シルクロードと唐帝国 (興亡の世界史 05)

講談社 2007 森安 孝夫

 中央アジアをもっと学びたいと手に取った本。序章から作者の思いが爆発する。何か上品な他人事な本よりもこういう本の方が面白い。非常におもしろかった。

本の構成

 序章「本当の自虐史観とはなにか?」では日本人の西洋コンプレックスやそれに対する歴史的な事実。歴史を学ぶ理由。人種や民族、国民について、言語族についても批判的に解説し、作者が考える”自虐史観”とは何かということと、それに対してこの本に込めた作者の熱い想いのたけを詰め込む。

 第一章「シルクロードと世界史」ではまずは地形を見ていき、歴史の中で遊牧民を位置付ける。中央ユーラシアが草原ベルト・砂漠ベルト・半草原半砂漠ベルトと三層構造となっていて、また縦に見ると天山山脈などの海抜2000~3000メートルの盆地は草原になっていて高度を上げると草木がなくなりそらに上は万年雪に覆われる。高度を下げると山肌が見えて更に下には砂漠が広がる。パインプラク高原は東西に250キロ以上、南北に百数十キロの大草原である。そしてこれらの草原や砂漠を通ったシルクロードは東西や南の文明を繋ぐ役割をになったと同時に騎馬遊牧民を生み出した。農業は世界各地で発明されたが騎馬遊牧民はユーラシアにしか現れなかった。また中央ユーラシアの西側のコーカサス地方にインド=ヨーロッパ語族の発祥の地があり、東部のモンゴリアにアルタイ語族の発祥の地があるようにこの草原地帯の歴史的な重要性を物語る。唐帝国の中心は中国本土であるが本書では華北の北方はゴビ砂漠以北をモンゴリア、ゴビ砂漠以南を内モンゴルと区別し、北中国の西方の西域または中央アジアの定義を整理する。もともとは内モンゴルの南にも広々とした草原地帯があり、匈奴を始めとする様々な牧畜民が活躍した。この草原地帯は研究者により重視され様々な名称で呼ばれているが筆者は農業と遊牧が交雑する地域として農業接壌地帯と呼ぶ。農耕都市民と遊牧民がこの地帯で北に南にせめぎ合っていたが唐朝では両者が一体化した最初の王朝であった。
 シルクロードは19世紀にドイツ人の地理学者によって作り出された言葉だが20世紀前半までは絹交易に関する文書が発見されるのがオアシス地帯に限られていたので「オアシスの道」を意味したが、我が国の東西交渉史学が発展をとげ、中央ユーラシアを貫く「草原の道」と東南アジアを経由する「海洋の道」とを含むようになっていく。本書でシルクロードは「オアシスの道」と「草原の道」合わせた「陸のシルクロード」とする。このシルクロードとは線ではなく面である。またどこを通っても良い草原地帯では道があるわけでもない。さらにシルクロードとは東西交易路だとごかいされてしまうこともあるが、南北にも伸びていて多くの支線が網目状になり大小の都市が網の結び目になっている。また絹以外にも金銀器・ガラスなど世界中の特産品が運ばれたが、多数の結び目を持つネットワークであったので中継する方式が一般的であった。また前漢の武帝時代の張騫がシルクロードの開拓者というのも誤解であり一人ですでにあったルートを遠くまで旅しただけである。大航海時代以降のグローバル世界史であり「海洋の時代」には重くてかさばる食料や原材料の大量輸送が可能になったが、アフロ=ユーラシア世界で完結していたユーラシア世界史の時代では軽くて貴重な商品、すなわち奢侈品や嗜好品の中〜長距離輸送が主流だった。これらはアラム商人・インド商人・バクトリア商人・ソグド商人・ペルシア商人・アラブ商人・シリア商人・ユダヤ商人・アルメニア商人・ウイグル商人・回回商人などによって行われていたことが知られている。これらの商人は金銭財物を喜捨して伝播した様々な宗教の活動を支えた。貿易の記録が後世に残ることはまれであるが、建築遺構や高価な顔料を使う壁画などには流通経済による繁栄が残る。先に列挙したシルクロード商人のうち紀元一千年紀を通じて最も活躍したのはソグド商人である。主要な拠点であるソグディアナの諸都市の遺跡では一般のためものからでさえ次々と壁画が発見されている。都市遺跡のペンジケントでは貴族や大聖人の邸宅などの建物では主要な部屋が豪華な壁画によって飾られていたことに驚かされる。このソグディアナは大帝国の中心となったことはなく穀倉地帯でもなく、国際貿易のみで栄えていた。ペンジケントはソグディアナの中のオアシス都市でも大きい方ではないにもかかわらず、豪華な壁画が見つかる。
 筆者は東西交易を軽視する反シルクロード史観を否定する。大航海以前にはシルクロードの東西交易は経済的にも文化的にも重要だった。最後に時代区分については世界史の8段階を提唱している。農業革命、四大文明、鉄器革命、遊牧民の登場、中央ユーラシア型国家優勢、火薬と海路、産業革命と鉄道、自動車と航空基地の8段階である。

 第二章「ソグド人の登場」ではソグド研究史から始まる。日本では明治末期から日本人による研究が進み1924年の「栗特国考」が初期の代表作である。20世紀に華々しい成果を挙げたソグド研究は21世紀には地位が危うくなる。中国の研究者の台頭である。その後フランスでも最新情報を含む書籍が発行され、英訳もされたため、日本での研究結果を欠いた本社が欧米の研究の基礎になることを憂いている。
 ソグディアナはソグド人の土地の意であり、ユーラシア大陸の真ん中に位置するソグド人の故郷である。アム河とシル河なら挟まれたマーワラーアンナフルやトランスオクシアナと呼ばれた土地の一大中心がソグディアナで、鉄器の使用が普及した紀元前6〜前5世紀ごろが灌漑網が整備されて、農業を基本とするオアシス都市国家が栄えた土地である。ソグディアナはほとんどウズベキスタンに属しているが東の一部はタジキスタン国領になっている。ここにはサマルカンドをはじめ多数の都市国家があるが豊かな土地で前6〜前5世紀に発展し、5〜6世紀に大発展期を迎える。人口増加に対してオアシス農業には限界があったので交易に従事する者が出てきたと分析する。そしてこの地は東の中国、東南のインド、西南のペルシア・地中海地域、西北のロシア・東ヨーロッパ、東北のセミレチエ〜ジュンガリア〜モンゴリアへと通じる天然の交通路たるシルクロードに続いてたので、ソグド人は国際的なシルクロード商人に発展し、広い範囲にコロニーを築いた。
 ソグド人はコーカソイドであり白皙、緑や青い目、深目、高鼻などの身体的な特徴を持つ。ソグド語は今は滅びたが中世イラン語の東方言であった。紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアのキュロス二世の制服を受けて、アラム語がアラム文字で書かれるようになりアケメネス朝滅亡後にアラム文字でソグド語が書かれるようになり、さらにアラム文字が草書化しソグド文字となった。ソグド文字は突厥・ウイグルに伝播して、ウイグル文字やモンゴル文字へ、そして満州文字になった。ソグディアナはアレクサンドロスの遠征の東の最終地点になり、セレウコス朝シリア、バクトリア王国の領域に含まれるが、その後は8世紀前半にウマイヤ朝の支配を受けるまではほぼ独立を保っていた。その後はイスラム帝国の支配を受けゾロアスター教からイスラム教、ソグド語もペルシア語に変わっていく。9世紀終わりのサーマーン朝はペルシア人王朝でありアラビア文字ペルシア語が主流となり現在のタジク語に繋がっていく。10世紀後半からは草原からトルコ人王朝が支配を強めてきてトルコ語が優勢となる。
 ソグド人が商業をしている記録は漢文史料やイスラム資料にあり、商いを良しとすることや紙を生産している記述がある。またソグド語の古代書簡は312~4年くらいの5通の手紙がみつかっているが、中国国内からサマルカンドの親族に当てたものであり、中国の政治的な動きや中国内のサマルカンド人などの言及がある。これにより匈奴がフンと呼ばれていたことが確証された。また郵便制度があったこともわかる。また敦煌の遺跡のミイラが履いていた紙の靴から偶然見つかった書簡は商業税に関するものであり、課税や取引の実態を示していて登場する象がんの多くがソグド人でありソグド人商人の存在感を表している。社会構成としては自由人と非自由人が別れていて、商人の地位が高く聖職者が重視されていない。男女とも財産を渡せば離婚できるなど女性の地位は比較的高かった。私兵として奴隷の軍人がいたことがうかがえる。
 漢文史料の中で商胡など胡と付けばイラン系商人や西域商人とみなしてよいとされてきたが、本書ではこれらの多くはソグド商人であるという説を打ち出す。特に唐代では興生胡や興胡とあれば100%、それ以外でも十中八九をソグド商人と見て良いとする。ただし後漢から魏晋南北朝時代ではそうではない。またサマルカンドなら康国というよに、漢文書の行政上の必要からソグド人は出身国によって姓を持たされていて、安・米・史・何・曹・石などであり、ソグド姓と呼ぶ。東方に発展したソグド人商人の足跡は四世紀前半には中国に及んでいることは明白だが、古くは後漢から三国魏の時代まで遡ることは疑いがない。河西地方だけでなく長安・洛陽や四川でも活躍した足跡を見る。ソグド人が残した遺跡や墓地、碑文や岩壁銘文からその集団での居住跡をたどると、同郷の仲間や家族、親族を各地に配置しネットワークを構成していた様子が見えてくる。
 ソグド人の軍事面は積極的だったという説が最近に定着しつつある。三国志にも支富が月氏を康植が康国の軍団を率いて参画した記述がある。彼らは西域商人のリーダーであるばかりでなく軍団長になりうる人物だったのかもしれない。また初唐のソグド人の墓では被葬者は大夏月氏人也と書かれたので月氏も広義のソグド人に含まれていた可能性がある。また外構ネットワークにも寄与したことがわかっており、安吐根という人物は柔然や北魏の実力者と通じ、東魏と柔然の政略結婚に尽力し、さらに北斉で高位高官まで上り詰めた。また酒泉胡は西魏の公式使節団の長として突厥を訪れた。また虞弘墓から発掘された墓誌によると父は柔然の官職で北魏に来た経歴があり、虞弘も柔然の官職でペルシアや吐谷渾国を訪れてその後北斉に派遣されたときに関係悪化から勾留され北斉・北周・隋に仕える。彼もソグド人だったと推測される。また当時ソグド語は国際語であり、突厥のモニュメントにもソグド語で記されていて公用語だっただけではなく、突厥の政治・経済・外交の顧問としてソグド人が使えていたことが判明している。ソグド人にとって重要な地域は河西地方だが重要な都市としては敦煌が挙げられるが涼州は河西最大の都市として玄奘の伝記にも挙げられている。439年には河西地方を支配していた北涼は北魏に整復されて、ソグド人も奴隷の身分になったとされるが、ソグド王は奴隷の身分からの解放に尽力したと予想している。東方に向かったソグド人は北魏〜隋では薩宝という官称のリーダーに率いされていたことがわかっており、これはソグド語のサルトパウに由来する言葉でキャラバンのリーダーという意味だがこれが転化したものだと判明している。唐の建国に多大に尽力した安興貴の祖父も涼州薩宝だったことが知られている。隋末617年に三万の兵を率いて太原を出た李淵は長安城に入り618年に唐朝を創業し武徳と改元した。そのころ涼州薩宝の家系に生また安修仁は他の漢人胡人と涼州に李軌政権を擁立した。兄の安興貴は唐に使えていたが李軌を唐朝に帰属させるために涼州に戻り説得したがうまく行かず胡人集団を率いてクーデターを起こし李軌を捕らえ、武徳二年に河西地方を唐に献上した。この安一族は最初から両者を天秤にかけて一族の安全保証を計っていたと見られる。最近この安修仁の墓碑銘が見つかり隋朝の武官として涼州在住の胡人集団を統率して、李軌政権を傀儡とできた背景にはこのソグド人軍団がいたことを指摘した。この新説は隋王朝に五胡以外のソグド人が府兵制の一部を担っていたという新事実を明らかにしている点で意義深い。安興貴の息子の安元寿は李世民のそばで秦に仕え、元武門の変の際にはソグド人兵力を動員したこともわかっているがその後官職を辞し涼州で家業の東西貿易や馬の生産を継いだと考えられる。このように馬を生産し馬とラクダを機動力にした東西貿易に従事する一方で騎馬を中心とする武装集団として発展し、さらにトルコ系や漢人軍閥へも軍事力を提供して政治にも関与していたと読み解ける。

 第三章「唐の建国と突厥の興亡」では、、まず唐までも当時の異民族の王朝として拓跋国家と呼ばれ、中国国内でも同じような認識である。また現在の中国内の少数民族の定義の中に匈奴、鮮卑、柔然、突厥などは含まれていないが、それは魏〜唐までの間にこれらの民族が漢民族に融合したからである。唐の国際性・開放性はこのような異民族との血と文化の融合によって生み出されている。突厥やソグドなどの異民族たちも漢語を話した。この唐帝国の創建を担ったのは北魏の武川鎮に由来する鮮卑系集団であることが定説である。この武川鎮は北魏が配置した辺境軍鎮六鎮の一つである。孝文帝が洛陽に遷都すると六鎮の将兵への待遇が悪化して不満が六鎮の乱となった。そして混乱によって北魏は東魏と西魏に分裂し、西魏に入った武川鎮出身の少数派は在地豪族と手を組み胡漢融合集団を形成し、それを基板にして北周の宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏が相次いで政権の座についた。隋の煬帝が三度の高句麗遠征に失敗すると、煬帝と同じ胡漢融合集団出身の李淵が617年に挙兵して長安を目指した。618年に煬帝の孫の楊侑が殺させると李淵は初代皇帝・高祖となった。そこから5年かけて各地の群雄が平定されて国内が統一させる。また霊州・夏州を擁するオルドスは重要な地でありオルドスを支配していた匈奴系の集団が李淵を支援したと考えられている。唐の最大のライバルは突厥第一帝国であったが、北斉・北周の時代はほぼ属国で貢物をしたり血縁関係を結んで何とか耐え忍んでいた。しかし隋の時代になると突厥を東西に分断させることに成功し、北の突厥が南の分裂中華を操っていた時代を逆転させ、北中国を再統一した隋が分立した突厥を操るようになる。東突厥の突利可汗は懐柔策に乗せられて漠南に移って自立し隋本土を転々とするが最終的には隋の後押しで東突厥可汗として返り咲いた。しかし突厥第一帝国の第十二代可干の始畢になると周辺の王国を臣下において勢いも増してきた。中華では反乱が相次ぎ分裂状態になったが群雄は突厥には服従し可汗の称号をもらっており、突厥が中華を上回っていた。また西突厥も隋の影響を脱して勢いを回復してきており、中央アジアを制圧してくる。またかつて突厥に嫁いだ義城公主が隋の末裔を呼び寄せて隋の亡命政権を漠南においた。漢文資料には唐を興す李淵は突厥の大可汗の臣下だったとは書かれていないが、あとから消されたと推測される。ソグドは李淵への帰属を決断し唐を軍事的にも支えたので、その反映が約束された。
 建国直後の唐は各地の群雄を制圧していったが活躍したのは次男の李世民であった。李世民はクーデターを起こし最終的には大宗という最高指導者になる。突厥分離政策で唐への投降を促し東突厥を弱体化させ隋の亡命政権も撃破する。こうして建国から10年を経た630年に国内の群雄や隋の亡命政権、東突厥を制圧し統一を果たす。唐に投降した旧東突厥人の扱いで意見が別れたが、オルドス長城地帯の農牧接壌地帯に遊牧民として集住させた。ところが639年に反乱を起こしたので、故郷の内モンゴル草原地帯に帰した。
 唐の太宗は草原遊牧地帯の族長たちから天可汗と称されていた事実を捉えて、これは農耕中国では皇帝として草原地帯では大可汗として世界帝国になったという解説も見られる。しかし古代トルコ語資料ではタブガチという拓跋から訛ったと思われる名称で認知されていたので、北魏以来の拓跋国家の天子はトルコ=モンゴル系遊牧世界から見れば唐の太宗は北方の拓跋国家の血を正当に引いているので、天可汗と呼ばれることは自然なことだった。筆者は太宗とその皇后の墓である昭陵に団長として調査にあたった。山陵の中腹にある外国人の石像が遊牧国家やオアシス国家のリーダーであることを解説し、遊牧世界からの認識を裏付ける。646年太宗は薛延陀を打倒し鉄勒諸部を内属させた。そして緩やかな支配地域である羈縻(きび)府羈縻州をおいて支配し、馬や食料を備えた郵駅をおいて使者の往来の便を確保した。一方で西方に目を向けると東トルキスタンにはオアシス国家と、ハミ地方にはソグド人やゼンゼンの植民都市が形成されておりインド=ヨーロッパ系言語の住民が占めていた。それらの諸国はすべてトルコ族の間接支配をうけていた。唐が東突厥を滅ぼすと西域情勢は唐に傾き、ソグド人国家も唐に来降した。648年に安西四鎮を設置してトルコ勢力排除を完了した。天山以北に西突厥がいたが617年頃に即位した統葉護可汗の時に大発展した。玄奘に安全保障を与えたのはこの人物である。西突厥は一旦は唐に属したが太宗の死去の651年にトルコ系所属が統合して唐に反旗を翻し、唐支配が瓦解した。しかし唐は討伐軍を派遣し6年かけて西突厥を敗北させた。この戦勝に功績のあった西突厥王族を可汗として冊立し、太宗時代以上に西域支配を安定させた。7世紀後半以降は北上してきたチベット帝国の勢力も加わり、唐とチベット、トルコ所属が三すくみになって争っていく。筆者は唐の太宗までが遊牧国家に似た武力国家であり唐が世界帝国であった時期とする。

 第四章「唐代文化の西域趣味」では胡姫を中心とした文化について説明する。唐代は胡風・胡俗が大流行した時代であり、それゆえに国際的であったとされる。胡服・胡帽だけでなく、胡食・胡楽・胡粧さえも歓迎された。ここで言われる「胡」は前漢までは匈奴を指し、五胡十六国時代では匈奴・鮮卑・ 羯 ・ 氐 ・ 羌の遊牧民を指し、後漢時代からはソグド人を始めとする西域人を含むようになり、隋唐時代にはオアシス都市の人々を指すのが優勢になる。場合によっては突厥・ウイグルを指すこともある。次に胡を含む言葉を取り上げる。胡桃や胡瓜、胡麻に加えて、胡椒、胡食、胡服について分析する。胡姫と呼ばれるダンサーに金持ちが通う様を唄った詩を取り上げる。胡姫は従来ではペルシア系の女性と思われていたが、ソグド人の墓から胡姫をモチーフにした石製葬具が発掘されており、ソグド人であると変わってきている。この胡姫が踊ったとされる小さな円の絨毯の上で回りながら踊る胡旋舞や跳躍する胡騰舞の様子や詩を紹介し、これらの胡姫たちのパトロンであった貴族や玄宗が作った梨園などの国家的な機関の説明が続く。

 第五章「奴隷売買文章を読む」では、、筆者がウルムチの博物館で女奴隷売買契約文章を見つけたところから始まり、様々な困難を乗り越え1989年の出版に至り、その後様々なところで参照される文章となった。内容は売主はサマルカンドのソグド人、買主は漢人の仏教僧侶、トルキスタン生まれの女奴隷をいくらで買うというものである。それより100年以上前の漢語で書かれた契約書もあるが、それらもソグド人が売主である。ソグド語の文章の中には「彼女を好きなように打ったり、酷使したり、縛ったり、売り飛ばしたり、人質としたり、贈り物として与えるなり、何でもしたいようにしてよい」という文があるが、同じ時期のバクトリア語の契約書の中にも似たような文章があることが発見された。
 ここから奴隷の説明が始まるが、基本的には奴隷は主人の所有物であったが以前は精密機械であり、生産奴隷、家内奴隷、軍事奴隷に分類される。国によるが男性の場合には主人の部下や代理人として重要な地位を占めるものもいたり、女性は貴族や富豪の家内奴隷の場合には主人の性交渉もさせられる悲惨さはあるが一般の女性よりも裕福な暮らしをしたものもいた。後漢時代でも賄賂として馬や奴隷が使われていたことや、胡姫などは私奴隷であったと筆者は推測する。唐代の人民の身分は戸籍を持つ良民と持たない賎民に別れていた。さらに賎民は上層と下層があり、下層は官と私に別れていた。官賎民は犯罪者や戦争の捕虜などであり、私賎民は奴婢であった。良民の売買は禁止されていたが実際にはあり、賎民を良民として放つことは善行とされていたり自身で蓄財して良民となることもあり、唐代の良賎の身分は固定的なものではなかった。
 また奴隷市場の存在を示すトゥルファン出土の漢文文書や敦煌文章でも人身売買が行われた例がある。良馬は現代の高級車に匹敵するが、そのくらいの値段で現在の精巧なロボットとも言える奴隷が売買された。それらは口馬行と呼ばれる店舗で売買され、口とは奴隷のことであった。唐前半の安定期では普通の普通の馬<普通の奴隷<名馬<高級奴隷のような値づけだったという研究がある。馬を持つことができるのは王侯・貴族・官僚・富豪などに限られていて、突厥馬などの外来馬は今で言えば高級外車とも言える。一般庶民はロバを使っており国内馬にも手が届かなかった。
 唐代の胡姫・胡児の売買は遠距離間で行われたので近代アメリカの奴隷貿易のケースに似ている。ソグド人が唐帝国内を奴婢を連れて旅行していたことは兼ねてから指摘されていて、これらは商品であった可能性がでてきている。また大量のソグド姓を持つ奴婢が一つの家で同居生活したような資料もあり、奴婢の寄宿舎のようなものであったと考えられている。シルクロードでは絹馬交易だけでなく絹奴交易も行われていたと説を紹介している。

 第6章「突厥の復興」では、、、、630年に滅ぼされた東突厥は679年に旧東突厥の王族を擁立し復興のために反乱を起こした。周辺の突厥集団も呼応し一時は唐を圧倒するが唐は30万の勢力を投入し翌年に鎮圧された。また同じ年にソグド系突厥集団は六胡州に置かれる。旧東突厥は翌年また反乱を起こし鎮圧されるも682年の反乱は成功しイルテリシュをリーダーに東突厥第二帝国を復興させる。一方でソグド集団は721~722年に反乱を起こすが失敗し独立できなかった。突厥第二帝国は漠南の山陰山脈地方に本拠地を置いたが、漠北にも勢力を拡大し、漠北に勢力を移した。この突厥復興に大きく寄与した第二のリーダーであるトニュククは突厥として初めて碑文を残す。碑文によるとイルテリシュとトニュククが蜂起した勢力はわずか700人で2/3が騎馬、残りは徒歩だった。こうして唐の羈縻支配体制は崩壊するが突厥にとっては630年以降の50年間のタブガチという異民族による支配は屈辱の時代として記憶される。次のカプガン可汗が即位して中国の武州革命の時期で則天武后に対して中国侵略と和睦を繰り返した。696年には中国に残っていた突厥降戸の変換と単干都府の割譲と、その地での農耕のための種子と農具を要求し、則天武后は憤激したものの6州と農具を与えた。またカプガン可汗は中国に婚姻を求めたのに対し、則天武后は自分の一族を派遣して彼にアプガン可汗の娘を娶らせようとしたが、アプガン可汗は唐の王族の李氏ではないと激怒し、華北各地に入寇させて大量の漢人男女を略奪した。これは内モンゴルの可耕地に従事させるためだと思われている。706年以降では突厥は北方・西方経営に忙殺され、南方の漠南に隙が出て唐の張仁愿が黄河大屈曲部に受降城をもうけると形勢が逆転した。一方の突厥は西方にいる旧西突厥系や他のトルコ系の部族や唐支配下の東部天山北麓への遠征など兵を出し、国家は拡大していた。アプガン可汗の次に即位したビルゲ可汗は南の唐とは宥和政策をとり東西に勢力をふりむけ、唐とトルコ族が南北を分け合い、草原の道の支配権はトルコ族に戻る。この頃のソグド人資料はあまりない。そこで唐の玄宗期に大反乱を起こした安禄山の生い立ちに関する資料にあたると、716年にカプガン可汗がなくなると多数の突厥人・ソグド人・ソグド系突厥人が党に亡命してきたことがわかり、その中に安禄山やその養父がいたことがわかる。また安一族の中で唐に使える胡将軍がいたことが注目される。701年には突厥軍がオルドスに進軍し六胡州を経略したことからソグド人・ソグド系突厥人が唐から突厥に移動したとみられる。
 ここで25歳で夭折した突厥可汗の王女の墓碑銘を紹介する。カプガン可汗の死後、その娘は唐に亡命した。唐はビルゲ可汗を包囲攻撃しようとするが失敗して敗退する。そしてビルゲ可汗は唐に公主降嫁を求めてきたが唐側は選定に苦慮し、後宮にいるカプガン可汗の娘を唐の公主にしたてた。しかし嫁入り準備をしていたが何の前触れもなく死去してしまう。筆者は王女が自分の父を殺した一家の宿敵に嫁ぐことを憂いで自殺したのではと想像する。

 第7章「ウイグルの登場と安史の乱」では、、、ビルゲ可汗の没後、突厥第二帝国は急速に衰える。742年にはバスミル・カルルク・ウイグルの三者連合がユーラシアの東半分の覇者であった。744年にはバスミルを撃破し、745年にはウイグルが漠北を100年間を支配する。シネウス碑文によればセレンゲ河畔にソグド人と漢人を駆使してバイバリク城を築いたとある。古代ウイグルが果たした歴史的役割は安史の乱の鎮圧し唐を延命させたこととマニ教の国教化だ。家畜の解体を常とする放牧民族が殺生を戒めるマニ教に改宗したかは謎である。またソグド人商人はウイグルと結びついて絹馬交易を行なっていたが、状況を考えるとソグド人とマニ教が結びついていた影がみられる。牟羽可汗は強い抵抗を押し切って改宗を進めたが、ソグドネットワークの利用という経済的・政治的な理由があったように思われ、779年にクーデターによって殺される。第七代懐信可汗のときにマニ教を名実ともに国境にしマニ教徒ソグド人を優遇した。
 安史の乱の安禄山は10代で突厥から亡命し、山西地方の安貞節の元に腰を落ち着け、六種類の弦を操り、国際商業市場の仲介者になり、軍事にも通じて武人としても成長していった。張守珪に抜擢され契丹・奚討伐で活躍したことで彼の養子となり武人として出世して玄宗や楊貴妃の恩寵を受ける。755年安禄山は玄宗の側近にある奸臣楊国忠を除くことを目的として兵を挙げる。親衛隊8000騎を中心として10万から15万の大軍を率いて河北地方を南に降り洛陽を陥れた。756年玄宗は蜀(四川)に、皇太子は郭子儀の本拠地であった霊武へ向かい粛宗として即位する。粛宗はウイグルに支援を求めるためにモンゴリアに敦煌群王承寀やトルコ系・ソグド系の武人を派遣する。オルホン河畔にある首都オルドバリ区で会見が実現すると第二可汗である磨延啜 は喜んで承寀に自分の妹を娶らせる。安史勢力は突厥・同羅・僕骨車5000騎を率い、長安より北方へ進軍し、唐の支配下で河曲にいた九姓府・六胡州らの勢力数万と合流し、粛宗のいる霊武を襲わんとした。郭子儀は、可汗の磨延啜自身が率いてきたウイグル本軍を陰山から黄河流域への出口に当たる呼延谷出迎え、これと合流して安史勢力を退け、河曲を平定した。757年に安禄山は実子の安慶緒や部下によって暗殺された。安禄山の盟友である史思明は独立分離し范陽(北京)に帰還した。粛宗は鳳翔まで南進しさらに派遣された葉護に率いられたウイグル軍を加え15万に膨れ上がり、広平王を総帥とし鳳翔を出発した。唐の郭子儀軍やウイグル軍によって都市を奪還しついに洛陽まで奪回した。粛宗は葉護を労い司空の位を与え、金銀器皿を下賜し、毎年絹二万匹を支給することを約束した。758年ウイングルの使者一行が長安に来て、公主降嫁を要求した。粛宗は幼少であった実の王女を寧國公主に封じて降嫁させた。759年史思明は安慶緒を殺し大燕皇帝として即位する。同年ウイグルの磨延啜可汗が急逝すると、長男葉護は罪で殺されていたので、末子の移地健が第三可汗として即位する。史思明は洛陽に入城し、再び東西対立する政権が誕生した。しかし史思明は長男の史朝義に変わって妾腹の子・史朝清を溺愛し貢献者にしようとしたため長男の史朝義の部下が史思明を捉えて幽閉し、761年には史朝義が即位した。762年に玄宗が死去した10日後に粛宗が崩御し代宗が即位する。ウイグルの牟羽可汗は唐の君主の崩御に乗じて10万の兵を率いて南進する。同じ頃、代宗は史朝義を打倒するためにウイグル軍を要請する使者・劉清潭を派遣していた。劉清潭はゴビ砂漠に入る前に牟羽可汗と遭遇し、思いとどまるように説得するもうまくいかず、妻の実夫である僕固懐恩が説得し再び当側に着く。ウイグル軍と僕固懐恩の軍が共に戦い、ついに洛陽を奪還する。763年に追い詰められた史朝義は自殺し、安史の乱が落ち着く。牟羽可汗はそのままモンゴリアに戻る。これらの経緯はオルホン河畔に残されたカラバルガスン碑文に断片的に残されている。この碑文はウイグル語・ソグド語・漢文で書かれており、シルクロード東部でのソグド語の重要性を示している。この碑文では牟羽可汗の方が磨延啜より大きく取り上げているが、それはマニ教との関わりが深かったからだと分析する。
 安史の乱は唐帝国に大きな影響を及ぼし、安史の乱の前は自力で軍事力を調達する武力国家であったが、安史の乱の後では経済力で平和を維持する国家になったという研究もある。筆者は安史の乱を10世紀の中央ユーラシア型国家優勢時代の先駆けとなった現象と捉え、安史の乱の時代にはまだ安定的な征服王朝が構築される要素である文字などが整備されていなかったことを安史王朝が維持できなかった理由として挙げている。

 第八章「ソグド=ネットワークの変質」では、、唐の初期までのソグド人と、太宗高宗時代のソグド人では中国での扱いが変わってきているという研究がある。かつては中国内に大人数で住もうとも外国人であったが、唐がソグディアナを羈縻支配し外国人ではなく興胡という地位を与えた。これにより道途でさまざまな公的なサービスを受けることができた。牟羽可汗とソグド人の分析が続く。
 次に、五人のホル人の報告を書き写したという敦煌出土のペリオ=チベット語文章1283番の更新版の全訳とその分析が続く。中に出てくる安禄山に見出された張忠志は762年に支配下にあった五州をもって唐に帰順した。唐の後半は張忠志のような節度使に半独立国家に割拠されるようになる。このホル人の報告はシルクロード東部から唐本土を除いた全地域になり、ホル王国・ホル人の情報網の広がりが分かる。そして筆者はこのホル人とはソグド人であるとしている。
 シルクロードではソグド人が高額貨幣として金銀に加えて絹織物が使われていたことが漢文文書から明らかになっている。780年になると納税には銅銭が使われていたものの、遠距離を運ぶ必要がある場合には軽貨と呼ばれていた絹織物が使われていた。絹馬交易の研究では突厥・ウイグルにとって絹織物が重要なものであったとされている。この絹織物をさらに中央アジア・西アジア・東ローマに送っていたと考えられる。しかし筆者は唐に売られた馬に比べて対価として流入した絹が多すぎると感じていたが、輸出の中に大量の奴隷があったとしたら納得できるという。またソグドの胡旋舞を学んでサロンで気に入られた武延秀の逸話にもあるように、突厥宮廷の文化もいけていたと言える。またウイグルのソグド商人は絹馬交易を担いウイグルマネーで唐本土の金融資本を支配した。

 終章「唐帝国のたそがれ」では、、、筆者は中央アジアの大勢を決した関ヶ原の戦いは八世紀末のウイグルとチベットで行われた北庭争奪戦と考える。八世紀を通じて中央ユーラシアの真ん中にある中央アジアの覇権を争ってきたのは、東の唐帝国、南のチベット帝国、西のイスラム帝国、そして北のトルコ帝国(途中からはウイグル帝国)の四者である。西のイスラム帝国にはパミール声の余力がなく、東の唐は安史の乱で西域支配の手を緩めざるを得ない。残ったのは北のウイグルと南のチベットである。ウイグルは安史の乱以降に唐とは友好的だったのに対して、チベットは敵対的だった。チベットは一時的には北庭を襲撃しウイグルをモンゴリアまで退却せさるが、最終的にはウイグルが勝利し、唐が退場した中央アジア東部を南北に分け合う。
 821年ごろに唐とチベットが講和条約を結んだことはよく知られている。安史の乱後に唐とウイグルは密接な関係にあったので、ウイグルとチベットが講和を結んでいれば三国が会盟を結んでいれば大きな出来事なので筆者はその証拠を探していた。ペリオ文章の断片とサンクトペテルブルグにある敦煌文書の断片がぴたりと接合し、三国会盟の証拠になり、チベットの国境線まで判明した。ゴビ砂漠が三国の国境となっている。また関連してゴビ=アルタイ東南部のセブレイにカラバルガスン碑文があり、ウイグル語・ソグド語・漢語で書かれているが、筆者はこれを三国会盟をウイグルで記念したものと解釈している。漢王朝でも明朝でもゴビ砂漠は国境であり、国境でなかったのはモンゴル帝国・元朝・清朝だけである。
 ウイグルは830年代の終わりに自然災害と内訌につづき、キルギスの侵攻を許して崩壊する。西に向かったウイグル人たちは東部天山山脈に落ち着き、840年代にチベット帝国が内部瓦解し河西回廊から撤退すると、ウイグル族は南進し甘州ウイグル王国を建てる。ここから中央アジアのトルキスタン化が始まったとする。一方でソグド人はソグディアナがアッバース朝の支配下になりイスラム化してくるとソグド人の宗教的文化的な独自性が失われていった。西部天山の北麗には11世紀までソグド人集団が確認されているが、彼らはトルコ語を話しトルコ服をきていた。シルクロード東部のソグド人は西ウイグル王国、甘州ウイグル王国などの中で商業経済を支えるものや武人として生き残っていった。ソグド文字はそのままウイグル文字となり、ウイグル文字がモンゴル文字となって、モンゴル文字が改良され満州文字となっている。

 「あとがき」では、筆者は文明の発展の中で中央ユーラシアの騎馬遊牧民の重要性を確認し、西洋中心主義も中華主義思想も不要とする。また「世界史」に値するのは14世紀初頭の「集史」でありイスラム圏で生まれている。日本は明治維新以降に西洋中心史観をそのまま需要した。一方で明治体制への復古を願う刻主義者などは極端に日本民族と日本文化の純粋性を美化する方向にはしっているという。『民族も文化も元も全ては長い人類史の中で互いに混じり合いながら生成発展してきたものであって、純粋という名の排他的思想に学問的根拠は微塵もないと認識すること、これこそが人類の未来を切り開く道である」と筆者は信じているという。また世界史の教科書が肥大化しすぎているので西洋史を大幅に削減して、近隣の挑戦・北アジア・東南アジアの歴史と遊牧騎馬民族の動向についても記述をふやしてはどうかと提言する。

気になった点

 途中にゴビ砂漠がなくなっていた時期があったとあったが、そこのところを詳しく知りたいと思った。ゴビ砂漠が国境になっていたというのであれば、そのような地形の変化は国家の関係に影響すると感じた。
 言葉には興味があるので胡服についてや、洋服の起源・発展などは興味深かった。麺が小麦というのは知っていたが、餅については知らなかった。しかし、なぜ日本ではあれが餅(モチ)なのか。店舗の並びを”行”とよび、それが銀行の行になっているというのも知らなかった。
 ソグド人については奴隷貿易があったのは衝撃的だった。ソグド人がそれで儲けていたというのであれば納得できる。
 遊牧騎馬民族などの軍事国家は国を維持するために他国への進攻を続けなければならず、兵を休められず生産性が低いというのは興味深かった。国の結束が弱ければ弱いほど他国への侵攻を続けなければならないのは理解できる。

最後に

 序章から作者の思いが爆発したような書籍で楽しかった。何か上品な他人事な典型的な本よりも新しい視点を積極的に提案しているので刺激が多かった。冗長な部分もあるのでちょっと長く感じたりするかもしれませんが、中央アジアの歴史や脱西洋中心主義に興味がある人にもおすすめです!

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