モンゴル帝国と長いその後 (興亡の世界史 09)

興亡の世界史がやっと最後の一冊。杉山氏の本はこないだ一つ読んだが、こちらを読めばさらに中央アジア視点からの歴史への理解が深まると手に取った。

本の構成

 序章「なんのために歴史はあるのか」ではまずモンゴル帝国から繋がっている現在を振り返る。モンゴル帝国が完全に消滅したのは1920年であった。ブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国がソヴィエト連邦に統合された。また1920年ごろの第一次大戦の前後ではユーラシアの帝国が相次いで消滅した。1920年の少し前にロマノフ王朝のロシア帝国が戦局の激化により国内産業力が過重な負担を支えきれず崩れ去った。またイスラム世界の盟主のオスマン帝国が解体しムスリムたちに影響を及ぼした。東に目を移すと第一次大戦の少し前には辛亥の年の革命によって大清帝国が崩壊した。また第一次大戦の結果としてヨーロッパではドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国が消滅した。これら20世紀のはじめに一斉に消え去った諸帝国は実はいずれもモンゴル帝国とその時代になんらかの起源・由来をもっていて、モンゴル以後の帝国史は決算されたと解説する。
 モンゴル帝国とその時代はそれ以前のユーラシアの歴史や営みの多くを総括するものであり、人類は陸海を通じた本格的な大交流によって大きく別の段階へ踏み出す。しかし欧米中心に語られてきた世界史像では15世紀末以後の西欧の海洋進出からでしかまとまった像としての世界史は語られない。それは歴史だけではなく学問・知識の体系がヨーロッパことに西欧の枠組みであり、それに依拠しているのが理由である。しかしモンゴルが世界と時代の中心にいた13・14世紀が世界市場の重要な画期とみなす考え方が、内外で広まりつつある。大航海時代の二世紀前に人類史上の重大なステップとしのモンゴル時代があると日本が首唱したのが始まりである。
 モンゴルの発展はに段階に分かれている。一段階目は創始者チンギス・カンによるユーラシアの多くをまとめて大モンゴル国を作る過程である。二段階目はクビライ移行の大元ウルスが陸海を通じたシステムを推し進めた過程である。モンゴル帝国では第二代皇帝のオゴデイのときからカアンと名乗り、帝国を構成する他のウルスにおいてはその当主はカンとのみ称した。中華地域においては北宋や南宋などと比較にならない大地平が出現した。中東ではモンゴルによるアッバース朝の消滅と、モンゴルのフレグ・ウルスが統括する広義のイランをはじめ、現在のアゼルバイジャン、アフガニスタン、トゥルクメニスタン方面、及びそれ以東の地は、ペルシア語文化を主体とする東方イスラーム圏となり、モンゴルと対峙したマルムーク朝がおさえるエジプト以西がアラビア語文化の西方イスラーム圏となる形勢がさだまった。いずれも現在に直接つながる現象である。モンゴル以前には安定して統合されることがなかった西北ユーラシア、すなわち現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、ウズベキスタンなどの大地域においては、ジョチ・ウルスという名のモンゴル権力のもとに秩序づけられ、モンゴル帝国全体がつくりだすユーラシア規模の交通システム・流通経済に組み込まれたこのモンゴル時代のボーダレスな東西世界では陸海の交通ルートは公権力で維持・補償されており、人と物が空前のしつりょうでゆきかい、文化・宗教・思想・知識・情報・学術・科学・技術・芸術などが大展開した。
 モンゴル帝国とその時代の研究は、東西の多言語原典文献と、多様な遺跡・遺物という大きく異種の根本データに基づく。文献資料もペルシア語・漢語の二大資料群を中心に、二十数カ国語にわたり、一通り閲覧・把握することさえ困難である。未発見・未処理の場合の方が多い。近年かつてとは違う水準と広がりで研究が急展開している。それが可能となったのは、政治・国境・資料の壁がとりはずされたここ二十年あまりのことである。中国の解放政策、ソ連の崩壊、東欧の民主化などアフロ・ユーラシアの国々にみられた引き締めの緩和や、グローバル化が調査・研究に与えるプラス面である。モンゴル帝国については、昔から中華文明人やムスリム知識人たちは悪口がふつうだった。それは、みずからを「文明」とし、他者を「野蛮」とする定型パターンに加え、自分達はモンゴルの被害者であったといいたい気分がそうさせがちであった。事実においては、中華文化はモンゴル時代においてもっとも輝いた。モンゴルへの負のイメージを創作し、煽り立てたのは、近代のヨーロッパであった。かつてヨーロッパを恐怖に陥れたモンゴルこそは遅れた征服されるべきアジアの代名詞として、歴史と時代を超える格好の標的となった。モンゴル帝国を筆頭とする過去の歴史への負のイメージは欧米による価値づけを前提とする史家に引き継がれ、アジア人史家でさえもそれは顕著である。
 歴史とは何か?歴史研究とは何のためにあるのか?かつてであれば一生涯かけても手に入れることのできなかった情報・知識が、しばしば一瞬のうちに眼前にそろうこともありうる。思想家・歴史家たることはそれをもって職業とする人たちだけの在り方ではなくなり、万人に開かれた領域と化した。紛争・対立を乗り越える地平と思考が求められる。対立を作るのは、宗教という組織であり団体だ。私たちは、どういう道のりをたどって今こうしてあるのか。人類に共有される歴史像・世界史像を是非とも作りたい。

 第一章「滔々たるユーラシア国家の伝統」では、アジアはアッシリア語の「日いずるところ」のアスを起源としており、ヨーロッパは同じくアッシリア語の「日没するところ」のエレブを起源とした女神の名前を起源としている。牛に変身したゼウスが女神エウローパーを略奪してその背に乗せて海を西へ渡ったという神話が元になっている。アッシリアは現在の国名で言えばイラクだが前八世紀半ごろから軍事国家として強大化し、最盛期には現在の中東中央域のほぼ全域を征服・支配した。しばしば、人類史上で最初の帝国であったという言い方がされる。その軍事システム、他民族支配、官僚機構は周辺諸地域や後世に影響を与えている。この言葉はギリシアに伝わったがギリシア人の感覚ではボスポラスとダーダルネスの二つの海峡を境として北側をヨーロッパ、南側の東方がアジア、南側の西方がリピュアと呼ばれた。ヨーロッパは寒冷で荒涼として無骨なイメージで、アジアは温暖で猥雑として豊穣のイメージであった。これが逆転するのは近代になってからである。アジア人としてアジアを感じる人はなく実態がない概念なのに対して、ヨーロッパは実態を作ろうとしている。日本にも中国史研究を元にしたアジア史を唱えた研究者宮崎市定もいた。
 アジア・ヨーロッパの概念とは別にユーラシアという言葉も帝国列強の時代に湧き上がってきた。ドイツをはじめとする列強たちが地続きに争っているのがユーラシアという地政学上の戦略であった。一方で西に向いてヨーロッパ、東に向いてアジアというロシアにとってはユーラシアは基本スタンスであった。アジア史やユーラシア史として歴史と捉えるのは比較的新しくここ100年くらいのことである。西洋史や日本史などはその中で完結していたが、冷戦構造の崩壊でユーラシアの感覚が必要になり中国史研究家は中央アジアや東南アジアにも盛んに赴き、西洋史家もアジア各地に赴くようになった。ひるがえってアジアやユーラシアを一括して考えなくてはならないのがモンゴル帝国とその時代である。
 ユーラシアは地形が大きなユニットとして存在しており、沿岸部を除くと乾燥が優越している。そしてこの乾燥空間が東西にわたって帯状に伸びており、東は中華人民共和国の北域から西はハンガリー平原まで草原もしくはなだらかな山野で伸びている。この陸上の帯が遊牧民たちの天地であり、農耕などのとどまるものに対して、遊牧・交易などのつなぐものとして面として広がりをもって活躍した。遊牧の典型的な形としては夏は家族単位で広い平原や山麓に散開して牧養し、冬は数家族から数十家族で寒気や雪害をしのげる渓谷もしくは山の南側で集団越冬する。こうした日常生活の中で騎馬の技術や集団としての組織性・機動性などの特質をやしなっていく。特に集団越冬の際は氏族や部族といった帰属を形成する。組織も機動性があり、連合しやすく大きな勢力が出現するが、連合は壊れやすい。遊牧民は放浪・さすらいではなく厳しいほどシステマチックでダイナミックなものであり、独特の価値観・行動様式を人類にもたらした。遊牧は農耕で定住できない乾燥した大地を有効活用し生活できるようにした。遊牧騎馬戦士は生まれながらに軍人であり騎射と高速に展開したが、それが複数の部族集団を束ねて大型の軍事連合体を作ると近代以前の世界にあっては大きな戦闘力となった。軍事を柱に政治・統治・通商・交通を握り、定住農耕民も包含した多民族・多文化・他地域の国家を形成した。遊牧と遊牧民が人類史のうえで果たした役割は長い間、正当に評価されてこなかった。近年は国境の壁が低くなり相互の情報の質量や理解は格段に向上し、流布されてきた野蛮・未開という負のイメージは修正されつつある。
 ユーラシア史を広く見ると遊牧民は多くの国家を生み出した。古くは前六世紀ギリシア語でスキタイとよばれる遊牧複合連合体が出現する。ハカーマニッシュ帝国のダーラヤワウ大王はスキタイに進軍したが惨敗した。ちなみにハカーマニッシュ帝国や先行するメディア王国もその中核部は遊牧民の影が色濃い。これ以後のパルティアとサーサーンの両帝国も中核は遊牧民の軍事連合体であった。またアラブという語もかなりの可能性で遊牧民を意味する。現在確認できる最初の遊牧国家のスキタイはその領域は歴史研究家を悩ませている。スキタイにつぐ遊牧国家は前200年前後の匈奴でありスキタイから影響を受けていたとされる。匈奴については完全同時代の司馬遷の史記に克明な叙述がある。匈奴国家は民族国家ではなく、遊牧部族連合体をもとにさまざまな遊牧系の諸集団をとりこみ強力な軍事権力体であり、さらにオアシス民・農耕民などの定住地域も広く包み込んだ大型の複合国家であった。東はおそらく韓半島におよび西は天山地方に達した。それ以降はユーラシアの東西で遊牧国家や遊牧政権が多く興亡する。また遊牧国家は遊牧世界だけで勃興したわけでなく、中華帝国の典型のような隋や唐においても、その由来からは鮮卑拓跋の血と体質をうけついでいた。インドにおいてもダーラヤワウ大王の碑刻にあらわれるサカ族はスキタイの東方展開したものたちがインドへ到達する。クシャーンの南下と北西インドの支配がある。大きな流れとしてはテュルク族を主とするイスラーム軍事権力のインド支配である。ガズナ朝、ゴール朝、また1206年以降、デリーを首都とする五つの遊牧民系の政権が連続する。最後に故土を追われたティムール帝国最後の君主バーブルが、インドへ入って第二次ティムール朝たるムガル帝国を開く。西北ユーラシアでもイラン系のサルマタイは東からやってきたフンに押し出されてヨーロッパに向かった。大移動のあと、アヴァール、ブルガール、マジャールがあいつぎ、さらに突厥・西突厥の力が及んだ。さて13世紀のモンゴルによるユーラシア大統合ののちは、モンゴル世界帝国で統合・整備された国家システムが、ユーラシアに共通する見えないスタンダードとなる。それは、すでに述べたロシア帝国、オスマン帝国、サファヴィー帝国、ティムール帝国、ムガル帝国、明帝国、ダイチン・グルン帝国に直接・間接に引き継がれる。いずれも多種族複合国家というほかはないものであった。

 第二章「モンゴルは世界と世界史をどう見たか」では人類史上最初の世界史である「集史」の説明から始まる。1300年フレグ・ウルス(イル・ハン国)の第七代ガザンが命じて国家編集されたモンゴル帝国の正史である。モンゴル諸部族に保持されていた伝承・旧辞・系譜など口承で語り継がれていたものも含めて各文明圏から承知された多言語の学者・知識人を駆使して編纂された。ガザン他界の際は未完成だったが、あとを継いだ弟はモンゴルと関わった国々の世界各地の諸種族史を追加を命じ、1310年ごろに総合史として完成した。筆者はその中で「テュルク・モンゴル諸部族志」が今まで軽視されてきたとし、それを読み解いていく。まずテュルクというエジプトから南中国まで広い範囲に分布している人々の中にモンゴルが位置するとし、ノアから続くオズクを始祖とする。オズク族は実態があり漢文史料では鉄勒に属した袁紇が所見といわれる。オズクカガンは左右両翼に合わせて24の軍事集団をおいたことが書かれており、これは匈奴などにある二十四長を思わせ影響しているとみる。そしてこの左右両翼の体制はモンゴル帝国の創始者チンギス・カンが最初につくった国家の形である。おずくによる開国神話はウイグル、カルルク、カンクリ、キプチャクなどや他の諸勢力の歴史の記録であり、オズク族を中核とするセルジュク朝が西アジアで世界にしばらく覇を唱えた。集史の始まりはテュルク系のオズク族の伝説の世界征服をモンゴル系のチンギスが現実に再現してモンゴルの時代になったという建付けである。
 筆者はモンゴル時代に東西に出現した2つの世界地図と解読を元に研究をすすめている。混一図とカタルーニャ地図である。混一図のモンゴルは1313~18年ごろのもの、カタルーニャ地図も同時期の1313~14年のデータであり、同時期の情報という結果になった。混一図は民間に流布した中華本位の地図であるが海に囲まれたアフリカが描かれているなど西欧が世界を発見する前に東では世界が正しく認識されていたことを示している。ただヨーロッパはカタルーニャ地図以降に後退していきコロンブスまでの120年あまり停滞する。一方の当方も混一図以降は組織化された海への展望をうしなっていく。陸上交通もモンゴル解体で失われソ連解体後に蘇ったと言ってもよく、東西の海上交通も16世紀以降のポルトガルによる東方進出でやっと蘇る。作者曰く西洋人がいう大航海時代というのは人種差別を生み出した罪深いものである。さらにイギリス帝国論者が好む大航海時代以降の”海進”には陸上への視覚と知見が大きく欠落しており、ロシア帝国の形成とによる長期に渡る”陸進”は世界市場の大現象である。海の論理だけで語られる世界史は珍妙である。

 第三章「大モンゴルとジャハーン・グシャー」では、、12世紀末ごろテムジンというものが頭角をあらわす。時代は戦国乱世、下剋上はめずらしくはなかった。テムジンは制覇の途上にあった主筋のケレイト部長を倒して、高原東部の派遣を得た。そして高原西部のアルタイ山方面の覇権を握るナイマン連合体の首長を打倒して高原を手中にした。ここで注意したいのは両者とも連合王国であった。1206年に高原の政治統合を実現したテムジンはチンギスカンと名のり、テュルク・モンゴル系の遊牧民連合体を自分の出身した部族集団の名前をとって大モンゴル国と名づけた。ここに様々な由来を持つ牧民たちは大モンゴルたる一つのウルスに属する一員として認識した。2006 年はモンゴル国家の出現から 800年の年であった。ドイツはその前年より盛大な展示会と国家シンポジウムが政府の特別な資金援助で行われ、モンゴル帝国絡みの様々な異物・文献・文書・美術品が勢ぞろいし、日本からも蒙古襲来を記した国書が出品された。モンゴルでは大モンゴル建国800周年として国中を挙げて慶祝し、賑わった。かたや、ゴビの南、内モンゴル自治区でも、それなりのセレモニーは行われた。モンゴルにかかわる人々は、新疆省・東北三・甘粛省・四川省・雲南省などにも広がっている。中華人民共和国という枠組みと現状にあっては、チンギスは中華のなかの民族英雄というスタンスははずれない。ロシア連邦内にもプリヤート共和国はもとより、トゥーヴァ、ハカシヤ、アルタイ、タタールスタン、パシュコルトスタン、カルムイキヤといった各共和国があり、直接・間接にモンゴルにかかわっていた。ソ連時代はチンギス生誕800年を祝う動きがあったが叩き潰された。
 チンギスカンというのはどのような人物だったのか。台湾の故宮博物院には中国歴代帝后像という画集があるが、そのなかにチンギスカンの肖像画が含まれる。チンギスカンの肖像はほぼこれ一枚しかないが、クビライの肖像と似ているので筆者は想像画とする。また風姿を伝える記録も少なく、東西に2つの記事が目につく程度である。一つは南宋の見聞記の伝聞であり、大柄でひたいは広く長々とひげが垂れている勇壮な人物であるとする。もう一つはゴール朝に仕えていた人が65歳でなみはずれて長身で体は頑健、猫のような目を持つとある。またケレイトのオン・カンを倒してのし上がるまでの彼の前半生もはっきりとしない。モンゴル秘史で語られていることもどれほど事実であったか定かではない。大モンゴル・ウルスは周辺国から脅威の目で見つめられ各国はの防衛ラインは最高度の警戒態勢にはいった。そしてその指導者チンギス・カンは注目の的であり記録され始める。チンギス・カンは東西への征戦を重ねて1227年に西夏攻略のさなか他界した。生年について各説あるものの軍旅の中で過ごす1206年から1227年までの21年間がチンギス・カンについて確度をもって知りうる範囲である。
 次にモンゴル軍の強さについて分析していく。基本的には馬と弓矢の軍団にすぎず破壊力などはたかがしれちえる。未曾有の強大な暴力集団であるようにいうのは間違っている。東西の記録で共通しているのは、淳朴にして勇敢、命令・規律によく従ったということである。これは中央アジア・イスラーム地域・ロシア・ヨーロッパにおいても武将感の不和・嫉妬はごくありふれていたことで、内輪もめは状態化しており、洗浄での離脱・脱走・様子長め・裏切りもしきりに起こっていた。この理由としては中華地域における兵士への蔑視・差別・不信だけでなく、将兵ともども金で雇われた傭兵であったことが挙げられる。モンゴルの強みは共同体としても組織力・結束力にあったと言える。ついで周到な計画性がある。自軍に対しては徹底した準備と意思統一、敵方については徹底した調査・調略工作をし、たいていは二年ほどかけた。戦う前に敵が崩れるか、自然のうちになびいてくれるように仕向け、モンゴル遠征軍はただ更新すればよかった。敵方への下工作や根回しが不十分なまま、敵軍とむかいあったときにしばしば敗れた。ホラズム・シャー王国へは国境の要塞都市はすべてモンゴル軍の的確な攻撃に陥落し、そのあとは勝手にホラズム・シャー王国が内部崩壊した。イスラーム世界で最強と目された王国が消え去った。ところがアム河をこえて、現在のアフガニスタンの領域に踏み込むと、さっぱりうまくいかなくなった。東部イランのいわゆるホラーサーンでは古くから栄える都市ごとに抵抗にあった。アム川以南については事前の調査も下工作もできていなかったのである。老人チンギスは1222年にはアフガニスタン作戦に見切りをつけ、全軍に旋回を命じた。しかも、きわめてゆっくりと時間をかけて慎重に退いていき、人も年も領域も失うことなく確実に握り続けた。チンギスは冷静沈着・平静な組織者で、戦略ガンの確かな老練の指導者であり、猪突猛進のアレクサンドロスのような戦場の勇者ではなかった。モンゴルは高原統一のころからどちらかというと戦わない軍隊で、指導者同士の論戦や談合、誰かの調停などで一方が他方に雪崩をうって合流しており、人命を損なうのは回避された。世に言う大量虐殺や恐怖の無敵軍団のイメージはモンゴル自身が演出した戦略だった。またモンゴル帝国の内部事情を詳しく語る同時代のペルシア語の歴史書には、敵方の人間・集団・部族・都市・国を吸収したり引き入れるときはイルになると表現された。これは仲間となるということであった。従来はイメージでこの言葉を征服するや降伏させると略したが、テュルク語のイルはモンゴル語のウルスと同義語である。モンゴル帝国にあからさまな人種差別はほとんどなかった。能力、知恵、技術、人脈などひとにまさるなにかがあれば用いられた開かれた帝国であった。
 モンゴルという集団は唐代の漢文文献にも現れているが、モンゴル部が浮上してくるのは12世紀からである。それが全体の名乗りとなったので、この時点でのモンゴルはチンギスのもとに結成された政治組織体、いわば国家のことである。クビライによって作られた大元ウルスが中華本土を失い、政権の中核を構成していた相当数の人々が北の高原へと本拠地を移した。その中には漢族もルーシやキプチャク高原からやってきたもの、カフカース北麓を故郷とするものなど多種多彩な顔ぶれであった。これらの人々と以前から高原に住んでいた人々が主体となって別の時代が始まる。そしてそこに住む人たちはモンゴル民族と呼んでもさしつかえない実態を備えるようになっていった。モンゴルの中で第一の集団はモンゴル部の人、第二集団は1206年に国家草創のときにモンゴル・ウルスに参加した部族たち、第三集団は1211年に金國侵攻作戦がはじまると退去してモンゴルになびいた金国統治下と西の第二次キタイ帝国にぞくしていた東西の遊牧キタイ族である。1227年にチンギスが他界した際には前モンゴルのハザーラ=千人隊は129個あったという。モンゴル秘史の95個からの増加分のかなりのものがキタイ族と見てよい。この129個はモンゴル期間部隊で開祖チンギス譜代の名門の家柄とされ中核をなした。そのほかにもユーラシア各地のテュルク系の人たちが取り込まれr、東方の華北の軍閥や、西方のムスリムやルーシや東欧のキリスト教勢力についても有力者がイルになるとモンゴルとして認定された。こうして文明圏を超えた人間結合の広がりをつくった。イランの文人行政官は第四大モンゴル大カアンとして正式に即したモンケに拝謁し、体制を整え東西の大遠征を企画しつつあったのを見てペルシア語で「世界を開くものの歴史」という同時代の歴史書を著した。

 第四章「モンゴルとロシア」、、、1229年にチンギスカンの跡を継いだ第二代オゴデイは1232年に大金国に出兵し主力を壊滅させた。またライバルの末弟も不可解な死をとげ内外の二つの邪魔者を消し去り、東方=左翼を叔父、西方=右翼を兄とトロイカ体制を確立した。大カアンからの命令をモンゴル語と現地語で文章化して伝える駅伝システムの交通網も整備されていった。1235年に郊外に広がる野営地でモンゴル帝室と諸侯によるクリルタイが幾度もひらかれ、大金国消滅後の華北地方の後処理と東西への大遠征について討議された。東は南宋遠征、西はジョチ家の次子バトゥによるロシアからヨーロッパを恐怖の底に陥れた長距離の陸上侵攻作戦である。ただバトゥの西征の第一の目標はキプチャク草原と呼ばれる広大なステップの制圧であった。ジョチはステップ以西への進出は運命づけられていた。1219年に始まるホラズム・シャー王国打倒においてはチャガタイとオゴデイが国境の要所オラトルにとりつき、ジョチはシル河にそって、その下流域へとむかった。ジョチはいったん南下してホラズムでの掃討作戦に協力したのちに軍を転じてアラル海の北方に出た。そこはテュルク系の遊牧民であるカンクリ族の本拠地であり、彼らはホラズム・シャー王国の軍事力の主体をなしていた。このアラル海の北方草原におけるジョチの軍事活動がどのようになされたかのデータはなく、モンゴル本軍とは別行動をとり、チンギスに先立って他界したジョチについて、父チンギスとの不和など従来あれこれと想像されてきた。しかし筆者はそういうことはなかったと考える。ジョゼとスベエテイのホラズム・シャーの国王ムハンマドの追撃はよく知られている。チンギスは国王の遁走を知ると二人の駿将に追撃を命じた。ムハンマドはカスピ海のアーバスクーン島に逃れたが、両将はおsれをしらず西北イランのアゼルバイジャンにむかい、キプチャク族出身のウズベクをこうふくさせ、一度引き返して北上してシルヴァーン地方のシャマーハをへてカスピ海西岸の要衝デルベンドを攻略し、カフカース北麓へと出た。そこでキプチャク兵を買収しアス族、チェルケス族を撃破した。1222年キプチャク族は退去して西ないし西北へと緊急避難した。ルーシの故郷キエフに入ったキプチャク分族のコチャン・カンはキプチャク・ルーシ連合軍を組織し、1223年5月31日アゾフ海の北岸カルカ河畔でモンゴル軍と開戦し、大敗を喫した。キプチャク兵団は同じ遊牧系の戦士たちであったが、十分に組織化されておらず裏切り・戦線離脱などは普通だったので、よく組織化されたモンゴル軍に勝てなかったと分析する。モンゴル軍はこの後敵を追って西進するもヴォルガ・ブルガールの地で抗戦されたために東還の道をとり、イルティシュ流域で帰途にあったチンギス本軍に合流した。風のようにやってきて去っていった恐怖の軍団の噂はルーシを超えて西方に伝わった。タルタル=タルタロスたる地獄からやってきた民という話が被せられタタールの名前となったとされる。キリスト教会の宗教者たちは恐怖をあおり民たちをしもべとした。1235年のクリルタイで決定した西征軍にはバトゥ率いるジョチ家の王子たちの他、チャガタイ、オゴテイ、トルイの諸王家から、それぞれ長子ないしはそれに準じる王族が参加することになった。のちにトルイ家の長男モンケも加わっていた。帝国内で最大の所属牧民をかかえるモンケは最重要人物であり、大カアンのオゴデイは即位後ただちにモンケを自分のことして処遇することを表明した。バトゥにとってモンケは政権中枢からやや排除された形のリーダーとして盟友に近い存在であった。くわえて二人の母はケレイト王家の皇女で姉妹の関係にあった。つまりバトゥとモンケ、クビライ、フレグ、アルク・ブケヨン兄弟とは父方に置いて従兄弟どうしだっただけでなく、母方においてもそうであった。さらにこのふたりは能力・見識・器量の面でも屈指の人物であり、多言語に通じ、将才にあふれ、人望もあった。
 バトゥ自身が率いる本軍は、ヴォルガ・ブルガールとバシュキールに向かった。ヴォルガ流域の中流域をおさえるブルガール族の住地は、現在のタタールスタン共和国の一帯であり、テュルク系の遊牧民バシュキールの地はおなじく現バシュコルトスタン共和国に相当し、13世紀から現在に至るまで基本的には変わっていない。いっぽうで事実上モンケを主将とするもういちぐんはややその西と南、マリやモルドヴァの民、そしてキプチャク族の一部とアス族を制圧すべく進んだ。これらも現在のマリ・エル共和国、チェヴァシュ共和国、モルドヴァ共和国、そしてキプチャク草原の北辺にあたる地域である。1237年にはモンゴル両軍の作戦行動は終了した。いくつもの分族にわかれていたキプチャク大集団のうち有力な首長バチュマンを倒し、統合されていなかったキプチャク諸族はてんでに自走する。そうしてルーシ東側一体を握ったモンゴル軍は再び合流した。
 西征の第二段階としてのモンゴル軍のルーシ侵攻は北東ルーシ地域から始まった。リヤザン地方に入り1237年12月にリャザンを攻略し、コロームナに向かい、ウラジーミル長子が率いる軍を撃破した。1238年1月にモスクワを降した。モンゴルは破壊と虐殺の限りを尽くしたとよく言われるが、人がどのくらいいたのか。そして翌二月、ウラジーミルを眼前にしたが土塁に囲まれ粗末な木柵がつくられた情けないもので、文化としてはごくごくささきな地域だったと分析する。周囲7キロメートルというから中華地域ではくらでもこのくらいの都市はあった。モンゴル軍はウラジーミル到着後わずか五日でとくに苦労もせずにルーシ最強最大の都市をあっさりと攻略した。このあとモンゴル軍は諸隊に分かれ各隊はやすやすと諸都市をおとした。ウラジーミルを捨てて逃走した大公ユーリーは1238年に囚われて大公の軍は壊滅した。モンゴル軍はキプチャク大草原に入っていった。ロシア人史家はこの間モンゴル軍は休養につとめていたのだという見方が目につくが、実際にはカフカース方面からクリミアに至る広大な平原地域で、遊牧民の各勢力を相手に大掛かりな軍事活動を展開していた。キプチャク系の諸集団はもとより、黒海にほど近いチェルケス族やクリム族を次々と制圧し、カフカース北麓へとすすんでアス族の本拠をつき、その拠点都市たるマンガスを陥し、南北交通の要衝であるデルベント一帯をも掌握した。これによってキプチャク草原はほとんどモンゴルのものとなり、西征の目的を果たした。筆者はルーシへの侵攻はついでだっと分析する。ロシアの歴史家はモンゴルの被害によってロシアの発展を遅らせた原因と論ずるが、データは乏しい。一方でモンゴルの被害は権力者にとってみずからを正当化してくれるものだった。1239年にモンゴルの軍営ではオゴデイの長子グユクとチャガタイ家の風は主将バトゥと不和となり、その報をうけた大カアンのオゴデイは激怒して、両人の召喚を命じ、トルイ家のモンケに護送を求めた。1240年からの軍事行動はジョチ家主体のものになり、カルパティア山脈をこえてハンガリーに向い、1241年当時のヨーロッパで屈指の強国とうたわれたベーラ四世ひきいるハンガリー軍をシャヨー河畔で撃破した。1242年3月には皇帝オゴテイ崩御と西征軍の帰還命令がとどき、ゆっくりと旋回したが、モンゴル本土にはかえらず、ヴォルガ下流、カスピ海にほど近いところに帳幕の本営を構えて、東はアルタイさんから西はドナウ河口にいたる巨大な領域をジョチ一門で分有するかたちを作り上げた。
 少し振り返り1241年にバトゥ主力から分かれてホーランドに入った一隊がレグニーツァ東南の平原でポーランド・ドイツ騎士団連合軍を撃破したとされる。ヴァールシュタットの戦いと呼ばれ、西洋史家はこれを世界市場で名高い大事件だと公言するが、まことに疑わしいと筆者は問いかける。ロシア史上の英雄と数えられているアレクサンドル・ネフスキーについてもノヴゴロド公としてネヴァ河畔でスウェーデン軍に打ち勝ったことに因む。ただしそのときにバトゥ軍が東西ルーシを席巻していた。また1242年に凍結したチューど湖上においてドイツ騎士団を撃退して英雄扱いされる。東方からのモンゴルの力が圧倒的で抗しがたいことを察知してみずからを犠牲としてモンゴルに服従し、無用の流血と荒廃を回避したとされる。一方でロシア帝国時代に作られたモンゴルに野蛮なモンゴルに生き血を吸われ、しゃぶり尽くされたタタルのくびきの話がある。この二つの事象は二律背反であると指摘する。アレクサンドル・ネフスキーを有名たらしめた二つの先頭は実はあったかなかったかわからぬ程度のもので、おじや弟を追い落とし、モンゴルの力で大公位を認められており、いつの時代でもいる現実対応型の野心家であったとする。
 バトゥの西征以降、ルーシに点在する権力者たちはバトゥ・ウルスを主人とせざるをえなくなった。ヴォルガ流域を南北に季節移動するバトゥ家の天幕軍は黄金の刺繍でかざられた大天幕を中心とし、ルーシ諸侯たちから黄金のオルドと呼ばれた。日本語の金帳カン国である。統合を描いた弱小勢力のよせあつめにすぎないルーシが臣従せざるを得なかったが、ジョチ・ウルスのおかげで西から攻撃されることはなくなったし、モンゴル帝国による巨大な東西南北の交通・通称システムの恩恵にもあずかった。ルーシ各地にはテュルク語でバスカクと呼ばれる代官が駐在し、しばしば法外なとりたてを行ったとされ非難される。しかしモンゴル語でダルガないしダルガチ、ペルシア語でシャフナと呼ばれる役職はモンゴル支配下の定住地域ではごく普通におかれた。ルーシに課せられた十分の一税も他の地域でも認められている。モンゴルの支配は、基本的にはどの地域でもゆるやかで、徴税も他の時代より低率だったことで共通している。一つのポイントはルーシ諸侯の徴税をとりまとめてモンゴル側に送っていたのがアレクサンドル・ネフスキーであり、それを引き継いだのはモスクワであった。ジョチ・ウルスは最も長命で緩やかに解体し、16世紀なかばにモンゴルへと逆襲を始める。

 第五章「モンゴルと中東」では、、、1241年にオゴデイが他界した四年後、1246年にモンゴルの帝位はグユクが大カアンとして即位した。オゴデイの突然の他界、ほとんど同時のチャガタイの死は毒殺の可能性もある。西征に成功したバトゥは大カアン権力の邪魔に見えて、グユクは中東遠征を表明し宿将イルジギデイをイラン方面に出立させるとともに自らも西に向かった。バトゥも本陣を出発して大軍を率いて東進した。モンゴル帝国を東西大戦が間近となったが、グユクが中央アジアの地で急逝した。バトゥが放った刺客によるとされる。結局1251年にバトゥの強力な後援により、トルイ家の総帥モンケが第四代の大カアンとして即位した。東西両面作戦を毛計画し、当方を担当したクビライはクチュの失敗を踏まえ、極めて慎重な方針をとった。南宋を直接攻撃せずに、まずは雲南・大里を攻略し、長期戦覚悟の構えをした。しかしこれが意気込む兄の不信を海、対立と更迭、皇帝モンケの新征となり、その挙げ句、モンケは不慮の死をとげる。かたやフレグを主将とする西征では1253年にモンゴル高原を出発した。フレグ軍の足取りはゆっくりとしており、兵を増強しつつ進み、次第に陣容・糧秣などを整えながら、1255年マー・ワラー・アンナフルのケシュいてイラン総督の出迎えを受けた。アム河を渡るに先立ち、これから進軍する地域の権力者たちにモンゴルへの協力・参陣を呼びかけ足元を固めた。当面の敵はイスマーイール教団となり、1256年にアム河をわたりイランの地へ入った。1255年12月当の敵であるはずのイスマーイール教団で政変がおこり、第七代ムハンマド三世が側近に殺害された。同教団を撃滅するとのフレグの総触れがはっせられたときであり、モンゴルとの和平による生き残りを図る子による暗殺とされる。イランを中心に166年にわたり中東と十字軍を震え上がらせた最強勢力は一年もかからず消滅した。
 フレグは戦後処理と処軍の休息をはかったのち、西へむかい、ハマダーン街道から一気にバグダードへ進行して、1258年、北から大きく同市を包み込むように軍を配置した。調査や下工作は徹底していたが、慎重に交渉と駆け引きをつづけカリフ陣営への切り崩しを図った。結局アッバース朝の第37代カリフ、ムスタースィムの政権は内部分裂をおこした。万策尽きたカリフは1258年2月に無血開城しカリフは降伏後、財宝とともに等に幽閉され餓死させられたとも絨毯に巻かれて馬蹄に踏みしだかれたともいう。ここに37代500年にわたるアッバース朝は幕を閉じ、カリフ一族はエジプトに逃れ、すこしのちにマルムーク朝のスルターン、バイバルスが正当なカリフとして擁立された。バグダートは開城後に略奪と殺害が横行したというが、フレグ自身がフランス王ルイ9世にあてた書簡に20万人以上が殺されたと述べているが、当時それだけの人口があったとは思えず、モンゴル軍の常套手段の恐怖の言いふらし作戦の一つであった可能性があると筆者は指摘する。フレグはいったん西北イラン、いわゆるアゼルバイジャン高原に北上させ、将兵に休息をあたえた。緑草におおわれた絶好のてんちであり、かつてはユーラシア東西南北をおさえる要衝の地であった。モンゴル西征軍は陣容をととのえなおして南下の姿勢に入り、イーラーン・ザミーンの地に総触れを発した。1260年フリグ軍はシリアのハラブ=アレッポ、ダマスカスと立て続けに陥落した。情勢をみて十字軍権力はモンゴル軍に加わった。ここからイスラーム撃滅の好機としてモンゴルとの同盟論がある。11世紀以来イスラーム側からすれば十字軍という名のフランク族の襲来が続いていたが、どちらも決定力を欠き、奇妙な共存状態が続いていた。しかしモンゴルという圧倒的な軍事力のみならず、宗教にこだわらない政治権力が襲来した。旧アイユーブ朝より権力を奪ったばかりのマルムーク軍団のエジプトに進撃しようとしたさなか、アレッポのフレグ本営に大カアン・モンケ急逝の知らせがもたらされた。この結果、南宋にむけて南下中のクビライと、モンゴル高原に付す役としてとどまっていたアリク・ブケの間に帝位継承戦争がくりひろげられ四年後クビライが第五皇帝として即位した。モンケ他界の知らせがシリアに届くまで7,8ヶ月を要しているが、通知を受けたフレグは国内の帝位継承をめぐる動乱が中東に知れ渡るのは時間の問題と、アゼルバイジャンに引き返してイラン方面を確保して、動乱のゆくえを見守ることにした。ここからモンゴル西征軍がフレグを主人と仰いでアゼルバイジャン高原に腰をすえることになり、フレグ・ウルスが自然発生的にできたと考える。
 シリアをまかされたはずのケド・ブカはエジプトのマルムーク政権に降伏を進める使節団を送った。ところがその使節団が死刑に処せられ、マルムーク軍が北上の構えを取ると、ケド・ブカ率いる騎馬軍1万2千も南下の体制に入る。両者は正面衝突しマルムーク軍が圧勝してケド・ブカも戦死する。東地中海沿岸にあったモンゴル側の拠点は次々と奪われ、しいにシリアからも追い出される。一方のマルムーク権力はエジプトとシリアに強固な地盤を築いて長期政権となる。クトゥズは暗殺されクマン族=キプチャク族の出身のバイバルが定礎者になる。テュルク人の王朝とアラブ人が読んだように、異民族たちの軍事家力であった。ジョチ家のベルケはアゼルバイジャンの草原を欲していたが、フレグがそこを本拠地に新しい権力体を作る様子が見えると1261〜62年に軍を南下させデルベンドを超えて攻撃をしかけた。フレグ軍も反撃し決着はつかなかった。両者にとってお互いが東方への介入の足かせとなっていた。この事態はエジプトのバイバルスにとって好機となり、ムスリムとなっていたベルケとの共通の敵であるフレグに対する同盟を水路と海路が可能にした。それと対抗してフレグはヨーロッパとの提携を模索するが実現しなかった。フレグが旋回後に時間をかけずにウルスとしての支配体制を整えていたが、それは多人種による実務機関が機能していたからで、西征には徴税や財務機構を伴うだけでなく、ブレイン・知識人・技術者・学者なども共に移動していたのではと分析する。またフレグはマラーガに天文台や図書館を建設して、著名なムスリム天文学者を招聘したり、バグダードから書籍を移動させた。
 帝国の東半分を抑えたクビライがフレグやベルケに統一クリルタイ開催を呼びかけ了承された矢先にフレグは突然に逝去し、さらにフレグの死の報に南下していたベルケも陣中に病没し、チャガタイ家のあるぐもこの前後に逝去する。フレグ・ベルケ・アルグ三人の巨頭のあいつぐ死はあまりにも不自然であった。フレグのあとは庶長子のようなアバカが継いだ。翌1266年ジョチ・ウルス軍が南下してくるも右翼のヨシュムトが奮闘しアバカも参戦し、二週間後のベルケの死去により危機は去り、アバカの権威は確立した。クラ河の北岸地区にスベとよばれる城壕による長城線を構築して国境線とした。四年後にチャガタイ家の権力をうばったアルグが東から迫った。北のジョチ・ウルス、西のマルムークという同盟に挟撃されている状態であったが、アバカは迎撃し、カラ・スウの平原で死闘の末にバラク軍を撃破した。フレグ・ウルスはゆるぎなくなり、チャガタイウルスは没落し、オゴデイ家のカイドゥにのっとされていく。ただフレグ・ウルスでは君主位の権威が確立せずに、その都度、年長のものが野心をもやし前君主の嫡男とあらそった。フレグの早すぎる死、アバカも父と同じく48歳で他界したことがフレグ・ウルスの権力基盤づくりを不十分にした。
 フレグ・ウルスは温存された在地の中小勢力などの不安定要素から自壊に向かっているような状況であった。カザンが紛乱のはてに1295年に第七代君主として即位した。ガザン時代こそがフレグ・ウルスの最盛期というのはあやまりで、ガザンの改革が実を結ぶのは次の君主である弟のオルジェイトゥ時代またはそのさらに子の第九代君主アブー・サーイードのころであった。ガザンは即位以前の父の四代君主アルグンの治世ではさよくにあたるホラーサーン太守として東方にいた。現君主の皇太子ともくされる人物はここに鎮守するならわしであった。中央ウルスたるアゼルバイジャンからはるか遠方に離れるため父親が他界する救急時には不利となった。ガザンは中央政局をうまくとりまとめたガイハトゥに抑えられた。ガザンは軍事上も不利となったが、イランの在地勢力からの支援を期待して、イスラームへ改宗にふみきり成功する。
 次のオルジェイトゥの治世ではフレグ・ウルスの国力が回復し、モンゴル帝国全体が東西融和をとげ、ユーラシア全体がかつてない平和状態になった。モンゴル帝国の課題であったオゴデイ系・チャガタイ系がまとまらない中央アジアだったが、オゴデイ一門のカイドゥがチャガタイ諸系を従える形で、ゆるやかなかたまりをつくりドゥアをパートナーに選んだ。ペルシア語の史書ではカイトゥの国と表現する。ところが1294年に老帝クビライが80歳をもって長逝し、その孫テムルが第六代の大カアンになると、次第にカイドゥの動きが活発となり、翌95年に、カザンがフレグ・ウルス当主につき、イラン方面が安定化に向かうと、カイドゥとドゥアは大元ウルスの西辺へ兵を動かすようになった。カイドゥ傘下の人々でテムルになびく者が出てくるなか、カイドゥはモンゴル本土に勝負をかけ1300~1年にかけてアルタイ山一帯でモンゴル同市の会戦が繰り広げられ、カイドゥ側が敗れる。カイドゥがそのときの傷がもとで他界し、抑えられていたドゥアが中央アジアをせいあつして、同方面の王族などがこぞって大カアンのテムルにあらためて臣従を近い、大カアンの使節団が各ウルスを順次おとずれた。オルジェイトゥは急逝した兄カザンの地位を引き継いだと途端にモンゴルの東西和合となり、北からの脅威も消えマルムーク政権との争いも薄らいだ。フレグ・ウルスは第四代アルグン移行、ヨーロッパとのかかわりを重ねてきたフレグ・ウルスはこれを堺に陸路と海路の両方で結びつきを深めていく。
 フレグ・ウルスはイル・カンの名で呼ばれていたがイスラーム王朝に系統だているのは間違いだったとする。オルジェイトゥは仏教徒にしてキリスト教徒ともなり、さらにイスラームのスンナとシーアの間をゆれた。モンゴルは素朴なテングリ信仰を本質とする多神教徒であった。モンゴルが中東にもたらしたものはテュルク・モンゴル式の軍事権力とそのシステムを中東にもちこんだ。カザン以降に軍事機構を中心にすえ、多人種の官僚郡による財務と行政、イスラームを主体とした各宗教や宗派ごどの聖職者組織の3つを国家の柱とした。

 第六章「地中海・ヨーロッパ、そしてむすばれる東西」では、、モンゴルはフランスをヨーロッパ最強の王国とみなしていた。ルイ9世の治世はモンゴルの前半期にあたる。ルイ9世は十字軍に2度参加したが、第七回のキプロス滞在中にモンゴルからの使者が来たという。船の到着をまったり季節をまったり8ヶ月キプロスに留め置かれ、1249年5月に出発する。すぐにエジプトからの激烈な風により船がながされ騎士2800騎が700騎に半減してしまうがそのまま進む。6月にダミエッダで待ち構えていたエジプト軍の前で敵前上陸し苦戦するもエジプト軍の突然の退却により救われる。やすやすとダミエッダに入城できたので、おごり浮足立った。10月末まで軍を動かさなかったがルイは持久戦をすて海路に進行する。伝染病でないぶからくずれ補給もままならず退却した。エジプト軍の主力はキプチャク草原や東方などからやってきたもので、フランス軍の肉弾戦は時代遅れだった。1250年の4月ごろか1万2千ものものが投降して捕虜になる。ルイ9世以下は巨額の身代金により釈放された。一方でスルターン・サーリフは先立つ1249年11月に他界しメソポタミア方面から呼び寄せられた子がスルターン位をつぐも自分の配下のクルド人を登用して政権を支えていたエジプト在住のマルムーク将軍を排斥した。これに激怒したマルムークのバイバルスは新スルターンを暗殺した。捕虜となったルイはバイバルスなどと顔見知りとなったが、ジョワンヴィルの語るところでは、ルイの王としての気品、毅然たる態度、信仰への誠実さはマルムーク将官の心を打ったという。5月8日にルイ9世たちはエジプトを離れ、海路にてイェルサレムにほど近いキリスト教勢力の本拠地アクレの港に入った。ルイは4年間、聖地とその周辺を離れなかった。母の王太后は帰還を求めたが最後の捕虜の生還をみとどけるまではと踏みとどまった。そしてルイはもっともエジプト・中東情勢を知る者となり、通算6年間にわたる命がけの団体生活の中で立場を超えた一体感がルイの評判をたかめた。シリア方面のアイユーブ権力とエジプトのマルムーク政権との対立を利用して、ルイはあらたなる足場を築こうとする。エジプト側は連帯をもとめてイェルサレム王国なるものの西辺をルイにゆずる。シリアのアイユーブ政権とは休戦協定がむすばれ、地中海東辺の十字軍国家の安全が約束される。ルイは1254年4月にパレスティナをあとにする。それから550年後にナポレオンをエジプトで迎え撃ったのもマルムーク軍団だったが銃火器の前には騎兵は用をなさなかったという。
 ルイ9世がキプロスに滞在していたときモンゴルからの使節団が訪れた。テュルク系のネストリウス派キリスト教徒で、モンゴル将師イルジギデイからつかわされていた。イルジチデイは第三代モンゴル皇帝となったグユクから中東大侵攻の先遣大将として任命されて、東部イランのバードギースの地に駐留していた。グユクがしたためたヨーロッパへの国書を手渡し、ルイは礼を尽くして使節を遇し、返礼の使節としてすでにモンゴルと接触した経験をもつロンジュモーのアンドルーを指名した。しかし1249年にアンドルーがちがバードギースにあるイルジギデイの運営についたとき、グユクは死去しており、次期の大カアンが誰になるか分からずモンゴルは混沌の中にいた。イルジギデイは今は亡き旧主の皇后オグル・ガイミシュのもとにアンドルーたちを送った。帝国をあずかるかたちとなったオグル・ガイミシュは帝都カラ・コルムでなくグユクの個人領たるエルミにいた。彼女はルイからの使節の政治上の意味合いを理解していなかった。また1252年、オグル・ガイミシュは新帝モンケの命で処刑される。ルイ9世はモンゴルへの通史をひどく後悔したという。ただ未練はあったようで1253年にはギョーム・ドゥ・ルブルクを一介の修道士としてモンゴルに派遣した。バトゥによって皇帝モンケのもとに赴くようにすすめられ、苦労を重ねて1253年12月末にカラ・コルム南郊の幕営につく。それから7ヶ月間、首都一帯を眺め1254年7月にルイ9世宛の返書を授けられ、皇帝の庇護のもと帰還する。ルイはすでにパレスティナを去っていたのでルブルクは旅行記を書いた。
 ラッパン・サウマーはテュルク系オングト族出身でネストリウス派キリスト教僧であり、モンゴル時代にユーラシアを東から西に旅行した。東は現在の北京のもとになるダイドゥ(大都)で帝王クビライが25年の歳月をついやして建設した都市である。マルコ・ポーロやイブン・バトゥータの旅行記が複数人の見聞の合成物と考えられるのに対して、ラッバン・サウマーはまぎれもない一人の人間であり弟子による伝記が残されている。ここからサウマーの半生が語られる。信仰に生きることに考え、1276~7年はるか西方の聖地イェルサレムへの巡礼に弟子のマルクと共に出発する。二人はタングト地方でクビライ政府軍とグユクの長子ホクとの戦いで6ヶ月ほど足止めされた。タラス河畔にて幕営していた実力者カイドゥのもとに伺候し、安全を保証する符をさずけられた。そしてフレグ・ウルス領たるホラーサーンをへてアゼルバイジャンにいたる。バグダードで法王マール・デンハに謁するためにバツダートについた。首都たるマラーガで拝謁し、バグダートからフレグ・ウルス君主アバカの幕営に趣、直喩を授けられてイェルサレムにむかった。アルメニア・グルジアから海路をとって黒海・地中海ルートをとろうとしたがグルジアがマルムーク権力におさえられていて危険であきらめざるを得なかった。マルクはしばらくイルビル近くの聖ミカエル修道院に身を寄せていたが、1281年にマール・デンハが他界した。葬儀にかけつけたマルクはなんと一致して新法王に推挙される。理由は政治的なものでモンゴル語が自由で風俗にも通じているからということであった。マルクは自分には教養もなく、神学上の知識も薄く、弁論の才にもかけるし、カトリコスに不可欠なシリア語ができないから全く不適格であると固辞した。サウマーはこれは神が定めたことで逃れられないと、フレグ・ウルス君主アバカに判断を仰ぐため訪れた。アバカは金符と叙任状たる勅書、前任のマール・デンハの印璽の三点セットを与えた。かくてマルクは37歳で第58代のカトリコスとなった。1281年11月のことである。ヤバラーハー三世となったマルクの行く手は茨の道だった。1282年アバカは死去し、すぐに弟も死去した。即位したアバカの弟テクデルは新イスラームの姿勢をとり新キリスト教政策は抑えられ、ネストリウス教会も迫害される。その二年後アルグンが実力でアフマドを倒し、1284年8月に第四代君主として即位すると、自身はティベット仏教を奉じる一方キリスト教を厚遇した。アルグンは内政・外交ともに積極策をとり、ヨーロッパ・キリスト教諸国との強力な提携、さらに軍事同盟を求めた。アルグンはこの使命を託せる人物をヤバラーハー三世に問うと、彼は言語能力と人柄から師であるラッバン・サウマーを推薦した。サウマーは金や馬の贈り物をさずけられ、通訳を選ぶと、まずはコンスタンティノープルに上陸した。ビザンツ皇帝アンドロニクス二世は一行を歓迎し、ハギア・ソフィア大聖堂など各種施設を参観させた。次に一行は西に向かいナポリを目指した。途中大きな火山が噴火して溶岩のために誰も近づかないことを耳にした。この第分化は1287年6月におきたシチリア島のエトナ火山、ないしはティレニア海に浮かぶストロンボリ火山のそれであり、サウマーたちの旅行とその記述がまことに正確であることを示すものとして古くから知られている。さらにサウマーは歴史の証言者にとなる場面に出くわす。それがシチリアの晩祷である。ナポリ王宮に参上したサウマーをジャルル・ダンジューは丁重にもてなした。ところがシチリア側についていたアラゴン連合王国との海戦がなされ、シャルル・ダンジューとその兵1万2千を殲滅して、その艦隊を海に葬ったと伝記は記す。サウマーたち一行は陸路でローマに向かった。途上で教皇ホノリウス四世の逝去を聞く。ローマに着くと教皇他界をうけて12人の枢機卿がちが庶務を取り仕切っていた。アルグンからの軍事同盟の申し出については返答がなかった。一行は北に向かいシエナ、フィレンツェ、ピサなどをへてジェノヴァに至る。ジェノヴァでは選挙制が敷かれていたことにおどろいている。ジェノヴァとフレグ・ウルスはすでにある程度の結びつきをもっており、ブスカレッロというジェノヴァ出身の大聖人がアルグンの外交・通商顧問をしていた。したがってジェノヴァの人々はサウマーたちを大歓迎した。キリスト教に親しみをもつフレグ・ウルスは魅力的な存在であり、互いに表敬の意味があったと推測される。さらに北上して、サウマーはもっとも期待する相手であるフランス王国に至る。サウマーは歓迎され国書と進物を献上し、軍事同盟の申し出については国王フィリップ四世はフレグ・ウルスとの連帯を否定はしなかった。一ヶ月ほどパリに滞在したがパリには宗教教育をうける学生だけでも三万人以上いたと特記されている。パリを去る際にはフィリップ四世は高価な衣服をさずけた。そこから南西に向かいガスコーニュ地方に駐営していたエドワード一斉に謁するため、二十日間旅をしてボルドー市にいたった。ボルドー市の人々はサウマーたちの素性をしり国王に伝えると、エドワード一世は喜んで招き入れた。サウマーたちはアルグンの国書と進物、法王の書状を出しイェルサレム問題について所論を述べると、国王は同意して大宴会でもてなした。教会堂などの参観を終えると進物と旅費を下賜され、東のジェノヴァ市にもどった。サウマーたちは1287年の冬をそこで過ごす。新教皇ニコラウス四世が選出されていたので、一行はローマに向い国書と進物を献呈し、ローマ教皇庁にて大歓迎をうけたと伝記は語る。往路を逆にだどってフレグ・ウルスに帰国したサウマーたちは教皇と各国の王から託された国書・文書・進物をアルグンに捧呈し、ヨーロッパの情勢をはじめ、見聞したことを伝えた。アルグンは喜び、サウマーをそのまま自分のそばにとめておくこととした。このサウマーの旅行記は集史の第二部・世界史のフランク史とともに、東方が見たヨーロッパ像として、世界史状でも稀有のものである。このサウマー使節団を皮切りに、アルグンからヨーロッパへと遣使が続けられ、反対にヨーロッパからも宣教師団が東方に送られた。

 第七章「『婿どの』たちのユーラシア」では主にモンゴル帝国以後の帝国を分析していく。モンゴル以後の王者はその権力の正当性をチンギス・カンにもとめるようになった。モンゴル帝国から生まれていた国家には様々ある。モンゴル帝国の中で最も遅く確立されたチャガタイ・ウルスはもともと中央機構が不十分で、ドゥア一族が他界していくと次第に求心力を失っていった。細分化の中でチャガタイ・ウルスの東半からチャガタイ家のちを引くトグルク・テムルが浮上した。彼はチャガタイ・ウルスというかたまりを再統合させる勢いがあったが死後、覇権は薄れていく。今度は西半から抬頭したのがいわゆるティムールである。これはアラビア文字表記に由来し、本来の発音はテムルである。彼はシル河の南を活動券とし、マー・ワラー・アンナフルからホラーサーンを制圧し、フレグ・ウルスが解体したあとのイラン中央部からアゼルバイジャンに進出し、さらに小アジア・シリアにも遠征した。また一体性を失いつつあったジョチ・ウルスを再統合せんとしたオルダ・ウルスの左翼部分のチンギス裔トクタミシュとあらそいキプチャク草原にも軍を進める。かたやチャガタイ・ウルス時代からのインドへの南進政策もひきついで、デリー・スルターン政権とその統治下のヒンドゥースターン平原へも手を伸ばした。さらに1402年には抬頭しつつあったオスマン権力を、現在のトルコ共和国のアンカラ近郊にて儀軌はし、君主バヤジットを捕虜として、いったんは滅亡の淵までおいこんだ。こうした広範囲でくりひろげられたティムールの目覚ましい活動は中央ユーラシアが産んだ最後の覇王ともいえるものと筆者はいう。ところが彼は生涯をつうじて一度もカアンまたはカンとさえ称さなかった。
 1336年、ケシュ郊外に生を享けたティムールは言語ではテュルク化していたものの、チンギス・カンと共通の先祖を持つというモンゴル支配層に属するバルラス部という有力な部族集団の出身であった。またバルサス部はチャガタイ・ウルスでは一貫して最高の門閥貴族に位置づけられた。ティムールはモンゴル貴族の子孫であり、モンゴル・システムを尊重した。たとえば重大な告示はクリルタイ(大集会)を開いて協議・決定した。カンと名乗れなかったティムールはチンギス・カンの末流にあたるモンゴル応じのソユルガトミシュという人物を名目上のカンの位につけ、自らはチンギス王族のチャガタイ家後を引く王女をめとって第一夫人とした。その結果、ティムールはチンギス・カン家の婿となりアミール(司令官)・ティムール・キュレゲン(婿)と名乗った。チンギス・カンの権威を使い、自分はナンバー2の実力者としてチンギス家の再興という名分でモンゴル帝国以来の様々な遊牧民集団を束ねた。このティムールが採ったこの方式はそのままティムール朝の君主にも引き継がれた。このような方式はモンゴル帝国時代でもモンゴル帝室と一体化して繁栄したコンギラト、イキレス、オングト、オイラトなどの駙馬王室などに相当し、モンゴル時代以来に広範囲ではず多く存在した婿どのたちの一人であったと言える。このティムール権力の構造はムーイッズル・アンサーブという系譜図にはっきりと現れており、前半をチンギス家、後半をティムール家という二段仕立ての構成を採っている。この系譜図はムガル帝国統治下でインドで書写されたものもあり、ムガル帝国でもチンギス血統への尊重が見える。
 これとよく似た事例としてモンゴルとロシアの王権の連動を取り上げる。ジョチ・ウルスによるルーシを含めた西北ユーラシアの統括的な支配はゆるやかであったが一世紀半ほど続いた。トクタミシュはティムールの援助もあってジョチ・ウルスを再統合したが、1389年ころより対立を深め、ティムールにテレク河畔で惨敗し、リトアニアに逃れた。これによりジョチ一門の結束力は弱まり、ジョチ・ウルスの右翼であったバトゥ・ウルスの地に大オルダ、クリミア、カザン、アストラハンがそれぞれ分離独立した。モンゴル側の動きと反比例してルーシ諸国に対するモスクワの覇権が確立されていき、従来のロシア側の記述によれば、イヴァン三世に至ってモンゴル支配からロシアを開放したとされがちであった。コンスタンティヌス11世のむすめソフィアと再婚してギリシア聖教の擁護者としての姿勢をとっているが、モンゴルの宗主権を認めざるを得なかった。こうした局面をくつがえしロシア帝国の基礎を築いたとされるのが、雷帝の名でも知られるイヴァン四世である。1533 年父のヴァシーリー三世の他界を受けて、わずか三歳でモスクワ大公となった彼は母エレーナの折衝の五年と貴族支配による混乱をへて、1547年16歳で史上始めてツァーリとして戴冠式をあげた。その五年後の1552年みずから大軍をひきいてカザン市を攻略し男は皆殺しにし女は俘虜とした。カザンの二の舞いをおそれたアストラハンが抵抗することなく降伏した。ロシア史を大きく旋回させることになったイヴァン四世自身が実はなんとモンゴルと深い関わりがあった。彼の母はかつてのジョチ・ウルスの有力者ママイの直系なのであった。しかも戴冠式の直後に結婚したアナスタシアが1560年にみまかり、二番目に娶った妻マリア・テムリュコヴナこそは、ジョチ家の王族の血脈であった。つまり母と妻、ともに錚々たるモンゴル名門の出身であり、イヴァン四世自身もいわば血の半分はモンゴルなのであった。そして、これをモンゴル側からみればイヴァン四世はその致死も含めて、まさに婿なのであった。1575 年イヴァン四世は突如として位を降り、シメオン・ベクブラトヴィチなる人物に譲位したのである。シオメンを全ルーシの大公と自分はただのモスクワ公と称した。このシメオン・ベクブラトヴィチとはカザンの皇子でいわばジョチ家の正裔たるサイン・ブラトのことである。イヴァン四世は、モンゴル嫡流のシメオンを名目的な君主としていただき、その権威のもとで実権者として辣腕を振るおうとしてのである。これはまさにティムールとその一門のやり方である。かたや政治史上でいけば、諸カン国のうち、クリミアを本拠とするクリム・カン国はロシア帝国と対抗する力をながらく保持し続けた。
 モンゴル世界帝国たる大元ウルスについては、これまでもある程度は述べられてきたこともあり、本書では正面から取り上げなかった。ここでは最低限だけふれる。第現ウルスは陸でつながれたモンゴル領域とアフロ・ユーラシアという二重の大地平にとって支えになった。ジャムチの名で総称される陸上の交通・運輸・伝達システムは第現ウルスなくしては機能しなかった。インド洋上ルートによる東西アジア・アフリカ・ヨーロッパにいたる結びつきは第現ウルスによる航海の組織化と旧南宋治下の興南を中心とする経済力・文化力を基軸とするものであった。その結果、銀を共通の価値基準とする人類史上ではじめての世界レヴェルの経済圏が出現する。資本主義というのならばモンゴル時代にこそ、その本格的な起点を考えるべきと筆者は述べる。また中華という視点では小さな中華から大きな中華への大転換をもたらした。大元ウルスの中華たる領域は三分の一にも満たなかったが人口のうえでは反対だった。唐と称する複合国家が消えてから370年ぶりに中華地域を再統合し、それを遥かに巨大化させた。多種族・多文化・多言語の一気に進み、首都たる大都=北京の位置も含めて、現在の中華人民共和国へ繋がっている。大元ウルスは1368年に中華本土を失い、1388年にクビライ家の帝系はトグス・テムル帝の死をもってひとまず終焉を迎える。その後遊牧民を主体とする大元ウルス以来の覚醒力が離合集散するが、全体としてみれば自分たちはなおイェケ・モンゴル・ウルスというゆるやかなくくりにあるという意識があったと指摘する。たとえば15世紀中頃に内陸アジア世界を統合したオイラト連合のエセンは自らを大元カアンと称した。
 16世紀末から17世紀の前半にかけてマンチュリアにヌルハチを盟主とするジュシェン族の連合体が抬頭した。第二代のホンタイジの際にモンゴル以来の古い勢力ホルチン部と政治提携し、うちモンゴリアの諸勢力を吸収していく。その際にチャナル部から大元ウルスより伝わる伝国の璽を譲られ、大元ウルスの王権と政治伝統はホンタイジに渡るとされ、クリルタイにてみずからの帝国をダイチン・グルン=大清国とした。乾隆帝の治世にライバルのジューン・ガル王国を倒しティベットを併合する。またホンタイジは同盟国でありモンゴル代表でもあったホルチン部の女性を后妃とし、チンギス家の婿となった。
 1492年のコロンブスの航海はクビライの巨大帝国への旅であったことは航海士の冒頭に書かれているが、クビライの帝国が消え去ってすでに100年が経っていた。モンゴルによる大統合が消え、ユーラシア東西の人と物の交流が途絶えたため、海の時代をヨーロッパに譲る結果となった。ロシアとジュシェン権力はランドパワーの最たるものであり、16世紀前半のオスマン帝国とハプスブルグ家もランドパワーに分類される。ポルトガル、スペインをへて、オランダ、フランス、イギリス、そしてアメリカの系統はシーパワーに分類される。

 終章「アフガニスタンからの眺望」では、、、2001年にアフガニスタンにアメリカが侵攻したが過去にはアレクサンドロス大王もチンギス・カンもイギリス、ソ連、アメリカも苦しんだ。アフガンは狭義ではパシュトゥーン人を指すが、アフガニスタンとパキスタンの国境にまたがる山岳地帯の民族であった。アフガニスタンでは南アジア、西アジア、中央アジアの三要素がここで交差し、山岳と渓谷のほかは乾燥が優位な地域であり、河川の緑やオアシスが沙漠に点在する。この土地には様々な人が往来したが、古くはアーリア人がやってきてインドに南下した。その後ハカーマニッシュ世界帝国の東域となり、ついでアレクサンドロス大王も到来した。ヒンドゥー・クシュの南北ではマケドニア東軍は苦戦を強いられた。ややあってクシャーン朝よりのちは北西インドからつづく仏の道となりべグラームの広大な都市遺跡、バーミヤーンに代表される仏教文化が栄えた。七世紀かの玄奘がバーミヤーンにて目にする黄金の東西大仏はヒンドゥー・クシュに浮かんだこの世の浄土世界であっただろう。また北から遊牧民のエフタル・突厥など次々と姿を現し、イスラーム東漸とともに、ガズナ朝・ゴール朝などのムスリム軍事力がこの地に拠り、インドへの南進の基礎ともなった。ホラズム・シャー王国の妥当五、チンギス・カン率いるモンゴル西征軍も、この地で苦しみ、インダス河までいたって北帰した。モンゴル帝国としてはフレグ・ウルスがおさえるホラーサーンと、クンドゥスを中心とするチャガタイ・ウルス南方領で棲み分けがなされた。一方チャガタイ軍はしきりとデリーとヒンドゥースターン平原を目指した。こうした形成は、ティムール帝国領として130余りをへて、その最後の君主バーブルが、一旦現在の首都のカーブルに小王国をつくったのち、結局ムガル帝国の形成としてインドへの転身をはかることで、一つの帰結点を見る。このように文明の十字路であるアフガニスタンでの国家の成立は古いものではなく国としてのまとまりや社内資本の蓄積・伝統、民族集団を超えた協業への忍耐力・結束力について、ゆるやかだった。その結果、バシュトゥーン族をはじめ、多くの人たちはいまなお、部族主義や個人単位の利益で動き、大国によるパワー・ゲームに巻き込まれ続ける。
 アフガニスタンという国は1747年にはじめて出現した。ドゥッラーニー系パシュトゥーン遊牧民のアフマド・シャーがカンダハールにてパシュトゥーン諸部族をとりまとめて王位についた。ダイチン・グルンに滅ぼされたジューン・ガルをもって、最後の遊牧権力といわれがちではあるものの、ドゥッラーニー帝国という名のアフガニスタン国家こそがその名に値する。ウズベク勢力へ攻勢をかけてホラーサーン、いわゆるホラーアーンを手中におさめ、さらにイランに兵を進め、東部の要衝マシュハドを手に入れる。北に転じてパキスタンのほぼ全域を取り込んだ。18世紀のなかばから後半にかけてかつてインド亜大陸のかなりの部分を統領していたムガル帝国にはもはや昔日の面影はなくなり分裂し、首都デリー周辺のみを保つ小王国に成り果てていた。イランも弱体化していて、こうした形勢の結果、アフガニスタンは一気に帝国化を成し遂げた。19世紀はイギリスはインド亜大陸を掌握した。アフガニスタンの北にはアム河を隔てて、ブラハ、ヒヴァ、コーカンドなどのイスラーム諸王国があったが、18世紀以降に帝国になったロシアが中央アジアに手を伸ばし、19世紀後半にはユーラシアの中央域は次第にロシアの手中におちていった。アフガニスタン王国は南のイギリス、北のロシアという超大国に挟まれ、苦難の時代を迎える。南下をはかるランド・パワーのロシアに対し、インド亜大陸という金ぐらを守ろうとするシー・パワーのイギリスはアフガニスタンに鑑賞し、あわせて三度のアフガン戦争がおきることになる。1838年から42年の第一次アフガン戦争には1万を超えるイギリス侵攻軍をアフガン遊牧軍が全滅させるほどであった。19世紀にあっても展開力と攻撃力にとむ遊牧騎馬軍団は近代武装の歩兵軍と十二分に対抗できた。1878年から80年の第二次でもイギリス側の損害はすくなくなかったがイギリスの保護国となっていく。さらに第一次大戦のイギリスの弱りをついて、アフガン軍が逆にインドへ侵攻し、この第三次アフガン戦争にて独立を回復することになる。その後アフガニスタンを支援するソ連、パキスタンを後援するアメリカという図式のなかで、アフガニスタンの政治はゆれつづけ、1973年にはクーデターで国王ザーヒルはイタリアに亡命し、王政は廃止された。その後はソ連のより強い影響化で政権変動があいつぎ、国内情勢は不安定化し、1979年12月にソ連が武力でカーブルをおさえることになる。この年の2月に起きたイラン・イスラーム革命が同じイラン文化圏のアフガニスタンに波及し、さらにアム川以北のソ連領のイスラーム地域に及ぶことを恐れたのが原因である。そして10年にわたるソ連の苦戦と89年の完全撤退、91年のソ連の崩壊、96年からのターリバーンの抬頭、2001年の同時多発テロからの米によるアフガニスタン作戦。国際パワー・ゲームの舞台になっているアフガニスタンの宿命の歴史構図は自身では到底定めがたい。現在のアフガニスタンを構成する人々のおよそ半分のパシュトゥーン族は濃く行きの南半分に傾き、北側半分にはタジク族、ウズベク属、トゥルクメン族、ボンゴル帝国の派遣軍の子孫であるハザーラ族など居住いs,ほかにヌーリスタン族やヒンドゥー教徒、シク教徒もいる多民族国家である。もしアフガニスタンに石油が算出していたら国際政局を自在に操る存在であったかもしれないと筆者は想像する。アフガニスタン復興はユーラシアの安定化への大きな鍵の一つで、わたしたちにとっても努力を払うべき世界的な課題である。
 パシュトゥーン族にはジルガという長老たちの会議があるが、モンゴル時代に由来している。そのようなモンゴルの遺産について語り、ティムール帝がペルシア語でなのったパードシャー=帝王について解説する。日本にとってのモンゴルはモンゴル襲来にあるが、それが外圧に抗する小さな島国・日本という図式を時代を超えて多くの人に刷り込ませて、アメリカと日本などを対峙させる二元論が思考の鋳型になっていると筆者は語る。モンゴル軍と日本の戦力などの分析はほとんどなされていない。艦隊行動や上陸戦の難しさなどは議論されず、神国日本やカミカゼといった考えは不幸なリアクションとする。またモンゴルの後半期には大陸と日本列島で人と物そして心の大交流が発展する。韓半島もかかわり、日中韓をこえた文化・学術・思想・宗教・芸術・美術・生活様式の新局面が生ずる。日本文化の基層となるものはこの前後に導入されており、ユーラシアの波も日本に及んでいた。肝心なことは茶道や能もまるかにちがうあり方で日本化していっており、日本の風土・伝統のなかでほとんど別のものに昇華していった。
 日本とカフが二スタンとの距離は実際のへだたり以上に遠いところにある。アメリカとはアフガニスタンの1.5倍以上の距離があるが近く感じる。アフガニスタンは1747年に王国となったが、1776年に独立したアメリカとの違いは凄まじい。アメリカはアフガン・イラクに侵攻したが、直接のきっかけは1979年のイラン・イスラーム革命とそれに脅威を感じたソ連のカーブル制圧にある。アメリカのみならず、それに先行する英仏による帝国的展開と植民地支配の歩みも、けっして「歴史の記憶」になりはてておらず、今も現代史や現代と負の遺産として生き続けている。英仏がかつて帝国として振る舞ったときのツケの支払いを旧植民地側から時を超えて求められ続けることだろう。歴史は過去の物語でない。私達がいきている今にむすびつく長い人類の歩みの道のりである。「いま」を理解するにはきちんとした歴史を総合的にしるほかはない。すなわち、よりよく「いま」を生きるために歴史は不可欠である。「帝国」なるものは今もユーラシアにいきていて、パワーゲームも依然として存在する。ところが現存する帝国が瓦解するならばその反動も恐ろしい。わたしたちの「この時代」いぜんとして一つの通過点にすぎない。世界の枠組みはすでに定まっていない。

気になった点

 集史のテュルクの起源として預言者ノアが出てくるのが興味深かった。その時代で説得力があった物語がノアの物語だったのかと、少し不思議な気がする。
 地図の分析のあたりで14世紀末以降の東西の衰退で、それが蘇ったのはソ連解体後の最近というのは興味深かった。長いユーラシアの道に平和が訪れるのは非常に難しいことなのだと痛感した。
 モンゴル軍もアフガニスタン作戦はうまく行かず見切りをつけたというのは印象的で、その後も常に失敗している印象で終章でも語られているがアフガニスタンという土地の特殊性もあるのかもしれない。
 モンゴルの歴史書の集史はカザンが作り始めたがイスラーム的な考え方でないと歴史書を作るという発想にならないのか、モンゴルでは口述による伝承が重視されたのか、とにかく何か考えさせられるものがある。
 モンゴル側からフランスとの連絡をとっていたというのは興味深いし、サウマーの使節団の下りはかなり楽しく読んだ。当時のヨーロッパは大したことがなかったのだろうなぁと何となく分かる。

最後に

 モンゴル帝国とユーラシアの理解はヨーロッパや中華の歴史がハイライトされるなかで特に注意して勉強しなければならないものだと理解できた。そしてこの流れはロシアなどのランドパワーに繋がっていて、現代にも影響を与えているということもよく理解できた。
 モンゴル帝国の特に西側やそこから現代につながる歴史を勉強したい人にはうってつけで、より深い理解を得られることは間違いなく、おすすめです!

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