遊牧民から見た世界史-増補版

 スキタイや匈奴など世界史に大きな影響を及ぼした遊牧民のことを知りたくなって手に取った。著者からの自分のバイアスがかかった歴史観を突きつけられて新鮮な読書体験だった。

本の構成

 第一章「民族も国境も超えて」ではまずアフロ・ユーラシアの地形をつぶさに見ていく。海に近い周辺部の湿潤な地方を除くと、内部は乾燥する地方があり、上から森林・森林草原・草原・半沙漠・沙漠と分けられている。東西に広大な地域が同じ気候に属し、草原から沙漠に遊牧民がいた。次に遊牧民の生活を見ていく。騎乗の技術やそれに伴う騎射の技術の発達し、騎馬遊牧民を産む。紀元前800年から18世紀の中頃までの2500年は騎馬遊牧民の時代で、遊牧国家は遊牧民だけの国家ではなく遊牧民以外をも含んだ民族を超えた国家だった。ただし国家と言っても近代の国家とは性質を異にしているもので、この国家という概念も本書のテーマである。また広くは西洋文明に規定された文明という型も文字を残してこなかった文化から相対的に見ていく。

 第二章「中央ユーラシアの構図」ではまずは広大な中央ユーラシアの大地を北側と東側と西側に分けて見ていく。北側のシベリアはアジア人が住んでいたが東に目を向けたロシアの支配が17世紀までに太平洋まで達する。東のモンゴル高原は東の興安嶺と西のアルタイと北のバイカル湖に挟まれている。南側は乾燥ステップの華北に繋がっているが、中華文明を産んだ乾燥農耕の土地である。このモンゴル高原は匈奴、東胡、鮮卑、柔然、高車、突厥、ウイグル、キタイ、モンゴル、ジュンガルなどの遊牧国家を産んだ大地であり、北側は森林と草原が入り混じっているのでここの放牧民は放牧狩猟民でもあった。西側はパミールで区切られるが、その東にある天山は南北を区切る。南は極度の乾燥地帯となり雪解けの水を頼りにするオアシスが点在する土地となるが、北側は緑が深く、肥沃なイリ川とその渓谷は遊牧民の争奪となった。この北側には中華政権が入り込めなかったが、東西のユーラシアのハイウェイは南側のオアシスを点々と進むいわゆるシルクロードではなく、天山の北側であった。1757年になって清の乾隆帝のジュンガル王国を倒して住民を皆殺しにし漢族の民を入植させ農耕地帯とした。パミールの南東にはチベットの高原があり、かつては王国がチベット仏教を権威として国をまとめ、チベット仏教は周辺に広まった。
 ユーラシアの西側はアム河とシル河に挟まれたオアシスが肥沃であり東西南北の交通と商業の十字路となって、諸勢力の焦点になった。古くはソグドと呼ばれる人々がいた。この辺りの土地はマー・ワラー・アンナフルと呼ばれるが基点としたクシャーナ朝、エフタル、十世紀からはトルコ系のガズナ朝、ゴール朝、14世紀からのトゥグルク朝、ティムール朝とそれにつづくムガル帝国について語られる。マー・ワラー・アンナフルの西に進んだイラン高原は痩せた土地だが文明が起こりモンゴル帝国時代にはイルハン国の本拠地となった。アケメネス朝には蛮族の地トゥーラーンに対して文明世界はイーラーンと呼ばれた。アケメネス朝は今知られている限り軍事・行政・徴税・交通・輸送の制度/組織を整えた世界史上初めての巨大国家であり、イーラーンはこの栄光を含んでいて、シャーはアケメネス朝由来の王の称号である。マケドニアの王はこのアジアの帝国に憧れて、はしからはしまで行進した。ギリシア文明のアジアへの影響というヘレニズムは虚像に近く、アジアのギリシアへの影響の方が大きい。アゼルバイジャン高原の北にはカフカズ山脈が南北の壁としてある。ザグロス山脈の西にはチグリス・ユーフラテスからシリアに達する。シナイ半島まで西アジアとしているが西洋からみた中東という故障が使われる。以上がユーラシアの西側の南方世界だが、シル河の北にはカザフ・ステップが続き大草原はヴォルガを超えて、ドン、ドニエプル、ドナウ河まで続く。この大草原は多くの遊牧民を育んだが、キプチャクハン国はこの地を本拠地とした。大草原はハンガリー平原まで広がり、ローマ帝国を恐怖に陥れたフン族はここを本拠地とした。巨大草原の北側には森林が帯状に広がっているが西北のすみにルースィという農民世界があった。ロシアは1552年にヴォルガ中流域のカザン、1556年に下流域のアストラハンを攻略するがキプチャクハン国の流れを汲む国家であった。カザフとカフカズを19世紀半に制圧し、マー・ワラー・アンナフルに達するのは1881年だった。そして清と同じように農民の入植をさせて遊牧民たちの土地は接収された。カザフで水爆実験をしたり、中央アジアで綿花栽培を拡大しアラル海は干上がりつつある。

 第三章「遊牧国家の原型を追って」ではまずスキタイを分析する。スキタイはヘロドトスの歴史の中でダレイオスの北進の敵として登場する。黒海沿いに北上する70万もの軍は攻撃すると逃げるスキタイを追う。スキタイは退却するごとに一帯の土地を焼き払う。次第に力を失う軍を矢で攻撃し、軍の損害が大きくなってたダレイオスはついに退却を決定する。この戦い方はナチスドイツに対するロシアの退却作戦を思わせるが、その後ダレイオスはスキタイには手を出さず、ギリシアに注力する。この後、ユーラシア西半では北にスキタイ、南にアケメネス朝ペルシアが並び立つ形成となった。従来は対ギリシアに対して東西対立が注目されるが、南北対立もあった。この後、ヘロドトスの記述を見ながらスキタイという遊牧国家について分析していく。ギリシア系スキタイが居たことから、民族ではないことが分かる。アレキサンドロスの北進については撃退したが、サマルタイにより西に追いやられ前三世紀ごろには解体したらしい。サマルタイも紀元後四世紀ごろにはフンに吸収される。スキタイの動物意匠に特徴がある青銅器文化があるがハンガリーやドイツまで影響が及ぶ。スキタイ国家とペルシア帝国という二つの国家パターンが生まれていることが注目される。ペルシア帝国の中核をなしたのは10の分族からなるアーリア系の遊牧民集団だった。両者の違いを産んだものとしては農耕文明を取り入れられた立地と、歴史にある。ペルシア帝国の前にはアッシリア、メディアという国家があり、ペルシア帝国は多核の連合国家であり王はその中を移動して統治した。また20州に分割しての分割委任方式や非人種主義、宗教への寛容、統一税制、幹線道路、駅伝制、貨幣経済と国家の中の原点がダレイオスの国家建設事業には含まれている。
 東方における遊牧国家の原型である匈奴は史記の中で詳しく書かれている。漢は劉邦から武帝までは匈奴の属国だった。匈奴は古くはオルドス地方に暮らす小集団だった。イラン系とも言われる月氏を除くといずれもトルコ系であり、西半はインドアーリア系、東半はアルタイ系の人々が点在した。東方の遊牧民は足で歩く集団で軍団としても弱かったが、紀元前四世紀後半には西方より騎馬技術が伝わり、急速に軍事化した。その頃に趙の武霊王は遊牧方式の騎射戦術を取り入れると共に騎乗に合う胡服を取り入れた。遊牧民の軍事化が中国統一を促した。中国本土にも遊牧民が暮らしていた節がある。周や秦も谷ごとに分散して居住する広い意味での遊牧民であったとする説もある。匈奴が一部族だったに過ぎない頃に秦が統一されるが11年で終わる。その後に項羽によるゆるやかな列強同盟である西楚ができるが騒乱状態に陥る。新しい時代の王は匈奴の太子であった冒頓(ぼくとつ)であったが彼の父殺しの逸話が語られる。まずは東胡を倒し、西の月子を討ち、南のオルドスを併合した。この後に漢王朝が成立ということにはなっているが、まだ広大な領国を保持した王も多く統一政権というにはまだ足りない状態だった。その一人の韓王信を山西に移封した際には韓王信は匈奴にくだって、そして晋陽を攻めた。劉邦は自ら兵を率いて迎撃したが、匈奴はいつわりの敗走をして平城に誘い込む。白登山に囲んで包囲する。包囲された劉邦は包囲して冒頓の正后に贈り物をして命を救われる。その後、漢は匈奴に公主を送ると共に毎年貢物をする。ここから匈奴国家の構造についての説明になる。漢帝国は内地と属領という二重構造になっていたが、匈奴国家は24人の万騎に率いられた24個の万人隊が左・中・右に分かれて一体を支配していた。東方部は朝鮮半島の北に達し満州を含む地域、西方部はタリム盆地・天山方面まで達する地域であった。中央部はモンゴル平原だった。匈奴の国家構造が以後2000年続く放牧民国家の源流となった。

 第四章「草原と中華をつらぬく変動の波」では漢は武帝の時代に入ると匈奴との50年戦争に入る。対匈奴作戦をつぎつぎと実行するが成果に繋がらないのでタリム盆地にあるオアシスを攻め、財源であったオアシス支配がゆらぎ匈奴の経済面の苦境が軍事面にも及び弱体化した。一方の漢も経済的に疲弊して住民は重税に苦しむ。結局は武帝が死ぬと漢側からの申し出により終戦を迎えた。その後、両国は対等な立場で和親し平和共存する時代になった。この農耕世界と遊牧世界が棲み分ける大枠ができる。一旦新によって対匈奴路線に戻るが敗れて元に戻る。前漢・後漢を通しておおむね匈奴と共存する時代だった。漢と匈奴は徐々に衰退をしていくが匈奴は東西に分裂し、東の匈奴はさらに南北に分裂し、南匈奴はオルドス地方に広がり漢から経済援助を受けながら周辺防衛を請け負った。一方で天災によって弱体化した北匈奴は一世紀の末に漢と南匈奴連合軍に攻撃されて、一部はシル河に達した。追われた北匈奴がフン族であるという説もある。
 次は晋の時代に浮上してきて南匈奴の末裔である劉淵という王子である。牧畜地帯である山西に小王国を形成していた。劉淵は冒頓の末裔で漢の劉邦の娘を冒頓に嫁がせていたために漢の血も流れていたプリンスの中のプリンスであった。漢文化の教養も武芸も備えていたがそのために危険論もあり洛陽に人質としてきていた。父の他界と共に山西に帰還した。その後、司馬一族が争う八王の乱が起こった。その混乱の中で山西匈奴集団は自立に向けて劉淵が大単干に推される。司馬一族の成都王に仕えていた劉淵はなんとか山西に戻り304年漢王の位についた。308年に皇帝を宣言するものの310年に他界する。この後いわゆる五胡十六国の時代となるがこの名称は唐時代の歴史書作成過程に作為的につけられたものという。

 第五章「世界を動かすテュルク・モンゴル族」ではテュルク・モンゴル族による東方の支配について語る。柔然の社崙は鮮卑の檀石槐いらい三世紀ぶりに草原を統一し、丘豆伐可汗(キュテレブリ・カガン)と名乗った。これがハン・カンの由来とされている。同じ頃の5世紀から6世紀半ばにかけてイラン系の言葉を使うエフタルとよばれる軍事集団が強大になった。エフタルは西北エンドに進出し仏教を圧迫されたとされるが、関係ないという説もある。そしてこの二つの集団の間に高車という匈奴以前の丁零に遡るとされるテュルク系とみられる集団による遊牧国家を起こる。この三国がならんだが、東の拓跋国家の北魏、西のササン朝ペルシアにはさまれていた。さらに6世紀半ば突厥が出現する。まずは高車を併合し、ついで北魏との戦いで弱まっていた柔然をやぶり、さらにササン朝とむすびエフタルを撃破した。またカスピ海の北側にいたアヴァールと呼ばれる放牧集団がいたがそれを駆逐した。ちなみにアヴァールはハンガリー平原に移動したが東方から来たマジャール族に飲み込まれる。そうして二十年も経たないうちに東のマンチュリアから西はビザンツ帝国まで広がる世界史上初めての巨大な政治権力が出現した。拓跋国家の北斉・北周は突厥の属国となった。その後北周は華北を統一するが亡くなり外戚の楊堅が実権を握り隋朝と改めた。楊堅は突厥を分裂に誘導し動きがとれないなかで南伐に打って出て589年ついに中華統一がなされた。しかし2代目で高句麗遠征の失敗から崩壊し、李淵・李世民が唐朝を建てる。おそらく成立当初は東突厥の属国であった。突厥内部の独立運動に乗じて東突厥を従わせた。青海地方の鮮卑系の吐谷民を屈服させ、アジア東方全体を支配した。これはテュルクモンゴル系と繋がりがある拓跋国家だから成し得たことだと筆者は言う。さらに3代目の高宗が政権を握ると西拓跋を制圧しパミールの西のイラン系の人々をも支配した。ただ唐の世界帝国も25年ほどしか続かなかった。またイスラームも勃興してきたがイラン高原の帝国の伝統の影響を受けた宗教を超えた生きていく形・文明形態であった。こうして東の唐帝国、中央に離合集散する突厥、西にイスラームという帝国が支配することとなった。
 徐々に国力に翳りが差してきていた唐と東突厥は協調していたが、東突厥はテュルク系のウイグル族を中心とする集団にたおれる。組織は変わらず支配層が変わっただけと見ることもできる。唐も中央アジアでアッバース朝に敗れたり、安禄山の乱により混乱しウイグルの援軍に助けられるが、地方政権の力が強くなり中央政権は無力化してくる。一方のウイグル族は中央アジアも制圧して東方世界の最強国として君臨する。経済の面でも唐とソクド人を使った貿易で利益を上げて遊牧国家を運営していく。しかし天災に起因する内乱を機に西北モンゴリアのキルギス連合がウイグルを倒すがキルギスは草原世界をまとめることができず政治的に混乱した。ウイングル族は中華本土の北境などに移動した。テュルク族は西に移動し、中東・西北ユーラシア・東インドでもイスラーム化したテュルク族が占めることになる。それはムガル朝やオスマン朝であり一千年に及ぶテュルク・イスラーム時代の始まりであった。旧ウイグル族の中の甘州に住んだものは牧畜と抽象を組み合わせた小王国を形成した。また西方に移動したものはカルルク族に吸収された。それぞれの国家は牧農複合型で通商国家でもあり多人種・多文化・多言語であった。支配者はテュルク語を使い、住民は漢語・ベルシア語、ソグド語、ティベット語を使った。パミール以西はイスラーム地域となっていてムスリム商人が活動していた。9世紀になるとアッバース朝の承認を受けたサーマーン朝が興り、イランが蘇りマー・ワラー・アンナフルがイスラム化してイスラム化したテュルク系の中東への進出を促した。サーマーン朝はテュルクの若者奴隷を教育して親衛隊を作ったが次第ににこのような白人奴隷が政治・軍事の実権を握った。シル側の東や北のテュルク族のセルジュール朝もアッバース朝の都のアッバースに入城した。こうして中東地域へも遊牧国家のシステムが導入された。
 東方の唐朝消滅後の華北ではテュルク系の沙陀族とモンゴル系のキタイ族が中心となり三百年の多様化の時代に入る。沙陀族は唐末の龐勛の反乱を鎮定し唐朝から李の姓を賜り、存在価値を高めた。その後に反乱軍あがりの朱全忠と軍事抗争を繰り返し華北を政治統一して唐と名乗った。その後は沙陀族内部で権力争奪が繰り広げられた。一方、長城線の北ではキタイ族が主役となった。安禄山の周辺で放牧していた集団だが強力な騎兵で知られていた。ちょうど十世紀の初めに耶律阿保機が小型の権力体を形成し頭角を表した。キタイの王が他界すると選挙交代制を廃止し、自らを君主として大キタイ国と称した。その後モンゴル高原に進出したり渤海国を滅ぼしたりした。2代目の耶律尭骨のときに沙陀が混乱すると援助して見返りに燕雲十六州を割譲させ、後晋となった沙陀はキタイの属国となった。後晋は独立しようとした時にキタイに倒されたが統治がうまくできず東に戻っていく。こうしてキタイ国家は東は日本海・マンチュリア全域、南は北京・大同一帯、西はモンゴル高原の半分ほどの広大な領域で、北宋との平和条約も結び巨額の年貢により潤った。キタイ国家は遊牧社会と農耕社会を取り込み都市と放牧の共存関係を築くだけではなく、全域に渡り城郭都市を築いたことで放牧社会のシステムとしてより持続可能な国家になっていった。十一世紀には成果が出現するが軍事大国のキタイ国家の属国であった。十二世紀の初めにトゥングース系の女真族の族長がマンチュリア東半の女真系集団を統合して大金国をつくった。この女真国家の攻勢にキタイ帝国は内紛でじゅうぶんにたいおうできずに首都が陥落すると自己崩壊する。女真国家は燕雲日北だけでなく北宋も倒した。キタイ帝国と北宋を引き継いだ金朝はキタイ国家の大半の者たちを含んだ多種族混合の複合国家となった。キタイの崩壊の際に王室の一人が逃れて中央アジアに西遼をを作る。十二世紀は東に女真族の金、中央アジアにキタイの西遼、その間に西夏、江南に南宋、西アジアにはセルジュク朝の諸国家という図式になる。

 第六章「モンゴルの戦争と平和」ではモンゴル時代を鳥瞰する。1203年はケレイト部のワンカンの地位を奪取したテムジンは1206年に即位式を行なってチンギス・カンと称し牧民戦士集団を率いて外征に乗り出す。まずは西部の大勢力であるナイマン部族を打倒吸収する。1211年から6年かけて金帝国を攻め金の力を半減させると共にキタイを接収した。キタイは金朝の軍事力の機動部隊をになっていたためキタイが寝返りが大きく影響した。その後2年の休養の後1219年から6年かけてマーワラーアンナフルを本拠地にホラムズ・シャー王国を叩いた。西征後、西夏打倒作戦に赴き興慶開城の三日前にチンギスは他界する。モンゴル・ウルスの中でモンゴル人は特別扱いされず95の千人隊で構成されていたが、キタイを接収しチンギス他界時には129になっている。テュルク系のホラムズ・シャー王国が崩壊し広い地域のテュルク系の集団がモンゴルに組み込まれる道が開け、テュルク系諸族を準モンゴルとして取り込んだ。モンゴルこうして広く仲間を増やして民族を超えた集団として拡大していった。
 モンゴルは1260年頃に変遷を遂げる。第四代モンゴル皇帝モンケの後の帝位継承戦争の中から出てきた人物がモンケの弟クビライであった。政権が確立したころには50歳となっていたクビライであったが、多人種・多言語・多文化のブレイン群を駆使して、かつてない新しいタイプの帝国建設を目指し、政治・軍事・経済・流通・生産・交通のさまざまな分野で変革を行う言わば第二創業を行った。それは軍事力を全面に出さず自由貿易・重商主義を推し進め、モンゴルを世界連邦にしていくことだった。南宋国を接収して、中国全土を縮図に収めた。海への進出も見据えて物流のターミナルとして巨大な新帝都の大都を造営した。草原の軍事力と中華の経済力にムスリムの商業力をプラスし、軍事を背景とした経済通商超大国と大きくシフトした。人類史上、商業に関わるさまざまなシステムや手形・証券、銀行・金融業・資本の運用、経営のノウハウは東地中海行きが他の諸地域を引き離していたが、8世紀なかばアッバース朝の出現によって東方にイスラームが拡大していった。商圏も拡大していったが、陸上ばかりでなくインド洋などの海にも広がっていった。南宋は貿易を取り締まったり利潤を吸い上げるだけのそしきであったが、クビライ政権は反対に政府主導で海外交易に乗り出すために、江南の海洋起業家・蒲寿庚と結託した。
 さらにムスリムやウイグルの商業経済組織であるテュルク語のオルトクは資金の共同拠出と国際経済活動に特徴づけられ事業規模も大きかった。現代で言うところの企業や国際的な企業グールプのような存在である。また各種の国家規模の大型プロジェクトを企画・立案・実行の中はムスリム経済官僚で、オルトクの出身者であり、クビライはオルトク群を政権内部に取りこみ国家管理の中においた。オルトクたちは国家が運営する交通や宿泊施設を准公務員として利用することができた。次は経済を動かす貨幣としての銀についてである。ローマやビザンツは金本位制でインド圏は金銀両用、中華圏は銅だったが古代ペルシアやそれを引き継ぐイラン文明圏は銀が流通した。四グラム、四十グラム、二キログラムと言う三段階の重量単位をつくった。また財政の観点では歳入の80%が塩引と呼ばれる塩の引換券による収入と10~15%が商税であった。政府は塩の専売で巨額の歳入を得ていたため、私塩と呼ばれた闇の塩を売る武装組織が反政府勢力となっていた。また塩の引換券が貨幣として流通していた。商税は最終的に商品を売った土地で3%程度の売上税がかけられて、国を超えた時の関税はかからなかった。大カアンに集められた銀はユーラシア大陸の帝室・諸王・族長にばら撒かれモンゴルに繋ぎ止める役割を果たしていた。そこから各中華王朝が農国型や牧畜型という観点からの分析をする。

 第七章「近現代史の枠組みを問う」では、、、19世紀後半から20世紀の西欧による戦争の世紀であり人類史史上もっとも野蛮な時代であった。それは陸と騎射の時代から海と火器の時代への転換だった。モンゴルなどが野蛮という考え方もあるが近代の西欧の方がよっぽど野蛮である。また歴史の学習では西欧優位の歴史を学び、西欧の海洋進出が東西を結びつけたというのは間違いで、少なくとも前一千年紀ころにはユーラシアの東西の連絡はあった。8、9世紀にはインド洋の東西が結ばれていた。また近年の経済万能の風潮もあり過去の軍事権力の要素を軽視する傾向がある。国家や民族も歴史上の生成物であり変質もするし、ほとんどの場合、国家が先にあった。民族も作為的であるし、少数民族も多数民族が作り出した国家という幻想の中で作為的に作り出されてたものである。ユーラシアというものも大きく括りすぎという考えもあるが地域に分けるもの現実に即していない。既存の世界史が語る構造・イメージ・概念などの枠組みを疑ってかかることが重要である。

気になったポイント

 匈奴の勢力範囲は、朝鮮半島にまで及んでいて、百済でも右賢王、左賢王という称号を使っていたというのは驚きだった。匈奴の影響を受けていて騎馬的なものもあったりして、崩壊と共に日本に亡命して吉備国や一部は関東にそして武士に、、とか妄想は尽きない。
 遊牧民を虐殺した歴史はおそろしく感じた。清が放牧民ジェンガルを根絶やしにしたという話やスターリンによるカザフ人の虐殺によって人口は半分にもなったという説など農耕民族の方が凶暴なのではないか。今の中国によるウイグルの迫害なども同じだ。
 国家の形についても興味深く読んだ。ダレイオス型の統治や遊牧民型の統治など。するとやはり日本列島での統治の形があったのではないかと夢想してしまう。ロシア語のキタイやペルシア語でヒタイといえば中国を表すという話も面白い。あのキャセイパシフィック航空のキャセイも中国の意味というのも知らなかった。それにしてもキタイとスキタイは似ている…。
 チンギスハンは戦闘をすることで一つの国に属するという意識を作った、というのは非常に納得できた。ローマなども始終対外戦争に明け暮れていたのは国をまとめるという意味もあったのかもしれない。モンゴルに対してキタイは体で勝負して、ウイグル人は多言語に通じて頭脳を提供したというのは興味深い。文化的な厚みがあったギリシア人的なポジションにも思えた。ウイグルにはどのような文化的な歴史があるかをもっと知りたい。
 シンドバットはシンドバッドがヒンドゥーバードというインド風という意味だったと言うのは知らなかった。マルコポーロもそうだと書いてあって、そういう話は聞いたことがあったがちょっと夢がなくなる。一人のひとであったほしい。

最後に

 ヨーロッパ史と中国史に挟まれて主役でなかったユーラシア歴史。そこに登場する諸民族に対する愛に溢れた濃厚な書籍だった。なんとか内容をフォローしていった程度で自分の中でもう少し深く考えるために学びを進めたいと思った。
 とにかく今までのヨーロッパからの世界史や、中国史とも違うユーラシアという視点からの歴史はさまざまな示唆があり、興味深い。極東のアジア人としてはぜひ読んでおく書籍であることは間違いないので、おすすめです!

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