トルコのもう一つの顔

1991 中央公論社 小島 剛一

 

冒頭、「キリスト教徒でないものがナザレのイエスのことをキリスト(救世主)と呼ぶのは不謹慎だ」という文が出てきて、ハッとする。無知とは怖いものである。

どういう意図でその言葉を発したかよりも、どういう意味で受け取られるかが重要である。ことに文化や宗教についての無知は、人のアイデンティティにかかわる問題で非常に重大だ。私が自分の無知に恐怖する原因もこの辺にあるのかもしれない。

この本は、小島氏の十数年にも渡るトルコに住む民族の言語研究のフィールドワークの軌跡でもあるが、迫害された民族のアイデンティティに迫った物語でもある。全編に渡って、個々の民族への愛情に溢れている。

はじめはトルコ人の親日的な様子や旅人への深い愛情が描かれているが、それは20ページも続かない。クルド人のことになると“虫けら”“追剥”と蔑視し、温和な態度を一変させる。最近は変わってきているようだが、当時は「トルコにはトルコ人しかいない」「トルコ語しか存在しない」ことになっているというのである。トルコ内の言語はすべてトルコ語の方言で、チンギスハーンもトルコ人なら、フィンランド人もトルコ人ということらしい。

そんな中、氏は各民族の言葉を吸収し操り、多民族国家であるトルコを縦横無尽に闊歩する。それは言語の研究にとどまらない。出会った民族と近い人々との橋渡しをしたり、自分のルーツが分からない民族の祖先を、彼らが話している言葉から探りだす。ルーツを知るということは人にとって非常に重要なことであると思う。また危険を顧みず、彼らの文化を尊重する崇高な姿勢は胸を打つ。目頭が熱くなるエピソードも一つや二つではない。アレウィー教のことも初めて知った。

10年以上前の話だが、本質はあまり変わっていないのではないだろうか。ケマル・アタチュルクが好きだったけど、、、彼が親日家だったのは、もしかして、アイヌ人の虐殺などの単一民族化を推し進めた日本を参考にしたかったのかな、、、とか思ってしまう。アウアウ。

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