日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

水村 美苗 筑摩書房 2008年11月

 

英語などの<普遍語>と<国語>の非対称性。”主要な文学としての日本文学”<普遍語>を使った書き言葉と、話し言葉の違い。翻訳者、二重言語者の果たした役割。明治時代の西洋の影響、国家をあげた翻訳。日本文学への西洋文学の大きな影響。日本文学が成立しえた条件(成熟した書き言葉、印刷資本主義、植民地にならなかったこと)。教育論と今後の展望。筆者の熱い想いを込めた日本文学論。

SKYPEで香港のタクシー運転手を生業としている人と話した。私の英語よりもかなりマシ。スリランカの書店に入ったところ、ある程度レベル以上の本はすべて英語だった。シンガポールの公園で寝ていたところ、母、娘、孫の3世代の家族が遊んでいた。娘と母は中国語、娘は孫(子)に英語で話していた。仕事でアジア人とメールを交わすが、自動翻訳では不完全で、英語がやはり使い勝手が良い。、、、と普遍語としての英語の脅威に何年も前から感じている。ただ、100年後、英語が同じ位置を占めているかは分からない。グーグルの活動をことさら強調するが、専門外の場所にグーグルが出てくる場合はたいてい話がおかしくなる。

会社にもトリリンガルの人がいるが、友達はテトラリンガル?までいる。バイリンガルもままならない自分にはほとほと呆れ果てる。学問は普遍語でするべきだ、というのはしごく最もな意見に感じた。私の父も常に日本の学会にしか論文を提出せずに成果をほかの世界の研究者にとられた過去の科学者の話をする。

福沢諭吉の猛烈な勉強生活は知らなかった。読まなくてはならない。「学問のススメ」で外国人教師を学校から追い出す、政府の杓子定規の対応を愚痴っていたが、事情を知ってしごく納得がいった。谷崎潤一郎の文章読本に「文法は必要ない」と書いてあるが、それは「英文法は必要ない」のことだということだ。近代の文学者たちは当たり前のように二重言語者だったのだろう。

書き言葉を口語化しようという文学者たちの奮闘は中村氏の文章読本に詳しい。ぜひ参照されたい。著名な作家が日本語のローマ字化のための文章を投稿しているのには驚いた。

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