第一章 太平洋の遠雷
日露戦争に勝ったものの戦傷者は38万人。日本人は明治元年にハワイに移住したが、アメリカはサトウキビ植民地にしていたハワイを日本に取られると強引に併合していく。アメリカは過去にもインディアンを駆逐し、メキシコからテキサスを奪ったりもした。ドイツは日露を戦わせて、ロシアがドイツに来ないようにしてほしかった。同じようにアメリカを日本と戦わせようと暗躍した。
第二章 オレンジ計画
アメリカは1897年に「対日戦争のための戦争計画」であるオレンジ計画をスタートさせた。ドイツ向けの「ブラック計画」、ロシア向けの「パープル計画」、フランス向けの「ゴールド計画」をもっていた。
それに先立つ1846年、ビットル提督は浦賀沖に軍艦二隻で乗り込んで幕府に通商開始を打診したが、断られて撤退した。それを弱腰だとして、1852年グレイアム海軍長官はペリーに日本遠征を命じた。ペリーは来日前に沖縄占領の承認を得ていた。報告書には「イギリスの極東における勢力と拮抗するため、沖縄に「アメリカ海軍基地」を建設すべきである」と意見を送っていた。1854年に日米和親条約を締結した。1861年から南北戦争をする。67年にはロシアからアラスカを購入。
元海軍大学第二校長マハンは1869年ごろに来日したことがあったが来日した1869年ごろは日本の混乱期で軽蔑的な感情をもった。1890年にはマハンは「歴史に及ぼす海軍力の影響」を発表した。98年から南西戦争をする。98年にハワイ併合。97年にセオドア・ルーズベルト海軍次官が「オレンジ計画」を策定した。この計画は元海軍大学第二校長マハン大佐の指南をうけたものだった。当時のオレンジ計画の問題は日本を攻撃する理由がなかったことであった。
日露戦争直後の1906年にセオドア・ルーズベルト大統領はオレンジ計画を更新。ロシアをやぶった日本を強大な陸軍を持つ国として、「海上から闘いを挑み、日本海軍を海戦で破る。アメリカの回文力で日本陸軍を打ち破る」とした。対日戦争を無制限経済戦争と位置づけ、「厳しい封鎖・港や船の破壊・通商上の極端な孤立により、日本を「完全な窮乏と疲弊」に追い込む。アメリカは、日本を打ちのめすまで闘いをやめず、日本に徹底的なダメージを与えて屈服させる。そして日本にアメリカの意思を押し付け、アメリカの目的に服従させる」と決意を述べた。アメリカは「太平洋で島々を確保して一歩一歩前進する」との基本戦術を立てた。また日本への威嚇と航海演習のため大西洋の大艦隊に世界一周航海をさせた。
1911年版オレンジ計画では対日戦争工程表を定めた。第1段階は日本が有利に進め、太平洋のアメリカ領諸島を占領する。第二段階はアメリカ艦隊が日本の通商線を破断し、海戦により日本艦隊を圧倒する。第三段階はアメリカ海軍は海上封鎖によって日本を枯渇させる。さらに日本本土に戦略爆撃を加えて日本を屈服させる。第三段階の最大の洗浄が沖縄になることは、アメリカ海軍当局の一致した見解だった。日本の包囲のために沖縄占領が欠かせないとした。
マハンは1913年に黄禍論の論文をロンドン・タイムズに寄稿。日英同盟を崩しにかかる。1920年代初期には「日本への戦略爆撃」が登場。陸軍航空隊副司令官ウィリアム・ミチェル準将(通商ビリー)は関東大震災から着想を得て「人口密度が稠密で、木と紙でできた燃えやすい日本家屋の街を、史上初の最大空爆目標とすべき」と提唱した。1928年の修正版では日本の本土の生産設備・輸送機関に対する戦略的大空爆計画を織り込んだ。
1914年版オレンジ計画では「日本は太平洋諸島に軍事的関心をいだいたことはなく、日本がミクロネシアに求めたのは平和な通商だった」と素直に認めた。オレンジ計画はフランクリン・ルーズベルトに引き継がれた。
第一次世界大戦が1914年に始まり、日英同盟に基づき英米陣営に参加。1921年には日英同盟は破棄され、1922年のワシントン海軍軍縮条約で軍縮を迫られる。これによりアメリカは補給をクリアすれば日本を征服できることになった。
1923年版オレンジ計画では「迅速に太平洋の決戦場へ、日本艦隊を上回る優勢なアメリカ艦隊を結集させる」としたが、決戦場は未解決だった。対日戦争工程表の第三段階を具体化した。1936年版のオレンジ計画はフランクリン・ルーズベルト大統領のもとで活発に行われた。彼はマハンの真剣な研究者で、強力なアメリカ海軍の信奉者だった。必要な島々だけを「航空基地用」に占領し、サイパンこそ最重要戦略目標と見極めた。またサイパンやテニアンに航空基地を設営し、直距離爆撃機を飛ばして、日本の最重要目標を戦略爆撃することとした。しかし1936年当時、B17の航続距離は1600キロなので、そこでアメリカ陸軍は航続距離8000キロをもつ直距離爆撃機の設計に取り組みB29の試作機が1942年に完成し、太平洋戦争に間に合った。
1937年にはオレンジ計画は十九世紀的な古典的な帝国主義の異物として扱われ、ドイツやロシアとの戦争計画が重要とされた。陸軍参謀本部次長塩ビック准将はフランクリン・ルーズベルト大統領に対して、オレンジ計画の極端な攻撃性は、アメリカの安全保障と両立せずアメリカ精神の真髄に反すると進言するに至った。
1940年には日米通商条約破棄を通告し、ドイツは独ソ不可侵条約を締結した。日本はドイツによるソ連挟撃体制を作って満州の平和を維持するという甘い期待を打ち砕かれた。そのころにルーズベルト大統領は対日戦争計画を積極的に推進し、大義名分を模索した。最終的には黄禍が大義名分となった。
1940年にはジェームズ・リチャードソン大将が、合衆国艦隊司令長官兼太平洋艦隊司令長官に就任した。アメリカ海軍きってのエースであったが太平洋戦争を回避しようと対日戦争におびただしい負担が生じるが得るべき利益は皆無だと印象づけるようにした。海軍作戦部長スターク大将はアメリカ海軍に対しオレンジ計画の廃止を厳命した。こうしてオレンジ計画はアメリカ海軍の国策文章から公式に抹消された。
1941年にもリチャードソン大将はルーズベルト大統領に対して、日本との外交による和解こそ正しい解決の道であると進言した。日本海軍を刺激して海戦に至るのを回避すべく「太平洋艦隊」を真珠湾から西海岸のサンディエゴへ戻すべきであると直言した。それに対してフランクリン・ルーズベルトは彼を解任した。さらにスターク大将はオレンジ計画よりもイギリスを助けるために太平洋艦隊の一部を割いて大西洋艦隊を復活させた。これによりアメリカ太平洋艦隊は日本海軍の戦力を下回るようになった。1941年6月にはドイツはソ連へ進行し、独ソ戦争がかいしされ、ドイツのイギリスに対する軍事的圧力が低下し、大西洋の緊張は緩和した。自信を深めたフランクリン・ルーズベルト大統領は外交圧力を強め、7月にアメリカにおける日本資産を凍結した。さらに8月には対日石油輸出を禁止した。
こうして強大化するアメリカ海軍により日本を打ちのめし、日本に無条件降伏を強要して太平洋制覇を果たす、とのセオドア・ルーズベルトによる十九世紀的な古典的帝国主義の夢はフランクリン・ルーズベルト大統領のもとで実現する。
第三章 帝国興亡方針
日本は日露戦争後は多数の将校を失い兵員補充も困難であり、再度の決戦は困難となっていた。帝政ロシアが復讐戦を仕掛けてくることを恐れた。それに備えて軍服を満州の黄土色の大地から浮き上がる黒からカーキ色に変更した。またロシア陸軍30個師団に対して83%の25個師団で防戦するとした。また1907年に横浜港に来た大西洋の大艦隊グレート・ホワイト・フリートは日本への威嚇と正しく理解した。
日本の海軍は幕府海軍としてペリー襲来と共に創設されたが、海軍力整備のため幕府財政は破綻した。アメリカ東洋艦隊の約7割に達したが、アメリカ海軍はその後に猛烈なスピードで増強され1904年には世界第二の海軍国になった。1906年にはアメリカの戦艦は33隻、日本は14隻となり4.2割に低下した。日本海軍は戦艦8隻、巡洋艦8隻を目指した。
1907年、枢密院議長陸軍元師山縣有朋は陸軍と海軍の要望を併記し、帝国国防方針として取りまとめた。日本陸軍は、少数の士族での軍隊を主張した薩摩士族グループに勝った長州奇兵隊を源流とする大村益次郎・山県有朋ら長州グループにより支配された。一方の幕府海軍を源流とする日本海軍は、日本陸軍と対立したため、双方の要望を併記した。また帝国国防方針では「ロシアからの再度の南侵を撃退し、日本の独立を守る」という北守論で統一した。また日本陸軍の中は吉田松陰・高杉晋作の国民平等思想を汲むフランス派と、山縣有朋・桂太郎らドイツ派が対立した。これは山縣有朋の人事権によりドイツ派が勝利し、日本陸軍の軍制はドイツ式に転換した。ちなみに日本陸軍が日露戦争に勝ち得たのは満州軍総司令官大山厳元帥の「包容力厚い将器」による。仇敵会津藩の家老の妹を妻に迎えたり、政敵のフランス派の巨頭三浦を渡欧使節団に加えるなど、敵を懐に抱え込む深い包容力を持っていた。日露戦争では日本陸軍を団結させ、一筋縄では御しきれない強烈な個性派揃いの各司令官を掌握した。
第四章 政党政治の開幕
陸軍の25個師団や海軍の8-8艦隊もあるが国民の生活もあった。日露戦争の戦死者8.8万人の遺族への生活支援、戦傷者38万人の職業訓練費もあった。明治38年は農民の出征や農耕馬の撤廃により大飢饉となった。外債は36億円に急増した。明治政府は富国強兵を唱えて地租改正をしたが、当初から税収不足になやまされた。士族の反乱もあった。明治十年には地租税率を2.5%に下げた。明治13年の国税収のうち地租は75%を占めた。酒税も作った。明治13年には酒税が40%地租が35%になった。
明治34年の日露戦争3年前に第四次伊藤博文内閣が退陣すると、山縣有朋の腹心の桂太郎が第一次桂内閣を組閣した。これ以降、維新の元勲である藩閥指導者たちは元老となって、天皇の最高政治顧問として首相の推薦・決定や重要国務に参画した。なかでも山縣有朋は藩閥・陸軍・内務省・貴族院・枢密院などに山県閥を張り巡らせた。第一次内閣は日露戦争を完遂して勝利に導いたのち退陣した。しかし財政は逼迫。第一次西園寺内閣が発足。西園寺公望は伊藤博文の秘蔵っ子である。
そもそも五箇条の御誓文から始まった明治維新政府は、広く会議を起こすというよりも大久保利通らによる「専制の中央集権」で運営されていた。その歪みから西南戦争などの「士族の反乱」と、板垣退助・後藤象二郎による「自由民権運動」が起こった。自由民権運動は明治七年「民選議院設立建白書」において国会開設を求めた。これにより国民運動として盛り上がり「国会期成同盟」が結成された。参議大隈重信は明治十四年イギリス型議会制度論を念頭に2年後の国会開設を求める「国会開設意見書」を明治天皇に上奏。一方の伊藤博文は議会制度の導入を難事と見て「国会開設の前に、憲法・衆議院議会選挙法・内閣制度・行政機構などを整備するべき」と主張し対立した。この中で「開拓使官有物払い下げ事件」が発生し、世論が紛糾し、伊藤博文は大隈重信を罷免し、十年後の国会開設を公約した。「明治十四年の政変」である。国会開設の時期が決まると、板垣退助は自由党を、大隈重信は改進党を結成した。伊藤博文は明治十五年、ヨーロッパ各国の憲法を調査するため渡欧。帰国した伊藤博文は華族令により旧公卿・旧大名や維新功労者を華族として「貴族院」の設置に備えた。立憲政治開始のために内閣制度を創設し、みずから初代総理大臣となった。第二代総理黒田清隆のもとで「大日本国憲法」が発布された。第一議会は民権派の政党が過半数を占めたが、自制した対応をとった。しかし第四代総理松方正義内閣のとき、軍艦建造費を大幅に削減するべく「軍事予算削減」を叫び、政府と衝突した。民権派も建設的な政策をもつために自由党と進歩党が合流して憲政党を結成。大隈重信と板垣退助が協力して隈板内閣を結成、大隈重信が総理大臣、板垣退助が副総理となった。
山県有朋と伊藤博文はそれぞれ政府の施策が政党勢力から介入されぬような方策をとった。隈板内閣が内紛で倒れると、後を継いだ山県内閣は内務省勢力の確立のため文官任用令を改正。地方制度を改め治安警察法を制定、さらに「軍部大臣現役武官制」を定めた。これは西南戦争が三条実美のシビリアン・コントロールにより戦争がおこなわれたため現場が混乱したためである。軍部大臣現役武官制により日露戦争の際は陸軍大臣は寺内正中将、山本権兵衛中将になった。陸軍では旅順攻略に二十八センチ榴弾砲の使用を提案できたり、海軍では東郷平八郎中将を抜擢したりと、日露戦争勝利に大きく貢献した。また伊藤博文も自分の政党を作る方向に動き、腹心の西園寺公望らと政友会を結成、自ら初代総裁となった。西園寺公望はフランスに留学して自由思想や・文化を吸収。中江兆民らと親交を結んだ。伊藤博文の渡欧の際に同行し、フランスの憲法・行政の調査研究にあたった。西園寺公望は伊藤博文の後継者だった。
第一次西園寺内閣では陸軍と海軍の予算確保と、政友会の地方開発の予算確保が対立したが、軍事予算を抑制する方向に定め、外交により国防脅威を緩和させ、陸軍19個師団体制で納得させた。しかし財政再建を目指す大蔵省と地方開発のため鉄道建設を促進したい政友会の調整ができないまま財政再建の道筋が見えず退陣した。
第一次桂内閣と第一次西園寺内閣から始まる数年間は交互に内閣を組織したので、桂園時代と言われる。これは実に巧妙な統治システムだった。桂太郎は山縣有朋の後継者であり、西園寺公望は伊藤博文の後継者であり、止められない政党勢力の進出への対策のため政権をたらい回ししたものであった。これは明治政権内の権力が長州単独閥へ完全移行した結果であった。
明治41年、第二次桂内閣が発足。緊縮財政を推進。徴税の都市化を推進。租税収入の構成比は都市型課税が44%、酒税26%、地租24%となった。こうした中、海軍大臣が軍艦建造費5億8千万を要求。8千万を予算化し6か年にわたり継続支出として納得させた。しかし財政赤字は改善せず生活は苦しく社会不安が増大した。社会主義勢力の活動も活発化した。一般労働者の労働条件改善のため、工場経営者・実業家らの反対を押し切って「工場法」を交付し、幼年少年少女労働者の保護した。しかし財政再建は一向に進まず退陣した。
第二次西園寺内閣は財政再建のため大蔵大臣に勧業銀行総裁の山本達雄を任命。臨時制度整理局を設け、行政・財政整理に注力。新規事業をすべて拒否しようとしたが、政友会は選挙地板強化のため鉄道・港湾予算をゴリ押しした。政友会は陸軍の二個師団増設予算要求を門前払いした。一方で海軍予算は認められ、陸軍は激怒した。造船業が産業振興・貿易立国につながるため海軍予算に実業家が同調した。ここで西園寺内閣は陸軍と調整できず、退陣した。
陸軍・藩閥・官僚勢力を背景とした第三次桂内閣が成立する。陸軍と海軍の要求を調整するために、大正天皇の勅語まで受けたが、それが憲政の観点から批判の的になり、護憲派の民衆も巻き込んだ騒動となり総辞職した。大正の政変である。西園寺公望は山本権兵衛を後継首相に推進し、元老会議は了承した。内閣の施政方針は政友会の意向に沿うことになった。山本権兵衛はその中で海軍増強を図った。軍艦購入の際に収賄事件がおこり退陣。
ここで大隈重信が再登場し第二次大隈内閣を組織した。76歳。政友会の反対で二個師団増設が否決されると、衆議院を解散した。総選挙で勝ち政友会を野党に追いやり、安定与党として「政友会・海軍の連合」を打破し「陸軍・海軍の連合」に組み替えた。陸軍の師団増設は経済効果はないもののクーデターなどで内乱が起きれば政党政治がなくなるので、これを回避するという判断だった。また「国防の充実」と「行政・財政整理」のため「防務会議」を設置して、統帥権を内閣に取り込んだ。議会での陸軍と海軍の予算獲得抗争が歴代内閣をなやませてきたが、これを内閣主導とした。また第二次大隈内閣は日英同盟に基づき、第一次世界大戦に参戦。アメリカの友軍となったことで、オレンジ計画を封じ込めた。またロシアの友軍となったため、ロシアとの軍事的緊張も緩和した。また第一次世界大戦が不況、失業・社会不安、財政赤字、外積の償還困難、貿易赤字・外貨不足のご重苦を一気に吹き飛ばした。ヨーロッパ商品の輸入が途絶えたため、国産品への代替えが進み、貿易は大正4年から輸出超過に転換。11億円の債務国から27億円以上の債権国になった。軍需物資の海上輸送から船舶需要が増加して、日本の海運業・造船業が空前の公共となり、日本は世界第三位の開運国になった。農業国から工業国へ転換した。
第五章 伊藤博文遭難と韓国併合
明治42年に伊藤博文は韓国でロシアと会談した後に銃弾に治れた。明治天皇は山県有朋とは心打ち解けないところがあり、伊藤博文を信頼していたため悲しんだ。明治天皇は武断派の山縣有朋でなく、立憲制度を確立して議会政治への道を開いた文治派の伊藤博文を支持していた。
大航海時代以前は海洋国家は弱小で、モンゴルが東アジアまで攻めてきて元寇になった。大航海時代には海洋国家が勃興し、各地で富の獲得競争を繰り広げた。1765年は上記期間、1807年に蒸気船、1814年に蒸気機関車を発明し、産業革命となった。トルコ・モンゴル・ロシアなどのランドパワーと、スペイン・オランダ・イギリスなどのシーパワーで構想が始まる。これをマッキンダー教授は地政学として確立した。
李氏朝鮮は高句麗の武将が明国の指示を受けて高句麗王朝を倒して建国した明国の属国である。清国が建国されると清国の属国となる。そのうち外戚が勢力を握り、宮廷の浪費で財政破綻し、農民を搾取し、民衆は暴動を繰り返し、1894年に東学党の乱が発生する。蜂起は四千人余りに拡大したが、内政改革はならず、朝鮮大使はロシアの介入を防ぐために日本は清国を支援して朝鮮政府に内政改革を行わせる必要があるとした。政権は対処が不可能になり清国に出兵を要請し、東学党は戦闘を回避し、内政改革を約束させたが、何も行われなかった。
日本は清国に共同で内政改革を行わせることを提案したが、拒絶された。日清戦争になり、朝鮮では内政改革(甲午改革)がスタートした。清国からの独立と改革を成分化した14条を宣布した。日清戦争に勝利して、清国は朝鮮の独立を認め、清国は遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲した。
三国干渉により遼東半島を返還したが、朝鮮でも改革に反対する勢力により暴動が発生した。暴動鎮圧のため政府軍が地方に行くと、中央が手薄になり、朝鮮国王高宗がロシア公使館に匿われ、親露政権を樹立。改革勢力を逆賊とし、改革は頓挫し、農民を搾取する体制に戻る。
日本が恐れていた事態になった。元寇はモンゴル兵に率いられモンゴルの最新武器を携えた高句麗軍だったが、同じことが起こるやもしれない。元寇はランドパワーの元がシーパワーの日本を征服しようとしたもので、朝鮮戦争もランドパワーのなせるものだった。そうしているとロシア軍が韓国領内で工事をしたり、軍事侵攻の前兆があるとして、ロシア軍を満州から追い出すという論調になってくる。
ロシアが不凍港を求めて南下することを山県有朋が懸念した。1888年の軍事意見書でも懸念を表明している。1899年には場合によっては日露戦争が必要と意見しており、徹底したロシア不信主義者であった。一方で伊藤博文は1901年から日露協商によって戦争回避を唱えた。ロシア駐日公使は満州問題では妥協を希望していると伝えている。伊藤は推進のため1901年12月にペテルブルグにてロシア外相ラムスドルフと会談。日露協商は成立するかに見えたが日英同盟が1月に調印され日露開戦は不可避となる。
1904年に日露戦争が開戦されると日本は日韓協約などを調印。日本海戦により日本の勝利が確定的になると、李氏朝鮮が清国に外交権を委ねたのと同じく、日本に外交権の移譲を要求した。韓国皇帝高宗はやむなしとしたが、1907年の万国平和会議での密使事件をおこし、皇帝を去った。
山県と伊藤はともに長州の雑兵クラスの下級武士だったが、山県は権力志向が強く陸軍・警察を基盤とする「武断派」、伊藤は弱者に同情を示すような立憲議会政治を作った「文治派」と相反していた。二人は日露戦争後の『満州の門戸開放問題」で対立した。ポーツマス条約によると日露両軍は18ヶ月以内に満州から撤兵することとなっていた。ところが陸軍は南満州を日本の軍政下に置く態度をとっていた。1906年には大磯秘密会議が開かれ、結局児玉源太郎大正の撤兵反対・軍政推進が勝った。今度は満州問題に関する協議会を開き、伊藤博文が全面的に出て児玉を黙らせ陸軍撤兵・軍政廃止が正式に決定された。この2ヶ月後、児玉源太郎大将は急死した。
伊藤博文は明治42年に暗殺されて、山県の軍国主義へ徐々に転換していく。伊藤博文は日露協商があれば、韓国はソフト・コントロールですむとしていたが、山県の朝鮮半島をハード・コントロール(軍政下において)して、兵站としてロシア軍と再度、戦うという方向になった。
第六章 老害としての山県有朋
伊藤博文が暗殺され、文治派と武断派との間で振れていた振り子が山県に固定すると、国内政局に大きなマイナス硬化を及ぼした。老人は老害となり、老人ころがしの名手・原敬が手玉に取る。
原敬は盛岡藩20万石の家老の家柄であり、下級武士出身の山県を心が卑しいと軽滅していた。両者は第二次西園寺内閣で『二個師団増設」で対立。政友会の原敬が却下したが、最終的には大隈重信が二個師団増設予算を成立させた。原敬の政友会が少数野党に転落すると、山県に近づいた。
山県有朋は足軽以下の雑兵クラスで中元奉公に出され金銭出納事務などの実務につき、長州藩明倫館の用務員として同世代の藩士生徒が学ぶ姿を横目で眺めながら用務をするという屈辱を味わった。急進派が関門海峡でアメリカやフランスの船を砲撃し報復され、放題は破壊される。騎兵隊の募集が始まり入隊した。
急進派は強く反発し、砲台を修復するだけでなく、対岸の小倉藩側にも砲台を構築した。イギリスは列強をさそい、フランス、オランダ、アメリカの四国連合軍を結成し、1864年8月から砲撃を開始し、砲台を破壊したあとに上陸し、砲台兵舎などを焼き尽くした。しかしイギリスの対応には2つの問題点があった。一つは砲撃された国の報復攻撃はすでに行われていて、イギリスは砲撃されていないのに攻撃をしたのは侵略ではないかとの疑念。2つ目はイギリスが講和条件として彦島の租借と賠償金三百万ドルを要求したことである。
これに対して2つの見方がある。一つは徳川幕府側からは開国を完成して、無謀な攘夷戦争を回避したというもの。この見方からすると太平洋戦争は無謀な攘夷排外思想だ。2つ目は長州側からは日本は英米に侵略されて植民地化してしまうので政府を打倒し富国強兵を進めるのだというもの。太平洋戦争は祖国防衛・アジア解放戦争だったという見方である。山県は後者に属しており、戦争の恐怖に打ち勝って武人として栄進することしか頭になかったよう。騎兵隊で敗北した山県はイギリス嫌いになった。
山県は1890年にはロシアに危機感を抱き、日清戦争前にはイギリス・フランス・ロシアに危機感をあらわにした。1895年に三国干渉を受けるとロシア・フランス・ドイツの白色人種連合に危機感を強め、日露開戦の前にはロシアの朝鮮半島の占領に危機感を抱き、場合によっては開戦やむなしとした。黄禍論ではまた白色人種連合に危機感をつのらせ、黄色人種連合の結成を訴える。山県から見ると、日中戦争は日本で軍事教育を受けた蒋介石がアメリカと組んで黄色人種連合の盟主日本の足を引っ張るのは裏切りだった。この黄色人種連合はアジア人民の指導民族としてシンガポール・インドなど東南・南西アジアをイギリス支配から開放すべきであるという大東亜共栄圏という思想につながる。
山県は第二次大隈内閣を潰そうとするが、それは山県の黄色人種連合と、大隈内閣の外相加藤高明の英米との協調により平和と反英を希求するという外交方針が相容れなかったためである。加藤高明の経歴と親英派。加藤は①南満州から撤兵し②アメリカの日本人移民排斥問題は引き下がるが満州を特殊な勢力圏と認めてもらう③ロシアの友好国フランスと交渉し、ロシアを孤立させる④ロシアに韓国と満州における日本の一定の権利を認めさせる。こうして国防上の脅威を緩和させることを図った。加藤は児玉源太郎大将との激論に負け辞任するが、伊藤博文が①の陸軍撤兵・軍政の廃止を決定した。児玉源太郎が死去と伊藤博文が暗殺され、山県vs西園寺/加藤という構図になり、山県の撤兵反対・軍政推進が勢いを得てくる。山県の死後も撤兵反対・軍政推進が復活し、満州事変につながっていく。
日本征服を目指すオレンジ計画から逃れるには2つしか方法がない。1つ目はアメリカ海軍に匹敵する大海軍を建設し、イギリス・フランスらと白色人種連合を組むなら、日本は中国・韓国と黄色人種連合を組んで戦う。昭和前期に日本人はこの道を選択し大敗北した。第二の道はイギリスの後ろ盾を得てアメリカを牽制する。イギリスを支援して対日開戦の口実を与えない。これが加藤高明の方針だった。山県が選んだ道が太平洋戦争敗北につながった。
第二次大隈内閣成立の3ヶ月後に第一次世界大戦が勃発、イギリスから参戦要請が来ると大正天皇の支持を得て御前会議で参戦を決定。この決定で法的権限のない元老を排除した。山県は白色人種は後に襲来するので黄色人種連合を組むべきと日中連帯を唱えた。加藤は山県にお伺いを建てなかったため山県の怒りを買う。
政友会の原敬は少数野党になっていたがチャンスとばかりに山県に近づいた。大隈内閣は買収事件を起こして、大隈重信は責任を取り大正天皇に辞表を提出したが大正天皇は慰留、却下した。山県は貴族院で予算案を否決にすると言って脅し、結局通すのと引き換えに辞任させる。大正天皇も頑張るが、山県の元老主権に負ける。
寺内は黄色人種連合を推進するが中国は統一国家としての体をなしていなかった。黄色人種連合のためには①中国の中で抗争を続ける群雄の中から一勢力を選び②軍資金を送り中国を統一させ③その人物と黄色人種連合を組むという迂遠な道しかなかった。しかし中国統一を果たしたとしても日本と組むとも限らなかった。寺内内閣は段・瑞に決め予算の2割に相当する巨額を支援するが、統一することができず、第二次世界大戦が終戦となるまで統一政府は成立しなかった。山県の案は荒唐無稽な幻だった。
山県は寺内のやり方が悪かったと攻めたところで原敬が同調した。寺内内閣はシベリヤ出兵も行った。シベリヤ出兵は列強から警戒された失敗と言われるが間違えである。その後、第一次大戦後に原敬内閣が撤兵を怠ったので警戒されたのである。シベリヤ出兵はアメリカと共同で行った後背陽動作戦で、第一次世界大戦の処理という相当な戦果があった。アメリカは撤兵したが日本は反革命親日派政権の樹立を模索して駐留を続けたために列強から警戒された。アメリカとは中国の権益などについて協定を結んだ。
寺内は銃創を受け右手が不自由になる。補給戦専門家として裏方から戦争を支えてきた。日本はメッケルの補給軽視の電撃機動作戦が主流だったが、ドイツ陸軍は第一次世界大戦の持久戦で完全敗北に至った。第二次世界大戦も同様の経過となった。日本陸軍はドイツ陸軍が第一次大戦で大敗し、短期決戦型のドイツ戦術思想は時代遅れであることが明白となったのに、補給を軽視しつづけて、太平洋戦争の無惨な敗北に至った。日本では源義経のような短期決戦・先制機動作戦が称賛されたが、戦国時代を勝ち上がるには大舞台を指揮する必要があり、膨大な補給を確保する補給戦能力が問われた。補給戦の名手といえば豊臣秀吉であった。第二位は徳川家康である。織田軍に包囲された今川方の大高城へ兵糧米を搬入した。第三位は朝鮮出兵と朝鮮からの撤兵の補給実務を担った石田三成である。日清・日露の大戦役で補給戦を担い勝利に導いた裏方が寺内だった。
第一次大戦のあたりから軍用米の需要増を見込んだ商人の買い占め・売り惜しみが噂され米価が上昇し始めた。問屋の焼き討ちにもなり、米騒動は沈静化するが、寺内内閣は世論の批判を浴びて退陣した。
寺内内閣が退陣すると長州勢は山県の老害に辟易とし、腰を引いていた。山県外交を継続し、米騒動のような国内騒乱を未然に防ぐために、内務大臣として経験が長い原敬を後続首相に選んだ。原敬は外交に定見を持っていなかったので山県に迎合した。シベリアからは原敬内閣・高橋是清内閣が撤兵しなかった。
イギリスにも日英同盟の継続派バルフォアがおり、バルフォア試案という日米同盟の予約契約を提示した。しかし原敬内閣が日英同盟の継続に熱意を示さなかった。ワシントン会議で海軍比率について話し合われたが、同時に日英同盟の存続問題が議論された。アメリカの四か国条約にのり、アメリカの思惑どおりに日英同盟を廃棄するに至った。1902年以降20年にわたり日本外交の基軸で日本の平和と安全に役立った日英同盟の代わりに四か国条約と九カ国条約をあたえられたが、日本の平和と安全にはなんの保証にもならず、孤立化に貶められた。そうして、朝鮮半島や満州へ膨張を続け、オレンジ計画発動の口実を与えるに至る。
内田康哉は日本外務省の重鎮だった。山県外交を遵奉して日英同盟ははきされた。満州国承認と国際連盟脱退を推進した。
第七章 大正天皇と山県有朋の暗躍
山県は天皇を神として崇め奉っていたが、求めていたのは国家儀礼者としての天皇であった。明治天皇は病状が悪化して体調不良となり、枢密院の会議に臨席されたものの議事の途中で居眠りされた。議長席から見た山県は群島で床を強く叩き、明治天皇を目覚めさせ、議事を進行した。明治天皇は山県を嫌っていた。明治中期以降は山県と伊藤博文が元老の双璧だったが、山県は正確に暗いところがあり打ち解けなかったが、明治天皇は伊藤博文を最も信頼し、何事につけ相談相手にしていた。大正天皇のときは伊藤博文はいなかっために不満と鬱屈と悲劇があった。
大正天皇は皇太子の頃から山県を嫌い大隈重信を信頼していた。大隈重信は嘉仁皇太子を自宅に招いたりもしている。嘉仁皇太子は日本の皇室史上、未曾有のことだが、家族一緒の幸福な家庭生活を営んだ。嘉仁皇太子は日本各地に巡啓を通じて多くの国民と触れ合った。それを山県は苦々しくみており、天皇は神格化された無機質な存在であるべきといっていた。山県から心理的圧迫をうけて嘉仁皇太子は心身のバランスを崩していった。大正天皇は山県を嫌悪して3回にわたり辞任を勧告。一方で山県は枢密院での自勢力を強化していった。原敬が首相に就任してまもなく大正天皇の体調は悪化し始めた。強度のうつ病になったらしい。山県は天皇の病状を折を見て公表していった。また幼少期から一貫したものと公表するように主張した。
宮中某重大事件が起きる。裕仁皇太子(のちの昭和天皇)との婚約発表された久慈宮邦彦王の長女良子女王について、薩摩島津家に由来する色盲と系統があると指摘されたことを機に「婚約解消すべきか否か?」が問題になった事件である。山県と原敬は婚約解消を強硬に主張。久慈宮邦彦王はつっぱねる。山県は避難され身辺も危険になり失脚する。1年後に死去、国葬が行われたが参列者は少なかったとのこと。この1ヶ月後、同じ日比谷公園で大隈重信の国民葬が行われ、盛大・雑踏を極めている。
大正天皇は山県との暗闘に敗れ、強度のうつ病に加えて軽度の脳梗塞を併発したらしく引退・廃帝となった。敗戦後、昭和天皇は人間宣言をしたが、これらは大正天皇が大正時代に実践したものなのである。大正天皇は天皇史上始めて側室を廃止し家族で一緒での円満な家庭を築き、四人の聡明な皇子たちと過ごした。大正天皇は心優しい人間天皇だったばかりでなく、大隈重信・加藤高明を支援し日英同盟によってオレンジ計画を空洞化させた。しかし政治的作為性の強い発表によって脳病を患った精神病者として後回された。
補論 大正陸海軍の軍縮
米英日の経済力を鉄生産量で比較すると10対2.6対0.2という格差があった。なので海軍比率10・10・6というのはアメリカがイギリスと日本に相当に配慮した数字だった。陸軍にも軍縮の波が訪れ、予算の関係上、山梨軍縮と宇垣軍縮によって総兵員の32%を減じた。それにより装備を近代化して、最優先は飛行機だった。フランスのサルムソン偵察機を改名し、戦闘機・爆撃機仕様に変更して937機を国産。同じくニューポール29型戦闘機を輸入し、634機を国産。88式系爆撃機も1117機生産された。インパール作戦ではイギリスに制空権を奪われていたので悲惨な結果となった。イギリス軍の円筒陣地へ爆撃できたら、日本陸軍はインド方面へ進出して援蒋ルートを遮断し、インド独立運動を拳、インド独立を危惧するイギリスから講和をさそって、太平洋戦争はそこで終結したかもしれない。そうならなかったのは一重に陸軍の航空機予算が不足していて、飛行機を十分に揃えられなかったからである。
4個師団廃止で削減された兵員のうち6千余人は航空部隊や戦車部隊へ転属したが、多くは現役引退を余儀なくされた。失職を回避すべく学校配属将校制度を創設し、男子校へ配属し、軍事教育の指導にあたらせた。徴兵後の基礎訓練を少なくでき、人件費・諸費用も浮かさられる良い制度であったが、学校生徒や教育関係者からは理解されなかった。
フランス式とドイツ式がったがフランスは国民軍、ドイツ式は諸邦連合軍で各国王が名誉を争った。ドイツ諸邦連合軍では諸王国が競っているので兵員削減が困難で近代化を進めるので軍備費が異常に増加する。
それでも日本人は戦争を選んだのか?参謀長が経験しない事柄について、考えが及ばないという参戦立案の熱意と能力が乏しい人々だった。日本人は第一次世界大戦において、ヨーロッパ戦線への派兵を選ばなかったから経験を通じて学ぶことができなかった。
東京裁判の解説ラジオ番組「真相はこうだ」というGHQ作成番組が作られて、歪められた歴史観で日本人を洗脳した。