世界史とつなげて学ぶ中国全史

2019 東洋経済新報社 岡本 隆司

非常にバランスがとれていてい良かった。

第一章 黄河文明から「中華」誕生まで

地理的な話から。乾燥地帯と湿潤地帯。農耕民と遊牧民。文化がまったく異なり、その境界で文明が生まれた。有名な文明地図。西方が開かれていて文化が流入してきていた。黄河流域で都市国家の成立。漢字圏。外夷に対する中華。秦のあとの前漢は匈奴に負けて和睦し毎年貢物を送っていた。前漢は匈奴を倒しシルクロードで発展した。金を送っていたが途中からシルクになった。最大の発展を遂げるが、これはローマ帝国はトラヤヌスの時代で、パクスロアーナの時期と重なり、東西で平和が訪れる。交易を通して発展した。

第二章 寒冷化の衝撃 ー 民族大移動と混迷の300年

三世紀あたりから寒冷化してくる。豊かでない土地での影響が大きい。民族大移動が起こる。西洋ではフン族の侵入からの大移動は克明にわかっているが、東洋ではどうであったか。乾燥地帯の遊牧民である匈奴は、かつて一大帝国を築いて漢王朝と退治していましたが、やがてバラバラになり、一部は中国の中心地に移住する。寒冷化は農耕民にも影響を及ぼし、農作物の生産量が低下し、飽和状態だった人口は淘汰される。城壁のない新開地である「邨(むら)」が点在するようになる。そこは荘園のようになり逃げ込んできた流民・移民を収容し、強制労働させる。三國志の曹操は屯田制を国家事業として行い、軍人に耕作させ、唐の時代まで続く。ローマでも没落農民を貴族が小作人として雇う農奴制が始まる。邨の時代では自給自足で手一杯で商業は衰退し、金銀よりも現物が重視される。こうして小さな政治ブロックで集中的に経済を支えるという形態が生まれ、地域が分断された。それが4〜5世紀の「五胡十六国」と呼ばれる時代である。五胡は漢人以外の5つの部族で、匈奴、けつ、てい、きょう、鮮卑を示す。5〜6世紀には南北朝時代に入る。華北・中原は北魏によって統一される。北の地の鮮卑は騎馬軍を補給できたので強く中原にいた他の胡を倒す。経済ブロックの統一はうまくいかずと東魏と西魏に分裂する。南朝は魏蜀呉を統一した晋が胡族の襲撃から南方に逃れて立てた王朝で、その後宋王朝に変わり、斉、梁、陳と交代していく。中心地は今日の南京と、長江の中流の江陵。実態は「五胡十六国」の自体と同様に小規模な勢力が分立していた。貴族が出現しコミュニティが形成される。
 紀元前後までもっとも豊かだったのは陝西省の長安周辺だった。山あいの高地であり、水が豊かだった。暮らしやすい乾いた土地で、生産性が高い場所だった。しかし長安も次第に乾燥し始める。代わりに開発が進んだのが大河周辺の平原だった。経済的に優勢になり、人口も増加する。ちょうど東魏のちの北斉が支配した地域である。一方山間部の西魏は貧しかったが徐々に力をつけ、最終的には北周が北斉を併合する。北斉は断絶し外戚に奪われ随を打ち立て南朝の陳を滅ぼし、南北朝時代は終わる。

第三章 随・唐の興亡 ー 「一つの中国」のモデル

随は北西の辺境に位置した北周政権が、東の隣国、北斉政権を滅ぼしたことから始まる。さらに南朝の鎮静件も合わせ、統一を成し遂げる。そのため中国の伝統的な歴史館では、隋は北朝の一つと認識されている。隋王朝は親子二代、30年ほどで幕を閉じる。隋を打ち立てた文帝・楊堅は大運河の開削という大事業を成し遂げた。それは黄河流域と長江を繋ぎ、さらに黄河流域から北京に伸びた運河だった。大運河で南北間の物流が促進され、文化・経済の南朝と政治・軍事の北朝と双方の役割分担が明確になった。秦や漢の時代は政治・経済・文化が中原に集約されていた一元的な構造だったが、隋により南北分業の時代が始まった。運河と長江の交差点である揚州は栄えた。塩産地が近くにあったことで唐時代は長安よりも栄えた。長安は秦・漢の時代から首都だったが山の中なので、長安を東の都とし、西の都・洛陽を建設した。文帝は外戚から皇位を継承した際に北周の皇族一門を根絶やしにした。その怨恨があり、煬帝は揚州に逃亡したあげく、背いた近衛兵に暗殺された。
 隋の混乱を解決する形で唐が台頭した。反面教師にした唐の二代目の皇帝太宗、李世民は武勇にすぐれており、武力を中心として中国全体の統治を進めた。李世民は中国屈指の名君とされ、貞観の治として知られている。唐は三国時代だった朝鮮半島にも介入し、新羅と組んで、百済と高句麗を滅ぼし、統一した。百済を支援していた飛鳥時代の日本にとっても対岸の火事ではなく、対抗できる国造りを急いだ。
 唐は広大な勢力範囲を誇ったが最も大きいのが北部であり、突厥が支配していた地域だった。突厥との力関係では南北朝時代の北周と北斉に分かれていた頃は突厥のちからは圧倒的で、突厥は両国を属国とみなしていた。しかし、7世紀になると突厥が中原の王朝に屈服する形になります。突厥は南方の人々とも積極的に交流を図っていましたが、シルクロードを掌握して、そこの商業民とタイアップしていた。その町業の担い手となったのがソグド商人であった。ソグド商人は中核のオアシスであるソグディアで巨大な財閥・多国籍企業のような存在になっていた。唐は突厥やその下のソグド商人なども取り込み、さらに様々な宗教も取り込んで多元的な国家であった。長安も国際都市として栄えた。しかし、その唐も安史の乱から栄華は衰えていく。ソグド人の安碌山の反乱を発端とした胡人と漢人の争いだった。
 その後、五代十国と呼ばれる時代に入る。北部は5つの王朝が受け継いでいき、南方では十の小国が乱立する。五胡十六国のときは南側は一つにまとまっていましたが、隋と唐の時代を経て、南側でも小国が分立できるまでとなった。

第四章 唐から宋へ ー 体外共存と経済成長の時代

8世紀から9世紀にかけて、唐は解体していき、中央アジアにも影響した。10世紀になるとウイグルはソグディアナの位置に移動した。その西側はトルコ系のカラハン朝があり、トルキスタンになっている。その西にはサーマーン朝があり、ペルシア系のイスラーム政権である。ウイグルにはイスラームは及ばす、マニ教や仏教が広く信奉されていた。
 なぜトルコ系遊牧民のウイグル人は東から西に移動して定住生活を始めたのか。一つの要因は温暖化であり、縮小していた草原地帯が広がり、遊牧民の活動が活発になった。東西に唐とイスラームの両帝国が成立したことは寒冷化の一つの到達点であり、温暖化と同時にあらためて多元化が進行した。ウイグルが抜けた東アジアではモンゴル系・ツングース系の遊牧民・狩猟民が力を持つ。モンゴル系では契丹、ツングース系では渤海という国が代表的だ。またこれらの勢力が勃興したのには中国側の事情も関係している。
 唐と宋の間でおきた変化を唐宋変革という。①エネルギー革命で、石炭が使われだした。②水田化と人口増大で、土木技術の進歩もあり低湿地を水田化できるようになり、人口も増大した。科挙も始まる。③貨幣経済の成立。花柄は唐の時代から作られていたが、宋では宋銭を大量に鋳造発行した。政府も現物で行われていた税金を少しづつ貨幣に切り替えていった。④商業化の進展。貨幣が潤滑油となり余剰生産物のやり取りが増えた。⑤都市化の進展。市場が発展し、市や鎮などの商業都市になる。宋の商業化の進展は日本にも影響し、平清盛による日宋貿易につながる。唐との貿易では贅沢品で正倉院にあるようなものだが、日宋貿易は民間ベースで陶磁器やお茶、生糸など庶民の暮らしに結びつくものだった。
 五代十国の時代では長安デルタ地域の低湿地を、呉越の時代に排水工事をし、一面の水田に変えた。以後は中国でもっとも豊かな地方になった。石炭や、ミョウバン、お茶など適地があり、経済開発が経済ブロックとなり政治ブロックになり乱立してくると、戦争が起こりやすくなる。宋王朝はそれに答えを出そうとして、官僚制・君主独裁制を導入した。宋政権は令外の官を系統立てて官僚化し、変化の激しい社会の実現への対応を各地方に任せた。軍事の指揮権は中央においた。君主独裁というと中央集権的なイメージがあるが、多元化・多様性を前提として、君主がそれを統制していた。また脅威の契丹は毎年の歳幣により不正だ。この時代は人口も増大し文化も発展した。唐宋八大家のような文人も登場し、朱子学の源流もできた。
 そうしているうちに遊牧民の住む草原地帯の状況が変わってくる。モンゴリアの草原の空白地帯からモンゴル部族が登場し、商業民のウイグルと結びついて、チンギス・カンの西征服が始まった。

第五章 モンゴル帝国の興亡 ー 世界史の分岐点

モンゴル帝国の改題。チンギス・カンがなくなるまでに中央アジア、西アジアの乾燥地域・草原地域を制覇した。トルコ系のウイグルやイラン系のムスリムを取り込み、ユーラシアの主要な草原地帯を抑えた。跡を継いだ息子オゴデイは濃厚のできる乾燥地帯を完全制圧した。華北全域を支配下に入れた。乾燥世界と草原世界に加え、農耕地域に勢力を拡大した。オゴデイの兄ジョチとその息子バトゥは南ロシアの草原地帯まで制圧した。オゴデイの死後10年のお家騒動の末、オゴデイの弟の血筋に変わる。カーンの地位についた長男モンケは征服事業を再開する。西アジアを担当したのが三男フラグでイランを制覇した。東アジアは次男クビライが南宋の長江上流域まで戦線を拡大した。モンケ自身も南宋遠征を敢行するも突如陣没し、お家騒動となる。最終的にクビライが継承者となる。フラグは引き返すが跡目争いに間に合わずイラン周辺でフラグ・ウルスとして自立する。同じようにジョチが征服したキプチャク草原あたりにジョチ・ウルスとして自立する。中央アジアはチャガダイ後筋が支配しており一旦カイドゥにうばわれますが、奪いかえす。クビライはモンケの時代から南宋の征服をめざし、最終的には南宋を接収する。そしてクビライは国名を大元ウルスと改め、首都を現在の北京の地に建設した。
 モンゴル軍の強さの要因の一つは宣伝。戦闘で徹底的に相手を殲滅することを宣伝し威嚇し、戦わずに降伏させていた。もう強さの一つの要因は商人との関係。草原地帯で攻められたウイグル商人から持ちかけられた協働にのり、資金・情報の提供と引き換えに、軍隊による保護と商売の権益を保護した。モンゴルは駅などを設置しシルクロードの交通を拡充した。また税を高度にシステム化していた。
 唐宋変革を通じて昔ながらの銅銭が主に流通していましたが、銅が不足して鉄銭や紙幣が代用された。クビライは銀を準備として政府が溜め込み、市場にはその兌換紙幣を発行した。クビライは紙幣の兌換として銀・貴金属だけでなく塩も準備した。政府は塩を専売にし課税しました。中国は広大な大地に対して海岸線が短いので塩の産地が限られていて、コントロールしやすかった。
 13~14世紀初頭のころ、アジアの物流や交易は海洋を通じても行われていた。主導したのはムスリム商人で、かれらはマラッカ海峡を経て、広州方面にも商圏を広げていた。代表的な存在としては広州に住み着いて福建省南部の泉州に移住した蒲寿庚である。クビライは国家主導で海洋商人たちを組織し、インド洋や中国沿岸での海洋貿易・海上交通に力を入れた。クビライはカーンに即位したあたりで軍事的な拡大を停止し、世界的スケールの経済圏の構築に力を注いだ。それはイラン系ムスリムやウイグル人たちであり、モンゴル系やトルコ系の遊牧民が軍事力でバックアップした。またその延長に元寇がある。
 そんなモンゴル・大元ウルスの経済力を根幹で支えたのが、南宋の豊かな生産力や経済力だった。隆盛をきわめたモンゴル抵抗ですが、14世紀半ばの直後から崩壊し始めた。主な原因は地球の寒冷化でした。この時期、ヨーロッパではいわゆる「黒死病」が大流行した。感染源は同じだろう疫病が、中国でも大流行した。農作物の作柄も悪化させ、生産量が落ちて、商業も振るわなくなる。シルクロードの幹線も支線も分断され、ユーラシア東西が分離された。その後は回復したが、中央アジア・シルクロードはローカル線と化した。中央アジアはイスラームしてくる。
 中国の経済も大打撃を受ける。紙幣や有価証券も紙くずになり、中国国内は物々交換のような現物経済の世界に逆戻りした。特に都市部では治安が悪化し、安全や食料を求めて農村部に移転する人が増えた。南宋の江南地域では抵抗勢力による反乱が各所で発生する。特にモンゴルに大打撃を与えたのは塩の密売人・張士誠による反乱だった。かれれはヤミ商売をして私腹を肥やしつつ塩を安く提供することで庶民のみかたであったが弾圧に失敗した。その結果、専売が運営できなくなり専売収入が途絶え、塩引の価値が暴落し有価証券が不渡りになり、信用不安を引き起こした。また張士誠が拠点としたのは蘇州で、中国最大の米どころだった。大都にいるモンゴルは塩の収入のみならず、米も手に入らなくなり、大打撃を被る。14世紀後半になるとモンゴルは明を建国した朱元璋によって大都を追われ、今日のモンゴル高原まで撤退した。モンゴルによって融合した東西と南北、農耕地域と遊牧地域は再び分断され、それまでの政治・経済・社会のシステムはリセットされる。

第六章 現代中国の原点としての明朝

 ティムール朝は4つに分かれたモンゴル帝国のうち、西方のチャガタイ・ウルスを相続して興った遊牧王朝。首都は中央アジアの真ん中に位置するオアシス都市・サマルカンド。かれれはそこから四方を征服し、一大勢力を築いた。一方、東アジアは南方の貧しい農家出身の朱元璋が明王朝を建国し、初代皇帝につく。当時の中国にはまだ多数のモンゴル勢力が残っていた。朱元璋が目指したのは農耕世界だけの分離独立で、華夷殊別と表現された中華と外夷の分断だった。象徴的なのが鎖国政策で、万里の長城で農耕民と遊牧民を明確に分けるのみならず、沿岸も出入りを制限します。漢人だけを「中華」として内部に取り込み、それ以外を「外夷」とした。中国内で交通または商取引したい外部の人は「朝貢」という手続きを踏むことを求めた。朝貢事態は秦や漢の時代からあったが、周辺国との付き合い方において、朝貢以外のすべての手段を禁じた。朝貢する側にもメリットはあり持参したお土産よりはるかに高額な引き出物「回し」を授かることができた。また朝貢団に随行してきた使節団には、儀礼の公式行事とは別に、中国国内の売買取引が認められたので、こぞって朝貢団に加わった。
 朱元璋は物々交換の世界を前提として、農業生産の回復に注力した。その一つが「魚鱗図冊」に現れる土地調査で年貢取り立ての前提を整備し、「編審」と呼ばれる国勢調査で成人男性の労役を管理した。これらは貨幣を介さない徴税の2本柱だった。明朝が構想した経済に商人や商業は登場しない。また南北格差の解消を目指した。モンゴル時代のクビライは、華北と港南を別の方法で統治していた。経済成長の源泉という位置づけで江南に力を注ぎ、商業が大きく発達し人口も急増した。明朝は江南を弾圧して貧しくさせ、華北の水準に合わせるという方法をとる。江南の地主や官僚にさまざまな嫌疑をかけ、連座制を理由に何万という単位で皆殺しにした。海禁で海路の交通も遮断した。経済界は打撃を受け、南方の有力者を弾圧したとミられる。二代目の建文帝は有力な朱元璋の四男・朱棣を倒そうとするが、逆に挙兵され永楽帝になる。ここで首都を北に移し北京と改称した。永楽帝も江南の地主たちを蹂躙する。江南から北京への大量の物資の移動のために大運河を回収したが、財政を圧迫した。北から南を支配しようと官僚の採用でも江南の人々を露骨に差別する。この時代のムスリム鄭和による七回の大遠征が有名だが、造船や航海技術はモンゴル時代の遺産に頼っていた。
 一方で明朝が構想した現物主義の財政経済システムはほころび始める。上海のある江南デルタは水はけが良くなりすぎ、稲作ができなくる。桑を植え生糸の一大産地に転換し、中国の一大ブランドとなった。この一体では工業化・商業化が進み、それに従事する労働者も急速に増えた。減った分の稲作は長江のさらに上流の湖広と呼ばれる地域を開墾し、水田とし、たちまち穀倉地帯になった。そうして自然発生的に地域分業体制が整った。ここで民間では私鋳銭が流通し始め、さらにモンゴル時代に流通していた銀が貨幣として流通する。さらに官僚の給料も銀で支払われるようになり、現物主義の財政経済は破綻した。中国で銀需要のため新しく銀山を開発させ、ヨーロッパやアメリカの一部、日本列島などから銀が中国に向かった。この民間貿易は日本の経済成長にも影響した。この時期、密貿易の弾圧により南の沿岸で倭寇が大暴れする事件がおき、同時に中国のお茶を欲しいモンゴルが長城を超えて侵入し、北京を包囲してた。どちらも明朝政府が折れて、モンゴルとは和議を無杉、内蒙古での取引を認め、日本との交易も、中国人が厦門から会場に出ていくことを可能とした。経済の活性化は社会・文化に影響を与える。民間での出版業の多様化により、経書・史書の解説本やダイジェスト版がたくさん出た。また有能な官僚であった王守仁が作った儒教の一派の陽明学を打ち立てた。政府権力から一定の距離をとって地域社会で民衆の指示を得たエリートを郷紳と呼んだが、政府と社会が乖離した高級官僚ばかりになり、民治の実部に手が及ばなくなってきた。それはデータにも現れており、人口三千人以下の都市が急増し、行政の目が民間まで行き届いていなかった。この民官の管理がその後の中国社会に尾を引いた。

第七章 清朝時代の地域分率と官民乖離

清国はマンジュ人が建国したアイシン国である。満州語のアイシンは金を表す。その後、1636年に大清国に改称した。かれらは狩猟民族であったがモンゴル人とにていてモンゴル帝国のような政権を目指した。満州人の西隣にはチンギス・カンの血筋を継ぐチャハルというモンゴルの部族が住んでおり、満州人はそこに攻め込み、モンゴル帝国から伝わったとされる正統の証とされる伝国璽という印章を譲り受けた。明朝が1644年に内乱で滅びると、万里の長城の最東端にある要塞を突破する。清朝は多種族からなる政権だったので、明朝のよる「華夷殊別」の方針を転換し、「華夷一家」を掲げ、漢人・満州人・モンゴル・チベット・ムスリムという五大種族の共存を図った。康煕帝の時代にはモンゴルとチベットを帰服させた。ムスリムの住地になっていた東トルキスタンも取り込んだ。この大きな版図をどうやって統治したかについては教科書では直轄領と間接統治の藩部、さらに朝貢国に分けたとしているが、正確ではない。基本的に政治的な組織には手を付けずに温存し、直轄と間接をことさら区別したわけではなかった。二代目の雍正帝は種々の改革を行ったが、目的は官僚・官界の腐敗撲滅であった。
 明朝は貿易を促進する制度を整え、朝貢国も本当に朝貢している国だけに整理した。日本とも同駅を認めるので中国の商人が日本へ出向けるようにし、日本では長崎が栄えた。またモンゴルが起伏したため北方の隣国は露になり、条約が結ばれ政府公認の貿易が始まった。交易により銀が必要になったがヨーロッパからアジアへの銀供給も途絶えて一大デフレに陥った。17世紀末には景気が回復し、イギリスが大量の銀を供給し、紅茶を輸入した。18世紀半ばまで一億人だった人口は19世紀初頭までに三億人を超え、19世紀なかばには四億人、20世紀初頭には四億五千万人に達する。一方で行政都市や官僚機構の数はさほど増えていない。行政の数少ない仕事といえば税金の取り立てと犯罪の取り締まりくらい。徴税も地主や大商人のようなコミュニティの、顔役がとりまとめ、支払っていた。増加し溢れた人口は、新開地に向かう。清代には東三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)の森林地や長江流域の山岳地帯などの開発が進んだ。新開地では生活か厳しく植えていたため不満がたまり、秘密結社のような宗教団体が多数生まれた。政府が弾圧すると武装して反抗し大きな反乱に至った。白蓮教徒の乱や太平天国などである。
 19世紀の半ば以降、清朝は富国強兵を目指し、軍事や技術面で西洋化・近代化をお勧めます。また銀価の下落から多種多様なものを輸出することになります。各地域が個別に各国と貿易をした。工業化した外国列強の旺盛な需要に答える中で、中国各地の経済力も個別に伸びた。それに伴い各省を管轄する地方官の監督はそれぞれ力を持つようになり、地域に応じた政策を個別に打ち出した。李鴻章や張之洞だ。ところが、日清戦争を経て様相が変わり、東アジア全域での権威も失われた。朝貢国は自主権があるため日本などに取られてしまう。清朝がバラバラになる前に国民国家の考えを導入し、国家の領土を明確にしようとする。このころから中国を名乗り始める。

第八章 革命の20世紀 ー 国民国家への闘い

1911年になると地方が独立し省政府を樹立した。1912年の元旦に代表者が集まり、南京臨時政府を樹立した。中華民国である。モンゴルもチベットも独立を目指す。中華民国は軍隊を送り込むが撃退された。理念は国民国家だったが、多元共存していた。また南北格差は縮まったものの、東西格差が大きな課題となった。これは国民国家建設や国内統合の問題と同じだった。中華民国は地域の軍閥同士で戦争を繰り広げた結果、全体像は少しづつ整理されてきた。1910年代〜20年代にかけて綿製品の製造に機械が導入される。中国版の産業革命がおきた。また第一次大戦が始まり、金本位制をいじできなくなると銀の価値があがり、輸入価格もあがり、自国生産の流れが起きたのが原因。この変化を利用して、国内の社会的・経済的な統一を果たそうと考えたのが、孫文の後継者と目されていた蒋介石だった。蒋介石の勢力範囲は経済の鍵を握る江南デルタ地帯だったので、軍閥は蒋介石には歯向かえなかった。全国一律に通用する紙幣を発行し、世界お基軸通貨のドルやポンドと交換可能にした。満州国はこれに乗らず、中国のナショナリズムの矛先は日本帝国主義の利権に向けられる。1928年、国民政府の北伐軍と日本軍の衝突が起きる。国民政府は国外に日本、国内に中国共産党という敵を抱えていた。共産党を潰そうとしたが説得され和解する。これにより日中の全面戦争に至る。当初、日本軍は先進地帯の沿岸部・都市部のみを支配していた。これに対して、蒋介石の国民政府は内陸の重慶に拠点を移した。毛沢東は農村の庶民の力で先進地域の都市部を奪い返そうと共産主義を標榜した。日中戦争で日本が敗北し、中国から撤退すると、中央政府に蒋介石・国民政府が戻って来るが、基盤社会の下層の人々と乖離する。下層の人々の心をつかんでいた毛沢東と、対立し内戦に発展する。経済運営に失敗し、都市部の有力者からも指示を失った蒋介石は大陸を追われる。台湾でも共産党や反体制派を弾圧したことから、毛沢東の評価が高まった。1949年に建国された中華人民共和国の基本理念は基層社会に降りることでした。農地解放や官僚の汚職の一掃運動などを展開し、ついに1966年から十年にわたる文化大革命に行き着く。上層の人々を叩きすぎた結果、国全体が疲弊して大失敗に終わる。
 その反動で打ち出されたのが、鄧小平による改革開放路線で、市場経済を取り入れ、海外貿易も推進して、豊かさを追求しようとした。これにより急速な発展を続け、富裕層も格段に増えました。ただ農民工など下層の人々に応じる有効な政策は見えていない。結局、中央と下層は乖離したままで、明代以降の中国が抱える構造的な課題は、むしろ増幅されて今日に至っている。習近平国家主席をはじめとする共産党がもっとも恐れているのは、下層の人々が政権から乖離するとともに、裕福層が諸外国と強く結びついて国家を顧みなくなることだ。それは今以上の格差拡大と政治・社会の分断を意味する。

結 現代中国と歴史

今日の中国社会の構造を端的に表すと、多元化と、上下の乖離である。分水嶺は寒冷化による「14世紀の危機」とそれに続く大航海時代だろう。バラバラで混乱と対立相剋を繰り返す社会を調整し、共存を図るかの答えは13世紀に登場したモンゴル帝国だった。しかし寒冷化には敵わず14世紀には解体され、多元的な世界に逆戻りします。その後、統合に向けた納得の行く回答が見つからないまま今日に至っている。
 14世紀には中央アジア・遊牧世界のプレゼンス低下と、海洋世界の比重増大を示している。南北よりも東西の格差が顕著になっていっている。つまり大航海時代の影響で、中国には南北の違いに加え、東西の違いも生まれいっそうバラバラになった。社会構造も多元化・複雑化した。17世紀以降に、さらに顕著化して、バラバラな社会をいかに秩序をたもって共存を図るかという、時々の政権による腐心の歴史である。清朝の小さな政府では産業革命以後の近代に対応できなかった。西洋や日本に対抗するために「国民国家」を目指したが、多元的な中国社会にはそぐわなかった。一つの中国というスローガンも欺瞞に満ちている。多元的な社会をまとめようとする試みはアジア史にも少なからずある。その手段として用いられたのが宗教だった。世界三大宗教はすべてアジア発症である。多元性をまとめるための秩序体型を提供することがアジアの全史を貫く課題だった。アジア各地では宗教という普遍的なものも、多元に共存していた。つまりアジア史において政教分離は成立しにくい。中国の場合も統合の象徴として儒教・朱子学が用意された。
 現代は欧米スタンダードが主流で、歴史というのも西洋中心史観に則っている。日本史と西洋史は近似した歴史課程をたどっている。もともと日本人と中国人は同じ東アジア人であり顔も似ているが、日本人は中国人の言動に、違和感や不快感を覚えることが少なくない。それは西洋史観に浸っている日本に対して、中国は前提条件がまったく違う中国史、アジア史を経過して今日に至っているからだ。日本人は中国という国家を異質な存在ととらえず、西洋化した日本人の既成概念をいったん削ぎ落として、中国の歴史に向き合う必要がある。

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