1972 新潮社 バルザック, 平岡 篤頼
資産をつぎ込んで、二人の娘をパリの社交界に送り出し、自分は貧乏暮らしをしているゴリオ爺さん。同じ下宿屋に住む、貪欲に出世を望むラスティニャックが娘と仲良くなり幸せに過ごすことを、ゴリオ爺さんは喜ぶ。しかし、娘たちは幸せから遠ざかっていく。
1972 新潮社 バルザック, 平岡 篤頼
資産をつぎ込んで、二人の娘をパリの社交界に送り出し、自分は貧乏暮らしをしているゴリオ爺さん。同じ下宿屋に住む、貪欲に出世を望むラスティニャックが娘と仲良くなり幸せに過ごすことを、ゴリオ爺さんは喜ぶ。しかし、娘たちは幸せから遠ざかっていく。
「背中痛くなかった?」
美術学校生のみるめは20才年上の講師ユリを好きになる。それを察知した仲間のえんちゃんは浮かない。有頂天のみるめだったが、ユリは結婚していた――
イチャつく様子がすごくうまく描かれている。永作さんは可愛いすぎる。映像の間が何とも心地よく、おりはさまれるロング・ショットも気持ちいい。どっぷりキタタタ。
1952 新潮社 田中 西二郎
捕鯨船の船長エイハブは、彼の足をとった宿敵、白鯨モービーディックを追って航海を続ける。
小説だと思って読み始めたためか、途中、大変厳しかった。最後の数章は物語的にも面白かった。訳注を追いながら、ゆっくりと読めばよいのかもしれない。あとがきを読んで笑ってしまった。
「つまりこの小説の構成は、最初の導入部と最後の急端のような事件の展開とを除くと、中間の六十五章というものは、作者はこの物語の選ばれた情況、つあり海について、捕鯨業について、捕鯨船の構造と要員と貯蔵品について、鯨の分類について、鯨に関する人類の伝説と歴史について、鯨美術について、それから捕鯨ボートの構造、装備について、追撃の方法について、捕らえた鯨の処理の手続きについて、鯨が船側に横づけになるとその解剖学を頭から尾に至るまでしらべ、そこから脱線して考古学上の鯨について-つまり実地の経験と文献の知識とを総動員したお喋りが続くのであって、この間、物語の進展には少しも関係のない論文(?)の形をとった章が実に三十五の多きにのぼり、またほぼ論文に近い内容の章が他に九章を数える。」
つまり、ほとんど鯨にまつわる論文である。けど、(その論文をほとんど読み飛ばしたが)知らなかったものもあった。一頭のオスと複数のメスという集団で行動しているという点は常識なのかもしれないが極めて哺乳類的で興味深かった。あとは某書で批判していた「捕鯨で鯨の生態に壊滅的なダメージを与えたのは他でもない西欧圏だ」ということを十分に裏付ける。まさに鯨油のための乱獲の描写であった。
ポニーキャニオン 2009年2月4日
短大を卒業して就職もできずに、しかたなくアルバイト生活を送っているどこにでもいる鈴子。どうにかしてこの生活を変えようと考えている中、事件に巻き込まれてしまう。そして逃げるように、百万円を貯めるたびに次から次へと引越しをする生活をはじめる。
何気に重いし、意外によかった。蒼井優の見たことのない表情がいくつかあったので驚いたが、いかんせんやせすぎだ。
水村 美苗 筑摩書房 2008年11月
英語などの<普遍語>と<国語>の非対称性。”主要な文学としての日本文学”<普遍語>を使った書き言葉と、話し言葉の違い。翻訳者、二重言語者の果たした役割。明治時代の西洋の影響、国家をあげた翻訳。日本文学への西洋文学の大きな影響。日本文学が成立しえた条件(成熟した書き言葉、印刷資本主義、植民地にならなかったこと)。教育論と今後の展望。筆者の熱い想いを込めた日本文学論。
SKYPEで香港のタクシー運転手を生業としている人と話した。私の英語よりもかなりマシ。スリランカの書店に入ったところ、ある程度レベル以上の本はすべて英語だった。シンガポールの公園で寝ていたところ、母、娘、孫の3世代の家族が遊んでいた。娘と母は中国語、娘は孫(子)に英語で話していた。仕事でアジア人とメールを交わすが、自動翻訳では不完全で、英語がやはり使い勝手が良い。、、、と普遍語としての英語の脅威に何年も前から感じている。ただ、100年後、英語が同じ位置を占めているかは分からない。グーグルの活動をことさら強調するが、専門外の場所にグーグルが出てくる場合はたいてい話がおかしくなる。
会社にもトリリンガルの人がいるが、友達はテトラリンガル?までいる。バイリンガルもままならない自分にはほとほと呆れ果てる。学問は普遍語でするべきだ、というのはしごく最もな意見に感じた。私の父も常に日本の学会にしか論文を提出せずに成果をほかの世界の研究者にとられた過去の科学者の話をする。
福沢諭吉の猛烈な勉強生活は知らなかった。読まなくてはならない。「学問のススメ」で外国人教師を学校から追い出す、政府の杓子定規の対応を愚痴っていたが、事情を知ってしごく納得がいった。谷崎潤一郎の文章読本に「文法は必要ない」と書いてあるが、それは「英文法は必要ない」のことだということだ。近代の文学者たちは当たり前のように二重言語者だったのだろう。
書き言葉を口語化しようという文学者たちの奮闘は中村氏の文章読本に詳しい。ぜひ参照されたい。著名な作家が日本語のローマ字化のための文章を投稿しているのには驚いた。
2008
両親の訃報を受け、東京から山間の田舎に戻った姉・香澄。家には母の連れ子だった兄・穴道、その嫁・待子、そして内向的な妹・清深がいた。香澄は女優を目指し上京したが、自分本位な性格が災いし、女優活動も頭打ちになた折だった。そんな姉の帰省により、再び姉妹は激しくぶつかり合う。
映画としてのできは素晴らしいのではないか。カメラといい色といい脚本といい俳優たちといい。短い中に緩急つけて凝集されていて良かったと思う。佐藤江梨子はこんなに演技できる人だったんですね。内容は原作の方がいいのかな。読もうかどうしようか。
1989 新潮社 C. ディケンズ, 中野 好夫
「いったいアグニスという女は、静かで、物音こそ立てないが、たとえどこにいようと、その証跡は、何かと快い形で、必ず現れるのだった。たとえば、帰ってきてみると、いつもあの伯母の家の客間の窓にぶら下がっていた鳥籠が、ちゃんとまたかかっているのである。また私の安楽椅子が、これも私のよりはずっと楽な伯母のそれをそのままに、きちんと開いたまどのそばに据えてある。」
デイヴィッドの半生を描いたディケンズの代表的な作品。
モーム十選の中に入っていたが、一刊目のあとがきで、「モームが主人公デイヴィッドの性格雑煮ついて、いろいろ具体的に不満な点をあげ、一貫したイメージとしての弱さを指摘していた」ようなことが書かれていて、おいおいモーム…。って思った。ストーリーも都合が良すぎる点が多々あるけど、特徴的な登場人物は面白く、4巻目の中盤で面白くなってきた。アグニスは俺の嫁。
「ホントあり得ないくらい貧乏だった。給食費とかまったく払えないくらいで、ガスとか電気はいつも止められてたよ。冬とかマイナス十何度にもなるから、寒くて凍えそうで毎日死ぬんじゃないかと思ってたほど。食べる物が全然ないときもあったくらだから。」
「私を刺したのは母親にとって、自殺みたいなものだったのかもしれない。私と母親はすごい似ているんです。だから私と全然違う、全然似ていない妹は可愛がられて、私に厳しくあたったんだと思う。」
「そうそう、そのときはいつも以上にメチャクチャしてて、一人は片足を車で轢いて潰してたんです」
「テレクラは山に捨てられたのを最後にやめたから、今度はヘルスに勤めたの」
「でも、どうしてもママに自分を認めてもらいたかった。だから勉強は一生懸命したよ。褒めてもらえるものはそれしかなかったから」
「アニメやゲームはなんでも知ってなければならないんで、撮影の一週間前から猛烈にキャラの勉強しなきゃいけないんです。撮影前にアニメの一話から最終話までビデオ借りてきて、コミックも全部読んだり、とにかく時間がかかるんですよ。で、使えそうな言葉に便箋をつけて暗記するんです。」
22人のAV女優へのインタビュー。彼女たちは激動の半生を赤裸々に語る。
面白いブログを探していたころ、AV女優のブログにたどり着いた。その有名女優は普通の感覚を持っていたように思えた。この人がなぜAV女優という職業を選ぶにいたったかが非常に疑問に思って買った書籍だ。
彼女らの半生も業界について、差し挟まれる筆者の考えなども非常におもしろかった。創作でないかとも思うような激しい虐待については、ここまで詳しく書いてある本を読んだことがなかったので、すごい参考(←なんの?)になった。早く逮捕してくれ!っていう人や、親などもちらほらいる。悲惨な環境も多いが同じ環境があったとしても違う人生を歩んでいる人は多数いるだろう。そう考えるとAV女優という特異な職業につく人はやっぱり特異、心的な疾患を持っていると思う。
AV女優については、たとえ売れてお金が稼げたとしても自分の中で職業を肯定するのは非常に難しい。心身ともにあまりにもリスキーな選択なので、どんなにAV女優という職業に対して肯定的に書かれている書物があったとしても、それを信じてはいけない。アイドルだって体を売っているというのだから同様である。それにしても濃いい一点の無駄のないフラットなインタビューは素晴らしかった。この人のインタビューは一通り読んでみたいな。AV女優の書籍も行ってみるかな…。
2003 中央公論新社 森本 達雄
ヒンドゥー教と日本人、習慣、考え方、歴史、カースト、女性、、、と多岐にわたって書かれた書籍。分量は多いが、現地で見聞きした情報を元に書かれている。
膨大すぎて最後は流し読み。文化は大切だけど、先立たれた妻はいっしょに火葬されなくてはいけないなどは、ちょっと拒否反応が。やっぱり自然宗教的なものなんだなぁー。前にダルマとか神についてとかの本は読んだけど、そういうのに比べれば理論的な本ではなくて文化的な側面にフォーカスした本かもしれない。
1996 筑摩書房 阿満 利麿
日本人は神を信じているのになぜ無宗教と自身をいうのか?無宗教の実態、歴史などから、日本人の根本にある自然宗教を考察する。柳田国男のフィールドワークが何度も引用され、重視されている。日本人の自然宗教に気付かされる一冊。
重右衛門の最後は読んでみたい。柳田国男はまだ読んだことない。