ロシア・ロマノフ王朝の大地(興亡の世界史 14)

 そろそろロシアについて読んでみても良いかと読み始めた。キエフ公国のあたりから現代の最近の歴史まで網羅できたのは非常に有益だった。

本の構成

 序章では、1550年頃のモスクワ公国から植民政策を通して領土を拡大した歴史、ピョートル大帝によるヨーロッパ化など大きな流れをさらう。第一章「中世ロシア」では、ノルマン人によるキエフ王国の建立からリューク朝による統一までのロマノフ王朝以前の歴史をさらう。
 第二章「ロマノフ王朝の誕生」からは民主的なミハイルと専制的なアレクセイの時代を説明する。第三章「ピョートル大帝の革命」ではピョートルの時代のヨーロッパ化をさらう。第四章「女帝の世紀」ではエカチェリーナ時代の地方政治の整備などを主に語る。第五章「ツァーリたちの試練」ではナポレオンの進軍からクリミア戦争の敗北までをさらう。第六章「近代化のジレンマ」では、リベラルな思想を持ち農奴解放を行ったアレクサンドル二世の治世を取り上げる。第七章「拡大する植民地帝国」では中央アジア・極東への帝国の拡大を見ていく。第八章「戦争、革命、そして帝政の最期」ではニコライ二世が日露戦争・第一次世界大戦を経てロマノフ王朝の終焉に向かう様子を描く。
 第九章「王朝なき帝国」ではロマノフ朝の後のレーニンからゴルバチョフまでを解説する。つづく「結びに変えて」ではいくつかの作者がポイントをさらう。

第一章「中世ロシア」

 ノルマン人の移動により8〜9世紀ごろにキエフ国家をたてコンスタンティノープルと通商条約を結び交易して栄えたところから始まる。ノルマン人は少数派でスラブ人と同化した。キエフ太公ウラジミールはビザンツ帝国のバシライオス二世に反乱鎮圧を要請され、交換に妹アンナを妻にすることを同意されたが、その際にキリスト教への改宗をした。15の公国に分裂したキエフ国家は12世紀後半には事実上解体した。その中で交易で栄えた共和国のノヴゴロドが力をつけた。
 13世紀前半に東方のタタール人の攻撃に合い、略奪と殺戮により徹底的に荒廃させられる。信仰の自由を認められたが人頭税を始め厳しい税を課される。240年のモンゴル人のロシアの支配は団結を促したものと肯定的に捉える研究家がいるもののキエフの人口は数百世帯まで減少したなど都市を荒廃させたため文化的に200年も後退したと見積もられている。
 その後、地の利もあったモスクワ公国が勃興する。クリコーヴォの戦いでキプチャク・ハン国を敗走させた後、イヴァン三世はノヴゴロドに勝ちロシアを統一しツァーリを名乗る。国を失ったビザンツ皇帝の姪ソフィアを妻にし、正教ロシアがビザンツの遺産を引き継いだともされ、コンスタンチノープルからの技術者の流入や文化的にもイタリアとの交流も活発化した。次のイヴァン四世は専制を志向した特殊な皇帝だったがカザン・ハン国を制服し、タタール人貴族たちを従属させた。しかしイヴァン四世の子は世継ぎを残さないままなくなりリューリク朝は途絶えた。

第二章「ロマノフ王朝の誕生」

 リューリク朝断絶による混乱から始まり、1612年ゼムスキー・ソボールという全国会議が開かれ波乱があったもののミハイル・ロマノフが選出される。戦乱と混乱の時代には国民の支持が必要でゼムスキー・ソボールは毎年開催された。ポーランドとの和解が成立しミハイルの父フィラレートが帰国するとゼムスキー・ソボールは開催されなくなる。新軍が結成され西部の国境の町を取り戻そうとポーランドと戦闘になるがその中でフィラレートは命を落とし戦いにも敗北する。敗北の直接の原因がタタール人の侵入との知らせにより士族が戦線を離脱したことだった。これによりロシアの万里の長城であるベルゴロド線が20年かけて建設された。ミハイルがなくなり子のアレクセイが後を継ぐ。すぐに税制改革に反対した国民の一揆により改革を主導していた寵臣モロゾフの更迭を余儀なくされる。同時に1648年にゼムスキー・ソボールが開催され都市と農村の再編を促した。農民は移転の自由があったが士族には不利なものだったため、士族は移転の自由の禁止や不法な移転を取り締まりを認めさせ最終的には農奴が成立した。この農民問題が解決されたことと、士族の役割の変化と、都市民の中の富裕層が生まれ、ゼムスキー・ソボールも開催されなくなった。17世紀後半の軍政改革により士族的は地方をまとめる騎兵軍から将校になることで地方との関係が薄れ、地方はモスクワから派遣される地方長官による統治に置き換わった。貴族会議は残っていたものの人数が増し形式化し、アレクセイは専制君主として国を治める。
 ロシアが正教の正当性をコンスタンティノープルから引き継ぐという重圧からキリスト教の形式を正すことになって行ったが、土着の宗教形式を弾圧した徹底的なものだった。ある修道院が蜂起して軍と戦闘が行われた。また古い儀式を守り集団自決をした地方もあった。地方ではこの強引なキリスト教化に加えて地方長官の不正も重なり、1670年にコサックを主体としたラージン軍の反乱が起こるが政府軍に倒される。

第三章「ピョートル大帝の革命」

 1676年にアレクセイが亡くなるとアレクセイが再婚したナルイシュキナ家の子供として生まれたピョートルは後継者争いに巻き込まれるが、正妻の息子フョードルが亡くなり正妻の娘ソフィアをおいやり最終的に実権を手にする。軍事に興味があったピョートルは一度は失敗したものの1696年にオスマンの要塞アゾフを落とすことに成功する。1697年から250人を連れて大使節団をヨーロッパに送り出す。ただしピョートル自身もコッソリと入っていた。アムステルダムで船大工として働き、ロンドンに移動し造船所やその他博物館などを見学したり買い物をしたりして、ウイーンを訪れ、一揆の知らせを受け帰国する。その後、北方同盟で対スウェーデンの準備を整え宣戦布告するものの若いカール12世の奇襲を受け初戦で大敗北を喫した。カールはポーランドに向かい7年を費やし傀儡政権を建ててからロシアとウクライナで対峙する。7年の準備期間も幸いし、ウクライナの裏切りがあったものの首尾よく処理し、スウェーデン軍を全滅させる。そこでバルト三国を手に入れる。ピョートルの時代は戦争の連続だったために村単位の徴兵制や貴族の軍人化、人頭税の導入などを中央集権化が進められる。また強引なサンクト・ペテルブルグの建設、参議会の発足、教会の従属化、バルト海貿易ルートの開拓などが行われた。世継ぎがない状態で世を去る。ピョートルの時代はロシア人にもっとも誇りを感じる時代という。

第四章「女帝の世紀」

 まずピョートルの側近のメーンシコフが擁立された皇帝を介して支配するようになるが反発を買いすぐに終わる。名門貴族ドルゴルキーも同様に支配を試みるが最終的には失敗する。アンナの次にエリザヴェータが実権を握るが、跡継ぎとしてピョートル大帝の孫のペーターがエカテリーナ二世を妻とする。ピョートルはドイツ贔屓でクーデターで失脚させられ、皇后が帝位につく。コサックの反乱があり何とか鎮圧したが、再来を防ぐために地方の強化を急ぎ、県や群を増やして発展を促した。ポーランド分割に関わり、その後クリミアを併合し、クリミア視察旅行にも出かける。エカテリーナ二世のあとは息子のパーヴェルが継ぐが反発を買いクーデターで殺害される。
 第五章「ツァーリたちの試練」ではナポレオンの進軍からクリミア戦争の敗北までをさらう。

第五章「ツァーリたちの試練」

 即位したパーヴェルの子であるアレクサンドル1世は初期はリベラルな思想を持っていたが、統治の基盤を固めるために保守的な思想を採用する。ナポレオンとの戦いでは初戦では破れ、プロイセンとのイエナの会戦で対照しプロイセンと和平を結ぶ。ナポレオンのモスクワ遠征に備える中、1812年に両軍は動き始める。短期決戦を望んだナポレオンに対してロシアは後退し一度対決するが再度後退する。ついにモスクワからも後退し住民も避難する。ナポレオンが入ったモスクワが蛻の殻で、その後数カ所で火の手が上がり五日間燃え続け3分の2が灰になり、ナポレオン軍は焼け野原への野営を余儀なくされる。さらにゲリラ的な攻撃により今度はナポレオン軍が退却を余儀なくされるが、飢えと冬将軍で兵を減らす。最後はべレンジ川渡りでロシア軍の攻撃によりナポレオン軍は壊滅する。ナポレオン失脚の立役者となったアレクサンドルはウィーン会議をリードしてポーランド王国とフィンランド大公国を統治下においた。
 そのアレクサンドルは1825年の初めに48歳の若さで亡くなる。子の後継者がいなかったため生前に継承者を指名していたが本人に知らされていなかったために混乱があったが、結局は指名どおりにニコライが継承する。立憲制を導入させようという若い貴族将校たちは目論んで近衛軍に皇帝への誓いを拒否させようとしたがうまく行かず、軍が蜂起軍に一斉射撃をして56人が亡くなることとなり特別法廷では121名がシベリア流刑になった。ニコライは即位とともに検閲など治安の強化や専制肯定の教育・国歌の整備も進める。インテリの間ではロシアの後進性の優位という議論からビザンツからロシアが受け入れたものは愛と自由と真理で結ばれた共同体の精神だという議論につながる。そこからゲルツェンは共同体的社会主義の思想を見出す。
 貴族に不信感を強めたニコライは官僚の拡充を図り人数としても5倍以上になる。またピョートル時代からの伝統のヨーロッパの文化と技術に明るい人の東洋を進めた結果、30〜50%がドイツバルト系が占めた。経済方面ではモスクワでの起業や鉄道の導入が行われた。1843年から6年をかけてモスクワーペテルブルグの650キロが完成し、その効用が明らかになり1861年には1500キロに拡張している。農奴問題。対外政策についてはポーランドの憲法と軍を廃止し、ハンガリー革命を鎮圧したり強硬に対応した。エカテリーナ2世の時代に獲得した黒海の通商権を巡って、イギリスとフランスと対立し、クリミア戦争に発展する。ロシアの帆船は最新の蒸気船にはかなわず、一年近くの攻防で50万人を失い敗北する。ニコライはその最中に亡くなる。またこの戦争では徴兵制の他に国民義勇軍を募集したが応募した者の家族が開放されるという噂が広まり志願が増えて領主や地方当局との衝突が各地で発生した。ニコライの時代に進捗がなかった農奴問題が、クリミア戦争で顕著化した。

第六章「近代化のジレンマ」

 リベラルな思想を持ったアレクサンドル二世は農奴解放は待ったなしと1861年に農奴解放令に著名した。人格については無償、土地に着いたは有償とされて、結婚、裁判、売買などについて自由が与えられた一方、土地については国がお金を貸し付け領主から土地を買い、農民は国に対し分割ローンで返済する形となった。貸付は村単位で行われたので制限はあったが10年後には農民の3分の2は土地を買い戻した。一方で領主である地方貴族からは反感を買った。その他では情報公開、軍制改革、地方自治制度の整備を進めた。一方でポーランドの民族解放の蜂起には強硬に対応した。その最中1866年に銃撃されたこともあり、リベラル路線から治安への強化にシフトしていく。
 地方自治組織ゼムストヴォでは教育、道路、保険、医療などで成果を上げて、医者や教師の数は増えた。ゼムストヴォで活動する人々には聖職者が多かった。1874年夏頃に技師・医者・教師などインテリたちが農村に入って革命と社会主義について宣伝を初めたが、農民には理解されず政府には厳しく取り締まり1500人の逮捕者が出て失敗に終わった。二年後にこの運動を引き継いだ若者は自らをナロードニキと名乗った。この組織は三年後に分裂したが、皇帝暗殺によって政治革命を目指す組織「人民の意志」はが生まれた。またこの運動には女性が15%ほど占めていて女子の高等教育が西欧よりも先進的であったという背景がある。1870年代は異常な社会的緊張につつまれていたが、78年には市長狙撃事件がおこる。皇帝暗殺も79年から二年間で7回も暗殺未遂事件に遭遇したが、1802年には遂に「人民の意志」党員に狙撃され絶命する。彼の子供アレクサンドル三世が即位して事態の収集にあたる。人民の意志の関係者6人が公開処刑されるとともに大学の自治の制限や高等女学院の閉鎖などの措置がとられ検閲も強化された。そんな中でアレクサンドル三世の暗殺未遂事件がおき10月革命の指導者レーニンの兄であった。皇帝暗殺に関与した組織にユダヤ人がいたと公表したあとからユダヤ人攻撃が増えた。ウクライナでは血なまぐさい殺戮を引き起こした。また地方を活性化したゼムストヴォも制限され地方司政官により社会の引き締めが図られた。
 農奴解放は専有農民を使っていた工場では一時的な停滞をもたらした。1860年代後半から工業化が本格化し、鉄道は65年に3800キロだった鉄道が83年には24000キロに達した。また65年に3万人だった民間労働者は四半世紀語には25万人に達した。また農奴解放は出稼ぎ農民を生んだが、彼らは都市に住まずに夏には農村に帰った。その動きは家族制度に影響を与え、家父長制の大家族から核家族に変化していった。モスクワは商人の街だったが敬虔な正教徒でだったので寄進や寄付などを積極的に行った。貴族は資本家的経営者になれたものは一握りで中小の貴族は雇用などで細々と農業を続けた。また貴族から軍人や官僚になる特別な近道も失い都市で専門職業人として暮らした。

第七章「拡大する植民地帝国」

 中央アジア・極東への帝国の拡大はカフカス地方への拡大から始まる。エカテリーナ二世のころからクリミアに続いてカフカース地方への侵略を進めるがイスラム教徒の山岳民族の抵抗が終わることはなかった。1834年に宗教指導者になったシャミーリのもとで25年に渡る抵抗が続いたが1857年の総攻撃によって遂にカフカースを平定する。アゼルバイジャンはイランと二分するがバクーで石油産業が栄える。
 中央アジアにも進出し1847年にカザフスタンを併合する。1881年には中央アジアを制圧した。中央アジアの綿花栽培が鉄道と結びつき発展し、アメリカの南北戦争で暴騰した綿花の供給源になった。シベリアにも植民が進み10人に9人だった先住民が1905年には10人に9人がロシア人になった。イルクーツクの商人は中国との貿易で茶の文化をロシアに広めた。1891年にはシベリア鉄道が着工され1901年にはバイカル湖を船で渡るがモスクワーウラジオストークを13人で結ぶ鉄道が完成する。政府は移民を促すために海路を利用すると共に税金の免除や移住費を負担するなど積極的に対応した。

第八章「戦争、革命、そして帝政の最期」

 ロマノフ王朝最後の皇帝であるニコライ二世は1890年に世界各国をめぐる旅に出たが日本で刀で襲われ日本での予定を打ち切り、シベリアを数カ所回り帰途につく。その後にアレクサンドル三世が倒れると皇帝を継ぎ、すぐに結婚する。経済政策では1890年代はヴィッテを頼るが、工業化は農業の衰退を促し、町に浮浪者や乞食が溢れたことからヴィッテを解任する。そんな中でマルクス主義が広まっていくが、1903年のユダヤ人が殺害され家が破壊された事件もあり、帝政に反感を持ったユダヤ人がマルクス主義の活動に参加するようになる。
 日露戦争が開始される中で教会司祭に率いられた嘆願書をもったデモ隊が武力で鎮圧される血の日曜日事件が起こり、ニコライ二世のイメージが悪化する。日露戦争は日本海海戦で敗北し戦況が決定的になった。講和はヴィッテが主導しサハリンの半分を割譲するという小さな損害に抑えた。反専制の流れは止まらず国会開設のために選挙が行われるが皇帝側は第二の議会を作って対抗する。農業の生産性低下に対応するためにストルイピンは一揆の主体である共同体の解体と、自主性を引き出す個人農業の推進のために1906年に個人の私有化を認める土地改革が行われた。彼は5年後に銃撃され死ぬ。
 ニコライ二世の即位以来、ロシアの近代化は進んでおり穀物輸出も世界一で工業生産も4倍になり、文化的にも各方面で逸材が活躍した。そんな中でロマノフ朝300年記念祭が行われたが、1914年には第一次大戦が始まりニコライ二世は総動員令を発するが物資の不足になやませれる。一般市民にも大きな影響が出て配給制が敷かれる。1917年に女性労働者の労働に対するデモが反皇帝デモになり再び軍による鎮圧を試みて150人以上が倒れるがこれが労働者代表による臨時政府樹立の革命につながりニコライが退位しロマノフ王朝が終わる。

第九章「王朝なき帝国」

 47際のレーニンが帰国して土地を国有化して農民に委ねるボリシェヴィキ革命を始める。土地に関する布告が出て10月革命が達成された。穀物供給を拒否した共同体の富裕農民たちには労働者舞台を差し向けて強制的に挑発をした。列強の軍事干渉も始まる。内戦になりつつある。新政府首脳は皇帝一家を銃殺した。赤軍が志願制で結成されたがドイツ軍の信仰が始まると徴兵制になり、54万人に達する。レーニン自身も標的になり反革命の白軍もモスクワに迫り農民軍でかろうじて防いでいた。1920年末には内戦は落ち着いた。一方で国外脱出する文化的エリートは150万人に達した。またこの混乱の中でも共産主義の理想が追求され、計画経済も開始される。ソヴィエトが連邦化して参加する国を増やした。
 レーニンは参加国の平等を重視したが後を継いだスターリンは中央集権的な体制を目指した。工業製品輸入のために穀物輸出を増やしたが、国内の穀物は少なく穀物危機がおきた。これを解決するために集団農場により農民を拘束し生産性をあげようとした。また大学も教育を制限され、教会の文化も破壊され修道院や聖堂も閉鎖された。政治面では反対派や反対派と目される人が4万人以上も半数が逮捕され銃殺され大テロルと呼ばれる事態を引き起こした。1941年にナチスドイツがレニングラードを包囲したが二年間耐え、最期にはベルリンに入りナチスドイツを破ったが、2700万人という大量の犠牲を出した。
 1952年にスターリンが倒れると、ウクライナ生まれのフルシチョフは頭角を表し、スターリン批判を行い大テロルで標的となった人の名誉回復を行った。1957年には人工衛星の打ち上げ成功で世界を驚かすできこともあったが、アメリカには生活水準は及ばず生産力で追いつこうと七カ年計画を策定した。穀物生産もあげようとするがうまく行かず1964年に職を解かれる。ブレジネフが第一書記になっても穀物生産はアメリカの三分の一で、人々の無気力・無関心やアルコール依存による労働規律の低下などが顕著化してきた。1980年にオリンピックが華々しく開催されたものの事態は好転せず1982年にブレジネフが亡くなる。短命政権が続いた後に1985年にコルホーズ農家で生まれたゴルバチョフが党書記長となり立て直しと情報公開を推進する。1986年にはチェルノブイリの原発事故が起こる。社会の民主化を進め1988年には宗教政策を改め、過去の政権の宗教政策の誤りを認めて千年祭を境に信仰が公然となった。経済が混乱し貧しいままの15の共和国ではゴルバチョフ批判があり独立の動きがあった。1991年クーデター騒ぎがあり12月にはゴルバチョフは職を辞してソヴィエト連邦は終了した。

「結びに変えて」ではいくつかのポイントをさらう。まず社会と民衆によりフォーカスして書いたこと、ロシアの拡大政策により200もの民族がいた多民族国家であったこと、国家の中枢には非ロシア人が少なくなかったこと、植民政策により人口圧がなく農業革命が生まれなかったこと。筆者は、欧米と比べてタタールのくびきによる都市の衰退によって都市文化が育まれなかったと推測する。

気になったポイント

 まず確認できたのはロシアのもとのキエフ王国が交易を得意とするノルマン人由来だったことである。しかしタタール人のキエフ攻撃でその文化は失われてしまったのかもしれない。そしてタタール人を防ぐためのベルゴロド線はロシアの万里の長城と書かれていたが、騎馬民族対策で東西に壁があったのは興味深い。

 士族統治からの中央政府の地方長官による統治へ転換が描かれているのは興味深かった。どの帝国でも同じような地方vs中央のような構図があり、中央集権化していくのは難しいと感じた。

 ノーベル賞のノーベル家はダイナマイトを開発した一人の人がいたのだと思っていたが、ロシアの油田事業に参入して技術的に様々な新しい方法を取り入れつつ利益を上げていたのを初めて知った。科学的技術的な視点と商業的な才覚をもった類稀なる一族だったのだと気づく。

 フランス革命も大変な犠牲を出したが、ロシアの共産主義革命も死亡者数だけでなく文化的破壊も含めて甚大な犠牲を出したのだとわかる。ピョートル大帝の革命の方は、明治維新と似ているように感じたが、犠牲がすくなく済んでいる。革命というよりも維新だったのかという印象。

最後に

 ロシアというと全体主義的で領土を拡大していった帝国というイメージがあったが、リベラルな思想をもった皇帝などによってリベラル方面にも改革がなされていた時期があったことなどを知ることができて有益だった。タタール人の攻撃の教訓から防衛を軸としている国家運営というのは理解できるが、それだけで植民国家のすべてを理由づけるのも少し無理があるとは思う。とはいえ中国もロシアも長城を築くほどタタール人に悩まされていたのは同じである。中国もどちらかというと全体主義的だが内部が他民族でないのはロシアとは違うと感じた。

 まだまだ理解ができないことがたくさんあるがロシアについて初期から最近までの歴史を皇帝だけでなく民衆などの反動なども含めてある程度みることができたのは貴重だった。ロシアについて理解したい人にはおすすめの一冊です!

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