明治維新とは何だったのかー世界史から考える

第1章 幕末の動乱を生み出したもの

明治維新と呼ばれるようになったのは明治13−14年ごろ。それまで御一新など。大統領からペリーへの命令は親書を伝えること。イギリス、フランス、オランダに遅れていたので、石炭の供給地にしたかった。日本の開港が不成功の場合には沖縄を取ろうとしていた。列強に勝つために太平洋航路を開く必要があった。シーパワー、通商がメインだった。各国の経済規模の推移。ペリーは日本を研究していた。
 当時の首相=阿部正弘によって幕府が開国に舵をきることを決めた。安政の改革で開明を登用した。35歳くらいで開国ー>富国ー>強兵の道筋を作った。ペリーが来たとき吉田松陰は24歳。勝麟太郎は22歳で佐久間象山のもとで学んだ。中国では林則徐が学んだ文献を魏源に託し、魏源はそれをもとに「海国図志」を著した。
 徳川は石高で管理するために交易を禁止し鎖国した。徳川250年の末期には日本人の平均身長や体重は小さくなる(★食事??)経済もマイナス成長だった。朱子学は徳川のため?士農工商もそこまででなかった?
 幕府は開国に踏み切った途端に財政破綻する。薩英戦争で幕府は多額の賠償金を払う。ドルと金銀の交換比率も間違っていた。薩英戦争と下関戦争で長州薩摩も開国しかないとなった。武器商人たちはとんでもなく儲かった。絹や生糸の密貿易で薩摩や長州はお金をためていた。長州は身分制度もやめて軍も近代的にした。イギリスは金払いの良い薩摩に付いた。

第2章 「御一新」は革命か内乱か

 光格天皇の時に変化があり、幕府はお伺いをたてろということになった。帝ー>天皇としたのも光格天皇。朝廷の孝明天皇はキリシタン嫌いで、岩倉具視や三条実美が焚き付け、幕府は開国を勝手に決めたということになった。けれど京都にも黒船が来て朝廷も開国になった。明治維新は関ケ原の恨みを晴らした暴力革命。慶応元年などに新政府の方針を考えるべきだった。坂本龍馬の船中八策もそう。
 イカサマの錦の御旗を三条実美が作って、賊軍になった慶喜は戦意を失って戦線離脱。会津藩は防衛戦争だった。坂本龍馬は文久二年から慶応三年までの5年間で超人的な動きをした。他の人のアイデアをまとめて実行した。
 長岡藩は5万石を盗まれて、米百俵で教育に力を注いだ。会津藩は全部取られて斗南藩に行き、死んでいく。朝敵の藩名の県は一つもない。軍隊でも著しい差別があった。日清日露戦争での大正はほぼ薩長。華族になった数も違う。
 大久保利通が企画した岩倉使節団は大きい。攘夷を改めるために必要だった。残ったのは三条実美や山縣有朋のようなレベルの低い人間。西郷隆盛が引っ張り出される。西郷隆盛は毛沢東に似ている。漢詩も作るし、農業主義、永久革命家。西郷さんは軍人。リアリストの大久保利通とは違う。手段を選ばず殿様に取り入ったりして存在感を高める。西郷が去った後は首を切って小さい政府を支配した。著者はリアリストが仕切ったのは良かったと思っている。
 維新三傑の後をついだ伊藤博文と山縣有朋はこぶり。伊藤博文は大久保利通が考えたことを実行した。山縣は人格がなかったので、とんでもない軍事政権を作ってしまった。吉田松陰は膨張主義。
 幕府側の阿部正弘が描いたものを、大久保利通が引き継いだ、という構図。

第3章 幕末の志士たちは何を見ていたのか

 勝海舟は一番はじめの開明的な人、日本人になった人。西郷隆盛と会話をしつつ、イギリスとも交渉した。西郷と対立しないように征韓論からは逃げていた。西郷さんが好きで碑もつくった。勝海舟は江戸の町を燃やす覚悟で交渉に臨んだ。
 西郷さんは毛沢東と違うのは権力欲がなかった。廃藩置県では反乱が予想されたが、実際には起こらなかった。
 井伊直弼の暗殺と226事件は歴史を大きく動かすテロだった。
 大久保利通は破壊と創造、両方した。保守主義、漸進主義、鄧小平のような人。暗殺されて日本が軍事国家になった。開国・富国・強兵というグランドデザインを作った。斬進主義。
 桂小五郎は西洋かぶれで発言をどんどんした。政治力や策謀はなかった。性急なところがあったが人は殺さなかった。
 岩倉具視は策謀家。公家、幕府がにくかった。
 伊藤博文と山縣有朋。伊藤博文は大久保のビジョンを実現に動いた。仕事はできるが蛋白で伊藤派はいなかった。山縣は可愛い可愛いと取り込むが裏切ると首にする。下級武士だった。伊藤博文も下級武士だったが、それよりも低い。吉田松陰は伊藤と山縣の権威付けに利用された。門下の優秀な人は死んで伊藤と山縣だけが残った。吉田松陰は山縣を丸太ん棒と評した。
 板垣退助は後に語った。会津の白虎隊はよく戦ったが農民は逃げるばかりだった。それは農民を軽視した政治が悪かったのだと。
 アーネスト・サトウは西南戦争のときには薩摩にいて薩摩が勝つと思っていた。各地にいる西郷の信奉者たちが加勢すると思った。政府軍の勝因は武器のレベルと通信網。大久保は嫌い。正当な政府ができる前は個人プレイでいろいろできた。

第4章 「近代日本」とは何か

岩倉使節団はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツで、GDPの大きい順に訪れた。海外から先生も呼んだが東大教授の6倍の給与を払っていた。なので留学して学ばせる方式に切り替えた。和製漢語を作って教育を加速化した。
山縣は西南戦争呉にシビリアン・コントロールを外した。天皇直下の組織で政府は関係ない。プロイセンの影響。自分で作った参謀本部長に自らがなった。
 大日本帝国は薩長がつくって薩長が滅ぼした。乃木希典、児島源太郎、東郷平八郎も薩摩。近代国家になったのは薩長のおかげではある。日露戦争の講和でアメリカを逆恨みした。日本人は開国を捨てて、攘夷になった。
 薩長が始めた太平洋戦争を賊軍出身者が終わらせた。終戦時の総理大臣の鈴木貫太郎は徳川譜代の名門の久世家。海軍大臣の米内光政は盛岡藩士。第一次大戦あたりから日本のリーダーは世界をみなくなった(★ほんとうか??)原子爆弾のウランの同位体の分離方法も分からなかった。対中戦争の講和の相手として国民党を相手にしないとしてしまった。講和相手がいないと戦争が終わらせられない。
 幕府側で開国を志向した阿部正弘や勝海舟はもっと評価されて良い。阿部正弘が作ったグランドデザインを大久保利通が引き継いだ。阿部正弘が一番の功労者で、大久保利通が二番。
 

大人の学び直し 正しく読む古事記

2019 春燈社 武光誠

序章 古事記の始まり

712年に完成した。それまで神話を伝える「旧辞」や、和歌を伝える「旧辞」があった。「帝紀」もあった。古事記は上巻、中巻、下巻に分かれており、上巻は5つに分かれる。1神々の出現、2国生み、3高天原、4出雲の神々、5日向三代だ。スサノオノミコトと後継者のオオクニヌシに多くが割かれている。中巻は神武天皇から応神天皇までになっている。下巻は仁徳天皇から推古天皇まで、物語は顕宗天皇で終わる。仁賢天皇以下は系譜だけになっている。
 やまと言葉でかかれている。日本書紀との違いとしては、卑弥呼を神功皇后だと考えていた。神武天皇の時代以降は特定の日付があるが、推古天皇以前はあやしい。

第一章 国の創世神話

造化三神から始まる。神世七代に続く。日本書紀は神世七代から始まっている。(★島を作った話は島ができたという時期)
 秩父神社:知知夫彦命の祖先が八意思兼命。(八代神社:渡来系武士)高御魂神社:高御産巣日神の子孫と称した津島下県氏。

国生み。日本書紀にはヒルコは三歳になるまで足が立たなかったとある。大八洲を生む。淡路島では国魂と呼ばれた土地の守り神がいる。淡路市に古代のイザナギ信仰の流れを引くイザナギ神宮がある。天地の間を行き来する天鳥船神などを生んだ。鉱山の神。日本書紀には迦具土神が埴山姫と結婚してワクムスヒという食物の神を生む伝承がある。(★イザナギは淡路に関係するか)

黄泉の国訪問。帰ると、イザナギは筑紫の日向の橘小門のあわきはらで禊祓いを行った。宮崎市の阿波岐原町にある江田神社をその地とする説もある。様々な神が生まれる。綿津見三神は阿曇氏が祭る神で、住吉三神は津守氏の氏神。外交や貿易に従事した航海民を束ねる豪族。
 伊射奈岐神社@淡路市、花窟神社@和歌山県:イザナミの御陵。伊射奈美神社:海神信仰。西宮神社:ヒルコが西宮の海岸に戻ってきた。龍田大社:イザナミ・イザナギの子シナツヒコトトミコトという風の神=国御柱大神。

高天原。イザナミはアマテラスに首飾りを授けた。高天原にスサノオが向かう。イザナギは近江の多賀の地にお隠れになった。天ヶ原でスサノオは、福岡県宗像市の宗像神社で海の神として祀られている三柱の女神を生んだ。また皇室の祖先の五柱も生んだ。スサノオは事故を犯しアマテラスは天の岩屋にこもる。スサノオは献上品を差し出した。(★スサノオと高天原の関係)

ヤマタノオロチ。スサノオは出雲で進行された土着の神。くしなだひめを妻に。須賀ですがすがしいので和歌。2世紀ごろに出雲全域の豪族連合がつくられ、荒神谷遺跡で豪族たちの共同の祭事が行われるようになったと見られる。主導したのは神門氏の先祖。荒神谷遺跡に近い飯石郡須佐郷に須佐神社がある。現在の宮司家はクシナダヒメの親の足名椎の神の子孫だと称している。出雲氏は須賀で勢力を拡大し、意宇郡と呼ばれた島根県松江まで勢力を広めた。松江市の八雲町に熊野大社という有力な神社がある。出雲市は四世紀半ば大和朝廷と結んで神門氏を従えた。(★スサノオは出雲関連)
 祟神天皇の祭祀場を伊勢に移したと日本書紀。月読神社@長崎県壱岐市:壱岐は月神の子孫としていた。八坂神社@京都:スサノオ、クシナダヒメ。氷川神社@さいたま市:五代孝昭天皇に始まる、スサノオ、稲田姫。

オオクニヌシの迫害。いなばのうさぎ。オオクニヌシが焼けた岩を受け止めたのは赤猪岩神社@米子駅の近く。焼け死んだオオクニヌシに神産巣日神は女神を送る。紀伊の国の大屋毘古神を頼る。根の国のスサノオも訪れ、スセリヒメを娶る。出雲の伊賦夜坂を下って根の国に行くと信じされていた。オオクニヌシは因幡の八上比売や、越(北陸)に行って、沼河比売に求婚、中のよい夫婦になった。沼川郷(新潟県糸魚川市)の女神で奴奈川神社がある、ヒスイが取れた場所。この他に宗像大社の多紀理毘売命、建物の神、神屋盾比売命、鳥を取る職業の人々が進行する鳥取神の三柱が妻。オオクニヌシは少名毘古那神の助けを得て、国作りをした。日本書紀の異伝の中に少名毘古那神は高皇産巣日神の子神とするものがあるし、伊予国風土記にはスクナヒコが温泉に入って生き返った話が記されている。
 大国主神を祭る中心神社は出雲大社だが、中世以降に各地に分社ができた。少名毘古那神は対を成す神として人々に愛されてきた。赤猪岩神社@鳥取県南部町:大国主が赤く焼いた岩をやいてなくなった、淡島神社@和歌山市:神功皇后が帰りに難破して友ヶ島(神島)にたどり着いた。白兎神社@鳥取市:素兎が体を乾かした身干山につくられた。

 日本神話のルーツ。3つの道筋。1つめはオセアニア、インドネシア、フィリピン。2つ目は江南から中国の長江下流域から九州にいたる道。3つ目は中央アジアの草原地帯から中国東北地方を経由して朝鮮半島から日本に来る道。南方系神話は知らない海の向こうから神々が訪れる物語。古代の江南は南方の国々の公益の中心地として栄えていた。紀元前1世紀には江南の有力な航海民がまとまって日本に移住して同鏡を用いる祭祀などを伝えている。北方系の神話は神々が点から降りてくる。遊牧民の文化は5世紀末から日本に入ってきた。

第二章 皇室の起源

 国譲り。大国主神は大物主神の教えに従って国をよく治めた。ただ天之忍穂耳命に地上に降って日本を治める。天の浮橋からみると日本国は騒がしく、君主の命令のもとに、地方豪族が秩序だった政治をするのが望ましいととし、アマテラスは造化三神の中の高御産巣日神と会議をし、天菩比神の派遣を推薦した。四度に渡って高天原から出雲の大国主神の下に使者が送れた。出雲国風土記に天乃夫比命が意宇郡屋代郷(島根県安来市)に天降ったという伝説が記されている。彼は三年たっても連絡なし。天若日子に宝器を与えて送り込むが大国主神の娘を妻とし8年戻らず。鳴女をおくるが射殺される。剣の神の建御雷神が船を操る天鳥船神と共に出雲に向かう。この二柱は中臣氏が祭った神。二柱は出雲大社の近くの伊邪佐の浜(稲佐の浜)に降り立った。建御名方神と建御雷神が争って、諏訪に来てそこにとどまった。遷却祟神祝詞という朝廷の祝詞に、この話の原型が見られる。(★3番め、大国主神は高天原の関係)

 天孫の天降り。アマテラスが天之忍穂耳命を呼び地上を降りることを命じたが、子神の邇邇芸命に命じる。子神の母は高御産巣日神の娘の万幡豊秋津師比売命だった。つまりアマテラスの子神と高御産巣日神の子神が夫婦になって、その間に生まれた子が皇室の先祖として地上に降ったことになる。高御産巣日神は重要な神だがアマテラスと並んで国譲りの交渉を主導しており、日本書紀の異伝では高皇産霊尊の指導のもとに国造りがなされたと記すものもある。高御産巣日神を豪族たちが氏神として祭る国魂の神の上に置かれた農耕の守護神だとする説もある。古くは高御産巣日神がその子孫を地上に送る神話があったという意見もある。国魂の神の祭祀が行われた五世紀以前には産霊の神が信仰されていたと筆者は考えている。大和の大物主神を助けた産霊の神が高御産巣日神とされ、大国主の治めた出雲を守る産霊の神が神産巣日神になったと考える。王家の祭祀を担当する五氏を邇邇芸命に同行するようにいう。お供の神の多くは天の岩屋神話に見れる神であるので、天孫降臨神話とは一体のものとされる。また三種の神器の紀元にもなりアマテラスが邇邇芸命に三種の神器を授けたとしるしている。一行は猿田彦神の道案内によって高千穂の峰に降り立ったという。お供の天宇受売命に猿田毘古神まで送っていくのと、妻になるのを命じた。猿田毘古神は伊勢で古くから祭られていた神、中流豪族の宇治土公氏の先祖。宇治土公氏の下で祭祀の芸能を担当とする猿女氏によって中臣氏とつながりをもつ。猿女氏は猿田毘古神に仕える天宇受売命という巫女の神の子孫と称している。中臣氏は猿女氏の一部を大和に移住させて、神事の歌舞の担当とした。

高千穂の峰に降り立った邇邇芸命は「韓の国に向き合い、笠沙の峰(鹿児島県南さつま市)に一本の道が通じている。朝日のまっすぐに射す国で、夕日の照り輝く国である。この場所こそ最も良い土地である」。邇邇芸命は神阿多都比売(鹿児島県西部の阿多の地女神)に出会い結婚を申す今田が、石長比売とも結婚を希望するが断る。これは東南アジアに広く分布するバナナと石を選ぶバナナ型神話の変形である。
 鹿島神社@茨城県鹿嶋市:武槌大神。息栖神社@茨城県神栖市@岐神、天鳥船神。美保神社@松江市:三穂津姫命、事代主神は大国主神の最も格の高い子神。諏訪大社@諏訪市:四社、建御名方神、八坂刀売神。英彦山神宮@添田町:アマテラスの御子神。霧島神社@霧島市:邇邇芸命。猿田彦神社@伊勢市。
 三種の神器。銅鏡は紀元前1世紀後半、北九州に江南の航海民の集団が移住してきて魔除けの宝器として広めた。朝鮮半島あら銅剣。一世紀半ば頃から青銅器が国産化された。二世紀末に青銅器が量産。同時に鉄製の刀剣が輸入、鉄剣が宝器となる。大和朝廷の誕生は銅鏡と鉄剣と勾玉が祭器の中心に置かれた時代にあたった。(★時期が分かる)平安時代には賢所に安置されていたが、現在の皇居にも賢所がある。

木花開耶姫命は邇邇芸命の子供を日の中で生む。これは南方に広くみられる「火中出生説話」を元にしている。山幸彦と海幸彦の争いは南方に広く見られる「失われた釣針」の話にならった。山幸彦が瑞穂の国主となり、隼人を従わせるという内容につなげている。そのあと海神の娘の豊玉毘売が山幸彦の子を宿して地上に来て、鵜葺草葺不合命を生むが姿をみられたとして海に戻る。これも南方の伝説の異型である。豊玉毘売の妹の玉依毘売が地上にきて鵜葺草葺不合命と結婚し4人の子をもうけた。二人の姫は海神に仕える巫女であるとする。
 潮嶽神社@宮崎県日南市:海幸彦。若狭彦神社@福井県小浜市:山幸彦と豊玉姫。塩竈神社@宮崎県塩釜市:建御雷神が去った後、藍土老翁神がとどまり人に漁業や製塩を教えた。和多都美神社@対馬市:山幸彦、豊玉姫。海神の宮殿は対馬にあった。青島神社@宮崎市:玉の井という井戸で初めて山幸彦と豊玉姫が出会ったとされる。(★海神は島の豪族か?)

コラム:国造りはアマテラスを上位におくための神話。王家はかつて大物主神が大国主神の上位だったが、それを変えた。古くからある穀魂(穀霊)の降臨神話が国造りと結びつけられて天孫降臨神話がつくられた。邇邇芸命というのはもとは各地で進行されていた稲魂の神であった。高千穂は稲穂を高く積み上げたありさまであった。

神武東征:日本書紀では神武天皇の実名が彦火火出見で、邇邇芸命の子にあたる山幸彦の名前が彦火火出見尊である。古事記の中巻は伊波礼毘古命が高千穂宮で兄の五瀬命と話し合って、都とすべき地を探すために東方に行こうと決める所から始まっている。かれらはあちこちに寄港して大和に近づく。明石海峡を通る時、さ根津日子という国津神に出会い、道案内をさせた。この初代の稚根津日子は大和神社の祭祀を担当した倭氏の先祖である。倭氏の本拠地は大和朝廷を開いたとされる纏向(奈良県桜井市)のすぐ北に当たる奈良県天理市南部である。纏向遺跡から吉備(岡山県から広島県東部)特有の出土品が多く見つかっている。保久良神社の存在からみると倭氏は古くは保久良神社のある神戸市東部を治めた豪族であったと考えられる。220年ごろにそれまで何もなかったところに広さ一平方キロメートルの巨大な纏向遺跡を開いた。最初の大王と呼ぶべき人物。どのように神武東征に反映されているか不明。登美能那賀須年泥毘古という者が待ち構えていた。登美は地名。長脛彦は各地で祭られていた嵐の神を指すと言われている。五瀬命が重傷を負ったので船に戻って逃げたが、紀伊国の竈山でなくなる。
 高倉下が渡した神剣を伊波礼毘古命が手にすると熊野の悪神は退散する。この神剣は石川神社で物部氏が祭った布都御魂である。王家は三輪山の山の神である大物主神を土地の守り神として祭り始めた。大物主神は国魂と呼ばれる人々に水の恵みを授ける農耕神であった。物部氏と尾張氏の系譜を記した「先代旧事本紀」は高倉下を尾張氏の先祖としている。「高天原から降った邇芸速日命の長子を天香語山命という。彼は尾張氏の始祖で、別名を高倉下といった」(★別に降っている)この天香語山命の弟が物部氏の始祖とされた宇摩志麻遅命である。このような伝承によると建御雷神から降ろされた布都御魂は、高倉下から伊波礼毘古命に献上されたのち、高倉下の弟の宇摩志麻遅命に下げ渡されたことになる。神武東征伝説は継体天皇の時代に創作されたとされた説が有力であり、その次代は大連の大伴金村と物部アラカイが国政を動かしていた。高御産日神が夢に出て八咫烏を送ると告げている。八咫烏は葛野主殿県主という士族の祖先が見である。京都盆地の東方に本拠地を置き、賀茂大社の神職を務める賀茂氏は子孫である。葛野主殿県主は儀式の松明などの照明を担当していたために道案内の話がつくられたと考えている。
 宇陀の地は兄宇迦斯、弟宇迦斯(★発音)の兄弟が治めていたが、伊波礼毘古命を殺そうとしていた。弟宇迦斯は氷を管理する豪族。忍坂(奈良県桜井市)で八十建と呼ばれる豪族を騙し討ちする。
 邇芸速日命のみことは伊波礼毘古命に「故追いて参下り来つ」と行って従った。物部氏は「最初に王家に従い王家による日本統一を助けてきた」と主張した(★日本統一はすでにされていた、アレキサンダーか)古事記では邇芸速日命が長髄彦の妹の登美夜毘売と結婚して設けた宇摩志麻遅命が物部氏の祖先としている。
 長髄彦は嵐を起こす手長足長の神で縄文時代から祭られており、国魂の神とは土地の守り神で、稲などの作物を育てる農耕神であった。(★嵐の神:長髄彦→農耕の神:国魂→太陽の神:アマテラス)
 高千穂神社@高千穂宮町:十社大明神の祭神の三毛入野命は神武天皇の兄にあたり、常世国に渡った。(★常世国にわたった?)亀山神社@和歌山市:五瀬命を葬った。宮崎神社@宮崎市:神武天皇の孫の建磐龍命が伊波礼毘古命を祭ったのが始まり。保久良神社@神戸市:倭国造の祖である椎根津彦が青い亀に乗って近くの浜にやってきた。八咫烏神社@宇陀市:建角見命。刺田比古神社@和歌山市:戦士たちの指導官、道臣命。物部神社@島根県太田市:宇摩志麻遅命が天香山命と共に物部一族を率いて各地を平定した、美濃から越国を巡り、石見国に来た。石切劔サヤ神社@東大阪市:神武東征の後、饒速日命が祭られた。
 欠史八代とは。6世紀のはじめの時点で2代目綏靖天皇と10代祟神天皇の物語しかなかった。祟神天皇の物語は3世紀末に実在した「みまきいりひこ」という大王の事跡を下敷きにまとめられたと考えられている。5世紀の王家の人々は祟神天皇を始祖を意味する「はつくにしらすすめらみこと」と呼んでいた。しかし神武東征伝説ができたあと、神武天皇も「はつくにしらすすめらみこと」の敬称で呼ばれるようになった。2代目綏靖天皇と10代祟神天皇の7代の治世に関する記事が「旧辞」にはなかった。そのため古事記や日本書紀は開化天皇にいたる部分には物語を入れずに系譜だけを記した。

第三章 天皇と大和朝廷

五世紀までは三輪山の大物主神を自分たちの先祖神としていた。大物主神はお置けの先祖を指導者とする人間や動植物その他の霊魂の集合体だと考えられていた。必要な時に古墳に降りてくると言われていた。三輪山の登り口に拝殿が建てられて、大神神社の形ができたのは7世紀末。大和の地の守り神の「国魂の神」として信仰されていた。みまきいりひこ(祟神天皇)が三輪山の神の祭祀を始めた。(★祟神天皇が神道の始祖?)古事記は「意富多多泥古というものに私(大物主)を祭らせれば、疫病が収まる」と大物主が語る。祟神天皇は彼を探し祭らせ、伊加賀色許男命に祭りの土器をつくらせた。そして意富多多泥古の先祖の活玉依姫が大物主神の妻になる話が続く。意富多多泥古は大王の下で三輪山の祭祀を行った大神氏の先祖である。大三輪氏の祖先の女性が大物主の神となる話。これに対して日本書紀では王家の巫女が大物主の妻になる話になっていて、箸墓古墳がでてくる。箸墓古墳野跡にこの形式を真似た古墳が広がっている。これは王家が各地の豪族を組み込んでいったことを表している。

四大将軍の派遣。これは阿部氏の勢力は北陸地方や東海地方、吉備氏の協力を得て山陰地方まで及んだ。祟神天皇の子の垂仁天皇は沙本毘女を妻にしていたが、妻の兄が反乱を起こしたため、毘女と共に滅ぼされた。子供の本牟智和気王は話さなかったが、出雲を参拝して話すようになった。これは出雲の豪族が大和朝廷の支配下に入ったという史実を踏まえたものと見られる。垂仁天皇の治世に相当する330年頃から350年頃にかけて古墳が出雲の各地に広まっていることと対応している。
 豪族の始祖を祭る神社。田村神社@高松市:猿田彦大神、高倉下命を含む5柱を合わせた田村大神。大直禰子神社@桜井市:大直禰子命(意高多多泥古)、敢國神社@伊賀市:敢國津神(大彦命)。

倭健命の遠征。12代の景行天皇はおしろわけという名前を持っていた。4,5世紀には別という敬称をもっていた豪族が多く見られる。景行天皇は80人の王子をもうけて、若帯日子命、倭健命、五百木之入日子命の三人を手元に残し、あとの王子は国作りなどの地方官にした。倭健命は小碓命といい、大碓命という兄が言った。日本書紀には大碓命は蝦夷平定の将軍を言いつけたところ逃げ出したので美濃に領地を与えて王宮から追放した。これが美濃の身毛津氏と近江の守氏の祖先とある。古事記にも大碓命が美濃の宇泥須氏と牟宜都氏の祖先とする。筆者は近畿地方東辺部の近江、美濃、越前の三国に王家の子孫と称した中流氏族がいくつか見られることに注目する。4世紀はじめから有力な古墳が広まっているので、初期の大和朝廷と深い関わりをもった地域なのではと考える。
 西征。小碓命は叔母の倭比売命のもとをおとずれる。垂仁天皇の娘でアマテラスの祭祀を行ってきた。伊勢神宮は七世紀末にできる。七世紀半ばには太陽神を祭った笠縫邑に行く形だったとみられる。倭比売命は小碓命に女性の服と探検を与える。熊曾の地では除草して熊襲建の兄のそばに寄って短剣で刺し殺し、逃げ出す弟も殺す。熊曾は日向、大隅、薩摩を合わせた地域を支配した。しかしくまそなるものが存在したことを示す確かな文献はない。隼人との対立から話を創作したか。その後、出雲建と仲良くなり殺す。出雲建の和歌を読むが、日本書紀では同じ和歌を出雲氏の振根と飯入根の兄弟争いのときに読まれたものとしている。飯入根が兄の騙し討にあって命を落としので出雲たけると呼んでその死を悼んだ。
 東征。草薙剣の霊験譚として構想された。火に囲まれたところ草薙剣で助かり、手放したので伊吹山の神のたたりでなくなっている。かつては相手に対して相手が住む土地の神を祟ることによって相手に対して敬意を示した。景行天皇は息子に「東の方十二道の従わない豪族たちを説き伏せて来なさい」といっている。伊勢の倭比売命から火打ち石。尾張の美夜受比売。相模の火攻めで向火の話。房総へ船の途中で弟橘比売命が海神に身を捧げる。継体天皇は6世紀はじめにアマテラスの祭祀を始め、娘の大角豆皇女を太陽神を祭る斎宮とした。帰る途中に美夜受比売と会い夫婦になる。伊吹山で病気になり亡くなる。

 古事記では倭健命がなくなったので、弟の若帯日子が大王になり、葛城市や蘇我氏の先祖と言われる建内宿禰を大神に任命した。お時期は成務天皇が亡くなった後に倭健命の子、帯中日子が大王になったとある。仲哀天皇である。この天皇は息長帯比売命(神功皇后)を妻に迎えて、筑紫に赴いて熊曾を討とうとしたという。ここい記した成務天皇、仲哀天皇、神功皇后は7世紀末に新たに創作された人物と筆者は考えている。
 倭姫宮@伊勢市:倭姫命。焼津神社@焼津市:向火の場所。走水神社@横須賀市:日本武尊から授かった冠を御神体。橘樹神社@千葉県茂原市:弟橘比売命の櫛を葬った。
 コラム。常陸国風土記には倭武天皇を主人公にした伝承がいくつか記されている。また鹿島神宮の近くの乗浜は倭武天皇が来られたときに多くの海苔が干されているのをご覧になられた。そこで乗浜のち名ができた。

 神功皇后の三韓遠征。仲哀天皇が熊曾を討つために筑紫の香椎宮(福岡市)にいたときに皇后が神がかりになって神託を述べるが、それを疑った仲哀天皇はなくなる。改めて神託を伺うとお腹にいる皇女が統治する。三柱の住吉の神。新羅に向かいなさい。船団が津波お起こし新羅国の半分が瞬く間に海に沈んだ。新羅は戦うことなく神功皇后に降伏した。古代史の研究者の多くは37代斉明天皇という女帝をモデルに白村江の戦いを下地に構成されたのではとしている。神功皇后伝説の最も古い形は宗像三神の霊験譚であったと考えられる。4世紀なかばに大和朝廷と朝鮮半島南丹との貿易がさかんになったときに、王家による宗像三神の祭祀が始められた。対馬海峡の航路近くにある沖ノ島(福岡県宗像市)には祭事遺跡が多く見つかっている。

 神功皇后は新羅を従えて帰国した後、九州の宇美で王子を産んだ。しかし王子の二人の異母兄弟が反乱を企んでいた。反乱を鎮圧し、王子は伊奢沙和気。いざさわけは天理市の石神神宮に伝わる七支刀銘文に名前が出てきて「倭王旨に贈る」とあり。この後に宋書に賛・珍・・興・武の五人の倭王が続く。百済と国交が開始され、盛んに貿易が行われた。
 香椎宮@福岡市:仲哀天皇、神功皇后。高良大社@久留米市:高良玉垂命、筑後の国魂、武内宿禰と同一神としている。


 

新日本古代史

2021 育ほ社 田中英道

はじめに

三国志の倭人伝、魏志倭人伝の邪馬台国がやたら尊重された。卑弥呼神社は荒唐無稽。第一の神武天皇=ニギハヤヒノミコトによる第一大和国、第二の神武天皇=祟神天皇意向の第二大和国、聖徳太子による神仏習合の国の第三の大和国。西洋の中世は破壊されていて存在しない。中国も漢民族の歴史ではない。秦の始皇帝はユダヤ系。土偶は近親相姦による奇形。高天原の神々の話は日高見国の話。天孫降臨によって西に移動した。「大祓詞」に出てくる「大倭日高見国」の誕生。

第一章 日本を目指す太陽信仰と日高見国

大陸から太陽の昇る国日本に来た。東方信仰。太陽と月をシンボル化した勾玉なのでは?皇室の菊の御紋はエジプトやイスラエルでもシンボルとして使われている。菊は中国のもので日本に入ってきたのは奈良時代。本来は太陽紋だったのでは?日本は都市国家ではなく、自然とも調和していた国家。古事記、日本書紀、風土記でも高天原が扱われている。高天原が日高見国という国で縄文時代から発生している。ツクヨミノミコトはアマテラスオオミカミから命ぜられて、ウケモチノカミのところへいく。これをころしてしまうが、死体から牛、馬、蚕、稲などが生まれ、穀物の期限となった。これは日本書紀の話。
 日高見国の名前が土地に残っている。日高見国と通じる北海道の日高地方、日高見川といわれている東北の北上川がある。埼玉県の日高山、奈良県の日高山、大阪府の日高山。鹿島神社や香取神宮のそばに高天原という土地が3つも残っている。高天原には天地があり、最初にアメノミナカヌシノカミ(太陽神、最初の頭首?)、タカミムスビノカミ(高見?ムスビは統一?)、カミムスビノカミの三柱がうまれる。タカミムスビは、オモイカネノミコト、タクハタチジヒメという子供。アマテラスが天孫降臨を命じたアメノオシホミミはタクハタチジヒメと結婚し、子供がニニギノミコト。タカミムスビはニニギノミコトの外祖父、天皇家の祖父。古事記にはタカミムスビが7箇所も出てくる、勾玉は関東に多く発掘されている。

第二章 縄文文明と「神代七代」日高見国

縄文時代の遺跡は関東・東北に多い。千葉・東京には貝塚も多く、土器・土偶の出土も多い。具体的な地名が多いため縄文・弥生時代の記憶をもとにつくられた物語、歴史である。日本書紀の景行天皇の二十七年の記事に「東夷の中、日高見国あり、その国の男女、並びにかみをあげ<<みをもとうげて>>(入れ墨)、人となり、勇敢なり、これ総て蝦夷という」とある。ヤマトタケルノミコトの陸奥の戦い後の描写では、「蝦夷すでに平らぎ、日高見国より帰り、西南常陸を経て、甲斐国にいたる」と書かれている。鎌倉時代の釈日本紀には「孝徳天皇の御代つまり大化の改新の時代に、茨城に新しい行政区として信太郡が置かれたと風土記の常陸国編に残っていますが、この土地がもと日高見国と呼ばれた地域である」と解説されている。平安時代の延喜式に定められた祝詞「大祓詞」には、日本全体を示す「大倭日高見国」という言葉がある。中国の歴史書「旧唐書」には「倭国」と「日本国」とが別々に書かれている。
 日本最初の土器は一万六千五百年前で、縄目模様の特殊な土器。土器は調理器具でもあり大型なので定住した。1988年青森県の大平山元遺跡で世界最古の土器が見つかった。漆器も北海道の南茅部町で発見された。1950年三浦半島で世界最古の1万年前の貝塚も発見された。世界最古級の二万年前の墓陵が大阪府藤井寺市のはざみ山古墳。定住は日本が世界で一番はやかった?一万数千年前から栄えていた縄文文化の代表格は三内丸山遺跡。5500年前〜4500年前。
 関東地方で竪穴住居がある遺跡は65箇所。最大なものは東京都府中市の武蔵台遺跡。南関東では漁労もしていた。関東以外では北海道の函館の中野B遺跡に、縄文早期から中期と見られる五百棟以上の竪穴式住居跡。墓からは多数の土器。漁労を行う住居に即した土器、石皿。三内丸山遺跡は紀元前5100年から紀元前3800年に存続、常時600人と思われていたがそのごの調査で5000人が住んだ都市。1994年には大型建造物の存在を示す直径一メートルの6本の栗の木。
 黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大玉が日本各地で出土。交易によるもの。縄文遺跡を地図上で見ると、甲信越から関東・東北に密集。そこに道があったと考えらえる。
 紀元前5600年から紀元前4000年までは縄文中期だが、遺跡をみると東北・関東・北海道が発展していた。高天原=日高見国という国があり、中心地が来たから南へ、東北、関東、中部と変化した。常陸国地方、武蔵国地方、八ヶ岳周辺。高天原に三柱の現れ、タカミムスビ、カミムスビの二神が現れるときに<葦牙のごと燃え上がる物によりて成りし神>とあり、高天原に「葦牙(あしかび)」の存在を伝えている。葦牙は葦の芽のことで、ウマシアシカビヒコチノカミがそのことを示しているもう一つの神はトコタチノカミで、この二神が作った島々は<豊葦原の千秋の長五百秋の瑞穂の国>と言われている。葦はいずれも稲田を意味するが日本書紀では日本のことを豊葦原の国と読んでいる。
 エドワード・モースは「記紀の国生み、天孫降臨、神武東征は天皇の祖先が渡来し、先住民を征服した」という見方をしていた。司馬遼太郎も「異本列島は紀元前300年ぐらいに稲を持ったボードピープルがやってくるまで闇の中にいた」との見解を述べた。
 三柱の跡に五柱が現れ別格の天津神としている。その後にイザナギ、イザナミを含めた七神が現れた。この神世七代までが縄文早期に当たると筆者は考える。

第三章 イザナギの系譜と国譲り

縄文時代の中期から後期のはじめにかけては温暖な時代が続いていたが、後期からは日本はだんだんと寒冷化した。縄文海進で海が内陸に入り込んだ状態。寒冷化は今から三千年前から始まり、人口移動が始まった。当時の90%以上の人たちが関東、東北、北海道にいた。しかし人々は西や南、西南に移る。この時代、人口移動に伴い、島国としての日本の防御が問題になり、国生みにつながると筆者は考える。国生みは西半分だけである。東の日高見国は西の国大和国を作ったとする。大陸からの勢力に備え西の地方を防御するという。
 イザナギが同族婚をやめ、多くの別の家系と関係を持ち始めるのが縄文と弥生の変わり目。イザナギが生んだ三貴子、アマテラスは太陽、ツクヨミは月、スサノオは海。スサノオは命に従わずイザナミに会いたい。古事記ではスサノオはイザナミの鼻から生まれた。日本書紀はイザナギの手にした白銅鏡。スサノオの母はアマテラスとツクヨミの母とは異なる女性で、先住民系ではなく帰化人系なのではにか。スサノオの髪型がユダヤ人特有のみずらである。スサノオは黄泉の国に行く前にアマテラスに会おうとするが高天原を占領しに来たと思い臨戦態勢をとる。左右のみずらにかずらをつけた。みずらはユダヤ教徒たちが古代から続けている髪型である。中央アジアの仏教壁がにみずらをしている人物が描かれる。スサノオは高天原で8つの悪行をするが農耕に関するタブー。これはスサノオが遊牧民族だとする。逆剥は馬を逆さに剥ぐことだが馬のいなかった日本人にはできない。スサノオは中部・関東・東北の日高見国で悪行をしたと考える。スサノオが統治するはずだった海の国、大和国以前の西国、出雲を中心とした神が、東国=日高見国を破壊しようとした。
 アマテラスは天の岩屋に隠れて、世界が暗闇になる。日食は短すぎて古事記とは合わない。火山や噴火によって天空が闇に包まれる現象。富士山こそが高天原と葦原中津国を闇に覆うことができる規模の火山。紀元前15000頃〜紀元前6000年頃まで山頂噴火と山腹噴火など断続的に大量の玄武溶岩を噴出した。
 スサノオは高天原を追放されるが財産没収、髪の毛を抜く、爪を剥ぐ、という処罰がくだされる。財産は千座置戸の没収で、千の倉に入るほどの財産を没収されたとされているが、なぜスサノオが高天原に財産を追っていたかは記されていない。古事記によるとスサノオは出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(今の奥出雲町鳥上)に降り立ったと記されている。注目すべきは降り立ったところに具体的な地名があることです。オロチを退治したスサノオはクシナダヒメを妻にすると出雲の根の堅洲国(島根県安来市)の須賀の地へ行った。オオクニヌシが根の国のスサノオのもとにやってきて、娘スセリヒメと互いに一目惚れをする。スサノオは試練を与えたが克服しオオクニヌシという名を送った。古事記によるとオオクニヌシはスサノオの六世の孫、日本書紀ではスサノオの息子、葦原中国を作った神。葦原中津国を主要な活動の場にしている神々を国津神、アマテラスはじめ高天原の神々を天津神という。
 国譲りとは高天原のアマテラスが葦原中国、つまり地上の国・出雲を収めるオオクニヌシに向かって圧力をかけ、国の支配権を譲らせた神話。高天原から何度か使いを出すが葦語のタケミカズチノオノカミという剣豪が送られ、オオクニヌシの息子、タケミナカタノカミは国を譲る。タケミナタカは諏訪に連れて行かれる。オオクニヌシの降参を示すかもしれない遺物が発見されている。出雲大社近くの荒神谷遺跡から358本の銅剣、六個の銅鐸、銅矛16本が1984年に出土している。国譲りは銅vs鉄で銅が敗れたともみられる。

第四章 日高見国から大和国へー天孫降臨

天孫降臨はアマテラスの孫にあたるニニギノミコトが地上へ天降ることを指している。筆者は日高見国の中心地である鹿島から九州の鹿児島に統一に向かうという史実とする。ニニギノミコトの九州への天孫降臨より前、ニギハヤヒノミコトにより最初の天孫降臨があった。関東の鹿島から天の磐船に乗って伊勢から大和地方に入ったと伝えられるニギハヤヒノミコトを祀る神社は千葉や茨城に二十五社もあり、伊勢には三十から四十社あります。このようにニニギノミコトの天孫降臨より前に天孫降臨して大和に入ったニギハヤヒノミコトたちがいたことを証明している。鹿島から鹿児島(日向の高千穂峰)に天孫降臨したニニギノミコトは土地の豪族・オオヤマツミの娘コノハナノサクヤヒメを娶る。そこから生まれたのがホデリノミコト、ホスセリノミコト、ヒコホホデミノミコト=山幸彦である。山幸彦の三代目、ニニギノミコトの四代目にあたるのが、イワレヒコ=神武天皇です。のちに東征を行って、奈良・大和の地を平定する。
 神武天皇の再統一は大陸から来る帰化人たちが多くなり、北から南下して西に定住する人たちも増えて、関西が非常に重要になってきた。徐福も秦の始皇帝の命で日本にやってきている。中国の春秋戦国時代に入り戦乱で大陸から九州に流入してくる難民の人が多かったと想像される。イワレヒコの東征は大陸からの侵入に備えたものとと筆者は考える。徐福は三千人の男女と技術者を連れて船出した。日本各地に徐福伝説が残っており、京都府与謝郡の新井崎神社、三重県熊野市の徐福の宮など徐福を祀る神社もあり、熊野市には秦の時代の半両銭が出土している。日本の建国には常に外圧が関係していた。神武天皇の時代、聖徳太子以降の天武天皇から聖武天皇の時代、そして明治天皇の時代と日本には大きく3つの「建国」がある。それぞれに共通するのが「外圧」だった。
 ニギハヤヒノミコトは神武天皇の前に大和に天孫降臨されていた。「先代旧事本紀」によると、このニギハヤヒの天降りの時期は国譲り神話の前に書かれていることから、それ以前のことのことと考えられる。「旧事本紀」巻三「天神本紀」、第五の「天孫本紀」にニギハヤヒとその子、アマノカグヤマノミコト以降の子孫が十七代に渡って語られており、かなり長い間、大和地方を統治していことが分かる。
 イワレヒコは17年かけて大阪の難波に着きます。日本書紀には神武天皇が浪速国の白肩津で待ち受けていたナガスネヒコとの闘いをもって一段つく。ナガスネヒコはニギハヤヒノミコトに使えていたが、天神の子を名乗って土地を奪いに来るイワレヒコに意義を唱える。しかしニギハヤヒとイワレヒコは天の羽羽矢とかちゆきをふたりとも持っていて、ニギハヤヒが天孫であることを確認する。しかしナガスネヒコは闘い殺害される。ニギハヤヒが物部氏の先祖で、ニギハヤヒが国譲りをしている。帰順しなかった豪族は滅ぼされる。禁忌を平定し神武天皇となる。神武天皇は日本書紀にハツクニシラススメラミコトと号されているが、第十代崇神天皇も同じ意味の初国知らしし御真木天皇(古事記)、御肇国天皇(日本書紀)、初国所知美麻貴天皇(常陸の国風土記)と記されている。神武天皇=崇神天皇と考えられるとする。欠史八代はニギハヤヒとう存在をないものにしたところから来た調整。記紀には陵は奈良県橿原市大久保町の畝傍山東北陵(山本ミサンザイ古墳)と書いてあるわけですが、確定できない。欠史八代は東国との関係が非常に強い人達で記録が欠落したのでは?
 神武天皇の大和統一以降、興奮時代には数多くの古墳がつくられた。特に大和や川内にはひときわ巨大な古墳が築かれた。神武天皇の御陵は橿原市大久保町のミサンザイという場所にあるが、もともとは橿原神宮の敷地の中の畝傍山の中腹にあったとされている。小規模だが前方後円墳であったと見られる。前方後円墳は中国に破損ざんせず、朝鮮にもごくわずかし存在しない。奈良には原型はないが、関東の古墳には前方後方墳という形が見つかっていて一つ前の段階だと考えられる。

第五章 大和政権の確立

 祟神天皇は、オオビコノミコトを高志道(北陸道)に、オオビコノミコトの子タケヌナカワワケノミコトを東国十二国(東海道)に、キビツヒコを西道(山陽道)に派遣し、ヒコイマスノミコを丹波国(山陰道)に派遣し、その国を服従させた。この四人を四道将軍という。オオビコノミコトは戦に勝ち、山代国を平定して、高志国ヘ向かい、息子と合流したので、アイヅと呼ぶようになった。 即位十二年、戸口を調査して初めて課役を課したと記されている。この偉業をもって所知初国御真木天皇と呼んだとされている。この治世で大和調整は大八洲を統一した。弟のイクメノミコトを皇太子として、兄のトヨキノミコトには東国を治めさせる。即位62年灌漑事業を行った。65年任那が使者ソナカシチを遣わしてきた。

 景行天皇は息子のヤマトタケルノミコトは九州討伐をすると共に関東・東北を抑えるための東征を行っています。隼人は関東から鹿児島にやってきた人の子孫ではないかと考えている。理由は鹿島神宮、香取神宮と並んで東国三社に数えられる息栖神社と関わりがあると考えられるから。息栖神社に祀られているアメノトリフネノカミはタケミカズチノカミを助けて鹿島から鹿児島へやってきたとされる。アメノトリフネノカミは船の神であり、鳥の神。息栖神社は船の神社でもあり鳥の神社でもある。九州南部には熊襲もいた。この人も関東から来た人と考える。熊襲神社が関東・東北に多いから。紀伊半島の熊襲神社が有名だが、関東・東北に多く点在している。
 子のヤマトタケルはユダヤ人の血を引いていたのではないかと考える。記紀にある殺人行為は日本人的でない。兄殺し。熊襲兄弟を惨たらしく殺害。イズモタケルを卑怯な手口で殺す。更に東国十二国に派遣され、火攻めに会い、焼津と呼ばれる。実際には天皇の巡幸だったのでは。それは軍勢を率いていない。常陸風時の記述では天皇として書かれており、巡幸されたと書いてある。たしかに討つ話は2つだけで後の十七件は天皇の巡幸に関わる内容である。常陸国風土記にはともに狩りを行ったり、清水を飲み御膳を供する様子が書かれている。福島県の都々古別神社の社伝にもヤマトタケルは東征の折に千回戦って千回勝った、とあり後代の八幡太郎義家は社号を千勝明神と改めた。ヤマトタケルは神剣である伊吹山に向かうが、大氷雨にあい、病身になり三十歳の若さでなくなる。

 仲哀天皇はヤマトタケルの第二王子、皇后が神功皇后。熊襲が反抗的だったので仲哀天皇と神功皇后は熊襲征伐に赴く。神功皇后は朝鮮攻めを押すが、仲哀天皇はそのまま熊襲征伐を行い勝てず病気になり崩御する。神功皇后は船を集め、玄界灘を渡って新羅に攻めに行く。筆者はこれはユダヤ人の力があったと考える。海の道を作ったユダヤ人も日本に帰化して、三韓征伐をバックアップしたのではと。ユダヤ人は秦氏と呼ばれる日本人。新羅王は降伏する。高句麗と百済も降参する。神功皇后は身重の状態で朝鮮に渡ったが、その子が応神天皇。

 応神天皇と時代の仁徳天皇が古墳時代の日本で一番栄えた時代だったが、その財力の豊かな秦氏が支えたと筆者は考える。応神天皇の時代に弓月国から百二十県の人々を率いて渡来した弓月君が秦氏の先祖。百済からの渡来人であった。日本書紀によれば弓月君が百済から来朝したのは応神天皇十四年。軍勢を派遣し、新羅の妨害を除去し、渡来を支援した。平安時代初期の新撰姓氏録では弓月君は融通王の中で記録されており、秦の帝室の末裔と書かれている。秦始皇帝三世孫、孝武王の末裔。日本書紀と新撰姓氏録は共に弓月君が秦氏の祖先であると記している。実際に中国の西、ウイグル、カザフスタンのあたりに弓月国は存在しており、そこからユダヤ人たちがはるばる日本に渡ってきた。
 応神天皇は筑紫で生まれた。応神天皇は多くの渡来人を受け入れた。古事記によると王仁によって論語と千字文が伝わったとされている。応神天皇を祭神として弓月神社が丹波にある。秦氏が信仰していた八幡神社は中世に応神天皇と集合した。

 仁徳天皇は第十六代天皇で、日本最大の墳墓は仁徳天皇陵であり、世界最大でもある。これを作った人々は土師氏と言われている。土師氏の先祖は野見宿禰といわれている。巨漢で西方の人と考えられる。もともとは難波についた船から見える高台につくられた。民に慕われていた。秦氏に土地を与え太秦という名前を授けたのも仁徳天皇だった。五十八年の条に中国の東晋の時代だった呉の国と高句麗から朝貢してきた。古代朝鮮の遺物である好太王碑に何度も日本が攻めてきて倭の軍が高句麗と新羅の軍を破ったと書いてある。日本が百済、加羅、新羅を臣民となしたと書かれている。

 雄略天皇はヤマト王権の力を拡大させた。冷酷で貪欲な一面もあった。宋書や梁書に書かれている倭の五王の武であると考えられている。稲荷山古墳の鉄拳の銘や、江田舟山古墳の鉄刀に刻まれたワカタケル大王という銘によって、雄略天皇の実在性は具体的になった。稲荷山古墳の鉄剣の銘文では中華皇帝の臣下そていの王ではなく大王と明記されている。雄略天皇は478年に中国への遣使はやめている。雄略天皇は秦氏を厚遇した。果たしはもともとシルクロードとの関係が深く、機を営むことが多かった。絹、かたおりを朝廷に多く奉納していた。最後の遣使は478年で次の遣使は609年607年の遣隋使で、日本の自立性を示す。宋の順帝は倭王武に新羅・任那・加羅・奏韓・慕韓六国を治める倭王としている。

 武烈天皇は非道な天皇として描かれている。暴君として仕立てたい作者の意図が顕著である。

 継体天皇は58歳で即位した。武烈天皇は世継ぎがいなかったので、応神天皇の五世代孫で、越前国を治めていたおおどのおおき王を迎えた。日本はもともと朝鮮半島東武に大きな拠点をもっていたが、四世紀にあると高句麗が強くなり、南部では百済や新羅が台頭してくる。百済経由で鉄器や鉄の農具・兵器や漢字儒教などの中国文化が入ってくる。四世紀後半に百済が大和朝廷に救援をもとめてきて、救援の軍を九州北部に送ったが、新羅と通じた筑紫の磐井によって反乱が起きる。朝鮮での勢力が次第に衰えていった。

 欽明天皇の時代では大陸から日本にやってくる人が急増した。大陸では南北朝時代にはいり、小国が乱立し、不安定だったので日本に渡来する人がおおかった。百済王は仏像と経典を献上した。日本書紀には仏像がキラキラ輝いているのに驚いた欽明天皇がこの像を慕っていいのだろうかと臣下に訪ねたというエピソードがあります。仏教を受け入れを巡って争いがあった。受け入れる蘇我氏で、拒否するのが物部氏だった。蘇我氏が勝って政治の主導権を握った。

 敏達天皇は朝鮮半島南部の任那の復興を目指して、百済と協議しましたが、うまくゆかなかった。疫病が流行り始める。仏教を拒否してい物部守屋と中臣氏が勢いづいて仏教禁止令を出して仏像と仏殿をもやす。疫病は広がり敏達天皇も病に倒れる。後に蘇我馬子が願い出て仏教を許すとされる。二番目の皇后が額田部皇女だが、後の推古天皇である。

 推古天皇が即位して、甥の聖徳太子が摂政として蘇我氏と協力して仏教を受け入れた政治を行う。共同宗教の神道と、個人宗教の仏教を受け入れ、日本人の精神性は豊かになっていく。仏教の寺院がたてられ、巨大古墳が消えた。

世界史とつなげて学ぶ中国全史

2019 東洋経済新報社 岡本 隆司

非常にバランスがとれていてい良かった。

第一章 黄河文明から「中華」誕生まで

地理的な話から。乾燥地帯と湿潤地帯。農耕民と遊牧民。文化がまったく異なり、その境界で文明が生まれた。有名な文明地図。西方が開かれていて文化が流入してきていた。黄河流域で都市国家の成立。漢字圏。外夷に対する中華。秦のあとの前漢は匈奴に負けて和睦し毎年貢物を送っていた。前漢は匈奴を倒しシルクロードで発展した。金を送っていたが途中からシルクになった。最大の発展を遂げるが、これはローマ帝国はトラヤヌスの時代で、パクスロアーナの時期と重なり、東西で平和が訪れる。交易を通して発展した。

第二章 寒冷化の衝撃 ー 民族大移動と混迷の300年

三世紀あたりから寒冷化してくる。豊かでない土地での影響が大きい。民族大移動が起こる。西洋ではフン族の侵入からの大移動は克明にわかっているが、東洋ではどうであったか。乾燥地帯の遊牧民である匈奴は、かつて一大帝国を築いて漢王朝と退治していましたが、やがてバラバラになり、一部は中国の中心地に移住する。寒冷化は農耕民にも影響を及ぼし、農作物の生産量が低下し、飽和状態だった人口は淘汰される。城壁のない新開地である「邨(むら)」が点在するようになる。そこは荘園のようになり逃げ込んできた流民・移民を収容し、強制労働させる。三國志の曹操は屯田制を国家事業として行い、軍人に耕作させ、唐の時代まで続く。ローマでも没落農民を貴族が小作人として雇う農奴制が始まる。邨の時代では自給自足で手一杯で商業は衰退し、金銀よりも現物が重視される。こうして小さな政治ブロックで集中的に経済を支えるという形態が生まれ、地域が分断された。それが4〜5世紀の「五胡十六国」と呼ばれる時代である。五胡は漢人以外の5つの部族で、匈奴、けつ、てい、きょう、鮮卑を示す。5〜6世紀には南北朝時代に入る。華北・中原は北魏によって統一される。北の地の鮮卑は騎馬軍を補給できたので強く中原にいた他の胡を倒す。経済ブロックの統一はうまくいかずと東魏と西魏に分裂する。南朝は魏蜀呉を統一した晋が胡族の襲撃から南方に逃れて立てた王朝で、その後宋王朝に変わり、斉、梁、陳と交代していく。中心地は今日の南京と、長江の中流の江陵。実態は「五胡十六国」の自体と同様に小規模な勢力が分立していた。貴族が出現しコミュニティが形成される。
 紀元前後までもっとも豊かだったのは陝西省の長安周辺だった。山あいの高地であり、水が豊かだった。暮らしやすい乾いた土地で、生産性が高い場所だった。しかし長安も次第に乾燥し始める。代わりに開発が進んだのが大河周辺の平原だった。経済的に優勢になり、人口も増加する。ちょうど東魏のちの北斉が支配した地域である。一方山間部の西魏は貧しかったが徐々に力をつけ、最終的には北周が北斉を併合する。北斉は断絶し外戚に奪われ随を打ち立て南朝の陳を滅ぼし、南北朝時代は終わる。

第三章 随・唐の興亡 ー 「一つの中国」のモデル

随は北西の辺境に位置した北周政権が、東の隣国、北斉政権を滅ぼしたことから始まる。さらに南朝の鎮静件も合わせ、統一を成し遂げる。そのため中国の伝統的な歴史館では、隋は北朝の一つと認識されている。隋王朝は親子二代、30年ほどで幕を閉じる。隋を打ち立てた文帝・楊堅は大運河の開削という大事業を成し遂げた。それは黄河流域と長江を繋ぎ、さらに黄河流域から北京に伸びた運河だった。大運河で南北間の物流が促進され、文化・経済の南朝と政治・軍事の北朝と双方の役割分担が明確になった。秦や漢の時代は政治・経済・文化が中原に集約されていた一元的な構造だったが、隋により南北分業の時代が始まった。運河と長江の交差点である揚州は栄えた。塩産地が近くにあったことで唐時代は長安よりも栄えた。長安は秦・漢の時代から首都だったが山の中なので、長安を東の都とし、西の都・洛陽を建設した。文帝は外戚から皇位を継承した際に北周の皇族一門を根絶やしにした。その怨恨があり、煬帝は揚州に逃亡したあげく、背いた近衛兵に暗殺された。
 隋の混乱を解決する形で唐が台頭した。反面教師にした唐の二代目の皇帝太宗、李世民は武勇にすぐれており、武力を中心として中国全体の統治を進めた。李世民は中国屈指の名君とされ、貞観の治として知られている。唐は三国時代だった朝鮮半島にも介入し、新羅と組んで、百済と高句麗を滅ぼし、統一した。百済を支援していた飛鳥時代の日本にとっても対岸の火事ではなく、対抗できる国造りを急いだ。
 唐は広大な勢力範囲を誇ったが最も大きいのが北部であり、突厥が支配していた地域だった。突厥との力関係では南北朝時代の北周と北斉に分かれていた頃は突厥のちからは圧倒的で、突厥は両国を属国とみなしていた。しかし、7世紀になると突厥が中原の王朝に屈服する形になります。突厥は南方の人々とも積極的に交流を図っていましたが、シルクロードを掌握して、そこの商業民とタイアップしていた。その町業の担い手となったのがソグド商人であった。ソグド商人は中核のオアシスであるソグディアで巨大な財閥・多国籍企業のような存在になっていた。唐は突厥やその下のソグド商人なども取り込み、さらに様々な宗教も取り込んで多元的な国家であった。長安も国際都市として栄えた。しかし、その唐も安史の乱から栄華は衰えていく。ソグド人の安碌山の反乱を発端とした胡人と漢人の争いだった。
 その後、五代十国と呼ばれる時代に入る。北部は5つの王朝が受け継いでいき、南方では十の小国が乱立する。五胡十六国のときは南側は一つにまとまっていましたが、隋と唐の時代を経て、南側でも小国が分立できるまでとなった。

第四章 唐から宋へ ー 体外共存と経済成長の時代

8世紀から9世紀にかけて、唐は解体していき、中央アジアにも影響した。10世紀になるとウイグルはソグディアナの位置に移動した。その西側はトルコ系のカラハン朝があり、トルキスタンになっている。その西にはサーマーン朝があり、ペルシア系のイスラーム政権である。ウイグルにはイスラームは及ばす、マニ教や仏教が広く信奉されていた。
 なぜトルコ系遊牧民のウイグル人は東から西に移動して定住生活を始めたのか。一つの要因は温暖化であり、縮小していた草原地帯が広がり、遊牧民の活動が活発になった。東西に唐とイスラームの両帝国が成立したことは寒冷化の一つの到達点であり、温暖化と同時にあらためて多元化が進行した。ウイグルが抜けた東アジアではモンゴル系・ツングース系の遊牧民・狩猟民が力を持つ。モンゴル系では契丹、ツングース系では渤海という国が代表的だ。またこれらの勢力が勃興したのには中国側の事情も関係している。
 唐と宋の間でおきた変化を唐宋変革という。①エネルギー革命で、石炭が使われだした。②水田化と人口増大で、土木技術の進歩もあり低湿地を水田化できるようになり、人口も増大した。科挙も始まる。③貨幣経済の成立。花柄は唐の時代から作られていたが、宋では宋銭を大量に鋳造発行した。政府も現物で行われていた税金を少しづつ貨幣に切り替えていった。④商業化の進展。貨幣が潤滑油となり余剰生産物のやり取りが増えた。⑤都市化の進展。市場が発展し、市や鎮などの商業都市になる。宋の商業化の進展は日本にも影響し、平清盛による日宋貿易につながる。唐との貿易では贅沢品で正倉院にあるようなものだが、日宋貿易は民間ベースで陶磁器やお茶、生糸など庶民の暮らしに結びつくものだった。
 五代十国の時代では長安デルタ地域の低湿地を、呉越の時代に排水工事をし、一面の水田に変えた。以後は中国でもっとも豊かな地方になった。石炭や、ミョウバン、お茶など適地があり、経済開発が経済ブロックとなり政治ブロックになり乱立してくると、戦争が起こりやすくなる。宋王朝はそれに答えを出そうとして、官僚制・君主独裁制を導入した。宋政権は令外の官を系統立てて官僚化し、変化の激しい社会の実現への対応を各地方に任せた。軍事の指揮権は中央においた。君主独裁というと中央集権的なイメージがあるが、多元化・多様性を前提として、君主がそれを統制していた。また脅威の契丹は毎年の歳幣により不正だ。この時代は人口も増大し文化も発展した。唐宋八大家のような文人も登場し、朱子学の源流もできた。
 そうしているうちに遊牧民の住む草原地帯の状況が変わってくる。モンゴリアの草原の空白地帯からモンゴル部族が登場し、商業民のウイグルと結びついて、チンギス・カンの西征服が始まった。

第五章 モンゴル帝国の興亡 ー 世界史の分岐点

モンゴル帝国の改題。チンギス・カンがなくなるまでに中央アジア、西アジアの乾燥地域・草原地域を制覇した。トルコ系のウイグルやイラン系のムスリムを取り込み、ユーラシアの主要な草原地帯を抑えた。跡を継いだ息子オゴデイは濃厚のできる乾燥地帯を完全制圧した。華北全域を支配下に入れた。乾燥世界と草原世界に加え、農耕地域に勢力を拡大した。オゴデイの兄ジョチとその息子バトゥは南ロシアの草原地帯まで制圧した。オゴデイの死後10年のお家騒動の末、オゴデイの弟の血筋に変わる。カーンの地位についた長男モンケは征服事業を再開する。西アジアを担当したのが三男フラグでイランを制覇した。東アジアは次男クビライが南宋の長江上流域まで戦線を拡大した。モンケ自身も南宋遠征を敢行するも突如陣没し、お家騒動となる。最終的にクビライが継承者となる。フラグは引き返すが跡目争いに間に合わずイラン周辺でフラグ・ウルスとして自立する。同じようにジョチが征服したキプチャク草原あたりにジョチ・ウルスとして自立する。中央アジアはチャガダイ後筋が支配しており一旦カイドゥにうばわれますが、奪いかえす。クビライはモンケの時代から南宋の征服をめざし、最終的には南宋を接収する。そしてクビライは国名を大元ウルスと改め、首都を現在の北京の地に建設した。
 モンゴル軍の強さの要因の一つは宣伝。戦闘で徹底的に相手を殲滅することを宣伝し威嚇し、戦わずに降伏させていた。もう強さの一つの要因は商人との関係。草原地帯で攻められたウイグル商人から持ちかけられた協働にのり、資金・情報の提供と引き換えに、軍隊による保護と商売の権益を保護した。モンゴルは駅などを設置しシルクロードの交通を拡充した。また税を高度にシステム化していた。
 唐宋変革を通じて昔ながらの銅銭が主に流通していましたが、銅が不足して鉄銭や紙幣が代用された。クビライは銀を準備として政府が溜め込み、市場にはその兌換紙幣を発行した。クビライは紙幣の兌換として銀・貴金属だけでなく塩も準備した。政府は塩を専売にし課税しました。中国は広大な大地に対して海岸線が短いので塩の産地が限られていて、コントロールしやすかった。
 13~14世紀初頭のころ、アジアの物流や交易は海洋を通じても行われていた。主導したのはムスリム商人で、かれらはマラッカ海峡を経て、広州方面にも商圏を広げていた。代表的な存在としては広州に住み着いて福建省南部の泉州に移住した蒲寿庚である。クビライは国家主導で海洋商人たちを組織し、インド洋や中国沿岸での海洋貿易・海上交通に力を入れた。クビライはカーンに即位したあたりで軍事的な拡大を停止し、世界的スケールの経済圏の構築に力を注いだ。それはイラン系ムスリムやウイグル人たちであり、モンゴル系やトルコ系の遊牧民が軍事力でバックアップした。またその延長に元寇がある。
 そんなモンゴル・大元ウルスの経済力を根幹で支えたのが、南宋の豊かな生産力や経済力だった。隆盛をきわめたモンゴル抵抗ですが、14世紀半ばの直後から崩壊し始めた。主な原因は地球の寒冷化でした。この時期、ヨーロッパではいわゆる「黒死病」が大流行した。感染源は同じだろう疫病が、中国でも大流行した。農作物の作柄も悪化させ、生産量が落ちて、商業も振るわなくなる。シルクロードの幹線も支線も分断され、ユーラシア東西が分離された。その後は回復したが、中央アジア・シルクロードはローカル線と化した。中央アジアはイスラームしてくる。
 中国の経済も大打撃を受ける。紙幣や有価証券も紙くずになり、中国国内は物々交換のような現物経済の世界に逆戻りした。特に都市部では治安が悪化し、安全や食料を求めて農村部に移転する人が増えた。南宋の江南地域では抵抗勢力による反乱が各所で発生する。特にモンゴルに大打撃を与えたのは塩の密売人・張士誠による反乱だった。かれれはヤミ商売をして私腹を肥やしつつ塩を安く提供することで庶民のみかたであったが弾圧に失敗した。その結果、専売が運営できなくなり専売収入が途絶え、塩引の価値が暴落し有価証券が不渡りになり、信用不安を引き起こした。また張士誠が拠点としたのは蘇州で、中国最大の米どころだった。大都にいるモンゴルは塩の収入のみならず、米も手に入らなくなり、大打撃を被る。14世紀後半になるとモンゴルは明を建国した朱元璋によって大都を追われ、今日のモンゴル高原まで撤退した。モンゴルによって融合した東西と南北、農耕地域と遊牧地域は再び分断され、それまでの政治・経済・社会のシステムはリセットされる。

第六章 現代中国の原点としての明朝

 ティムール朝は4つに分かれたモンゴル帝国のうち、西方のチャガタイ・ウルスを相続して興った遊牧王朝。首都は中央アジアの真ん中に位置するオアシス都市・サマルカンド。かれれはそこから四方を征服し、一大勢力を築いた。一方、東アジアは南方の貧しい農家出身の朱元璋が明王朝を建国し、初代皇帝につく。当時の中国にはまだ多数のモンゴル勢力が残っていた。朱元璋が目指したのは農耕世界だけの分離独立で、華夷殊別と表現された中華と外夷の分断だった。象徴的なのが鎖国政策で、万里の長城で農耕民と遊牧民を明確に分けるのみならず、沿岸も出入りを制限します。漢人だけを「中華」として内部に取り込み、それ以外を「外夷」とした。中国内で交通または商取引したい外部の人は「朝貢」という手続きを踏むことを求めた。朝貢事態は秦や漢の時代からあったが、周辺国との付き合い方において、朝貢以外のすべての手段を禁じた。朝貢する側にもメリットはあり持参したお土産よりはるかに高額な引き出物「回し」を授かることができた。また朝貢団に随行してきた使節団には、儀礼の公式行事とは別に、中国国内の売買取引が認められたので、こぞって朝貢団に加わった。
 朱元璋は物々交換の世界を前提として、農業生産の回復に注力した。その一つが「魚鱗図冊」に現れる土地調査で年貢取り立ての前提を整備し、「編審」と呼ばれる国勢調査で成人男性の労役を管理した。これらは貨幣を介さない徴税の2本柱だった。明朝が構想した経済に商人や商業は登場しない。また南北格差の解消を目指した。モンゴル時代のクビライは、華北と港南を別の方法で統治していた。経済成長の源泉という位置づけで江南に力を注ぎ、商業が大きく発達し人口も急増した。明朝は江南を弾圧して貧しくさせ、華北の水準に合わせるという方法をとる。江南の地主や官僚にさまざまな嫌疑をかけ、連座制を理由に何万という単位で皆殺しにした。海禁で海路の交通も遮断した。経済界は打撃を受け、南方の有力者を弾圧したとミられる。二代目の建文帝は有力な朱元璋の四男・朱棣を倒そうとするが、逆に挙兵され永楽帝になる。ここで首都を北に移し北京と改称した。永楽帝も江南の地主たちを蹂躙する。江南から北京への大量の物資の移動のために大運河を回収したが、財政を圧迫した。北から南を支配しようと官僚の採用でも江南の人々を露骨に差別する。この時代のムスリム鄭和による七回の大遠征が有名だが、造船や航海技術はモンゴル時代の遺産に頼っていた。
 一方で明朝が構想した現物主義の財政経済システムはほころび始める。上海のある江南デルタは水はけが良くなりすぎ、稲作ができなくる。桑を植え生糸の一大産地に転換し、中国の一大ブランドとなった。この一体では工業化・商業化が進み、それに従事する労働者も急速に増えた。減った分の稲作は長江のさらに上流の湖広と呼ばれる地域を開墾し、水田とし、たちまち穀倉地帯になった。そうして自然発生的に地域分業体制が整った。ここで民間では私鋳銭が流通し始め、さらにモンゴル時代に流通していた銀が貨幣として流通する。さらに官僚の給料も銀で支払われるようになり、現物主義の財政経済は破綻した。中国で銀需要のため新しく銀山を開発させ、ヨーロッパやアメリカの一部、日本列島などから銀が中国に向かった。この民間貿易は日本の経済成長にも影響した。この時期、密貿易の弾圧により南の沿岸で倭寇が大暴れする事件がおき、同時に中国のお茶を欲しいモンゴルが長城を超えて侵入し、北京を包囲してた。どちらも明朝政府が折れて、モンゴルとは和議を無杉、内蒙古での取引を認め、日本との交易も、中国人が厦門から会場に出ていくことを可能とした。経済の活性化は社会・文化に影響を与える。民間での出版業の多様化により、経書・史書の解説本やダイジェスト版がたくさん出た。また有能な官僚であった王守仁が作った儒教の一派の陽明学を打ち立てた。政府権力から一定の距離をとって地域社会で民衆の指示を得たエリートを郷紳と呼んだが、政府と社会が乖離した高級官僚ばかりになり、民治の実部に手が及ばなくなってきた。それはデータにも現れており、人口三千人以下の都市が急増し、行政の目が民間まで行き届いていなかった。この民官の管理がその後の中国社会に尾を引いた。

第七章 清朝時代の地域分率と官民乖離

清国はマンジュ人が建国したアイシン国である。満州語のアイシンは金を表す。その後、1636年に大清国に改称した。かれらは狩猟民族であったがモンゴル人とにていてモンゴル帝国のような政権を目指した。満州人の西隣にはチンギス・カンの血筋を継ぐチャハルというモンゴルの部族が住んでおり、満州人はそこに攻め込み、モンゴル帝国から伝わったとされる正統の証とされる伝国璽という印章を譲り受けた。明朝が1644年に内乱で滅びると、万里の長城の最東端にある要塞を突破する。清朝は多種族からなる政権だったので、明朝のよる「華夷殊別」の方針を転換し、「華夷一家」を掲げ、漢人・満州人・モンゴル・チベット・ムスリムという五大種族の共存を図った。康煕帝の時代にはモンゴルとチベットを帰服させた。ムスリムの住地になっていた東トルキスタンも取り込んだ。この大きな版図をどうやって統治したかについては教科書では直轄領と間接統治の藩部、さらに朝貢国に分けたとしているが、正確ではない。基本的に政治的な組織には手を付けずに温存し、直轄と間接をことさら区別したわけではなかった。二代目の雍正帝は種々の改革を行ったが、目的は官僚・官界の腐敗撲滅であった。
 明朝は貿易を促進する制度を整え、朝貢国も本当に朝貢している国だけに整理した。日本とも同駅を認めるので中国の商人が日本へ出向けるようにし、日本では長崎が栄えた。またモンゴルが起伏したため北方の隣国は露になり、条約が結ばれ政府公認の貿易が始まった。交易により銀が必要になったがヨーロッパからアジアへの銀供給も途絶えて一大デフレに陥った。17世紀末には景気が回復し、イギリスが大量の銀を供給し、紅茶を輸入した。18世紀半ばまで一億人だった人口は19世紀初頭までに三億人を超え、19世紀なかばには四億人、20世紀初頭には四億五千万人に達する。一方で行政都市や官僚機構の数はさほど増えていない。行政の数少ない仕事といえば税金の取り立てと犯罪の取り締まりくらい。徴税も地主や大商人のようなコミュニティの、顔役がとりまとめ、支払っていた。増加し溢れた人口は、新開地に向かう。清代には東三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)の森林地や長江流域の山岳地帯などの開発が進んだ。新開地では生活か厳しく植えていたため不満がたまり、秘密結社のような宗教団体が多数生まれた。政府が弾圧すると武装して反抗し大きな反乱に至った。白蓮教徒の乱や太平天国などである。
 19世紀の半ば以降、清朝は富国強兵を目指し、軍事や技術面で西洋化・近代化をお勧めます。また銀価の下落から多種多様なものを輸出することになります。各地域が個別に各国と貿易をした。工業化した外国列強の旺盛な需要に答える中で、中国各地の経済力も個別に伸びた。それに伴い各省を管轄する地方官の監督はそれぞれ力を持つようになり、地域に応じた政策を個別に打ち出した。李鴻章や張之洞だ。ところが、日清戦争を経て様相が変わり、東アジア全域での権威も失われた。朝貢国は自主権があるため日本などに取られてしまう。清朝がバラバラになる前に国民国家の考えを導入し、国家の領土を明確にしようとする。このころから中国を名乗り始める。

第八章 革命の20世紀 ー 国民国家への闘い

1911年になると地方が独立し省政府を樹立した。1912年の元旦に代表者が集まり、南京臨時政府を樹立した。中華民国である。モンゴルもチベットも独立を目指す。中華民国は軍隊を送り込むが撃退された。理念は国民国家だったが、多元共存していた。また南北格差は縮まったものの、東西格差が大きな課題となった。これは国民国家建設や国内統合の問題と同じだった。中華民国は地域の軍閥同士で戦争を繰り広げた結果、全体像は少しづつ整理されてきた。1910年代〜20年代にかけて綿製品の製造に機械が導入される。中国版の産業革命がおきた。また第一次大戦が始まり、金本位制をいじできなくなると銀の価値があがり、輸入価格もあがり、自国生産の流れが起きたのが原因。この変化を利用して、国内の社会的・経済的な統一を果たそうと考えたのが、孫文の後継者と目されていた蒋介石だった。蒋介石の勢力範囲は経済の鍵を握る江南デルタ地帯だったので、軍閥は蒋介石には歯向かえなかった。全国一律に通用する紙幣を発行し、世界お基軸通貨のドルやポンドと交換可能にした。満州国はこれに乗らず、中国のナショナリズムの矛先は日本帝国主義の利権に向けられる。1928年、国民政府の北伐軍と日本軍の衝突が起きる。国民政府は国外に日本、国内に中国共産党という敵を抱えていた。共産党を潰そうとしたが説得され和解する。これにより日中の全面戦争に至る。当初、日本軍は先進地帯の沿岸部・都市部のみを支配していた。これに対して、蒋介石の国民政府は内陸の重慶に拠点を移した。毛沢東は農村の庶民の力で先進地域の都市部を奪い返そうと共産主義を標榜した。日中戦争で日本が敗北し、中国から撤退すると、中央政府に蒋介石・国民政府が戻って来るが、基盤社会の下層の人々と乖離する。下層の人々の心をつかんでいた毛沢東と、対立し内戦に発展する。経済運営に失敗し、都市部の有力者からも指示を失った蒋介石は大陸を追われる。台湾でも共産党や反体制派を弾圧したことから、毛沢東の評価が高まった。1949年に建国された中華人民共和国の基本理念は基層社会に降りることでした。農地解放や官僚の汚職の一掃運動などを展開し、ついに1966年から十年にわたる文化大革命に行き着く。上層の人々を叩きすぎた結果、国全体が疲弊して大失敗に終わる。
 その反動で打ち出されたのが、鄧小平による改革開放路線で、市場経済を取り入れ、海外貿易も推進して、豊かさを追求しようとした。これにより急速な発展を続け、富裕層も格段に増えました。ただ農民工など下層の人々に応じる有効な政策は見えていない。結局、中央と下層は乖離したままで、明代以降の中国が抱える構造的な課題は、むしろ増幅されて今日に至っている。習近平国家主席をはじめとする共産党がもっとも恐れているのは、下層の人々が政権から乖離するとともに、裕福層が諸外国と強く結びついて国家を顧みなくなることだ。それは今以上の格差拡大と政治・社会の分断を意味する。

結 現代中国と歴史

今日の中国社会の構造を端的に表すと、多元化と、上下の乖離である。分水嶺は寒冷化による「14世紀の危機」とそれに続く大航海時代だろう。バラバラで混乱と対立相剋を繰り返す社会を調整し、共存を図るかの答えは13世紀に登場したモンゴル帝国だった。しかし寒冷化には敵わず14世紀には解体され、多元的な世界に逆戻りします。その後、統合に向けた納得の行く回答が見つからないまま今日に至っている。
 14世紀には中央アジア・遊牧世界のプレゼンス低下と、海洋世界の比重増大を示している。南北よりも東西の格差が顕著になっていっている。つまり大航海時代の影響で、中国には南北の違いに加え、東西の違いも生まれいっそうバラバラになった。社会構造も多元化・複雑化した。17世紀以降に、さらに顕著化して、バラバラな社会をいかに秩序をたもって共存を図るかという、時々の政権による腐心の歴史である。清朝の小さな政府では産業革命以後の近代に対応できなかった。西洋や日本に対抗するために「国民国家」を目指したが、多元的な中国社会にはそぐわなかった。一つの中国というスローガンも欺瞞に満ちている。多元的な社会をまとめようとする試みはアジア史にも少なからずある。その手段として用いられたのが宗教だった。世界三大宗教はすべてアジア発症である。多元性をまとめるための秩序体型を提供することがアジアの全史を貫く課題だった。アジア各地では宗教という普遍的なものも、多元に共存していた。つまりアジア史において政教分離は成立しにくい。中国の場合も統合の象徴として儒教・朱子学が用意された。
 現代は欧米スタンダードが主流で、歴史というのも西洋中心史観に則っている。日本史と西洋史は近似した歴史課程をたどっている。もともと日本人と中国人は同じ東アジア人であり顔も似ているが、日本人は中国人の言動に、違和感や不快感を覚えることが少なくない。それは西洋史観に浸っている日本に対して、中国は前提条件がまったく違う中国史、アジア史を経過して今日に至っているからだ。日本人は中国という国家を異質な存在ととらえず、西洋化した日本人の既成概念をいったん削ぎ落として、中国の歴史に向き合う必要がある。

シルクロードと唐帝国 (興亡の世界史 05)

講談社 2007 森安 孝夫

 中央アジアをもっと学びたいと手に取った本。序章から作者の思いが爆発する。何か上品な他人事な本よりもこういう本の方が面白い。非常におもしろかった。

本の構成

 序章「本当の自虐史観とはなにか?」では日本人の西洋コンプレックスやそれに対する歴史的な事実。歴史を学ぶ理由。人種や民族、国民について、言語族についても批判的に解説し、作者が考える”自虐史観”とは何かということと、それに対してこの本に込めた作者の熱い想いのたけを詰め込む。

 第一章「シルクロードと世界史」ではまずは地形を見ていき、歴史の中で遊牧民を位置付ける。中央ユーラシアが草原ベルト・砂漠ベルト・半草原半砂漠ベルトと三層構造となっていて、また縦に見ると天山山脈などの海抜2000~3000メートルの盆地は草原になっていて高度を上げると草木がなくなりそらに上は万年雪に覆われる。高度を下げると山肌が見えて更に下には砂漠が広がる。パインプラク高原は東西に250キロ以上、南北に百数十キロの大草原である。そしてこれらの草原や砂漠を通ったシルクロードは東西や南の文明を繋ぐ役割をになったと同時に騎馬遊牧民を生み出した。農業は世界各地で発明されたが騎馬遊牧民はユーラシアにしか現れなかった。また中央ユーラシアの西側のコーカサス地方にインド=ヨーロッパ語族の発祥の地があり、東部のモンゴリアにアルタイ語族の発祥の地があるようにこの草原地帯の歴史的な重要性を物語る。唐帝国の中心は中国本土であるが本書では華北の北方はゴビ砂漠以北をモンゴリア、ゴビ砂漠以南を内モンゴルと区別し、北中国の西方の西域または中央アジアの定義を整理する。もともとは内モンゴルの南にも広々とした草原地帯があり、匈奴を始めとする様々な牧畜民が活躍した。この草原地帯は研究者により重視され様々な名称で呼ばれているが筆者は農業と遊牧が交雑する地域として農業接壌地帯と呼ぶ。農耕都市民と遊牧民がこの地帯で北に南にせめぎ合っていたが唐朝では両者が一体化した最初の王朝であった。
 シルクロードは19世紀にドイツ人の地理学者によって作り出された言葉だが20世紀前半までは絹交易に関する文書が発見されるのがオアシス地帯に限られていたので「オアシスの道」を意味したが、我が国の東西交渉史学が発展をとげ、中央ユーラシアを貫く「草原の道」と東南アジアを経由する「海洋の道」とを含むようになっていく。本書でシルクロードは「オアシスの道」と「草原の道」合わせた「陸のシルクロード」とする。このシルクロードとは線ではなく面である。またどこを通っても良い草原地帯では道があるわけでもない。さらにシルクロードとは東西交易路だとごかいされてしまうこともあるが、南北にも伸びていて多くの支線が網目状になり大小の都市が網の結び目になっている。また絹以外にも金銀器・ガラスなど世界中の特産品が運ばれたが、多数の結び目を持つネットワークであったので中継する方式が一般的であった。また前漢の武帝時代の張騫がシルクロードの開拓者というのも誤解であり一人ですでにあったルートを遠くまで旅しただけである。大航海時代以降のグローバル世界史であり「海洋の時代」には重くてかさばる食料や原材料の大量輸送が可能になったが、アフロ=ユーラシア世界で完結していたユーラシア世界史の時代では軽くて貴重な商品、すなわち奢侈品や嗜好品の中〜長距離輸送が主流だった。これらはアラム商人・インド商人・バクトリア商人・ソグド商人・ペルシア商人・アラブ商人・シリア商人・ユダヤ商人・アルメニア商人・ウイグル商人・回回商人などによって行われていたことが知られている。これらの商人は金銭財物を喜捨して伝播した様々な宗教の活動を支えた。貿易の記録が後世に残ることはまれであるが、建築遺構や高価な顔料を使う壁画などには流通経済による繁栄が残る。先に列挙したシルクロード商人のうち紀元一千年紀を通じて最も活躍したのはソグド商人である。主要な拠点であるソグディアナの諸都市の遺跡では一般のためものからでさえ次々と壁画が発見されている。都市遺跡のペンジケントでは貴族や大聖人の邸宅などの建物では主要な部屋が豪華な壁画によって飾られていたことに驚かされる。このソグディアナは大帝国の中心となったことはなく穀倉地帯でもなく、国際貿易のみで栄えていた。ペンジケントはソグディアナの中のオアシス都市でも大きい方ではないにもかかわらず、豪華な壁画が見つかる。
 筆者は東西交易を軽視する反シルクロード史観を否定する。大航海以前にはシルクロードの東西交易は経済的にも文化的にも重要だった。最後に時代区分については世界史の8段階を提唱している。農業革命、四大文明、鉄器革命、遊牧民の登場、中央ユーラシア型国家優勢、火薬と海路、産業革命と鉄道、自動車と航空基地の8段階である。

 第二章「ソグド人の登場」ではソグド研究史から始まる。日本では明治末期から日本人による研究が進み1924年の「栗特国考」が初期の代表作である。20世紀に華々しい成果を挙げたソグド研究は21世紀には地位が危うくなる。中国の研究者の台頭である。その後フランスでも最新情報を含む書籍が発行され、英訳もされたため、日本での研究結果を欠いた本社が欧米の研究の基礎になることを憂いている。
 ソグディアナはソグド人の土地の意であり、ユーラシア大陸の真ん中に位置するソグド人の故郷である。アム河とシル河なら挟まれたマーワラーアンナフルやトランスオクシアナと呼ばれた土地の一大中心がソグディアナで、鉄器の使用が普及した紀元前6〜前5世紀ごろが灌漑網が整備されて、農業を基本とするオアシス都市国家が栄えた土地である。ソグディアナはほとんどウズベキスタンに属しているが東の一部はタジキスタン国領になっている。ここにはサマルカンドをはじめ多数の都市国家があるが豊かな土地で前6〜前5世紀に発展し、5〜6世紀に大発展期を迎える。人口増加に対してオアシス農業には限界があったので交易に従事する者が出てきたと分析する。そしてこの地は東の中国、東南のインド、西南のペルシア・地中海地域、西北のロシア・東ヨーロッパ、東北のセミレチエ〜ジュンガリア〜モンゴリアへと通じる天然の交通路たるシルクロードに続いてたので、ソグド人は国際的なシルクロード商人に発展し、広い範囲にコロニーを築いた。
 ソグド人はコーカソイドであり白皙、緑や青い目、深目、高鼻などの身体的な特徴を持つ。ソグド語は今は滅びたが中世イラン語の東方言であった。紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアのキュロス二世の制服を受けて、アラム語がアラム文字で書かれるようになりアケメネス朝滅亡後にアラム文字でソグド語が書かれるようになり、さらにアラム文字が草書化しソグド文字となった。ソグド文字は突厥・ウイグルに伝播して、ウイグル文字やモンゴル文字へ、そして満州文字になった。ソグディアナはアレクサンドロスの遠征の東の最終地点になり、セレウコス朝シリア、バクトリア王国の領域に含まれるが、その後は8世紀前半にウマイヤ朝の支配を受けるまではほぼ独立を保っていた。その後はイスラム帝国の支配を受けゾロアスター教からイスラム教、ソグド語もペルシア語に変わっていく。9世紀終わりのサーマーン朝はペルシア人王朝でありアラビア文字ペルシア語が主流となり現在のタジク語に繋がっていく。10世紀後半からは草原からトルコ人王朝が支配を強めてきてトルコ語が優勢となる。
 ソグド人が商業をしている記録は漢文史料やイスラム資料にあり、商いを良しとすることや紙を生産している記述がある。またソグド語の古代書簡は312~4年くらいの5通の手紙がみつかっているが、中国国内からサマルカンドの親族に当てたものであり、中国の政治的な動きや中国内のサマルカンド人などの言及がある。これにより匈奴がフンと呼ばれていたことが確証された。また郵便制度があったこともわかる。また敦煌の遺跡のミイラが履いていた紙の靴から偶然見つかった書簡は商業税に関するものであり、課税や取引の実態を示していて登場する象がんの多くがソグド人でありソグド人商人の存在感を表している。社会構成としては自由人と非自由人が別れていて、商人の地位が高く聖職者が重視されていない。男女とも財産を渡せば離婚できるなど女性の地位は比較的高かった。私兵として奴隷の軍人がいたことがうかがえる。
 漢文史料の中で商胡など胡と付けばイラン系商人や西域商人とみなしてよいとされてきたが、本書ではこれらの多くはソグド商人であるという説を打ち出す。特に唐代では興生胡や興胡とあれば100%、それ以外でも十中八九をソグド商人と見て良いとする。ただし後漢から魏晋南北朝時代ではそうではない。またサマルカンドなら康国というよに、漢文書の行政上の必要からソグド人は出身国によって姓を持たされていて、安・米・史・何・曹・石などであり、ソグド姓と呼ぶ。東方に発展したソグド人商人の足跡は四世紀前半には中国に及んでいることは明白だが、古くは後漢から三国魏の時代まで遡ることは疑いがない。河西地方だけでなく長安・洛陽や四川でも活躍した足跡を見る。ソグド人が残した遺跡や墓地、碑文や岩壁銘文からその集団での居住跡をたどると、同郷の仲間や家族、親族を各地に配置しネットワークを構成していた様子が見えてくる。
 ソグド人の軍事面は積極的だったという説が最近に定着しつつある。三国志にも支富が月氏を康植が康国の軍団を率いて参画した記述がある。彼らは西域商人のリーダーであるばかりでなく軍団長になりうる人物だったのかもしれない。また初唐のソグド人の墓では被葬者は大夏月氏人也と書かれたので月氏も広義のソグド人に含まれていた可能性がある。また外構ネットワークにも寄与したことがわかっており、安吐根という人物は柔然や北魏の実力者と通じ、東魏と柔然の政略結婚に尽力し、さらに北斉で高位高官まで上り詰めた。また酒泉胡は西魏の公式使節団の長として突厥を訪れた。また虞弘墓から発掘された墓誌によると父は柔然の官職で北魏に来た経歴があり、虞弘も柔然の官職でペルシアや吐谷渾国を訪れてその後北斉に派遣されたときに関係悪化から勾留され北斉・北周・隋に仕える。彼もソグド人だったと推測される。また当時ソグド語は国際語であり、突厥のモニュメントにもソグド語で記されていて公用語だっただけではなく、突厥の政治・経済・外交の顧問としてソグド人が使えていたことが判明している。ソグド人にとって重要な地域は河西地方だが重要な都市としては敦煌が挙げられるが涼州は河西最大の都市として玄奘の伝記にも挙げられている。439年には河西地方を支配していた北涼は北魏に整復されて、ソグド人も奴隷の身分になったとされるが、ソグド王は奴隷の身分からの解放に尽力したと予想している。東方に向かったソグド人は北魏〜隋では薩宝という官称のリーダーに率いされていたことがわかっており、これはソグド語のサルトパウに由来する言葉でキャラバンのリーダーという意味だがこれが転化したものだと判明している。唐の建国に多大に尽力した安興貴の祖父も涼州薩宝だったことが知られている。隋末617年に三万の兵を率いて太原を出た李淵は長安城に入り618年に唐朝を創業し武徳と改元した。そのころ涼州薩宝の家系に生また安修仁は他の漢人胡人と涼州に李軌政権を擁立した。兄の安興貴は唐に使えていたが李軌を唐朝に帰属させるために涼州に戻り説得したがうまく行かず胡人集団を率いてクーデターを起こし李軌を捕らえ、武徳二年に河西地方を唐に献上した。この安一族は最初から両者を天秤にかけて一族の安全保証を計っていたと見られる。最近この安修仁の墓碑銘が見つかり隋朝の武官として涼州在住の胡人集団を統率して、李軌政権を傀儡とできた背景にはこのソグド人軍団がいたことを指摘した。この新説は隋王朝に五胡以外のソグド人が府兵制の一部を担っていたという新事実を明らかにしている点で意義深い。安興貴の息子の安元寿は李世民のそばで秦に仕え、元武門の変の際にはソグド人兵力を動員したこともわかっているがその後官職を辞し涼州で家業の東西貿易や馬の生産を継いだと考えられる。このように馬を生産し馬とラクダを機動力にした東西貿易に従事する一方で騎馬を中心とする武装集団として発展し、さらにトルコ系や漢人軍閥へも軍事力を提供して政治にも関与していたと読み解ける。

 第三章「唐の建国と突厥の興亡」では、、まず唐までも当時の異民族の王朝として拓跋国家と呼ばれ、中国国内でも同じような認識である。また現在の中国内の少数民族の定義の中に匈奴、鮮卑、柔然、突厥などは含まれていないが、それは魏〜唐までの間にこれらの民族が漢民族に融合したからである。唐の国際性・開放性はこのような異民族との血と文化の融合によって生み出されている。突厥やソグドなどの異民族たちも漢語を話した。この唐帝国の創建を担ったのは北魏の武川鎮に由来する鮮卑系集団であることが定説である。この武川鎮は北魏が配置した辺境軍鎮六鎮の一つである。孝文帝が洛陽に遷都すると六鎮の将兵への待遇が悪化して不満が六鎮の乱となった。そして混乱によって北魏は東魏と西魏に分裂し、西魏に入った武川鎮出身の少数派は在地豪族と手を組み胡漢融合集団を形成し、それを基板にして北周の宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏が相次いで政権の座についた。隋の煬帝が三度の高句麗遠征に失敗すると、煬帝と同じ胡漢融合集団出身の李淵が617年に挙兵して長安を目指した。618年に煬帝の孫の楊侑が殺させると李淵は初代皇帝・高祖となった。そこから5年かけて各地の群雄が平定されて国内が統一させる。また霊州・夏州を擁するオルドスは重要な地でありオルドスを支配していた匈奴系の集団が李淵を支援したと考えられている。唐の最大のライバルは突厥第一帝国であったが、北斉・北周の時代はほぼ属国で貢物をしたり血縁関係を結んで何とか耐え忍んでいた。しかし隋の時代になると突厥を東西に分断させることに成功し、北の突厥が南の分裂中華を操っていた時代を逆転させ、北中国を再統一した隋が分立した突厥を操るようになる。東突厥の突利可汗は懐柔策に乗せられて漠南に移って自立し隋本土を転々とするが最終的には隋の後押しで東突厥可汗として返り咲いた。しかし突厥第一帝国の第十二代可干の始畢になると周辺の王国を臣下において勢いも増してきた。中華では反乱が相次ぎ分裂状態になったが群雄は突厥には服従し可汗の称号をもらっており、突厥が中華を上回っていた。また西突厥も隋の影響を脱して勢いを回復してきており、中央アジアを制圧してくる。またかつて突厥に嫁いだ義城公主が隋の末裔を呼び寄せて隋の亡命政権を漠南においた。漢文資料には唐を興す李淵は突厥の大可汗の臣下だったとは書かれていないが、あとから消されたと推測される。ソグドは李淵への帰属を決断し唐を軍事的にも支えたので、その反映が約束された。
 建国直後の唐は各地の群雄を制圧していったが活躍したのは次男の李世民であった。李世民はクーデターを起こし最終的には大宗という最高指導者になる。突厥分離政策で唐への投降を促し東突厥を弱体化させ隋の亡命政権も撃破する。こうして建国から10年を経た630年に国内の群雄や隋の亡命政権、東突厥を制圧し統一を果たす。唐に投降した旧東突厥人の扱いで意見が別れたが、オルドス長城地帯の農牧接壌地帯に遊牧民として集住させた。ところが639年に反乱を起こしたので、故郷の内モンゴル草原地帯に帰した。
 唐の太宗は草原遊牧地帯の族長たちから天可汗と称されていた事実を捉えて、これは農耕中国では皇帝として草原地帯では大可汗として世界帝国になったという解説も見られる。しかし古代トルコ語資料ではタブガチという拓跋から訛ったと思われる名称で認知されていたので、北魏以来の拓跋国家の天子はトルコ=モンゴル系遊牧世界から見れば唐の太宗は北方の拓跋国家の血を正当に引いているので、天可汗と呼ばれることは自然なことだった。筆者は太宗とその皇后の墓である昭陵に団長として調査にあたった。山陵の中腹にある外国人の石像が遊牧国家やオアシス国家のリーダーであることを解説し、遊牧世界からの認識を裏付ける。646年太宗は薛延陀を打倒し鉄勒諸部を内属させた。そして緩やかな支配地域である羈縻(きび)府羈縻州をおいて支配し、馬や食料を備えた郵駅をおいて使者の往来の便を確保した。一方で西方に目を向けると東トルキスタンにはオアシス国家と、ハミ地方にはソグド人やゼンゼンの植民都市が形成されておりインド=ヨーロッパ系言語の住民が占めていた。それらの諸国はすべてトルコ族の間接支配をうけていた。唐が東突厥を滅ぼすと西域情勢は唐に傾き、ソグド人国家も唐に来降した。648年に安西四鎮を設置してトルコ勢力排除を完了した。天山以北に西突厥がいたが617年頃に即位した統葉護可汗の時に大発展した。玄奘に安全保障を与えたのはこの人物である。西突厥は一旦は唐に属したが太宗の死去の651年にトルコ系所属が統合して唐に反旗を翻し、唐支配が瓦解した。しかし唐は討伐軍を派遣し6年かけて西突厥を敗北させた。この戦勝に功績のあった西突厥王族を可汗として冊立し、太宗時代以上に西域支配を安定させた。7世紀後半以降は北上してきたチベット帝国の勢力も加わり、唐とチベット、トルコ所属が三すくみになって争っていく。筆者は唐の太宗までが遊牧国家に似た武力国家であり唐が世界帝国であった時期とする。

 第四章「唐代文化の西域趣味」では胡姫を中心とした文化について説明する。唐代は胡風・胡俗が大流行した時代であり、それゆえに国際的であったとされる。胡服・胡帽だけでなく、胡食・胡楽・胡粧さえも歓迎された。ここで言われる「胡」は前漢までは匈奴を指し、五胡十六国時代では匈奴・鮮卑・ 羯 ・ 氐 ・ 羌の遊牧民を指し、後漢時代からはソグド人を始めとする西域人を含むようになり、隋唐時代にはオアシス都市の人々を指すのが優勢になる。場合によっては突厥・ウイグルを指すこともある。次に胡を含む言葉を取り上げる。胡桃や胡瓜、胡麻に加えて、胡椒、胡食、胡服について分析する。胡姫と呼ばれるダンサーに金持ちが通う様を唄った詩を取り上げる。胡姫は従来ではペルシア系の女性と思われていたが、ソグド人の墓から胡姫をモチーフにした石製葬具が発掘されており、ソグド人であると変わってきている。この胡姫が踊ったとされる小さな円の絨毯の上で回りながら踊る胡旋舞や跳躍する胡騰舞の様子や詩を紹介し、これらの胡姫たちのパトロンであった貴族や玄宗が作った梨園などの国家的な機関の説明が続く。

 第五章「奴隷売買文章を読む」では、、筆者がウルムチの博物館で女奴隷売買契約文章を見つけたところから始まり、様々な困難を乗り越え1989年の出版に至り、その後様々なところで参照される文章となった。内容は売主はサマルカンドのソグド人、買主は漢人の仏教僧侶、トルキスタン生まれの女奴隷をいくらで買うというものである。それより100年以上前の漢語で書かれた契約書もあるが、それらもソグド人が売主である。ソグド語の文章の中には「彼女を好きなように打ったり、酷使したり、縛ったり、売り飛ばしたり、人質としたり、贈り物として与えるなり、何でもしたいようにしてよい」という文があるが、同じ時期のバクトリア語の契約書の中にも似たような文章があることが発見された。
 ここから奴隷の説明が始まるが、基本的には奴隷は主人の所有物であったが以前は精密機械であり、生産奴隷、家内奴隷、軍事奴隷に分類される。国によるが男性の場合には主人の部下や代理人として重要な地位を占めるものもいたり、女性は貴族や富豪の家内奴隷の場合には主人の性交渉もさせられる悲惨さはあるが一般の女性よりも裕福な暮らしをしたものもいた。後漢時代でも賄賂として馬や奴隷が使われていたことや、胡姫などは私奴隷であったと筆者は推測する。唐代の人民の身分は戸籍を持つ良民と持たない賎民に別れていた。さらに賎民は上層と下層があり、下層は官と私に別れていた。官賎民は犯罪者や戦争の捕虜などであり、私賎民は奴婢であった。良民の売買は禁止されていたが実際にはあり、賎民を良民として放つことは善行とされていたり自身で蓄財して良民となることもあり、唐代の良賎の身分は固定的なものではなかった。
 また奴隷市場の存在を示すトゥルファン出土の漢文文書や敦煌文章でも人身売買が行われた例がある。良馬は現代の高級車に匹敵するが、そのくらいの値段で現在の精巧なロボットとも言える奴隷が売買された。それらは口馬行と呼ばれる店舗で売買され、口とは奴隷のことであった。唐前半の安定期では普通の普通の馬<普通の奴隷<名馬<高級奴隷のような値づけだったという研究がある。馬を持つことができるのは王侯・貴族・官僚・富豪などに限られていて、突厥馬などの外来馬は今で言えば高級外車とも言える。一般庶民はロバを使っており国内馬にも手が届かなかった。
 唐代の胡姫・胡児の売買は遠距離間で行われたので近代アメリカの奴隷貿易のケースに似ている。ソグド人が唐帝国内を奴婢を連れて旅行していたことは兼ねてから指摘されていて、これらは商品であった可能性がでてきている。また大量のソグド姓を持つ奴婢が一つの家で同居生活したような資料もあり、奴婢の寄宿舎のようなものであったと考えられている。シルクロードでは絹馬交易だけでなく絹奴交易も行われていたと説を紹介している。

 第6章「突厥の復興」では、、、、630年に滅ぼされた東突厥は679年に旧東突厥の王族を擁立し復興のために反乱を起こした。周辺の突厥集団も呼応し一時は唐を圧倒するが唐は30万の勢力を投入し翌年に鎮圧された。また同じ年にソグド系突厥集団は六胡州に置かれる。旧東突厥は翌年また反乱を起こし鎮圧されるも682年の反乱は成功しイルテリシュをリーダーに東突厥第二帝国を復興させる。一方でソグド集団は721~722年に反乱を起こすが失敗し独立できなかった。突厥第二帝国は漠南の山陰山脈地方に本拠地を置いたが、漠北にも勢力を拡大し、漠北に勢力を移した。この突厥復興に大きく寄与した第二のリーダーであるトニュククは突厥として初めて碑文を残す。碑文によるとイルテリシュとトニュククが蜂起した勢力はわずか700人で2/3が騎馬、残りは徒歩だった。こうして唐の羈縻支配体制は崩壊するが突厥にとっては630年以降の50年間のタブガチという異民族による支配は屈辱の時代として記憶される。次のカプガン可汗が即位して中国の武州革命の時期で則天武后に対して中国侵略と和睦を繰り返した。696年には中国に残っていた突厥降戸の変換と単干都府の割譲と、その地での農耕のための種子と農具を要求し、則天武后は憤激したものの6州と農具を与えた。またカプガン可汗は中国に婚姻を求めたのに対し、則天武后は自分の一族を派遣して彼にアプガン可汗の娘を娶らせようとしたが、アプガン可汗は唐の王族の李氏ではないと激怒し、華北各地に入寇させて大量の漢人男女を略奪した。これは内モンゴルの可耕地に従事させるためだと思われている。706年以降では突厥は北方・西方経営に忙殺され、南方の漠南に隙が出て唐の張仁愿が黄河大屈曲部に受降城をもうけると形勢が逆転した。一方の突厥は西方にいる旧西突厥系や他のトルコ系の部族や唐支配下の東部天山北麓への遠征など兵を出し、国家は拡大していた。アプガン可汗の次に即位したビルゲ可汗は南の唐とは宥和政策をとり東西に勢力をふりむけ、唐とトルコ族が南北を分け合い、草原の道の支配権はトルコ族に戻る。この頃のソグド人資料はあまりない。そこで唐の玄宗期に大反乱を起こした安禄山の生い立ちに関する資料にあたると、716年にカプガン可汗がなくなると多数の突厥人・ソグド人・ソグド系突厥人が党に亡命してきたことがわかり、その中に安禄山やその養父がいたことがわかる。また安一族の中で唐に使える胡将軍がいたことが注目される。701年には突厥軍がオルドスに進軍し六胡州を経略したことからソグド人・ソグド系突厥人が唐から突厥に移動したとみられる。
 ここで25歳で夭折した突厥可汗の王女の墓碑銘を紹介する。カプガン可汗の死後、その娘は唐に亡命した。唐はビルゲ可汗を包囲攻撃しようとするが失敗して敗退する。そしてビルゲ可汗は唐に公主降嫁を求めてきたが唐側は選定に苦慮し、後宮にいるカプガン可汗の娘を唐の公主にしたてた。しかし嫁入り準備をしていたが何の前触れもなく死去してしまう。筆者は王女が自分の父を殺した一家の宿敵に嫁ぐことを憂いで自殺したのではと想像する。

 第7章「ウイグルの登場と安史の乱」では、、、ビルゲ可汗の没後、突厥第二帝国は急速に衰える。742年にはバスミル・カルルク・ウイグルの三者連合がユーラシアの東半分の覇者であった。744年にはバスミルを撃破し、745年にはウイグルが漠北を100年間を支配する。シネウス碑文によればセレンゲ河畔にソグド人と漢人を駆使してバイバリク城を築いたとある。古代ウイグルが果たした歴史的役割は安史の乱の鎮圧し唐を延命させたこととマニ教の国教化だ。家畜の解体を常とする放牧民族が殺生を戒めるマニ教に改宗したかは謎である。またソグド人商人はウイグルと結びついて絹馬交易を行なっていたが、状況を考えるとソグド人とマニ教が結びついていた影がみられる。牟羽可汗は強い抵抗を押し切って改宗を進めたが、ソグドネットワークの利用という経済的・政治的な理由があったように思われ、779年にクーデターによって殺される。第七代懐信可汗のときにマニ教を名実ともに国境にしマニ教徒ソグド人を優遇した。
 安史の乱の安禄山は10代で突厥から亡命し、山西地方の安貞節の元に腰を落ち着け、六種類の弦を操り、国際商業市場の仲介者になり、軍事にも通じて武人としても成長していった。張守珪に抜擢され契丹・奚討伐で活躍したことで彼の養子となり武人として出世して玄宗や楊貴妃の恩寵を受ける。755年安禄山は玄宗の側近にある奸臣楊国忠を除くことを目的として兵を挙げる。親衛隊8000騎を中心として10万から15万の大軍を率いて河北地方を南に降り洛陽を陥れた。756年玄宗は蜀(四川)に、皇太子は郭子儀の本拠地であった霊武へ向かい粛宗として即位する。粛宗はウイグルに支援を求めるためにモンゴリアに敦煌群王承寀やトルコ系・ソグド系の武人を派遣する。オルホン河畔にある首都オルドバリ区で会見が実現すると第二可汗である磨延啜 は喜んで承寀に自分の妹を娶らせる。安史勢力は突厥・同羅・僕骨車5000騎を率い、長安より北方へ進軍し、唐の支配下で河曲にいた九姓府・六胡州らの勢力数万と合流し、粛宗のいる霊武を襲わんとした。郭子儀は、可汗の磨延啜自身が率いてきたウイグル本軍を陰山から黄河流域への出口に当たる呼延谷出迎え、これと合流して安史勢力を退け、河曲を平定した。757年に安禄山は実子の安慶緒や部下によって暗殺された。安禄山の盟友である史思明は独立分離し范陽(北京)に帰還した。粛宗は鳳翔まで南進しさらに派遣された葉護に率いられたウイグル軍を加え15万に膨れ上がり、広平王を総帥とし鳳翔を出発した。唐の郭子儀軍やウイグル軍によって都市を奪還しついに洛陽まで奪回した。粛宗は葉護を労い司空の位を与え、金銀器皿を下賜し、毎年絹二万匹を支給することを約束した。758年ウイングルの使者一行が長安に来て、公主降嫁を要求した。粛宗は幼少であった実の王女を寧國公主に封じて降嫁させた。759年史思明は安慶緒を殺し大燕皇帝として即位する。同年ウイグルの磨延啜可汗が急逝すると、長男葉護は罪で殺されていたので、末子の移地健が第三可汗として即位する。史思明は洛陽に入城し、再び東西対立する政権が誕生した。しかし史思明は長男の史朝義に変わって妾腹の子・史朝清を溺愛し貢献者にしようとしたため長男の史朝義の部下が史思明を捉えて幽閉し、761年には史朝義が即位した。762年に玄宗が死去した10日後に粛宗が崩御し代宗が即位する。ウイグルの牟羽可汗は唐の君主の崩御に乗じて10万の兵を率いて南進する。同じ頃、代宗は史朝義を打倒するためにウイグル軍を要請する使者・劉清潭を派遣していた。劉清潭はゴビ砂漠に入る前に牟羽可汗と遭遇し、思いとどまるように説得するもうまくいかず、妻の実夫である僕固懐恩が説得し再び当側に着く。ウイグル軍と僕固懐恩の軍が共に戦い、ついに洛陽を奪還する。763年に追い詰められた史朝義は自殺し、安史の乱が落ち着く。牟羽可汗はそのままモンゴリアに戻る。これらの経緯はオルホン河畔に残されたカラバルガスン碑文に断片的に残されている。この碑文はウイグル語・ソグド語・漢文で書かれており、シルクロード東部でのソグド語の重要性を示している。この碑文では牟羽可汗の方が磨延啜より大きく取り上げているが、それはマニ教との関わりが深かったからだと分析する。
 安史の乱は唐帝国に大きな影響を及ぼし、安史の乱の前は自力で軍事力を調達する武力国家であったが、安史の乱の後では経済力で平和を維持する国家になったという研究もある。筆者は安史の乱を10世紀の中央ユーラシア型国家優勢時代の先駆けとなった現象と捉え、安史の乱の時代にはまだ安定的な征服王朝が構築される要素である文字などが整備されていなかったことを安史王朝が維持できなかった理由として挙げている。

 第八章「ソグド=ネットワークの変質」では、、唐の初期までのソグド人と、太宗高宗時代のソグド人では中国での扱いが変わってきているという研究がある。かつては中国内に大人数で住もうとも外国人であったが、唐がソグディアナを羈縻支配し外国人ではなく興胡という地位を与えた。これにより道途でさまざまな公的なサービスを受けることができた。牟羽可汗とソグド人の分析が続く。
 次に、五人のホル人の報告を書き写したという敦煌出土のペリオ=チベット語文章1283番の更新版の全訳とその分析が続く。中に出てくる安禄山に見出された張忠志は762年に支配下にあった五州をもって唐に帰順した。唐の後半は張忠志のような節度使に半独立国家に割拠されるようになる。このホル人の報告はシルクロード東部から唐本土を除いた全地域になり、ホル王国・ホル人の情報網の広がりが分かる。そして筆者はこのホル人とはソグド人であるとしている。
 シルクロードではソグド人が高額貨幣として金銀に加えて絹織物が使われていたことが漢文文書から明らかになっている。780年になると納税には銅銭が使われていたものの、遠距離を運ぶ必要がある場合には軽貨と呼ばれていた絹織物が使われていた。絹馬交易の研究では突厥・ウイグルにとって絹織物が重要なものであったとされている。この絹織物をさらに中央アジア・西アジア・東ローマに送っていたと考えられる。しかし筆者は唐に売られた馬に比べて対価として流入した絹が多すぎると感じていたが、輸出の中に大量の奴隷があったとしたら納得できるという。またソグドの胡旋舞を学んでサロンで気に入られた武延秀の逸話にもあるように、突厥宮廷の文化もいけていたと言える。またウイグルのソグド商人は絹馬交易を担いウイグルマネーで唐本土の金融資本を支配した。

 終章「唐帝国のたそがれ」では、、、筆者は中央アジアの大勢を決した関ヶ原の戦いは八世紀末のウイグルとチベットで行われた北庭争奪戦と考える。八世紀を通じて中央ユーラシアの真ん中にある中央アジアの覇権を争ってきたのは、東の唐帝国、南のチベット帝国、西のイスラム帝国、そして北のトルコ帝国(途中からはウイグル帝国)の四者である。西のイスラム帝国にはパミール声の余力がなく、東の唐は安史の乱で西域支配の手を緩めざるを得ない。残ったのは北のウイグルと南のチベットである。ウイグルは安史の乱以降に唐とは友好的だったのに対して、チベットは敵対的だった。チベットは一時的には北庭を襲撃しウイグルをモンゴリアまで退却せさるが、最終的にはウイグルが勝利し、唐が退場した中央アジア東部を南北に分け合う。
 821年ごろに唐とチベットが講和条約を結んだことはよく知られている。安史の乱後に唐とウイグルは密接な関係にあったので、ウイグルとチベットが講和を結んでいれば三国が会盟を結んでいれば大きな出来事なので筆者はその証拠を探していた。ペリオ文章の断片とサンクトペテルブルグにある敦煌文書の断片がぴたりと接合し、三国会盟の証拠になり、チベットの国境線まで判明した。ゴビ砂漠が三国の国境となっている。また関連してゴビ=アルタイ東南部のセブレイにカラバルガスン碑文があり、ウイグル語・ソグド語・漢語で書かれているが、筆者はこれを三国会盟をウイグルで記念したものと解釈している。漢王朝でも明朝でもゴビ砂漠は国境であり、国境でなかったのはモンゴル帝国・元朝・清朝だけである。
 ウイグルは830年代の終わりに自然災害と内訌につづき、キルギスの侵攻を許して崩壊する。西に向かったウイグル人たちは東部天山山脈に落ち着き、840年代にチベット帝国が内部瓦解し河西回廊から撤退すると、ウイグル族は南進し甘州ウイグル王国を建てる。ここから中央アジアのトルキスタン化が始まったとする。一方でソグド人はソグディアナがアッバース朝の支配下になりイスラム化してくるとソグド人の宗教的文化的な独自性が失われていった。西部天山の北麗には11世紀までソグド人集団が確認されているが、彼らはトルコ語を話しトルコ服をきていた。シルクロード東部のソグド人は西ウイグル王国、甘州ウイグル王国などの中で商業経済を支えるものや武人として生き残っていった。ソグド文字はそのままウイグル文字となり、ウイグル文字がモンゴル文字となって、モンゴル文字が改良され満州文字となっている。

 「あとがき」では、筆者は文明の発展の中で中央ユーラシアの騎馬遊牧民の重要性を確認し、西洋中心主義も中華主義思想も不要とする。また「世界史」に値するのは14世紀初頭の「集史」でありイスラム圏で生まれている。日本は明治維新以降に西洋中心史観をそのまま需要した。一方で明治体制への復古を願う刻主義者などは極端に日本民族と日本文化の純粋性を美化する方向にはしっているという。『民族も文化も元も全ては長い人類史の中で互いに混じり合いながら生成発展してきたものであって、純粋という名の排他的思想に学問的根拠は微塵もないと認識すること、これこそが人類の未来を切り開く道である」と筆者は信じているという。また世界史の教科書が肥大化しすぎているので西洋史を大幅に削減して、近隣の挑戦・北アジア・東南アジアの歴史と遊牧騎馬民族の動向についても記述をふやしてはどうかと提言する。

気になった点

 途中にゴビ砂漠がなくなっていた時期があったとあったが、そこのところを詳しく知りたいと思った。ゴビ砂漠が国境になっていたというのであれば、そのような地形の変化は国家の関係に影響すると感じた。
 言葉には興味があるので胡服についてや、洋服の起源・発展などは興味深かった。麺が小麦というのは知っていたが、餅については知らなかった。しかし、なぜ日本ではあれが餅(モチ)なのか。店舗の並びを”行”とよび、それが銀行の行になっているというのも知らなかった。
 ソグド人については奴隷貿易があったのは衝撃的だった。ソグド人がそれで儲けていたというのであれば納得できる。
 遊牧騎馬民族などの軍事国家は国を維持するために他国への進攻を続けなければならず、兵を休められず生産性が低いというのは興味深かった。国の結束が弱ければ弱いほど他国への侵攻を続けなければならないのは理解できる。

最後に

 序章から作者の思いが爆発したような書籍で楽しかった。何か上品な他人事な典型的な本よりも新しい視点を積極的に提案しているので刺激が多かった。冗長な部分もあるのでちょっと長く感じたりするかもしれませんが、中央アジアの歴史や脱西洋中心主義に興味がある人にもおすすめです!

ロシア・ロマノフ王朝の大地(興亡の世界史 14)

 そろそろロシアについて読んでみても良いかと読み始めた。キエフ公国のあたりから現代の最近の歴史まで網羅できたのは非常に有益だった。

本の構成

 序章では、1550年頃のモスクワ公国から植民政策を通して領土を拡大した歴史、ピョートル大帝によるヨーロッパ化など大きな流れをさらう。第一章「中世ロシア」では、ノルマン人によるキエフ王国の建立からリューク朝による統一までのロマノフ王朝以前の歴史をさらう。
 第二章「ロマノフ王朝の誕生」からは民主的なミハイルと専制的なアレクセイの時代を説明する。第三章「ピョートル大帝の革命」ではピョートルの時代のヨーロッパ化をさらう。第四章「女帝の世紀」ではエカチェリーナ時代の地方政治の整備などを主に語る。第五章「ツァーリたちの試練」ではナポレオンの進軍からクリミア戦争の敗北までをさらう。第六章「近代化のジレンマ」では、リベラルな思想を持ち農奴解放を行ったアレクサンドル二世の治世を取り上げる。第七章「拡大する植民地帝国」では中央アジア・極東への帝国の拡大を見ていく。第八章「戦争、革命、そして帝政の最期」ではニコライ二世が日露戦争・第一次世界大戦を経てロマノフ王朝の終焉に向かう様子を描く。
 第九章「王朝なき帝国」ではロマノフ朝の後のレーニンからゴルバチョフまでを解説する。つづく「結びに変えて」ではいくつかの作者がポイントをさらう。

第一章「中世ロシア」

 ノルマン人の移動により8〜9世紀ごろにキエフ国家をたてコンスタンティノープルと通商条約を結び交易して栄えたところから始まる。ノルマン人は少数派でスラブ人と同化した。キエフ太公ウラジミールはビザンツ帝国のバシライオス二世に反乱鎮圧を要請され、交換に妹アンナを妻にすることを同意されたが、その際にキリスト教への改宗をした。15の公国に分裂したキエフ国家は12世紀後半には事実上解体した。その中で交易で栄えた共和国のノヴゴロドが力をつけた。
 13世紀前半に東方のタタール人の攻撃に合い、略奪と殺戮により徹底的に荒廃させられる。信仰の自由を認められたが人頭税を始め厳しい税を課される。240年のモンゴル人のロシアの支配は団結を促したものと肯定的に捉える研究家がいるもののキエフの人口は数百世帯まで減少したなど都市を荒廃させたため文化的に200年も後退したと見積もられている。
 その後、地の利もあったモスクワ公国が勃興する。クリコーヴォの戦いでキプチャク・ハン国を敗走させた後、イヴァン三世はノヴゴロドに勝ちロシアを統一しツァーリを名乗る。国を失ったビザンツ皇帝の姪ソフィアを妻にし、正教ロシアがビザンツの遺産を引き継いだともされ、コンスタンチノープルからの技術者の流入や文化的にもイタリアとの交流も活発化した。次のイヴァン四世は専制を志向した特殊な皇帝だったがカザン・ハン国を制服し、タタール人貴族たちを従属させた。しかしイヴァン四世の子は世継ぎを残さないままなくなりリューリク朝は途絶えた。

第二章「ロマノフ王朝の誕生」

 リューリク朝断絶による混乱から始まり、1612年ゼムスキー・ソボールという全国会議が開かれ波乱があったもののミハイル・ロマノフが選出される。戦乱と混乱の時代には国民の支持が必要でゼムスキー・ソボールは毎年開催された。ポーランドとの和解が成立しミハイルの父フィラレートが帰国するとゼムスキー・ソボールは開催されなくなる。新軍が結成され西部の国境の町を取り戻そうとポーランドと戦闘になるがその中でフィラレートは命を落とし戦いにも敗北する。敗北の直接の原因がタタール人の侵入との知らせにより士族が戦線を離脱したことだった。これによりロシアの万里の長城であるベルゴロド線が20年かけて建設された。ミハイルがなくなり子のアレクセイが後を継ぐ。すぐに税制改革に反対した国民の一揆により改革を主導していた寵臣モロゾフの更迭を余儀なくされる。同時に1648年にゼムスキー・ソボールが開催され都市と農村の再編を促した。農民は移転の自由があったが士族には不利なものだったため、士族は移転の自由の禁止や不法な移転を取り締まりを認めさせ最終的には農奴が成立した。この農民問題が解決されたことと、士族の役割の変化と、都市民の中の富裕層が生まれ、ゼムスキー・ソボールも開催されなくなった。17世紀後半の軍政改革により士族的は地方をまとめる騎兵軍から将校になることで地方との関係が薄れ、地方はモスクワから派遣される地方長官による統治に置き換わった。貴族会議は残っていたものの人数が増し形式化し、アレクセイは専制君主として国を治める。
 ロシアが正教の正当性をコンスタンティノープルから引き継ぐという重圧からキリスト教の形式を正すことになって行ったが、土着の宗教形式を弾圧した徹底的なものだった。ある修道院が蜂起して軍と戦闘が行われた。また古い儀式を守り集団自決をした地方もあった。地方ではこの強引なキリスト教化に加えて地方長官の不正も重なり、1670年にコサックを主体としたラージン軍の反乱が起こるが政府軍に倒される。

第三章「ピョートル大帝の革命」

 1676年にアレクセイが亡くなるとアレクセイが再婚したナルイシュキナ家の子供として生まれたピョートルは後継者争いに巻き込まれるが、正妻の息子フョードルが亡くなり正妻の娘ソフィアをおいやり最終的に実権を手にする。軍事に興味があったピョートルは一度は失敗したものの1696年にオスマンの要塞アゾフを落とすことに成功する。1697年から250人を連れて大使節団をヨーロッパに送り出す。ただしピョートル自身もコッソリと入っていた。アムステルダムで船大工として働き、ロンドンに移動し造船所やその他博物館などを見学したり買い物をしたりして、ウイーンを訪れ、一揆の知らせを受け帰国する。その後、北方同盟で対スウェーデンの準備を整え宣戦布告するものの若いカール12世の奇襲を受け初戦で大敗北を喫した。カールはポーランドに向かい7年を費やし傀儡政権を建ててからロシアとウクライナで対峙する。7年の準備期間も幸いし、ウクライナの裏切りがあったものの首尾よく処理し、スウェーデン軍を全滅させる。そこでバルト三国を手に入れる。ピョートルの時代は戦争の連続だったために村単位の徴兵制や貴族の軍人化、人頭税の導入などを中央集権化が進められる。また強引なサンクト・ペテルブルグの建設、参議会の発足、教会の従属化、バルト海貿易ルートの開拓などが行われた。世継ぎがない状態で世を去る。ピョートルの時代はロシア人にもっとも誇りを感じる時代という。

第四章「女帝の世紀」

 まずピョートルの側近のメーンシコフが擁立された皇帝を介して支配するようになるが反発を買いすぐに終わる。名門貴族ドルゴルキーも同様に支配を試みるが最終的には失敗する。アンナの次にエリザヴェータが実権を握るが、跡継ぎとしてピョートル大帝の孫のペーターがエカテリーナ二世を妻とする。ピョートルはドイツ贔屓でクーデターで失脚させられ、皇后が帝位につく。コサックの反乱があり何とか鎮圧したが、再来を防ぐために地方の強化を急ぎ、県や群を増やして発展を促した。ポーランド分割に関わり、その後クリミアを併合し、クリミア視察旅行にも出かける。エカテリーナ二世のあとは息子のパーヴェルが継ぐが反発を買いクーデターで殺害される。
 第五章「ツァーリたちの試練」ではナポレオンの進軍からクリミア戦争の敗北までをさらう。

第五章「ツァーリたちの試練」

 即位したパーヴェルの子であるアレクサンドル1世は初期はリベラルな思想を持っていたが、統治の基盤を固めるために保守的な思想を採用する。ナポレオンとの戦いでは初戦では破れ、プロイセンとのイエナの会戦で対照しプロイセンと和平を結ぶ。ナポレオンのモスクワ遠征に備える中、1812年に両軍は動き始める。短期決戦を望んだナポレオンに対してロシアは後退し一度対決するが再度後退する。ついにモスクワからも後退し住民も避難する。ナポレオンが入ったモスクワが蛻の殻で、その後数カ所で火の手が上がり五日間燃え続け3分の2が灰になり、ナポレオン軍は焼け野原への野営を余儀なくされる。さらにゲリラ的な攻撃により今度はナポレオン軍が退却を余儀なくされるが、飢えと冬将軍で兵を減らす。最後はべレンジ川渡りでロシア軍の攻撃によりナポレオン軍は壊滅する。ナポレオン失脚の立役者となったアレクサンドルはウィーン会議をリードしてポーランド王国とフィンランド大公国を統治下においた。
 そのアレクサンドルは1825年の初めに48歳の若さで亡くなる。子の後継者がいなかったため生前に継承者を指名していたが本人に知らされていなかったために混乱があったが、結局は指名どおりにニコライが継承する。立憲制を導入させようという若い貴族将校たちは目論んで近衛軍に皇帝への誓いを拒否させようとしたがうまく行かず、軍が蜂起軍に一斉射撃をして56人が亡くなることとなり特別法廷では121名がシベリア流刑になった。ニコライは即位とともに検閲など治安の強化や専制肯定の教育・国歌の整備も進める。インテリの間ではロシアの後進性の優位という議論からビザンツからロシアが受け入れたものは愛と自由と真理で結ばれた共同体の精神だという議論につながる。そこからゲルツェンは共同体的社会主義の思想を見出す。
 貴族に不信感を強めたニコライは官僚の拡充を図り人数としても5倍以上になる。またピョートル時代からの伝統のヨーロッパの文化と技術に明るい人の東洋を進めた結果、30〜50%がドイツバルト系が占めた。経済方面ではモスクワでの起業や鉄道の導入が行われた。1843年から6年をかけてモスクワーペテルブルグの650キロが完成し、その効用が明らかになり1861年には1500キロに拡張している。農奴問題。対外政策についてはポーランドの憲法と軍を廃止し、ハンガリー革命を鎮圧したり強硬に対応した。エカテリーナ2世の時代に獲得した黒海の通商権を巡って、イギリスとフランスと対立し、クリミア戦争に発展する。ロシアの帆船は最新の蒸気船にはかなわず、一年近くの攻防で50万人を失い敗北する。ニコライはその最中に亡くなる。またこの戦争では徴兵制の他に国民義勇軍を募集したが応募した者の家族が開放されるという噂が広まり志願が増えて領主や地方当局との衝突が各地で発生した。ニコライの時代に進捗がなかった農奴問題が、クリミア戦争で顕著化した。

第六章「近代化のジレンマ」

 リベラルな思想を持ったアレクサンドル二世は農奴解放は待ったなしと1861年に農奴解放令に著名した。人格については無償、土地に着いたは有償とされて、結婚、裁判、売買などについて自由が与えられた一方、土地については国がお金を貸し付け領主から土地を買い、農民は国に対し分割ローンで返済する形となった。貸付は村単位で行われたので制限はあったが10年後には農民の3分の2は土地を買い戻した。一方で領主である地方貴族からは反感を買った。その他では情報公開、軍制改革、地方自治制度の整備を進めた。一方でポーランドの民族解放の蜂起には強硬に対応した。その最中1866年に銃撃されたこともあり、リベラル路線から治安への強化にシフトしていく。
 地方自治組織ゼムストヴォでは教育、道路、保険、医療などで成果を上げて、医者や教師の数は増えた。ゼムストヴォで活動する人々には聖職者が多かった。1874年夏頃に技師・医者・教師などインテリたちが農村に入って革命と社会主義について宣伝を初めたが、農民には理解されず政府には厳しく取り締まり1500人の逮捕者が出て失敗に終わった。二年後にこの運動を引き継いだ若者は自らをナロードニキと名乗った。この組織は三年後に分裂したが、皇帝暗殺によって政治革命を目指す組織「人民の意志」はが生まれた。またこの運動には女性が15%ほど占めていて女子の高等教育が西欧よりも先進的であったという背景がある。1870年代は異常な社会的緊張につつまれていたが、78年には市長狙撃事件がおこる。皇帝暗殺も79年から二年間で7回も暗殺未遂事件に遭遇したが、1802年には遂に「人民の意志」党員に狙撃され絶命する。彼の子供アレクサンドル三世が即位して事態の収集にあたる。人民の意志の関係者6人が公開処刑されるとともに大学の自治の制限や高等女学院の閉鎖などの措置がとられ検閲も強化された。そんな中でアレクサンドル三世の暗殺未遂事件がおき10月革命の指導者レーニンの兄であった。皇帝暗殺に関与した組織にユダヤ人がいたと公表したあとからユダヤ人攻撃が増えた。ウクライナでは血なまぐさい殺戮を引き起こした。また地方を活性化したゼムストヴォも制限され地方司政官により社会の引き締めが図られた。
 農奴解放は専有農民を使っていた工場では一時的な停滞をもたらした。1860年代後半から工業化が本格化し、鉄道は65年に3800キロだった鉄道が83年には24000キロに達した。また65年に3万人だった民間労働者は四半世紀語には25万人に達した。また農奴解放は出稼ぎ農民を生んだが、彼らは都市に住まずに夏には農村に帰った。その動きは家族制度に影響を与え、家父長制の大家族から核家族に変化していった。モスクワは商人の街だったが敬虔な正教徒でだったので寄進や寄付などを積極的に行った。貴族は資本家的経営者になれたものは一握りで中小の貴族は雇用などで細々と農業を続けた。また貴族から軍人や官僚になる特別な近道も失い都市で専門職業人として暮らした。

第七章「拡大する植民地帝国」

 中央アジア・極東への帝国の拡大はカフカス地方への拡大から始まる。エカテリーナ二世のころからクリミアに続いてカフカース地方への侵略を進めるがイスラム教徒の山岳民族の抵抗が終わることはなかった。1834年に宗教指導者になったシャミーリのもとで25年に渡る抵抗が続いたが1857年の総攻撃によって遂にカフカースを平定する。アゼルバイジャンはイランと二分するがバクーで石油産業が栄える。
 中央アジアにも進出し1847年にカザフスタンを併合する。1881年には中央アジアを制圧した。中央アジアの綿花栽培が鉄道と結びつき発展し、アメリカの南北戦争で暴騰した綿花の供給源になった。シベリアにも植民が進み10人に9人だった先住民が1905年には10人に9人がロシア人になった。イルクーツクの商人は中国との貿易で茶の文化をロシアに広めた。1891年にはシベリア鉄道が着工され1901年にはバイカル湖を船で渡るがモスクワーウラジオストークを13人で結ぶ鉄道が完成する。政府は移民を促すために海路を利用すると共に税金の免除や移住費を負担するなど積極的に対応した。

第八章「戦争、革命、そして帝政の最期」

 ロマノフ王朝最後の皇帝であるニコライ二世は1890年に世界各国をめぐる旅に出たが日本で刀で襲われ日本での予定を打ち切り、シベリアを数カ所回り帰途につく。その後にアレクサンドル三世が倒れると皇帝を継ぎ、すぐに結婚する。経済政策では1890年代はヴィッテを頼るが、工業化は農業の衰退を促し、町に浮浪者や乞食が溢れたことからヴィッテを解任する。そんな中でマルクス主義が広まっていくが、1903年のユダヤ人が殺害され家が破壊された事件もあり、帝政に反感を持ったユダヤ人がマルクス主義の活動に参加するようになる。
 日露戦争が開始される中で教会司祭に率いられた嘆願書をもったデモ隊が武力で鎮圧される血の日曜日事件が起こり、ニコライ二世のイメージが悪化する。日露戦争は日本海海戦で敗北し戦況が決定的になった。講和はヴィッテが主導しサハリンの半分を割譲するという小さな損害に抑えた。反専制の流れは止まらず国会開設のために選挙が行われるが皇帝側は第二の議会を作って対抗する。農業の生産性低下に対応するためにストルイピンは一揆の主体である共同体の解体と、自主性を引き出す個人農業の推進のために1906年に個人の私有化を認める土地改革が行われた。彼は5年後に銃撃され死ぬ。
 ニコライ二世の即位以来、ロシアの近代化は進んでおり穀物輸出も世界一で工業生産も4倍になり、文化的にも各方面で逸材が活躍した。そんな中でロマノフ朝300年記念祭が行われたが、1914年には第一次大戦が始まりニコライ二世は総動員令を発するが物資の不足になやませれる。一般市民にも大きな影響が出て配給制が敷かれる。1917年に女性労働者の労働に対するデモが反皇帝デモになり再び軍による鎮圧を試みて150人以上が倒れるがこれが労働者代表による臨時政府樹立の革命につながりニコライが退位しロマノフ王朝が終わる。

第九章「王朝なき帝国」

 47際のレーニンが帰国して土地を国有化して農民に委ねるボリシェヴィキ革命を始める。土地に関する布告が出て10月革命が達成された。穀物供給を拒否した共同体の富裕農民たちには労働者舞台を差し向けて強制的に挑発をした。列強の軍事干渉も始まる。内戦になりつつある。新政府首脳は皇帝一家を銃殺した。赤軍が志願制で結成されたがドイツ軍の信仰が始まると徴兵制になり、54万人に達する。レーニン自身も標的になり反革命の白軍もモスクワに迫り農民軍でかろうじて防いでいた。1920年末には内戦は落ち着いた。一方で国外脱出する文化的エリートは150万人に達した。またこの混乱の中でも共産主義の理想が追求され、計画経済も開始される。ソヴィエトが連邦化して参加する国を増やした。
 レーニンは参加国の平等を重視したが後を継いだスターリンは中央集権的な体制を目指した。工業製品輸入のために穀物輸出を増やしたが、国内の穀物は少なく穀物危機がおきた。これを解決するために集団農場により農民を拘束し生産性をあげようとした。また大学も教育を制限され、教会の文化も破壊され修道院や聖堂も閉鎖された。政治面では反対派や反対派と目される人が4万人以上も半数が逮捕され銃殺され大テロルと呼ばれる事態を引き起こした。1941年にナチスドイツがレニングラードを包囲したが二年間耐え、最期にはベルリンに入りナチスドイツを破ったが、2700万人という大量の犠牲を出した。
 1952年にスターリンが倒れると、ウクライナ生まれのフルシチョフは頭角を表し、スターリン批判を行い大テロルで標的となった人の名誉回復を行った。1957年には人工衛星の打ち上げ成功で世界を驚かすできこともあったが、アメリカには生活水準は及ばず生産力で追いつこうと七カ年計画を策定した。穀物生産もあげようとするがうまく行かず1964年に職を解かれる。ブレジネフが第一書記になっても穀物生産はアメリカの三分の一で、人々の無気力・無関心やアルコール依存による労働規律の低下などが顕著化してきた。1980年にオリンピックが華々しく開催されたものの事態は好転せず1982年にブレジネフが亡くなる。短命政権が続いた後に1985年にコルホーズ農家で生まれたゴルバチョフが党書記長となり立て直しと情報公開を推進する。1986年にはチェルノブイリの原発事故が起こる。社会の民主化を進め1988年には宗教政策を改め、過去の政権の宗教政策の誤りを認めて千年祭を境に信仰が公然となった。経済が混乱し貧しいままの15の共和国ではゴルバチョフ批判があり独立の動きがあった。1991年クーデター騒ぎがあり12月にはゴルバチョフは職を辞してソヴィエト連邦は終了した。

「結びに変えて」ではいくつかのポイントをさらう。まず社会と民衆によりフォーカスして書いたこと、ロシアの拡大政策により200もの民族がいた多民族国家であったこと、国家の中枢には非ロシア人が少なくなかったこと、植民政策により人口圧がなく農業革命が生まれなかったこと。筆者は、欧米と比べてタタールのくびきによる都市の衰退によって都市文化が育まれなかったと推測する。

気になったポイント

 まず確認できたのはロシアのもとのキエフ王国が交易を得意とするノルマン人由来だったことである。しかしタタール人のキエフ攻撃でその文化は失われてしまったのかもしれない。そしてタタール人を防ぐためのベルゴロド線はロシアの万里の長城と書かれていたが、騎馬民族対策で東西に壁があったのは興味深い。

 士族統治からの中央政府の地方長官による統治へ転換が描かれているのは興味深かった。どの帝国でも同じような地方vs中央のような構図があり、中央集権化していくのは難しいと感じた。

 ノーベル賞のノーベル家はダイナマイトを開発した一人の人がいたのだと思っていたが、ロシアの油田事業に参入して技術的に様々な新しい方法を取り入れつつ利益を上げていたのを初めて知った。科学的技術的な視点と商業的な才覚をもった類稀なる一族だったのだと気づく。

 フランス革命も大変な犠牲を出したが、ロシアの共産主義革命も死亡者数だけでなく文化的破壊も含めて甚大な犠牲を出したのだとわかる。ピョートル大帝の革命の方は、明治維新と似ているように感じたが、犠牲がすくなく済んでいる。革命というよりも維新だったのかという印象。

最後に

 ロシアというと全体主義的で領土を拡大していった帝国というイメージがあったが、リベラルな思想をもった皇帝などによってリベラル方面にも改革がなされていた時期があったことなどを知ることができて有益だった。タタール人の攻撃の教訓から防衛を軸としている国家運営というのは理解できるが、それだけで植民国家のすべてを理由づけるのも少し無理があるとは思う。とはいえ中国もロシアも長城を築くほどタタール人に悩まされていたのは同じである。中国もどちらかというと全体主義的だが内部が他民族でないのはロシアとは違うと感じた。

 まだまだ理解ができないことがたくさんあるがロシアについて初期から最近までの歴史を皇帝だけでなく民衆などの反動なども含めてある程度みることができたのは貴重だった。ロシアについて理解したい人にはおすすめの一冊です!

太古からの啓示

2022 Netflix

 古代遺跡に惹かれて見始めたが面白くて2,3日で見てしまった。

構成

 失われた文明の謎を追うグラハム・ハンコックがその証拠をもと求めて世界をかけめぐる。インドネシアのグヌンパダン遺跡、メキシコのチョルーラの丘、マルタ島の巨石神殿、ビキニ沖の海底の石造物、トルコの巨石のギョベクリテペ遺跡、アメリカのバティポイントの遺跡、トルコのデンリユグの地下都市、北米大陸の洪水の跡。古代の遺跡たちをまわり、闇に包まれたその遺跡が意味するものを解明しようとする。

気になったポイント – 大洪水

 神話を重視している姿勢に共感したが、各地に伝わる神話にある共通性に注目していたのは興味深かった。ノアの方舟で有名な洪水の伝承はいろいろな場所にあると聞いたことがあり、実際に洪水の跡も発掘されていると聞いていたが、それがヤンガードリアス期の海面上昇と結びつけているのが真実味があった。

最後に

 ムー大陸があったとは思わないし、古代に現代を超える文明があったのは簡単に信じられないが、とにかく古代には現代人が思っているよりも高度で長い歴史に支えられた文明があったと思う。神話や古代遺跡が好きな人にはおすすめです!

還魂2

Netflix 2022

パート2が出たということで主人公は変わっていても期待して見た。1ほどではなかったが1から出演している俳優たちが盛り上げてなかなか面白かった。

登場人物

 チャン・ウクはチャン家のお坊ちゃん。3年前にムドクに殺されたが、体に宿っていた氷の石の力で蘇った。氷の石の力で還魂人を退治するため、「怪物を捕まえる怪物」と恐れられている。チン・ブヨンはムドク(ブヨン、ナクス)の身体を湖から引き上げ、ブヨンの真気を使って治療した。容姿はナクスに変わっており、過去の記憶がなくなっている。

物語の始まり

 シーズン1から3年。氷の石の気を得たことで強大な力を得て周囲から腫れ物のように扱われいる。孤独の中で、その力を還魂人の討伐に捧げている。ある日、還魂人を追って鎮妖院に侵入するが、そこでチン・ブヨンに巡り合う。ウクは自分がしたいことのためにブヨンと結婚することを画策する。

テーマ

 運命の赤い糸のようなものだろうか。容姿が変わっても魂が同じであれば、お互いに気づいて惹かれ合っていく。

最後に

 シーズン2ということもあって、いろいろな制約があって、物語も若干強引なところもあったが、ハッピーエンドで終わってスッキリとした。シーズン1を見た人は2も見てスッキリするのがおすすめです!

今際の国のアリス 1/2

Netflix 2022

 流行っているので見てみた。スリリングで理不尽なゲームに巻き込まれていく様子を描いた謎解きや心理描写、アクションなどで魅せるシリーズ。最後にはすべての謎が溶解してスッキリと終わって良かった。

登場人物

 山崎賢人が演じるアリス。ゲームばかりしていて、勉強もスポーツもぱっとしない。同じくあぶれているカルベやチョータと遊んでいる落ちこぼれの少年。土屋太鳳が演じるうさぎは唯一敬愛していた同じクライマーである父・重憲が不祥事に巻き込まれ自殺した後は世の中を信じられずに孤独に過ごしている。

物語の始まり

 アリスはカルベやチョータと渋谷にいて羽目を外し警察に追われてトイレに逃げ込む。トイレから出てみる渋谷には人が一人もいなくなっており、電気も消えている。スマホも使えず夜を迎えるが、前触れ無くビルの巨大テレビに「GAMEを開始します」という文字とともにアナウンスが始まり、3人は雑居ビルに入っていく。そこでゲームで負けると死が待っているデスゲームとしるが、アリスの機転でゲームを何とかクリアーしていく。

テーマ

 死と隣り合わせの人間の浅ましさやその反対の友情、たくましさなどを描いている。様々な代償を負っても生にしがみついて行く。そんな姿が人間の本来の姿なのではないかと思った。

最後に

 絶望的な状況を描いているように見えて、一方に人間のたくましさや人々の交流などの希望も描いているように感じた。明日への力を得たい人にはおすすめです!

女の子だから、男の子だからをなくす本

2021 エトセトラブックス ユン・ウンジュ

 娘がいると女性の制約は気にあるので子供にも読んでもらいたくて買ってみた。男女にまつわる社会規範について可視化して変えていこうという韓国の書籍の翻訳。

本の構成

 子どもたちに向けて書かれている。「女の子たちへ」「男の子たちへ」で社会規範などについて、その後、「男女の職業」や「家の中の男女の役割分担」「性的指向」についても広く触れられている。子供にも分かりやすいように漫画のような特徴的な絵柄の挿絵が多く書かれている。

ポイント

 基本的なスタンスとして社会を変えていこう!という姿勢がある。変だと感じたことには「なんで」と聞くとか、「いいえ」「イヤです」と言うとか、「ケンカをおそれないで」、などのNOというメッセージを伝えていこうと呼びかけている。

 この姿勢は非常に難しいけど大切だと思う。やはり社会に対してNOと言わないと何も変わらないからだ。問題はオフィシャルにケンカしようとすると、訴訟・裁判ということになるがお金がかかる。そうすると強いものが勝ってしまう。結局、弱いものが戦うこと、そして勝つことには大きな障害がある。

最後に

 家庭内の男女の役割分担にも触れていた。まず、女性ばかりやっているようであれば、男性もやろうと呼びかけていた。私の意見としては、もし仕事を理由にやらない男性がいたら、「仕事ができる人は家事もうまくできる」と伝えたい。自分(男)の方が得意であるし時間的に可能なので、自分が家事や育児、学校関係も回している。それに加えて、最近思うのは家庭内の仕事も実は誰にでもできる簡単なものではないのでは?ということで、男女ともに家事が難しいと感じる人もいると思う。
 もう一つ気になるのは韓国では2015年から新しいフェミニズム運動が始まっていると書いてあったが、それと同期したように韓国の出生率が下がっていることである。サムスンでは子供の大学費用の100%が補助される制度があると聞いたが、それでも経済的なことやその他の様々な原因はあるとは思う。私は男女の平等・公平や社会的な抑圧の減少を切に願っているが、サピエンス全史で提示されているように個人が安寧に生きるのと、人類の発展に相反する関係があるかもしれない。とはいえ韓国の女性の地位向上が著しいとも感じない。最近も韓国にも行って人とも話したが、何か人々が抑圧されているようにも感じる。一方で台湾は抑圧が低く高齢の女性がミニスカートで闊歩していて社会規範の緩さは低いように感じる。とはいえ、ここも出生率は下がっている。占いで結婚の相手や時期なども決める社会だからかもしれないが。
 女の子が仮面ライダーを見て、男の子がプリキュアを見たら、男女の恋愛は成立するのか?と言っていた人がいたが、社会規範が男子->女子、女子->男子のプロトコルを作っている可能性もある。個人的にはこういうのは嫌いだが、このプロトコルを失うとコミュニケーションが高度になるのではないかとも感じる。

 娘も読んでくれたのでくれたので、特に女の子にはおすすめかも。いろいろ考えるキッカケにもあるし、子供と話し合うキッカケにもなると思う。名誉男性を目指している人や、20代を気持ち悪いオジサンに仕えつつ乗り切って、マッチョな男を捕まえて結婚して、家事育児を手伝わない旦那に文句を言いながら、楽しく暮らしたい人は読まなくて良いかもしれません。