
序章 古事記の始まり
712年に完成した。それまで神話を伝える「旧辞」や、和歌を伝える「旧辞」があった。「帝紀」もあった。古事記は上巻、中巻、下巻に分かれており、上巻は5つに分かれる。1神々の出現、2国生み、3高天原、4出雲の神々、5日向三代だ。スサノオノミコトと後継者のオオクニヌシに多くが割かれている。中巻は神武天皇から応神天皇までになっている。下巻は仁徳天皇から推古天皇まで、物語は顕宗天皇で終わる。仁賢天皇以下は系譜だけになっている。
やまと言葉でかかれている。日本書紀との違いとしては、卑弥呼を神功皇后だと考えていた。神武天皇の時代以降は特定の日付があるが、推古天皇以前はあやしい。
第一章 国の創世神話
造化三神から始まる。神世七代に続く。日本書紀は神世七代から始まっている。(★島を作った話は島ができたという時期)
秩父神社:知知夫彦命の祖先が八意思兼命。(八代神社:渡来系武士)高御魂神社:高御産巣日神の子孫と称した津島下県氏。
国生み。日本書紀にはヒルコは三歳になるまで足が立たなかったとある。大八洲を生む。淡路島では国魂と呼ばれた土地の守り神がいる。淡路市に古代のイザナギ信仰の流れを引くイザナギ神宮がある。天地の間を行き来する天鳥船神などを生んだ。鉱山の神。日本書紀には迦具土神が埴山姫と結婚してワクムスヒという食物の神を生む伝承がある。(★イザナギは淡路に関係するか)
黄泉の国訪問。帰ると、イザナギは筑紫の日向の橘小門のあわきはらで禊祓いを行った。宮崎市の阿波岐原町にある江田神社をその地とする説もある。様々な神が生まれる。綿津見三神は阿曇氏が祭る神で、住吉三神は津守氏の氏神。外交や貿易に従事した航海民を束ねる豪族。
伊射奈岐神社@淡路市、花窟神社@和歌山県:イザナミの御陵。伊射奈美神社:海神信仰。西宮神社:ヒルコが西宮の海岸に戻ってきた。龍田大社:イザナミ・イザナギの子シナツヒコトトミコトという風の神=国御柱大神。
高天原。イザナミはアマテラスに首飾りを授けた。高天原にスサノオが向かう。イザナギは近江の多賀の地にお隠れになった。天ヶ原でスサノオは、福岡県宗像市の宗像神社で海の神として祀られている三柱の女神を生んだ。また皇室の祖先の五柱も生んだ。スサノオは事故を犯しアマテラスは天の岩屋にこもる。スサノオは献上品を差し出した。(★スサノオと高天原の関係)
ヤマタノオロチ。スサノオは出雲で進行された土着の神。くしなだひめを妻に。須賀ですがすがしいので和歌。2世紀ごろに出雲全域の豪族連合がつくられ、荒神谷遺跡で豪族たちの共同の祭事が行われるようになったと見られる。主導したのは神門氏の先祖。荒神谷遺跡に近い飯石郡須佐郷に須佐神社がある。現在の宮司家はクシナダヒメの親の足名椎の神の子孫だと称している。出雲氏は須賀で勢力を拡大し、意宇郡と呼ばれた島根県松江まで勢力を広めた。松江市の八雲町に熊野大社という有力な神社がある。出雲市は四世紀半ば大和朝廷と結んで神門氏を従えた。(★スサノオは出雲関連)
祟神天皇の祭祀場を伊勢に移したと日本書紀。月読神社@長崎県壱岐市:壱岐は月神の子孫としていた。八坂神社@京都:スサノオ、クシナダヒメ。氷川神社@さいたま市:五代孝昭天皇に始まる、スサノオ、稲田姫。
オオクニヌシの迫害。いなばのうさぎ。オオクニヌシが焼けた岩を受け止めたのは赤猪岩神社@米子駅の近く。焼け死んだオオクニヌシに神産巣日神は女神を送る。紀伊の国の大屋毘古神を頼る。根の国のスサノオも訪れ、スセリヒメを娶る。出雲の伊賦夜坂を下って根の国に行くと信じされていた。オオクニヌシは因幡の八上比売や、越(北陸)に行って、沼河比売に求婚、中のよい夫婦になった。沼川郷(新潟県糸魚川市)の女神で奴奈川神社がある、ヒスイが取れた場所。この他に宗像大社の多紀理毘売命、建物の神、神屋盾比売命、鳥を取る職業の人々が進行する鳥取神の三柱が妻。オオクニヌシは少名毘古那神の助けを得て、国作りをした。日本書紀の異伝の中に少名毘古那神は高皇産巣日神の子神とするものがあるし、伊予国風土記にはスクナヒコが温泉に入って生き返った話が記されている。
大国主神を祭る中心神社は出雲大社だが、中世以降に各地に分社ができた。少名毘古那神は対を成す神として人々に愛されてきた。赤猪岩神社@鳥取県南部町:大国主が赤く焼いた岩をやいてなくなった、淡島神社@和歌山市:神功皇后が帰りに難破して友ヶ島(神島)にたどり着いた。白兎神社@鳥取市:素兎が体を乾かした身干山につくられた。
日本神話のルーツ。3つの道筋。1つめはオセアニア、インドネシア、フィリピン。2つ目は江南から中国の長江下流域から九州にいたる道。3つ目は中央アジアの草原地帯から中国東北地方を経由して朝鮮半島から日本に来る道。南方系神話は知らない海の向こうから神々が訪れる物語。古代の江南は南方の国々の公益の中心地として栄えていた。紀元前1世紀には江南の有力な航海民がまとまって日本に移住して同鏡を用いる祭祀などを伝えている。北方系の神話は神々が点から降りてくる。遊牧民の文化は5世紀末から日本に入ってきた。
第二章 皇室の起源
国譲り。大国主神は大物主神の教えに従って国をよく治めた。ただ天之忍穂耳命に地上に降って日本を治める。天の浮橋からみると日本国は騒がしく、君主の命令のもとに、地方豪族が秩序だった政治をするのが望ましいととし、アマテラスは造化三神の中の高御産巣日神と会議をし、天菩比神の派遣を推薦した。四度に渡って高天原から出雲の大国主神の下に使者が送れた。出雲国風土記に天乃夫比命が意宇郡屋代郷(島根県安来市)に天降ったという伝説が記されている。彼は三年たっても連絡なし。天若日子に宝器を与えて送り込むが大国主神の娘を妻とし8年戻らず。鳴女をおくるが射殺される。剣の神の建御雷神が船を操る天鳥船神と共に出雲に向かう。この二柱は中臣氏が祭った神。二柱は出雲大社の近くの伊邪佐の浜(稲佐の浜)に降り立った。建御名方神と建御雷神が争って、諏訪に来てそこにとどまった。遷却祟神祝詞という朝廷の祝詞に、この話の原型が見られる。(★3番め、大国主神は高天原の関係)
天孫の天降り。アマテラスが天之忍穂耳命を呼び地上を降りることを命じたが、子神の邇邇芸命に命じる。子神の母は高御産巣日神の娘の万幡豊秋津師比売命だった。つまりアマテラスの子神と高御産巣日神の子神が夫婦になって、その間に生まれた子が皇室の先祖として地上に降ったことになる。高御産巣日神は重要な神だがアマテラスと並んで国譲りの交渉を主導しており、日本書紀の異伝では高皇産霊尊の指導のもとに国造りがなされたと記すものもある。高御産巣日神を豪族たちが氏神として祭る国魂の神の上に置かれた農耕の守護神だとする説もある。古くは高御産巣日神がその子孫を地上に送る神話があったという意見もある。国魂の神の祭祀が行われた五世紀以前には産霊の神が信仰されていたと筆者は考えている。大和の大物主神を助けた産霊の神が高御産巣日神とされ、大国主の治めた出雲を守る産霊の神が神産巣日神になったと考える。王家の祭祀を担当する五氏を邇邇芸命に同行するようにいう。お供の神の多くは天の岩屋神話に見れる神であるので、天孫降臨神話とは一体のものとされる。また三種の神器の紀元にもなりアマテラスが邇邇芸命に三種の神器を授けたとしるしている。一行は猿田彦神の道案内によって高千穂の峰に降り立ったという。お供の天宇受売命に猿田毘古神まで送っていくのと、妻になるのを命じた。猿田毘古神は伊勢で古くから祭られていた神、中流豪族の宇治土公氏の先祖。宇治土公氏の下で祭祀の芸能を担当とする猿女氏によって中臣氏とつながりをもつ。猿女氏は猿田毘古神に仕える天宇受売命という巫女の神の子孫と称している。中臣氏は猿女氏の一部を大和に移住させて、神事の歌舞の担当とした。
高千穂の峰に降り立った邇邇芸命は「韓の国に向き合い、笠沙の峰(鹿児島県南さつま市)に一本の道が通じている。朝日のまっすぐに射す国で、夕日の照り輝く国である。この場所こそ最も良い土地である」。邇邇芸命は神阿多都比売(鹿児島県西部の阿多の地女神)に出会い結婚を申す今田が、石長比売とも結婚を希望するが断る。これは東南アジアに広く分布するバナナと石を選ぶバナナ型神話の変形である。
鹿島神社@茨城県鹿嶋市:武甕槌大神。息栖神社@茨城県神栖市@岐神、天鳥船神。美保神社@松江市:三穂津姫命、事代主神は大国主神の最も格の高い子神。諏訪大社@諏訪市:四社、建御名方神、八坂刀売神。英彦山神宮@添田町:アマテラスの御子神。霧島神社@霧島市:邇邇芸命。猿田彦神社@伊勢市。
三種の神器。銅鏡は紀元前1世紀後半、北九州に江南の航海民の集団が移住してきて魔除けの宝器として広めた。朝鮮半島あら銅剣。一世紀半ば頃から青銅器が国産化された。二世紀末に青銅器が量産。同時に鉄製の刀剣が輸入、鉄剣が宝器となる。大和朝廷の誕生は銅鏡と鉄剣と勾玉が祭器の中心に置かれた時代にあたった。(★時期が分かる)平安時代には賢所に安置されていたが、現在の皇居にも賢所がある。
木花開耶姫命は邇邇芸命の子供を日の中で生む。これは南方に広くみられる「火中出生説話」を元にしている。山幸彦と海幸彦の争いは南方に広く見られる「失われた釣針」の話にならった。山幸彦が瑞穂の国主となり、隼人を従わせるという内容につなげている。そのあと海神の娘の豊玉毘売が山幸彦の子を宿して地上に来て、鵜葺草葺不合命を生むが姿をみられたとして海に戻る。これも南方の伝説の異型である。豊玉毘売の妹の玉依毘売が地上にきて鵜葺草葺不合命と結婚し4人の子をもうけた。二人の姫は海神に仕える巫女であるとする。
潮嶽神社@宮崎県日南市:海幸彦。若狭彦神社@福井県小浜市:山幸彦と豊玉姫。塩竈神社@宮崎県塩釜市:建御雷神が去った後、藍土老翁神がとどまり人に漁業や製塩を教えた。和多都美神社@対馬市:山幸彦、豊玉姫。海神の宮殿は対馬にあった。青島神社@宮崎市:玉の井という井戸で初めて山幸彦と豊玉姫が出会ったとされる。(★海神は島の豪族か?)
コラム:国造りはアマテラスを上位におくための神話。王家はかつて大物主神が大国主神の上位だったが、それを変えた。古くからある穀魂(穀霊)の降臨神話が国造りと結びつけられて天孫降臨神話がつくられた。邇邇芸命というのはもとは各地で進行されていた稲魂の神であった。高千穂は稲穂を高く積み上げたありさまであった。
神武東征:日本書紀では神武天皇の実名が彦火火出見で、邇邇芸命の子にあたる山幸彦の名前が彦火火出見尊である。古事記の中巻は伊波礼毘古命が高千穂宮で兄の五瀬命と話し合って、都とすべき地を探すために東方に行こうと決める所から始まっている。かれらはあちこちに寄港して大和に近づく。明石海峡を通る時、さ根津日子という国津神に出会い、道案内をさせた。この初代の稚根津日子は大和神社の祭祀を担当した倭氏の先祖である。倭氏の本拠地は大和朝廷を開いたとされる纏向(奈良県桜井市)のすぐ北に当たる奈良県天理市南部である。纏向遺跡から吉備(岡山県から広島県東部)特有の出土品が多く見つかっている。保久良神社の存在からみると倭氏は古くは保久良神社のある神戸市東部を治めた豪族であったと考えられる。220年ごろにそれまで何もなかったところに広さ一平方キロメートルの巨大な纏向遺跡を開いた。最初の大王と呼ぶべき人物。どのように神武東征に反映されているか不明。登美能那賀須年泥毘古という者が待ち構えていた。登美は地名。長脛彦は各地で祭られていた嵐の神を指すと言われている。五瀬命が重傷を負ったので船に戻って逃げたが、紀伊国の竈山でなくなる。
高倉下が渡した神剣を伊波礼毘古命が手にすると熊野の悪神は退散する。この神剣は石川神社で物部氏が祭った布都御魂である。王家は三輪山の山の神である大物主神を土地の守り神として祭り始めた。大物主神は国魂と呼ばれる人々に水の恵みを授ける農耕神であった。物部氏と尾張氏の系譜を記した「先代旧事本紀」は高倉下を尾張氏の先祖としている。「高天原から降った邇芸速日命の長子を天香語山命という。彼は尾張氏の始祖で、別名を高倉下といった」(★別に降っている)この天香語山命の弟が物部氏の始祖とされた宇摩志麻遅命である。このような伝承によると建御雷神から降ろされた布都御魂は、高倉下から伊波礼毘古命に献上されたのち、高倉下の弟の宇摩志麻遅命に下げ渡されたことになる。神武東征伝説は継体天皇の時代に創作されたとされた説が有力であり、その次代は大連の大伴金村と物部アラカイが国政を動かしていた。高御産日神が夢に出て八咫烏を送ると告げている。八咫烏は葛野主殿県主という士族の祖先が見である。京都盆地の東方に本拠地を置き、賀茂大社の神職を務める賀茂氏は子孫である。葛野主殿県主は儀式の松明などの照明を担当していたために道案内の話がつくられたと考えている。
宇陀の地は兄宇迦斯、弟宇迦斯(★発音)の兄弟が治めていたが、伊波礼毘古命を殺そうとしていた。弟宇迦斯は氷を管理する豪族。忍坂(奈良県桜井市)で八十建と呼ばれる豪族を騙し討ちする。
邇芸速日命のみことは伊波礼毘古命に「故追いて参下り来つ」と行って従った。物部氏は「最初に王家に従い王家による日本統一を助けてきた」と主張した(★日本統一はすでにされていた、アレキサンダーか)古事記では邇芸速日命が長髄彦の妹の登美夜毘売と結婚して設けた宇摩志麻遅命が物部氏の祖先としている。
長髄彦は嵐を起こす手長足長の神で縄文時代から祭られており、国魂の神とは土地の守り神で、稲などの作物を育てる農耕神であった。(★嵐の神:長髄彦→農耕の神:国魂→太陽の神:アマテラス)
高千穂神社@高千穂宮町:十社大明神の祭神の三毛入野命は神武天皇の兄にあたり、常世国に渡った。(★常世国にわたった?)亀山神社@和歌山市:五瀬命を葬った。宮崎神社@宮崎市:神武天皇の孫の建磐龍命が伊波礼毘古命を祭ったのが始まり。保久良神社@神戸市:倭国造の祖である椎根津彦が青い亀に乗って近くの浜にやってきた。八咫烏神社@宇陀市:建角見命。刺田比古神社@和歌山市:戦士たちの指導官、道臣命。物部神社@島根県太田市:宇摩志麻遅命が天香山命と共に物部一族を率いて各地を平定した、美濃から越国を巡り、石見国に来た。石切劔サヤ神社@東大阪市:神武東征の後、饒速日命が祭られた。
欠史八代とは。6世紀のはじめの時点で2代目綏靖天皇と10代祟神天皇の物語しかなかった。祟神天皇の物語は3世紀末に実在した「みまきいりひこ」という大王の事跡を下敷きにまとめられたと考えられている。5世紀の王家の人々は祟神天皇を始祖を意味する「はつくにしらすすめらみこと」と呼んでいた。しかし神武東征伝説ができたあと、神武天皇も「はつくにしらすすめらみこと」の敬称で呼ばれるようになった。2代目綏靖天皇と10代祟神天皇の7代の治世に関する記事が「旧辞」にはなかった。そのため古事記や日本書紀は開化天皇にいたる部分には物語を入れずに系譜だけを記した。
第三章 天皇と大和朝廷
五世紀までは三輪山の大物主神を自分たちの先祖神としていた。大物主神はお置けの先祖を指導者とする人間や動植物その他の霊魂の集合体だと考えられていた。必要な時に古墳に降りてくると言われていた。三輪山の登り口に拝殿が建てられて、大神神社の形ができたのは7世紀末。大和の地の守り神の「国魂の神」として信仰されていた。みまきいりひこ(祟神天皇)が三輪山の神の祭祀を始めた。(★祟神天皇が神道の始祖?)古事記は「意富多多泥古というものに私(大物主)を祭らせれば、疫病が収まる」と大物主が語る。祟神天皇は彼を探し祭らせ、伊加賀色許男命に祭りの土器をつくらせた。そして意富多多泥古の先祖の活玉依姫が大物主神の妻になる話が続く。意富多多泥古は大王の下で三輪山の祭祀を行った大神氏の先祖である。大三輪氏の祖先の女性が大物主の神となる話。これに対して日本書紀では王家の巫女が大物主の妻になる話になっていて、箸墓古墳がでてくる。箸墓古墳野跡にこの形式を真似た古墳が広がっている。これは王家が各地の豪族を組み込んでいったことを表している。
四大将軍の派遣。これは阿部氏の勢力は北陸地方や東海地方、吉備氏の協力を得て山陰地方まで及んだ。祟神天皇の子の垂仁天皇は沙本毘女を妻にしていたが、妻の兄が反乱を起こしたため、毘女と共に滅ぼされた。子供の本牟智和気王は話さなかったが、出雲を参拝して話すようになった。これは出雲の豪族が大和朝廷の支配下に入ったという史実を踏まえたものと見られる。垂仁天皇の治世に相当する330年頃から350年頃にかけて古墳が出雲の各地に広まっていることと対応している。
豪族の始祖を祭る神社。田村神社@高松市:猿田彦大神、高倉下命を含む5柱を合わせた田村大神。大直禰子神社@桜井市:大直禰子命(意高多多泥古)、敢國神社@伊賀市:敢國津神(大彦命)。
倭健命の遠征。12代の景行天皇はおしろわけという名前を持っていた。4,5世紀には別という敬称をもっていた豪族が多く見られる。景行天皇は80人の王子をもうけて、若帯日子命、倭健命、五百木之入日子命の三人を手元に残し、あとの王子は国作りなどの地方官にした。倭健命は小碓命といい、大碓命という兄が言った。日本書紀には大碓命は蝦夷平定の将軍を言いつけたところ逃げ出したので美濃に領地を与えて王宮から追放した。これが美濃の身毛津氏と近江の守氏の祖先とある。古事記にも大碓命が美濃の宇泥須氏と牟宜都氏の祖先とする。筆者は近畿地方東辺部の近江、美濃、越前の三国に王家の子孫と称した中流氏族がいくつか見られることに注目する。4世紀はじめから有力な古墳が広まっているので、初期の大和朝廷と深い関わりをもった地域なのではと考える。
西征。小碓命は叔母の倭比売命のもとをおとずれる。垂仁天皇の娘でアマテラスの祭祀を行ってきた。伊勢神宮は七世紀末にできる。七世紀半ばには太陽神を祭った笠縫邑に行く形だったとみられる。倭比売命は小碓命に女性の服と探検を与える。熊曾の地では除草して熊襲建の兄のそばに寄って短剣で刺し殺し、逃げ出す弟も殺す。熊曾は日向、大隅、薩摩を合わせた地域を支配した。しかしくまそなるものが存在したことを示す確かな文献はない。隼人との対立から話を創作したか。その後、出雲建と仲良くなり殺す。出雲建の和歌を読むが、日本書紀では同じ和歌を出雲氏の振根と飯入根の兄弟争いのときに読まれたものとしている。飯入根が兄の騙し討にあって命を落としので出雲たけると呼んでその死を悼んだ。
東征。草薙剣の霊験譚として構想された。火に囲まれたところ草薙剣で助かり、手放したので伊吹山の神のたたりでなくなっている。かつては相手に対して相手が住む土地の神を祟ることによって相手に対して敬意を示した。景行天皇は息子に「東の方十二道の従わない豪族たちを説き伏せて来なさい」といっている。伊勢の倭比売命から火打ち石。尾張の美夜受比売。相模の火攻めで向火の話。房総へ船の途中で弟橘比売命が海神に身を捧げる。継体天皇は6世紀はじめにアマテラスの祭祀を始め、娘の大角豆皇女を太陽神を祭る斎宮とした。帰る途中に美夜受比売と会い夫婦になる。伊吹山で病気になり亡くなる。
古事記では倭健命がなくなったので、弟の若帯日子が大王になり、葛城市や蘇我氏の先祖と言われる建内宿禰を大神に任命した。お時期は成務天皇が亡くなった後に倭健命の子、帯中日子が大王になったとある。仲哀天皇である。この天皇は息長帯比売命(神功皇后)を妻に迎えて、筑紫に赴いて熊曾を討とうとしたという。ここい記した成務天皇、仲哀天皇、神功皇后は7世紀末に新たに創作された人物と筆者は考えている。
倭姫宮@伊勢市:倭姫命。焼津神社@焼津市:向火の場所。走水神社@横須賀市:日本武尊から授かった冠を御神体。橘樹神社@千葉県茂原市:弟橘比売命の櫛を葬った。
コラム。常陸国風土記には倭武天皇を主人公にした伝承がいくつか記されている。また鹿島神宮の近くの乗浜は倭武天皇が来られたときに多くの海苔が干されているのをご覧になられた。そこで乗浜のち名ができた。
神功皇后の三韓遠征。仲哀天皇が熊曾を討つために筑紫の香椎宮(福岡市)にいたときに皇后が神がかりになって神託を述べるが、それを疑った仲哀天皇はなくなる。改めて神託を伺うとお腹にいる皇女が統治する。三柱の住吉の神。新羅に向かいなさい。船団が津波お起こし新羅国の半分が瞬く間に海に沈んだ。新羅は戦うことなく神功皇后に降伏した。古代史の研究者の多くは37代斉明天皇という女帝をモデルに白村江の戦いを下地に構成されたのではとしている。神功皇后伝説の最も古い形は宗像三神の霊験譚であったと考えられる。4世紀なかばに大和朝廷と朝鮮半島南丹との貿易がさかんになったときに、王家による宗像三神の祭祀が始められた。対馬海峡の航路近くにある沖ノ島(福岡県宗像市)には祭事遺跡が多く見つかっている。
神功皇后は新羅を従えて帰国した後、九州の宇美で王子を産んだ。しかし王子の二人の異母兄弟が反乱を企んでいた。反乱を鎮圧し、王子は伊奢沙和気。いざさわけは天理市の石神神宮に伝わる七支刀銘文に名前が出てきて「倭王旨に贈る」とあり。この後に宋書に賛・珍・・興・武の五人の倭王が続く。百済と国交が開始され、盛んに貿易が行われた。
香椎宮@福岡市:仲哀天皇、神功皇后。高良大社@久留米市:高良玉垂命、筑後の国魂、武内宿禰と同一神としている。