人類はどこにいくのか? (興亡の世界史 20)

一通り読んだので、最終巻に突入した。

本の構成

 「はじめに」では歴史のマクロな見方とミクロな見方について説明し、興亡の世界史が目指した歴史を問うことは、現代人が直面している問題のありかを明確にして、これからの人類の進むべき道を問うためであると説明する。またこの巻において、人類史を通じてうみとは何であったか、宗教とのかかわりをどうとらえるか、そしてアフリカへをどうとらえるか、問うていくとする。そして歴史の研究という史料批判にもとづいた知的営みが成立してきたのは19のヨーロッパからである。過去の資料は権力者のバイアスがかかっている。歴史的な過去に問いを発することで歴史像を構築する。そしてこれは現在と繋がっていて、過去に照らして現在の位置を明確にしている。また歴史学とは多様な資料を突き合わせ多様な研究を踏まえるという手間ひまのかかる職人的ともいえる仕事が必要である。そこから歴史人氏とその解釈が様々な分野で蓄積されてきた。歴史に対する問いは多様化して知のストックも膨大なものとなって、個人ではフォローしきれないほどである。この中でヨーロッパにおける歴史の展開を一つのスタンダードとして世界をみようとした見方は未だにかこのものではない。世界の結びつきが深くなっている中でこのいっせいきほどの歴史学自体の変化と深化とを踏まえた、あらたな世界史像の提起が求められている。

 第一章「世界史はこれから」では世界史はまだできておらず形成途上にあるとする。かつては西欧が自分たちこそ「文明」と称し、さらにみずからを基準に、それ以外の地域や国々を格付けしようとしていた。ちなみに文明・文化は中国にも輸出された和製漢語であり、もともとは文明は文徳がきらめくこと、文化は文徳で人を導くことをいうという。世界が一つに繋がり国家や地域圏経済をこえて、国際マネーが世界を徘徊する。そんのなかで歴史のもつ意味はますます重みを増しているかに見える。世界史はさまざまな彩りとあり方でひろがす社会・国家・地域などに基づきつつ、それらを超えた形で、全体を包み込む視点・構成を持つものでありたい。また歴史学が扱わなかった一万二千年から一万三千年以前のことより遥かに先立つ人間たちの歩みも含めて、人類の歴史の全体をできる限り偏りのなく統一的・体系的に総術し、今をよりよく理解するのに役立つものでありたい。そこにおいては紛争や対立をのりこえる視座や思考は不可欠である。かつての欧米は自らを優位に置く余り、そうでないものを異なるものとして、ことさら蔑視や差別感をあおるような文明観・歴史観を作り出してきた。西欧が浮上した18-19 世紀以降、むしろ野蛮と暴力、殺戮と破壊はどんどん激しく大規模になっている。対立・抗争については美化され、現在が創作した過去をもって現在を語ることがある。たとえば「レコンキスタ」である。それは19,20世紀のそうだくであった。再生服という言葉時代も愚かしいが、かつての日本ではそれをさらに美化して、国土回復運動と和訳した。イスラーム到来以前に、スペインもポルトガルもキリスト教支配もなかったことは、誰の目にもあきらかである。痩せた大地に豊饒な文化の華をもたらしたイスラームへの蔑視と象王、そしてかつて日本西洋史学、いや日本歴史学における西洋崇拝の構図など、もろもろのことがそこにすけて見える。また「国民国家』的な幻想や言説がゆきわたってしまい、そうでなかった歴史が、内外に対する擬態やブラフとして政治利用されたり、ナショナリズム風のエモーショナルな利害に色付けされて踏み絵さえ求めたりする。「国家」「民族」「部族」「国境」などの基本用語が近代以前と以後でほとんど似て非なるものであり、別の用語・概念を作る必要がある。
 ここから日本西洋史学が語られる。ヨーロッパを対象とし、英・仏・独を中心として、ギリシア・ローマもヨーロッパの原点として重要領域とした。イベリア半島、北欧、東欧、バルカン、そしてロシアをふくめた旧ソ連諸国なども英・仏・独の文脈で扱われる次期が久しく続いた。それが世界史という検知で歴史を眺めるのはほとんど西洋史学に属する人たちの仕事であるように思われてきた。一方で近年ことに東欧各国史やロシア史など、日本・西洋史学会の東方拡大がいちじるしい。イベリア史が本格的に研究されはじめ、日本の弱点であった合衆国史、南北アメリカ史についても、ヨーロッパ史からの独立がようやく果たされつつある。もちろん西洋史や西洋学が、日本という国家・社会・文化の近代化にはたした絶大な役割・貢献・影響は計り知れない。ところが日本近代も100年をはるかにすぎ、西洋史ないし西洋学のかなりの部分は、日本列島とそこに暮らす人間にとって、随分と血肉となった。そのため日本の西洋史はみずからの存在理由をさぐりなおす葛藤の中にある。さらに研究が急速に国際化し、当の本国の研究者たちと伍して抬頭に渡り合わなければならなくなった。日本で研究する場合には日本と当地の2つの世界に生きることが当然であるので、その苦闘の中から近代西欧モデルを真にのりこえる独自の世界像を構築できるのではと筆者は思う。
 かたや東洋史は長らく中国史を主力とした。日本が以前から手本とも教師ともしてきた中華なるものをもって東たるものの主軸とみなし、他のアジア史諸分野との連帯を図ろうとしていた。日本という文明帯は古来より大陸から人・物・刺激を受けそれを日本式に取捨選択しつつ取り込んできた。なかでも平安末ころから漢学をそれなりに受容し始めた。室町時代以降は文字通り漢学をもって学問とすることとなり、やがて江戸時代も元禄あたりからは、一通り備わって明治に及んだ。実は日本史上でもっとも漢学が盛んだったのはなんと西学の修得に賢明だったいわゆる文明開化あたりのじきのことであったのは興味深い。この西学と漢学に象徴される西と東の対置が日本における世界史アプローチの二本柱ともなったのである。
 ただし東アジア史と中国史はもとより同一でないし、中国史と漢族史もイコールではない。さらに中国なる地平は少なくとも四世紀・十三世紀・十八世紀を大きな活気として、空間と中身の両方で大きく脱皮した。こうしたごく基本的なことを混濁させた立論や、古代と現代を同一の土俵で眺める議論などは奇妙でしかない。漢族はいつから漢族なのか、あるいは漢族とは何かこそ問いたい。孫文が唱えた中華民族などは政治的なプロパガンダにすぎない。「中国を問う」ということは人類史における国家・民族・文明といった概念を超える何かを問うことになる。
 日本における世界史なるものは西欧を中心にヨーロッパ史に傾く西洋史と、中国を中心に東アジア史に傾く東洋史という西と東の接合物として続いてきた。こうした状況で東欧から延々と遥か中華領域まで巨大な歴史研究の空白が口をあけていた。こうした西と東の極端な棲み分けは手本とした西欧式の世界観において、すでに顕著であり、アジア史という考え方は西欧に起源する。そうした状況で世界史理解のかなめとなる中央ユーラシアである。戦後は内陸アジア史と言い換えられた領域には多言語能力と世界史への志向をもった研究者が輩出した。その結果として日本の東洋史は中国史とイコールにはならなかった。この綿密な文献研究と遺跡・遺物の分析を特徴とする内陸アジア史家のなかから、イスラーム研究への動きが生まれ、さらに中央ユーラシア史というより広いエリア・立場からのアプローチが次第に定着した。イスラーム史の側面もとりこんだ現在の日本の中央ユーラシア研究は多言語・多地域をカヴァーする眼差しの広さと顕著な歴史性・現代性を兼備する点にで世界史に関わるに日本の研究のなかで特出した意義と国際的な発言力をもっている。ついで、1970年ぜんごよりひろくイスラームにかかわる研究・アプローチが以前とは全く異なる水準・総量で展開した。それから40年たちイスラーム学・イスラーム史の研究は第展開をとげ、世界レベルで顕著な成果を残す研究者が幾人かいる。一方で隣接する研究分野である西洋史との交流や相互乗り入れは意外なことで両方へのまなざしと研究能力を兼備する研究者がふえることを希望したい。この世界における屈指の研究者群をかかえるイスラーム研究の範囲は広く、中東・バルカンをはじめ、ブラック・アフリカから南アジア・東南アジアはもとより、ロシア・カフカースも含めた広い意味での中央ユーラシアを覆い、東は中華領域にもゆきおよぶ。
 また南アジアはユーラシアの南方中央にきわめて多言・多彩、独自性の色濃い世界を作る。とりわけ、インド洋に突き出した巨大な三角形は、人間の交流・移動の大動脈をなし、いわゆる東洋と西洋を結びつけてきた。南アジアの陸と海は世界史の視点からは格別な意味がある。ただインダス文明以後、古代とされるヒンドゥー時代、中世とされるイスラーム時代、イギリス支配の近代、そして独立から現在までとおおまかに五期にわけられるが、多角的・総合的に把握するのは至難である。またイギリス支配時代に先鞭がつけられた近代歴史学の研究のなかの大テーゼである「アーリア人の来住」といったことを含む根本からの再検討が求められているように見える。インドでも70年代以降は現地調査もふくめた多様なアプローチがくりひろげられており、若手の抬頭が目に付く。ようするに欧米などの研究を範とする時期は過去のものとなっている。南アジアと不可分のアフガニスタンの情勢は南アジア全体に不安定化の波を及ぼしており、英露のグレートゲームを思わせる。一方で世界情勢の変化もあり1960-70年代にかけて東南アジア史という地域世界史が本格的にスタートした。
 南北アメリカや太平洋にかんしてもお決まりの図式の中でかたれることがおおかったが、合衆国史などは急速に充実しつつある。南北アメリカについては人類学・民俗学・考古学・植物学などから多様なプローチをしており、アステカやマヤといってメソ・アメリカ文明、インカをはじめとする南米アンデス諸文明に関して、新しく開拓されつつある。また日本人の若い研究者が活躍もある。またアフリカを考えることは世界史・人類史の暗面をみつめることであるかもしれない。近代ヨーロッパなるもののおぞましさを今更ながら思わざるを得ない。
 世界史なるものは、まだ形成途上にある。課題は山積している。オープン・スペースと化した国際情勢を背景として研究上の往来・交流・協業が発達し、歴史研究は稀にみる好条件に入りつつある。新発見などもそうそうのことではもはや驚かない時期のさなかになる。DMA分析の導入をはじめ、新技術による歴史の検証・見直しもこれからより激しく進展する。日本における世界史研究に関する特徴として三点ある。一つ目は時代・場所を問わず、一通りどんな分野にも専業とする研究者が組まなく後半に存在する。次にここの研究も実に緻密で生真面目なきちんとした分析・実証がなされている。最後に分厚すぎるまでの研究者層を擁しながら、その枠の中で自足しがちであり、世界史へのまなざしを書いていることである。日本には均整のとれた世界史をつくる可能性がある。今までの世界史はここの地域での縦割りの歴史が語られ、15世紀末になって突如としてヨーロッパが結び手として登場するというしかけであった。横に統合する世界史というのは、文明圏や地域単位での括りを乗り越えて、同じ時の中で展開・関連をみつめるということである。口で言うのはたやすいが、実際の歴史研究としてはまさに茨の道である。従来の世界史はこれが弱かった。世界史を横切りに扱うとうのは関連と統合が欠かせない。一人で複数の時代・分野・地域を直接扱える他分野兼通型の研究者群が次世代の人たちを育成すれば固定の枠に安住することはできない。またDNA分析などの理系とされてきた知識・能力・技術もかかせない。世界史を考えることは現代を考えることでもある。
 人間は、考え、求め、欲することで現在までのみちのりを辿ってきた。わたしたち日本列島にくらすものは、天与の自然条件を幸としつつ、ことさらな背伸びなどは不用としながらも、きわめてこまやかな産業社会をきちんとした備えは物心ともにたもち、国内外をとわない人と人のつながりをこそ無常のものとして、これからも着実にあゆんでいきたい。

 第二章「100億人時代をどう迎えるか」では人口から歴史を見ていく。人類の増加率は鈍化しているものの2050年には90億に達するのは避けられそうにない。一方過去の人口を一つのグラフで表すのは困難であり、250年ほど前から急増している。過去の人口を推定するにはまず国などの地域の特定し、その中での出生、死亡、移住を考える。しかしそれぞれを決める要因は多様であり、結婚は宗教など社会的・文化的な要因があり、妊娠には近代になるほど避妊の実施が大きく影響しており、それは文化的、社会的、経済的、倫理的な影響を複雑にうけている。脂肪も遺伝特性、栄養状態、感染症などの医学生物学的要因や、社会的な要因、保健医療サービルの受けやすさなども関わっている。また人口の変化は時に社会や文化に影響し、農耕の発明の引き金になったり、土地や資源をめぐる戦争の原因になることも多く、未開地への移住の引き金になったり、出産抑制を普及させる引き金にもなる。人口が持つ最も基本的な特徴はあらゆる個人を性と年齢だけに着目し一人と数えることである。
 地球上の人はホモ・サピエンスとよばえっるがミトコンドリアDNAの分析では12万年から29万年前のアフリカ東部に移住していた一人の個人に行き着く。それ以前の原人やネアンデルタール人は同じホモ族のメンバーであるものの絶滅した系統とみなされる。私たちの先祖の出生と死亡のパターンを分析するのに二つのアプローチが試みられている。一つは発掘される骨や歯などから情報を得る方法で、もう一つは現生の狩猟採集民などの社会で得られたデータから類推することである。第三のアプローチは遺伝的に類似する現生類人猿のチンパンジーなどとの比較である。人間は文化を道具を使用し文化を発展させてきた。食生活については加工・保存の技術が特に影響した。洞窟などの住居や毛皮などの衣服は物理的ストレスを軽減した。このような日常生活変化は家畜動物が置かれている状況に近似しているため、人間は「自己家畜化した動物」と呼ばれることがある。家畜動物や野生動物に比べて顔面に丸みが増すなど幼児的な特徴が成長せいてもほじされる。人間の場合も、復元された化石人類の顔面と、現生人類の顔面を比較してみるとこの傾向が顕著に見られる。また出産数も変化する。原因としては栄養状態の改善とストレス軽減による出産間隔の短縮と出産園例の延長である。アフリカの狩猟採集民の出産数の研究では8回や9回の出産をした女性がいたが個人により栄養状態・健康状態が違いばらつきが大きいことが見られた。また多産の遺伝子は存在しないと感がられていて、栄養状態などの条件が整えば多産の能力がるとされている。
 約二十年前に登場したホモ・サピエンスはおよそ10万年前にアフリカから地球上に拡散していった。以前の北京原人やジャワ原人に代表されるホモ・エレクトゥスもアフリカから拡散したので、二回目の出アフリカである。ヨーロッパを北上して東に向かいシベリア方面に進んだルートがあったようで、シベリアにも2万五千年前には到達していた。アジア大陸の東側は赤道付近ではインドネシアの島々やフィリピンの島々がつらなり、その東はオセアニアである。オセアニアへの進出は五万年ほど前、北アメリカへの進出は一万四千年ほど前に始まった。オセアニアへの最初の移住が起きた五万年前は地球の気温は現在よりはるかに低く海水面はさがっていて、インドネシアのバリ島より西の島々とフィリピンの多くの島々は、アジア大陸と陸続きでスンダ大陸を形成していた。第一幕の移住者はスンダ大陸の東部から筏のようなものに乗って、ニューギニア等の西部に到達したと考えられる。この移住者の子孫がオーストラリア人やニューギニア島の大半の地域に住む人々である。オセアニアへの第二幕の移住は数千年前にまったく別の集団によってなされた。この時の移住者は東南アジアで興ったイモルイを栽培する農耕技術をもち、カヌーを巧みに操る人々であった。南大西洋のポリネシアやミクロネシアの島々へも拡散していった。アジア大陸の北側では、最終氷期の寒冷な気候が緩み始めた一万四千年ほど前からベーリング海峡はベーリンジアと呼ばれる無氷回廊になった。ここを人々やマンモスが通過したとする説が有力である。考古学の証拠などから北アメリカに渡った人々はかなりのスピードで南へ進んだことになる。赤道を越え、南アメリカ大陸の最南端へも一万年ほど前に到達したようである。出アジアによってまだ農耕も家畜飼育も発明されていない一万年ほど前までに、地球上の大半の陸地は人間に居住されることになった。人間が多様な環境でいきることができたのは技術面や社会面を含む文化の発展に依存するところが大きい。熱帯起源の人間にとって、寒冷地に適応する上で大きな障壁は食物の獲得であったろう。イヌイットなどが伝統的な狩猟生活を送っていた頃の観察記録によると、カリブー(トナカイ)やサケ・マスなどであった。これらの動物を安定して獲得するには狩猟・漁撈の技術的な進歩に加え、気候や動物の生態に関する理解や、人々の協働など社会文化的な進歩が必要だったにちがいない。農耕の発明以前に、狩猟採集民として生存可能な人口は何人くらいなのだろうか。ある環境に生息可能な動物の最大の個体数は環境収容力と呼ばれ、利用可能な食物の寮から推定される。考古学者のフェリク・ハッサンは地球上の陸地をやっつのバイオームにわけ、それぞれに人間が食用できる野生動植物量から人口支持力を推定している。この推定はあらいものだが、人間が狩猟採集民として地球上に生存できる最大数は一千万人程度としてよいであろう。
 今から一万年くらい前、地球上のいくつかの地域で農耕が開始された。人間の生き方を抜本的に変える出来事であり、しばしば農業革命とも呼ばれている。ただし、狩猟採集生活から農耕生活へは何百年あるいは一千年以上かけて徐々に変化したようである。ユーフラテス川流域における最近の考古学調査によると、発掘された小麦の中で栽培種が大多数を占めるまで三千年もかかっている。この発見は、人々が長期に渡り、農耕だけでなく野生種の最終も行っていたことを示唆している。食物連鎖の連鎖の制約を逃れたことでそれまでと比べならないほど急増した。一万年くらい前から人口が急増しており2、三千年の間に約800万人であった人口が数千万に増加したとされている。デンマークの経済学者エスターボズラップが人口増加が農耕の開始の引き金になったと主張し大きな議論が巻き起こった。人口増加と農耕の進展は相互にフィードバックしながら進行したはずなので、どちらが引き金になったかを論じることにそれほど意味はないかもしれない。農耕は定住生活をともなった。固定したメンバーが日常的に顔を合わす社会がつくられ、土地や生産物を所有するという概念が生まれたことであろう。その結果、財の蓄積、社会関係の高度化・複雑化、情報量の増加が徐々に進む一方、居住環境の悪化という新たな問題も生じることになった。排泄物の蓄積などによる衛生状態の悪化と感染症の流行に人類は苦しめられてきた。また高密度の居住と大量に資源を利用する生活は、周囲の環境への負荷、とくに森林の消失や耕作地の土壌の疲弊を引き起こした。
 農耕といっても栽培化された野生植物が生育する地域で、環境条件にあった農耕文化が生まれた。とくに重要なのは、収穫の季節性の有無と収穫された作物の貯蔵可能期間であろう。熱帯雨林で興ったイモ類の農耕の場合、収穫は通年可能なものの、イモは水分が多く長期の貯蔵や遠距離の運搬にてきさない。一方、穀類を栽培する農耕では、特定の時期に植え付けや収穫の作用が集中するし、水分の含有量が少ない作物は長期の保存が可能で余剰作物としての価値が高い。家畜化も、対象となる野生動物の生息地で起きている。重要な家畜動物のうち、ウシ、ウマ、ヤギ、ヒツジの家畜化はムギ類の農耕文化圏で、ブタとニワトリの家畜化はイモ類の農耕文化権で始まったと考えられている。家畜の用途としてとくに重要なのは乳の飲用と耕作や運搬への畜力としての利用であり、家畜の恩恵を特に大きく受けたのはムギ類の農耕文化圏であった。各地で起こった農耕は、品種改良などの技術革新をともないながら周辺の地域へ伝播していった。貯蔵期間が長い穀物は余剰生産物としての価値が高く、これらの農耕文化圏では職業文化をはじめとする社会の高度化や文化の発展が進んだ。このことは、すべての古代文明が穀物を栽培する農耕文化圏でおこったことに如実に示されている。
 世界人口は18世紀に入ると増加速度を早め始めた。第二回目の人口急増である。この人口増加は欧米諸国における死亡率と出生率の顕著な変化によって引き起こされたもので、人口転換と呼ばれている。イギリス1880年ごろから死亡率と出生率が低下をはじめて、1930年ごろに人口転換が終了したとみなされている。これは多産多死から少産少子にいたる変化をしめしている。イギリスで人口転換が始まった時期は産業革命が開始された時期と一致している。農業の形態も変わり労働力としての子供の価値が低下する一方、教育の価値が高まり子供が高等教育を受ける機会が増大した。死亡率の低下に最も寄与したのは食糧生産の工場による人々の栄養状態・健康状態の改善であった。また窓ガラスの使用や庶民の石鹸の使用など、衛生面での改善の影響も指摘されている。
 ここからは視点を変え、人口が変化する過程を二つの具体例から見ていく。最初はパプアニューギニアのギデラ人である。2000人ほどで一つの言語属を形成し、ほとんどの結婚はギデラ人同士で行われている生物学では個体群と呼ばれている。ここでも近代化の影響がみられ、一番の要因が看護師が常駐する保健センターが中心部の村につくられマラリア治療薬が入手可能になったことと、年に一回は医療団が村を訪れ乳児に予防接種するようになり、こどもの死亡率が激減したことである。ギデラ人の平均寿命は約40年から約50年以上に延長した。出生数も5.5をこえることになった。ギデラの社会で観察された人口動態で興味深いことは二つある。まずは伝統的時代の0.2%いう人口増加率である。人口が倍増するのに350年かかるが、ムギ類の工作が始まった中東における数千年の人口増加率は0.1%としているので、高すぎるかもしれない。またギデラ人は適応しやすい内陸部と適応しにくい周辺部の両方に居住していることである。人口が徐々に増加し人口支持力に近づくと、適応しにくい環境に進出していったと考えられる。
 二つ目の事例は日本列島である。最初の人口急増は縄文時代の紀元前6000-5000年から紀元前3000年にかけて起こったようである。野生植物だけでなく、焼畑作物を含む植物性食物の利用技術が進展したためと言われる。ただし人口が最大になったときでも25万から30万ほどだった。第二の急増は弥生時代に入った紀元前3世紀ころにはじまり紀元8-9世紀まで続いた。このときは水田稲作の技術が西日本おしsて東日本へと伝播したじきであった。8-9世紀から人口停滞期に入る。理由は明らかではないが、政治社会制度が疲弊したことや、夏期に旱魃が起き稲作の生産量を低下させたことが指摘されている。外来の感染症による影響も大きく、特に天然痘が8世紀ころから猛威をふるい凶作の年などに大流行を繰り返すようになった。735-737年の3年間だけでも全国の人口の25-35%が天然痘により死亡したと推測されちえる。14-15世紀に入ると人口増加率は上昇に転じ、17世紀頭から18世紀に至る第三の人口急増期を迎える。1600年に1227万であった人口は1721年に3128万に増加している。この間の年平均増加率は0.8%に近い。その原因の一つとしてムギ類やさつまいもなどが作物に加えられ食糧生産が安定化したことが挙げられている。それとともに社会制度の変革が大きく影響した。14世紀のころから小農民として自立する傾向が広がり始め、生涯未婚者や晩婚者が減り多くの農民が適齢期に結婚するようになり、出生率を上昇させることになった。この変化は中世ヨーロッパで黒死病により労働力の需要増のために土地所有農民の地位を獲得したことに類似している。1721年以降、人口は横ばい状態あるいは減少傾向になり、1792年には2990万と最低値を記録している。飢餓や堕胎などが頻発し、社会が停滞したとする説が広く認められてきたが、最近では意識的な人口抑制により一人当たりの所得を上昇させたとするプラス面を強調する説が支持を集めている。1880年ころから工業化と共に人口が急増し始めた。普通死亡率が約30パーミル、普通出生率が約35パーミルであったものが、死亡率だけが低下し始めた1870-80年代を日本の人口転換の開始とみることで一致している。人口転換は1950年代に終了したとみなされ、この過程で日本の人口は大きく増加した。75年間で3596万人から8928万人へと2.5倍になった。日本で起きた四回の人口急増の原因について地球規模での人口変化と比べながら考えてみたい。弥生時代に起きた第二の急増は農耕の生産性向上のおかげである。第三の急増をもたらした理由は市場経済化に伴い農民の多くが生殖力の高い年齢で結婚するようになったことである。これは産業革命の時にヨーロッパで生じた社会変化と共通性がみられる。そして、最後の急増は工業化とともにはじまったもので、日本版の人口転換であった。日本の四回の急増の程度がとくに大きかったのが第二と第四のきゅうぞうであり、それらの原因が農耕の開始と産業革命・工業化だったことは地球規模での人口増加の主たる原因と共通している。
 人間は誕生して以来、成員数が増えることを望んできたが、18世紀後半にはってトマス・ロバート・マルサスにより人口増加の警鐘が鳴らされた。彼は1798年に著した人口論の中で食糧は人間の生活に不可欠であり、両性間の情欲はこれからもかわらないことを前提に、食糧生産は算術級数的にしかぞうかしないのに人口は幾何級数的に増加すると述べた。そして第二版以降では人口抑制の必要性を説いたのである。この頃のは年人口増加率は0.4%程度であった。1974年の世界人口会議では人口爆発という言葉が頻繁に用いられた。1994年カイロで開かれた国際人口開発会議では避妊や中絶に直接言及せずに、妊娠・出産・育児における女性の権利擁護を重視したリプロダクティブ・ヘルス、それを保証するリプロダクティブ・ライツの重要性が強調された。地球規模での人口増加の抑制を目指す立場からも、女性の教育機会の拡大や社会的地位の向上が出生率の低下に寄与するので、懸命な取り決めと評価されている。20世紀半ばに人口転換を終えたヨーロッパ諸国は人口増加率を低下させていき、いれかわるようにアジア、ラテンアメリカ、アフリカの国々が人口増加率を上昇させ始めた。ヨーロッパでは2005年には死亡率が出生率を上回り、人口増加率はマイナス0.1%になった。日本でも人口増加率は2005年にマイナスに転じている。2050年にインドと中国だけで全人口の三分の一を占めること、アフリカの増加率が特にたかくなること、先進国の人口が占める割合は13-14%になることがわかる。人口減少を迎えた国では人口を増やすためのさまざまな取り組みが行われており、人口政策を福祉政策や労働政策とうまくれんたいづけた場合に、人口の大幅な減少の阻止に成功している。ただし、先進国全体として見ると人口はほぼ横ばいで推移すると予測されるので、今後は人口ゼロ成長を前提に成熟した社会づくりを目指すのがとくさくといえよう。生産年齢人口の割合の上昇は人口ボーナスと呼ばれ、経済成長に有利に働くことになる。日本は生産年齢人口割合が1960ねんころから上昇をつづけこの割合が低下し始めた1990年代前半まで人口ボーナスの恩恵を受けたことになる。人口ボーナス現象は途上国、とくにアジア諸国で顕著にみられている。
 人類は誕生して以来、周囲の環境にはたらきかけ、自然界ではあり得ないレベルに人口を増加しつづけてきた。農耕の開始時直前には1000万、2050年んいは90億をこえようとしている。筆者は地球の人口支持力をの分析をする。

 第三章「人類にとって海はなんであったか」では、、、人類の学名はホモ・サピエンスだが智慧ある人を意味する、こうした定義の一つにホモ・モビリタス(移動する人)がある。700万年前に直立歩行を始めた人類あその後地球規模の移動と定住の契機は三つあった。一つ目は出アフリカ、二つ目はモンゴロイドの拡散、最後はヨーロッパ人の拡散である。アフリカを出た人類は西洋と中洋(南アジア、西アジア、中央アジア)に拡散した西ユーラシア人(コーカソイド)、東洋に拡散した東ユーラシア人(モンゴロイド)である。まずモンゴロイドの拡散について取り上げる。6万年前に東南アジア大陸部に淘汰する。そこから彼らは二つに分かれてさらに進出を続ける。当時はウルム氷期がはじまったところで、海水面の低下によって、二つの大きな陸域が形成されていた。インドネシアの伊s真島を中心とするスンダランド、ニューギニアとオーストラリアとが一体化したサフルランドである。世界の動物区の重要な区分にアジア区とオーストラリア区がある。スンダランドとサフルランドを分ける海は動物にとっては当時でも移動不可能な障壁であったからである。しかしモンゴロイドはそこを超えてサフルランドに進出していく。6万〜4万年前と推定されている。両者を分つ海域に所在する島々の感覚は最大で80キロメートルほどあり、その渡海は筏によっても可能であったろう。東南アジア大陸部に達したモンゴロイドが選択したもう一つの進出方向は陸域を北上して北方ユーラシアさらには極北へとむかうものであった。一般に緯度に並行する東西移動にくらべて、緯度に対して垂直方向となる南北移動はより困難である。しかも最終氷期の最盛期での北上である。モンゴロイドは氷河時代終末期の一万数千年前に北極海沿岸部に到達する。当時のベーリング海峡一帯は、海水面の低下によってベーリンジアと呼ばれる陸域が広がっていた。しかし1万3000年前ころには温暖化による海水面の上昇によってベーリンジアは水没し始める。その直前の時期にベーリンジアを経てモンゴロイドはユーラシアからアメリカ大陸に進出する。日本では縄文時代が始まる頃である。それから1000年で1万4000キロを移動して約一万年前に南アメリカの最南端フエゴ島まで達する。出アフリカに始まった現生人類の移動と定住は一段落する。この時期までの移動は二つの特徴があり、大移動だったことと陸域の移動だったことである。広大な海洋をいちはやく移動空間として人類史に編入していったのはモンゴロイドであった。オーストロネシア語系集団の太平洋進出である。約6000年前にかららは東南アジア島嶼部へと進出していく。この時期の彼らの東方進出は陸域経由でなくカヌーによる渡海であった。太平洋の島嶼分布は南西部から南部一帯に偏在しているが、ニアー・オセアニアとリモート・オセアニアに区分して考える。ニアー・オセアニアの東端に近いニューギニア北東方にビスマーク諸島とよばれる島々がある。そこに約3600年前に特有のどきをもつオーストロネシア語系集団が出現する。彼らはラピタ人とめいめいされ、リモート・オセアニアへの人類拡散にあたって重要な役割を果たす。その後の拡散は三つの段階を経ている。約3500年前のラピタ人によるトンガ諸島またはサモア諸島への拡散、約2500年前のラピタ人の子孫であるポリネシア人によるタヒチ島などのソシエテ諸島への拡散、そして1500年前の太平洋東南端のイースター島への拡散である。それ以外には1700年前にハワイ諸島、1000年前にニュージーランドへ拡散したとされる。これらの拡散は船のイノベーションに支えられていた。ダブル・カヌーの登場である。横並びにした二隻のカヌーを横木と甲板で連結した双胴船で、カニのハサミ型の四角帆をそなえた帆船であった。1769年にタヒチ島に寄港したクックは帆走するダブル・カヌーを描いた絵を報告書にのせ、アウト・リガーを装着しなくても安定した航行が可能なことなどを説明している。全長30メートルのダブルカヌーでは30人の人間と食糧・飲料水を積載して数十日の航行が可能であったという。
 コーカソイドの拡散についてはヨーロッパに向かったコーカソイド集団は陸域の西端に到達したが、大洋へ進出しなかった。このような違いの要因としては暖かい海と冷たい海の違いにあったとする。モンゴロイドが拡散した海洋は暖かい海で、コーカソイドが渚で停まった海洋は冷たい海だった。暖かい海では被水は体温喪失また身体的苦痛の要因にはなりにくい、浮揚力のあるぶったいであればどれもが移動手段となった。被水がくつうでないので舷板などの波除け装置を必要とせず、船の重量を軽減できるだけでなく、櫂を水面に垂直に下ろして手漕ぎするのを容易にする。いっぽう冷たい海では被水は体温を奪い最終的には死にまで追いやる海である。冷たい海では波きり板と舷板をもつ箱舟のような構造が必要だった。また暖かい海に乗り出したモンゴロイドが達成した確信はアウト・リガーの開発である。それを舷の片側のみに取り付けたものをシングル・アウト・リガー船で、両方に取り付けたものをダブル・アウト・リガー船と呼んでいる。さらに長距離航海が可能な大型ダブル・カヌーを開発したポリネシア人は南アメリカ西岸までにも達していたと考えられる。それを示すのがさつま芋の太平洋海域への導入である。現在、サツマイモは南太平洋の島々またニューギニアの重要な主食作物である。その原産地は中央アメリカのメキシコからグアテマラあたりとされ、4000年前ころには南アメリカのペルーでも栽培されていた。東南アジアへの伝来は南アメリカの西海岸に到達したモンゴロイドによってなされたと考えられている。さらに東南アジア島嶼部から西インド洋にも漕ぎ出す。マダガスカル東岸部に到達したが、到達時期は7-8世紀以前とされるが、2000年前とする説もある。その拡散もかられのエクメネの拡大であった。マダガスカル共和国の公用語であるマラガシー語はオーストロネシア語系に属している。また無耕起稲作技術は東南アジア島嶼部の低湿地に見られる特有の稲作であるが、インド半島の東海岸、スリランカ島南西部、そしてマダガスカル島東海岸の湿潤低地に点在しつつ分布する。いずれもオーストロネシア語系に属するマレー系海民の活動世界である。さらにアラビア海をかこむインド半島西海岸またアフリカ東海岸では、アウト・リガー船が漁船や小型船舶として使用されている。ただ喜望岬を就航して大西洋に及ぶことはなかったと考えられる。その冷たい海に挑戦しようとしたのが西洋コーカソイドであった。彼らは箱舟+オール型を大型化していく道、大型構造船を建造した。大西洋に進出していくのは15世紀になってからのことであったが、ヨーロッパではもっとも暖かい海に属するポルトガルとスペインから開始されるのは興味深い。ブラジルでもアフリカ側のギニア湾岸でも温暖湿潤の主食作物はキャッサバである。その原産地は前記のサツマイモと同じ中央アメリカのメキシコからグアテマラ一帯および北西ブラジルの二カ所とされている。定説はギニア湾岸のキャッサバは16世紀になってブラジルからポルトガル人によって伝えられとする。しかし、筆者はこの定説に疑問を呈す。筆者の西インド諸島の最南端に近いバルバドス島の首都ブリッジ・タウンでの経験で、市街地の背後の微低地の公園でバオバブの巨木が立っていたという。その樹齢は1000年と推定されている。バルバドス島にスペイン人が到来したのは1518年なので、その推定が正しければバオバブ樹はスペイン人到来のはるか以前からそこにあったことになる。バオバブは石アフリカのサバンナ地帯を代表するキタワ科の樹木である。バオバブの種は長期にわたる養生漂流に耐えることはできないと考えられる。とすると人間によって持ち込まれたのではないか。同様の交流をキャッサバについても想定することができるのではないか。
 海域世界は陸地に取り込まれた海域を成立場とするものと、もう一つは大洋を成立場とするものである。太平洋ではアウト・リガー船や大型ダブル・カヌー船を航行手段とし、リモート・オセアニアの島々をノードとする海洋ネットワーク空間が形成されていた。しかし人類史においてより重要な意味をもったのはインド洋海域世界であった。インド洋は太平洋や大西洋に比べて規模が小さい上に、本体部分が北と南の両回帰線内にいちしているため、優勢な寒流の流入もない暖かい海であった。しかも季節によって風向きをほぼ真反対に変化させるモンスーンが規則的に吹き渡る海である。この風との摩擦によって海水にも吹送流が生じ、風も海水も同じ方向にながれていく。これは帆船の航行にとっても好条件であった。温帯に暮らす人類は湿潤熱帯の香辛料への選好は古代から存在していた。その分布は赤道周辺の三カ所に集中している。アジアの東南アジア島嶼部とマラバール海岸、南アメリカのアマゾン流域、アフリカのコンゴ川流域である。南アメリカとアフリカの熱帯降雨林は共に大西洋に河口をひらく大河の内陸盆地性の流域に分布するため、世界交易への参入は大航海時代以降になる。同時代以前は長い歴史を通じて、東南アジア島嶼部とマラバール海岸が独占的な供給地であった。インド洋は他の二つの大洋にない条件をそなえていた。インド洋はほぼ北回帰線あたりで北辺をアジア大陸によって閉ざされていることにより暖かい海になっていた。しかもインド洋のほぼ中央部にはアジア大陸から赤道方向にむけて逆三角形の巨大な陸塊がうちこまれている。こんインド半島によってインド洋は東のベンガルワンと西のアラビア海とに二分される。インド半島の歴史的な役割はインド洋を東西二つの海域に分断すると同時に、両者を統合するという両義的な役割にあった。その先端に位置するのが熱帯降雨林隊を含むマラバール地方であり、古代からのインド洋交易の代表的な熱帯産品であるコショウの原産地であった。インド洋を活発な交流の海へと変えていった主体は中洋に拡散したコーカソイドと東洋に拡散したモンゴロイドであった。
 ここからは中洋のコーカソイドの活動を検討していく。古代におけるインド洋海域世界の形成を確認できる文献資料は紀元一世紀後半にエジプトで成立したとされる「エリュトラー海案内記」である。エリュトラー海とはギリシア語で赤い海を意味するが、当時は現在の公開だけでなくインド洋全域を指す言葉であった。エジプトからインド半島南端までの港湾事情と商品地理に関する案内記で作者は同海域で実際に活動したエジプト在住の公益商品と推定されている。同書ではマラバール地方のムージリスの輸出品として、大量のコショウや内陸からのニッケイ・透明石・ダイヤモンド・サファイヤなどに加えて、クリューセー島(マレー半島付近)の鼈甲などを挙げている。マラバール地方がガンジス川流域や東南アジアの諸産品の集散地であったことを語っている。博物誌の著者プリニウスは同じ時代の軍人政治家であったが、ローマ帝国からインドへの金銀貨の大量流出を嘆いたことはよく知られている。これに類似した状況ははるか後代の18世紀にも起こり、イギリスではインド熱とよばれたインド産綿花製品への熱狂的なブームが起こった。それが産業革命の一因となる。同書ではインド半島の西方と東方で船の構造が違うことを記している。西方ではアフリカ大陸北東部のソマリアあたりで「縫い合わせて作った小舟や丸木舟がある」とが書かれており、一方コモリン岬の東方では「非常に大きな丸木舟をくびきで繋ぎ合わせたサンガラと呼ばれる船」のことを述べている。
 アラビア半島南西端は西アジアでは例外的な夏雨型のやや湿潤な地帯である。その産地は夏には緑で覆われ緑のアラビアと呼ばれる。エリュトラー海案内記が同半島南西端を幸福なアラビアと記載しているが、それは緑のアラビアのことである。別の研究では同海域で縫合船の原材料として重用されたきたのは緑のアラビアで栽培されていたココヤシであった。ただココヤシの導入は11世紀以後のこととされ、エリュトラー海案内記に記載がある縫合船がココヤシ樹を原材料としていた可能性は低い。またサンガラ船の記載はダブル・カヌーを想起させるが、ダブルカヌーの開発はエリュトラー海案内記と同時期にあたる約2000年前であったので、ベンガル湾海域で利用されていたとするのは無理とする。
 また同時代資料が中国でも見出されて、漢書地理志の粤地条の記事である。それは南越(華南)の港市から南西方向に向かうルートの解説であり、港市をでて南に海路で五ヶ月、おなじく海路で四ヶ月と二十日でしんり国に到着する。そこから陸路で十日行き、さらにカイロで二ヶ月行くと黄支国に達する。さらにその南方には已程不国があり、漢の通訳はそこで引き返すと書かれている。この陸路の記載はマレー半島の最狭部を陸路で横断したのち、ふたたび海路でベンガルワンを直進して南インドに達する行程を語っているとしか考えられない。黄支国は遺パンに南インド南東部のカーンチープラムに比定されている。已程不国はコモリン岬付近にあった港市国家と考えられている。
 エリュトラー海案内記と漢書地理志の記載や、インド洋海域の各地から古代ローマの貨幣が出土しており、同海域が地中海世界と密接に結ばれていたことを示している。このようにユーラシア大陸の南縁をとりまいて、各海域をつらねる交易ネットワークがすでに紀元前後の時期に形成されていた。これを大海域世界と呼ぶ。この大海域世界の成立には東西両端の陸域を占める大帝国の存在を重要な契機としていた。一世紀をとれば東端には漢帝国、西端にはローマ帝国があった。インド亜大陸ではその全域を版図とする大帝国の形成は近代になって初めて達成されたその理由はヒンドゥー文明圏に属しつつも海洋インドという解放性と先住民集団であるドラヴィダ的諸要素を背景に、独自の性格を保持してきたからである。インド半島南部の海のインドは北方の陸のインドと政治的に一体化することなく、独自の国家を生み出し続けてきた。パッラヴァ王国はその初期の好例である。ヒンドゥー文化複合の東南アジアへの伝播と受容をインド化と呼んでいる。それは宗教のみにとどまらず、思想・儀礼・都城・建築・彫刻さらには稲作農耕技術までおよぶ広汎な文化変容であった。現在も東南アジアの文化の基底にインド的要素があるといわれるのも、この時期のインド化に由来する。このインド化の基盤に二つの強力な二つの強大なヒンドゥー帝国が生成する。一つは大陸部のクメール帝国、もう一つはシュリーヴィジャヤ・シャイレーンドラー帝国である。シュリーヴィジャヤ・シャイレーンドラー帝国はマラッカ海峡両岸一帯を支配する海洋国家であり、マラッカ海峡の安全航行が実現し、インド洋海域世界が東南アジア島嶼部の熱帯降雨林帯と直結され、さらにインド洋海域世界から中国世界への直航が可能になった。
 大海域世界の西部に目を転じると、イスラーム帝国の出現という大きな変化があった。クルアーンでは「二つの海を解き放って縫い合わせ」という表現があるがこれはインド洋と地中海だという。また沙漠と海は対極的だが砂礫や水に満ちた空間の中にオアシス都市や港市が点在していて、それを隊商路や航路が結んでいるというネットワークが似ているという。さらにオアシス都市も港市も水質の良い飲料水の安定供給を重要なら機能としている。もちろん違いもあり、大きいところでは輸送力であり交易のあり方に影響する。ラクダ輸送は輸送負担の小さな軽量かつ高価なら商品であり、海洋の船舶輸送は多様な日常生活財も対象としうる。イスラーム帝国は海洋を取り込んだ帝国であった。特に750年に成立したアッパース朝はその性格が顕著であるった。こうして八世紀中期には文明圏を基盤として大海域世界の関係陸域に者帝国が成立していく。東アジア世界には唐、東南アジアにはクメール、同島嶼部にはシュリーヴィジャヤ・シャイレーンドラー、インド半島にはパッラヴァ、西アジアと地中海南岸一帯にはイスラーム、そして地中海性北東部にはビザンツが”文明圏帝国”として関係陸域と海域を、包括したら成立する。ペルシア湾のスィーラーフあたりの航海商人の著作とされる中国とインドの諸情報には東は広東、西は南アフリカ中古海岸のキルワまだ及ぶ交易ネットワークにて、広東からスィーラーフまでの道が示されている。このときも中国人の西限はマラバールであった。またマラバールなののインド半島南部は放散のセンターでもあり、インドから東南アジアにはインディカ型イネが利耕技術などの農耕技術と共に伝わった。また西方にも影響を及ぼし、アッバース朝は豊かなメソポタミア平原を有していたが乾燥地帯であるため栽培は小麦などの冬作物に限られていた。夏作物はこの時期にインド半島から伝播し、メソポタミア平原の灌漑地帯に夏冬二毛作を基軸とする農業集約化が実現した。また13世紀にユーラシアの海陸にまたがるモンゴル帝国の成立は大海域世界の交流をさらに活性化させた。13世紀末にマルコ・ポーロが中国からの帰途にマラバールに来訪し、同地の産品を詳しくしるした。1342年にイブン・バットゥータもマラバールを訪れ中国船の来航はヒーリーまでと記し、カリカットで中国のジャンク船に乗り変えている。1368年にモンゴル帝国が解体されると、東南アジア島嶼部ではイスラーム化し、大陸部は仏教化していく。海域世界はモスレムの海という性格を強めていく。ここでもマラバールは繁栄を続け、1405年に南海遠征に出た鄭和も、1497年にポルトガルから出航したダ・ガマもマラバールの中心港市カリカットに最終目的地を設定していた。
 ここでポルトガルのインド洋海域世界への進出を取り上げる。中国で流布していた地図を元に1402年に朝鮮王朝で世界地図が作成される。これはアフリカを海に囲まれた大陸として描いた現存最古の世界地図とされる。それに対してポルトガルは100年遅れた1502年にカンティーノ図によりアフリカを環海大陸として描出するとともにインドへの海道を示した。1405年からはじまった定和の南海遠征の画期性は中国艦船がマラバールを超えてインド洋西部海域世界に深く乗り入れた点にある。モスレムの海になりつつあったが、鄭和自身がモスレムであったので、ネットワークに参入するのは容易だったかもしれない。1413~15年の第四次遠征では東アフリカの現在のケニア北部海岸のマリンディに到達した。彼らは現地名であるキリンを伴っていたが、発音が中国での架空の動物である麒麟であるので大歓迎された。ダ・ガマが第一回公開で到達したのはマリンディであった。ダ・ガマがマリンディを出発したのは鄭和が到達した66年後でポルトガル戦隊がマラッカに来航したのは1509年だった。ダ・ガマの成果をもとに作成されたのが1502年のカンティーノ図である。同図では地名とともに商業情報を細かく記入しているが、カリカットとマラッカは大きく扱われている。鄭和の遠征がインド洋海域世界のイスラーム・ネットワークとの矯正するものであったのに対し、1511年のポルトガルのマラッカ攻略は同ネットワークの破壊と奪取をめざしたものだった。ポルトガルについでヨーロッパの列強がインド洋海域世界に進出して東インド会社を設立する。イギリス1600年、オランダ1602年、フランス1604年、デンマーク1616年、18世紀になったオーステンド、スウェーデンである。大海域世界はヨーロッパ人の海とかしていく。東南アジア史家のリードはこの時代を大交易時代とよぶが、在地国家も利益を求めて変容していく。スコータイを根拠地とした王朝は、アユターヤーに根拠地を移したタイ王朝に変わる。さらに原王朝のチャクリ朝はバンコクに根拠地を移している。
 19世紀には蒸気船と蒸気鉄道の登場により状況が大きく変化する。それまでは外部からの襲撃をさけて小島嶼や小河川の河口部に一する港市がおおかったが、蒸気船に対応するため水深が大きく広い後背地が求められた。港市の淘汰が起こり、マラバールの諸港市はかつての栄光を失う。一方で大々的な築港工事によってムンバイ、チェンナイ、コルカタなどが近代的港湾へと成長するとともに埠頭への鉄道の引き込みも行われる。このときにヨーロッパ列強の大海域世界への関与のあり方が変わり、港市=点を通じて交易機会への参入という関与から植民地=面のシャイという帝国主義的な関与に代わる。鉄道の時代の到来は先進国にとっては文明の先進の指標だったが、非ヨーロッパ諸国にとっては植民地化の指標であった。このときヨーロッパ列強が異民族の植民地支配のために持ち込んだのが法による支配であり、法の権威を顕現する施設として、総督官邸や高額法院などの公共建造物を建設した。
 ここでヨーロッパ人の拡散の帰結について触れる。(1)北方アジア、南北アメリカ、オーストラリアは西洋コーカソイド集団の圧倒的な軍事力また彼らが将来した感染症によって、線中のモンゴロイド集団は致命的な打撃をうける。(2)アフリカへの移住はなかったがヨーロッパ人の奴隷貿易によりネグロイド集団の分断と人口減少をもたらせた。(3)北方をのぞく東洋のモンゴロイドと中洋のコーカソイドの領域は西洋コーカソイドの到来によって先住民社会が決定的に変容することはなかった。彼らによる植民地化を、歴史の中の一エピソードとする強靭な社会を持続した。また海にも変化を及ぼし、比較的に陸域の権力から独立して営まれていた港市はシャー・バンダル制がとられていたが、次第に陸域の支配権に編入されていき陸域国家による海のエンクロージャーへ進展していき、距岸200海里の設定として具現化されている。

 第四章「宗教は人類に何をもたらしたか」では、、、 日本では敗戦後にGHQにより国家神道を禁止され、日本政府は政教分離を徹底し、日本人の宗教観の喪失を招いた。イスラームは第二次世界大戦後の混乱した世界にあっても、なお人々の生活に深くしみいきいきと脈打っていると聞き、筆者はイスラームの魅力や意義を歴史の観点から極めようとして、社会経済史を選んだ。一方で文明の衝突という書籍が出たと思うとアメリカの911のテロによる報復でアフガニスタン空爆やイラク戦争へと武力制圧の試みに多くの国が巻き込まれた。近代が産業革命を端緒として列強が世界を制覇したことから、欧米の価値観を普遍的価値感として享受し、歴史観もそれにならった。しかし人類の歴史を過去であれ未来であれ、もはや欧米の歴史観を基準値として押しはかることは許されないであろう。
 宗教は国家と結びつくと変質する。キリスト教も392年に異教禁止令によって排除の原理が決定的となる。テオドシウス帝がエジプトの非キリスト教の宗教施設・神殿を破壊する許可を与えると、暴徒化したキリスト教はアレクサンドリアのセラピス神殿や図書館など、異教の記念碑や神殿を破壊した。415年にはもっとも著名だった女性哲学者ユパティアが虐殺された。暗黒の時代と呼ばれる中世ヨーロッパはキリスト教が影響している。十字軍でイスラーム世界と接触し、イスラーム世界から地中海制海権を奪取する。地中海沿岸イスラーム諸都市への海賊的襲撃と富の奪取。金銀類がなくなるとイスラーム教徒の男女を略奪して、奴隷として売るが身代金を要求した。この資金でアジアと香辛料貿易を可能にし、イタリア諸都市は富の蓄積し、ルネサンスでの芸術として転化された。イベリア半島の征服し終わると、アメリカ大陸の発見と征服の書いてで、先住民を大量虐殺する。その根底にあるのは宗教的正義にもとづく排除の原理と異質な他者に対する不寛容である。
 排他的な原理を伴った形での国家と宗教の結合は、我が国の場合、明治期の国家神道に見ることができる。国家神道の起源は江戸時代の中期に古事記・日本書紀や万葉集などの古典文献学的研究をもとにした国学にあった。国学者は儒教や仏教が渡来する以前の日本の文化的精神的現像はかくあったと主張し、日本人としての同一性を訴えた。国学思想は本居宣長・平田篤胤を経て復古神道の唱道となって展開し、幕末期には尊王攘夷論となって幕藩体制を揺るがした。政治イデオロギーと化した尊王攘夷は尊皇倒幕へと変質し、明治維新によって天皇を中心とする新政府が成立した。政府は天皇の神権的権威の高揚を図る上から復古神道説を主張する国学者や神道家を登用し、新たな宗教政策を行わせた。それは神仏習合を否定し神道以外の宗教を排除するものであった。この結果、これを是とする人々が各地での廃仏毀釈運動を巻き起こした。このような過度な運動や仏教側の抵抗もあって、明治政府は行き過ぎを認めたが、第二次世界大戦に敗れるまで変わらなかった。神道国教化政策に大きく立ちはだかったのは憲法制定という近代国家の原則であった。近代国家の一つの要件として政教分離にもとづく信教の自由を盛り込まなければならなかったが、これは神道の国教化政策に矛盾することになる。これに対して政府は神道は宗教でないとの法解釈を下し、全国の神社は内務省神社局が所管した。国家神道を国民に徹底化させるために1890年んい明治天皇が国民に直接かたりかける教育に関する勅語が発布された。現代人からすれば学校教育で教育勅語を発布した。内容をかいつまむと(1)天皇家の先祖は道義を重んじる国家の樹立を心がけたが臣民もよく忠孝につくし心を一つにして美徳を発揮してきた。これこそが我が国体の精華であり、教育の淵源である。(2)臣民らは父母に孝行し、兄弟は仲良く、夫婦は仲睦まじく、友人とは信頼し合い、人に対して恭しく自分の行いは慎み深く、人々には博愛の心で接し、学業に励み仕事を身に付け、才能を磨き人格を高め、進んでよのため人のために尽くし、憲法を重んじ法律を遵守し、(2)ひとたび国家の一大事になれば、正義と勇気をもって国家に奉仕し、永遠なる陛下の御運が栄えるように努力しなければならない。これは汝ら祖先が残した美風を顕彰することでもある。(4)この教えは天皇家の祖先が残した教訓であり、皇族も臣民も守るべきものであって、古今東西を問わず誤りなきものである。(5)朕は汝臣民とともに胸中に銘記して、一体となってその徳の道を歩むことを願うものである。教育はの原則は知育・徳育・体育の三本柱からなっていると言われるが、この勅語は徳育に重点が置かれている。(2)で解かれている徳育は人類共通する徳目も多く、問題はこうした伝統的な道徳観を天皇の名の下に神聖視して、国家神道の一翼とし、これを基本的道徳としてことであろう。1948年に教育勅語は国会にて排除・失効の決議がされたが、日本人は倫理観の拠り所を失った。国家とは何かを考えざるを得ない世界の人々にとって、一つの教訓を与えている。
 近代以前は人民は支配者の主教に従うのが原則であった。奈良時代の仏教は国家仏教と呼ばれることがあるが、律令国家の最高主権者である天皇が公的に仏教を受容したことに対応している。天皇を中心とする日本の支配者層は百済再興のために派遣した大群が663年に白村江の海戦で唐・新羅の連合軍に退廃して以来、危機感を強め、国内の支配体制を強化するために、急ぎ中国の律令制を継受した。その最初の事業が天智天皇によって作成された全国規模の戸籍であった。その後、壬申の乱に勝利した天武天皇は、結果として独裁的な権力を手中にし、皇親政治の確立と律令国家の建設を目指したが同時にみずからの権威の高揚にも努めた。主教的絶対的権威に裏付けされた意味での天皇号を称したのは天武天皇が初めてであり、その遺志を継いだ持統天皇は即位式に当たり群臣から柏手による拝礼を受け、生身の人間のまま神となったのである。法典の編纂作業はこの両天皇の治世中にも続けられ、それは天武天皇の大宝元年701年、大宝律令となって結実した。八世紀前半の日本は「国」と呼ばれる60余の地方行政区に分かれていたが、支配者層が目指したのは天皇大権を基盤とする中央集権政治であった。全国規模で戸籍が作成され、軍事のための動員令、土地は国家のものであるという公地公民の観念にもとづく一種の土地貸与制度(班田収授法) 、政策実行のための膨大な官僚群の養成などの諸政策が施行された。大宝律令は当時の日本社会では考えられないような高度な統治技術を含んでいた。日本の実情に合わない部分は修正され、宗教に関して言えば神祠官を太政官から独立して並列させた。これは神祠を律令官僚機構の中に取り込み、古来の神々に使えるものたちを国家の統制化に置くことを意味した。また太政官を古来の神々の呪縛から解き放つ意味もあった。このような神道に対する国家統制は仏教に対しても図られ、僧尼令という全27条からなる法律で僧尼を取り締まった。しかし聖天天皇が即位する頃、すなわち四世期もすぎると、次第にその政策の矛盾が露呈し、本籍地を離れて逃亡する農民が出るなど、大きな社会問題がおこりつつあった。これに対して開墾省令法、墾田永年私財法を制定し、民有権を容認して行った。天武天皇はこのような時代背景のもとに、神亀元年24歳で即位するや次々と新しい政策を出して行ったが、その政策の手法を見ると、10年間の皇太子時代に学んだ帝王学によるものと思われるものが多い。天武天皇は経史のうち史記、漢書、後漢書の三史に関心が深く、特に前漢の第五代文帝の治世を手本としていたふしがある。即位の翌年に出した死刑・流刑の軽減策はその典型で、罪人に哀れみを掛けるという聖武天皇の姿勢は儒教の徳を持って治めるという政治の基本方針としていたことを物語っている。官人に対する監督が重要だと気づき、官人の勤務の実態把握、綱紀粛正と行政の実績に応じた賞罰、官人制度改革を手がけた。長屋王はこれに対抗し、疎まれることになったのであろう。当時の経済体制の根幹を成す口分田の班給の全面見直しを経て、みずからの政治に自信をつけた聖武天皇は731年の新年朝賀の儀において、唐の皇帝と同様の冕冠冕服で身を包んだ。そして16年ぶりの遣唐使派遣を決意した。ところがこの直後に、旱魃、飢饉、地震、疫病と毎年のように天災が日本を襲ったら。737年の天然痘の大流行は多くの死者をもたらし、国民は悲惨な状況に追い込まれた。中国の「天地の異変は君主の失政に対する天帝の咎めである」とする災異思想に苦しめられた。聖武天皇は734年「多くの民が罪を犯すことになった責任は自分一人にある」と詔して、高齢者や身寄りのない者を中心に、飢餓に陥った人々の救済を事細かに指示した。ここには天災などで困った状態に陥った人を助けるという、いわば政治の原点に当たるものが見られるのであるが、その理念は打ち続く天災に見舞われた頃から、「経史の中、釈教最上」として儒教でいう徳治から儒教にもとづく救済へと変化していった。がここでいう「釈教」つまり釈迦の教えというのは天武・持統天皇による「金光明経」の流れを受けたものである。この「金光明経」というのは釈迦が国王のような国家の支配者のために説かれたとされている経典で、そこには国家とは何かという問題が含まれている。その中で一種の王権神授説が認められるが、みずからの統治権を神から与えられている以上、国王はその統治の責任を神に対して負わねばならないわけで、王たるものはそれなりの気構えをもって政治に取り組まねばならない、ということになる。その気構えについて「もし世に悪事がなされていてもこれを看過し、正法をもってその罪を矯正しなければ、悪の原因が増長して、国内に姦闘が多発し、三十三天は瞋恨の心を起こすであろう」とか「むしろ身命を捨つるも、眷属を愛せざれ」とかの文言があり、国王に対する厳しい義務が要求されている。天平9年の天然痘の大流行は聖武天皇が金光明経を政治の基本方針に据えることを決定づけた。それと同時に人々の救済を使命とする菩薩のために説かれた「華厳経」を拠り所に、日本国の安念はむろんのこと、動植物すべての繁栄を願うという趣旨のもと、その象徴として盧舎那仏の大像を新たな首都の国分寺に造立することであった。盧舎那仏とは釈迦の悟りの瞬間を象徴するもので、姿形がなく、光に満ち溢れてい宇宙いっぱいに広がっており、しかも永遠に存在しているとされている。だが聖武天皇の大事業には第一に費用の問題と遷都の問題が立ちはだかった。第二に大地震が発生し、紫香楽で始まった大仏造立半ばの工作物も倒壊するという災異であった。災異思想に縛られている当時の人々にとって、聖武天皇が進めている計画は天神地祇の瞋恨を招いたと理解されたであろう。745年ようやく平城京へ遷都し、事業は金鐘寺、かつ大和国の金光明寺で再開された。のちの東大寺である。749年大仏本体がほぼ出来上がったおりに陸奥から黄金産出の知らせが届き、天皇は盧舎那仏の前で天地自然が自分の意思に応えてくれたという勅を読み上げた。華厳経の最終章では父王が出家して王位を太子に譲る話が書かれているが、聖武天皇も出家して譲位したと考えられている。
 イスラームの歴史をさらう。ムハンマドはイスラーム共同体を成立させ、始祖自身が剣を振るって戦いアラビア半島を統一する。632年にムハンマドが死去すると共同体は分裂の危機に陥るがアブー=バルクが神の使徒の代理=カリフとなり分裂の首謀者を徹底的に排除し、分裂を回避する。そのままアラブ統一の民族的エネルギーを生み出し第制服となり、第二代カリフのウマルに引き継がれる。ウマルは国家体制を確固たるものにし、広大な版図をもつ多人種・多言語を含む大帝国へと発展させ、征服地に全権を持つ提督(アミール)や徴税官(アーミル)を派遣した。ウマルを継いだウスマーンは征服の果実の分配に不満を抱いた勢力に殺されてしまう。そこから第一次内乱が勃発し、シリア総督のムアーウィヤによってウマイヤ朝が開かれた。ウマイヤ朝はアラブが特権的な支配階級として、異民族を統治することで、被征服先住民の改宗を奨励することは、カリフーウマル二世を除いてなかった。しかし過酷な税金に先住農民は逃亡したり改宗したりした。イスラームは第一次内乱以来、政治的分裂を経験し、そのことが新たな思想を生み、学問を産むことになった。やがて大征服も含めた最初期のイスラーム教徒の実績も対象とするようになり、これがイスラーム歴史学の萌芽となった。イスラーム法の成文化運動が怒ると、法解釈とはあまりにも異なる現実のウマイヤ朝体制に批判の矢を向け始めた。それはウマイヤ家カリフ位を否定し、イスラーム国家の最高権威者の地位を預言者の血をひく者に戻すという運動を起こし、アッバース朝が革命運動を成功させた。アッバース朝の真の建設者は第二代カリフーマンスールであった。アラブ至上主義にもとづく地方文献体制を廃して中央集権による統一体制を確立した。これはアブー=バクルによるカリフ制成立以来発展してきた初期イスラーム国家体制の一種の完成形といえるものであり、後世のイスラーム教徒が回帰すべきものとして描くイスラーム社会体制である。アッバース朝が真にイスラーム帝国とされるのは、この王朝の支配者たちがイスラームという宗教な意志はイスラーム法のもつ統一性の原理を現実の国家統治のうえに適用しようと努力した時代だったからである。ただカリフみずからが聖俗両権をもって統治する支配体制は実態的には10世紀の墓場で崩壊し、カリフは宗教的権威を保持するのみで、政治の実験はブワイフ朝など、軍事的支配者の手に握られた。ここに政教分離の現象がうまれ、いわゆるディーン(宗教)とムルク(王権)並列の時代へ、さらに軍事的支配者による聖俗両権掌握の時代へシスラーム社会は大きく変容していく。複数のカリフが生まれ統一が失われ、加えて十字軍や遊牧民など東西の各地で異民族の侵入を受け、かろうじて命脈を保っていたアッバース朝カリフ位は13世紀半ばのモンゴル軍によるバグダード陥落で断絶した。そのうえ内部でも政治勢力が構想を繰り返し混迷を深めて行った。こうした危機的状況の時代に歴史家イブン=ハルドゥーンが登場する。
 イブン=ハルドゥーンは1332年、北アフリカのチュニスに生まれた。先祖は南アラビア出身でセビリャの支配貴族だったこともあった。波瀾万丈の政治生活を送ったが、人間の思慮深さや人間の知識は国家の興亡に寄与することができないものか。政治に関わりながらも悶々とした日々をおくることおよそ九年、ようやく政治の世界から脱出して、人間社会の解明という課題解決のための学究生活に入った。イブン=ハルドゥーンはみずからの政治の失敗が現実社会の認識不足に起因していると気づき、改めて人間社会の本質を極めるための素材として歴史を選んだ。彼は歴史は因果律的に連続する時間の流れと捉え、そこに一定の法則を見出そうとした。彼は歴史書をはじめ、法学・哲学・帝王学などさまざまな書物をひもといたが、意にかなう学問を見出すことができず、「文明の学問」と名付けた新しい学問を創設した。それは独創的な方法論による一種の社会鉄抱くというべきもので、その著「歴史序説」にまとめあげられている。この文明は人間社会のことであり、学問研究の主な目的は国家の生成発展を分析することであった。彼は当時の混迷する政治の野家中にあって、再三にわたる失敗から反省の目で国家をとらえようとした。彼は地理的環境の差異によって社会集団の結束力が違い、内在する連帯意識が歴史を動かす要因になるとする。遊牧生活を送っている連帯集団は支配権への指向をもっているが、支配権の獲得に宗教は基本的な要素でないとする。人間は社会的結合が必要だが、互いに闘争する。それを抑制するのは連帯意識に裏打ちされた王権であるが、王権は人間の闘争本能を抑制することを本務としているため、専制化して人民の能力以上に強制するので、支配者への不服従を導き王権自身も崩壊する。そこで主権者の専制化をよくせいするために、大衆が認め従うような政治的規範、いわゆる法が制定される必要がうまれる。この規範には宗教によるものも含まれる。イブン=ハルドゥーンはこのような推論を重ねて政治形態の分類を想定し、カリフ制も絶対的なものでなく、カリフ制から君主制への変遷の歴史として把握することに成功した。
 現代ではグローバリゼーションにより宗教や文化の垣根が失われて、流動化しつつある。けれどもアジアだけでとってもアジア人の連帯感情がうまれて共同体形成につながるような子可能性は薄い。地球規模では普遍的な問題を連帯感情として、宗教のようなものを生かしていく道もあるかもしれない。

 第五章「アフリカから何が見えるか」では、人類の未来に対してアフリカの役割を考える。アフリカは遠い存在であり、日本からの観光客数は65000人にとどまり、まれに見るニュースでは紛争や飢餓、エイズといった社会問題に限定される。私たちがアフリカを考える際にはまずは私たちを強力に支配している先入観を取り払わなくてはならない。ヘーゲルは黒人を野蛮な人間として、その論理がその後の植民地支配やグローバル化社会などの時代の変遷においても影響している。さらにアフリカの世界史からの排除までも言及している。これを正面から擁護する哲学者や歴史家はいないが、救済や援助の議論はヘーゲルのアフリカ認識と大同小異である。またその解釈の仕組みがどのような歴史的過程で創造され、どのような役割を担ってきたかも根源的批判的な視点から見直す必要がある。ただ一方的にアフリカをグローバル社会のやっかいものと捉える伝統的なアフリカ認識は21世紀になって大きく変化しつつある。今世紀にはいるとアフリカ経済は統計的には驚異的に回復し、資源国以外でも多くの国が高い成長率と個人所得の増大を享受するようになった。しかしそれはグローバル化する世界システムの中で一方的に資源国の役割を押し付けられたからであり、さらにこれまでの西欧諸国のアフリカ像は変わらないままで温存されている。一方でアフリカ社会が固有に編み出し運用してきた知識や制度が、現代世界や人類の未来にとっても貴重な知的資産となる、というアフリカの潜在力を未来の世界にとっての資源ととらえる味方である。それは共生や互助、切り裂かれた社会の修復、文字と理性を絶対的に信仰してきた人間感や歴史観の相対化といった領域で育んできた潜在力である。
 アフリカは成長と発展という希望のベクトルと、感染症や紛争という絶望のベクトルであり、これらは1960年代にアフリカ諸国が独立を勝ち取って希望にあふれた時代では希望にあふれていたが、1970年代から80年代にかけて軍事クーデータや地域紛争が起こり、1990年には内戦、貧困、エイズ、旱魃など多くの問題にさらされてきた。しかし21世紀に入ると世界的な資源価格の高騰を背景に原油や希少資源を算出する国だけでなく、その周辺こくでも外国からの直接投資が激増した結果、年率5%-10%という経済成長を遂げた。こうした希望と絶望の往復という近現代アフリカ社会の変動を全体的に捉えようとするときに二つの視点がある。一つは世界のマクロな政治経済機構構造に原因や方策を求める視点と、もう一つはアフリカ社会内部のダイナミズムに求める視点である。本章の立場はアフリカの困難や問題は大部からの構造的な条件によっているが、処方箋はアフリカ人自身の社会・文化的資源として蓄積され運用されている。この処方箋は現場で新たに更新され生成され続けているが、人類の共通の資産として位置付けることを提唱してみたい。21世紀初頭に次々と和平合意が締結され、アフリカ大陸のほぼ全域を覆った泥沼の内戦も一時的な収束をみた。こうした政治的安定は2002年に誕生したアフリカ全土の統合の安定をはかるアフリカ連合の成立によって成果を上げていた。21世紀にはいって起こった成長への転換を導いた直接の原因が、世界的な資源価格の高騰であったことは間違いない。原油は2002年に比べると2007年には4倍近く、金属は3倍近くの高値になった。産油国には欧米の石油メジャーをはじめ中国、インド、マレーシア、南アフリカなどから大量の資本が投下され成長を牽引した。今日、中国の全石油消費量の三割をアフリカが供給しており、アメリカもアフリカへの原油依存率を15%にまで高めている。こうした資源開発を中心としたアフリカ投資と開発援助の世界で存在感を急速に増しているのが中国だ。石油については年率30%を超える勢いで消費量を増大させている。これに対抗するように日本はアフリカに対する姿勢を転換させはじめた。日本政府は2008年の第四回アフリカ開発会議で、華々しい援助公約をうたい上げた。一方で1990年にアフリカを覆った病理や問題は基本的には何一つ解決されていない。2008年をとっても内戦や住民虐殺の悲劇は継続的に発生している。ソマリアの内戦は停戦合意がなされたが激化する傾向にある。スーダンのダルフール紛争はアラブ系牧畜民族が牧草地をもとめて南下し農耕民族の土地への侵入に起因しているが、スーダン国軍とアラブ系牧畜民の民兵組織と武力衝突を繰り返し毎年10万人以上が犠牲になるジェノサイドとして継続している。こうした政府軍と反政府軍との間の戦闘はこれ以外にもコンゴ民主共和国、コートジボワール、ソマリア、ブルンジ、西サハラで継続し、多くの難民を生み出している。大統領選挙や物価値上げの際に社会が破局的状態に突然陥ってしまうことも起こっている。2007年に行われたケニアの大統領選挙では優勢な野党候補に対して開票報告を中断し再選宣言をした現職大統領と同じキユク人の一部が虐殺されると、民族間の報復の連鎖が起こり、内乱と社会秩序崩壊の瀬戸際まで追い込まれた。アフリカの経済成長はマイナス成長から脱したとはいえ、1日1ドル以下で生活している貧困層の数は世界レベルでは10億人から6億人に減少したものの、アフリカでは横ばいをしてしている。
 次にアフリカを理解するために潜在的に使われているアフリカ・スキーマについてみていく。部族スキーマは部族という観点で出来事を見ようとする方法だが、1994年のルワンダのツチ族とフツ族の対立や、2008年のケニアの動乱もキクユ族とルオ族の対立が原因とされる。ベルギーにもフラマン人とワロン人の対立があるが、部族対立とは言わない。アフリカでは未開性や野蛮性を想起させる部族という語彙が選ばれている。一方でアフリカが固有に育んできた集団編成の知恵は部族性とは正反対の開放的で二重帰属や帰属変更も可能な柔軟な社会集団だった。このような構造は統治や徴税に適していなかったので、植民地政府は社会を人為的に階層化し部族社会化させていった。イギリスは少数のイギリス人行政官が圧倒的多数のアフリカ人を支配するために王や首長を探し出し、その伝統的政治組織を統治に使おうと試みた。しかし東アフリカのサバンナ地域では王国や首長国がほとんど出現しなかった。そのため部族境界を地理上に人為的に定め、その境界線に囲まれた人々をその部族民として固定して登録した。ルワンダでもベルギーが同様の制度を導入し、人々はフツ族、ツチ族、トゥワ族と記載された民証明書を与えられた。こうしてルワンダにおいてツチ族とフツ族が固定され分離されたのである。ツチ族vsフツ族の部族対立の図式は現在では歴史を歪曲するものとして厳しく批判されるようになった。まず批判の第一点は牧畜民=外来の支配者、農耕民=土着の被支配者という思い込みが誤りであった。今日の言語学、考古学的資料からは13-15世紀に北方からクシュ系などの非バンツー系言語を話す集団が侵入した証拠はない。現代のツチもフツもまったく同じバンツー系言語の話者である。また牧畜民と農耕民の関係は19世紀半ばまでは、基本的に平等であり、相互にサービスを交換しながら共生していたこともわかっている。彼らはともに同じ言語を話す土地の人間であり、外見上もかわりなかった。19世紀後半のルワブギリ王の統治時代になってから牧畜民と農耕民の間に緩やかな上下関係が形成されはじめた。つまりツチが上位でフツが下位という伝統的な社会構造は極根の浅い柔軟な伝統であった。批判の第二点は背が高く褐色を持つ牧畜民ツチ、背が低く色が黒い農耕民フツ、という部族のステレオタイプが語られてきたが、両者はまったく別の民族集団だという証拠は何一つない。15世紀ごろから農耕と牧畜の生業文化が進み、農民は丘陵地帯の頂上付近に住み、牧畜民は中腹から狭谷地帯を遊動した。ルワブギリ王の知性に裕福な牧畜民は王の周りに集まり王の進化となった、彼らはその時にツチという社会階層として自己形成した。一方、税や賦役を要求される農民は、フツとして緩やかに自己形成していった。19世紀末に形作られたツチとフツという集団の雛形がドイツとベルギーによって分断し固定化した。このように今日に至る民族の固定化は発明されたものである。
 第二次大戦が終わると二つの勢力が汎アフリカ主義に基づく政治・文化活動を開始した。一つはパリやロンドンに留学しアフリカ各地からやってきた同じ境遇の若者と交流したエリート層の海外留学組で、もう一つは大戦で白人に伍して戦い合理的思考と組織化の方法を身につけ、除隊に際して多額の資金と様々な特権を与えられミドルクラスを形成した復員軍人組である。イギリスの支配下においては近代市民社会の規範とルールをもつ社会と伝統的な部族社会を完全に分離することで政治運動を封じ込めようとした。ケニアの場合には部族を単位とした政治結社が形成され、お互いが半目しあい、独立に向けた交渉を有利に進めようとするイギリスを利することになった。しかし海外留学組や復員軍人組はナショナリズムを旗印にし、部族境界を超えた国民政党の組織化に全力を注いた。そしてケニア・アフリカ人民主連合(KADU)と、ケニア・アフリカ人民族連合(KANU)という二つの国民政党が独立前の総選挙を戦い、KANUが議席の多数を占めた。このKANUはケニアの二大民族集団出身者によって運営されており、最大民族集団のキユクと当時の二番目に大きな民族集団だったルオであり、大統領にはキユク人、副大統領にはルオ人が就任し、権力を分有した。しかし、二人が親米と親ソ連という二つの政治路線をめぐって争いはじめると、それぞれが支持基盤とするキクユとルオという二つの民族集団の排他的帰属意識と忠誠心を活用して大衆を動員した。その結果、両集団間には激しい敵意と憎悪の感情が醸成されていった。新興政治エリートたちは、自らの政治的資源として、イデオロギーや思想などではなく、植民地政府が発明し定着させた排他的服従的で自然な感情を喚起させる部族こそが、有効で強力なものだということを確認したのである。こうした傾向は以後の現代ケニアの政治しーんのなかにおいて持続的に拡張していった。
 部族スキーマの中にある未開性・野蛮性のイメージの形成過程について考えていく。2001年8月南アフリカで開催された反人種主義・差別撤廃世界会議では奴隷貿易は人道に対する罪であるという共同宣言まで漕ぎ着いた。これは現代の世界システムの中心に位置するこうした国家群が組織的制度的にアフリカを貶めてきた歴史がようやく被害者であるアフリカと向き合う形で正面から語られるようになった。18世紀に西ヨーロッパに成立した近代市民社会はアフリカをさげずむものであった。しかし蔑視の歴史は古代まで遡るわけではなく、とくに10世紀から14世紀のアフリカは他地域と比べても経済的繁栄を謳歌し政治的安定を誇った文明の中心地の一つであった。なかでもとくに大規模なものが14世紀に栄華をきわめたマリ王国であった。もともとは現在のギニア共和国北部の金鉱山ワンガラからさんしゅつされる金の交易に従事していたマンデ系民族が、ニジェール川最上流のニアニ付近に興した小国であった。この時代に西アフリカにもたらされたイスラームの教えを受容した支配者はサハラ砂漠を縦断する長距離交易に乗り出すことによってマリの版図を一挙に拡大していった。マリ王国は社会制度の整備にも力を注ぎ、モスクを建設させ、大学を開学した。人民統治は文官による行政制度によって行い、王による口頭の命令を筆記し法文化させる秘書と役人も用意していた。ヨーロッパやイスラーム世界からの旅人はこぞってアフリカ文明を賞賛した。この豊かなアフリカ社会は16世紀に突如終わりを告げる。最大の原因は15−16世紀から初めったヨーロッパの世界制覇の運動であり、それに続く17-19世紀に起こった市民釈迦の誕生である。この16世紀から19世紀後半にいたるまで、アフリカ大陸の西海岸、南海岸、東海岸から南北アメリカ大陸、ヨーロッパ、中東地域へとアフリカ人は奴隷として売買され送り込まれていった。中でもヨーロッパの船でアフリカ人の奴隷をアメリカ大陸へと運ぶ航路は人類史上最悪最大の人身売買ルートであった。市民社会の発展とアフリカの同隷化は同じ世界史の歩みの表裏を構成していた。アフリカから新大陸へどれだけの数のアフリカ人が奴隷として連れ出されたのかについては、正確な数は不明であるが、ある研究者はすくなく見積もって16世紀に90万人、17世紀に275万人、18世紀に700万人、そして19世紀に400万人と総計1500万人と推定している。しかし、これは輸出された商品としての奴隷のかずであり、実際には奴隷狩りの侵略や戦争での死亡者や、港で積み出されるまでの道のりで死亡した数や、奴隷船の中で死亡したものが膨大にそんざいしている。別の研究者によるとアメリカにたどり着いた奴隷一人について、五人の人間がアフリカや海上で死亡しているはずだと推定している。そうすると新大陸向けの奴隷貿易だけで、アフリカかた7000万ー8000万人にものぼる労働適齢期の人間を奪ったことになる。これは三角貿易とよばれるサイクルにしたがい、ヨーロッパ、特にイギリスから鉄砲、アルコール、綿布などの廉価な製造品を満載した船が西アフリカ沿岸で、船荷を奴隷と交換する。奴隷を積んだ船は新大陸へと渡り、そこで奴隷を下ろして砂糖、綿花、タバコなどの換金作物を買い込んで、西ヨーロッパの母港へ向かう。このサイクルは1年半から二年に及んだ。西アフリカから新大陸まではほぼ40日から70日の航海だったが、悪天候がつづけば100日を超えることもあった。奴隷たちは頭を剃られた上で足首に鎖をつけられ、所有者の焼印が身体にやきつけられた。全裸のままで船倉にぎっしりと詰め込まれた奴隷の多くは、病気に罹ったが、生きたままで海中に投げ捨てられることも珍しくはなかった。新大陸に積み出された奴隷たちは大規模な砂糖キビプランテーションで過酷な労働に従事させられた。そこで作られた砂糖はヨーロッパでぼうっこうしつつあった市民や資本家、知識人がコーヒーや紅茶と共に消費された。こうして市民階級が釈迦の実権を握るとその需要は跳ね上がり、その需要を満たすために新大陸からは大量の砂糖が送り出され、そしてその生産のために、ますます多くのアフリカ人奴隷が必要とされた。三角貿易によってヨーロッパは莫大な富を手にし、世界システムの支配者としての座につくことになった。こうした富と力を背景にして、政治、経済のみならず文化、学術の分野においても、ヨーロッパは急激な社会革新を推し進めていった。市民革命や産業革命を党して、現代世界の雛形となる社会が西ヨーロッパに出現した。この近代市民社会の理念は自由であり平等であり友愛であった。この理念と奴隷貿易が両立した理由としてはアフリカ人は自分達と同じ人間でないという考えである。この考えについて大量で多様な言説が、哲学や思想そして生物学の名によって生み出された。
 アフリカには外部社会との折衝交渉衝突のなかで、自前で育ててきた問題対処の知恵や実践がある。一つは開放手で柔軟な帰属意識を許容する集団編成である。ケニアにはアバメニャ・システムという数人・数家族単位で自由に移動していく人々で、ある土地に滞在し、土地の一族のやっかいになる。一団を休養させ、その先々の情報を仕入れた後、すぐに立ち去るものもいるし、数年間居候を決め込んだり、土地のクランの娘と結婚し、新たな一族の始祖になるものもいた。そこには異人排除の閉鎖性や暴力性はなく新参者はたいてい土地の言葉を身につけ、土地の習慣を取り入れていく。これが日常的に繰り返されていけば、二つの民族間で全面的な対立などおこりようがない。なぜなら二つの民族のなかには同じ一族、血のつながった親族がくらしており、彼らを殺傷することは文化的に許されない行為になるからだ。ケニア社会にもこの編成原理を今日なお実践している集団がある。たとえば北ケニアの乾燥地帯の牧畜民アリアールである。クシュ系の言語を話すラクダ牧畜民であるレンディーレと、ナイロート系の言語を話すウシ牧畜民のサンブルという民族集団に挟まれて暮らしている極少マイノリティ手段である。アリアールの人々はまったく言語系統が違う二つの言葉を不自由なく話す。また北ケニアの牧畜民社会は民族の境界を超えて、血縁関係を擬したクラン同盟を結び、異なる民族内に一族を作り上げる。このような柔軟で複数性・解放性を備えた集団編成の原理は、異なる文化や価値観をもった複数の民族集団が矯正して、一つの社会の中に緩やかな連帯を作り上げる上で、きわめて有効である。もう一つの潜在力は代替的紛争解決策である。アフリカ社会が経験してきた独裁政権による拷問や殺人、内戦内乱によるレイプや大量殺戮といった重大な人権侵害はどのようにして人権を回復できるのだろうか。現在世界各地で採用される方法は二つあり、一つは国際法定であり、一つは公衆の前で真実をあきらかにして被害者と加害者を和解させるという方法である。前者についてはルワンダ虐殺の戦犯法廷などである。後者の和解の方法は南アフリカなどで見られた真実和解委員会で、国家暴力によって、著しい人権侵害を受けた被害者たちが公衆の面前で被害と加害の事実を明らかにし、加害者を許しを国民和解を目指すという方法である。アパルトヘイト体制への講義や抵抗を表明する人間に対して、国家権力をあげて徹底的な迫害と暴力行為を続けた。こうした圧迫に対してテロなどの物理的な対抗手段もとられ、国家暴力を起点とする相互暴力の無限循環サイクルで憎悪と復讐によるカオスを生み出した。この社会でどのように新たな南アフリカ国家を形成していくかという難題に対して、ネルソン・マンデラ大統領が出した回答が和解と許しを土台にした国家創造であり、そのための真実和解委員会の設置であった。法廷において重要なのは事実を証明する物的証拠であり、被害者の主観的な思いや感情の発露は重視されないどころか、むしろ逆に排斥されることが普通だ。ところが南アフリカのTRCにおいてはアフリカ社会が伝統的に採用してきた、語の力を徹底的に重視するスタイルに依拠した。
 たしかに、かつての奴隷貿易と植民地支配と、今日の開発炎上は、方向がまったく異なっている。しかし皮肉なことに、両者は、古典的なアフリカ・スキーマを共有している点で、同じ立場にたっていた。19世紀末に西ケニアに派遣されたイギリス人の行政官の日記や私信をみると、遅れた原住民の生活をいかにして文明化するのかという熱い情熱があふれているこおとに驚愕する。それは今日の援助ボランティアがなんとか現地の暮らしをかいぜんしたいと献身する心情と酷似している。アフリカをつねに客体としてのみとらえ、その主体としての影響力を想像することができないのだ。アフリカ社会が育んできたさまざまな社会・文化・自然に関わる潜在的可能性を見ようとはしないし、ましてや、そこから学ぼうという姿勢など見出せるはずもないのである。21世紀のアフリカはこれからの人類の未来にとってオルタナティブな枠組みを提案することが可能であるがゆえに大きな意味をもつのである。

 第六章「中近世移行期の中華世界と日本ー世界史の中の日本」では日本史の中世から近世への移行期を世界史の中で捉える。日本の中世は鎌倉時代と室町時代、近世は江戸時代、明治以降は近代というのが常識だ。鎌倉時代の成立にさいして源平の内乱があった。おもに公家と百姓から成っていた社会に武士階層があらたに登場する。室町時代に先立っては南北朝の内乱があり、商工業の世界が拡大した。ついで戦国時代をへて織田信長・豊臣秀吉による天下統一、やがて江戸時代を迎えるが、これには大名同士の領域を巡る戦いと、一向宗やキリシタンなどの信仰に結ばれた百姓の組織を大名が連合して制圧した戦いがある。一向一揆や島原の乱などがそうした事例である。対立する双方が日本列島の住人であったこうした動乱に対して、鎌倉末期の蒙古の襲来や、戦国時代のヨーロッパ人(キリスト教宣教師)の渡来は外敵の侵入という珍しくも厳しい経験であった。ともかく内外の危機を顧みると、中世から近世への長い移行期は激動の時代であった。中世が自力救済社会とよばれるのは自力で自己の権利を保全する動きが強かったが、近世は法の力が天皇・将軍から百姓・町人にいたるまで浸透していた。中世が十二世紀から始まるとすると、近世への移行期は500年におよぶことになる。室町から中世の解体過程に入るとすると移行の時間は300年前後となる。
 自然的には大陸にまといつくように列島が連なっている。列島とこれに相対する対岸とからなる地域はあきらかに一つの世界を構成して、古代から海を通して交流を深めてきた。東アジア世界のうち中国文面の先進性、高度な内容は圧倒的であり、政治制度において律令制を生み出している。中国から律令制を受け入れ国家形成をおこなったのは朝鮮・日本・ベトナムなどである。日本の古い歴史は中国の史書に記されている。日本の政治が規範とする古典はほとんど中国のものである。徳川幕府が天皇・公家等のなすべきことを定めた禁中ならびに公家諸法度には、「貞観政要」「群書治要」の二書が入っている。前者は唐の太宗が侍臣とかわした政治論議をあつめたもの。後者は唐代に多くの書物から政治にとって重要な語句を抜き書きしたもの、だが中国皇帝の必読書とされ、日本でも天皇・公家が政治にたずさわるさいに教養の基礎とされてきた文献である。近くは我々のもちいる元号「平成」は中国古典の史記や書経から選んだものである。元号が中国古典から選ばれることにきまっていて、明治・大正は易経、昭和は書経から選ばれている。ここに見られる関係はヨーロッパ諸国民とギリシア・ローマの古典との関係に似ている。古典を共有するとはどういうことであろうか。人々が事にあたって行動し思索するさいにある種共通のパターンを描き出すのではないだろうか。そこで互いに相手に対する理解も深まり、協力・共同の意識が強まるのではないだろうか。鎌倉時代の貴族の歴史意識をかんたんにふりかえってみよう。愚管抄は日本の歴史を三つに時期区分し、道理の展開が歴史を動かす原動力になったことを説いた史書である。最高の教養人であった慈円は書の冒頭に漢家年代をおいた。日本の年代に先立ち中華文明の年代が最初に置かれたのである。盤古、三皇、五帝、三王が歴史の冒頭に挙げられた。愚管抄はこうした記述の後に神武・綏靖・安寧・懿徳・孝昭以下日本歴代天皇の名をあげている。
 日本列島の住民は古くから誇り高かった。後漢書によると奴隷と考えられている生口を中国に朝貢していた。宋史によると「太陽の現れる場所という縁起の良い日本を好んで国号に用いる」とある。宋書には倭五王が入貢したとあるが、五人はそれぞれ安東将軍倭国王などの称号を与えられた。一方で埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣銘にはワカタケル大王の天下を治めるのを助けたと示されていて、日本においては5世紀に中国皇帝の支配下にある天下と並んで雄略天皇の支配する列島内の天下が存在したことがわかる。
 先近代の中国で外交を担当したのは礼部である。例をもとに諸国、諸民族との付き合い方をきめていたが、その基本になっていたのが華夷思想である。中国大陸の中央部の中原は土壌が豊かで生産力が高く、文明の程度も高かった。文明が高い華に対して、文明の程度が低く、人間らしい礼節を知らぬ連中を夷とした。中華は東夷・西戎・北狄・南蛮という四夷に囲まれた華という中国人の自信と誇りを表明する言葉になった。礼の反対語は刑で例が実行されない場合には刑が発動される。礼については広辞苑では「社会の秩序を保つための生活規範の総称」としている。遣明船は政治的には形の上で朝貢・賞賜の関係を結ぶことのほか、経済面では諸国の進貢物とそれに対する反対給付として頒賜物をあたえる一種の貿易関係を作り出していた。朝貢携帯をとらない交易関係は志望液として厳重に禁止されていたが、実態は全乗組員のうち私的な従商が多くをしめていた。進貢物に対するお返しは実際には進貢物に対する代償の意味をもったので、交易そのものであった。
 日明通交が商業に重点化され拡大したとすると、そのルートが恒久的に保証されねばならない。幕府や有力大名などはみずからの公的・私的な武力を動員してこの国際幹線交通路の保持にあたった。島津家の文章では遣明船を警固した内容もある。二本の中には琉球を征服しようとしたり、倭寇となって海賊行為をする勢力もあったが、幕府は遣唐船の安全を図るべく大名に指示をしていた。明帝国は通交を求めてやってきた朝貢船の積載したすべての商品を品ごとに値段を決めて強制的に買い上げた。このスタイルは豊臣秀吉にも引き継がれ、片瀬沖に着岸したポルトガル船に対して、島津義弘に指示して徳川幕府の鎖国下で行われていた糸割符の取引法とまったく同じように処理させた。鎖国の語はケンベルの文章を19世紀初頭、長崎通詞を努めた志筑忠雄が翻訳し、作り出したものである。近年では「4つの口」論というものもあって、近世においては長崎・対馬・松前・薩摩の四港がそれぞれオランダ・挑戦・蝦夷・琉球に対応していたことが明らかになっている。そして、これらのことから敷衍して「鎖国」は存在せず、幕府による貿易独占と人民の海外進出を禁じた海禁政策があったとみるべきだという、どちらかといえば経済政策に重心の置かれた議論がある。17世紀初頭の女真族蜂起を景気に起きた東アジアの大動乱を見て幕府学問所頭取の林春勝は華と夷が入れ替わったとして華夷変態と題した。これは脱亜入欧に余計なバイアスを加え、その後の道を誤らせる結果をもたらしたと思われる。また「鎖国」という詞には現状に対する批判が込められており、「開国」という未来への路線がかくされている。その点で、徳川幕府の「鎖国」体制の成立とそれが近代に及ぼしたものについては、さらに政治的・思想的・文化的な側面から考察を深める必要がある。

 第七章「繁栄と衰退の歴史に学ぶーこれからの世界と日本」では座談会で、、する。9.11の話からイスラームやそのヨーロッパへの影響の話にある。EUは文化や歴史のベースがあって統合しやすいが、東アジアは中国という巨象が一頭いて、周辺に小国がある状態でヨーロッパとは違う。東アジアは歴史的わだかまりもあるが、ヨーロッパもずっと戦争してきている。違いは民族は混ざり合っていて他国との政略結婚も多い。日中においてEUのようあ共同体の幻想は持たないほうが良い。高度成長によって東京も変わった。かつては奥多摩や秩父の山奥にも農業が行われて侵攻があり、地域感を結ぶ道のネットワークもあって社会が存続していた。こういう山村の社会や文化は全国にあったが、日本のバランスが崩れてなくなった。東京一極集中が強まり、地方では赤字ローカル線が次々に配線が追い込まれることになった。戦後の人口は3500万人だったが、現在では1億2600万人に増えた。経済も大切だが、国を上げて文化を育てるようにしていく必要がある。日本は特に都鄙の格差が広がっている。都心でも相続のために農地を売ってそこが宅地になるケースがあるが、田園は絵画的な美しさだけでなく、人間社会と有機的な関係をもっていることにも価値がある。河や水田も大気を水分で潤す役割がある。水田で蓄えられている水がなくなれば洪水が多発する。しかし経済的な価値に還元されないと今の世の中は動かない。
 今までは技術力の高低差で繁栄したり、資源型の繁栄もあるが、これからは穏やかな繁栄があるのではないか。その中でもモノづくりも大切なのではないか。食文化ももう少し地域文化に結びついた形で魅力的にアピールできるのではないか。日本や他の国でも独特の匂いや生活音がしていた。これらも文化なのではないか。日本人は庶民も生活を楽しむことができた。日本には閉塞感の中にもポテンシャルを感じるが政治が重要。国境問題、民族問題、宗教問題が出てきた場合に政治が来るが、今のところ大きな問題には直面しておらず政治が機能しなくてもやってこられた。これからの日本に期待したい。

気になった点

 人口のところでは日本の人口減について関連して読んだ。栄養長体とストレス軽減が出産数に影響するのであれば、日本はこれができていないということか。文化的な要因もあるとは思うが。

 二つの海域世界の中で「陸地に取り込まれた海域を成立場とする海域世界」は世界の多くの海域世界のタイプだったとする。これに中心にした研究について知りたい!日本海もこれであろう。

 海面が低かったときの海流も同じだったのかはちょっと知りたい。

 p.192キリスト教の虐殺の歴史は知らなかった。あとイスラーム世界では大型船を作るための木材が得られなかったというのは興味深い。

 聖武天皇の徳をもって国を治める、というのはよく考えれば当たり前のことだが、資本家に乗っ取られてしまっている現在の国と比べると何であろうと思ってしまう。王権と資本家というのは永遠のテーマである気がするが、昔はどうしていたのか。藤原氏とかも結局、資本家だったのかな。日本における資本家と政治の関わりももう少しその辺りを勉強したい。

 アフリカについては初めは正直興味があまり薄くてつまらないなぁとも思っていたが、読み進めていくうちに「これこそ全人類が読まなくてはいけない論考だ」という風に代わり、目から鱗が大量に流れ出した。

 日本の近世の議論の中では鎖国はなかったのではないか、という話まで出てきて興味深かった。

最後に

 最後の興亡の世界史を読み終わった。軽い意見のようなものの集合体だと思っていたら、濃厚な論考がたくさんあり読み応えがあった。これ単体でもぜひ手にとって頂きたい書籍である。アフリカなどについて知りたい方にはおすすめします。

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