食品の裏側―みんな大好きな食品添加物

2005 東洋経済新報社 安部 司

 

著者は1500種類の添加物の知識があり、食べてそれを判別できるという添加物業界のトップセールスマンだった。消費者には低価格な商品を提供できるし、捨てなくてはいけないような食材も再生させることができる添加物は素晴らしい“クスリ”。生産者からは感謝されて、相談が山のように舞い込む日々。あるときに自分の娘が誕生日に著者が作った添加物まみれのミートボールをうれしそうにほうばるのを見て、動揺して食事を制止する。そこで初めて自分の作っているものが家族に食べさせたくないものだということに気付き、業界から足を洗う。

豆腐の製造に使う“にがり”なども添加物であり、添加物は悪くないのであるが、まだ歴史的に安全が確認されていないものが急速に広まっていることを危惧している。今まで安全と言われていたものも突然、発がん性が確認されて使えなくなることもあるという。最後は、食事というのは「命をいただく」という尊い行為であり、手間暇をかけることによって美味しく安全なものを食することができる、と単に添加物の危険を断罪するだけではなく、高く昇華した形で結論しているのには好感が持てた。

まさにマトリックスの世界。真実を知りたいか?真実は恐ろしいものだった。業界ではプリンハムと呼ばれているらしいが100キロの肉から130キロのハムができるらしい。ハム、明太子、漬物が3大添加物まみれ食品とのこと。また、低塩と謳っている漬物、梅干も低塩でも保存が利くように添加物が駆使されているということだ。

自社の食品を食べない工場長なども少なくないらしい。A社の人はA社の製品を食べない。B社の人はB社の製品を食べない。けど、A社とB社の人はお互いの製品を食べる、というようなことが広く行われているとしたら、世の中、自分だけが助かろうと互いに騙しあって、全員が自滅する、という構図なのじゃないか?と思った。たぶん、この騙し合いの構図は食品、飲料だけでなく、野菜や外食、メディアなどあらゆるところで行われているのではないか?化粧品も石油から作る原液を見るととても使えなくなるという話を聞いたことがあし、レストランは手作りといって既製品を出しているかもしれないし、添加物まみれの手作り料理を出しているところもあるかもしれない。鶏だって肉牛だって乳牛だって抗生物質まみれと聞くし、携帯メーカーの社員は携帯電話を肌に近いポケットに入れないという話も聞いたことがあるし、農家が自分で食べるものは別に作っているというのはよく言われている話だ。結局、本が言っているように消費者が値段だけではなく、なぜ安いか?などの素朴な疑問を持って、安全なものを選ぶようにすることにより、企業の廉価化に対するモチベーションを安全の方にシフトさせるような消費者主体の行動が必要なのだと思う。

ナショナルジオグラフィックには昔ならありえなかったアトピーや食物アレジーも急増しているようなことがかかれていたので、やはり食品などがすくなからず影響していると考えるのが自然な気がする。安全とは時間もお金もかかるものだが、将来体に与えるリスクなどを総合的に考えると安いのかもしれない。資本主義では貨幣価値に基づいて経済活動が行われるが、タバコは医療費の増大という形で貨幣価値に健康への被害が換算されることによって国家によって抑制される方向に至った。資本主義的に利益を生むという理由で発展した添加物も、資本主義的に医療費の増大などで損するという理由によって抑制される日が来るのかもしれない。しかし、ダイオキシンなどと同じように、害された健康が貨幣価値に換算され、国家が抑制の方向に動くのには時間がかかる。見えざる手は俊敏でないことがあるのかもしれない。先んじて貨幣価値を超えて、リスクを回避する行動にでるしかないのかもしれない。

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