はじめに、文化の上部構造があり、下部構造には安全、食料、資源、交流の要素がある。そのベースには地形と気象がある。
1奈良盆地、安全、木材エネルギー、水資源→稲作、水運。
2桓武京都、奈良付近は800年までに伐採され尽くされた、疫病、長岡京は小椋池→氾濫、
3京都、30mの高台、淀川水域、街道が集まる、おおさか、山陰、山陽、東海道、中山道、北陸道
4平清盛が神戸、熊野古道、平安京は下水がなく不潔、方丈記で疫病、福原京、清盛は源平の戦いで死ぬが、権力と権威の分離の最初の例
5鎌倉、森と遠浅の海に守られる、頼朝は清盛に敗れ伊豆ヒル小島に流される。ひやま町、湘南ボーイ、都には人が流れ込みスラム化→疫病、鎌倉は盲腸ではない、甲府や高崎、小田原から東北にぬける場合に鎌倉をとおった。三浦半島は全体が港
6福岡、モンゴルを破った、日本人は牛馬を去勢しなかったため、発情期には牛は暴れ出してしまう。そのため車文明を進化させなかった。モンゴル軍が夜に船で寝た理由は藪蚊だとしている。日本の海岸線にはぬかるんだ泥の土地が広がっていて騎馬軍団が活躍できなかった。13世紀にはベトナムがモンゴルに攻められるが返り討ちにしている。これは海の民が味方したからで、日本でも海の民がわざわざモンゴル軍が戦いにくい土地に上陸させているからだ。
7信玄堤
8信長の比叡山
9秀吉の大阪城
10日本初の運が小名木川、日本武尊は国府台にたって西に広がる対岸、江戸一帯を制圧しようとした。源頼朝は国府台に腎を張り、北条氏石見氏が国府台を巡って合戦した、戊辰戦争では旧幕府軍は江戸奪還のために国府台で構えた。昭和には東京防衛のための陸軍砲兵隊の駐屯地になった。1590年に小名木川が建設された運河。船で兵隊を送り込むための運河を高速水路として使って関東一円の湿地帯を制圧した。佃村の漁師を江戸に連れてきて軍事船を漕がせた。
11禿山の関ヶ原、天下分け目の戦いでは退路のない関ヶ原で行われた。各陣営は丘から戦局を見つめていた。現在は木々が茂っていて見通せない。米国の歴史家コンラッド・タットマンはどの時代にどの地方から木材を持ち出していたか、という図では1550年には関西地域では木がなく禿山だった。戦国時代だけではなく明治から昭和にかけても禿山になっていた。京都の比叡山も禿山だった。
12家康、家康は1590年に江戸に入ったが、フィールドワークに徹した。2つの宝物を発見した。一つは利根川の森林であった。もう一つは関東平野を穀倉地帯に転換させる鍵となる地形だった。利根川は関宿の付近の大地で行く手をブロックされていた。家康は関ヶ原の戦い以前から利根川を銚子に向かわせる工事に着手していた。関ヶ原の戦いで中断したが征夷大将軍の称号を受けるとすぐに戻った。
13利根川東遷、下総台地は家康にとって危険な大地で、東北から南下するときにはこの台地を駆け下ってくる。この台地を南下すれば房総半島を抑えられる。日本列島において古代から房総半島は西日本と東北を結ぶ要であった。房総半島には船が接岸できる良港が多くあった。房総半島の南が上総と呼ばれ上がつくのは京都に近い東北の玄関口であったからだ。元々は防衛のために利根川東遷を開始したが、江戸時代を通じて利根川の工事は継続された。川幅が拡幅され、川底が掘り下げられた。不毛の湿地帯が乾田化され、穀倉地帯が誕生した。
14都市を支える水。広重は虎ノ門外あるい坂という絵を描いていて滝が描かれている。これは立派なダムであった。溜池という名前が残っているが貯水池で、江戸市民へ飲料水を提供した。隅田川の水は海水が混ざり飲料水にはならなかった。1590年に神田山から水を引いて飲み水を確保した。日比谷を埋め立ててここに家臣の住居を配置したことは有名だが、その裏で虎ノ門のダム工事が進められていた。飲み水の需要が増えると多摩川から導水する工事が行われ、玉川上水が完成した。溜池の水質は悪化し、不要になり、少しずつ埋め立てられた。現在は東京都は利根川から一日あたり240万m2の水を導水している。
15伊達政宗が作った仙台、311の翌日から仙台市では下水処理場が機能した。理由は仙台市の下水道システムではポンプが使用されていなかったからだ。自然の重力だけで仙台市の汚水は流下していた。伊達政宗は秀吉の大阪に街づくりを学んだ。
16家康の静岡隠居。1607年に江戸から駿府に隠居した。しかし西日本から東へ行く陸路は3本ある。北陸道、東山道(中山道)、東海道。北陸道と東山道は3−4ヶ月雪に閉ざされる。何ヶ月も卓軍が行き来できないような街道は日本列島を統一するにふさわしい街道でではない。東海道が東西を日本を統一する街道であった。その要が駿府であった。さらに防御と攻撃で一級の地形だった。背後は険しい山岳地帯。東西は峠に挟まれている。南の海は当麻な海岸を形成していた。
17堤防、日本人は堤防の中に川を収めて、八岐大蛇と戦ってきた。
18日本堤と墨田堤、隅田川は江戸湾に流れ込んでいたが、中洲の小丘にたつ浅草寺は1000年以上の歴史があった。これは安全な場所という証拠だった。この小丘から堤防を北西に伸ばし、三ノ輪から日暮里へ続く山手の高台に繋げるて、青眼の江戸市街を守る。という日本堤をつくった。1657年には10万人の命を奪った大火事で、抜本的な区画整理を行い、防火帯として広小路を各所に配置した。また隅田川の対岸に武家屋敷を移動して、下総国であった対岸は向島と呼ばれたが、橋をかけ両国橋と呼んだ。これに伴い隅田川の東側を洪水で溢れさせるわけにはいかないので、墨田堤、荒川堤、熊谷堤を建設し、日本堤で河川を囲み現在のダムにあたるシステムを作った。また吉原遊郭を日本堤の近くに移設させ、一年中江戸の男たちが日本堤をあるいて踏み固めさせた。
19明暦火災後の復興事業、ユーラシアの都市は城壁がある、日本の都市には外壁がなかった。木と紙で都市を作っていたので、1657年の振袖火事で10万人の焼死者を出す史上最悪の災害となった。関東大震災6万人、東京大空襲10万人の死者と比べてると悲惨さがわかる。主要な街路は6間(10.9m)だったが9間(16.3m)に拡張された。阪神淡路大震災では延焼と街路幅の検証が行われていたが、4mで90%、6−8mで50%、12mでは延焼がないという結果で、明暦の復興工事はこの結果をさきどりしていた。日本は地球陸面積の0.3%だが巨大地震の20%、活火山10% を受け持っている。災害大国の日本でインフラは重要である。
20日本列島の旅は歩くこと。1982年韓国のいーおりょん先生が「縮み思考の日本人」を出版した。日本人と西欧人を比較した日本人を斬り、中国人韓国人と比較したところ、日本人の縮め文化に着目した。扇子、オートバイ、ウオークマン、電卓、庭園、盆栽、茶室、幕の内弁当、おにぎり、俳句。理由は記していない。ユーラシア大陸では大陸を車で疾走していた。荷物は馬や牛やラクダに乗せて井いた。日本人だけが自分で荷物を背負い歩き続けていた。そのためいかに荷物を小さく軽くするかが重要であった。それを見つけたものは賞賛を浴びた。細工がないものは不細工とされ、詰め込まない人は詰まらない奴と軽蔑された。
21ギルガメッシュ叙事詩は森を守る妖怪を倒し、都市のために森林を伐採するというものである。広重の大はしあたけん夕立では川面を進む筏が描かれている。秩父の山々から切り出した木材が江戸まで運搬されていた。広重の東海道五十三次の33目の二川・猿が馬場では後ろの山は禿山である。26番目の日坂宿の中山峠なども禿山である。今は東海道新幹線から見る山はどこも鬱蒼と緑が広がっているが、当時の東海道筋には鬱蒼とした木々はなく、貧相な植生の禿山だったと考えられる。被疑は燃料だった。天竜川流域の木材も1700年にピークを迎え、その後激減している。後に神戸港に入港した外国人たちは六甲の禿山の凄まじい光景に息を呑んだと伝わっている。あらゆるところで森林は伐採され山の斜面は崩壊し、土石流となって消失していった。1853年ペリーの来航によって化石燃料にであう。森林を消失していた日本にとって黒船はエネルギーの救いの神となった。
番外編、日本の将棋は得意であり的のコマを取ると自軍のコマとして使用できる。その謎に木村義徳9段が挑戦し、盤上戦争ゲームの歴史を紐解いた。