世界でいちばん不運で幸せな私

2005

 

幼いころ始めた二人のゲーム。そのゲームのために二人は互いの思いを伝えられない。屈折したラブストーリー?

映像はアメリのように豪華でスゴイけど、登場人物に感情移入ができずストーリーはどうもシックリこない。ラストも分かるようなわからない感じ。突然、抽象的になる。アメリもダメだったけど、これも合わず。ちょっと移民とかの問題が入っているっぽい。

オアシス

2004 ソル・ギョング

 

前科3犯の男・ジョンドゥが出所するところから物語が始まる。始終、落ち着かない様子のジョンドゥは、社会に溶け込めていないことがすぐに分かる。家族のものに戻るが決して歓迎されていない。そのジョンドゥは同じように家族に疎まれている脳性麻痺の女性・コンジュに出会う。それから二人の物語は始まるのだった。

脚本も演出もすごい!!二人の演技もスゴイ!超問題作であることは間違いない!このテーマでエンターテーメントとしてもまとまっている。こんな映画が作れる韓国の映画界の底力には脱帽。参りました。

久しぶりのゲキ嗚咽系。打ちのめされる。「純愛」とか安易でキレイな言葉で片付けて欲しくない。何度か殺意が沸いた。社会の固定観念や先入観と対峙するような作品には、ゲキ弱いことを改めて認識。悔しくて泣いて、悲しくて泣いて、うれしくて泣く。映画の半分くらい泣いてた。ぜひ見て欲しいけど、、、どうなんだろう。一人で見るのがいいかなぁ。

犬と鬼―知られざる日本の肖像

2002 講談社 アレックス カー, Alex Kerr

 

学生時代、小笠原諸島に行ったときのことである。
私は誰もいない浜に行ってみたいと地図を広げて、そこを目指した。近づいていくにしたがって予想通りに人があまりいなくなり、うれしくなってくる。しかし、浜の目前までくると、数人の土木作業員が道で作業をしている。誰もいない浜に通じる土の道は、新しいアスファルトで塗り固められようとしていた。この後、移り住みたいけど仕事が無い人が土木作業に従事しているという話を島の人に聞く。
このとき公共事業の何たるかを少しずつ理解しはじめた。

この本はアレックス氏が日本の変化を憂いて、外国向けに書いた書籍の日本版である。氏は日本で生まれ育ち日本が好きであるからこそ、日本の変化を憂いている。本の中では、以前から言われている不必要な道路やハコモノや、それを主導している勢力、教育や娯楽文化に至るまで、あらゆる面から日本を切っている。「犬と鬼」というのは「韓非子」の絵師が「描くのが難しいもの」として挙げた「犬馬は難く、鬼魅は易し」に由来する。

都知事選に立候補した黒川氏も登場する。彼がどうやって資産を築いたか。なぜ彼が出馬して、何をやりたかったのかもハッキリとわかった。X-SEED4000やそれに類するプロジェクトなどは調べてみると驚く。外れた顎が戻らない。アワアワ。

その一方で、当然、重視されるはずのことにはお金が回っていないとアレックス氏は嘆く。電柱、電線も諸外国では消えてなくなっているものらしい。また日本はそれほど狭いわけでもなく、住環境が悪いのは別の原因とのこと。

思い返すと、イタリアで知人が住んでいる団地を訪れた際、すべての窓に垂れているカーテンが同じ緑色だった。他の建物のカーテンもすべて緑色だった。また、湿度が低いという事情もあるが、洗濯物が干してある窓も一つもない。景観を重視する厳しい条例があるのだろう。ドイツ在住のいとこが住環境が良いとの話を思い出す。

自然に関しても、諸外国では自然を破壊するという理由でテトラポッドを除去したり、コンクリートで塗り固められた川を自然に戻したり、ダムが撤去されたりもしているらしい。京都議定書に関連した予算で道路も作られているという話がどこかにあった。

彼の提言の一つとしては、土木産業から観光業へのシフトだ。土木産業は日本の雇用を下支えしているもので、なくなったらどうするの?と思ってしまうが、観光業が受け皿になるというのは良い案だと思った。

いずれにしても、一度動き出したら止まらない官僚制度を誰かが止めなくてはいけないのは間違いない。最近、憲法改正に端を発した「日本の形」みたいな議論をそこここで見かけるが、それは身近で具体的な問題から目をそらすための官僚の策略じゃないの?と思ってしまう。それこそ、憲法は鬼で、年金などは犬なのかもしれない。そんな日本も幸か不幸かアメリカの衰退により変化を迫られている。通貨の統一をはじめ、中国や東南アジアとの関係をより強化していく方向に向かうだろう。それと共に大きく舵を切るのか、切れるのか。

日本を愛する者の一人として、憂慮すべき事態であるが、そんなに悲観したものではないと思ってしまうところもある。アメリカだってボロボロだし、アジアもBRICsも日本より遥かに悪いしと思ったり。しかし、実際に夕張市は破綻している。同様に危ない自治体もあると聞く。どこかで止めないと、このままでは日本はゆっくり死んでいくのだろう。

トルコのもう一つの顔

1991 中央公論社 小島 剛一

 

冒頭、「キリスト教徒でないものがナザレのイエスのことをキリスト(救世主)と呼ぶのは不謹慎だ」という文が出てきて、ハッとする。無知とは怖いものである。

どういう意図でその言葉を発したかよりも、どういう意味で受け取られるかが重要である。ことに文化や宗教についての無知は、人のアイデンティティにかかわる問題で非常に重大だ。私が自分の無知に恐怖する原因もこの辺にあるのかもしれない。

この本は、小島氏の十数年にも渡るトルコに住む民族の言語研究のフィールドワークの軌跡でもあるが、迫害された民族のアイデンティティに迫った物語でもある。全編に渡って、個々の民族への愛情に溢れている。

はじめはトルコ人の親日的な様子や旅人への深い愛情が描かれているが、それは20ページも続かない。クルド人のことになると“虫けら”“追剥”と蔑視し、温和な態度を一変させる。最近は変わってきているようだが、当時は「トルコにはトルコ人しかいない」「トルコ語しか存在しない」ことになっているというのである。トルコ内の言語はすべてトルコ語の方言で、チンギスハーンもトルコ人なら、フィンランド人もトルコ人ということらしい。

そんな中、氏は各民族の言葉を吸収し操り、多民族国家であるトルコを縦横無尽に闊歩する。それは言語の研究にとどまらない。出会った民族と近い人々との橋渡しをしたり、自分のルーツが分からない民族の祖先を、彼らが話している言葉から探りだす。ルーツを知るということは人にとって非常に重要なことであると思う。また危険を顧みず、彼らの文化を尊重する崇高な姿勢は胸を打つ。目頭が熱くなるエピソードも一つや二つではない。アレウィー教のことも初めて知った。

10年以上前の話だが、本質はあまり変わっていないのではないだろうか。ケマル・アタチュルクが好きだったけど、、、彼が親日家だったのは、もしかして、アイヌ人の虐殺などの単一民族化を推し進めた日本を参考にしたかったのかな、、、とか思ってしまう。アウアウ。

ぼくらの 1 (1)

2004 小学館 鬼頭 莫宏

 

夏休み――自然学校にやってきた15人の少年少女。
「きみたち、ゲームをしないか?」
ココペリと名乗る謎の人物と、ゲームの契約を結ぶ。
しかし、この時点ではゲームのルールを知らなかった。

地上に1体の敵が現れる。その敵と少年少女が操作するロボットが戦闘する。戦いに負けたり、勝負がつかず48時間経過すると、地球は破壊され、全人類のみならず地上の全生物が死滅する。

ロボットの操縦者として、事前に契約した者の中から1名が選ばれる。ロボットは人の生命力で動く。一戦闘する代わりに、操縦者の命を奪う。

何を守りたいか?
何のために生きるのか?
何のために死ぬのか?
何のために殺すのか?

生と死、命について真正面から描いた作品。