「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて: 幻の旧石器を求めて

1973 講談社文庫 相沢 忠洋

古代史に興味があり、この本にたどり着いた。とにかく素晴らしい物語だった。

登場人物

相沢 忠洋先生が幼少期の体験や戦前・戦後をどのような生きてきたか。それは日本の歴史をひっくり返す「岩宿」の発見にどうやって行き着いたかを詳しく語っている。

物語のはじまり

相沢 忠洋先生は納豆売りをしてまずしく暮らしていた。両親と共にあった幼い頃からの記憶を辿っていく。

テーマ

興味があることに打ち込むとはどういうことなのか。人間世界には汚いこともたくさんあるが、真摯であるということはどういうことなのか。

最後に

戦前・戦後の情景も描かれているので、そのあたりも非常に興味深い。ただ何よりも相沢先生のお人柄、情熱が素晴らしく、かくも真摯に生きられるのかとも思った。幼少期から辛い体験をいくつも重ねており、その中でも希望を失わずに生きられていたお姿には何度も心を打たれた。厭世的なのは相沢先生の優しいお人柄がそうさせている気がした。この10年で一番感動した作品かもしれない。多くのひとにぜひ触れてほしい。

[復刻版] 大衆明治史

復刻版ダイレクト出版 1943 菊池寛

GHQが発禁にしたというのに惹かれて読んで見た。日本男子なら読んだ方が良い一冊。簡素で細かく章立てされていて、読みやすい。

第一章 廃藩置県

大久保利通が転向し公議政治を否定して、薩長連合をもって国内統一を図る。西郷隆盛という旧勢力の重鎮を呼び寄せ、廃藩置県を了承させ断行する。西郷隆盛がどういう存在でどういう役回りだったのかが良くわかった。

第二章 征韓論決裂

西郷は征韓論を唱えるが、決裂して、帰国する。

第三章 マリア・ルーズ号事件

支那の人をアメリカに売る奴隷貿易をしていた船が難破する。あえて公法をたてに日本で裁判にかけ清国に奴隷を引き渡した。

第四章 西南戦争

西郷は鹿児島に帰ったが、鹿児島で西郷王国を築くが如くである。内務改革のために鹿児島県の役人を更迭する人事が行われる。さらに西郷を暗殺する計画があるときき、軍を組織する。二百日も転戦するがついに西郷の自害とともに幕を閉じる。

第五章 十四年の政変

内務卿の大久保も刺客に殺される。その後釜とし伊藤博文か大隈重信ということになるが、大隈重信はその職を免ぜられるというクーデターがあった。これは北海道開拓使有物払い下げ問題に端を発して、薩長政府に批判が集中した。これを伊藤が利用して逆に土佐の政敵を葬ったとしている。

第六章 自由党と改進党

板垣退助も武人で、西洋との人民の在り方の違いを憂いていた。なぜ人民が国や地域のために戦わないのか?ということだ。また土佐の坂本龍馬以来の民権思想も引き継がれて、板垣退助は自由党を作る。またより穏健な政党として肥前出身の大隈重信が立憲改進党を作った。土佐と肥前が政府の薩摩と長州に対抗したとも見える。

第七章 国軍の建設

大村益次郎は軍政家として国軍の改革を進めていたが、保守主義者の刃にかかって死ぬ。その後を継いだのが洋行した山縣有朋であり、徴兵制をしく。土百姓や素商人に鉄砲をもたせて何ができるかという雰囲気だった。山縣は平民から組織された奇兵隊の力を見ていた。また大村は内乱鎮圧を目的としていたが、山縣は外敵を目的としていた。桂太郎はドイツで軍を研究していたが徴兵令を評価した。またメッケルを召喚し戦術を抗議した。

第八章 憲法の発布

伊藤は憲法の視察のために洋行するが、デモクラチック・エレメントが必要で、それは今までの日本にないものとしている。神武天皇以来の大きな変遷としている。日本に帰ると横須賀の夏島につめて秘密裏に井上、伊藤、金子とともに草案を書く。特に皇室典範を担当した井上毅の仕事が大きいとしている。明治天皇も一条一条を確認した。
 11月12日の会議中に四男が亡くなった知らせを受けた明治天皇が会議を続けなさったとのことに驚いた。他国では憲法の発布とともに流血があるというが日本がないというのは、いろいろ考える。

第九章 大隈と条約改正

大隈は鹿鳴館の猿芝居がこたえて、不平等条約改正のために再び政府に入って動き始める。自分が東京で交渉する形をとった。メキシコで成功すると、米国、ドイツと条約を改定していった。英国と交渉する段になり、秘密裏に進めていた条約の概要が英国の新聞に載ってしまう。条文に憲法違反になる項目があることがわかり、世論が沸騰し、ついに爆弾の被害に遭って、条約改正は頓挫してしまう。

第十章 日清戦争前記

朝鮮の扱いをめぐって支那と対立する。伊藤博文は李鴻章と会談を持ち天津条約を調印する。朝鮮に東学党が政治革命を企てるのに乗じて、支那は朝鮮に出兵する。

第十一章 陸奥外国の功罪

陸奥宗光のこれまでについて。伊藤は軍部と協調して、講和の交渉相手を残しつつ戦いをした。清国側から講和の申し出あり米国を仲介として下関に李鴻章一行を招き行われた。交渉三日目に李鴻章が狙撃される。伊藤はなぜ俺を狙撃しなかったのだと言ったという。一転、日本は不利な状況に転じたが、挽回して、下関条約を結んだ。
 伊藤博文が中国語を少し話せるのは驚いた。

第十二章 三国干渉

国民が戦勝に酔いしれている中、ロシアは遼東半島の放棄を求めてきた。その後、ドイツ、フランスも同一の覚書を持ってくる。イギリスも当初は同様な論調だったが、ロシアの拡大を懸念し、むしろ日本側につく。イギリスはインドでもロシアの脅威にさらされていた。結局、遼東半島を放棄する。著者はなぜ未来にわたっても遼東半島を他国が割譲しないことを約束させなかったのか?と悔しがる。

第十三章 川上操六と師団増設

三国干渉があり、軍拡が世論となった。川上操六は一人で日清戦争の陸軍を指導したと言われている。モルトケに指導された川上の話が続く。国防の観点から内地は元より、朝鮮や支那へも旅行している。川上は河野広中に六ヶ師団増設をロシアが想定するよりも早く準備することで優位に立てるとして認めさせた。
 権力に興味がなく、死ぬ頃には人当たりは益々柔らかくなり、給仕の少年にまで一々挨拶を返した、という人柄は心を打った。

第十四章 北清事変

列強たちは清国の利権を取得していった。ロシアは鉄道、旅順、大連。フランスは南全体、海南島。イギリスは威海衛や九龍半島、鉄道。民衆は政府は当てにできなかった。そんな中、山東省に起こった義和団は外国人駆逐に熱を上げて、支那全体に広まった。ついに天津居住地を攻撃し、北京の各国の公使館を包囲するに至った。各国は兵を持っていたが挙匪と官兵も加わっていて膠着状態になる。英国も日本も当てにしだす中で、天津で露独仏の連合軍が負けた翌日、日本が占拠した。日本を加えた混成軍が北京に向かい各国兵が功を急いぐ中、正面から撃破して、包囲された人々を救った。占領された清朝末期の北京は天下の宝物に溢れていたが、日本兵は保存のために尽力した。一方の列強の各国軍は略奪や破壊、婦女への暴行を尽くし、日本に助けを求めるほどであった。

第十五章 対露強硬論と七博士

韓国大使に任命された林権助は陸軍の参謀将校から対ロシアの観点で朝鮮の防衛が大事だと言われる。一年後、ロシアの艦隊が来ると基地を作ろうとしている場所を聞き込んで、その土地を商社に買い占めさせた。このような積極的な対露路線に対して、伊藤博文は消極的な態度をとっていた。満州でロシアの権益を認める代わりに韓国で日本の権益を見てめてもらうという満韓交換論である。軍も議会もロシアと開戦する時期を逸すと紛糾し、民間の学者も開戦を進言した。
 当時は軍も政府もかなり風通しの良い組織だったことに驚かされた。

第十六章 日露海戦

日本は日英同盟や満州還付条約など日露海戦への外交上の布石を打っていた。内政としても桂内閣と伊藤博文が和解をして外交の一本化を図った。桂首相も明治天皇へも報告を入れている。その折、露国参謀本部では対日作戦計画の裁可がおりて、増援部隊が到着し次第、日本に戦争を始めるという情報が届いた。日本は御前会議を開き満場一致で開戦を決議し、翌日に軍は勅諭を賜った。財政面も不安があるなかで、伊藤博文は金子伯をアメリカに派遣して、調停への布石を打っておくように頼んだ。その時の言が以下である。
 「いよいよロシア軍が海陸からわが国に迫った時には、伊藤は身を卒伍に落して鉄砲をかつぎ、山陰道か九州海岸に於て、博文の生命のあらん限り戦い、敵兵に一歩たりとも日本の土地はふませぬ決心である。昔、元寇の時、北条時政は、身を卒伍に落として敵と戦う意気を示した。その時彼は妻に何と言ったか、汝も吾と共に九州に来れ。そうして粥を炊いて兵士を労えと言った。今日伊藤も、もしそんな場合になればわが妻に命じ、時宗の妻と同様に九州に行って粥を炊いて兵士を労い、そうして斯く言う博文はは、鉄砲を担いでロシアの兵と戦う。」
 金子は伊藤の熱意に動かされて、アメリカ行きを承諾したが、参謀本部に児玉次長を訪ねて戦局観を聞いた。「まあ君がニューヨークで演説している最中、六度は勝報がいくだろうが、四度は負け戦の電報が行くものとして覚悟していてくれ」と答えた。海軍の状況を山本に聞きに行くと、「僕の方は半分は軍艦を沈める。又人間も、半分は死んでもらわねばならぬが、君もアメリカでどうかその心算でやってくれ」と言われる。

第十七章 児玉総参謀長

参謀次長がなくなり、降格になるが児玉がその地位に治った。前任の田村の作戦をさらに練りあって作戦を決定した。メッケルも児玉を英才としていた。台湾総督にも選ばれ混乱した台湾を建て直した。どの地位にあっても人ができない成果をあげている。
 第一軍は仁川から順次上陸させ、一気に北上し鴨緑江岸九連城付近で敵の軍とはじめて遭遇し、これを撃滅させ、全軍の士気を鼓舞した。第二軍は遼東半島の敵を駆逐するため、半島の一角へと敵前上陸を敢行し、旅順港内の敵戦を撃沈したりした。一軍が大勝したその時に第三軍の大将として乃木に声がかかる。乃木は児玉とは西南戦争からの知り合いで、反対の性格だったがウマがあった。第四軍まで編成されたが軍事司令官は維新からの歴戦者たちで、補佐する参謀長は士官学校の一期生二期生ばかりだった。満州総司令部が設置され、悠然と構える大山を尊敬していた児玉は人を食ったような態度はなく慇懃に務めた。
 第三軍は旅順を攻めた。第一回攻撃でも第二回攻撃でも大量の死傷者を出しながら戦況はまったく好転しなかった。歯がたたない旅順の要塞のために、二十八柵の巨砲を内地から運んだ。据えるのにも一二ヶ月かかるような大砲を横田大尉の超人的な努力でわずか九日で発射の準備ができた。しかし思ったような戦果はあげられなかった。ここでやっと正面攻撃を反省をして203高地という比較的手薄な場所を目標にする話も出てきたが、変更はまとまらず正面攻撃は続いた。203高地に目標が移されると、9昼夜連続の攻撃で屍山血河という言葉通りの戦場になる。児玉も戦況が良い時は冗談を飛ばすこともあったが塹壕内を往復し203高地の下を匐伏して戦況を視察した。203高地から旅順の街が見えると、二十八柵砲を中枢部や敵艦に向かって飛び、敵艦はほぼ殲滅した。これにより他の地域も占領し、開城を迫った。旅順に入場した第三軍は陣没将士の鎮魂祭をした。終わるとただちに奉天に向かう司令を受ける。

第十八章 奉天会戦

両軍の戦闘品は日本軍が24万、露軍が36万。当時世界でも例のない規模だった。日本は劣勢だったがとった作戦は包囲作戦だった。孫子に「十ならば即ち囲む」とあるが、十倍の戦力で初めて包囲は成功するのだ。ロシアでさえこの事実をなかなか認めなかった。しかし日本軍少数での包囲は危機的でところどころに綻びがあった。日本の右翼を餌にして左翼の第三軍を急進させて回り込ませるという作戦だった。ロシアは旅順を堕とした第三軍を心配していたが、右翼にいた第三軍11師団にロシアが気付き、予備兵をすべてこれに当ててしまった。正面左側の第二軍が半数を失う中、第三軍は急進行した。そんな中、敵の左翼は敗走し始め、第三軍の近くの鉄道から退却する列車が見えていた。戦闘はまだ奉天市内や郊外で行われていたが、日本軍は堂々と奉天入場式を行い、南門から入城した。東洋の地で、はじめて完全に武装された東洋人が、白色人種を完膚なきまでに叩きのめした。

第十九章 日本海海戦

くロシアの海軍は開戦時は戦艦七隻、装甲巡洋艦十隻であったが、開戦と同時に仁川港で二隻、旅順港の夜襲で三隻を失っている。陸上の敗走により士気が上がらないためにバルチック海にある精鋭艦隊を日本海に派遣することを決める。周到な準備を終えたロシア軍艦はクロンスタット港を出発し、紅海とアフリカを回る二手に分かれ、落ち合ったのち、日本に迎い、いよいよ津島海峡東水道を通過した。警戒をしていた日本はそれを発見する。日本戦隊の無線が激しくなったことでロシアが発見されたことを知る。
 日本も「敵艦見ゆとの警報に接し、吾戦隊は直ちに出動、之を殲滅せんとす。この日、天気晴朗なれど波高し」という有名な第一方が、まず大本営に飛んだ。敵艦隊と並進しながら報告し、その報告は、敵の戦列部隊が太平洋第一、第二艦全部に特務艦が七隻あること、その陣形が二列縦陣であること、その速力は十二浬であることなど詳細を極めた。そこで東郷提督は時刻と距離を計算して、午後2時ごろ、沖の島北方で主力艦隊が敵を迎える予定を立てた。敵艦は予定のごとく姿を現した。「皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」このまま進めば、両戦隊は縦陣を以てすれ違い、互いに敵を左舷に見る反航戦になる。利害共に等しいから、先頭としても平凡に終わりそうである。
 日本海海戦に於ける丁字戦法は有名だが、黄海海戦でも行ったことがあり日本海軍戦法の定石だった。ただこの日に、この戦法をやるには、あまりにも彼我の距離が近すぎた。それは朝来ガスが海上一面を蔽っていたため、遠望がきかず、敵影を認めるのが遅かったため、強いて旋回をすれば敵弾を浴びなければならず、むしろ避けなければならないのである。東郷大将は突然右手を真直に挙げ、左へ振ると、参謀長を見た。わが戦隊が敵八千メートルに於て、逐次旋回を試みるや、敵の旗艦にあったロジェストウェンスキーの幕僚たちは手を拍って「我勝てり、東郷狂せり」と叫んだという。先頭の三笠は敵の巨砲の前に暴露し、甲板に数弾を浴びた。しかし逐次旋回したわが第一第二両艦隊十二隻の精鋭は、敵の二列縦陣の戦闘を遮り、丁字先方が出来上がった。ここで形勢は逆転し、敵の二列の戦闘艦たるスウォーロフとオスラビーヤはわが片舷百二十七門の巨砲の前に、すっかりその全体を暴露することになった。この二艦を目指して打ち出した砲撃に二艦は煙に包まれて見えなくなった。日本艦隊はロシア艦隊に比べて速力は五割ほど優れていた。この快速を利用して急旋回をした日本艦隊は更に乙字型をなして、あくまで敵の先頭を圧迫するので逃げられない。スウォーロフは全艦蜂の巣のようになり列外に出て、オスラビーヤは炎上後に沈没した。開戦三十分にして、すでに勝利に対する確信を掴んだ。夜も魚雷攻撃で1艦は沈み、3艦は航海不能になる。翌日も五艦はそうそうに白旗をあげた。

第二十章 ポーツマス会議

 ニューハンプシャー州のポーツマスが軍港が整備されているという理由で講和の地として選ばれた。小村寿太郎が全権大使として選ばれれ、出発は国民の期待があり盛大なものだった。しかし政府関係者は困難な仕事として考えており、伊藤博文は帰還の際は自分は出迎えると伝えている。交渉相手は海千山千の王男ウイッテだった。小村は遅れて到着するが当てられたホテルの一室を二時間で事務所に改造した。初日の本会議で我が方の十二条よりなる講和条件を提示した。ロシアのまだ負けたわけでないという態度によって難航したが、講和は成立した。賠償金は放棄し、樺太の半分を獲得した。
 講和を成立させて日本に戻っていた小村に耐えられないニュースが舞い込んだ。米国の鉄道王ハリマンとの南満州鉄道を共同計画しようというハリマン協定である。小村は諸元老たちを説得してまわりついに協定の取り消しに持っていく。

第二十一章 明治の終焉

 日露戦争で勝利した日本は東亜で指導的地位をかくりつした。韓国での日本の宗主権が認められると、伊藤博文は総督として京城に赴き近代化を図った。伊藤は後藤新平で厳島で会談した。大アジア主義を唱える後藤を諌めたが、各国を回ることは了承し、人と会うためにハルビン駅に着いたが、そこで凶弾に倒れた。
 明治を通して日本は外国が二三百年かかってなした変革をわずか50年で成し遂げた。外国文化の接種においても常に日本の伝統が基調をなしていた。

 

本日公休

2024 ザジフィルムズ/オリオフィルムズ フー・ティエンユー

単館映画のサイトで見て気になったので映画館に足を運んだ。台湾が好きなので見たのもあったが、物語が期待以上の作品だった。

登場人物

 アールイは台中の下町で40年にわたり理髪店を営む店主。時が止まったような佇まいのお店である。アールイはお客さんを大事にして、そろそろ散髪の時期ではないかと電話をする。チュアンは次女リンの別れた夫だが、近くで自動車修理を営む。温厚で優しくアールイに息子を見せにきたりと、周辺にいろいろ世話を焼く。長男ナンは定職につかずアールイの周りをウロウロしている。

物語の始まり

 アールイのお店には何十年も通っている常連客が入ったり出たりしていて、半ば溜まり場のようにもなっている。しかし、そんなある日、アールイは古びた愛車をチュアンに修理してもらうと、店に「本日公休」の札を掲げ出発する。偶然に家を空けたアールイに近所の人や家族は心配する。そんなアールイは、遠くの町に住む常連客が病床にあると聞き、出張散髪に向かっていた。

テーマ

 人と人のつながりによって人生はできている。そして時の流れは恐ろしく早く、すぐに年老いてしまう。けれど、ときの流れにそって人と人とは交わって、心の交流がある。理髪店は時には家族とよりも長い間、人によりそっていく存在。時間はみなに平等に与えられている。時間や人の交流はお金よりも貴重なものである。

最後に

 めずらしく素晴らしい台湾映画だった。人と人の人生をかけた交流には涙が出る。お客様との濃厚な関係も台湾ぽっくで良い。あと自分の子供たちもうまくいっていないのが現実的だった。そういうことはありそう。

 人生がこれから始まろうとしている人よりは30代から40代の人にささるんじゃないかな。人生って一瞬です。まだまだ人生はあると鷹を括っている人におすすめです!

しあわせ仮説

どこかで紹介されていたので、何年も前から読みたくて買って読んでいたがなかなか進まず。

本の構成

本書は10の偉大な思想について述べている。社会心理学者である筆者は多く書物を読み古代〜過去の書物や過去の世界文明を調べた。そこから得た世界文明が発見したいくつかの幸せについての10の思想を吟味し、一つづつ章をに分けて説明している。

第一章 ~ 分裂した自己

心は分裂している。プラトンは統制された自己と、混乱する欲望に満ちた制御が難しい自己があるとした。同じようにフロイトは3つの自己、たとえるなら馬車を操る運転手(エゴ)と反抗的な馬(イド)、後部座席の運転手の父親(スーパーエゴ)に分かれているとした。今では心は情報処理をするコンピュータに例えられるが、筆者は馬と運転手という馬車のメタファーを使っていく。
 さらに心は4つに分裂している。まず第一に内臓は脳と独立で自動で意思とは分かれて働く。第二に右脳と左脳に分かれて働いている。左半球は言語処理や分析的な処理を専門として、右半球は顔を含む図形や空間的パターンの処理に長けている。右脳と左脳を繋いでいる脳幹を切断すると、行動に齟齬が生まれるが、左脳がすぐさまそれを作り話を使って理由を説明することがわかった。この説明する機関は説明モジュールとされるが、これは象使いである。
 第三の分裂は旧皮質と新皮質である。基本的な欲求や動機の調整に特化した古い部分と、情緒的な学習や反応に特化した新しい部分である。その中の前頭皮質は新たな連合関係を生み出したり、思考や計画や意思決定に関係している。これはプラトンの御者であり、悪馬である大脳辺縁系から支配権を引き継いだ理性で、これをもたない他の動物よりも人間は上位に位置しているという優位性を正当化している。事実この前頭皮質に損傷があると性欲を公然と示すなどの例がある。一方でこの前頭皮質によって感情も大きく進化した。前頭皮質の一部である前頭目●皮質の神経細胞は快楽や苦痛、損失や利得などの即時的な可能性があるときに激しく発火する。食事や景色や素敵な人に魅力を感じた場合や、反対に死んだ動物や下手くそな歌や相手に不快な感情を感じた場合に、接近したいとか離れたいなどの欲求の情緒感情を生み出している。前頭目●皮質はどちらかというとイドの候補である。前頭目●皮質の損傷の研究では情緒を失った人が感情がわかないことがわかったが、完璧な論理性を身に着けるのではなく、様々な選択肢のなかで好き・嫌いの感情が瞬時に浮かばないために簡単な意思決定などもできなくなる。人間の合理性は情緒に依存している。
 第四の分裂は制御されたプロセスと自動化されたプロセス。大半の心理的プロセスは意識的な注意や制御を必要とせず無意識的に起こる。制御されたプロセスは限界があり、一度に一つしか考えられない。自動的プロセスは平行に動作して、一度に多くのことをこなすことができる。制御されたプログラムには言語は必要だ。意識的な計画等能力は、進化の歴史上においては最近のほんの短期間にえたものである。一方で自動化されたプロセスは、すでに数千回の生産サイクルをくぐり抜けており、ほぼ完璧だ。進化の過程では人間の脳波その能力を象使いへと譲り渡すように作り変えられはしなかった。すべての物事ははすでにかなりうまく機能していたし、言語能力は象が何か重要なことをより良い方法で行うのに役立つという範囲で広まった。象使いは、象に仕えるために進化したのだ。言語の効用の一つは人間を部分的に刺激制御から開放することである。制御されたシステムのおかげで人は長期的な目標について考えることができ、視覚的にはそんざいしない他の可能性について想像することができる。ただ制御されたシステムは行動を引き起こす上では比較的小さな力しかもたず、助言者と考えた方がふさわしい。象使いは、象がより良い選択をするのを助けるために象の背中に乗っているが、象の意思に反した命令をすることはできない。
 象と象使いの3つの例。1つ目は幼少時代に欲望を制御できた子供が大学入試試験で良い点を取れること。2つ目は自動化されたプロセスは連想をとおして何千という思考やイメージを生み出している。日常で怖かったり恥ずかしかったりする考えを制御されたプロセスが抑圧しようとして失敗すると、自動化されたプロセスに引き渡され繰り返し心の中に現れる。3つ目は道徳的な議論では象が手綱を握り、象使いを誘導している。何が良く何が悪いか、何が美しく何が醜いかを決めるのは像である。象使いは象の弁護士となる。
 このように私たちの心は様々な部分が緩やかに連合したものだが、意識的な言語による思考という一つの部分に注目しすぎている。わたしたちは時々、自分の無意識やイド、動物的な自己と戦っているという考えに陥る。しかし、本当のところは、私たちはその全てなのだ。

第二章 ~ 心を変化させる

 大衆心理学では「世の中の出来事は私達の解釈を通じてのみ私達に影響を及ぼすので、自分の解釈をコントロールできれば、世界をコントロールできる」とする。この洞察へと達し、これまでのやり方やものの見方を変えようとしても、3ヶ月後には下に戻ってしまったに違いない。象使いが計画に従うように象に命令することはできない。象を訓練し直すことによってのみ、永続的な変化が可能になる。本章ではあまりに多くの人々において象が不安で悲観的になりやすいのかを説明し、それを訓練しなおす3つのツールを紹介する。
 情動があるような複雑な脳をもつ動物は快か不快かを自動的にひらめく好悪計をもっていて常に作動している。その影響力は捉えにくいが感情プライミングとして知られる実験で象と直接会話できる。また自分の名前の響きなどのささいなことも住む場所、パートナーや職業の選択に影響を与えていることが分かっている。
 助けをもとめにきている患者は心配を減らしたい人でいっぱいだ。象はあまりにも多くの物事を悪くとらえており、良い面をみていない。しかし生物は悪いことは良いことよりも強く反応するように設計されている。脅威や不安に対する反応は、好機や快さに対する反応よりも早く、強く、抑制するのが困難であり、ネガティビティ・バイアスと呼ばれる。動物の行動は相反する動機づけのシステムで支配されている。接近システムはポジティブな情動を引き起こし、物事に対して接近したくなるように仕向ける。回避システムはネガティブな情動を引き起こし、物事を避けたり、それから退いたりしたくなるように仕向ける。両システムは同時に相反する動機を生じさせることもあるが、その相対的なバランスによって進路が決定される。見知らぬ人に話しかけたいと思うが、その人に近づくと突然動けなくなってしまう。回避システムがすばやくフルパワーで動き出し、それよりも遅い接近システムを上回ってしまう。回避システムが素早く強制的である理由の一つは、入ってくるすべての情報をまっさきに得るからである。目と耳から入力されるすべての神経パルスは視床を経由して大脳皮質に送られるが意思決定には1~2秒かかってしまう。一方で視床を通って扁桃体に送られる近い道もある。扁桃体は闘争・逃避反応を活性化させる脳幹部分に直接結合していて、以前の恐怖エピソードを構成するパターンを見つけると、体に非常警報を発令する。たとえば一人きりで部屋にいると思いこんでいるのに後ろで声を聞いたりしたときは、ビクっとし、心拍数が急上昇する。最初の10分の1秒間で恐怖に対する反応を示す。また扁桃体は思考を変えるために前頭皮質にも伸びていて、脳全体を回避方向へと転換させ、情報処理にバイアスをかける心のフィルターを生起させる。性格を説明する際は生来の気質と環境が影響すると考える。しかし生来の気質のが思った以上に影響している。双生児研究では人の平均幸福度における全分散の50~80%が人生経験よりもむしろ遺伝的な相違で説明できることを示している。ある人の幸福レベルはその人の感情スタイルであると言える。左前頭葉が右前頭葉のどちらが活発かでその感情スタイルが決まることが分かっている。
 ここで自分の感情スタイルを変える3つの方法を紹介する。瞑想、認知療法、プロザックである。一日一回服用すればよく副作用はあるが、良い副作用ばかりである。自尊心や共感、信頼感を増強し、さらに記憶力さえも改善する。その薬はすべて自然なものでお金もまったくかからない。そんな薬は存在する。瞑想である。瞑想は多くの宗教的伝統で見出され、インドでは仏陀より以前から長くから用いられてきたが、瞑想を西洋文化の主流へともたらしたのは仏教である。瞑想は象を飼いならして鎮める。2つ目は認知療法である。うつ病の治療でベックが見出した方法であるが、歪んだ思考プロセスの過程をとりまとめ、これらの思考を受け止めて挑戦するように患者をトレーニングしたのである。彼の勇気と粘り強さは報われ、うつ病や不安章、その他の数多くの症状に対する適用において、最も効果的な治療法のひとつである認知療法を作り上げた。認知療法が効果的である理由は、象使いに、議論によって象を直接的に打ち負かす方法でなく、象を訓練する方法を教えるからである。3つ目はプロザックは選択的セロトニン再取り込み阻害薬の代表選手だ。どのような作用しているかわかっていないが、コカインやヘロインのような即効性がないため常用性がない。どのような効き目があるかどうかはわかっていて、うつ病や全般性不安障害、パニック発作、社会恐怖、月経前深い気分障害、一部の接触性が、強迫性障害など、驚くほど多様な精神疾患に対して効果がある。プロザックは大脳皮質くじの不公平を埋め合わせる方法の一つである。視力の悪い人がコンタクトレンズをするようなものである。

第三章〜報復の返報性

 賢者が何か高尚な言葉を選ぶなら「愛」か「報復性」だろう。報復性は根深い本能であり、社会生活の基本通貨と言える。人間以外のすべての超社会的な種において、その特徴とは血縁性利他主義の遺伝的特徴である。動物が自分の子供たちの安全のためには自分の生命を危険にさらすことははっきりしている。協調的な集団で暮らすほとんどすべての動物が近親者の集団でせいかつしているため、動物界における大半の利他主義は、遺伝子の共有が利益の共有と等しいという原理原則を反映している。ハチやシロアリやハダカデバネズミの集団では皆、兄弟姉妹なのである。超社会的な動物は超血縁状態へと進化することで、自動的に超協調行動が生まれ、さらにそれが壮大な分業化を可能とし、ひいては、ミルクや蜜やその余剰分にあふれた巣を作り出した。
 動物における相互作用の大半はゼロサム・ゲームである。ある動物の利得は他の動物の損失だ。しかし一日では食べ切れないくらいの獲物を見つけることがあるかもしれない。獲物が豊かな日の余剰を、必要となる日のために貸して取引できる動物は、偶然の予期せぬ変化に対して生き残る可能性が高くなる。その中で毎回成功した個体にものをねだる詐欺師に対して非協調だけで対応した場合にはあまり多くの集団をまとめられない。人間は詐欺師に対してこっぴどく叩きのめす。復習と感謝はしっぺ返し戦略を増幅し強化する、道徳感情なのである。詐欺師の利得は彼らが敵を作り出すことによって支払うコストによって減じられ、誠実であることの利得は友人を得ることで増幅する。
 大きな行為に対してお返しをし損ねるような恩知らずは叩きのめされるだろうと述べたときに触れなかったことがある。最初の攻撃はまさしくゴシップだろう。そんな奴の評判を貶めるのだ。脳は飛び抜けて稼働コストが高い器官であり、重さは体重の2%だが、20%のエネルギーを消費する。一般的に動物がある特定の大きさの脳を持っているかについて説明している唯一の理論は、脳の大きさと社会集団の大きさを関連づけたロビン・ダンバーのものである。ダンバーは霊長類、肉食動物、鳥、爬虫類、魚のいずれの脊椎動物のグループ内においても、脳の大きさの対数がほぼ完璧にその社会集団のサイズの対数に比例することを示した。言い換えればすべての動物界において、脳はより大きな集団を管理するために大きくなったということである。またダンバーはチンパンジーなどの身体的な毛づくろい行動の代理として言語が進化したのではないかと低減している。言語は小集団を素早く結合し、他社の交友関係について簡単に情報交換できるようにする。実際に言語が主として他人について話すことに使用されていると指摘した。誰が誰に何をしているか、誰が誰とつながっているか、誰が誰と喧嘩しているか。あなたが何を知っているかではなく、誰をしっているかが重要なのである。また美味しいゴシップは誰かに話さなければとかんじたりするが、そのゴシップを誰かに伝えると反報性の反射が動作して、友人はその行為にお返ししなければならないというプレッシャーをわずかにせよ感じてしまう。ゴシップはゴシップを引き出し、互いに情報を与え合うので失うものはなく、しかも両者が情報を受け取れるという利得があり、非ゼロサムゲームを作り出す。
人生を導く最もふさわしい言葉として反報性を上げた孔子は賢明だった。セールスでも交渉でも反報性はうまく機能する。反報性は関係性における万能薬である。正しく使えば社会的な絆を強め、引き伸ばし、活性化してくれる。それがとてもよく効く理由の一つは、象が生来の模倣者であるということである。例えば、私たちは、誰か好きな人と交流すると、自動的かつ無意識的に、その人の動作を逐一模倣するという傾向がわずかにせよある。しかし、単に自分の好きな人の模倣をするだけではない。私たちは、自分の模倣をする人を好む。客の模倣をするウェイトレスは、より多くのチップをもらう。模倣による一体化の快楽は、人が一つのことを同時に行うラインダンスや応援団、ある種の宗教儀式などの同期的活動において特に明確だ。

第4章 〜 他者の過ち

社会心理学者は近年、自身の目の中の丸太に対して盲目となるメカニズムを分離抽出した。これらの発見が道徳に対して持つ意味合いはいささか困惑させられるもので、実際に、私たちの確固とした道徳的確信を揺るがすものである。人は利己主義であり、みつからないとわかっていれば時に不正を行う、ということは明白である。その一方で、何がさほど明白でないかというと、こういう研究のほとんどにおいて、人々は自分が何か間違ったことをしているとは考えていないという事実である。
 日常生活の推論にかんする研究では、私たちの象は探究心旺盛なクライアントではないということが分かっている。たとえば、最低賃金が引き上げられるべきかどうかなど、考えるのが難しい問題が与えられた時、一般的には即座にどちらか一方の意見へ傾く。それから、その見解に対する指示がすぐに得られるかどうかを確かめるために推論を呼び出す。ハーバード大学の心理学者のデビッド・パーキンスは思考とは一般的につじつまが合うと停止するというルールに従うというルールを発見した。また、コーヒーを飲むというような嗜癖の一つが健康に良くないということを示している研究結果を読むように求められた人は、コーヒーを飲まない人なら気づきもしないような不備を、その研究に見つけ出すことに躍起になる。
 ニック・エプリーとデビッド・ダニングの実験では自身の特についてはひどく過大評価していたが、他者についてはかなり現実に近かった。曖昧さはその幻想をさらに助長する。リーダーシップのような多くの特性に対して言えば、それを定義するにはあまりに多くの方法があるので、自分を最もよりよく見せるであろう基準を自由に選び出すことができる。もしこのように蔓延している自尊心膨張バイアスの影響が、人を良い気分にさせているだけなのであれば、なんの問題もない。実際に、自分自身や自分の能力、自分の将来展望に対して講義にポジティブな幻想を持っている人は、そのような幻想を持っていない人に比べて、より精神的に健康で、幸福であり、人に好かれやすいという証拠がある。しかし、そのようなバイアスによって、人は自分がすること以上に報われるべきであると感じるようになると、同じようにもっと報われるべきであると感じている他人との際限のない争いへの舞台が用意される事となる。無意識的な過剰主張に関する研究では、夫と妻がそれぞれ、自分が行っている家事分担のパーセンテージを見積もると、二人の見積もりの合計は120%以上となることが示されている。
 もし配偶者や仲間、ルームメイト同士がそんなにもたやすくいがみ合うとしたら、共通した目標や愛着のない人と交渉しなければならない場合、事態はさらに悪くなる。人は実際、他者の行動を予測する情報は受け入れるが、自己査定を修正することは拒絶するのである。他人にはバイアスがあることは認めるが、自分にバイアスがあることは認めない。プロニンとロスは素朴実在論と呼び、私たちは皆、世界を直接あるがままに見ていると考えている。さらに私たちは、物事は私たちが見えているように存在するのであり、他のすべての人たちにも同じように見えていると信じている。
 筆者が悪の必要性について考えたところバウマイスターによると、邪悪であると考えられる行為をする人は、彼らは攻撃や挑発に対して正当な方法で反撃したと考えている。ほとんどの場合、暴力をふるう時には何らかの理由があり、その理由にはたいてい不正を感じての報復か、自己防衛が関与している。加害者はしばしば甚だしく過剰反応したり、誤解していたりする。私たちには暴力や残虐行為を理解しようとする枠組みをバウマイスターは純粋悪の神話とする。これは悪事を働く人は、純粋に邪悪な動機をもっていて、被害者は純粋に被害者であり、邪悪は外からやってきて、私たちのグループを攻撃する軍隊を結成しているということである。さらにこの神話の適用を疑問視する人や道徳的な確かさをあえて濁すような人は誰でも、邪悪な同盟の一員なのである。純粋悪の神話は、究極の自己奉仕バイアスであり、素朴実在論の究極形態だ。
 内なる弁護士、バラ色の鏡、素朴実在論、そして純粋悪の神話。このようなメカニズムがすべて共謀して意味の網目を紡ぎ出し、その上で天使と悪魔が戦いを繰り広げている。見晴らしの良い位置から見れば、このような道徳主義や正義、偽善はすべて愚かなものと思えてくる。おろか以下であり、悲劇だ。古代インド発祥の偉大な教によると、私たちが経験する人生は「サムサラ」と呼ばれるゲームである。そのゲームの中でそれぞれの人は大きな劇の中の役割として、それぞれの「ダルマ」を演じている。仏陀は更にその先を行く。彼はゲームを完全にやめてしまうように勧めた。仏教は、サムサラと永久に続く転生の循環から逃れるための一連の訓練なのである。初期の中国の禅僧である僧*は、8世紀の詩の中で完全無欠の道へと至るためには無分別主義となることが前提条件だと主張している。分別主義は心の病であり、それは怒りや苦悩、葛藤を導く。しかし、それは心の通常の状態であもある。像は、いつも評価して、常に「それは好き」とか「それは好きでない」と言っている。ではどうすれば、この自動的な反応を変化させることができるだろうか。瞑想や認知療法があるが、認知療法は一旦怒りが入り込むと別の視点を理解したり、共感したりすることが非常に難しくなる。自分自身や自分の目の中の丸太に取り組むことが最初になる。傷つくだろうが、自分の過ちを捉えるようにして、内なる弁護士の話を聞かない。あなたが侮辱や敵意のある身振りで対応していたときには、自己奉仕バイアスで増幅された返報性によって、二人の溝は深まる一方であったが、あなたはそのプロセスを方向転換することで、葛藤を終わらせ関係性を救うために返報性を用いることができるのである。

第5章 〜 幸福の追求

 旧約聖書の伝道の書の二章では、富の中から降伏を見出すために快楽関する思考実験をしている。そこでは自分の望むように世界を合致させることは、常に風を捉えるようにするようなものであると説いている。しかし近年の心理学における研究結果からは世の中には努力して手に入れる価値があるものもあり、どこを探すべきか知っていれば、幸福の一部はあなた自身の外側からも訪れることを示唆している。欲しいものを手に入れたときの喜びは一瞬で過ぎ去ってしまう事が多い。何かを手にしたときに典型的には幸福感などはまったく訪れず、開放の喜びである。進化的な観点から見ると、理にかなっている。動物が、自身の進化的な利益をまし、人生ゲームでコマを進める何らかの行動を取る場合はいつでも、快楽の神経伝達物質であるドーパミンが急激に増加する。食物やセックスは快楽を与え、その快楽はさらなる食物やセックスを見つける努力をするように動機づける強化子の役割を果たす。しかし、人類の場合はより複雑で、高い地位を得たり、良い評判を得たり、友情を育んだり、最良の結婚をしたり、財産を蓄えたり、同じゲーム上で子供が成功するように育てたりすることによって、人生ゲームに勝つ二。重要な目標で成功した場合でも大量で長時間続くドーパミンを受け取ることはない。この強化子はその行動のあと、数分や数時間ではなく、数秒のうちにもたらされる場合にのみ、よく作用する。
 象も正しい方向に一歩進んだときはいつも快楽を感じチエル。目標を追求する際に本当に重要であるのは、その道中であって目的地ではない。何でもお望みの目標を設定してみれば良い。大半の喜びは、目標へと近づく道中の一歩一歩においてもたらされるだろう。成功という最後の瞬間には、長いハイキングの終わりに思いリュックサックを下ろした時の安堵以上の興奮は感じられないことが多い。短期間の、そこそこの喜びしか見いだせなかった時、自問する。たったこれだけ?これは「進歩の原理」と呼ぶことができるだろう。快楽は、木法を達成することからよりも、目標に向かって前進することによって訪れる。
 あなたは自分に起こり得る最も悪いことを10秒であげよと言われたら下半身不随と答えるかもしれない。多くの人は下半身不随になるぐらいなら死んだほうがマシだと考える。しかし、あなたが考えるほど悪くはない。おそらくあなたはそこのことに適応するだろうが、実際に起こる前には、適応できるとは考えられないからである。四肢麻痺患者は最初に甚大な幸福の損失を被るが、数カ月後には自分の新しい状況に適応し始め、より控えめな目標を設定する。彼は理学療法によって自分の能力を高められることに気づく。状況は良くなっていく以外にないので、その一歩一歩が彼に進歩の原理による喜びを与える。適用は単なる神経細胞の性質である。新しい刺激に対しては活発に反応するが、徐々に馴化し、慣れてしまった刺激に対してはほとんど発火しなくなる。生命に関わる重要な情報を含んでいるのは変化であり、安定状態ではない。人間は認知的な極限に対しても適用してしまう。一連の成功のあとには目標を高くし、首の骨をおるような大きな挫折の後には、目標を低くする。この適応の原理と人間の幸福の平均水準は遺伝性が高いという発見を結びつけると、衝撃的な可能性にたどり着く。長期的には、あなたに何が起こるかということはさして重要ではない。幸運であれ不幸であれ、あなたは、常に自分の幸福の基準点、つまり幸福におけるあなたの脳の初期水準へともどってくる。それはあなたの遺伝子によって決定されることが大きい。人生においても好きなだけ一生懸命働き、欲しいだけ富を蓄え、果樹を植え、愛人を囲うことができるが、少しも先に行くことができない。私たちは努力が無駄であることに気づくことなく、それが人生ゲームで勝つために役立っている限り、努力し続ける。
 仏陀やエピクテトス、その他多くの賢者がこういう無益なネズミのレースを止めるように勧め、幸福とは内面から訪れるものであり、自分の欲望に合致するように世界を構築することによって見出すことはできないと言った。それは本当だろうか。幸福に関する研究において、遺伝子が人の平均的な幸福水準に強い影響力を持つということに次ぐ大きな発見は、大半の環境的、人口統計学的要因は幸福にほとんど影響しないということである。良い結婚は最も強く一貫して幸福と関連している生活要因のひとつである。幸福な人はより低い幸福の基準を持っている人よりも早く結婚し、その結婚は長続きする。なぜなら彼らはデートをする相手としても魅力的であり、また配偶者としてもいっしょに生活しやすいからである。また信心深い人は平均的に、無宗教である人よりも幸福である。これは神との結びつきという感覚と宗教的なコミュニティに参加するという社会的な結びつきからもたらせる。男性は女性より自由で権力を持っているが、平均的にはより幸福であるということはない。人は魅力的な人は魅力的でない人よりも幸福であろうと考えているが、それもまた間違いである。財産については心理学者のエド・ディーナーの調査によると、どのような国においても、所得規模の最底辺においては、お金で幸福を買うことができる。食事や住まいの支払いについて毎日心配しなければならない人は、それをしなくても良い人に比べて有意義に幸福感が低いと報告されている。しかし、一度、基本的に欲求の心配がなくなって中流階級に入ると、罪と幸福との関係性は小さなもとのなる。多くの先進国において裕福度は過去50年間で2倍から3倍になり、生活の快適さにおいて改善をもたらしたが、現在ではこのような改善された生活がもはや通常の状態になってしまった。
 1990年代に幸福研究における2つの大きな発見が、心理学会を震撼させた。フロイトイラ、性格は主に子供時代の環境によって形成されるという考えを半ば宗教的な盲信のごとく共通理解としてきた。しかしながら双生児研究によって、遺伝子が恐るべき影響範囲を持ち、その兄弟が共有している家庭環境は比較的重要ではないことが明らかになると、古代における幸福仮説は以前にもましてもっともなものとなった。おそらく実際に各人の脳には定められた設定点があるのだろう。それゆえに、おそらく、幸福を手に入れる唯一の方法は、その人の環境を変えるだけではなく、瞑想やプロザック、認知療法を用いて内部設定を変える以外にはないのだろうか。しかしながら、生物学者がヒトゲノムの最初の見取り図を解明するにつれて、遺伝と環境についてのもっと洗練された理解のしかたが現れてきた。遺伝子は誰も想像できなかったほど私たちについて多くのことを説明してくれるが、遺伝子そのものは、多くの場合、環境因子に対して敏感だということが明らかになった。そして、確かに人は個人ごとの幸福水準を持っているが、それは今では、設定というよりはむしろ可能範囲、もしくは確率分布のようなものと見られている。
 マーティン・セリグマンが1990年代後半にポジティブ心理学を打ち立てた時、彼は特定の問題に取り組むための専門家集団を招集した。一つの集団は幸福を左右する外界の条件を研究するために結成され、外界の条件には根本的に異なる2つの種類があるということに気づいた。それは生活条件と、行っている自発的活動である。生活条件には、人生でかえることができるもの(財産、配偶者の有無、住んでいる場所など)と、変えることができない事実(人種、性別、年齢、障害など)の療法が含まれる。生活条件は、少なくとも自分の人生のある期間においては一定であるので、それらはあなたが艇王するであろう類のものである。一方で、自発的活動は、瞑想やエクササイズ、新たなスクルの学習、休暇を取るなど、あなたが自ら進んで選択するもののことである。その大半は努力や関心をもって行うものなので、生活条件とは異なって,いつのまにか意識から消えてしまうということはありえない。それゆえ、自発的活動は適応の影響を受けずに、幸福の増加をより確実に約束してくれる。
 ポジティブ心理学における最も重要な考えの一つは、リュボミルスキー、シェルドン、シェケード、そしてセリグマンが幸福の方程式と呼んでいるものである。H=S+C+V。経験する幸福の水準Hは、生物学的な設定点Sと生活条件Cと自発的活動Vによって決定される。ポジティブ心理学の課題は、科学的な手法を用いて、どのような類のCやVが潜在的な範囲の一番上までHを押し上げることができるかを見出すことである。賢者たちの知恵を検証するためには、この仮説、H=S+Vを検証しなければならない。しかし実際に幸福にとって重要な条件Cがいくつかがあることがわかった。騒音、通勤、コントロールの欠如、恥、人間関係が代表的なものであり。
 しかしながら、すべての行為が役に立つわけではない。富や名声を追い求めることは通常は裏目に出る。お金や名声、美容に最も関しがあると答えた人たちは、人生において物質的でないものを目標として追求している人よりも、一貫して幸福度が低く、不健康でさえあることが分かっている。それでは幸福の方程式の正しいVとはどういったものだろうか。チクセントミハイの研究では人が実際に何をして楽しんでいるのかを研究し、2つの異なったタイプの楽しみがあることを見つけ出した。1つ目は身体的もしくは肉体的な快楽であり、食事中やセックスの最中に平均的に高い水準の幸福度が報告されたが、一定の満足水準を超えて続けることはできない。チクセントミハイの大発見は多くの人が、その人の能力にほぼ適しているが少し挑戦的な課題に取り組んで、完全に没頭している状態に価値をおいていることで、これをフローと名付けた。何か身体的な動作をしている時、スキーで滑っている時やカーブの続く田舎道を高速で運転している時、団体競技をしている時などに起こることが多い。またフローは絵を書いたり、文章を書いたり、写真を撮ったりといった一人きりの創作活動においても起こり得る。鍵となるものは、注意を完全に注ぐ挑戦があること、その挑戦に見合った能力を有していること、そして、課題解決の各段階において、どの程度できているか、すぐにフィードバックが得られること(進歩の原理)である。フロー状態では象と象使いは完全に調和している。
 チクセントミハイの成果を利用して、セリグマンは快楽と充足の基本的な区別を提案した。快楽とは食物やセックス、背中のマッサージ、涼しいそよ風のように「はっきりとして感覚的要素とつよう情動的要素を伴う喜び」である。充足とは完全に没頭し、自分の強みが生かされ、我を忘れさせてくれるような活動である。充足はフローを導きうる。快楽の可能性を維持するためには、間隔をあけることが重要である。象は快楽に溺れやすいので、象使いは象が立ち上がって新たな活動へ移るように促さなければならない。
 感覚的快楽に哲学が警戒する理由の一つは、その効用が長く続かないからである。それによって賢くも強くもならない。次なる快楽をもとめ、長い目で見ればより良いと思われる活動から人を遠ざけてしまう。しかし充足は私たちに試練を課して、能力を伸ばすことを求める。充足は多くの場合、何かを達成したり、学んだり、改善したりした時にもたらされる。私たちがフローの状態へ入ると、困難な仕事も努力のいらないものとなる。セリグマンは自身の充足を見出す鍵となるのは、自信ならではの強みを知ることであると述べている。筆者の350人の学生への実験ではアイスクリームを食べた時に得られる幸福は続かないが、親切や感謝の活動はその日はずっと気分が良い状態が続いた。そのためあなたならではの強みを特に友人を助けたり、恩人に感謝の気持を伝えたりと言った人間同士の結びつきを強化する活動に用いることで、幸福感を増加させることができる。それらに関わる5つの活動をリストアップすれば毎日少なくとも1つは確実に充足をえることができるだろう。
 人々がそれぞれ合理的に自分の利益を追求することで市場がうまく機能するという考え方が経済学の原則である。一方で人の好意の中でこの経済学の原則に当てはまらないものがある。家から遠く離れたレストランでチップを渡したり、お金をかけてまで復習を追い求めたりする。ロバート・フランクはこれは愛、恥、復讐や罪悪感などの道徳感情の産物であるという以外に説明がつかず、このような感情は進化の産物であるとした。進化は時に自分自身のために戦略的に不合理なことをさせるようなものである。たとえば人は騙された時、怒りコストを度外視してでも復讐を求め、評判を得る。それは騙そうとするものを牽制する。さらにフランクは他のタイプの不合理、すなわち、人が自分の幸福とは反対に作用する多くの目標を追求するのに精力的であることを理解するために同様のアプローチを用いて、なぜ国家の富が上昇しても、国民はちっとも幸福にならないのか、どうして人は自分たちをさらに持続的に幸福にするようなものよりも、完全に適応してしまうような、贅沢品やその他のものにお金を費やすのに夢中になってしまうのか、などについて考察した。フランクの結論は誇示的消費と非誇示的消費は異なった規則に従うというシンプルなものである。身につける腕時計は誇示的だが、休暇の取得は非誇示的でない。誇示的なものは他者と引き離す一方で、非誇示的なものは他者と自分を結びつけるものであり、別の実験でも非誇示的な消費のほうが幸福感を増幅させた。つまり最新の流行を追うことは止め、誇示的消費にお金を消費するのは止めるべきである。その第一歩として勤務時間を減らして、稼ぎを減らし、貯蓄を減らして、家族との時間や休暇、その他の楽しめる活動にもっと「消費」すべきである。進化の過程で象は幸福ではなく、名声に関心を寄せて人生ゲームで勝つように定められている。
 現代社会には他にも数多くの罠がある。その一つが選択のパラドクスだ。大半の人は多くの選択肢から選んだ方が完璧に満足するものが見つかると期待する。しかし、選択肢が多いほど、自分では選択しない傾向があり、一番良いものを選ぶ確率は低くなる。自分の選択に自身が持てず、公開し、自分が選ばなかった選択肢について考える。もし選ばないで済むならそうする可能性が高い。私たちは選択が幸福の低下を招くとしても選択を重視する。追求者はすべての選択肢を評価して多くの情報を集めて選択しようとする、一方で満足者は選択に関しておおらかで、過剰な選択肢に悩むことはない。追求者が一ドルあたりの消費から得られる快楽は少なくなる。
 筆者がこの本を書き始めたときには、仏陀こそが「この3000年間の最もすぐれた心理学者」章の最有力候補であろうと考えていた。努力は無益であるという彼の分析は非常に正しいものに思えた。しかし、調査の末、仏教は過剰反応にもとづいており、誤りであるかもしれないと考えるようになった。仏陀は王宮を出て老人、病人や死人を見て絶望して、森に入り悟りへの旅を始めた。しかし、もし若い王子が惨めであると思った人たちと話しをしていたなら何が起こっただろうか?若き大胆な心理学者の一人、ロバート・ディーナーが世界中を旅をして、人々の生活と人々がその生活にどの程度満足しているかについてインタビューしてまわった。ディーナーはカルカッタの貧困層の人々は、うらやましがられるような生活は送っていないが、湯意義な生活を送っている。彼女たちは手に入る非物質的な資源を十分に活用して、生活の多くの面で満足を見出している」と結論づけている。若き仏陀が憐れんだ四肢麻痺の人や、老人、その他の階級の人々と同様に、カルカッタのスラム街の娼婦たちの生活も、内側から見れば、外側から見るよりはるかに良いものなのである。
 また仏陀が執着心を捨てるように強調したもう一つの理由は、彼が動乱の時代に生きていたことだろう。生活が予想不能で危険である時に、外界を制御することで幸福を追求するのは愚かなことであっただろう。しかし、現代は違う。豊かな民主主義世界に生きる人々は、長期的な目標を立て、それを達成することが期待できる。多くの人は、あの時に比べれば暮らし向きは良くなったと思える。だから、すべての執着を断つこと、喪失や敗北の苦痛から逃れるために、努力して感覚的な快楽や勝利を回避すること、これらはいまや、私には、どんな人生にもあるいくばくかの避けられない悩みに対する反応としては、筆者は不適切であるように思える。多くの西洋の思想家たちは、仏陀と同様に、病気、廊下、避けられない死といった苦痛について考え、彼とまったく異なる結論に達したー人や目標や快楽に対する情熱的な執着を通して、人生は充実したものとなるに違いない。
 現代社会における仏教の適切性や、幸福を見出そうと自らに働きかけることの重要性に疑問を投げかけているわけではない。むしろ、私は幸福仮説に陰陽説を取り入れて拡張することを提案したい。幸福は心の内から訪れ、さらに、幸福は心の外からも訪れる。

第6章 〜 愛と愛着

 その昔アメリカの行動主義の主唱者であったジョン・ワトソンは、「幼児と子どもの心理的ケア」というベストセラーを出版した。ワトソンは、いつの日か赤ちゃんは、間違いの多い両親の影響下から引き離され、赤ちゃんの養育場で育てられるだろうという夢を書いている。しかし、その日が訪れるまでは、両親は、行動主義的テクニックを用いて強い子どもを育てるようにと努めた。つまり、子供が泣いていても抱き上げず、寄り添ったり甘やかしたりせず、ただ、ひたすら良い行いに対して報酬や罰を与えなさいと説いた。なぜ、医者や心理学者は、子供にはミルクと同様に愛情も必要であるとわからなかったのだろうか?この章では、他者の接触、親密な関係性に対する欲求について述べる。
 ここからはハリー・ハーロウとジョン・ボウルビィという二人の心理学者の話である。二人は行動主義や精神分析は、それぞれ何か重要なことを見逃しているということが分かっていた。ハリー・ハーロウは猿のあかちゃんの観察の中で、幼い哺乳類が母親との身体的な接触を求める「接触のやすらぎ」は基本的な欲求であると見出した。愛着のみなもととされていたミルクにはしがみつかず、すべての猿は布でできた母親のソフトなひだにしがみついて一日の時間を過ごした。
 ジョン・ボウルビィは両親との分離が子供にどのような影響を与えるか研究していた。1957年にはボウルビィはハーロウによる布の母の研究を知り、ハーロウは手紙を書いた。偉大な実験家であるハーロウが、優れた理論家であったボウルビィの理論への実験的検証を提供した。ボウルビィの統合理論は「愛着理論」と呼ばれる。この理論はサイバネティックス科学を取り入れている。これは周囲の環境や自身の内部が変化する中で、機械的なシステムや生物的なシステムがあらかじめ設定された目標値を達するために、いかに自己を制御するかの学問である。愛着理論は安全と探索という2つの基本的な目標が子どもの行動を導くという考えから始まる。安全にとどまる子供は、生き延びる。良く探索し、遊ぶ子供は、大人になってからの生活に必要なスキルや知識を発達させる。しかしながら、これら2つの欲求は相反することが多いので、それらは周囲の安全レベルを監視するアルシュのサーモスタットによって制御されている。安全レベルが適切であれば、子供は遊び、探索する。だが、安全レベルが低くなりすぎるとすぐにスイッチが入り、突如、安全への欲求が優先事項となる。子供は遊ぶのをやめ、母親の方に向かう。もし、母親が届かないところにいれば、子供は次第に絶望感を増しながらなく。母親が戻ってくると、子供は母親に触れるなどして、安心の再確認をする。それからシステムはリセットされ、遊びを再開する。もし、あなたの子供が健康で独立した人間に育ってほしいと願うのであれば、子供を包み込み、抱きしめ、寄り添い、愛して上げるべきである。子供に安全基地を提供すれば、彼らは自ら探索をはじめ、自分で世界を克服するだろう。
 ハーロウの研究はまったく非の打ち所がなかったが、懐疑的な人たちはそれは人類には当てはまらないと主張した。この反論を退けるためにより多くの証拠が必要だったが、1950年に偶然に応募してきたメアリー・エインズワースによってもたらされていた。彼女は子供たちにサルたちと同様の実験をした。エインズワースは見知らぬ女性が部屋に入ってくる実験で示した様子によって子供を3つに分類した。母親が去っても安定していた「安定型」、不安を示すが自分で苦痛を抑制する「不安型」、極端に動揺した「抵抗型」と名付けた。エインズワースは最初、これらの違いは、育児の善し悪しによって生じると考えた。彼女は家まで行って母親たちを観察し、温厚で子供に良く反応する母親はたいてい安定型を示した子供を持つことに気づいた。これらの子供たちは、自分たちの母親が頼れる人だということを学習しているため、最も勇敢で自信に満ちていた。冷淡で反応の鈍い母親は、回避型の子供をもつことが多い。そういう子供は、母親からあまり助けや慰めを期待できないと学んでいる。反応が不安定で予測しにくい母親は、抵抗型の子供を持つことが多い。子供たちが、安らぎを求める彼らの努力が報われる時と報われないときがあることを学んでしまっているからである。
 しかし筆者は母と子のこの相関関係については、常に懐疑的である。母と子の遺伝的な理由かもしれない。またエインズワース以降のたいていの研究においては、母親の反応性と子どもの愛着行動パターンのあいだに小さな相関関係しかみつけられていない。一方、双子研究では、遺伝子が愛着行動の方の決定にはほんの少ししか関与していないということが分かった。育児方法とも遺伝子とも相関関係が弱いのだとすれば、この特性は、いったいどこからやってくるのだろうか?これは従来の生得的か獲得的かといった論争の外に出て考える必要がある。愛着スタイルは何千回という相互作用の間に徐々に現れてきた性質であるとみなさなければならない。
 成人の愛について深く掘り下げて研究すればするほど、愛着理論が成人の相いついても成り立つということが分かってきた。シンディ・ハザンとフィル・シェイバーは3つのスタイルが成人になって関係を築く上でもまだ働いているかどうかをテストするために、簡単な方法を開発した。そしてそれらは働いていることが分かった。考えてみれば、恋愛関係と親子関係に類似性があることは明白である。恋人たちは、母親と赤ちゃんを結びつけるのと同じオキシトシンというホルモンの分泌を半ば中毒のように楽しむ。オキシトシンは哺乳類の雌の出産準備に必要なものであるが、脳にも影響し、養育行動を促し、母親が子供に触れている時にストレス感情を軽減する働きをする。子どもの不安信号は、母親の養育本能を呼び起こすからこそ有効なのである。オキシトシンは、双方のつなぐのりの役割を果たす。このように成人の恋愛関係は連動する古い2つのシステムから成り立っている。子供を母親と結びつける愛着システムと、母親を子供に結びつける養育システムである。これらのシステムあh、哺乳類の誕生と同じくらい古い。鳥類も有している。また「交配システム」は他の2つのシステムとは完全に別のシステムである。
 しかし、どうして人間の女性は排卵のサインをすべて隠して、彼女に恋に落ちる男性を見出し、子供を得るようになったのだろうか?それは誰も知る由もない。一番もっともらしい理論は初期のホミニドのときに大きな脳と高い知性を持つことは脳の成長を促した。しかし脳の大きさは産道というボトルネックに遭遇する。私たちの先祖である種のホミ二ドは脳が体を制御できるほど十分に発達するずっと前に赤ちゃんを子宮から出してしまうという奇抜な手段を進化させた。このため人類では生まれた後の子供は何年もの間、完全に無力である。その人間の子供の養育という重荷を背負った女性は生産性の最も高い年頃の男性の保護と大量の食物に依存した。競争の激しい進化のゲームでは男性にとって自分の子でない子供に資源を提供することは、負けの一手である。だから、積極的な父親、男女の絆、男性の性的嫉妬、そして大きな赤ちゃんはすべて、徐々にではあるが、共進化したと考えられる。この理論はすいろんにすぎないが、大きな苦痛を伴う出産や、長期に渡る養育期、大きい脳、高い知性などといった人間の生活における独自の特徴の多くをうまく結びつけている。
 古い愛着システムの一つに、同量の養育システムを混ぜ合わせて、そこへ改良された交配システムを放り込むと、さあ、恋愛の出来上がり。恋愛は、これらの部分を足し合わせた以上のものではないだろうか。トロイ戦争を引き起こしたり、世界で最高の音楽や文学を生み出したり、私達の人生に最良の日々をもたらしたりという究竟の心理状態がそこにはある。しかし恋愛というのは広く誤解されていると筆者は考える。ここで心理学的な下位の構成要素について見直しておくことは、数々の謎を解き、愛の落とし穴を避けるための手がかりとする。どこかの大学で教授たちが講義しているだろう吟遊詩人たちが私たちにもたらしたものは「真実」の愛という独特の神話である。つまり、本当の愛は、輝かしく情熱的に燃え、死に至るまで燃え続け、死後においては天国で恋人たちはまた一つになり、愛の炎をさらに燃やし続ける。真実の愛は情熱的な愛であり、永遠に消えることはない。もし、あなたが真実の愛をみつけたら、あなたはその人と結婚すべきだ。エレン・バーシェイドとエレイン・ウォルスターは二種類の愛を区別した。情熱愛と友愛である。情熱愛は「優しさと性的感情、多幸感と苦痛、不安と安堵、利他と嫉妬などが感情の混乱の中に共存する」ものである。友愛は恋人たちが愛着システムと養育システムを互いに適用しつつ、互いに頼り合う、気遣い、信頼しながらゆっくり何年もかけながら育んでいくものである。情熱愛は麻薬である。その症状は、ヘロインやコカインとかさなっている。情熱愛は、ドーパミンの放出に関与する部位を含め、いくつかの脳部位の活動をかえてしまう。強く気分がよくなるような経験はどれもドーパミンを放出するが、ここではドーパミンとの関連が決定的に重要である。脳は慢性的なドーパミン過剰に反応し、それを妨害する神経科学的な反応を発達させて、自身の均衡を取り戻そうとする。そういうわけで情熱愛が麻薬だとするとやがては消え去ってしまう。それぞれ別のプロセスなので情熱愛は友愛に変化しない。筆者は真実の愛は存在すると信じているが、それは永遠に続く情熱ではないし、ありえない。真実の愛とは、結婚を強固に補強するような愛であり、それはちょうど、互いに深く関わり合う二人の間の強固な友愛に、少しばかりの情熱を加えたものである。
 古代東洋では愛の問題は明白であった。愛は執着である。愛着、特に感覚的で性的な執着は、精神的な進化を可能とするためには打ち破るべきものである。仏陀は否定的で、古代ヒンズー教のマヌ法典ではさらに否定的である。西洋では話がことなり、愛はホメロスこのかた、詩人に広く讃えられている。ただし二人の間の愛着という本質的な愛の性質は拒否されている。愛が尊厳を持ちうるのは、一般的な美への感得へとと転換した時のみである。またキリスト教は古典的な愛への恐怖の多くを全面に押し出した。キリスト教の愛はある種の強い善意や博愛心の「カリタス」、特定の他者への執着や性欲のないある種の無私の精神的な愛である「アガペ」である。カリタスとアガペは美しいが、人間が必要としている種類の愛とはまったくもって関係ない。同じように哲学者は現実の人間の愛には否定的である。
 また19世紀末、社会学の創始者の一人であるエミール・デュルケームが学術的な奇跡を成し遂げた。彼はヨーロッパ中、そして世界中からデータを集め、自殺率に影響する要因を研究した。彼の発見は、一言でまとめると、束縛である。どのようにデータを解析しても、社会的な束縛や絆や義務が少ない人ほど、より自殺する率が高かった。デュルケームは「宗教社会との統合度」や「家族社会との統合度」を調べた。100年間のさらなる研究によりデュルケームの診断が正しかったことが証明されている。強い社会関係を持つことは、免疫システムを強め、寿命を伸ばし、手術からの回復を早め、うつ病や不安障害に対するリスクを軽減してくれる。内向的な人もより社交的であることが強いられた場合でも通常それをたのしみ、気分が晴れやかになる。また「誰か頼れる人が必要だ」というだけでない。社会的サポートを与えることに対する最近の研究によると、他者の世話をすることは、援助を受けるよりも、しばしばより有益であることが分かっている。私たちには、他者と相互作用し、結びつきをもつことや、持ちつ持たれつの関係や、所属することが必要である。極端な個人の自由のイデオロギーは、人が個人的な充実や職業的な充実をもとめて、家や仕事、町、結婚生活を捨てることを助長し、またそれゆえに、そのような充実を得るのに最も見込みのある人間関係をこわしてしまうという意味で、危険なのである。私たちは、他者を愛し、仲良くし、助け、分かち合い、さもなければ、自分の生活が他者と絡み合うように見事に調整された情動に満ちた、超社会的な種である。

第7章〜逆境の効用

 ニーチェは「私を殺さないものは全て、私を強くする」と言ったが、自分の子供の将来の苦悩についてはどうだろう。この章では「逆境仮説」とも呼べるものについて述べる。最も高い水準の強みや充実、個人的な発達のためには、逆境や挫折、トラウマさえもが必要であると説く。ニーチェの格言が、文字通り正しいとは言い切れない。死の恐怖に現実的に直面したり、暴力による他者の死を目撃したりした人は、不安や過剰反応などが後遺症となり虚弱状態となる、トラウマ後ストレス障害を引き起こすことがある。そのため逆境仮説を受け入れるのには注意が必要である。それではどんな時に逆境は役に立ち、どんな時に有害なのか、科学的な研究を見てみよう。その答えは「限界を超えない程度の逆境」というだけではない。それよりもずっと興味深い話があり、人はどのように成長するのか、どうすればあなたやあなたの子供が将来に必ず出会う逆境から最も利益を得られるのかが明らかになる。
 健康心理学は何十年間もストレスとそのダメージの効果について研究してきた。主な関心の対象は、常にレジリエンス(回復力)であった。しかし、研究者たちがレジリエンスを超えて、深刻なストレスの恩恵に焦点を当てるようになったのは、ついこの15年ほどのことである。これらの恩恵は、トラウマ後ストレス障害と直接たいひさせて、集合的に「トラウマ後成長」と呼ばれることがある。研究者たちはいまや、癌、心臓病、HIV、レイプ、殺人、麻痺、不妊、家の消失、飛行機事故、地震などのような多くの逆境に直面した人々を研究している。研究者たちは、人々が子どもや配偶者、恋人、両親と言った最も強い愛着を持つ人の死にどのように立ち向かっているのかについて研究してきた。大半の研究はトラウマや危機や悲劇にはさまざまなかたちがあるものの、人々はみっつの基本的なやり方でそれらから恩恵を受けることを示している。
 1つ目の恩恵は、難題を乗り越えることで、気づいていなかった能力を発見し、この能力によって自己概念が変わることである。私たちは誰も、本当のところ自分が何に耐えられるのかということを知らない。近親者との死別やトラウマから人が得る最もよくある教訓は、自分は思っていたよりずっと強いということであり、この新しい自己の強さへの認識により、人は将来何台に直面した時に地震が持てるようになる。2つ目の恩恵は、人間関係に関するものだ。逆境は、フィルターとなる。癌と診断された時や夫婦が子どもを失った時は、友人や家族の中には、何か役に立ったりサポートしたりできないかと立ち上がってくれる人もいる。遠ざかってしまう人もいる。逆境は、本当の友人を都合の良い友人の中から選別するだけではない。そのことによって関係が強まり、互いに心を開くことになる。近親者の死による影響の研究では、残された者は人生において今までよりも他者に対して大きな感謝の心を持つようになり、我慢強くなることが分かった。この変化が3つ目の一般的な恩恵へとつながる。トラウマは優先事項や哲学を現在、そして他者へと変化させる。権力や金を有する人が、死に直面して道徳感情に変化が起こったという話は誰でも聞いたことがあるだろう。
 逆説仮説には、弱いバージョンと強いバージョンがある。弱いバージョンでは、逆境は上記に説明してきたトラウマ後成長の3つのメカニズムによって、成長や強み、喜び、自己改革を導いてくれる可能性がある。弱いバージョンの仮説は研究によって十分指示されているが、どのように人生を送るべきかということに対するはっきりとした含意はほとんど示されていない。強いバージョンの仮説はもっと困惑するものである。それは人が成長するためには逆境に耐えることが必要であり、最も高い水準での成長や発達は、大きな逆境に直面し、克服したものにのみ開かれているというものである。もし、強いバージョンの仮説が当てはまるとすると、私たちがどのように生き、社会をどのように構成すべきかに対して重大な含意を持っている。私たちは、より多くの危険を冒し、より多くの失敗を経験すべきであることを意味する。私たちは、子供に対して危険なほど過保護であり、音質の人生を提供し、あれこれ助言しすぎている一方で、彼らが強く成長し、深い友情を育むために必要な「決定的な出来事」に出会う機会を奪っていることになる。
 しなし、その強いバージョンの仮説はだとうなのだろうか?人はよく、逆境によって心底変わったというが、暇のところ、そのような報告以上の逆境による性格変化の証拠はほとんどない。しかしながら、これらの研究はまちがったところに変化を見出そうとしてきたのかもしれない。心理学者はよく「ビッグファイブ」(神経症傾向、外向性、新しい経験への開放性、協調性、誠実性)のような、基本的な特性を測定することで性格を測定しようとする。これらの特性は、象についてのもの、つまり、さまざまな状況に対するその人の自動的な反応についてのものである。これらは、別々に育てられた一卵性双生児のあいだでもかなり類似していることから、生活状況や親になるなどといった役割の変化の影響を受けるものの、部分的には遺伝子が影響していることを示唆している。しかし、心理学者のダン・マクアダムスは正確には3つの層があり、これまでは基本的なと曲である最下層のみを重視しすぎてきたと指摘している。二層目の性格である「性格的適応」は人が特定の役割や分野で成功するために発達させるものであり、個人的な目標、防衛や対処のメカニズム、価値、信念、ライフステージでの関心などを含んでいる。これらの適応は、基本的な特性の影響を受ける。この中間層において、人の基本的特性は、環境やライフステージといった事実と絡み合う。薄遇者の喪失などによってそれらの事実が変化すると性格的適応も変化する。第三層目は性格はライフストーリーである。象使いによって書かれるが本当の原因がわからずに脚色や解釈によってつなぎ合わされた歴史小説のようなものである。
 この3つの層の観点でみると、なぜ最適な人間発達には逆境が必要かということが明確になる。人間は幸福でなく成功を追い求めるように進化の過程で形成されてきたため、ゼロサム競争の中で名声を勝ち取ることに役立つよな目標を必死で追い求めてしまう。このような競争での成功で気分は良くなるだろうが、恒久的な快楽は得られず、将来に対するハードルを上げてしまう。しかし、悲劇にぶち当たるとトレッドミルから振り落とされ、決断を迫られる。いつもどおりの仕事へと戻るか、なにか別のことに挑戦するか。悲劇の後は他のことに対して自由に考えられる期間がある。もしあなたが家族や宗教、ひとだすけなどのその他の目標へと向かっていくことになれば、非誇示的消費へと推移することとなり、そこからもたらされる快は、適応効果によって完全にしはいされない。それゆえに、これらの目標の追求はさらなる幸福をもたらすが、富を減らすことになる。数多くの人が、逆境の目覚めによって目標を変える。仕事を減らし、もっと遊ぼうと決意する。走るのをやめ、あちこちに分岐している道に気づき、自分が本当に行きたい場所について考えさせてくれるという意味で、逆境は成長にとっておそらくは必要なのである。
 三層目の性格において、逆境の必要性はさらに明白である。良い物語をかくためには、面白い素材が必要である。変遷なくして良いライフストーリーはありえない。トラウマはしばしば信念体系を粉々にして、人を意味の感覚を剥ぎ取ってしまう。そのかけらを下に修復しなければならず、その時に、神やその他の崇高な目的を統一原理として用いることがよくある。人が逆境を乗り越えて成長したと報告する時、自分の内部の新たな統一の感覚について説明しようとすることがある。この統一感は、友人たちにはわからないかもしれないが、内部から湧き上がる成長や強さ、成熟、知恵のように感じられるのである。
 危機にぶち当たった時、人は主に3つの方法で対処する。能動的対処、再評価(思考を正したり、希望の兆しを死がしたり)、回避的対処(出来事の否定、飲酒や麻薬、その他で気を紛らわしたりする)である。楽観主義者は努力が実を結ぶと期待しているので、すぐに問題を対処しようとする。もしそれに失敗しても可能な限りなにか利点を見つけようとする。そのような利点を見つけ出すと、彼らは絶え間ない克服と成長の物語としてのライフストーリー(マクアダムスの第三層目)に、新たな章を書き加える。対照的に、ネガティブな感情スタイルの人にとって世界はより驚異に満ちたものであり、それらを対処することにあまり自信が持てない。彼らは回避やその他の防衛メカニズムにより大きく依存した対処スタイルを発達させてゆく。問題を解決することよりも苦痛に対処することに注力するために、問題をしばしば悪化させてしまう。世界は不公平で制御不能であり、物事はしょっちゅう最悪の事態に陥るという教訓を導き出して、その教訓を自分のライフストーリーに織り込み、物語全体を汚してしまう。悲観主義者は暗い気分になってしまうが、成長するための鍵は楽観主義そのものにあるのではなく、楽観主義者がたやすく見出す意味付けにある。ジミー・ペネカーは人々にトラウマを開示してもらうことよって健康的な利点を作り出す実験をした。連続4日間15分ずつ書き続けるようにした結果、1年間の間に医者や病院にかかった回数が少なかった。これは「怒りを開放する」というようなことではなく、より深く言葉を使って再評価し、意味のある物語を作り出すことに寄与した結果だった。つまり、悲観主義者の場合には、象をやさしく正しい方向へと導くために、余分にいくつかのステップ、いくぶん意識的な象使い主導のステップをふまなければならないが、誰でも逆境から恩恵を受けることができる。
 もし逆境仮説が本当で、その恩恵のメカニズムに意味付けとこれら三層の性格の一貫性が関与しているのだとすれば、人生において逆境がより恩恵となる時期とならない時期があるはずだ。子どもの発達で最も影響力のある環境要因の一つは脅威と安全の総合的な水準である。楽観主義や接近的な動機が総じて報われる安全な世界に住んでいる西洋の国々では、遺伝的で可能な中でもっともポジティブな感情スタイルを発達させるのが望ましい。大きな逆境は、ほとんど子供に対して良い影響はないだろう。十代になると話は変わってくる。自分の過去、現在、未来を首尾一貫した物語へとまとめ上げようと積極的に長期的に努力し始めるのは、十代の半ばから後半になってからである。30際を超えた人が、人生の中で最も重要で鮮明な出来事を思い出すように求められると、15際から25際のあいだに起こった出来事に偏って思い出す傾向がある。これは人生が開花する年齢である。初恋、大学と知的成長、自立した生活とおそらくは一人旅。そして、若者が人生を決定づけるような数多くの選択をする時期である。この時期はその後のライフストーリーに多大な影響を及ぼす時期である。
 様々な世代の人にトラウマを起こさせるという実験は倫理的に行うことができないが、人生はこれらの事件を行っている。大恐慌、第二次世界大戦といった20世紀の大きな出来事はさまざまな世代の人を直撃した。エルダーは、なぜある人は成長し、ある人は崩壊しているのかの多くは家族やその人の社会的統合の程度に依存していることを見出した。成人と同様に、危機にさらされた子供は、強い社会的なグループやネットワークに組み込まれている場合はうまく切り抜けていた。社会的なネットワークは苦痛を軽減してくれるだけでなく、意味や目的地を見つける手段を提供していた。しかし逆境にはタイムリミットがある。エルダーは二十代後半までに人生は結晶化し始めると述べており、30歳を超えてから初めて本当の人生の試練に直面した人は回復力が弱く、経験から成長しにくい。エルダーの研究結果は、行為は相互作用の中にあるということをよく思い起こさせてくれる。ある人の独特の性格が、出来事やその社会的な状況の詳細と相互作用することで、特殊でしばしば予想しがたい結果を生み出す。多くの人にとって、特に二十代に逆境を乗り越えた人たちにとっては、逆境はそれがなかった場合よりも、彼らをより強く、場合にやってはより幸せにしてくれたのだ。
 子供を持ったら、他の親たちと同じく、彼らの額にかかれた運命を書き換え、すべての逆境を消してしまいたくなるだろう。たとえ、24歳の時に経験したトラウマが娘に重大な教訓をあた、そのことによってより良い人間になるとわかっていたとしても、こう考えるに違いない。なぜ、私が彼女に直接そのような教訓を教えられないのか?世界中の賢人の共通見解は、人生における最も重要な教訓は、直接教わることができないというものである。最近の研究では知識は主に二つの形式でもたらされる。明示的なものと暗示的なものである。明示的知識とは、あなたが知っていて、意識的に報告できる事実のすべてであり、文脈からは独立している。しかし知恵研究の第一人者であるロバートスタンバーグによると、知恵は暗黙知に基づいていて、手続的なものであり、他社の直接的な援助なしに身につくもので、その人が価値を置いている目標に関係し、象に備わっているものである。人生経験の中で徐々に身につけていく技能である。それは状況に依存する。恋愛関係を終わらせり、友人を慰めたり、する上で、普遍的で最善の方法など存在しない。スタンバーグは二つの物事のバランスをとるための暗黙知であると言う。賢明な人は、自身の欲求、他者の欲求、そして直接的な相互作用のない人々の欲求や物事の間でバランスをとることができる。無知な人は全ての物事を白か黒かで見たがり、自己利益に強く影響される。賢明な人は他者の視点から物事を見ることができる。
 親にできる最善のことは、子供が人生のさまざまな領域において暗黙知を獲得して行くのを助けるようなさまざまな人生経験を提供してやることである。親はまた自分自身の人生の中で知恵の手本となり、子供が状況について考え、異なる観点で眺め、困難な局面でバランスをとれるよう、優しく励ましてやることもできる。子供が十代や二十代になっても保護して続けていたら、苦痛だけでなく知恵や成長も締め出してしまうだろう。苦難は、自己と他者とのバランスを見つけ出すのにやくだち、多くの場合、人をさらに思いやりがある人にする。
 強いバージョンの逆境仮説はおそらく真実であるが、それは注意書きを加えた時のみである。逆境が最大限に恩恵的であるためには、適切な時間(青年期)に、適切な人(恩恵を引き出せる人)に、適切な程度で生じなければならない。子供の額に書かれた運命については、幼い頃のトラウマは消してやるべきであるが、残りは消す前に将来の研究を待つべきである。

第8章〜徳の至福

 賢者や年長者が若者に徳を勧めるときは「あなたを幸せに、健康に、豊かに、そして賢明にする秘薬があります。それは高潔であることです」と説く。若者は自分たちの目標に突き進む手段を見つけ出し、面倒を起こし、それがしばしば人格を形成する冒険となる。若き仏陀も父親の宮殿を後にし、森の中で精神性の探求を始めた。ベンジャミン・フランクリンも徳の効能を訴えるが、快楽を嫌悪するような徳ではなく、古代ギリシアに発するもっと広義の徳であった。アリストテレスは貧者に与え、性欲を抑圧することによって幸福がもたらされるなど言いはしなかった。彼は、良い人生というのは、人が自分の長所を伸ばし、可能性を実現し、生来あるべき姿になることができる人生だといっている。多彩なフランクリンは様々な事業に着手して実現・成功させた。二十代の後半、若い印刷業を営む実業家であった時代に、彼は「道徳的完成に到達しようという不敵な、しかも困難な計画」と自らが呼ぶものに着手した。高めたいという徳を幾つか挙げ、それに従って生活するよう試みるが、すぐに象使いの限界に気づいた。そして象使いが成功する唯一の方法は象を訓練する以外にないと気付き訓練計画を考え出した。そして晩年に徳のおかげで幸福にしてこられたとつづる。筆者は「徳を磨くことはあなたをより幸福にする」という考えを徳仮説と呼ぶ。
 子どもの道徳的発達に関心を持ち、数ページ以上の書物を残している文化では道徳への考え方を示す記述を見出すことができる。大まかなアウトラインには類似点があり、誠実さ、公正さ、勇気、博愛心、自制、権威の尊重などのは大半の文化で重視されている。道徳を説く最古の作品「アメンエムオペトの教訓」はエジプトの文書だが、幸福の案内書であるとしてさまざまな実践的な内容になっている。これらの古代の文章は共通して、証明や論理よりも格言や模範を多用している。格言は洞察と産道を生み出すように表現されていて、模範は人望と畏敬の念が引き出されるような人が語られる。孔子や仏陀の知恵は時代を超越した印象深い格言の宝庫として受け継がれ、今日でも楽しみや助言のために読まれている。多くの古代文書は知識よりも実践や習慣を強調している。仏陀は弟子たちに、実践することで倫理的なそして精神的に鍛錬されたひととなるための「八正道」を説いた。古代の人達は皆、徳はよく訓練された象に宿るものであることを知っていた。道徳教育は、暗黙知を感得させるものでなければならない。社会的近くや情動の技能がうまく調整されれば、人は自動的に状況に応じて何が正しいかを感じ、何をすべきかを知り、そうする。古代人にとって、道徳とはある種の実践的な知恵であった。
い 道徳に対する西洋の手引も素晴らしいスタートをきった。他の古代文化と同様、徳に焦点を当てていた。「旧約聖書」「新約聖書」、ホメロス、イソップなど、どれを読んでも私たちの基礎としている文化は、ことわざや格言、寓話、徳を例示し教える模範を多用していたことがわかる。ギリシア哲学の二大作品であるプラトンの「国家」とアリストテレスの「ニコマコス倫理学」は、基本的には徳とその育成に関する専門書である。快楽が人生の目標であると考えていたエピクロス主義者ですら、快楽をはぐくむためには徳が必要であると信じていた。しかし、ギリシア哲学における初期の勝利の陰には、後の誤りの種が含まれていた。第一に、道徳的探求をもたらしたギリシアの精神は、科学的探求のきっかけとなった。その目的は、世界の莫大な数の出来事を説明することのできる最小限の法則の集合を探し求めることである。科学は倹約を重要視するが、長いリストを持っている徳の理論は、まったく倹約的でない。他のすべてをそこから導くことのできる一つの徳、原理、規則があれば、科学的精神をどれほどか満足させるだろう。第二に、広く行きわたった哲学の理性崇拝によって、多くの哲学者が徳の基礎を習慣や感情に置くことを不愉快に思うようになった。倹約の原理の探求と理性に対する崇拝というこれら2つの種は、ローマ帝国の陥落後、何世紀ものあいだ眠っていたが、18世紀におけるヨーロッパの啓蒙主義の中で目を出し、開花した。技術と商業の発展によって新たな世界が作り出され始め、社会的・政治的計画を合理的に正しいものにしようと模索する人たちが現れた。17世紀に著書を書いたフランスの哲学者ルネ・デカルトは、倫理システムが神の慈悲のもとにあることに十分満足していたが、啓蒙主義者たちは、神の啓示や執行によらない倫理の基礎を模索した。
 その倫理の基礎を提唱したと言えるのはドイツの哲学者イマヌエル・カントである。彼はプラトンと同様にカントも、人間は、動物的な部分と合理的な部分という2つの性質を持っていると考えていた。動物的な部分は自然界の法則にしたがうが、合理的な部分はある種の異なる法則に従いうる。行為の規則を尊重することができるため、人はどの程度正しいルールを尊重したかに対する道徳的な判断を受ける。この道徳的規則が法則であるためには対象や条件によらず普遍的に適用できるものでなくてはならないと彼は推論した。そして「定言命法」と呼ぶ単純だが強力なテストを提唱し、倫理を応用論理学の一部にすることを提案した。その十年後にイギリスの哲学者であるジェレミー・ベンサムも典型的な啓蒙主義の勇敢さをもって、明白な目標について言明し、その目標を達成するための最も合理的手段を提案することによって、法律と立法システム全体を新たに構想した。すべての立法における最終的な目標は人の役に立つことである、と彼は結論付けた。ベンサムは功利主義の父であり、その信条はすべての意思決定において、その目標は、全体としての利益の最大化であるべきというものであるが、その利益を誰が得るかについてはほとんど関心を払わない。以来、カントとベンサムの間の議論はずっと続いている。
 しかしながら、多くの違いにもかかわらず、この2つの陣営は重要な点については同意している。両者とも倹約の原理を信じている。意思決定は、究極的には定言命法か効用の最大化というたった一つの原理に基づいてなされるべきである。両者とも、道徳的な意思決定には論理的思考や、時には数字的な計算さえもが必要であるため、象使いだけがそのような意思決定をすることができると主張する。どちらも洞察や直感に不信感を抱いており、良い推論の妨げになると考えていた。どちらも抽象を好み、個別性を回避する。そこに関与した人たちやその人達の信念、文化的な風習についての豊富で詳細な記述の必要はない。これら2つの哲学的なアプローチは陽や政治の論理の実践に対して多大な貢献をした。人々の利益に対して効率的に機能しながらも(ベンサム)、個人の権利を尊重する社会を作り出す(カント)のに役立った。しかし、これらの考え方が、西洋文化においてさらに一般的に浸透したため、いくつかの意図せざる結果をもたらした。哲学者のエドモンド・ピンコフスは帰結主義者と義務論者はあいまって、道徳性とは道徳の板挟みやジレンマについての研究であると、20世紀の西洋人に信じ込ませたと論じた。ギリシア人が人の自覚に焦点を当て、どのような人になることを目指すべきかを問いかけたのに対して、現代の論理は行為に焦点を当て、ある特定の行為がどんな時に正しく、どんな時に間違っているかを問いかける。5人を救うために一人を殺すのはただしいか?堕胎した胎児を幹細胞の資源として用いることはゆるされるか?この人格の倫理から板挟みの倫理への転換により、道徳教育は、徳から離れて、道徳的推論へと変わってしまった。もし、道徳性がジレンマに関わるとすれば、道徳教育とは問題解決の訓練である。1970年代と1980年代にアメリカ合衆国では民族的多様化が進み、教育の権威主義的な方法にさらなる逆風が服用になると、特定の道徳的な事実や価値観を教えるという考え方は流行遅れとなった。そのかわりに、両親や教師は合理主義者の遺産である板挟みの倫理を指示するようになった。
 筆者はこの人格から板挟みの論理への変更は深刻な誤りであると考えている。まず、それは道徳性を弱体化させ、その範囲を限定してしまう。古代の人は徳や人格は人の行動のすべての面で作用していると考えていたが、現代の概念では、道徳性とは、各人が週に数回程度しか出会わない、自己利益と他者の利益とが矛盾するような状況に限定されている。私たちの薄っぺらで制限された現代の概念では、道徳的な人とは、事前的な施しを与え、他者を助け、規則に従って行動し、全般的に自己利益を他人の利益よりも優先しすぎない人のことである。したがって、人生における大半の活動や意思決定は、道徳的な懸念から分離される。しなしながら、道徳性が自己利益の反対へと縮小される時、徳仮説は逆説的なものとなる。つまり現代の用語では、徳仮説は、自己利益に反して行動することは自己利益のうちだと述べている。これが真実であると説得するのは困難だし、おそらく、すべての状況において真実であることもありえないだろう。
 道徳的推論への転換に伴う2つ目の問題点は悪しき心理学に依存しているという点である。1970年代以降、多くの道徳教育は、象使いを象から下ろして、象使いだけで問題解決できるように訓練しようとしてきた。何時間もの事例研究や同等的なジレンマに関するクラス討論、ジレンマに直面して正しい選択をした人たちのビデオを見せられた後、子供たちはどのように考えるか学ぶ。授業が終わると、象使いは象の背中にまたがる。休憩時間になれば何も変わらない。上手に推論することを教えることによって子供たちに論理的に振る舞うようにしようとするのは、尻尾を振って犬を喜ばせようとするようなものである。因果関係が逆なのだ。
 1960年代の社会混乱と1970年代の経済停滞と犯罪の増加以降、アメリカでは進むべき道を見失ってしまったという嘆きが特に顕著となった。政治的保派、とりわけ宗教的に強い信念を持つ人達には、道徳教育にかんする「価値判断に基づかない」アプローチと、子供たちに考えるべき事実や価値を教えるのではなく、自分自身で考えるように「力をつけさせる」ことに憤慨した。1980年代、保守派の人たちは、学校で人格教育プログラムを強く推奨したり、自分の子供たちを在宅学習させたりすることによって、既存の教育に挑戦した。1980年代には幾人かの哲学者が徳の理論の復活に手を貸した。その中でも、アラスデア・マッキンタイアは「徳なき時代」において、普遍的で文脈自由な道徳を作り出そうとする「啓蒙計画」は最初から失敗する運命にあったと論じた。共通の価値観と豊かな伝統を持つ文化は必ず、人々が互いを重視し、評価するフレームワークを生み出す。人は、紀元前4世紀のアテネにおける僧や兵士、母親、商人の徳についてたやすく話すことができる。しかしながら、アイデンティティや背景をすべて剥ぎ取ってしまったら、つかみどころがなくなってしまう。特定の性別や年令、職業、文化を持たない、空中をふわふわと漂っているような一般化されたホモ・サピエンスの徳について、どれほどのことが言えるだろうか?倫理が特殊性を無視するという現代の要件は、私たちの道徳性を弱体化させた。
 近年では心理学までそれに加担してきた。1998年マーティン・セリグマンは心理学は道を見失ってしまっていると主張して、ポジティブ心理学を創設した。心理学は、病理や人の声質の暗い側面ばかりをきにかけて、人の良い側面や優れた側面はみないまま終始してきた。心理学者は、考えうるすべての精神疾患や問題行動を診断するためにDSMとしられる膨大なマニュアルを作成してきたが、人の健康や才能、可能性などの達成部分については、語る言語さえ持っていないとセリグマンは指摘した。セリグマンがポジティブ心理学の創設に乗り出した時、彼の第一の目標の一つは、強みや徳の診断マニュアルを作成することであった。最初のステップとして、ピーターソンとセリグマンは、主要な宗教の聖典からボーイスカウトの宣誓書すべてを調査した。彼らは、大きな徳の表を作成し、リストの中で共通しているものを見つけ出そうとした。すべてのリストに登場する特定の徳はなかったが、知恵、勇気、人間性、正義、節制、超越性(自己よりも大きな何かとつながりを形成する能力)という6つの大きな徳、ないしそれに関連している一群の徳が、ほとんどすべてのリストに登場していた。これらの徳が広く採用されていたのは、それらが抽象的であるためである。すなわち知恵、勇気や人間性を示すためには数多くの方法があり、これらの徳についていずれの形態をもすべて否定している文化を見つけることなど不可能である。しかし、この6つのリストの本当の価値は、さらに特化した人格の読みをつ組織化するフレームワークとして機能する点にある。どの徳にもいくつかの道がある。それぞれの道にどの程度、価値を置くかは、文化と同様に、ひとによって、それぞれ異なる。これが、この分類の本当の力である。いずれか一つの方法があらゆる時代のあらゆる人にとって不可欠であると主張することなく、広く重要視されている目標に向かって成長するための特定の手段を指し示している。この分類は、人の多様な強みを診断し、その長所を伸ばす方法を見つける手助けをしてくれる道具なのである。ピーターソンとセリグマンは24の主要な人格の強みがあり、それぞれが上位レベルの6つの徳のうちの一つに通じていると指摘した。24の項目ついては各自で異議があるかもしれないが、ピーターソンとセリグマンはあえて具体的にまちがうことで、独創性とリーダシップ、そして希望を示し、詳細に関しては科学や治療のコミュニティに任せた。この分類について筆者が気に入っているのは弱みでなく、強みに対して取り組もうという考え方である。自分の弱みや欠点にに対して対応するために強みを仕えることがよくあり、彼のクラスでも実践している。徳というと何かしらの努力しなければならないように聞こえるし、実際にそうであることが多い。しかし、徳とは人格のいくつかの強みを実践することによって達成される長所であり、これらの強みの実践は本来報酬的なものであると捉え直せば、その作業は突然、チクセントミハイの言うフローのように感じられ、苦労ではなくなる。
 徳はそれ自体が報酬となりうるが、それが明らかなのは、徳が報酬的であると分かる場合だけである。自己利益に反して他者の利益のために行動することは、自分の意に反している場合でも、自分にとって良いことなのだろうか?賢者や道徳論者の答えは時と場合によって一様でない。宗教的な賢者にとって、安易な方法とは来世における神の返報性を思い起こさせることである。神は悪徳には罰を与え、特には報酬を与えるであろう。キリスト教には天国と地獄がある。ヒンズー教徒には、カルマという非人格的な作用がある。
 筆者は神や天国、来世が存在するかどうかについて語る立場にないが、心理学者としては死後の正義の信念が2つの道徳的な思考の兆候を示しているとする。1つ目は内在的な正義であり、規則を破ったら自分に何か悪いことが起こると考えることである。成人も病気の原因に対する文化間比較の調査では、生物医学的な説明の他に過去の過ちの中に答えを探し出そうとする場合がある。2つ目の問題は純粋悪の神話に依存していることである。道徳的動機は、テロリズムや戦争を含む、大半の暴力行為に関与している。大半の人は、自分の好意が道徳的に正当化されると信じている。
 この疑問に対する科学的なアプローチも安易で不十分な回答から始まる。徳は、ある状況下において、あなたの遺伝子に役立つ。「適者生存」が「適した遺伝子の生存」を意味する場合、適者の遺伝子が以下の2つのシナリオで親切で協力的な行動を取るように動機づけられるのであろうということを理解するのはたやすい。その遺伝子のコピーを生むものに利益をもたらす場合か、しっぺ返し戦略を用いて非ゼロサム・ゲームで余剰を手に入れるのに役立つことによって直接的に遺伝子の算出者に利益をもたらす場合のいずれかである。これら血縁性利他主義と互恵的利他主義という2つの過程は、実際に、人類以外の生物におけるほぼすべての利他的行為と、人類の利他的行為の大部分を説明できる。しかしながら、この回答は不十分である。なぜならば、遺伝子とはある程度まで、遺伝子のためには役立つが、私たち自信のためにはならないようなことをしたくなるように動機づける人形遣いだからである。
 キリストが「受けるよりは与えるほうが、さいわいである」と述べたと聖パウロが引用している。他者を助けることは本当に助けるものに幸福や繁栄をもたらすのであろうか?ボランティアに携わる人は、携わらない人よりも幸福で健康である。しかし、いつものように、逆相関の問題を検討しなければならない。研究では幸福の人はより親切で人を助けようとする結果がでている。私たちが見出さなければならないのは利他的行為が直接に幸福や他の長期的な恩恵をもたらすという逆向きの影響である。心理学者のジェーン・ビリアビンは県k都度なーを詳しく調査して、献血は実際に人の気分をよくし、自身を与えることが分かった。ビリアビンは、あらゆる種類のボランティア活動に関する膨大な文献をレビューして、人助けは自己を助けるが、それは複雑な形でその人のライフステージに依っているという結論に達した。高校生では幸福につながっていなかったが、成人については幸福との因果関係がしめされた。また老人は成人よりも更に効果があり、特にボランティアが人対人による直接的な助けに関連していたり、宗教団体を通じて行われたりする場合には顕著であった。老人にとって、ボランティア活動の利点はとても大きく、健康状態の改善や寿命の増加さえ示されている。ボランティア活動における2つの大きな利点が、人を結びつけることと、マクアダムス流のライフストーリーを構築する手助けとなることであることを示唆している。
 科学的な研究は、利他主義があなたのためになるという主張へと弱められたとしてもなお、徳仮説を指示している。徳についての主張をより広義に捉え、ベンジャミン・フランクリンが意味していたように評価してみると、それはかなり真実であるように思えるので、文化的な保守派による現代生活やその限定的で寛大な道徳性に対する批判は正しいのではないかという疑問が生じる。筆者は実際、大切な何かを失ってしまったと思っている。それは広く共有される徳や価値観を持つ、豊かな手触りの共通精神である。1930年代や1940年代の映画を見るだけで、人々が道徳という糸で織られた濃密な綱の周りを動いているのが見て取れるだろう。登場人物は名誉や批判、適切に見えるかどうかに関心を払っている。子供たちはしばしば両親以外の大人たちによって躾けられている。善人は常に勝利し、悪事はけっして報われない。現代の私たちにとっては堅苦しく、縛り付けるものに聞こえるかもしれないが、そこがポイントである。ある程度の抑制は私たちにとって良いものであり、絶対的な自由はそうではない。社会的な結びつきから自由になることが自殺と相関していることを発見した社会学者のデュルケームは「アノミー」ということばも低減している。アノミーとは明白な規則や規範、価値基準がない社会状態のことである。何でも好きなことができるとすれば、人はしたいことを見つけることが困難となる。拠り所のない感覚や不安を生み出し、非道徳的で反社会的な行動の増加を導くのである。現代の社会学の研究もデュルケームを強く指示している。アメリカの地域の健全性を最もうまく予測するものの一つは、他人の子どもの悪い行いに対して、大人がどの程度反応するかである。
 ジェームス・ハンターはデュルケームの考えを最近話題の人格教育に取り入れた。著書「人格の死」の中でアメリカの徳や人格についての考え方の変遷を描き、豊かさによる個人主義と、多様化による道徳教育の変化がこれの変化を生んだとしている。著者はハンターの分析は正しいと考えているが、それでも、現代の制限された道徳によって全体として悪くなってしまったという点については、まだ納得していない。古い映画やテレビ番組を見て1960年代にさかのぼるだけでも、女性やアフリカ系アメリカ人の生活があまりにも制限されていることに、しばしば苦痛を覚える。私たちは、包括性に対する代価を払ったが、人種的少数派や女性、同性愛者、障害者、その他のひとたち、つまりほとんどの人がより多くの機会を得ることのできる、より人道的な社会を手に入れた。その代償が高かったとしても後戻りすることはできない。私たちは多数の階級の人達を排除することなく、アノミーを軽減する方法を探すことしかできない。
 多様性という言葉は1978年の最高裁判決以降のことである。それ以降、多様性は正義や自由、幸福などと同様に、疑いの余地なく良いものとみなされるようになった。筆者は道徳性に関する研究の中で、そのことに疑問を抱いた。些細な違いに基づいて、いかに人々はたやすく敵対する集団へと分かれるかということを考えると、共通性の賛美が凝集性の高い集団やコミュニティの形成に役立つ一方で、多様性の称賛は分裂を促進するのではないか。多様性とは人口統計的なものと道徳的なものという二種類があることに気づく。人口統計的な多様性とは、人種、民族、性別、性的志向、年齢、障害状態などという社会人口統計上のカテゴリーに関するものである。人口統計的な多様性を求めるということは概ね、以前には排除されていたグループを包括することであり、正義を求めるということである。他方で、道徳的多様性とは、本質的には、道徳的な規範や価値観の合意が欠けている状態、すなわちデュルケームがアノミーと叙述したものである。道徳的な多様性を好む人などいない。あなたが堕胎の問題について賛成だとして、あなたは幅広い数多くの意見があり、しかもしのどれもが有力でないという状態を好むだろうか?それとも、皆があなたと同意見であり、その土地の法律に反映される方を好むだろうか?筆者の研究で人口統計上のカテゴリーにおいて多様性を増大させることについては、学生の間で強く指示されていることを見出した。政治的保守派という学生にすら指示される。一方で、道徳的多様性については大半の状況において指示されなかった。多様性とはコレステロールのようなものであり、善玉と悪玉があり、おそらく両方を最大化しようとすべきではない。
 保守派とリベラル派では対立が続いている。現在の文化戦争の対立の中では、誰も相手側の考えの中に価値を見出すことはできないのかもしれない。それとも私たちは、ベンジャミン・フランクリンという偉大な道徳模範のほ教えに立ち戻ることができるだろうか。自己利益の追求のために互いに激しく戦う人々や団体によって動かされてきた歴史を反省して、フランクリンは「徳のための統一党」を創設することを提案した。多くの子供達の多くの生活エリアにまたがる道徳的一貫性を作り出すことに同意して、町の人々が一体となるような運動からもたらされなければならないだろう。そのような運動が現在起こっている。発達心理学者のウィリアム・デイモンが「青少年憲章」運動と呼んでいるものだ。それは、コミュニティで共有されている理解や義務、価値観を述べた憲章に賛同した子育てに関わるすべての人々ー両親、教師、コーチ、宗教指導者、そして子供たち自信ーが協力し合うもので、すべての環境においておなじ高い基準の行動を指示し、期待している。

第9章〜神の許の神聖性、あるいは神無き神聖性

 エドウィン・アボットが1884年に帰った「フラットランド」は、二次元世界の四角形が三次元世界の説明を聞いても理解できず、そこにいって一瞬ですべてを理解し畏敬の念を抱く物語だ。すべての人類の文化において、社会世界は2つの明白な次元を持っている。親密さや好き嫌いと言った水平次元と、社会階層や地位と言った垂直の次元である。多くの言語では、親密さを区別するのと同じ言語的手法を用いて、社会階層を区別する。さてここで、二次元の社会、親密さのX軸と階層のY軸からなるフラットランドを幸せに動き回っている自分自身を想像してみよう。そしてある日、並外れた何かを行う人に出会うか、圧倒されるような自然美を体験し、あなたは「高められた」ように感じる。しかしそれは階層が「高まった」のではなく、何ほかの種類の上昇である。この章では、その垂直的な動きについて述べる。この章は信仰心が篤い人々は理解しているが、非宗教的な思想家はほとんど理解していない古代の心理について述べている。孟子やムハンマドは神聖性を見失ってしまったら人類はダメになってしまうだろうとしている。しかし、その対極で3次元社会を作り出し、それをすべての住人に共用しようとするのは、宗教的な原理主義の顕著な特徴である。
 道徳性について研究し始めたとき、筆者は数多くの文化の道徳律を読んだ。最初に学んだことは、ほとんどの文化が食べ物や性、月経、死体処理について非常に留意していることだった。それまで、道徳性とはいかに人が互いを扱うかに関わると思っていたので、「純潔」や「汚れ」についてのこれらの事柄は、現実の道徳性とは無関係のものとして片付けてしまっていた。しかし、資料を読み勧めていくうちに、その背後にある論理に気づいた。嫌悪の論理である。1980年代のポール・ロジンによる嫌悪に関する先駆的な理論によると、嫌悪は大部分が動物や動物の体の生成物に関与しており、嫌悪される物事は接触によって感染する。それゆえに嫌悪は、動物の生成物や、洗浄や、接触への懸念と何らかの関連があるように見える。
 嫌悪には、人々が何を食べるかを決定する際に役に立つという進化的な起源がある。私たちの先祖の脳が進化的な変遷の中で拡大する間に、道具や武器の製造が変化し、したがって肉の消費にも変化が生じた。しかし古代人が、他の肉食動物の食べ残しの死肉をあさるなどして肉を口にするようになると、新たな細菌や寄生生物の世界にさらされることとなった。それらの多くは植物性毒素とは違って接触感染する。嫌悪はもともと、口の守護者として自然淘汰によって形成されたものであった。食べることが可能かもしれないものに対して感覚的特徴を超えて判断できることや、それがどこからやってきて何に触れたのかについて考えることは、その個人を有利なものとする。日常的に、死体や排泄物、ゴミ山をあさったり這い回ったりする動物は嫌悪を引き起こす。私たちはそれらを食べないし、それらが触れたものはすべて汚れていることになる。私たちはまた、他人の肉体の生成物、特に人々の間に病気を伝染させる可能性のある排泄物、粘液、血液を嫌悪する。嫌悪は欲望を消滅させ、洗浄や、手遅れの場合には嘔吐としった洗浄行動を促す。
 しかし嫌悪を口だけを守っているのではない。それは誘導体として働くことで、生物的、文化的に進化していく間に拡大し、いまやもっと広く体を守っていく。嫌悪は、人が文化的に許容できる性的パートナーや性行為を狭い範囲へと限定することで、性機能においても食物選択におけるのとよく似た役割を果たしている。繰り返しになるが、嫌悪は欲望を消し、清浄、分離、清掃に関心を持つように仕向ける。嫌悪はまた、皮膚病、奇形、四肢切断、極度の肥満や痩せ、その他の人類の体形において文化的に理想とされる外見と異なる人にあった時、私たちを不安な気分にさせる。問題となるのは、外見である。顔にできた腫瘍や指の欠損に嫌悪を感じるのに対し、肺がんや肝臓の欠損に嫌悪は感じない。
 口の守護から体の守護へというこの拡大は、純粋に生物学的な観点で納得できるものだ。私たち人類は常に、他のほとんどの霊長類よりも大きく密集した集団で生活し、樹上ではなく地上で生活してきた。そのため、肉体的な接触によって広がる最近や寄生生物の被害にさらされることが多かった。嫌悪のお陰で接触にもっと注意深くなる。しかし、最も興味をそそられるのは、文化がそれ自身を定義するさいに用いる、非常に多くの規範や儀式や信念をサポートするために嫌悪が使われているという点である。たとえば、多くの文化は、人類と動物のあいだにははっきりと線を引き、人は他の動物よりも何かしら上で、より良く、より神に近いと主張する。
 しかし、人類は動物でないとか、身体は神殿であるという文化は、大きな問題に直面する。私たちの肉体は、食べること、排泄すること、性交すること、血を流すこと、死ぬことなど、すべて動物と同じ行為をする。私たちが動物であるということを示す圧倒的な証拠があり、私たちの動物性を否定する文化は、その証拠を隠すために多大な苦労をしなければならない。人を中心として下位の動物から上位の神へと通る、神聖性という第三の次元の考え方は、自身の動物性を卑しいと思わせ、清潔を神性に近いとする。
 文化心理学の分野で著名な思想家であるシカゴ大学の心理人類学者、リチャード・シェウェダーと共に働いた。シェウェダーの道徳性に関する研究は、人が道徳性について考える時、その道徳概念はみっつのグループに類型できることを示している。シェウェダーは、それらを自律性の論理、コミュニティの論理、神聖性の論理と名付けた。自律性の論理を用いて考え、行動するときの目標は、害悪から個人を保護し、最大限の自律性をかなえることであり、自分個人の目標を追求するためにそれが用いられる。コミュニティの論理を用いる時の目標は、集団、家族、仲間、国家などの保全を確保することであり、服従や忠誠、賢いリーダーシップのような徳が重視される。神聖性の論理を用いる時の目標は、それぞれの個人に依存する神聖性が劣化しないように保護することであり、強欲や貪欲、憎悪といった道徳的なけがれのない、純潔な尊い生き方が重要視される。大まかには先のX軸Y軸Z軸に対応している。
 筆者がマヌ法典を読んだときにロジンとマッカーレイと筆者が研究した嫌悪に関するすべてのカテゴリが僧侶が聖なるベーダを朗読することを考えることすらいけない時間のリストに入っていることに驚嘆した。神聖性と嫌悪は常に分離されていなければならないことを示している。筆者はヒンズー教の神聖性の研究のために3ヶ月ブバネスワルを訪れた。ブバネスワルに到着するとすぐに、神聖性の論理は単なる古代の歴史ではないことに気づいた。外国人は神聖性の高いエリアにはいることは許されなかった。また頭や右手は純潔であるが、左手と足は汚れているとされた。僧侶らへのインタビューを通じて、純潔と汚れは、本当に神性性を生物学的な必要性から切り離すためだけに存在しているのか、それともこれらの習慣が徳や道徳性とより深い関係性をもっているかを見出すことが筆者の目標であった。それには様々な意見があった。教育水準があまり高くない、ある村の僧侶は、純潔と汚れに関連する儀式をゲームの基本ルールのように考えていた。しかし多くの人はより幅広い見方を持っており、純潔と汚れに関する習慣を、魂や道徳の進歩や第三次元上で上昇するなどの最終目的に至る手段とみなしていた。純潔は魂に関係し、もし自身の中に神性性があるとかんがえるなら、あなたはそれにふさわしく振る舞うと語った。
 アメリカでは純潔や汚れについて何も考える必要はなかった。第二の次元である階級についてもさほど考える必要はなかった。つまり生活は親密さという一次元に縮減されて、誰かを木津つけない限りは何をしても許されるという、自律性の論理だけに制約される。しかし、いったん三次元で物事をみることを学ぶと、靴を履いたまま、自分の家やベッドルームにまでズカズカと入って歩き回るアメリカの風習に嫌悪感をもつようになった。学術研究に携わる中で、第一次世界大戦の時代まではアメリカも神聖さの論理が公の議論の中心だったが、それ以降消え始めたということを発見した。「若者は何を知るべきか」というタイトルの本において、シルバヌス・ストールは、ある章全部を割いて「個人の純潔さ」について述べている。しかし、科学や技術、産業の時代が発展するにつれて、西洋世界は「非神聖化」されていったと偉大な宗教歴史学者であるミルチャ・エリアーデは論じている。また神聖性の知覚は人類の普遍的な特性であるとも述べている。すべての宗教には、それぞれ相違点があるにもかかわらず、超俗的で純潔な何かと接触し、コミュニケーションする場所(寺院、神社、神木)や時間(聖なる日、日の出、夏至や冬至)や活動(祈祷、特別な踊り)がある。聖と区別するために、それ以外の時間、場所、活動は属として定義される。聖俗の協会は注意深くまもらなければならず、それこそが純潔さと汚れのルールのすべてなのである。
 インドの滞在によって筆者は知的な覚醒へと導かれた。神聖さの垂直次元で「下降」する人を見たときにどのように社会的な嫌悪が引き起こされるかについて、もう一つ論文を書いた。その執筆中、突然、それまでいちども「上昇」する人を見た時の感情反応について真剣に考えたことがなかったことに気づいた。「高められた」感覚について言及はしたが、高められることが実在し、紛れもない本物の感情であるかどうかについては、疑問に思ったことさえなかった。筆者は友人や家族、学生に質問してみた。ほとんどの人は、このような感覚によって、善行をしたり何かの意味でもっと良い人間になりたくなるといった。ヴァージニア大学の創始者であるトーマス・ジェファーソンはその著書の中で感情の要素をあげている。誘発・起因条件、身体の生理的変化、同期、そして身体的な感覚を超えた独特の感覚である。それから7年間、筆者はこの「高揚」の感覚について研究してきた。研究ではジェファーソンが正しい事がわかった。人は本当に道徳的に美しい行為に対して感情的に反応していた。そして、これらの感情反応は胸の温かで心地よい感覚と、他者を助けたいという欲望やより良い人になりたいという欲望に関わっていた。その後の学生の研究では感謝や称賛の感覚に関係する迷走神経を疑った。迷走神経の活動を測定することは難しく、落ち着き、愛情、絆や愛着を促進するオキシトシンというホルモンの測定を試みた。それにより高揚がオキシトシンの分泌を示唆しており、オキシトシンは絆を引き起こし、人々を愛情や信頼、寛大さの感情で満たし、新たな関係性に対してより受容的になるのかもしれない。ある教会の信者は教会で涙を流すが二種類あるとし、一つは「慈悲の涙」もう一つは「祝福の涙」であるとした。それは世の中のなにか正しいことを受容するときに流れるものとした。世の中には良い人たちがいて、人には素晴らしさがあり、愛は実在するものであり、それは私たちに生来備わっているのだと感じるときに流れる。筆者は教会に行く理由の一つは高揚であることに気づく。人は教会で日常の俗な存在から抜け出して、キリストや、聖書の高潔な人物や、聖人や、そのコミュニティの規範となる他のメンバーについての物語の中から「高揚」感を得ることを同じように望んでいる人々からなるコミュミュニティと一体となる。人々は愛情にあふれていることに気づくが、それはアガペと呼ばれるもので、全人類への愛情のような感覚である。このような体験は神は各人の中に宿っているという直接的で主観的に説得力のある証明となる。神聖さと矛盾しない生き方がある。より高潔で、気高い自己へ導く生き方である。
 第三次元上の動きを起こすのは徳だけではない。自然の広大な美しさは、ただ、魂を揺り動かす。ばがする。、イマヌエル・カントは、純粋な畏敬の2つの原因が「天上の星空と内なる道徳法にある」と宣言して、道徳性と自然を明示的に結びつけた。自然の広大さと美しさの何かが、自己を矮小でとるにたらぬものと感じさせ、自己を萎縮させるものは何であれ、霊的体験の機会となる。人は時に分裂し多重の自己や知性を持っているように感じる。それは低俗な浮世の自己である肉体に縛り付けられた高貴で優雅な精神的な自己である魂を持つと仮定することで説明される。しかし、生前にも霊的な鍛錬や偉大な説教や、自然への畏敬によって、魂は自由の到来を味わうことができる。そのような前兆を得る道が他にもたくさんある。偉大な芸術を鑑賞したり、交響曲を聞いたり、宗教体験となる演説を聴いたりしたことに言及する。一時的にではあるけれど、本格的な脱出を与えてくれる。幻想誘発薬であるLSDやシロシビンはサイケデリック(精神を顕現する)やエンセオゲン(内から神を生成する)という用語を作った。このような変性精神状態を作り出す薬物は、世俗と隔絶する神聖な経験をもたらす上では明らかに有用であるため、いくつかの文化の宗教儀礼で役割を果たしている。薬物の効能はティモシーリアリーやその他の初期のサイケデリック探究者がセッティング理論と名付けた、使用者の精神的な窯跡薬物を接種する状況に依存している。いくつかの伝統的文化で通過儀礼としてなされるように人々が畏敬の念を持ち、安全ですべて支持的な上京において接種する時、これらの薬物は霊的、人格的な成長の触媒となりうる。神学の学位に取り組んでいた医師ウォルター・パンケは触媒仮説のテストでシロシビンを接種した群が、宇宙との一体感時間と空間の超越、喜びなどの感覚とともに、深い絶頂感や恐れや畏敬の念を感じたと報告した。著者とダッチャー・ケルトナーとの研究では人が何か広大なものに出会い、且つ、その人の現在の精神構造ではその広大な何かに順応できない時に畏敬の感情が生じると結論づけた。またバガヴァット・ギーターの劇的なクライマックスにもクリシュナがアルジュナに神や世界の真の姿を見ることがでから宇宙の目を与え、太陽、神、無我の時間を見て驚嘆に満たされる様子が描かれている。そして神の前にひざまずき、仕えさせてくられるように懇願する。これらは聖典の出来事であるが、ウィリアム・ジェームズは宗教的体験の諸相を分析し、薬物や自然に伴う、急速であったり段階的であったりする改宗や宗教体験の類似性を見出し、深い心理学的な真実を表していると考えた。ジェームズは欲望に引き裂かれた分裂した自己として人生を体験しているという。宗教体験は人に全体感をもたらし、安らかな気持ちにさせる。些細な心配事や疑いに満ちて執着心にとらわれていた古い自己が、深遠な畏敬の瞬間の中で洗い流されてしまう。それはより高い力に意思が降伏し、より深い真実の直接的な体験が許された瞬間である。
 エイブラハム・マズローは人間心理学の創設者であるが、至高体験として名付けられた自己超越の瞬間についての報告を収集し、特徴をまとめた。マズローの目標は精神生活には自然主義的な意味があり、試行体験が人類の心の基本事実であることを実証することであった。どの時代や文化でも、多くの人がこのような体験をしており、マズローは全ての宗教は、誰かの至高体験の洞察に基づいていると示唆した。そして現代の宗教は正当性を守ろうとする官僚や会社人間に受け継がれ、その起源と乖離してしまっていて、若者が組織宗教に幻滅していると分析する。さらに自然界に対して驚嘆の念をしめしていた科学者や哲学者も16世紀後半において驚嘆を見下し始め、良さや美しさよりも立証に力を注いでいることを批判した。マズローは人間学は相対主義の中に引きこもり、真実の可能性に懐疑的になり、美より新規性や偶像打破を好んで、責任を放棄したと避難した。そして、広範囲な価値に関する知識の欠乏を満たす、また人が私服で体験の中で垣間見るある種の真理を探求するために、人間性心理学を創設した。マズローは宗教が基づいている真理を科学の心理と結びつけたいと思っていた。
 社会心理学者であるマーク・ラーリーは著書の中で人ほど自身についての思考に時間を費やす動物はいないと指摘した。自己を作り出す能力が長期的な計画の立案や意思決定や自己制御などの数多くの有益なスキルや、他者の観点かや物事を眺める能力を授けたと示唆する。しかし、無意味な内的なお喋りを生み、ネガティブな予測や社会的な比較、評判への懸念などを持ってしまい、自己は個人的な悩みの種も与えてしまった。自己の問題の第一は問題の自己は些細な世俗的な心配などにより神聖さや神々しさに気づくことができない。第二に霊的変質とは本質的には自己の変質であり、自己を弱め、取り除き、ある意味では殺してしまうことである。第三に霊的な道に従うことは常に困難な作業であり、長年の瞑想や、祈祷や、自己制御や、時には自己否定を必要とする。自己は否定されることを好まない。多くの宗教において、快楽や名声に対する利己的な執着は、徳の道をはずさせる普遍的な誘惑であると解いている。自己は悪魔であり、少なくとも悪魔への入口なのだ。
 2つの選択肢がある。(1)自尊心はいかなる民主主義においても基礎となる。(2)それがすべてではない。1つ目は1970年のフィミニスト運動の創始者であるグロリア・スタイネムの引用である。2つ目はキリストへの信頼と聖書の啓示を通じて目的と人生の意味を見つけるための案内所としてベストセラーとなったリック・ウォレンの「人生を導く5つの目的、じぶんらしく生きるための40章」の冒頭である。アメリカの文化戦争における主な戦いの多くは、本質的に、人生のある側面を、自律性の倫理か神聖性の倫理か、そのどちらかによって構築すべきかについての争いである。リベラル派はたいてい、自分の意に反して参加を強制されないよう、公的生活から宗教を排除したがるが、宗教的保守派は学校や裁判所を再び神聖化することを望んでいる。保守派は、子どもたちが独自の三次元の世界に生きることを望んでおり、学校がその場を提供しないのであれば、代わりに家庭学習へと向かうこともある。相次ぐ問題に対して、リベラル派は限界や障害、制限を取り除くことで自律性を最大化しようとする。一方、宗教的右派は、三つの次元上で、個人と社会と政治の関係性を構築し、制約が聖と俗の分離を維持するような純潔と汚れの地勢を作り出そうとする。宗教的な右派にとって、この世の地獄とは無限に自由なフラットランドであり、そこでは自己は自身を表現し、発展すること以上の目的を持たずに彷徨っているのである。
 著者は神聖さによって人類の経験に付加される豊かさをわかり始めているが、過去数百年の西洋における人生のフラット化を完全に嘆いているわけではない。三次元社会の残念な傾向は、あるグループを三次元軸上で引きずり下ろし、そのグループを不当に扱ったり、それよりひどい仕打ちをしたりすることがあるからである。インドにおけるアンタッチャブルの状況や、純血主義に取り憑かれたナチス・ドイツにおけるユダヤ人の苦境、南部で人種差別されたアフリカ系アメリカ人の屈辱を考えてみよう。アメリカの宗教的右派は、今や似たような方法で同性愛者を辱めようとしている。リベラル主義と自律性の論理は、そのような不正に対する素晴らしいプロテクターなのである。多様な現代の民主主義政治において、神聖さの倫理が自律性の倫理より完全に優先されるのは危険なことだと思う。しかしながら、神聖さの倫理をまったく無視してしまった社会生活は、醜く、不満足なものになるだろうとも思っている。第三次元と神聖さの知覚が人類の本質の重要な一面であるとすれば、信仰心は人類の本質の正常で健康的な一面であり、性や言語と同様に深淵で、重要で、興味深い一面である、ということを科学コミュニティも受け入れるべきである。

第10章〜幸福は「あいだ」から訪れる

 筆者は高校卒業の時点で前途に楽観を感じられなかった。人生の不条理への実存主義者の瞑想について考えていて、無神論者であり、人生の意味についての問いに取り憑かれていた。一方でその時分、筆者の人生は完璧だった。素晴らしい恋人や友人や愛すべき両親がいた。陸上部のキャプテンで、父はオープンカーを乗り回していた。しかし、それのどこが重要なのだと考え続けていた。「みな空であって風を捉えるようである」と考えていた。漠然と自殺について一週間考えたあとに、その問題をひっくり返してついにその鬱状態から抜け出すことができた。神は存在せず、人生には外から与えられる意味はないと考えた。「明日自殺することなど大したことではない。それならば明日以降の全ては、なんの縛りも期待もない授かりものである」と。
 だが人生の意味における関心は続いたので、大学では哲学を専攻したのだが、答えは見つからなかった。現代の哲学者は言葉の意味を分析することを専門とし、実存主義者はさておき、人生の意味についてほとんど何も述べていない。心理学の大学院に入ってはじめて、現代哲学がなぜ不毛に思えたのかがわかった。人類の本質に関する深い理解に欠けていたのだ。古代の哲学者はたいてい優秀な心理学者でもあったのだが、現代哲学は論理と合理性の研究に没頭してゆき、だんだんと心理学に対する関心を失い、情熱的で状況に埋め込まれた人生の本質に触れることがなくなっていった。心理学や関連する分野の科学は、人類の本質について多くのことを明らかにしてきており、今や答えを打ち出すことができることがわかった。実際、その答えの大半はこの百年のあいだにわかってきたものであり、その残りの多くの部分はここ十年間の成果である。
 「人生の意味は何か」という問いは「聖なる問い」と呼べよう。その探求は高貴であり、すべての人が答えを見つけたいと思っているのだが、それを見つけることができると期待している人はほとんどいない。哲学が著者に教えてくれたことは、質問の分析のしかた、つまり答えを出す前に厳密には何が尋ねられているかを明らかにする方法である。Xの意味は何か?と尋ねられたら、どのような種類の答えに私たちは満足するだろうか?
 最もよくある意味の種類は定義することである。人生の意味を辞書で調べても期待する答えになっていない。意味の二番目は象徴や置き換えによるものである。人生は何も象徴したり表したりしていない。意味について問う三番目の方法は、通常は何らかの人々の意図や信念について述べてもらって意味が理解できるように助けを求めることである。映画の冒頭30分、終わりの30分を見ていない場合、くりくり頭の男があの少年にウインクしたのは、どういう意味?と尋ねる。その行為は映画の筋の中で何か重要であることは気づいているが、何かの事実を知らなければならないと考える。これは「そのウインクは何を意味していたか?」という質問が本当に意味するのは、「私がそのウインクを理解するためには何を知る必要があるのか?」ということである。人生とは、オープニングシーンがとっくに終わってしまった後から見始めた映画のようなものであろう。そして、物語の筋の大半を残して、結末へと至るずっと前に席を外さなければならない。実際に見た複雑なほんの数分を理解するためには、たくさんのことを知らなければならないと感じている。何を知らないかを正確にはわからないので、うまく質問を組み立てることができない。直接的な答えを期待しているのではなく、何らかの啓示、つまりこれまで重要なことだと理解も認識もしていなかった物事を突然納得するような「アハ!」体験を与えてくれるような何かを求めている。
 聖なる問いへの答えは人類を啓発するある種の開示を含むものでなければならない。そこには特定的な二次的質問がある。1つ目の二次的質問は「人類は何のために地球上にいるのか?なぜ私たちはここにいるのか?」答えは大きく2つある。何らかの思想、欲望、意図を持つ神、精霊、知性体によって世界が作られたと信じるか、または、純粋に物質的世界の中で、あなたや世界が理由があって想像されたのではなく、物質とエネルギーが自然の法則によって相互作用することで生じたと信じるかである。多くの宗教がこれに答えを提示してきた。アメリカでは科学はダーウィン龍の進化論を唱えていたので、対立していた。2つ目の二次的質問は「私はどのようにいきるべきか?良い、幸せな、満ち足りた、意味深い人生を送るにはなにをすべきなのだろうか?」というものである。人々は、行動を導き、自分の選択に意味や価値を与えてくれる原理や目標を元mている。ターゲットや目標がなかったら、象の気の向くままに徘徊して群れの皆と同じことをするだけになる。しかし、人類には象使いがいて、より抽象的な思考を始め、群れの端を通り過ぎて、疑問を持つときがやってくるかもしれない。私たちはどこに向かっているのだろう?それはなぜだろうか?これが高校3年生になったときに筆者におこったことだ。
 青年期における実存主義において、筆者は2つの二次的質問をごちゃまぜにしていた。人生の目的という問いに対して科学的な答えを採用したことで、人生における目的を見つけることは除外されたと考えた。多くの宗教がその2つの問は分離できないものであると説いているため、犯しやすい誤りであった。もし、神が「神の」計画の一部としてあなたを創造したと信じるなら、時分の役割を適切にまっとうするためにいかに生きるべきかを見つけ出すことができるだろう。しかしながら、それら2つの説いは分割できる。1つ目の問いは人生についての外側からの問いである。人、地球、星などが存在している理由について、神学者、物理学者、生物学者によって探求される。2つ目の問いは人生についての内側からの問いである。主体として「いかにして意味や目的の感覚を見出すことができるのか?」という問いであり、神学者、哲学者、心理学者によって探求される。2つ目の問いは実に経験的、つまり科学的な手段によって研究されうる事実としての問いである。活力、献身、意味に満ちた人生を送る人がいる一方、空虚で定まらないものであると感じる人がいるのだろうか?
 コンピュータのメタファーはあまりにも広く普及しているため、人をコンピュータのように考えて、壊れた際には修理や再プログラミングのようにして直すことを考えてしまう。人は植物のようであるというメタファーがより適切だと思う。植物がしおれて枯れかけた時には、水、日光、土壌という正しい条件を整えて、待つだけである。もし人が植物のようなのであれば、繁茂するために必要な条件とは何だろう?第5章の幸福の方程式のH(幸福)=S(設定点)+C(生活条件)+V(自発的な活動)におけるCとは正確には何だろう。第6章で述べたように、Cの最大の部分は愛である。男も女も子供も誰も孤島ではない。私たちは超社会的な生物であり、友人や他者との安心できる愛着なしでは幸せにはなれない。Cにおいて次に重要なのは、フローや没頭している状態を作り出すために、適切な目標を持ち、追求することである。現代の世界においては、人々はいろいろな状況下で目標とフローを見出すことができるが、大半の人々はフローの大部分を仕事に見出す。人にとっての愛と仕事は、植物にとっての水や日光と明白に類似している。健全な人は何がうまくできなければならないか、という問いに対してフロイトは「愛し、働くこと」と答えたそうだ。もし、心理療法がこれら2つの物事をうまくdけいるように手助けできたなら、それは成功である。マズローの有名な欲求ヒエラルキーでは、いったん生理的欲求がみたされると、欲求は愛へ、そして次に尊敬へと移行する。それらの大部分は、仕事を通じて獲得するものである。フロイト以前でさえ、レフ・トルストイはこう書いた。「どのように働くかを知り、どのように愛するかをしり、愛する人のために働き、時分の仕事を愛しているなら、その人はこの世界で豊かに生きることができる。」愛については言い尽くされているので、仕事について少し書いていく。
ハリー・ハーロウは動物園で猿人類やサルたちが、ただ楽しむためだけに問題解決をすることに驚いた。行動主義では、そのような強化されていない行動は説明できなかった。1959年にハーバード大学の心理学者ロバート・ホワイトは行動主義と精神分析の研究を調査した後、両方の理論共にハーロウの指摘を見過ごしていると結論付けた。人や他の多くの哺乳類が何か物事を起こしたいという基本的な欲求を持っているという圧倒的な証拠である。自分から退職したのか、クビになったのか、それとも宝くじが当たったのかにかかわらず、働くことをやめた人がしばしば無気力となってしまうことを見ることがあるだろう。心理学者はこの基本的な欲求を、能力、勤勉、達成に対する欲求として言及してきた。ホワイトはそれを、自分の環境と交わり、制御することを通じて能力を発達させようとする欲求や動機と定義し、「効力動機」と呼んだ。効力感は食物や水と変わらないぐらい基本的な要求であるが、満足してしまうと数時間は消えてしまう飢えのような欠乏欲求ではない。効力感は私たちの生活に常に存在していると述べた。効力動機は進歩の原理を説明するのに役立つ。シェイクスピアが「喜びは、その過程にある」と言ったように、私たちは、目標の達成よりも、目標に対する進歩からより多くの喜びを得る。
 現代の仕事の状況を見てみる。カール・マルクスによる資本主義批判は、産業革命が、職人と生産物とのあいだの歴史的な関係性を壊してしまったというもっともな主張に基づいている。組み立てラインは人を巨大な機械の歯車へと貶め、機会は労働者の効力感に対する欲求など気にかけなかった。1964年に社会学者のメルヴィン・コーンとカーミ・スクーラーの調査で「職業的な自己主導性」と名付けたものが、職業の満足度の高さを知るためのキーとなっていることを見出した。複雑度が低く、ルーチン性の高い仕事に従事し、きっちりと管理されている人は最も高い度合いの疎外感を示した。変化に富んだ難しい仕事で取り組み方により多くの裁量を持つ人たちは、その仕事をより楽しむ傾向にあった。もっと最近の研究では、ほとんどの人は仕事に対して、労働、キャリア、転職の三つのうちのどれかのアプローチをしているということがわかった。仕事を労働とみなす人は、お金のためだけに働き、週末を夢見ながら頻繁に時計を眺め、おそらくは、仕事上よりも効力感に対する欲求を包括的に満たしてくれる趣味を追求するだろう。仕事をキャリアと見なす人は、進歩や昇給、名声といったより大きな目標を持っている。これらの目標の追求がしばしばエネルギーを与え、業務を適切に完了したいがために時とり家に仕事を持ち帰る。しかしたまに、なぜこんなに一生懸命に仕事をしなければならないのか疑問に思う。仕事が、競争のための競争をするラット・レースのように見えてしまうこともある。しかしながら、仕事を転職と見なす人は、その仕事自体に本質的に満足している。何か別のことを達成するために行うのではない。仕事を、大きなる善行への貢献や、明らかに価値があると思える何らかのより大きな計画への貢献だと考えている。仕事中に頻繁にフローを体験する。急にとても裕福になったとしたら、おそらく給料がもらえなくても、その仕事を続けるだろう。
 ブルーカラーの労働者が労働と感じ、管理職がキャリアと感じ、より尊敬される専門家(医者、科学者、聖職者)が転職だと感じるとおもうかもしれない。ニューヨーク大学の心理学者であるエミー・ウェズニスキーは、彼女は彼女が研究したすべての職業に、この3つの志向が見られることを発見した。組織の中で下層の労働者である清掃員の中でも職業的な自己主導性を増加させ、効力動機づけを満足させる労働を創り出していた。このような方法で働いていた清掃員は彼らの仕事を転職としてみなしており、それを労働と見なしている人たちよりも楽しんでいた。
 ポジティブ心理学における研究から明らかとなった楽観的な結論は、ほとんどの人が自分の仕事からより多くの満足を得ることができるということである。最初のステップは自分の強みを知ることである。強みのテストを受け、強みを日常的に使うことができる仕事を選択すれば、少なくとも随所でフローの瞬間を得ることができる。もし、自身の強みに合致しない職業で行き詰まっているいるなら、合致するようにその仕事を見直し、再解釈してみよう。もし、強みを用いることができたらなら、仕事にもっと満足できるようになるだろう。そして満足したら心構えがポジティブになり、より大きな計画を進めるための貢献という大きな絵を見ることがたやすくなり、その労働は転職へと変化するかもしれない。だから、仕事の最高の状態は、絆、従事、コミットメントに関係する。うまくいけば、自分の殻を破り、自分自身の外にある人や計画と結びつけてくれるのだから、愛と仕事は人類いよって重大なものである。幸福は、これらの正しい結合によってやってくる。
 植物は特定の条件下で育つ。生物学者はいまや、日光や水がどのように変換されて植物に成長をもたらすかを知っている。人も特定の条件下で育つ。心理学者はいまや、いかに愛や仕事が変換されて幸福や人生の意味の感覚になるのかを知っている。ミハイ・チクセントミハイはフローの瞬間を研究することでは満足せず、創造的な人々の人生においてフローが果たす役割を知るべく、芸術と科学の世界で成功している専門家について調べ始めた。何百人者成功している人々にインタビューをして、大半の人は同じ方向性で導かれていたことがわかった。最初に興味をもったり楽しんだりしてから、フローの瞬間を得て、人間関係や練習や価値観が長年かけて深められ、それによってさらにフローの期間を長引かせることができるようになる。チクセントミハイとジーン・ナカムラを中心とする学生は、この進化過程の最終状態を研究し、それを「フロー体験と人生の意味付けの両方の特徴を持つ世界との関係」と定義し、「バイタル・エンゲージメント」と名付けた。バイタル・エンゲージメントとは、仕事は「目に見える愛」となることの別の言い方である。自己と客体との間に結合を強く感じ、仕事は天職となっている状態である。
 バイタル・エンゲージメントは、人か環境かのどちらかに属するものではない。それは2つの間の関係の中に存在する。バイタル・エンゲージメントは筆者が高校の三年生のときに見失っていたものであった。あなたと仕事のあいだに正しい関係性を確立することは、すべてあなた次第というわけではない。規制のバイタル・エンゲージメントをもたらす職業もあれば、バイタル・エンゲージメントを得るのが困難な職業もある。1990年代のアメリカ合衆国では、市場の力によって多くの専門職が再形成を呼びなくされた。チクセントミハイはハワード・ガードナーとウィリアム・デイモンとチームを組んだ。そして良いこと(質の高い仕事)をすることが良い結果(富の達成や専門家としての向上)に結びつく時、その分野は健全である。ジャーナリストは真実や世界を変えるというのぞみや、言論の自由という理想をもっていたが、台頭した企業系メディア帝国の関心事は他者よりも売れるか否かになってしまった。恐怖を煽る話、誇張、対立のでっち上げ、性的スキャンダルのほうが、たいてい儲かるので、ジャーナリストが自分の道徳基準を犯したり背いたりすることを共用されたという感覚を持っていて、整合がとれておらず、バイタル・エンゲージメントを得ることができなかった。
 コヒーレンスという単語は大抵は体形や思想や世界観の各部分が一貫した効果的なかたちで適合していることを指して用いられる。コヒーレントな物事はうまく機能する。インコヒーレントな世界観は内なる矛盾によって妨害される。多階層でのシステムの分析が可能なときは常に、階層同士が調和して相互にうまく連動している時、コヒーレンスが起こる。性格の分析に、この階層間コヒーレンスを見ることができる。下層である性格が、対処メカニズムとうまく調和し、あなたのライフストーリーと一貫している場合、性格はうまく統合されており、日常生活をうまくこなしていくことができる。これらの階層がコヒーレンスとでないと、内部矛盾とその神経症的な葛藤に引き裂かれたりしがちだ。その調整のためには、逆境が必要なこともある。あなたがもしコヒーレントに達したなら、物事が一体となったその瞬間は、人生における最も意味深い時となるだろう。最初の30分に何をみのがしてしまったかが後でわかった映画鑑賞者のように、突然人生がより理解できるものとなる。階層間のコヒーレンスを見出すことは、悟りを開くようなものであり、人生に起こる目的という問いに答えるためには不可欠だ。
 人は別の面でも多階層なシステムと言える。私たちは、物理的なものであり、どういうわけかそこから心が出現する。そして、心から何らかの形で、社会や文化が形成される。私達自身を完全に理解するためには、物理、心理、社会文化の3つの階層すべてを研究しなければならない。この三つはこれまで長い間、学問的には分業されてきた。生物学者が物理的な肉体として脳を研究し、心理学者が心を研究し、社会学者や人類学者が、その中で心が発達し機能する、社会的に構築された環境を研究してきた。しかしその分業は、それぞれの仕事がコヒーレントである場合、つまり、それぞれの一連の仕事をまとめると最終的にはその集合体以上の何かになる場合のみ、生産的である。20世紀の大半、そうはならなかった。それぞれの分野は他分野を無視し、自身の問題に没頭した。しかし最近、専門分野をまたがった仕事が発展し、広がってきた。中間層(心理学)から架け橋に沿って、下層の物理層(たとえば、認知脳科学の分野)へ、上層の文化社会層(たとえば、文化心理学)へと広がりつつある。科学は結合して分野をまたがったコヒーレンスを生み出し、手品のように、大きく新しいアイデアを生み出し始めている。
 ここで、進行中の統合によってうまれた、最も重要な考えの一つを紹介する。人生が、その人の存在の三階層でコヒーレントである時、人生の意味が感じられるというものである。
 インドに戻ってみると、もしブラフミンとして育ったと考えてみる。毎日の生活で、俗な空間から聖を分けて見えない線を尊重しなければならず、事前に人の清潔レベルの変動に常に目を配って置かなければ、人に触れたり人から何か物を受け取ったりできない。宗教的奉納の前には必ず、短時間水浴びしたり、聖水に少し浸ったりして、一日に何度も沐浴をしなければならない。これらを20年も実践すると、ヒンズー教の儀式に対する理解は直感的なものになる。明示的理解は何百もの身体感覚に裏付けられる。あなたの新理想での理解は身体的な具体性を帯びて広がる。そして、概念的な層と直感的な層が結合した時、その儀式は正しいものと感じられる。儀式の理解は上層の文化社会層へも広がる。4千年も続く宗教的伝統の中の中にどっぷり使っている。子どものときに聞いた物語の多くはその宗教的伝統がもたらしたものであり、その数多くのストーリーは純潔や汚れの要素を備えている。純潔と汚れの地形図によって物理的空間が構造化される。ヒンズー教は魂は神聖さの垂直次元を上り下りすることによって生まれ変わるという宇宙観も与える。だから、神に捧げ物をする時はいつでも、あなたの存在の三層がすべて調和し、互いに噛み合っている。あなたの身体感覚と意識的思考は行為とコヒーレントであり、あなたの属する大きな文化の中で、すべてが完全に道理にかなったものになる。繰り返して言うが、幸福、つまり、体験に豊かさを与えてくれる有意味性の感覚は、あいだから訪れる。
 記号的意味の理解だけを通じて良い儀式を作り出すことなどできない。その記号がうめこまれている伝統が必要であり、何らかの適切な連合を伴う身体的感覚も起こらなければならない。そして、それを受け入れ、長年にわたって実践するコミュニティが必要だ。そのコミュニティが三層間でコヒーレントする数多くの儀式をおこなっていればいるほど、そこに属する人はたいてい、そのコミュニティや伝統とつながっていると感じる。もしそのコミュニティが、どのように生き、何に価値があるのか導いてくれれば、人は人生における目的の問いに悩むこともないだろう。必ずしも国民としてのアイデンティティの中に意味を見出す必要はない。実際、アメリカ、ロシア、インドのような規模の大きい多様性のある国家では、階層間コヒーレンスと人生における目的については、宗教のほうが期待できるかもしれない。
 筆者が大学で哲学を専攻し、初めて道徳性について勉強し始めた時、父親は「なぜ宗教も勉強しないんだ?神なくしてどのようにして道徳性が持てるのか?」といった。強い道徳心を持つ若い無神論者だった筆者は、父親の提案を侮辱的に思った。当時の筆者にとって道徳性とは、人間関係に関わるものだった。自己利益に反していたとしても正しいことをする、という責務に関わるものであった。そして、当時の筆者にとっては宗教とは、筋の通らないルールと、人によって書かれ、偽って超自然的な存在のものとされた、けっして起こり得ない物語の集合であった。今では、道徳性は宗教にその起源があるという父親の説は正しかった、と思っている。道徳性と宗教はどちらも、すべての人類文化に何らかの形態で生じ、ほぼ常に文化の価値やアイデンティティや日常生活と結びついている。人間の本性について、そして人類がどうやって人生における目的と意味を見出すかについて、十全に、禅僧にまたがる説明をしたいならば、その説明は、道徳性と宗教について知られていることとコヒーレントでなければならない。
 進化論の観点から見れば、道徳は問題である。もし適者生存が進化のすべてであるならば、なぜ人はこれほどまで互いに助け合う必要があるのだろうか?ダーウィンは単純に利他主義はその集団のために進化すると説明した。しかし理論進化論者がコンピュータ・シミュレーションをするとただ乗り問題が起こり、利己主義が適応し、利他主義は適応しなかった。超社会性への2つの途中段階として、血縁性利他主義と互恵的利他主義が紹介されると利他主義の問題は解決されたものとみなしてしまい、群淘汰は本質的に間違っていると宣言した。利他主義は利己主義の特殊ケースとして片付けられた。群淘汰の廃止には一つの抜け穴があった。他の超社会的な動物(ハチ、じがばち、あり、しろあり、ハダカデバネズミ)のような現実にグループとして競争し、生活し、死んでいく生物に関しては、群淘汰の説明は適切である。この抜け穴は人類にも同様に適用されるのだろうか?人類はグループとして競争し、生き、死ぬのだろうか?種族や民族集団は成長し、拡大したり消滅したりする。そして、時としてこのプロセスは集団殺戮によって起こった。その上、人類社会はしばしば桁外れに分業化されているため、ハチやアリと比較したくなる。しかし個人が再生産する機会を持っている限り、自分自身の幸福や子孫に投資することへの進化上の見返りは、グループに貢献する見返りよりもたいていいつでも上回る。だから、長期的に見れば、利己主義的な特性は利他主義的な特性を犠牲にして広まっていく。
 しかし、もう少し考えてみよう。グループ内の個人間の競争が、人類の進化において最も重要であるとしても、群淘汰(グループ間の競争)も何らかの役割を果たした可能性はある。進化生物学者のデビッド・スローン・ウィルソンは近年1960年代に始まった過度に単純化されたいくつかのコンピュータ・モデルがもっと現実的で、本物の人間に近ければ群淘汰はすぐに起こるとする。人類は遺伝と文化の2つのレベルで、同時に進化したと指摘している。1960年代の単純なモデルは、文化を持たない生物についてはうまく説明している。しかしすべての人の行動は、遺伝子だけでなく文化の影響も受け、その文化もまた進化する。文化の要素は、多様性を持ち、淘汰もするので、身体的な特性とおなじように、文化的な特性もダーウィン主義の枠組みの中で分析することができる。しかしながら、文化的な要素は、思想を持つというゆっくりとしたプロセスによって広がるのではない。人が新しい行動や技術や信念を採用した時、いつでも急速に拡大する。鋤、印刷機、視聴者参加番組といったものが、各地で急速に人気になったように、文化的な特性は種族や国家を超えて広がっていく。文化と遺伝の進化は互いに結びついている。互いに学び合い教え合い、習ったことを積み重ねていくという強い傾向という文化に対する人間の能力は、それ自体が、この数百万年の諸段階で起こった遺伝的な革新なのである。おそらく8万年前から10万年前、一旦私たちの脳が臨界期に達すると、強い淘汰圧によって、脳は文化からさらなる恩恵を受けるようになった。他者から学習することに最も優れた個人は、あまり「文化的」でない同胞よりも成功した。そして脳がより文化的になり、文化がより複雑になると、文化的な脳を持つことの有利性がさらに増す。今西のすべての人類は一連の遺伝子と一連の文化要素の共進化の産物である。たとえばカースト制度は同一カースト内でのみ結婚するように制限すると、遺伝的進化の方向性を変え、千年にわたるカースト内での同系交配の後、たとえば肌色の濃さなどいくつかの遺伝的特性においてわずかな分化が起こる。それによって、単なる職業よりもむしろ肌の色とカーストの文化的な連合関係が育まれていくことにもなる。このようにして、遺伝子と分化は共進化する。ウィルソンはこの共進化の観点から宗教を研究した。世界中の宗教は、多様性に富んでいるにも関わらず、常にお互いやグループ全体に対して、人の行動を調和し方向づける役割を果たすことを示した。ときに他のグループと競争することを目的にして、人々を結びつける。ウィルソンは宗教的習慣が、いかにメンバーが調整問題を解決するのに役にたつかを示した。たとえば、信頼と信頼に基づいた取引は、全メンバーが同じ宗教コミュニティの一員であり、神はメンバーの公正さを知り、気にかけているという宗教の信念を持つ時、強化される。たとえもし超自然的な存在への信念が認知の進化の偶然な副産物だとしても、それらの信念を社会的な強調装置に活用したグループは、ただ乗り問題に対する文化的解決を見出し、信頼と協力の多大な恩恵を受け取ることができた。より強い信念によって、より多くの個人が利益をうけるか、グループがその信念や習慣を共有しない人たちを罰して除外する方法を発展させるかしたなら、宗教と宗教的な脳が共進化するための条件は完ぺきに整っている。ウィルソンのダーウィンの大聖堂を読むことは、スペースランドを旅行するようなものである。人類文化の広大なタペストリーを見下ろして、なぜ物事が今ある姿に編まれているのかを見ることができる。彼にとっての地獄とは、宗教の善悪について、たとえば、多数の宗教は、愛や慈悲や徳について説いているのに、時として戦争や憎悪やテロを引き起こしているということについて議論している人々に埋め尽くされた部屋に永久に閉じ込められることであろうと言っている。より高い視点から見れば、そこに矛盾はない。群淘汰は、他のグループと競争するための時グループの能力を増加させるという明確な目的のために、グループ内の平和や調和や協力を促進する遺伝適応と文化適応の連動を作り出す。ウィルソンは、なぜ神秘主義はいつでもどこでも自己を超越し、自己よりも何か大きなものに融合することであるのかという2つ目の謎も解決する。ウィリアム・ジェームズが神秘主義を分析した時、「宇宙意識」の心理的状態と、主要なすべての宗教がそれを得るために発展させた技術に焦点を当てた。ヒンズー教と仏教は「主客の区別や、個人としての自己の感覚は、究極の平和や祝福や明光の一つとして叙述される状態の中に消え去ってしまう」状態を得るために、瞑想やヨガを用いる。キリスト教やイスラム教の神秘主義にも同様の目標を発見した。ウィルソンの観点では神秘体験は自己のオフボタンである。自己がオフになると、人は大きな身体の中の一つの細胞、または、大きな巣の中の一匹のハチとなる。人はしばしば、神に自分を近づけることによって、神への貢献や他者を助けることへの責任をより強く感じる。また神経科学者のアンドリュー・ニューバーグは神秘体験をしている人々の脳をを調べて、脳の頭頂葉の後部には彼が見当識連合野と呼ぶ2つの皮質区域があるが、この領域が不活性となっているようだった。動きや詠唱が繰り返されるような儀式が、特に多くの人数によって同時になされる時、「共鳴パターン」が参加者の脳内に起こりやすくなり、それによって神秘状態が起こりやすく鳴るとニューバーグは考えている。
 豊かで、幸せで、満たされていて、そして意味のある人生を送るために、何ができるのだろうか? 人生における目的という問いに対する答えは何だろう? 私たちがこうして分割されているように、多種多様に分割された私たちという生物種について理解することによってのみ、その答えは見出すことができるではないだおるか。私たちは、個人淘汰によって、資源や快楽や名声のために戦う利己的な生物へと形成された。また群淘汰によって、より大きな何かに自己を犠牲にすることを望む群生物として形成された。私たちは、愛や愛着を必要とする社会的な生物であり、仕事でバイタル・エンゲージメント状態に入ることが可能な効力感を必要とする社会的な生物である。私たちは象使いであると同時に造でもあり、精神的健康はその二者が一緒に機能して、互いに他方の強みを活用することに依存している。私は「人生の目的とは何か?」という問に対して、なるほどということ絵があるとは思わない。しかし古代の知恵と現代の科学を利用して、人生における目的というという問いに対する説得力のある答えを見出すことはできる。幸福仮説の最終バージョンは、幸福はあいだから訪れるというものである。幸福はあなたが直接的に見つけたり、獲得したり、達成したりできるものではない。正しい条件を整えたうえで、待たなければならない。性格の階層やその要素間のコヒーレンスのように、あなたの中の条件もある。他の条件はあなたを超越した物事との関係性が必要となる。ちょうど植物がせいほうするために日光、水、良い土壌を必要とするように、人には愛と仕事と自分より大きな何かとのつながりが必要だ。あなたと他者、あなたと仕事、そしてあなたとそれよりも大きな何かとのあいだに正しい関係性を築くように努力することには勝ちがある。もしこれらの正しい関係を得られれば、人生の目的と意味の感覚はおのずと湧いてくるだろう。

結論〜バランスの上に

 古代中国のシンボルである陰と陽は一見正反対の原理のあいだの、永遠に移り変わるバランスという価値を表している。これは時代を超えた見識である。対抗者と考えられがちな科学と宗教、古代宗教と現代科学、宗教と心理学、西洋と東洋、リベラル派と保守派。文化心理学の重要な見識はそれぞれの分化は人間存在のある側面について専門性を発達させるが、すべての側面に秀でた文化はないということである。同じことが政治的なスペクトラムにおける両端についても言える。筆者の研究ではリベラル派は犠牲、平等性、自律性、個人、特に少数派や不適合者の権利に関する問題について考えることに長じているという一般的な見解を裏付けている。他方で、保守派は集団に対する忠誠や、権威、伝統、神聖性の尊重について考えることに長じている。一方が他方を圧倒すればひどい結果となるだろう。だから、知恵を探すなら、決して見つけられないとおもうような場所、つまりあなたに相反する精神の中を探すべきである。古いものと新しいもの、西洋と東洋、リベラル派と保守派といったもののバランスのとれた知恵を利用することによって、満足で、幸福で、意味を感じられる人生への方向を選択することができる。私たちは、単に目的地を選択肢、直接その場所にむかって歩きだすことなどできない。象使いは、それほど多くの権限を持っていない。しかし人間性の偉大な思想や最善の科学を利用することによって、私たちは造を訓練し、自身の可能性と限界を知ることで、賢く生きることができるのだ。

あんのこと

2024 キノフィルムズ 入江悠

単館映画のサイトで気になったので、映画を見た。新聞の小さな記事を掘り起こして映画化された実話に基づいた壮絶な物語。

登場人物

 杏は母子家庭に生まれ、母の春海からの虐待を受けて育つ。小学校4年で不登校となり、12歳にして母から売春を強いられ薬物依存症となった。多々羅は人情味あふれる刑事で、薬物更生者の自助グループ「サルベージ赤羽」を主宰する。桐野は更生施設を取材する週刊誌記者で、多々羅とは数年にわたり親交がある。

物語の始まり

 21歳になった杏は東京の団地に住み、ホステスの母、足の不自由な祖母の恵美子を支えるためだけに生きている。2018年秋のある日、杏は覚せい剤使用容疑で逮捕され、刑事の多々羅保と知り合う。多々羅が生活保護や更生の世話をしたことで、杏は少しずつ心を開く。家を出てシェルターに避難して家族との縁を断ち、新しい生活を立ち上げようと奮闘する杏に2020年のコロナ騒動が起きる。

テーマ

 人によって壮絶な過去があり、壮絶な家庭がある。ただその家庭環境は子供の素養とは関係がない。ただ親との関係はそう簡単に断ち切れるものではない。

最後に

 過酷な現実を描いている映画だと聞いていて心してみた。当人にはどうしようもない家庭環境というものに翻弄されている杏をみるとやるせない。人生はなぜこうも不公平なものか。自分はこの映画を見るということだけで酷く恵まれている側にいると感じた。また人とのつながりは血が繋がっていなくても大切なものなのだ。コロナ騒動という人工ウイルスによるカネに目が眩んだ狂人たちが起こした詐欺は、人間がここまで悪になれるのかと恐ろしい。またこのような被害者を一人でも減らすために活動しなければとも思った。思っただけではダメであるのはわかっている。

 杏が健気にしがらみから解放されようとしている姿は胸を打つ。自分の努力によって現在の自分や地位が築き上げられたと思っている人にはぜひともみてほしい!

オスマン帝国500年の平和(興亡の世界史 10)

2008 講談社 林 佳世子

私の世代だと”オスマン・トルコ”には馴染みがあるが、”オスマン帝国”という響きには馴染みがない。”トルコ”と付くと見えなくなるものがあると筆者は説く。この国はトルコではなく「何人の国でもない」帝国であり、「イスラム帝国ではない」でもないと。この自称「オスマン家の国」の興亡を描いた書籍である。

「イスタンブールの陥落」を読み終わり、この帝国がコンスタンティノープルを征服し、あのローマ帝国に続くビザンツ帝国の1000年の歴史に終止符を打ったのだ。その時のスルタンであったメフメト2世は五つの言語を操るわずか21歳の青年であった。オスマン帝国がどのように生まれてどのように発展していったのか?その強さに興味が沸々と湧いてきて、本書を手に取った。

本の構成

著者は現在トルコがあるアナトリアの状況から説明を始め、一地方豪族だったオスマン家からメフメト2世の親のムラト2世までどのよう周りの部族を統一していったかを解説する。その後、スルタンによる征服の時代がはじまり、最大の領土を迎えるスレイマン1世の時代まで続く。そこで法や世論についての話を挟み、オスマン官僚による支配の時代への変遷を明らかにしていく。その後、オスマン社会の農民や商人の生態、異教徒たちの生態、女性や詩人などに触れた後に、国際情勢と国内の変遷、さまざまな帝国内の問題と近代国家への対応と限界を描いていく。

帝国の歴史に加えて、その統合の方法と文化や他宗教・女性についても触れていて、オスマン帝国のありようやシステムの変遷がよく理解できた。文化財や資料の写真も随所に折り挟まれ、地図やシステムを説明した図などがありより楽しみながら読み進めることができた。先のメフメト2世に興味があったが、欧州に脅威を与えて知名度の高いスレイマン1世に多くのページが割かれていた。

気になったポイント1 ティマール制の変遷

興味深かったのは国家を統合する仕組みとして在郷騎士たちを取り込むためのティマール制だ。日本の戦国時代に似ている気がするが、領地とそこに紐づく税収を分配して、それと引き換えに領地の管理と軍役を課せられる。しかし時代が進み火器の導入に伴い、在郷騎士の重要度が低下してくる。それと共に徴税請負制が広がり、システマチックに徴税が行われるようになり中央にお金が集まる。戦力も在郷騎士から常備軍に100年かけて徐々に移行していった。また徴税権の売買が起こり、富が偏在していく過程で官僚組織やイエニチェリの弱体化が起こっていった。

筆者はこの徴税システムの移行を、戦費で膨らんだ財政赤字を解消するための「偉業」として、好意的に官僚の見えない手柄と見ている。一方で在郷騎士の力が落ちてくるのは地方の経済力の低下を招き、そこに住む農民などにも文化的経済的な影響があったのではないか?と感じてしまう。現在の日本が抱える富の偏在と、企業という中間組織の力の低下、地方の疲弊などを見ていると他人事ではない。官僚と結びついた大商人(グローバリスト)が国家のシステムを変えていったのではないかと考えてしまう。この自然に生まれてくる富の偏在をどう抑えていくかが国家経営の肝であるように感じる。その辺りは別に勉強を進めたい。

気になったポイント2 「何人の国でもない」オスマン帝国

「イスラム帝国ではない」オスマン帝国についてはイスラム法の中にスルタン法を位置付け、政府・税制・軍・非イスラム教徒の処遇などが明文化されていたと説明されている。もう一つの「何人の国でもない」オスマン帝国だが、章が設けられるわけではなく、大宰相にどのくらい多様性があったのかなど客観的なデータなどは示されていない。一方で人材の登用などは固定的でなく、能力のある人が出世できたというのは理解できた。それが「何人の国でもない」という多様性流動性を支えていたのではないかと感じた。以下は印象的な文章だった。

トルコでは、すべての人がうまれつきもつ転職や人生の幸福の実現を、自分の努力によっている。スルタンの素で最高のポストを得ているものは、しばしば、羊飼いや牧夫の子であったりする。彼らは、その生まれを恥じることなく、むしろ自慢の種にする。祖先や偶然の出自から受け継いだものが少なければ少ないほど、彼らの感じる誇りは大きくなるのである。

p.122 パプスブルグ家のオスマン大使ビュスペックの書簡の一部

最後に

筆者の一番言いたいことはタイトルにある「500年の平和」であるはずである。「『何人の国』でもなかったオスマン帝国のあとには、『民族の時代』が訪れた」とあるが、民族運動の中で統合されていた地域は国民国家として独立し、最後に残ったトルコも国民国家となっていく。この異民族支配から独立を果たした「近代化」の200年の過程でバルカンで流された血はいかほどか。民族単位の国ができあがっているか。バルカンはアナトリアは平和なのか。筆者は民族の時代の中で否定されてきたオスマン帝国時代をバイアスなく位置付けようと本書を締めている。

国民国家の理想に侵されている人にはぜひ読んでほしい。私はトルコ建国の父と呼ばれているケマルアタチュルクを素晴らしい人と見ていたが、どうもそんな簡単なものではないと変化した。最新のオスマン帝国の研究にもぜひ触れてみたいと思う一冊だった。

アンナラスマナラ-魔法の旋律

 Netflixでイケメンのお兄さんをフィーチャーしているザ・ファンタジーのような雰囲気に惹かれて見てみた。見てみると予想外にテーマも深く、エンターテイメントしても一級品で面白かった。

登場人物・世界観

 ユン・アイは両親はおらず妹とと一緒に貧しく暮らしている女子高校生。アルバイトでお金を稼いで家計を支えているため生活は安定していない。同級生で優等生のイルドゥンはアイに興味があるが、家がお金持ちで境遇はアイはかなり異なっている。

物語の始まり

 山の上の閉鎖された遊園地で怪しい魔術師がいて”本物の魔術”をするという噂がある。魔術をする前に必ず「あなたは魔術を信じますか?」と聞くという。ある晩にその遊園地に迷い込み、その魔術師の”本物の魔術”に魅了され、そこから魔術師との交流が始まるのである。

テーマ ー それぞれの生きにくさ

 アイは経済的に困窮していて、学校の食堂でブッフェの料理をこっそり持ち帰るような状況である。それでなく生き別れた両親の問題もあり、惨めな人生を送っていると感じている。けれども自分を生きにくくしているのは経済的な状況だけではないと、ある時気づくのである。アイはそこから脱するのは簡単ではない。一方でお金持ちで優等生のイルドゥンは幸せかというとそうではない。有名な判事の父親を持つ彼は、多くのものを与えられるが「両親に望まれた目標に向かって進んでいるだけだ」とある時気づくのである。けれども、イルドゥンとてそこから抜け出すのは簡単ではない。境遇が違う二人がそれぞれの問題にどう向き合っていくかも目が離せない。

最後に

 このドラマはミュージカルである。はじめから歌と踊りで始まるが、途中にも突然アイやイルドゥンが自分の想いを歌いだしたりして楽しい。重いテーマだけど楽しく見ていられるのはこの愉快な構成のためだと思う。さらに魔術師やその周辺に不可解な事件がつきまとう。この謎も物語を引っ張っていくが、最後にすべての伏線が回収されて気持ちよく解決するのでご心配なく!

 何かうまく行かなくてもがいている人は勇気を与えられる作品。あとは現実逃避したい人にもお勧めかも。

還魂

2022 tvN パク・ジュンファ

 中二病気味の娘はアクションなどが入っているファンタジーは楽しめるのではと薦めたNetflix作品だが、見てみると複雑な人間関係の中に様々な伏線がはられた見ごたえのあるもので、自分もハマってしまった。大人も子どもも楽しめるファンタジーロマンスドラマである。

登場人物・世界観

 テホ王国という場所で、水の気を使う術士がいる世界。4つの名家、パク家、チャン家、ソ家、チン家がある。パク家はテホ国の最大組織「ソンニム(松林)」を統括しており、術士教育機関である精進閣には術士が所属している。術の中には禁術の還魂術があり人の魂を入れ替える術である。この術を使って身体を入れ替えたり、死にそうな人に健康な人の身体をあてがったりできる。
 また、それぞれの名家には若者がいて、比較的仲良く交流している。ソンニムの統帥の子どもはパク・ダング。チャン家にはおぼっちゃまのチャン・ウク。ソ家にはソンニムに留学してきているソ・ユル。チン家にはお嬢様のチン・チョヨン。この中でチャン・ウクだけが術を使えない。
 主人公はナクスという女性で、強い術を使うことができる一匹狼の殺し屋。ソンニムの術師と戦っている。

物語の始まり

 ナクスは組織の求めに応じて、高度な術を駆使して殺し屋として働いてきたが、ソンニムとの戦いでついに負傷する。追い詰められたナクスは身体を入れ替える還魂術を使って負傷した身体を捨てて、ムドクという身体に乗り移る。ムドクの身体は弱々しくでナクスであったときの自分の力を出すことはできない。そんな折、ムドクはチャン家のお坊ちゃまのチャン・ウクの下女として身の回りの世話を焼くことになる。
 チャン・ウクは術を使えるようになるために様々な師匠に弟子入りしているが、未だ術を使えない。そんな折にチャン・ウクは下女のムドクは実はナクスであることを見抜き、弟子入りすることになる。

気になったポイント

 術を使えるという不思議なファンタジー世界だが、ハリボテ感はなく奥行きのある世界として感じて没入できる。理由の一つは術やその他で使われるシーンのCGが美しく幻想であることかもしれない。また回想シーンなどで過去からつながる現在の時間の流れを描いているのとともに、主人公が暮らす地域以外の場所も描かれていて空間的な広がりも描いていて幻想的な世界を抜け目なく形作っている。

 また脚本がコメディ小話のようなものを挟んで、視聴者の気持ちを緩ませてくれている。またムドクを演じているチョン・ソミンさんの愛嬌のある演技も全体的な雰囲気を柔らかくする。走っている姿だけでも運動神経がよくなさそうで可愛げがある。シーズン2は彼女がいなくなるようだが、私も心配している視聴者の一人である。

最後に

 過去から続くそれぞれの思惑に翻弄され、主人公たちはたびたび苦境に立つ。しかしその苦境の中でチャン・ウクと師匠のムドクが手を取り合って成長し、問題を打破していく物語になっている。またなかなかうまく行かないラブロマンスでもあり、血みどろの戦いシーンもあるが全体としてはコメディタッチで描かれていて、力を抜いて鑑賞できる。還魂術によって人が入れ替わることで、物語を複雑で謎の多いものにしていて、多くの伏線を生む魅力的なストーリーの源泉となっている。シーズン1の20話が終わっても伏線をすべて回収しきれていない。

 基本的にはラブコメディでもあるので広く楽しく見られるドラマです。シーズン2も製作中ということなので、早めにシーズン1を見て準備しておくことをおすすめします!

ウイルス学者の責任 (PHP新書)

2022 PHP研究所 宮沢 孝幸

 宮沢先生はウイルス学の専門家だが、藤井聡先生といっしょにYouTube番組に出られたりしていた。初期の頃から政府の対策に疑問を呈していらっしゃったので、応援する気もあり、買ってみた。

本の構成

 本書は六章立てになっています。一章では国のコロナウイルス政策を批判していて、自身の考えと訴えた施策を説明している。二章ではワクチンの構造や仕組みなどと考え。特に子どもや妊婦に対しての影響を心配している。三章では先生が過去に実際に遭遇したDNAを書き換えるレトロウイルスにまつわる2つの事件に立ち向かった経緯と結果を紹介。猫ではありますが、ワクチンの中にレトロウイルスが入っていたというもので衝撃的です。会社側の不正義について書かれています。四章では自身が関わった今市事件についてです。唯一の物証である猫の毛のミトコンドリアの一致が鍵になっていて、その反証に携わり、国側の不正義を垣間見ます。五章では研究者として大切にしていること、六章ではネイチャーに論文が発表されたりしている自身の研究者としての歴史を語っている。

ポイント ー 世界的な国や会社の不正義

 先生が見つけた試薬の問題を放置する会社やアメリカの機関。日本でも猫のワクチンの問題について農水省は動かない。それで論文にして発表するという手段で対抗している。また今市事件については科学的にありえないことが”科学的に検証された証拠”として検察が提出して、一人の人の人生を左右している。

 統計もそうだが、一般の人が”科学的”というような言葉を聞いたら、自分では検証ができないので信じてしまう。そういうことを国が言い出したら、まずは疑わなくてはいけないのだと改めて思った。

ポイント ー 組織論

 五章では研究室の運営のことも書かれているが、恩師の姿勢などにならったりして自身の方向性も語っている。「ダメだと言われている人を大切にする組織が強い」というのは共感した。ダメな人を排除しようとすると次のダメな人を探してきて、組織として安定性がかける。ダメと言われている人を大切にして、その人にも役割を与えて、組織運営をするのが良いと。いろいろな個性が集まって仕事をするのが良いと至極まっとうなことをおっしゃられていた。

 きっと国とか大きな組織についても同じことが言える気がした。ダメと言われているような人も役割を与えられて幸せに暮らす国が良いのだと思う。国は良い研究でなくて、良い組織を作っている人にお金をもっと投入すべきだと思う。

最後に

 自分の能力を自分のためだけに使う人に対しては正直、残念に思う。長いものに巻かれている人も残念に思う。宮沢先生はそうではない。別のところで「能力のある人はそれを人のために使え」とおっしゃっているのを聞いたし、ご自身でもそれを実践なされていると思う。利他の精神を持った人が増えれば世の中が良くなると思う。そして利他の精神を持った人が多かったからこそ日本が発展したのだと思う。自分もこう有りたいと思う人に出会えてよかったと思う。

 コロナウイルスやmRNAワクチンについて知りたい人や、宮沢先生の歴史について知りたい人にはうってつけの一冊です。

 

ばにらさま

2021 文藝春秋 山本 文緒

 大ファンの山本文緒先生の長編が出た後にすぐに短編が出ておどろいで即買った。

本の構成

 派遣社員と付き合っている中嶋の話(ばにらさま)/専業主婦の話(わたしは大丈夫)/胡桃と舞子の付かず離れずの生活(菓子苑)/祖母の昔話(バヨリン心中)/避暑地の作家の話(20×20)/結婚しない女性の生き方の話(子供おばさん)の6編の短編が収録されている。

物語の始まり

 中嶋はもてない新入社員だが、同じ会社の派遣社員の竹山さんに誘われて付き合うことになる。竹山さんは白くて手足が冷たいので友達は「バニラさま」と呼んでいる。デートをしているが、何かチグハグな感じである。

最後に

 繊細な内容なので細かく触れたくない。もちろん分析的なこともおこがましくてできない。ただ全編に人生の物悲しさというか、やるせなさのような詰まっていると感じる。さらに読み返すと、派遣社員などへの問題提起や、没落していく日本への警告も詰まっているようにも感じた。山本先生からのメッセージなのかもしれない。

 短編で読みやすいし、女性についての話だけど多くの人に読んでもらいたい。なんとも言えない読後感を味わってもらいたい。やはり女性におすすめなのかな。けど、ぜひ男性諸君にも読んでもらいたい!