。

テーマ

 運命の赤い糸のようなものだろうか。容姿が変わっても魂が同じであれば、お互いに気づいて惹かれ合っていく。

最後に

 シーズン2ということもあって、いろいろな制約があって、物語も若干強引なところもあったが、ハッピーエンドで終わってスッキリとした。シーズン1を見た人は2も見てスッキリするのがおすすめです!

今際の国のアリス 1/2

Netflix 2022

 流行っているので見てみた。スリリングで理不尽なゲームに巻き込まれていく様子を描いた謎解きや心理描写、アクションなどで魅せるシリーズ。最後にはすべての謎が溶解してスッキリと終わって良かった。

登場人物

 山崎賢人が演じるアリス。ゲームばかりしていて、勉強もスポーツもぱっとしない。同じくあぶれているカルベやチョータと遊んでいる落ちこぼれの少年。土屋太鳳が演じるうさぎは唯一敬愛していた同じクライマーである父・重憲が不祥事に巻き込まれ自殺した後は世の中を信じられずに孤独に過ごしている。

物語の始まり

 アリスはカルベやチョータと渋谷にいて羽目を外し警察に追われてトイレに逃げ込む。トイレから出てみる渋谷には人が一人もいなくなっており、電気も消えている。スマホも使えず夜を迎えるが、前触れ無くビルの巨大テレビに「GAMEを開始します」という文字とともにアナウンスが始まり、3人は雑居ビルに入っていく。そこでゲームで負けると死が待っているデスゲームとしるが、アリスの機転でゲームを何とかクリアーしていく。

テーマ

 死と隣り合わせの人間の浅ましさやその反対の友情、たくましさなどを描いている。様々な代償を負っても生にしがみついて行く。そんな姿が人間の本来の姿なのではないかと思った。

最後に

 絶望的な状況を描いているように見えて、一方に人間のたくましさや人々の交流などの希望も描いているように感じた。明日への力を得たい人にはおすすめです!

女の子だから、男の子だからをなくす本

2021 エトセトラブックス ユン・ウンジュ

 娘がいると女性の制約は気にあるので子供にも読んでもらいたくて買ってみた。男女にまつわる社会規範について可視化して変えていこうという韓国の書籍の翻訳。

本の構成

 子どもたちに向けて書かれている。「女の子たちへ」「男の子たちへ」で社会規範などについて、その後、「男女の職業」や「家の中の男女の役割分担」「性的指向」についても広く触れられている。子供にも分かりやすいように漫画のような特徴的な絵柄の挿絵が多く書かれている。

ポイント

 基本的なスタンスとして社会を変えていこう!という姿勢がある。変だと感じたことには「なんで」と聞くとか、「いいえ」「イヤです」と言うとか、「ケンカをおそれないで」、などのNOというメッセージを伝えていこうと呼びかけている。

 この姿勢は非常に難しいけど大切だと思う。やはり社会に対してNOと言わないと何も変わらないからだ。問題はオフィシャルにケンカしようとすると、訴訟・裁判ということになるがお金がかかる。そうすると強いものが勝ってしまう。結局、弱いものが戦うこと、そして勝つことには大きな障害がある。

最後に

 家庭内の男女の役割分担にも触れていた。まず、女性ばかりやっているようであれば、男性もやろうと呼びかけていた。私の意見としては、もし仕事を理由にやらない男性がいたら、「仕事ができる人は家事もうまくできる」と伝えたい。自分(男)の方が得意であるし時間的に可能なので、自分が家事や育児、学校関係も回している。それに加えて、最近思うのは家庭内の仕事も実は誰にでもできる簡単なものではないのでは?ということで、男女ともに家事が難しいと感じる人もいると思う。
 もう一つ気になるのは韓国では2015年から新しいフェミニズム運動が始まっていると書いてあったが、それと同期したように韓国の出生率が下がっていることである。サムスンでは子供の大学費用の100%が補助される制度があると聞いたが、それでも経済的なことやその他の様々な原因はあるとは思う。私は男女の平等・公平や社会的な抑圧の減少を切に願っているが、サピエンス全史で提示されているように個人が安寧に生きるのと、人類の発展に相反する関係があるかもしれない。とはいえ韓国の女性の地位向上が著しいとも感じない。最近も韓国にも行って人とも話したが、何か人々が抑圧されているようにも感じる。一方で台湾は抑圧が低く高齢の女性がミニスカートで闊歩していて社会規範の緩さは低いように感じる。とはいえ、ここも出生率は下がっている。占いで結婚の相手や時期なども決める社会だからかもしれないが。
 女の子が仮面ライダーを見て、男の子がプリキュアを見たら、男女の恋愛は成立するのか?と言っていた人がいたが、社会規範が男子->女子、女子->男子のプロトコルを作っている可能性もある。個人的にはこういうのは嫌いだが、このプロトコルを失うとコミュニケーションが高度になるのではないかとも感じる。

 娘も読んでくれたのでくれたので、特に女の子にはおすすめかも。いろいろ考えるキッカケにもあるし、子供と話し合うキッカケにもなると思う。名誉男性を目指している人や、20代を気持ち悪いオジサンに仕えつつ乗り切って、マッチョな男を捕まえて結婚して、家事育児を手伝わない旦那に文句を言いながら、楽しく暮らしたい人は読まなくて良いかもしれません。

美男堂の事件手帳

2022 韓国KBS 2TV 高在賢、尹羅英

 Netflixで予告編での主人公の不思議なおどりのようなものが気になってみてみた。サスペンスでもありコメディでもある刑事ドラマ。

登場人物・世界観

 ナム・ハンジュンは元プロファイラーで現在は美男堂で男の巫女をしている。妹のナム・ヘジュンはハッカーとして美男堂を手伝っている。また友人のコン・スチョルも腕っぷしの強さで美男堂を支えている。時に警察とぶつかることもあり、鬼と恐れられている警察庁の女性刑事ハン・ジェヒと対立する。チェ検事はハン・ジェヒにほのかな思いを寄せつつ、ハン刑事を検察の側からサポートする。

物語の始まり

 ナム・ハンジュンは美男堂でVIP顧客を持っている。会社の経営者などだ。彼らの問題を解決してあげて、荒稼ぎをしているが、ある時に法に触れるような問題が発生する。警察沙汰になる問題を何とか法の目をかいくぐって解決してあげるが、警察としては犯罪者を擁護しているように見えて、事件を追うハン刑事のチームと対立する。そうして話が進むにつれて、なぜナム・ハンジュンが男の巫女をしているかが明らかになってくる。

テーマ

 あえて描かれているテーマを挙げるならば、犯人が仕掛けている罠にかかりつつも何度も立ち上がっていく粘り強さ、困難にも立ち向かう勇気などだとは思う。ただ犯人を追っているのが警察ではないので、”正義を貫くには不正も厭わない”というのが面白いストーリー展開を生んでいる。他にも「正義とは何か?」「人は自分の性質を乗り越えられるのか?」などの本質的な疑問がストーリーに織り込まれている。

最後に

 ”現代ドラマ”なので、随所に唐突に出てくる”広告”は正直、鼻につく。突然、唐揚げのチェーン店にいたりとか。あと気になるのはナム・ハンジュンを演じたソ・イングクの演技。男の巫女としての演技は素晴らしかったが、恋愛の演技は何か淡泊さがある気がする。うーん、気のせいか、、女性ファンはどう思うのだろう。。とはいえ、物語としては殺人が出てくるのでエグさもあるが、状況が二転三転して手に汗を握る展開は楽しめた。

 多少のご都合主義もありコメディ要素もあるが、全体としては深みのあるサイコ・サスペンス・スリラーだと思う。ドキドキしたい人にはおすすめです!

オスマン帝国: 皇帝たちの夜明け

2020 Karga Seven STXエンターテインメント エムレ・シャーヒン

 コンスタンティノープルの陥落を読んで、オスマン帝国に興味が興味が湧いてきたところにたまたまNetflixで”オスマン帝国”の文字があったので、見てみた。まさにメフメト2世によるコンスタンティノープルの陥落を描いている全6回のドキュドラマ(ドキュメント劇)になっている。先に読んだ塩野先生の書籍の復習にもちょうどよかったので興味深く鑑賞できた。

登場人物・世界観

 主人公はオスマン帝国の20代のメフメト2世。まさにコンスタンティノープルを落とそうというとこと。その周りにはキリスト教国からメフメト2世の父親ムラト2世のもとに嫁いだ継母のマラ。子供の時から知る大宰相ハリルパシャは首相という立場だが、ともに権力を持つものとして緊張関係がある。またビザンツ帝国側では傭兵隊長のジュスティニアーニがスルタンに対峙して奮闘する様子が描かれる。メフメト2世 vs ジュスティニアーニという構図である。

物語の始まり・構成

 メフメト2世が父親の死を知らせる連絡を受けるところから物語が始まる。スルタンの座を確かにしようと、急いで首都に駆けつける。ハリルパシャは我が王よと迎え入れる。このシリーズはドラマ仕立てだが、途中にオスマン帝国関係の書籍の著者などによる解説が入り、より理由や細かい背景を説明してもらえるようになっている。またドラマは幼少時代に一度父親が引退してスルタンを継いだ時代に戻ったりもする。そうしてコンスタンティノープルでの戦闘がはじめって行く。

気になったポイント ー 裏切り

 印象的だったのは、ジェノバ商人vsヴェネチア商人という構図だけでなく、相互の内通者がいて、それぞれの動機で戦闘を終わらせように努力しているだけでなく、自分の利益のために両方に取り入っている商人がいて自体を複雑にしていたということである。ドラマの中ではどちらかというとスルタン側に有利になっていたように感じた。

最後に

 戦闘の全体像や金角湾などの位置関係などがCGで表現されていて理解しやすかった。ただドキュメントではあるがドラマということもあり、メフメト2世が瀕死状態なったり、ジュスティニアーニと至近距離で対峙したりするような過剰演出もあったが、エンターテイメントなので仕方がないとする。映像によって歴史上の人物が生き生きと動くことで印象が深まったのは間違いない。

 トルコで制作されたもののためかオスマン帝国側から描かれているので、オスマン帝国に興味がある人にはうってつけで、実力のあるメフメト2世にも魅了されること間違いなしである。

ロードス島攻防記

1991 新潮社 塩野 七生

 22歳のメフメト2世が1453年のコンスタンティノープルを陥落させてがその後、1480年にメシヒ・パシャにロードス島を攻めさせるが、聖ヨハネ騎士団は守り切った。その70年後、1522年夏である。今度はメフメト2世のひ孫である28歳のスレイマン1世が直々にロードス島を訪れ、戦線を指揮する。様々な小説などになっているロードス島での攻防を小説仕立てにした歴史書籍である。

物語の始まり

 物語は20歳になったばかりで騎士団に入団しているジェノバ出身のアントニオから始まる。彼は古代にはバラの花咲く島として名付けられた楽園のようなロードス島に降り立つ。そこでローマの大貴族である25歳のオルシーニに出会い、交流を深める。それから騎士団の構成や歴史などが語られる。騎士団は徐々にトルコとの戦いに備えていくが、トルコ軍もロードス島に近づいてくる。戦いが始まると、オルシーニはギリシアの下層民に身をやつし敵陣に潜入などをする活躍をする。

 塩野七生の海戦三部作とされている一作目のコンスタンティノープルの陥落では、物語が複数の登場人物の視点から語られるので、ややゴチャゴチャしている感があったのが、本作ではアントニオ一人が全面に出ているのでスッキリと分かりやすかった。

気になったポイント – 技術者魂

 ヴェネチア共和国陸軍の技術将校だったマルティネンゴは1516年になって、クレタ島の城塞総監督としてクレタや周辺地域の城塞の強化と整備に力を注いでいた。そのマルティネンゴをロードス島の聖ヨハネ騎士団の騎士が訪ねて、ロードス島の城塞監督になってもらいたいという騎士団長の意向を伝えた。トルコの攻撃が迫りくる中、東地中海一に堅牢な城塞を強化するという仕事に魅力を見出したマルティネンゴは、国の任務を離れ脱出してロードス島に赴く。
 戦いが始まると、防御側はトルコの大砲を無力化する城壁で応戦するが、攻撃側もそれを打ち破る作を繰り出してくる。また攻撃側は坑道を正確に掘り進める技術を発達させ、地下から攻撃を進めていく。防衛側は城壁の下で爆発する地雷に悩まされるが、マルティネンゴはそれを検知する技術も導入する。しかし戦いが激化する中で、彼は右目を負傷する。それでも病室から城塞監督として戦いに参加し続ける。

 当たり前だが技術というのは目的を達するために使う道具であり、技術以前にマルティネンゴがその目的のために身を粉にして戦う姿は心を打たれた。城塞については、塩野氏の城壁や稜堡(りょうほう)の細かい説明が続いて、コンスタンティノープルと比べてどのような理由で何が違うかというのが解説されていてわかりやすかった。一方で地図が少なくて、どの場所をどの国の騎士団が防衛しているという記述は少し分かりにくかったが、読み終わったあとに巻末に地図があることに気付いた。

気になったポイント – トルコの経済力

 和平の途中でトルコ陣営に赴いたオルシーニは4ヶ月感でトルコ側の4万4千人の戦死者があり、ほぼ同数の病死者と事故死者がいることを知る。砲弾に至っては8万5先発も使っていうことが分かる。

 昔は人というものが今のようにたくさんいなかったと読んだが、現代にしたって万人単位の死者には異常を感じる。普通の戦いであれば大敗だと思う。途方も無い数の人々を動員して死んでも国が崩壊しないというのはトルコの経済力と中央集権的な力であったのか。最終的にはたくさんの人やモノを動員した物量作戦によってトルコは勝てたのを確認できた。トルコというのは近代の消耗戦を戦っていたのかもしれない。

最後に

 最後に聖ヨハネ騎士団のその後について書かれている。現在は独立国であり、現在の77代目の団長の下で、医療活動を続けている。その活動は世界中の赤字に変形十字のしるしを付けた病院や研究所に見ることができ、現代の”騎士たち”が今も活躍しているということである。赤十字の創設などもきっとこのような活動に影響を受けているだろうし、この騎士団が過去のものではなく、今にも繋がっている歴史であるというのには心を打たれた。

 ロードス島の戦いについて知りたい人はもちろん、今も世界で活躍している騎士団の歴史を知りたいという方にもおすすめである。

ドント・ルック・アップ (原題:Don’t Look Up)

2021 Netflix アダム・マッケイ 

 Netflixで少し気になってはいたが見ていなかった。そうしているうちに毎週買っているビッグイシューの中でジェニファー・ローレンスがこの映画に関連したインタビューを受けていた。内容は映画よりキャリアについて多く語られている印象だったが、映画にも興味が湧いてきた。
 地球に隕石が落ちるというパニック映画では典型的な設定ではあるが、少し違う視点で描いているブラックコメディである。

登場人物・世界観

 ケイト・ディビアスキーはミシガン州立大学の天文学博士課程に在籍している。担当教授はランドール・ミンディ博士。NASA側では惑星防衛調整室長テディ・オグルソープ博士がサポートしてくれる。政府側の人間としてジェニー・オルレアン大統領とその息子の補佐官。世論を作るメディア側としては朝の番組の司会のジャック・ブレマーとブリー・エヴァンティーが登場する。

物語の始まり

 ある日、ケイトは偶然に木星の付近の彗星を見つける。報告を受けたランドール博士が軌道計算してみると、6ヶ月後に地球に衝突する計算になる。NASAに相談するとそこでも同じ計算結果になり、彗星の半径を聞いたテディ博士は言葉を失う。地球に甚大な被害をもたらすからだ。
 すぐに大統領に相談するもまったく興味を示さない。メディアにリークして朝の番組に出るも芸能人の恋愛ゴシップと同列の扱いを受ける。この危機的状況をどうやって世間に伝えるか頭を抱える。

テーマ

 大統領は支持率。メディアは視聴率。経営者は利益。すべて地球あってのことであるが、地球や国民の危機にはまったく興味がない。ケイト自身の母親さえ「お父さんも私も、彗星で雇用を創出するという計画に賛成なの」と娘の言うことを聞かない。

 「見上げてはいけない」というタイトルは「真実を見てはいけない」という意味であろう。支持率、視聴率、利益を拡大するのに悲しいかな真実は必要ない。誰もが情報を発信できる時代だが、情報過多で溺れそうな人たちは権威が発する情報に縋るのかもしれない。人は見たいものしか見ない。私自身も例のワクチンかどうか分からないものにリスクがあることを、薬を開発していた英語論文を読める父に説明しても届かず、悲しい思いもした。

最後に

 この物語は他人事ではない。ワクチンの薬害騒動は正にこれだが、それ以外でも沢山ある。政治家は選挙に通ること、メディアはスポンサー企業の言いなり、経営者は利益・利回り。この政治家が献金を沢山してくれる企業のいいなりだとすると、結局は企業経営者や投資家の言いなりで日本は動いている。世界的にそうなのかもしれない。誰も国民の危機など気にしていないのだ。地球がなくなってもお構いなしの人と同じように、日本の人口が恐ろしいスピードで減っていって、日本がなくなってもお構いなしなのである。すべて日本あったのことであっても。

 ブラック・コメディで後味は良くないが、この愚かな世界を少し客観的に見ることができる映画である。政府のやっていることは的を得ていないと感じている人にはおすすめかも。