群青の夜の羽毛布

2006 文藝春秋 山本 文緒

 

「もしもう一度生まれ変わることができたら、わたしはきっと子供はつくらないでしょうね。結婚もしないかもしれません。どうしてかって?怖いからですよ。わたしは家族というものが、今はこころから恐ろしいんです。」

丘の上の家でひっそり暮らすさとる。さとるは鉄男と出合った。彼は健全だった。ストレートで人懐っこく、繊細だった。鉄男はさとると親しくなるにつれて、さとるの家族の異様さに気づき始める。密室である家族の濃い闇を描いた作品。

久しぶりの山本文緒作品だったけど、やっぱり面白くて一瞬で読めてしまった。

古代への情熱―発掘王シュリーマン自伝

1984 角川書店 シュリーマン, 佐藤 牧夫

 

貧しい環境から身を起こし、巨万の富を築いたあと、子供時代からのイーリアスを読んで夢みていたトロイの発掘に乗り出す。そんな数奇で壮大な夢を実現したシュリーマンによる自伝。

6週間で一言語をマスターするってどういう頭の構造しているんだよ!って思うけど、そんな特質も彼のパーソナリティーの形成にたぶんに影響しているに違いない。彼の日本への旅行記は読んだことがあるけど、日本を好意的に書いてあった。

フラワー・オブ・ライフ 4 (4)

2007 新書館 よしなが ふみ

 

白血病だったため1年1ヶ月遅れで入学してきた花園春太郎。ぬいぐるみのようなかわいさを持つ三国君。アニメ漫画萌え系キャラ大好きオタクなでかい高校生、真島。大河少女漫画を描く武田さんを加えて、漫画を描き始める。学園青春ストーリー、、、ではとても括りきれない人生をテーマにした作品。

素晴らしかった。テクニックもストーリーもテーマも。

にあんちゃん 十歳の少女の日記

2003 西日本新聞社 安本 末子

 

戦後間もない昭和28年。幼くして父母と死に別れて、兄弟四人で暮らしていく様子が描かれている小学生の末子の日記。

父が「にあんちゃんのころは・・・」とよく言っていた。その日記が復刻されているのを知って買ってみた。素直な感性に涙が出ることたびたびだった。「くつがなくて修学旅行に行けない」「茶碗が家に一つしかないから、お客さんを呼べない」など、想像を絶している。恵まれすぎている自分が憎らしくなるくらいだ。

ゴリオ爺さん

1972 新潮社 バルザック, 平岡 篤頼

 

資産をつぎ込んで、二人の娘をパリの社交界に送り出し、自分は貧乏暮らしをしているゴリオ爺さん。同じ下宿屋に住む、貪欲に出世を望むラスティニャックが娘と仲良くなり幸せに過ごすことを、ゴリオ爺さんは喜ぶ。しかし、娘たちは幸せから遠ざかっていく。

人のセックスを笑うな

Happinet(SB)(D) 2008年7月25日

 

「背中痛くなかった?」

美術学校生のみるめは20才年上の講師ユリを好きになる。それを察知した仲間のえんちゃんは浮かない。有頂天のみるめだったが、ユリは結婚していた――

イチャつく様子がすごくうまく描かれている。永作さんは可愛いすぎる。映像の間が何とも心地よく、おりはさまれるロング・ショットも気持ちいい。どっぷりキタタタ。

白鯨〈上,下巻〉 (1952年)

1952 新潮社 田中 西二郎

 

捕鯨船の船長エイハブは、彼の足をとった宿敵、白鯨モービーディックを追って航海を続ける。

小説だと思って読み始めたためか、途中、大変厳しかった。最後の数章は物語的にも面白かった。訳注を追いながら、ゆっくりと読めばよいのかもしれない。あとがきを読んで笑ってしまった。

「つまりこの小説の構成は、最初の導入部と最後の急端のような事件の展開とを除くと、中間の六十五章というものは、作者はこの物語の選ばれた情況、つあり海について、捕鯨業について、捕鯨船の構造と要員と貯蔵品について、鯨の分類について、鯨に関する人類の伝説と歴史について、鯨美術について、それから捕鯨ボートの構造、装備について、追撃の方法について、捕らえた鯨の処理の手続きについて、鯨が船側に横づけになるとその解剖学を頭から尾に至るまでしらべ、そこから脱線して考古学上の鯨について-つまり実地の経験と文献の知識とを総動員したお喋りが続くのであって、この間、物語の進展には少しも関係のない論文(?)の形をとった章が実に三十五の多きにのぼり、またほぼ論文に近い内容の章が他に九章を数える。」

つまり、ほとんど鯨にまつわる論文である。けど、(その論文をほとんど読み飛ばしたが)知らなかったものもあった。一頭のオスと複数のメスという集団で行動しているという点は常識なのかもしれないが極めて哺乳類的で興味深かった。あとは某書で批判していた「捕鯨で鯨の生態に壊滅的なダメージを与えたのは他でもない西欧圏だ」ということを十分に裏付ける。まさに鯨油のための乱獲の描写であった。

百万円と苦虫女

ポニーキャニオン 2009年2月4日

 

短大を卒業して就職もできずに、しかたなくアルバイト生活を送っているどこにでもいる鈴子。どうにかしてこの生活を変えようと考えている中、事件に巻き込まれてしまう。そして逃げるように、百万円を貯めるたびに次から次へと引越しをする生活をはじめる。

何気に重いし、意外によかった。蒼井優の見たことのない表情がいくつかあったので驚いたが、いかんせんやせすぎだ。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

水村 美苗 筑摩書房 2008年11月

 

英語などの<普遍語>と<国語>の非対称性。”主要な文学としての日本文学”<普遍語>を使った書き言葉と、話し言葉の違い。翻訳者、二重言語者の果たした役割。明治時代の西洋の影響、国家をあげた翻訳。日本文学への西洋文学の大きな影響。日本文学が成立しえた条件(成熟した書き言葉、印刷資本主義、植民地にならなかったこと)。教育論と今後の展望。筆者の熱い想いを込めた日本文学論。

SKYPEで香港のタクシー運転手を生業としている人と話した。私の英語よりもかなりマシ。スリランカの書店に入ったところ、ある程度レベル以上の本はすべて英語だった。シンガポールの公園で寝ていたところ、母、娘、孫の3世代の家族が遊んでいた。娘と母は中国語、娘は孫(子)に英語で話していた。仕事でアジア人とメールを交わすが、自動翻訳では不完全で、英語がやはり使い勝手が良い。、、、と普遍語としての英語の脅威に何年も前から感じている。ただ、100年後、英語が同じ位置を占めているかは分からない。グーグルの活動をことさら強調するが、専門外の場所にグーグルが出てくる場合はたいてい話がおかしくなる。

会社にもトリリンガルの人がいるが、友達はテトラリンガル?までいる。バイリンガルもままならない自分にはほとほと呆れ果てる。学問は普遍語でするべきだ、というのはしごく最もな意見に感じた。私の父も常に日本の学会にしか論文を提出せずに成果をほかの世界の研究者にとられた過去の科学者の話をする。

福沢諭吉の猛烈な勉強生活は知らなかった。読まなくてはならない。「学問のススメ」で外国人教師を学校から追い出す、政府の杓子定規の対応を愚痴っていたが、事情を知ってしごく納得がいった。谷崎潤一郎の文章読本に「文法は必要ない」と書いてあるが、それは「英文法は必要ない」のことだということだ。近代の文学者たちは当たり前のように二重言語者だったのだろう。

書き言葉を口語化しようという文学者たちの奮闘は中村氏の文章読本に詳しい。ぜひ参照されたい。著名な作家が日本語のローマ字化のための文章を投稿しているのには驚いた。

デイヴィッド・コパフィールド

1989 新潮社 C. ディケンズ, 中野 好夫

 

「いったいアグニスという女は、静かで、物音こそ立てないが、たとえどこにいようと、その証跡は、何かと快い形で、必ず現れるのだった。たとえば、帰ってきてみると、いつもあの伯母の家の客間の窓にぶら下がっていた鳥籠が、ちゃんとまたかかっているのである。また私の安楽椅子が、これも私のよりはずっと楽な伯母のそれをそのままに、きちんと開いたまどのそばに据えてある。」

デイヴィッドの半生を描いたディケンズの代表的な作品。

モーム十選の中に入っていたが、一刊目のあとがきで、「モームが主人公デイヴィッドの性格雑煮ついて、いろいろ具体的に不満な点をあげ、一貫したイメージとしての弱さを指摘していた」ようなことが書かれていて、おいおいモーム…。って思った。ストーリーも都合が良すぎる点が多々あるけど、特徴的な登場人物は面白く、4巻目の中盤で面白くなってきた。アグニスは俺の嫁。