モンゴル帝国と長いその後 (興亡の世界史 09)

興亡の世界史がやっと最後の一冊。杉山氏の本はこないだ一つ読んだが、こちらを読めばさらに中央アジア視点からの歴史への理解が深まると手に取った。

本の構成

 序章「なんのために歴史はあるのか」ではまずモンゴル帝国から繋がっている現在を振り返る。モンゴル帝国が完全に消滅したのは1920年であった。ブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国がソヴィエト連邦に統合された。また1920年ごろの第一次大戦の前後ではユーラシアの帝国が相次いで消滅した。1920年の少し前にロマノフ王朝のロシア帝国が戦局の激化により国内産業力が過重な負担を支えきれず崩れ去った。またイスラム世界の盟主のオスマン帝国が解体しムスリムたちに影響を及ぼした。東に目を移すと第一次大戦の少し前には辛亥の年の革命によって大清帝国が崩壊した。また第一次大戦の結果としてヨーロッパではドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国が消滅した。これら20世紀のはじめに一斉に消え去った諸帝国は実はいずれもモンゴル帝国とその時代になんらかの起源・由来をもっていて、モンゴル以後の帝国史は決算されたと解説する。
 モンゴル帝国とその時代はそれ以前のユーラシアの歴史や営みの多くを総括するものであり、人類は陸海を通じた本格的な大交流によって大きく別の段階へ踏み出す。しかし欧米中心に語られてきた世界史像では15世紀末以後の西欧の海洋進出からでしかまとまった像としての世界史は語られない。それは歴史だけではなく学問・知識の体系がヨーロッパことに西欧の枠組みであり、それに依拠しているのが理由である。しかしモンゴルが世界と時代の中心にいた13・14世紀が世界市場の重要な画期とみなす考え方が、内外で広まりつつある。大航海時代の二世紀前に人類史上の重大なステップとしのモンゴル時代があると日本が首唱したのが始まりである。
 モンゴルの発展はに段階に分かれている。一段階目は創始者チンギス・カンによるユーラシアの多くをまとめて大モンゴル国を作る過程である。二段階目はクビライ移行の大元ウルスが陸海を通じたシステムを推し進めた過程である。モンゴル帝国では第二代皇帝のオゴデイのときからカアンと名乗り、帝国を構成する他のウルスにおいてはその当主はカンとのみ称した。中華地域においては北宋や南宋などと比較にならない大地平が出現した。中東ではモンゴルによるアッバース朝の消滅と、モンゴルのフレグ・ウルスが統括する広義のイランをはじめ、現在のアゼルバイジャン、アフガニスタン、トゥルクメニスタン方面、及びそれ以東の地は、ペルシア語文化を主体とする東方イスラーム圏となり、モンゴルと対峙したマルムーク朝がおさえるエジプト以西がアラビア語文化の西方イスラーム圏となる形勢がさだまった。いずれも現在に直接つながる現象である。モンゴル以前には安定して統合されることがなかった西北ユーラシア、すなわち現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カザフスタン、ウズベキスタンなどの大地域においては、ジョチ・ウルスという名のモンゴル権力のもとに秩序づけられ、モンゴル帝国全体がつくりだすユーラシア規模の交通システム・流通経済に組み込まれたこのモンゴル時代のボーダレスな東西世界では陸海の交通ルートは公権力で維持・補償されており、人と物が空前のしつりょうでゆきかい、文化・宗教・思想・知識・情報・学術・科学・技術・芸術などが大展開した。
 モンゴル帝国とその時代の研究は、東西の多言語原典文献と、多様な遺跡・遺物という大きく異種の根本データに基づく。文献資料もペルシア語・漢語の二大資料群を中心に、二十数カ国語にわたり、一通り閲覧・把握することさえ困難である。未発見・未処理の場合の方が多い。近年かつてとは違う水準と広がりで研究が急展開している。それが可能となったのは、政治・国境・資料の壁がとりはずされたここ二十年あまりのことである。中国の解放政策、ソ連の崩壊、東欧の民主化などアフロ・ユーラシアの国々にみられた引き締めの緩和や、グローバル化が調査・研究に与えるプラス面である。モンゴル帝国については、昔から中華文明人やムスリム知識人たちは悪口がふつうだった。それは、みずからを「文明」とし、他者を「野蛮」とする定型パターンに加え、自分達はモンゴルの被害者であったといいたい気分がそうさせがちであった。事実においては、中華文化はモンゴル時代においてもっとも輝いた。モンゴルへの負のイメージを創作し、煽り立てたのは、近代のヨーロッパであった。かつてヨーロッパを恐怖に陥れたモンゴルこそは遅れた征服されるべきアジアの代名詞として、歴史と時代を超える格好の標的となった。モンゴル帝国を筆頭とする過去の歴史への負のイメージは欧米による価値づけを前提とする史家に引き継がれ、アジア人史家でさえもそれは顕著である。
 歴史とは何か?歴史研究とは何のためにあるのか?かつてであれば一生涯かけても手に入れることのできなかった情報・知識が、しばしば一瞬のうちに眼前にそろうこともありうる。思想家・歴史家たることはそれをもって職業とする人たちだけの在り方ではなくなり、万人に開かれた領域と化した。紛争・対立を乗り越える地平と思考が求められる。対立を作るのは、宗教という組織であり団体だ。私たちは、どういう道のりをたどって今こうしてあるのか。人類に共有される歴史像・世界史像を是非とも作りたい。

 第一章「滔々たるユーラシア国家の伝統」では、アジアはアッシリア語の「日いずるところ」のアスを起源としており、ヨーロッパは同じくアッシリア語の「日没するところ」のエレブを起源とした女神の名前を起源としている。牛に変身したゼウスが女神エウローパーを略奪してその背に乗せて海を西へ渡ったという神話が元になっている。アッシリアは現在の国名で言えばイラクだが前八世紀半ごろから軍事国家として強大化し、最盛期には現在の中東中央域のほぼ全域を征服・支配した。しばしば、人類史上で最初の帝国であったという言い方がされる。その軍事システム、他民族支配、官僚機構は周辺諸地域や後世に影響を与えている。この言葉はギリシアに伝わったがギリシア人の感覚ではボスポラスとダーダルネスの二つの海峡を境として北側をヨーロッパ、南側の東方がアジア、南側の西方がリピュアと呼ばれた。ヨーロッパは寒冷で荒涼として無骨なイメージで、アジアは温暖で猥雑として豊穣のイメージであった。これが逆転するのは近代になってからである。アジア人としてアジアを感じる人はなく実態がない概念なのに対して、ヨーロッパは実態を作ろうとしている。日本にも中国史研究を元にしたアジア史を唱えた研究者宮崎市定もいた。
 アジア・ヨーロッパの概念とは別にユーラシアという言葉も帝国列強の時代に湧き上がってきた。ドイツをはじめとする列強たちが地続きに争っているのがユーラシアという地政学上の戦略であった。一方で西に向いてヨーロッパ、東に向いてアジアというロシアにとってはユーラシアは基本スタンスであった。アジア史やユーラシア史として歴史と捉えるのは比較的新しくここ100年くらいのことである。西洋史や日本史などはその中で完結していたが、冷戦構造の崩壊でユーラシアの感覚が必要になり中国史研究家は中央アジアや東南アジアにも盛んに赴き、西洋史家もアジア各地に赴くようになった。ひるがえってアジアやユーラシアを一括して考えなくてはならないのがモンゴル帝国とその時代である。
 ユーラシアは地形が大きなユニットとして存在しており、沿岸部を除くと乾燥が優越している。そしてこの乾燥空間が東西にわたって帯状に伸びており、東は中華人民共和国の北域から西はハンガリー平原まで草原もしくはなだらかな山野で伸びている。この陸上の帯が遊牧民たちの天地であり、農耕などのとどまるものに対して、遊牧・交易などのつなぐものとして面として広がりをもって活躍した。遊牧の典型的な形としては夏は家族単位で広い平原や山麓に散開して牧養し、冬は数家族から数十家族で寒気や雪害をしのげる渓谷もしくは山の南側で集団越冬する。こうした日常生活の中で騎馬の技術や集団としての組織性・機動性などの特質をやしなっていく。特に集団越冬の際は氏族や部族といった帰属を形成する。組織も機動性があり、連合しやすく大きな勢力が出現するが、連合は壊れやすい。遊牧民は放浪・さすらいではなく厳しいほどシステマチックでダイナミックなものであり、独特の価値観・行動様式を人類にもたらした。遊牧は農耕で定住できない乾燥した大地を有効活用し生活できるようにした。遊牧騎馬戦士は生まれながらに軍人であり騎射と高速に展開したが、それが複数の部族集団を束ねて大型の軍事連合体を作ると近代以前の世界にあっては大きな戦闘力となった。軍事を柱に政治・統治・通商・交通を握り、定住農耕民も包含した多民族・多文化・他地域の国家を形成した。遊牧と遊牧民が人類史のうえで果たした役割は長い間、正当に評価されてこなかった。近年は国境の壁が低くなり相互の情報の質量や理解は格段に向上し、流布されてきた野蛮・未開という負のイメージは修正されつつある。
 ユーラシア史を広く見ると遊牧民は多くの国家を生み出した。古くは前六世紀ギリシア語でスキタイとよばれる遊牧複合連合体が出現する。ハカーマニッシュ帝国のダーラヤワウ大王はスキタイに進軍したが惨敗した。ちなみにハカーマニッシュ帝国や先行するメディア王国もその中核部は遊牧民の影が色濃い。これ以後のパルティアとサーサーンの両帝国も中核は遊牧民の軍事連合体であった。またアラブという語もかなりの可能性で遊牧民を意味する。現在確認できる最初の遊牧国家のスキタイはその領域は歴史研究家を悩ませている。スキタイにつぐ遊牧国家は前200年前後の匈奴でありスキタイから影響を受けていたとされる。匈奴については完全同時代の司馬遷の史記に克明な叙述がある。匈奴国家は民族国家ではなく、遊牧部族連合体をもとにさまざまな遊牧系の諸集団をとりこみ強力な軍事権力体であり、さらにオアシス民・農耕民などの定住地域も広く包み込んだ大型の複合国家であった。東はおそらく韓半島におよび西は天山地方に達した。それ以降はユーラシアの東西で遊牧国家や遊牧政権が多く興亡する。また遊牧国家は遊牧世界だけで勃興したわけでなく、中華帝国の典型のような隋や唐においても、その由来からは鮮卑拓跋の血と体質をうけついでいた。インドにおいてもダーラヤワウ大王の碑刻にあらわれるサカ族はスキタイの東方展開したものたちがインドへ到達する。クシャーンの南下と北西インドの支配がある。大きな流れとしてはテュルク族を主とするイスラーム軍事権力のインド支配である。ガズナ朝、ゴール朝、また1206年以降、デリーを首都とする五つの遊牧民系の政権が連続する。最後に故土を追われたティムール帝国最後の君主バーブルが、インドへ入って第二次ティムール朝たるムガル帝国を開く。西北ユーラシアでもイラン系のサルマタイは東からやってきたフンに押し出されてヨーロッパに向かった。大移動のあと、アヴァール、ブルガール、マジャールがあいつぎ、さらに突厥・西突厥の力が及んだ。さて13世紀のモンゴルによるユーラシア大統合ののちは、モンゴル世界帝国で統合・整備された国家システムが、ユーラシアに共通する見えないスタンダードとなる。それは、すでに述べたロシア帝国、オスマン帝国、サファヴィー帝国、ティムール帝国、ムガル帝国、明帝国、ダイチン・グルン帝国に直接・間接に引き継がれる。いずれも多種族複合国家というほかはないものであった。

 第二章「モンゴルは世界と世界史をどう見たか」では人類史上最初の世界史である「集史」の説明から始まる。1300年フレグ・ウルス(イル・ハン国)の第七代ガザンが命じて国家編集されたモンゴル帝国の正史である。モンゴル諸部族に保持されていた伝承・旧辞・系譜など口承で語り継がれていたものも含めて各文明圏から承知された多言語の学者・知識人を駆使して編纂された。ガザン他界の際は未完成だったが、あとを継いだ弟はモンゴルと関わった国々の世界各地の諸種族史を追加を命じ、1310年ごろに総合史として完成した。筆者はその中で「テュルク・モンゴル諸部族志」が今まで軽視されてきたとし、それを読み解いていく。まずテュルクというエジプトから南中国まで広い範囲に分布している人々の中にモンゴルが位置するとし、ノアから続くオズクを始祖とする。オズク族は実態があり漢文史料では鉄勒に属した袁紇が所見といわれる。オズクカガンは左右両翼に合わせて24の軍事集団をおいたことが書かれており、これは匈奴などにある二十四長を思わせ影響しているとみる。そしてこの左右両翼の体制はモンゴル帝国の創始者チンギス・カンが最初につくった国家の形である。おずくによる開国神話はウイグル、カルルク、カンクリ、キプチャクなどや他の諸勢力の歴史の記録であり、オズク族を中核とするセルジュク朝が西アジアで世界にしばらく覇を唱えた。集史の始まりはテュルク系のオズク族の伝説の世界征服をモンゴル系のチンギスが現実に再現してモンゴルの時代になったという建付けである。
 筆者はモンゴル時代に東西に出現した2つの世界地図と解読を元に研究をすすめている。混一図とカタルーニャ地図である。混一図のモンゴルは1313~18年ごろのもの、カタルーニャ地図も同時期の1313~14年のデータであり、同時期の情報という結果になった。混一図は民間に流布した中華本位の地図であるが海に囲まれたアフリカが描かれているなど西欧が世界を発見する前に東では世界が正しく認識されていたことを示している。ただヨーロッパはカタルーニャ地図以降に後退していきコロンブスまでの120年あまり停滞する。一方の当方も混一図以降は組織化された海への展望をうしなっていく。陸上交通もモンゴル解体で失われソ連解体後に蘇ったと言ってもよく、東西の海上交通も16世紀以降のポルトガルによる東方進出でやっと蘇る。作者曰く西洋人がいう大航海時代というのは人種差別を生み出した罪深いものである。さらにイギリス帝国論者が好む大航海時代以降の”海進”には陸上への視覚と知見が大きく欠落しており、ロシア帝国の形成とによる長期に渡る”陸進”は世界市場の大現象である。海の論理だけで語られる世界史は珍妙である。

 第三章「大モンゴルとジャハーン・グシャー」では、、12世紀末ごろテムジンというものが頭角をあらわす。時代は戦国乱世、下剋上はめずらしくはなかった。テムジンは制覇の途上にあった主筋のケレイト部長を倒して、高原東部の派遣を得た。そして高原西部のアルタイ山方面の覇権を握るナイマン連合体の首長を打倒して高原を手中にした。ここで注意したいのは両者とも連合王国であった。1206年に高原の政治統合を実現したテムジンはチンギスカンと名のり、テュルク・モンゴル系の遊牧民連合体を自分の出身した部族集団の名前をとって大モンゴル国と名づけた。ここに様々な由来を持つ牧民たちは大モンゴルたる一つのウルスに属する一員として認識した。2006 年はモンゴル国家の出現から 800年の年であった。ドイツはその前年より盛大な展示会と国家シンポジウムが政府の特別な資金援助で行われ、モンゴル帝国絡みの様々な異物・文献・文書・美術品が勢ぞろいし、日本からも蒙古襲来を記した国書が出品された。モンゴルでは大モンゴル建国800周年として国中を挙げて慶祝し、賑わった。かたや、ゴビの南、内モンゴル自治区でも、それなりのセレモニーは行われた。モンゴルにかかわる人々は、新疆省・東北三・甘粛省・四川省・雲南省などにも広がっている。中華人民共和国という枠組みと現状にあっては、チンギスは中華のなかの民族英雄というスタンスははずれない。ロシア連邦内にもプリヤート共和国はもとより、トゥーヴァ、ハカシヤ、アルタイ、タタールスタン、パシュコルトスタン、カルムイキヤといった各共和国があり、直接・間接にモンゴルにかかわっていた。ソ連時代はチンギス生誕800年を祝う動きがあったが叩き潰された。
 チンギスカンというのはどのような人物だったのか。台湾の故宮博物院には中国歴代帝后像という画集があるが、そのなかにチンギスカンの肖像画が含まれる。チンギスカンの肖像はほぼこれ一枚しかないが、クビライの肖像と似ているので筆者は想像画とする。また風姿を伝える記録も少なく、東西に2つの記事が目につく程度である。一つは南宋の見聞記の伝聞であり、大柄でひたいは広く長々とひげが垂れている勇壮な人物であるとする。もう一つはゴール朝に仕えていた人が65歳でなみはずれて長身で体は頑健、猫のような目を持つとある。またケレイトのオン・カンを倒してのし上がるまでの彼の前半生もはっきりとしない。モンゴル秘史で語られていることもどれほど事実であったか定かではない。大モンゴル・ウルスは周辺国から脅威の目で見つめられ各国はの防衛ラインは最高度の警戒態勢にはいった。そしてその指導者チンギス・カンは注目の的であり記録され始める。チンギス・カンは東西への征戦を重ねて1227年に西夏攻略のさなか他界した。生年について各説あるものの軍旅の中で過ごす1206年から1227年までの21年間がチンギス・カンについて確度をもって知りうる範囲である。
 次にモンゴル軍の強さについて分析していく。基本的には馬と弓矢の軍団にすぎず破壊力などはたかがしれちえる。未曾有の強大な暴力集団であるようにいうのは間違っている。東西の記録で共通しているのは、淳朴にして勇敢、命令・規律によく従ったということである。これは中央アジア・イスラーム地域・ロシア・ヨーロッパにおいても武将感の不和・嫉妬はごくありふれていたことで、内輪もめは状態化しており、洗浄での離脱・脱走・様子長め・裏切りもしきりに起こっていた。この理由としては中華地域における兵士への蔑視・差別・不信だけでなく、将兵ともども金で雇われた傭兵であったことが挙げられる。モンゴルの強みは共同体としても組織力・結束力にあったと言える。ついで周到な計画性がある。自軍に対しては徹底した準備と意思統一、敵方については徹底した調査・調略工作をし、たいていは二年ほどかけた。戦う前に敵が崩れるか、自然のうちになびいてくれるように仕向け、モンゴル遠征軍はただ更新すればよかった。敵方への下工作や根回しが不十分なまま、敵軍とむかいあったときにしばしば敗れた。ホラズム・シャー王国へは国境の要塞都市はすべてモンゴル軍の的確な攻撃に陥落し、そのあとは勝手にホラズム・シャー王国が内部崩壊した。イスラーム世界で最強と目された王国が消え去った。ところがアム河をこえて、現在のアフガニスタンの領域に踏み込むと、さっぱりうまくいかなくなった。東部イランのいわゆるホラーサーンでは古くから栄える都市ごとに抵抗にあった。アム川以南については事前の調査も下工作もできていなかったのである。老人チンギスは1222年にはアフガニスタン作戦に見切りをつけ、全軍に旋回を命じた。しかも、きわめてゆっくりと時間をかけて慎重に退いていき、人も年も領域も失うことなく確実に握り続けた。チンギスは冷静沈着・平静な組織者で、戦略ガンの確かな老練の指導者であり、猪突猛進のアレクサンドロスのような戦場の勇者ではなかった。モンゴルは高原統一のころからどちらかというと戦わない軍隊で、指導者同士の論戦や談合、誰かの調停などで一方が他方に雪崩をうって合流しており、人命を損なうのは回避された。世に言う大量虐殺や恐怖の無敵軍団のイメージはモンゴル自身が演出した戦略だった。またモンゴル帝国の内部事情を詳しく語る同時代のペルシア語の歴史書には、敵方の人間・集団・部族・都市・国を吸収したり引き入れるときはイルになると表現された。これは仲間となるということであった。従来はイメージでこの言葉を征服するや降伏させると略したが、テュルク語のイルはモンゴル語のウルスと同義語である。モンゴル帝国にあからさまな人種差別はほとんどなかった。能力、知恵、技術、人脈などひとにまさるなにかがあれば用いられた開かれた帝国であった。
 モンゴルという集団は唐代の漢文文献にも現れているが、モンゴル部が浮上してくるのは12世紀からである。それが全体の名乗りとなったので、この時点でのモンゴルはチンギスのもとに結成された政治組織体、いわば国家のことである。クビライによって作られた大元ウルスが中華本土を失い、政権の中核を構成していた相当数の人々が北の高原へと本拠地を移した。その中には漢族もルーシやキプチャク高原からやってきたもの、カフカース北麓を故郷とするものなど多種多彩な顔ぶれであった。これらの人々と以前から高原に住んでいた人々が主体となって別の時代が始まる。そしてそこに住む人たちはモンゴル民族と呼んでもさしつかえない実態を備えるようになっていった。モンゴルの中で第一の集団はモンゴル部の人、第二集団は1206年に国家草創のときにモンゴル・ウルスに参加した部族たち、第三集団は1211年に金國侵攻作戦がはじまると退去してモンゴルになびいた金国統治下と西の第二次キタイ帝国にぞくしていた東西の遊牧キタイ族である。1227年にチンギスが他界した際には前モンゴルのハザーラ=千人隊は129個あったという。モンゴル秘史の95個からの増加分のかなりのものがキタイ族と見てよい。この129個はモンゴル期間部隊で開祖チンギス譜代の名門の家柄とされ中核をなした。そのほかにもユーラシア各地のテュルク系の人たちが取り込まれr、東方の華北の軍閥や、西方のムスリムやルーシや東欧のキリスト教勢力についても有力者がイルになるとモンゴルとして認定された。こうして文明圏を超えた人間結合の広がりをつくった。イランの文人行政官は第四大モンゴル大カアンとして正式に即したモンケに拝謁し、体制を整え東西の大遠征を企画しつつあったのを見てペルシア語で「世界を開くものの歴史」という同時代の歴史書を著した。

 第四章「モンゴルとロシア」、、、1229年にチンギスカンの跡を継いだ第二代オゴデイは1232年に大金国に出兵し主力を壊滅させた。またライバルの末弟も不可解な死をとげ内外の二つの邪魔者を消し去り、東方=左翼を叔父、西方=右翼を兄とトロイカ体制を確立した。大カアンからの命令をモンゴル語と現地語で文章化して伝える駅伝システムの交通網も整備されていった。1235年に郊外に広がる野営地でモンゴル帝室と諸侯によるクリルタイが幾度もひらかれ、大金国消滅後の華北地方の後処理と東西への大遠征について討議された。東は南宋遠征、西はジョチ家の次子バトゥによるロシアからヨーロッパを恐怖の底に陥れた長距離の陸上侵攻作戦である。ただバトゥの西征の第一の目標はキプチャク草原と呼ばれる広大なステップの制圧であった。ジョチはステップ以西への進出は運命づけられていた。1219年に始まるホラズム・シャー王国打倒においてはチャガタイとオゴデイが国境の要所オラトルにとりつき、ジョチはシル河にそって、その下流域へとむかった。ジョチはいったん南下してホラズムでの掃討作戦に協力したのちに軍を転じてアラル海の北方に出た。そこはテュルク系の遊牧民であるカンクリ族の本拠地であり、彼らはホラズム・シャー王国の軍事力の主体をなしていた。このアラル海の北方草原におけるジョチの軍事活動がどのようになされたかのデータはなく、モンゴル本軍とは別行動をとり、チンギスに先立って他界したジョチについて、父チンギスとの不和など従来あれこれと想像されてきた。しかし筆者はそういうことはなかったと考える。ジョゼとスベエテイのホラズム・シャーの国王ムハンマドの追撃はよく知られている。チンギスは国王の遁走を知ると二人の駿将に追撃を命じた。ムハンマドはカスピ海のアーバスクーン島に逃れたが、両将はおsれをしらず西北イランのアゼルバイジャンにむかい、キプチャク族出身のウズベクをこうふくさせ、一度引き返して北上してシルヴァーン地方のシャマーハをへてカスピ海西岸の要衝デルベンドを攻略し、カフカース北麓へと出た。そこでキプチャク兵を買収しアス族、チェルケス族を撃破した。1222年キプチャク族は退去して西ないし西北へと緊急避難した。ルーシの故郷キエフに入ったキプチャク分族のコチャン・カンはキプチャク・ルーシ連合軍を組織し、1223年5月31日アゾフ海の北岸カルカ河畔でモンゴル軍と開戦し、大敗を喫した。キプチャク兵団は同じ遊牧系の戦士たちであったが、十分に組織化されておらず裏切り・戦線離脱などは普通だったので、よく組織化されたモンゴル軍に勝てなかったと分析する。モンゴル軍はこの後敵を追って西進するもヴォルガ・ブルガールの地で抗戦されたために東還の道をとり、イルティシュ流域で帰途にあったチンギス本軍に合流した。風のようにやってきて去っていった恐怖の軍団の噂はルーシを超えて西方に伝わった。タルタル=タルタロスたる地獄からやってきた民という話が被せられタタールの名前となったとされる。キリスト教会の宗教者たちは恐怖をあおり民たちをしもべとした。1235年のクリルタイで決定した西征軍にはバトゥ率いるジョチ家の王子たちの他、チャガタイ、オゴテイ、トルイの諸王家から、それぞれ長子ないしはそれに準じる王族が参加することになった。のちにトルイ家の長男モンケも加わっていた。帝国内で最大の所属牧民をかかえるモンケは最重要人物であり、大カアンのオゴデイは即位後ただちにモンケを自分のことして処遇することを表明した。バトゥにとってモンケは政権中枢からやや排除された形のリーダーとして盟友に近い存在であった。くわえて二人の母はケレイト王家の皇女で姉妹の関係にあった。つまりバトゥとモンケ、クビライ、フレグ、アルク・ブケヨン兄弟とは父方に置いて従兄弟どうしだっただけでなく、母方においてもそうであった。さらにこのふたりは能力・見識・器量の面でも屈指の人物であり、多言語に通じ、将才にあふれ、人望もあった。
 バトゥ自身が率いる本軍は、ヴォルガ・ブルガールとバシュキールに向かった。ヴォルガ流域の中流域をおさえるブルガール族の住地は、現在のタタールスタン共和国の一帯であり、テュルク系の遊牧民バシュキールの地はおなじく現バシュコルトスタン共和国に相当し、13世紀から現在に至るまで基本的には変わっていない。いっぽうで事実上モンケを主将とするもういちぐんはややその西と南、マリやモルドヴァの民、そしてキプチャク族の一部とアス族を制圧すべく進んだ。これらも現在のマリ・エル共和国、チェヴァシュ共和国、モルドヴァ共和国、そしてキプチャク草原の北辺にあたる地域である。1237年にはモンゴル両軍の作戦行動は終了した。いくつもの分族にわかれていたキプチャク大集団のうち有力な首長バチュマンを倒し、統合されていなかったキプチャク諸族はてんでに自走する。そうしてルーシ東側一体を握ったモンゴル軍は再び合流した。
 西征の第二段階としてのモンゴル軍のルーシ侵攻は北東ルーシ地域から始まった。リヤザン地方に入り1237年12月にリャザンを攻略し、コロームナに向かい、ウラジーミル長子が率いる軍を撃破した。1238年1月にモスクワを降した。モンゴルは破壊と虐殺の限りを尽くしたとよく言われるが、人がどのくらいいたのか。そして翌二月、ウラジーミルを眼前にしたが土塁に囲まれ粗末な木柵がつくられた情けないもので、文化としてはごくごくささきな地域だったと分析する。周囲7キロメートルというから中華地域ではくらでもこのくらいの都市はあった。モンゴル軍はウラジーミル到着後わずか五日でとくに苦労もせずにルーシ最強最大の都市をあっさりと攻略した。このあとモンゴル軍は諸隊に分かれ各隊はやすやすと諸都市をおとした。ウラジーミルを捨てて逃走した大公ユーリーは1238年に囚われて大公の軍は壊滅した。モンゴル軍はキプチャク大草原に入っていった。ロシア人史家はこの間モンゴル軍は休養につとめていたのだという見方が目につくが、実際にはカフカース方面からクリミアに至る広大な平原地域で、遊牧民の各勢力を相手に大掛かりな軍事活動を展開していた。キプチャク系の諸集団はもとより、黒海にほど近いチェルケス族やクリム族を次々と制圧し、カフカース北麓へとすすんでアス族の本拠をつき、その拠点都市たるマンガスを陥し、南北交通の要衝であるデルベント一帯をも掌握した。これによってキプチャク草原はほとんどモンゴルのものとなり、西征の目的を果たした。筆者はルーシへの侵攻はついでだっと分析する。ロシアの歴史家はモンゴルの被害によってロシアの発展を遅らせた原因と論ずるが、データは乏しい。一方でモンゴルの被害は権力者にとってみずからを正当化してくれるものだった。1239年にモンゴルの軍営ではオゴデイの長子グユクとチャガタイ家の風は主将バトゥと不和となり、その報をうけた大カアンのオゴデイは激怒して、両人の召喚を命じ、トルイ家のモンケに護送を求めた。1240年からの軍事行動はジョチ家主体のものになり、カルパティア山脈をこえてハンガリーに向い、1241年当時のヨーロッパで屈指の強国とうたわれたベーラ四世ひきいるハンガリー軍をシャヨー河畔で撃破した。1242年3月には皇帝オゴテイ崩御と西征軍の帰還命令がとどき、ゆっくりと旋回したが、モンゴル本土にはかえらず、ヴォルガ下流、カスピ海にほど近いところに帳幕の本営を構えて、東はアルタイさんから西はドナウ河口にいたる巨大な領域をジョチ一門で分有するかたちを作り上げた。
 少し振り返り1241年にバトゥ主力から分かれてホーランドに入った一隊がレグニーツァ東南の平原でポーランド・ドイツ騎士団連合軍を撃破したとされる。ヴァールシュタットの戦いと呼ばれ、西洋史家はこれを世界市場で名高い大事件だと公言するが、まことに疑わしいと筆者は問いかける。ロシア史上の英雄と数えられているアレクサンドル・ネフスキーについてもノヴゴロド公としてネヴァ河畔でスウェーデン軍に打ち勝ったことに因む。ただしそのときにバトゥ軍が東西ルーシを席巻していた。また1242年に凍結したチューど湖上においてドイツ騎士団を撃退して英雄扱いされる。東方からのモンゴルの力が圧倒的で抗しがたいことを察知してみずからを犠牲としてモンゴルに服従し、無用の流血と荒廃を回避したとされる。一方でロシア帝国時代に作られたモンゴルに野蛮なモンゴルに生き血を吸われ、しゃぶり尽くされたタタルのくびきの話がある。この二つの事象は二律背反であると指摘する。アレクサンドル・ネフスキーを有名たらしめた二つの先頭は実はあったかなかったかわからぬ程度のもので、おじや弟を追い落とし、モンゴルの力で大公位を認められており、いつの時代でもいる現実対応型の野心家であったとする。
 バトゥの西征以降、ルーシに点在する権力者たちはバトゥ・ウルスを主人とせざるをえなくなった。ヴォルガ流域を南北に季節移動するバトゥ家の天幕軍は黄金の刺繍でかざられた大天幕を中心とし、ルーシ諸侯たちから黄金のオルドと呼ばれた。日本語の金帳カン国である。統合を描いた弱小勢力のよせあつめにすぎないルーシが臣従せざるを得なかったが、ジョチ・ウルスのおかげで西から攻撃されることはなくなったし、モンゴル帝国による巨大な東西南北の交通・通称システムの恩恵にもあずかった。ルーシ各地にはテュルク語でバスカクと呼ばれる代官が駐在し、しばしば法外なとりたてを行ったとされ非難される。しかしモンゴル語でダルガないしダルガチ、ペルシア語でシャフナと呼ばれる役職はモンゴル支配下の定住地域ではごく普通におかれた。ルーシに課せられた十分の一税も他の地域でも認められている。モンゴルの支配は、基本的にはどの地域でもゆるやかで、徴税も他の時代より低率だったことで共通している。一つのポイントはルーシ諸侯の徴税をとりまとめてモンゴル側に送っていたのがアレクサンドル・ネフスキーであり、それを引き継いだのはモスクワであった。ジョチ・ウルスは最も長命で緩やかに解体し、16世紀なかばにモンゴルへと逆襲を始める。

 第五章「モンゴルと中東」では、、、1241年にオゴデイが他界した四年後、1246年にモンゴルの帝位はグユクが大カアンとして即位した。オゴデイの突然の他界、ほとんど同時のチャガタイの死は毒殺の可能性もある。西征に成功したバトゥは大カアン権力の邪魔に見えて、グユクは中東遠征を表明し宿将イルジギデイをイラン方面に出立させるとともに自らも西に向かった。バトゥも本陣を出発して大軍を率いて東進した。モンゴル帝国を東西大戦が間近となったが、グユクが中央アジアの地で急逝した。バトゥが放った刺客によるとされる。結局1251年にバトゥの強力な後援により、トルイ家の総帥モンケが第四代の大カアンとして即位した。東西両面作戦を毛計画し、当方を担当したクビライはクチュの失敗を踏まえ、極めて慎重な方針をとった。南宋を直接攻撃せずに、まずは雲南・大里を攻略し、長期戦覚悟の構えをした。しかしこれが意気込む兄の不信を海、対立と更迭、皇帝モンケの新征となり、その挙げ句、モンケは不慮の死をとげる。かたやフレグを主将とする西征では1253年にモンゴル高原を出発した。フレグ軍の足取りはゆっくりとしており、兵を増強しつつ進み、次第に陣容・糧秣などを整えながら、1255年マー・ワラー・アンナフルのケシュいてイラン総督の出迎えを受けた。アム河を渡るに先立ち、これから進軍する地域の権力者たちにモンゴルへの協力・参陣を呼びかけ足元を固めた。当面の敵はイスマーイール教団となり、1256年にアム河をわたりイランの地へ入った。1255年12月当の敵であるはずのイスマーイール教団で政変がおこり、第七代ムハンマド三世が側近に殺害された。同教団を撃滅するとのフレグの総触れがはっせられたときであり、モンゴルとの和平による生き残りを図る子による暗殺とされる。イランを中心に166年にわたり中東と十字軍を震え上がらせた最強勢力は一年もかからず消滅した。
 フレグは戦後処理と処軍の休息をはかったのち、西へむかい、ハマダーン街道から一気にバグダードへ進行して、1258年、北から大きく同市を包み込むように軍を配置した。調査や下工作は徹底していたが、慎重に交渉と駆け引きをつづけカリフ陣営への切り崩しを図った。結局アッバース朝の第37代カリフ、ムスタースィムの政権は内部分裂をおこした。万策尽きたカリフは1258年2月に無血開城しカリフは降伏後、財宝とともに等に幽閉され餓死させられたとも絨毯に巻かれて馬蹄に踏みしだかれたともいう。ここに37代500年にわたるアッバース朝は幕を閉じ、カリフ一族はエジプトに逃れ、すこしのちにマルムーク朝のスルターン、バイバルスが正当なカリフとして擁立された。バグダートは開城後に略奪と殺害が横行したというが、フレグ自身がフランス王ルイ9世にあてた書簡に20万人以上が殺されたと述べているが、当時それだけの人口があったとは思えず、モンゴル軍の常套手段の恐怖の言いふらし作戦の一つであった可能性があると筆者は指摘する。フレグはいったん西北イラン、いわゆるアゼルバイジャン高原に北上させ、将兵に休息をあたえた。緑草におおわれた絶好のてんちであり、かつてはユーラシア東西南北をおさえる要衝の地であった。モンゴル西征軍は陣容をととのえなおして南下の姿勢に入り、イーラーン・ザミーンの地に総触れを発した。1260年フリグ軍はシリアのハラブ=アレッポ、ダマスカスと立て続けに陥落した。情勢をみて十字軍権力はモンゴル軍に加わった。ここからイスラーム撃滅の好機としてモンゴルとの同盟論がある。11世紀以来イスラーム側からすれば十字軍という名のフランク族の襲来が続いていたが、どちらも決定力を欠き、奇妙な共存状態が続いていた。しかしモンゴルという圧倒的な軍事力のみならず、宗教にこだわらない政治権力が襲来した。旧アイユーブ朝より権力を奪ったばかりのマルムーク軍団のエジプトに進撃しようとしたさなか、アレッポのフレグ本営に大カアン・モンケ急逝の知らせがもたらされた。この結果、南宋にむけて南下中のクビライと、モンゴル高原に付す役としてとどまっていたアリク・ブケの間に帝位継承戦争がくりひろげられ四年後クビライが第五皇帝として即位した。モンケ他界の知らせがシリアに届くまで7,8ヶ月を要しているが、通知を受けたフレグは国内の帝位継承をめぐる動乱が中東に知れ渡るのは時間の問題と、アゼルバイジャンに引き返してイラン方面を確保して、動乱のゆくえを見守ることにした。ここからモンゴル西征軍がフレグを主人と仰いでアゼルバイジャン高原に腰をすえることになり、フレグ・ウルスが自然発生的にできたと考える。
 シリアをまかされたはずのケド・ブカはエジプトのマルムーク政権に降伏を進める使節団を送った。ところがその使節団が死刑に処せられ、マルムーク軍が北上の構えを取ると、ケド・ブカ率いる騎馬軍1万2千も南下の体制に入る。両者は正面衝突しマルムーク軍が圧勝してケド・ブカも戦死する。東地中海沿岸にあったモンゴル側の拠点は次々と奪われ、しいにシリアからも追い出される。一方のマルムーク権力はエジプトとシリアに強固な地盤を築いて長期政権となる。クトゥズは暗殺されクマン族=キプチャク族の出身のバイバルが定礎者になる。テュルク人の王朝とアラブ人が読んだように、異民族たちの軍事家力であった。ジョチ家のベルケはアゼルバイジャンの草原を欲していたが、フレグがそこを本拠地に新しい権力体を作る様子が見えると1261〜62年に軍を南下させデルベンドを超えて攻撃をしかけた。フレグ軍も反撃し決着はつかなかった。両者にとってお互いが東方への介入の足かせとなっていた。この事態はエジプトのバイバルスにとって好機となり、ムスリムとなっていたベルケとの共通の敵であるフレグに対する同盟を水路と海路が可能にした。それと対抗してフレグはヨーロッパとの提携を模索するが実現しなかった。フレグが旋回後に時間をかけずにウルスとしての支配体制を整えていたが、それは多人種による実務機関が機能していたからで、西征には徴税や財務機構を伴うだけでなく、ブレイン・知識人・技術者・学者なども共に移動していたのではと分析する。またフレグはマラーガに天文台や図書館を建設して、著名なムスリム天文学者を招聘したり、バグダードから書籍を移動させた。
 帝国の東半分を抑えたクビライがフレグやベルケに統一クリルタイ開催を呼びかけ了承された矢先にフレグは突然に逝去し、さらにフレグの死の報に南下していたベルケも陣中に病没し、チャガタイ家のあるぐもこの前後に逝去する。フレグ・ベルケ・アルグ三人の巨頭のあいつぐ死はあまりにも不自然であった。フレグのあとは庶長子のようなアバカが継いだ。翌1266年ジョチ・ウルス軍が南下してくるも右翼のヨシュムトが奮闘しアバカも参戦し、二週間後のベルケの死去により危機は去り、アバカの権威は確立した。クラ河の北岸地区にスベとよばれる城壕による長城線を構築して国境線とした。四年後にチャガタイ家の権力をうばったアルグが東から迫った。北のジョチ・ウルス、西のマルムークという同盟に挟撃されている状態であったが、アバカは迎撃し、カラ・スウの平原で死闘の末にバラク軍を撃破した。フレグ・ウルスはゆるぎなくなり、チャガタイウルスは没落し、オゴデイ家のカイドゥにのっとされていく。ただフレグ・ウルスでは君主位の権威が確立せずに、その都度、年長のものが野心をもやし前君主の嫡男とあらそった。フレグの早すぎる死、アバカも父と同じく48歳で他界したことがフレグ・ウルスの権力基盤づくりを不十分にした。
 フレグ・ウルスは温存された在地の中小勢力などの不安定要素から自壊に向かっているような状況であった。カザンが紛乱のはてに1295年に第七代君主として即位した。ガザン時代こそがフレグ・ウルスの最盛期というのはあやまりで、ガザンの改革が実を結ぶのは次の君主である弟のオルジェイトゥ時代またはそのさらに子の第九代君主アブー・サーイードのころであった。ガザンは即位以前の父の四代君主アルグンの治世ではさよくにあたるホラーサーン太守として東方にいた。現君主の皇太子ともくされる人物はここに鎮守するならわしであった。中央ウルスたるアゼルバイジャンからはるか遠方に離れるため父親が他界する救急時には不利となった。ガザンは中央政局をうまくとりまとめたガイハトゥに抑えられた。ガザンは軍事上も不利となったが、イランの在地勢力からの支援を期待して、イスラームへ改宗にふみきり成功する。
 次のオルジェイトゥの治世ではフレグ・ウルスの国力が回復し、モンゴル帝国全体が東西融和をとげ、ユーラシア全体がかつてない平和状態になった。モンゴル帝国の課題であったオゴデイ系・チャガタイ系がまとまらない中央アジアだったが、オゴデイ一門のカイドゥがチャガタイ諸系を従える形で、ゆるやかなかたまりをつくりドゥアをパートナーに選んだ。ペルシア語の史書ではカイトゥの国と表現する。ところが1294年に老帝クビライが80歳をもって長逝し、その孫テムルが第六代の大カアンになると、次第にカイドゥの動きが活発となり、翌95年に、カザンがフレグ・ウルス当主につき、イラン方面が安定化に向かうと、カイドゥとドゥアは大元ウルスの西辺へ兵を動かすようになった。カイドゥ傘下の人々でテムルになびく者が出てくるなか、カイドゥはモンゴル本土に勝負をかけ1300~1年にかけてアルタイ山一帯でモンゴル同市の会戦が繰り広げられ、カイドゥ側が敗れる。カイドゥがそのときの傷がもとで他界し、抑えられていたドゥアが中央アジアをせいあつして、同方面の王族などがこぞって大カアンのテムルにあらためて臣従を近い、大カアンの使節団が各ウルスを順次おとずれた。オルジェイトゥは急逝した兄カザンの地位を引き継いだと途端にモンゴルの東西和合となり、北からの脅威も消えマルムーク政権との争いも薄らいだ。フレグ・ウルスは第四代アルグン移行、ヨーロッパとのかかわりを重ねてきたフレグ・ウルスはこれを堺に陸路と海路の両方で結びつきを深めていく。
 フレグ・ウルスはイル・カンの名で呼ばれていたがイスラーム王朝に系統だているのは間違いだったとする。オルジェイトゥは仏教徒にしてキリスト教徒ともなり、さらにイスラームのスンナとシーアの間をゆれた。モンゴルは素朴なテングリ信仰を本質とする多神教徒であった。モンゴルが中東にもたらしたものはテュルク・モンゴル式の軍事権力とそのシステムを中東にもちこんだ。カザン以降に軍事機構を中心にすえ、多人種の官僚郡による財務と行政、イスラームを主体とした各宗教や宗派ごどの聖職者組織の3つを国家の柱とした。

 第六章「地中海・ヨーロッパ、そしてむすばれる東西」では、、モンゴルはフランスをヨーロッパ最強の王国とみなしていた。ルイ9世の治世はモンゴルの前半期にあたる。ルイ9世は十字軍に2度参加したが、第七回のキプロス滞在中にモンゴルからの使者が来たという。船の到着をまったり季節をまったり8ヶ月キプロスに留め置かれ、1249年5月に出発する。すぐにエジプトからの激烈な風により船がながされ騎士2800騎が700騎に半減してしまうがそのまま進む。6月にダミエッダで待ち構えていたエジプト軍の前で敵前上陸し苦戦するもエジプト軍の突然の退却により救われる。やすやすとダミエッダに入城できたので、おごり浮足立った。10月末まで軍を動かさなかったがルイは持久戦をすて海路に進行する。伝染病でないぶからくずれ補給もままならず退却した。エジプト軍の主力はキプチャク草原や東方などからやってきたもので、フランス軍の肉弾戦は時代遅れだった。1250年の4月ごろか1万2千ものものが投降して捕虜になる。ルイ9世以下は巨額の身代金により釈放された。一方でスルターン・サーリフは先立つ1249年11月に他界しメソポタミア方面から呼び寄せられた子がスルターン位をつぐも自分の配下のクルド人を登用して政権を支えていたエジプト在住のマルムーク将軍を排斥した。これに激怒したマルムークのバイバルスは新スルターンを暗殺した。捕虜となったルイはバイバルスなどと顔見知りとなったが、ジョワンヴィルの語るところでは、ルイの王としての気品、毅然たる態度、信仰への誠実さはマルムーク将官の心を打ったという。5月8日にルイ9世たちはエジプトを離れ、海路にてイェルサレムにほど近いキリスト教勢力の本拠地アクレの港に入った。ルイは4年間、聖地とその周辺を離れなかった。母の王太后は帰還を求めたが最後の捕虜の生還をみとどけるまではと踏みとどまった。そしてルイはもっともエジプト・中東情勢を知る者となり、通算6年間にわたる命がけの団体生活の中で立場を超えた一体感がルイの評判をたかめた。シリア方面のアイユーブ権力とエジプトのマルムーク政権との対立を利用して、ルイはあらたなる足場を築こうとする。エジプト側は連帯をもとめてイェルサレム王国なるものの西辺をルイにゆずる。シリアのアイユーブ政権とは休戦協定がむすばれ、地中海東辺の十字軍国家の安全が約束される。ルイは1254年4月にパレスティナをあとにする。それから550年後にナポレオンをエジプトで迎え撃ったのもマルムーク軍団だったが銃火器の前には騎兵は用をなさなかったという。
 ルイ9世がキプロスに滞在していたときモンゴルからの使節団が訪れた。テュルク系のネストリウス派キリスト教徒で、モンゴル将師イルジギデイからつかわされていた。イルジチデイは第三代モンゴル皇帝となったグユクから中東大侵攻の先遣大将として任命されて、東部イランのバードギースの地に駐留していた。グユクがしたためたヨーロッパへの国書を手渡し、ルイは礼を尽くして使節を遇し、返礼の使節としてすでにモンゴルと接触した経験をもつロンジュモーのアンドルーを指名した。しかし1249年にアンドルーがちがバードギースにあるイルジギデイの運営についたとき、グユクは死去しており、次期の大カアンが誰になるか分からずモンゴルは混沌の中にいた。イルジギデイは今は亡き旧主の皇后オグル・ガイミシュのもとにアンドルーたちを送った。帝国をあずかるかたちとなったオグル・ガイミシュは帝都カラ・コルムでなくグユクの個人領たるエルミにいた。彼女はルイからの使節の政治上の意味合いを理解していなかった。また1252年、オグル・ガイミシュは新帝モンケの命で処刑される。ルイ9世はモンゴルへの通史をひどく後悔したという。ただ未練はあったようで1253年にはギョーム・ドゥ・ルブルクを一介の修道士としてモンゴルに派遣した。バトゥによって皇帝モンケのもとに赴くようにすすめられ、苦労を重ねて1253年12月末にカラ・コルム南郊の幕営につく。それから7ヶ月間、首都一帯を眺め1254年7月にルイ9世宛の返書を授けられ、皇帝の庇護のもと帰還する。ルイはすでにパレスティナを去っていたのでルブルクは旅行記を書いた。
 ラッパン・サウマーはテュルク系オングト族出身でネストリウス派キリスト教僧であり、モンゴル時代にユーラシアを東から西に旅行した。東は現在の北京のもとになるダイドゥ(大都)で帝王クビライが25年の歳月をついやして建設した都市である。マルコ・ポーロやイブン・バトゥータの旅行記が複数人の見聞の合成物と考えられるのに対して、ラッバン・サウマーはまぎれもない一人の人間であり弟子による伝記が残されている。ここからサウマーの半生が語られる。信仰に生きることに考え、1276~7年はるか西方の聖地イェルサレムへの巡礼に弟子のマルクと共に出発する。二人はタングト地方でクビライ政府軍とグユクの長子ホクとの戦いで6ヶ月ほど足止めされた。タラス河畔にて幕営していた実力者カイドゥのもとに伺候し、安全を保証する符をさずけられた。そしてフレグ・ウルス領たるホラーサーンをへてアゼルバイジャンにいたる。バグダードで法王マール・デンハに謁するためにバツダートについた。首都たるマラーガで拝謁し、バグダートからフレグ・ウルス君主アバカの幕営に趣、直喩を授けられてイェルサレムにむかった。アルメニア・グルジアから海路をとって黒海・地中海ルートをとろうとしたがグルジアがマルムーク権力におさえられていて危険であきらめざるを得なかった。マルクはしばらくイルビル近くの聖ミカエル修道院に身を寄せていたが、1281年にマール・デンハが他界した。葬儀にかけつけたマルクはなんと一致して新法王に推挙される。理由は政治的なものでモンゴル語が自由で風俗にも通じているからということであった。マルクは自分には教養もなく、神学上の知識も薄く、弁論の才にもかけるし、カトリコスに不可欠なシリア語ができないから全く不適格であると固辞した。サウマーはこれは神が定めたことで逃れられないと、フレグ・ウルス君主アバカに判断を仰ぐため訪れた。アバカは金符と叙任状たる勅書、前任のマール・デンハの印璽の三点セットを与えた。かくてマルクは37歳で第58代のカトリコスとなった。1281年11月のことである。ヤバラーハー三世となったマルクの行く手は茨の道だった。1282年アバカは死去し、すぐに弟も死去した。即位したアバカの弟テクデルは新イスラームの姿勢をとり新キリスト教政策は抑えられ、ネストリウス教会も迫害される。その二年後アルグンが実力でアフマドを倒し、1284年8月に第四代君主として即位すると、自身はティベット仏教を奉じる一方キリスト教を厚遇した。アルグンは内政・外交ともに積極策をとり、ヨーロッパ・キリスト教諸国との強力な提携、さらに軍事同盟を求めた。アルグンはこの使命を託せる人物をヤバラーハー三世に問うと、彼は言語能力と人柄から師であるラッバン・サウマーを推薦した。サウマーは金や馬の贈り物をさずけられ、通訳を選ぶと、まずはコンスタンティノープルに上陸した。ビザンツ皇帝アンドロニクス二世は一行を歓迎し、ハギア・ソフィア大聖堂など各種施設を参観させた。次に一行は西に向かいナポリを目指した。途中大きな火山が噴火して溶岩のために誰も近づかないことを耳にした。この第分化は1287年6月におきたシチリア島のエトナ火山、ないしはティレニア海に浮かぶストロンボリ火山のそれであり、サウマーたちの旅行とその記述がまことに正確であることを示すものとして古くから知られている。さらにサウマーは歴史の証言者にとなる場面に出くわす。それがシチリアの晩祷である。ナポリ王宮に参上したサウマーをジャルル・ダンジューは丁重にもてなした。ところがシチリア側についていたアラゴン連合王国との海戦がなされ、シャルル・ダンジューとその兵1万2千を殲滅して、その艦隊を海に葬ったと伝記は記す。サウマーたち一行は陸路でローマに向かった。途上で教皇ホノリウス四世の逝去を聞く。ローマに着くと教皇他界をうけて12人の枢機卿がちが庶務を取り仕切っていた。アルグンからの軍事同盟の申し出については返答がなかった。一行は北に向かいシエナ、フィレンツェ、ピサなどをへてジェノヴァに至る。ジェノヴァでは選挙制が敷かれていたことにおどろいている。ジェノヴァとフレグ・ウルスはすでにある程度の結びつきをもっており、ブスカレッロというジェノヴァ出身の大聖人がアルグンの外交・通商顧問をしていた。したがってジェノヴァの人々はサウマーたちを大歓迎した。キリスト教に親しみをもつフレグ・ウルスは魅力的な存在であり、互いに表敬の意味があったと推測される。さらに北上して、サウマーはもっとも期待する相手であるフランス王国に至る。サウマーは歓迎され国書と進物を献上し、軍事同盟の申し出については国王フィリップ四世はフレグ・ウルスとの連帯を否定はしなかった。一ヶ月ほどパリに滞在したがパリには宗教教育をうける学生だけでも三万人以上いたと特記されている。パリを去る際にはフィリップ四世は高価な衣服をさずけた。そこから南西に向かいガスコーニュ地方に駐営していたエドワード一斉に謁するため、二十日間旅をしてボルドー市にいたった。ボルドー市の人々はサウマーたちの素性をしり国王に伝えると、エドワード一世は喜んで招き入れた。サウマーたちはアルグンの国書と進物、法王の書状を出しイェルサレム問題について所論を述べると、国王は同意して大宴会でもてなした。教会堂などの参観を終えると進物と旅費を下賜され、東のジェノヴァ市にもどった。サウマーたちは1287年の冬をそこで過ごす。新教皇ニコラウス四世が選出されていたので、一行はローマに向い国書と進物を献呈し、ローマ教皇庁にて大歓迎をうけたと伝記は語る。往路を逆にだどってフレグ・ウルスに帰国したサウマーたちは教皇と各国の王から託された国書・文書・進物をアルグンに捧呈し、ヨーロッパの情勢をはじめ、見聞したことを伝えた。アルグンは喜び、サウマーをそのまま自分のそばにとめておくこととした。このサウマーの旅行記は集史の第二部・世界史のフランク史とともに、東方が見たヨーロッパ像として、世界史状でも稀有のものである。このサウマー使節団を皮切りに、アルグンからヨーロッパへと遣使が続けられ、反対にヨーロッパからも宣教師団が東方に送られた。

 第七章「『婿どの』たちのユーラシア」では主にモンゴル帝国以後の帝国を分析していく。モンゴル以後の王者はその権力の正当性をチンギス・カンにもとめるようになった。モンゴル帝国から生まれていた国家には様々ある。モンゴル帝国の中で最も遅く確立されたチャガタイ・ウルスはもともと中央機構が不十分で、ドゥア一族が他界していくと次第に求心力を失っていった。細分化の中でチャガタイ・ウルスの東半からチャガタイ家のちを引くトグルク・テムルが浮上した。彼はチャガタイ・ウルスというかたまりを再統合させる勢いがあったが死後、覇権は薄れていく。今度は西半から抬頭したのがいわゆるティムールである。これはアラビア文字表記に由来し、本来の発音はテムルである。彼はシル河の南を活動券とし、マー・ワラー・アンナフルからホラーサーンを制圧し、フレグ・ウルスが解体したあとのイラン中央部からアゼルバイジャンに進出し、さらに小アジア・シリアにも遠征した。また一体性を失いつつあったジョチ・ウルスを再統合せんとしたオルダ・ウルスの左翼部分のチンギス裔トクタミシュとあらそいキプチャク草原にも軍を進める。かたやチャガタイ・ウルス時代からのインドへの南進政策もひきついで、デリー・スルターン政権とその統治下のヒンドゥースターン平原へも手を伸ばした。さらに1402年には抬頭しつつあったオスマン権力を、現在のトルコ共和国のアンカラ近郊にて儀軌はし、君主バヤジットを捕虜として、いったんは滅亡の淵までおいこんだ。こうした広範囲でくりひろげられたティムールの目覚ましい活動は中央ユーラシアが産んだ最後の覇王ともいえるものと筆者はいう。ところが彼は生涯をつうじて一度もカアンまたはカンとさえ称さなかった。
 1336年、ケシュ郊外に生を享けたティムールは言語ではテュルク化していたものの、チンギス・カンと共通の先祖を持つというモンゴル支配層に属するバルラス部という有力な部族集団の出身であった。またバルサス部はチャガタイ・ウルスでは一貫して最高の門閥貴族に位置づけられた。ティムールはモンゴル貴族の子孫であり、モンゴル・システムを尊重した。たとえば重大な告示はクリルタイ(大集会)を開いて協議・決定した。カンと名乗れなかったティムールはチンギス・カンの末流にあたるモンゴル応じのソユルガトミシュという人物を名目上のカンの位につけ、自らはチンギス王族のチャガタイ家後を引く王女をめとって第一夫人とした。その結果、ティムールはチンギス・カン家の婿となりアミール(司令官)・ティムール・キュレゲン(婿)と名乗った。チンギス・カンの権威を使い、自分はナンバー2の実力者としてチンギス家の再興という名分でモンゴル帝国以来の様々な遊牧民集団を束ねた。このティムールが採ったこの方式はそのままティムール朝の君主にも引き継がれた。このような方式はモンゴル帝国時代でもモンゴル帝室と一体化して繁栄したコンギラト、イキレス、オングト、オイラトなどの駙馬王室などに相当し、モンゴル時代以来に広範囲ではず多く存在した婿どのたちの一人であったと言える。このティムール権力の構造はムーイッズル・アンサーブという系譜図にはっきりと現れており、前半をチンギス家、後半をティムール家という二段仕立ての構成を採っている。この系譜図はムガル帝国統治下でインドで書写されたものもあり、ムガル帝国でもチンギス血統への尊重が見える。
 これとよく似た事例としてモンゴルとロシアの王権の連動を取り上げる。ジョチ・ウルスによるルーシを含めた西北ユーラシアの統括的な支配はゆるやかであったが一世紀半ほど続いた。トクタミシュはティムールの援助もあってジョチ・ウルスを再統合したが、1389年ころより対立を深め、ティムールにテレク河畔で惨敗し、リトアニアに逃れた。これによりジョチ一門の結束力は弱まり、ジョチ・ウルスの右翼であったバトゥ・ウルスの地に大オルダ、クリミア、カザン、アストラハンがそれぞれ分離独立した。モンゴル側の動きと反比例してルーシ諸国に対するモスクワの覇権が確立されていき、従来のロシア側の記述によれば、イヴァン三世に至ってモンゴル支配からロシアを開放したとされがちであった。コンスタンティヌス11世のむすめソフィアと再婚してギリシア聖教の擁護者としての姿勢をとっているが、モンゴルの宗主権を認めざるを得なかった。こうした局面をくつがえしロシア帝国の基礎を築いたとされるのが、雷帝の名でも知られるイヴァン四世である。1533 年父のヴァシーリー三世の他界を受けて、わずか三歳でモスクワ大公となった彼は母エレーナの折衝の五年と貴族支配による混乱をへて、1547年16歳で史上始めてツァーリとして戴冠式をあげた。その五年後の1552年みずから大軍をひきいてカザン市を攻略し男は皆殺しにし女は俘虜とした。カザンの二の舞いをおそれたアストラハンが抵抗することなく降伏した。ロシア史を大きく旋回させることになったイヴァン四世自身が実はなんとモンゴルと深い関わりがあった。彼の母はかつてのジョチ・ウルスの有力者ママイの直系なのであった。しかも戴冠式の直後に結婚したアナスタシアが1560年にみまかり、二番目に娶った妻マリア・テムリュコヴナこそは、ジョチ家の王族の血脈であった。つまり母と妻、ともに錚々たるモンゴル名門の出身であり、イヴァン四世自身もいわば血の半分はモンゴルなのであった。そして、これをモンゴル側からみればイヴァン四世はその致死も含めて、まさに婿なのであった。1575 年イヴァン四世は突如として位を降り、シメオン・ベクブラトヴィチなる人物に譲位したのである。シオメンを全ルーシの大公と自分はただのモスクワ公と称した。このシメオン・ベクブラトヴィチとはカザンの皇子でいわばジョチ家の正裔たるサイン・ブラトのことである。イヴァン四世は、モンゴル嫡流のシメオンを名目的な君主としていただき、その権威のもとで実権者として辣腕を振るおうとしてのである。これはまさにティムールとその一門のやり方である。かたや政治史上でいけば、諸カン国のうち、クリミアを本拠とするクリム・カン国はロシア帝国と対抗する力をながらく保持し続けた。
 モンゴル世界帝国たる大元ウルスについては、これまでもある程度は述べられてきたこともあり、本書では正面から取り上げなかった。ここでは最低限だけふれる。第現ウルスは陸でつながれたモンゴル領域とアフロ・ユーラシアという二重の大地平にとって支えになった。ジャムチの名で総称される陸上の交通・運輸・伝達システムは第現ウルスなくしては機能しなかった。インド洋上ルートによる東西アジア・アフリカ・ヨーロッパにいたる結びつきは第現ウルスによる航海の組織化と旧南宋治下の興南を中心とする経済力・文化力を基軸とするものであった。その結果、銀を共通の価値基準とする人類史上ではじめての世界レヴェルの経済圏が出現する。資本主義というのならばモンゴル時代にこそ、その本格的な起点を考えるべきと筆者は述べる。また中華という視点では小さな中華から大きな中華への大転換をもたらした。大元ウルスの中華たる領域は三分の一にも満たなかったが人口のうえでは反対だった。唐と称する複合国家が消えてから370年ぶりに中華地域を再統合し、それを遥かに巨大化させた。多種族・多文化・多言語の一気に進み、首都たる大都=北京の位置も含めて、現在の中華人民共和国へ繋がっている。大元ウルスは1368年に中華本土を失い、1388年にクビライ家の帝系はトグス・テムル帝の死をもってひとまず終焉を迎える。その後遊牧民を主体とする大元ウルス以来の覚醒力が離合集散するが、全体としてみれば自分たちはなおイェケ・モンゴル・ウルスというゆるやかなくくりにあるという意識があったと指摘する。たとえば15世紀中頃に内陸アジア世界を統合したオイラト連合のエセンは自らを大元カアンと称した。
 16世紀末から17世紀の前半にかけてマンチュリアにヌルハチを盟主とするジュシェン族の連合体が抬頭した。第二代のホンタイジの際にモンゴル以来の古い勢力ホルチン部と政治提携し、うちモンゴリアの諸勢力を吸収していく。その際にチャナル部から大元ウルスより伝わる伝国の璽を譲られ、大元ウルスの王権と政治伝統はホンタイジに渡るとされ、クリルタイにてみずからの帝国をダイチン・グルン=大清国とした。乾隆帝の治世にライバルのジューン・ガル王国を倒しティベットを併合する。またホンタイジは同盟国でありモンゴル代表でもあったホルチン部の女性を后妃とし、チンギス家の婿となった。
 1492年のコロンブスの航海はクビライの巨大帝国への旅であったことは航海士の冒頭に書かれているが、クビライの帝国が消え去ってすでに100年が経っていた。モンゴルによる大統合が消え、ユーラシア東西の人と物の交流が途絶えたため、海の時代をヨーロッパに譲る結果となった。ロシアとジュシェン権力はランドパワーの最たるものであり、16世紀前半のオスマン帝国とハプスブルグ家もランドパワーに分類される。ポルトガル、スペインをへて、オランダ、フランス、イギリス、そしてアメリカの系統はシーパワーに分類される。

 終章「アフガニスタンからの眺望」では、、、2001年にアフガニスタンにアメリカが侵攻したが過去にはアレクサンドロス大王もチンギス・カンもイギリス、ソ連、アメリカも苦しんだ。アフガンは狭義ではパシュトゥーン人を指すが、アフガニスタンとパキスタンの国境にまたがる山岳地帯の民族であった。アフガニスタンでは南アジア、西アジア、中央アジアの三要素がここで交差し、山岳と渓谷のほかは乾燥が優位な地域であり、河川の緑やオアシスが沙漠に点在する。この土地には様々な人が往来したが、古くはアーリア人がやってきてインドに南下した。その後ハカーマニッシュ世界帝国の東域となり、ついでアレクサンドロス大王も到来した。ヒンドゥー・クシュの南北ではマケドニア東軍は苦戦を強いられた。ややあってクシャーン朝よりのちは北西インドからつづく仏の道となりべグラームの広大な都市遺跡、バーミヤーンに代表される仏教文化が栄えた。七世紀かの玄奘がバーミヤーンにて目にする黄金の東西大仏はヒンドゥー・クシュに浮かんだこの世の浄土世界であっただろう。また北から遊牧民のエフタル・突厥など次々と姿を現し、イスラーム東漸とともに、ガズナ朝・ゴール朝などのムスリム軍事力がこの地に拠り、インドへの南進の基礎ともなった。ホラズム・シャー王国の妥当五、チンギス・カン率いるモンゴル西征軍も、この地で苦しみ、インダス河までいたって北帰した。モンゴル帝国としてはフレグ・ウルスがおさえるホラーサーンと、クンドゥスを中心とするチャガタイ・ウルス南方領で棲み分けがなされた。一方チャガタイ軍はしきりとデリーとヒンドゥースターン平原を目指した。こうした形成は、ティムール帝国領として130余りをへて、その最後の君主バーブルが、一旦現在の首都のカーブルに小王国をつくったのち、結局ムガル帝国の形成としてインドへの転身をはかることで、一つの帰結点を見る。このように文明の十字路であるアフガニスタンでの国家の成立は古いものではなく国としてのまとまりや社内資本の蓄積・伝統、民族集団を超えた協業への忍耐力・結束力について、ゆるやかだった。その結果、バシュトゥーン族をはじめ、多くの人たちはいまなお、部族主義や個人単位の利益で動き、大国によるパワー・ゲームに巻き込まれ続ける。
 アフガニスタンという国は1747年にはじめて出現した。ドゥッラーニー系パシュトゥーン遊牧民のアフマド・シャーがカンダハールにてパシュトゥーン諸部族をとりまとめて王位についた。ダイチン・グルンに滅ぼされたジューン・ガルをもって、最後の遊牧権力といわれがちではあるものの、ドゥッラーニー帝国という名のアフガニスタン国家こそがその名に値する。ウズベク勢力へ攻勢をかけてホラーサーン、いわゆるホラーアーンを手中におさめ、さらにイランに兵を進め、東部の要衝マシュハドを手に入れる。北に転じてパキスタンのほぼ全域を取り込んだ。18世紀のなかばから後半にかけてかつてインド亜大陸のかなりの部分を統領していたムガル帝国にはもはや昔日の面影はなくなり分裂し、首都デリー周辺のみを保つ小王国に成り果てていた。イランも弱体化していて、こうした形勢の結果、アフガニスタンは一気に帝国化を成し遂げた。19世紀はイギリスはインド亜大陸を掌握した。アフガニスタンの北にはアム河を隔てて、ブラハ、ヒヴァ、コーカンドなどのイスラーム諸王国があったが、18世紀以降に帝国になったロシアが中央アジアに手を伸ばし、19世紀後半にはユーラシアの中央域は次第にロシアの手中におちていった。アフガニスタン王国は南のイギリス、北のロシアという超大国に挟まれ、苦難の時代を迎える。南下をはかるランド・パワーのロシアに対し、インド亜大陸という金ぐらを守ろうとするシー・パワーのイギリスはアフガニスタンに鑑賞し、あわせて三度のアフガン戦争がおきることになる。1838年から42年の第一次アフガン戦争には1万を超えるイギリス侵攻軍をアフガン遊牧軍が全滅させるほどであった。19世紀にあっても展開力と攻撃力にとむ遊牧騎馬軍団は近代武装の歩兵軍と十二分に対抗できた。1878年から80年の第二次でもイギリス側の損害はすくなくなかったがイギリスの保護国となっていく。さらに第一次大戦のイギリスの弱りをついて、アフガン軍が逆にインドへ侵攻し、この第三次アフガン戦争にて独立を回復することになる。その後アフガニスタンを支援するソ連、パキスタンを後援するアメリカという図式のなかで、アフガニスタンの政治はゆれつづけ、1973年にはクーデターで国王ザーヒルはイタリアに亡命し、王政は廃止された。その後はソ連のより強い影響化で政権変動があいつぎ、国内情勢は不安定化し、1979年12月にソ連が武力でカーブルをおさえることになる。この年の2月に起きたイラン・イスラーム革命が同じイラン文化圏のアフガニスタンに波及し、さらにアム川以北のソ連領のイスラーム地域に及ぶことを恐れたのが原因である。そして10年にわたるソ連の苦戦と89年の完全撤退、91年のソ連の崩壊、96年からのターリバーンの抬頭、2001年の同時多発テロからの米によるアフガニスタン作戦。国際パワー・ゲームの舞台になっているアフガニスタンの宿命の歴史構図は自身では到底定めがたい。現在のアフガニスタンを構成する人々のおよそ半分のパシュトゥーン族は濃く行きの南半分に傾き、北側半分にはタジク族、ウズベク属、トゥルクメン族、ボンゴル帝国の派遣軍の子孫であるハザーラ族など居住いs,ほかにヌーリスタン族やヒンドゥー教徒、シク教徒もいる多民族国家である。もしアフガニスタンに石油が算出していたら国際政局を自在に操る存在であったかもしれないと筆者は想像する。アフガニスタン復興はユーラシアの安定化への大きな鍵の一つで、わたしたちにとっても努力を払うべき世界的な課題である。
 パシュトゥーン族にはジルガという長老たちの会議があるが、モンゴル時代に由来している。そのようなモンゴルの遺産について語り、ティムール帝がペルシア語でなのったパードシャー=帝王について解説する。日本にとってのモンゴルはモンゴル襲来にあるが、それが外圧に抗する小さな島国・日本という図式を時代を超えて多くの人に刷り込ませて、アメリカと日本などを対峙させる二元論が思考の鋳型になっていると筆者は語る。モンゴル軍と日本の戦力などの分析はほとんどなされていない。艦隊行動や上陸戦の難しさなどは議論されず、神国日本やカミカゼといった考えは不幸なリアクションとする。またモンゴルの後半期には大陸と日本列島で人と物そして心の大交流が発展する。韓半島もかかわり、日中韓をこえた文化・学術・思想・宗教・芸術・美術・生活様式の新局面が生ずる。日本文化の基層となるものはこの前後に導入されており、ユーラシアの波も日本に及んでいた。肝心なことは茶道や能もまるかにちがうあり方で日本化していっており、日本の風土・伝統のなかでほとんど別のものに昇華していった。
 日本とカフが二スタンとの距離は実際のへだたり以上に遠いところにある。アメリカとはアフガニスタンの1.5倍以上の距離があるが近く感じる。アフガニスタンは1747年に王国となったが、1776年に独立したアメリカとの違いは凄まじい。アメリカはアフガン・イラクに侵攻したが、直接のきっかけは1979年のイラン・イスラーム革命とそれに脅威を感じたソ連のカーブル制圧にある。アメリカのみならず、それに先行する英仏による帝国的展開と植民地支配の歩みも、けっして「歴史の記憶」になりはてておらず、今も現代史や現代と負の遺産として生き続けている。英仏がかつて帝国として振る舞ったときのツケの支払いを旧植民地側から時を超えて求められ続けることだろう。歴史は過去の物語でない。私達がいきている今にむすびつく長い人類の歩みの道のりである。「いま」を理解するにはきちんとした歴史を総合的にしるほかはない。すなわち、よりよく「いま」を生きるために歴史は不可欠である。「帝国」なるものは今もユーラシアにいきていて、パワーゲームも依然として存在する。ところが現存する帝国が瓦解するならばその反動も恐ろしい。わたしたちの「この時代」いぜんとして一つの通過点にすぎない。世界の枠組みはすでに定まっていない。

気になった点

 集史のテュルクの起源として預言者ノアが出てくるのが興味深かった。その時代で説得力があった物語がノアの物語だったのかと、少し不思議な気がする。
 地図の分析のあたりで14世紀末以降の東西の衰退で、それが蘇ったのはソ連解体後の最近というのは興味深かった。長いユーラシアの道に平和が訪れるのは非常に難しいことなのだと痛感した。
 モンゴル軍もアフガニスタン作戦はうまく行かず見切りをつけたというのは印象的で、その後も常に失敗している印象で終章でも語られているがアフガニスタンという土地の特殊性もあるのかもしれない。
 モンゴルの歴史書の集史はカザンが作り始めたがイスラーム的な考え方でないと歴史書を作るという発想にならないのか、モンゴルでは口述による伝承が重視されたのか、とにかく何か考えさせられるものがある。
 モンゴル側からフランスとの連絡をとっていたというのは興味深いし、サウマーの使節団の下りはかなり楽しく読んだ。当時のヨーロッパは大したことがなかったのだろうなぁと何となく分かる。

最後に

 モンゴル帝国とユーラシアの理解はヨーロッパや中華の歴史がハイライトされるなかで特に注意して勉強しなければならないものだと理解できた。そしてこの流れはロシアなどのランドパワーに繋がっていて、現代にも影響を与えているということもよく理解できた。
 モンゴル帝国の特に西側やそこから現代につながる歴史を勉強したい人にはうってつけで、より深い理解を得られることは間違いなく、おすすめです!

シルクロードと唐帝国 (興亡の世界史 05)

講談社 2007 森安 孝夫

 中央アジアをもっと学びたいと手に取った本。序章から作者の思いが爆発する。何か上品な他人事な本よりもこういう本の方が面白い。非常におもしろかった。

本の構成

 序章「本当の自虐史観とはなにか?」では日本人の西洋コンプレックスやそれに対する歴史的な事実。歴史を学ぶ理由。人種や民族、国民について、言語族についても批判的に解説し、作者が考える”自虐史観”とは何かということと、それに対してこの本に込めた作者の熱い想いのたけを詰め込む。

 第一章「シルクロードと世界史」ではまずは地形を見ていき、歴史の中で遊牧民を位置付ける。中央ユーラシアが草原ベルト・砂漠ベルト・半草原半砂漠ベルトと三層構造となっていて、また縦に見ると天山山脈などの海抜2000~3000メートルの盆地は草原になっていて高度を上げると草木がなくなりそらに上は万年雪に覆われる。高度を下げると山肌が見えて更に下には砂漠が広がる。パインプラク高原は東西に250キロ以上、南北に百数十キロの大草原である。そしてこれらの草原や砂漠を通ったシルクロードは東西や南の文明を繋ぐ役割をになったと同時に騎馬遊牧民を生み出した。農業は世界各地で発明されたが騎馬遊牧民はユーラシアにしか現れなかった。また中央ユーラシアの西側のコーカサス地方にインド=ヨーロッパ語族の発祥の地があり、東部のモンゴリアにアルタイ語族の発祥の地があるようにこの草原地帯の歴史的な重要性を物語る。唐帝国の中心は中国本土であるが本書では華北の北方はゴビ砂漠以北をモンゴリア、ゴビ砂漠以南を内モンゴルと区別し、北中国の西方の西域または中央アジアの定義を整理する。もともとは内モンゴルの南にも広々とした草原地帯があり、匈奴を始めとする様々な牧畜民が活躍した。この草原地帯は研究者により重視され様々な名称で呼ばれているが筆者は農業と遊牧が交雑する地域として農業接壌地帯と呼ぶ。農耕都市民と遊牧民がこの地帯で北に南にせめぎ合っていたが唐朝では両者が一体化した最初の王朝であった。
 シルクロードは19世紀にドイツ人の地理学者によって作り出された言葉だが20世紀前半までは絹交易に関する文書が発見されるのがオアシス地帯に限られていたので「オアシスの道」を意味したが、我が国の東西交渉史学が発展をとげ、中央ユーラシアを貫く「草原の道」と東南アジアを経由する「海洋の道」とを含むようになっていく。本書でシルクロードは「オアシスの道」と「草原の道」合わせた「陸のシルクロード」とする。このシルクロードとは線ではなく面である。またどこを通っても良い草原地帯では道があるわけでもない。さらにシルクロードとは東西交易路だとごかいされてしまうこともあるが、南北にも伸びていて多くの支線が網目状になり大小の都市が網の結び目になっている。また絹以外にも金銀器・ガラスなど世界中の特産品が運ばれたが、多数の結び目を持つネットワークであったので中継する方式が一般的であった。また前漢の武帝時代の張騫がシルクロードの開拓者というのも誤解であり一人ですでにあったルートを遠くまで旅しただけである。大航海時代以降のグローバル世界史であり「海洋の時代」には重くてかさばる食料や原材料の大量輸送が可能になったが、アフロ=ユーラシア世界で完結していたユーラシア世界史の時代では軽くて貴重な商品、すなわち奢侈品や嗜好品の中〜長距離輸送が主流だった。これらはアラム商人・インド商人・バクトリア商人・ソグド商人・ペルシア商人・アラブ商人・シリア商人・ユダヤ商人・アルメニア商人・ウイグル商人・回回商人などによって行われていたことが知られている。これらの商人は金銭財物を喜捨して伝播した様々な宗教の活動を支えた。貿易の記録が後世に残ることはまれであるが、建築遺構や高価な顔料を使う壁画などには流通経済による繁栄が残る。先に列挙したシルクロード商人のうち紀元一千年紀を通じて最も活躍したのはソグド商人である。主要な拠点であるソグディアナの諸都市の遺跡では一般のためものからでさえ次々と壁画が発見されている。都市遺跡のペンジケントでは貴族や大聖人の邸宅などの建物では主要な部屋が豪華な壁画によって飾られていたことに驚かされる。このソグディアナは大帝国の中心となったことはなく穀倉地帯でもなく、国際貿易のみで栄えていた。ペンジケントはソグディアナの中のオアシス都市でも大きい方ではないにもかかわらず、豪華な壁画が見つかる。
 筆者は東西交易を軽視する反シルクロード史観を否定する。大航海以前にはシルクロードの東西交易は経済的にも文化的にも重要だった。最後に時代区分については世界史の8段階を提唱している。農業革命、四大文明、鉄器革命、遊牧民の登場、中央ユーラシア型国家優勢、火薬と海路、産業革命と鉄道、自動車と航空基地の8段階である。

 第二章「ソグド人の登場」ではソグド研究史から始まる。日本では明治末期から日本人による研究が進み1924年の「栗特国考」が初期の代表作である。20世紀に華々しい成果を挙げたソグド研究は21世紀には地位が危うくなる。中国の研究者の台頭である。その後フランスでも最新情報を含む書籍が発行され、英訳もされたため、日本での研究結果を欠いた本社が欧米の研究の基礎になることを憂いている。
 ソグディアナはソグド人の土地の意であり、ユーラシア大陸の真ん中に位置するソグド人の故郷である。アム河とシル河なら挟まれたマーワラーアンナフルやトランスオクシアナと呼ばれた土地の一大中心がソグディアナで、鉄器の使用が普及した紀元前6〜前5世紀ごろが灌漑網が整備されて、農業を基本とするオアシス都市国家が栄えた土地である。ソグディアナはほとんどウズベキスタンに属しているが東の一部はタジキスタン国領になっている。ここにはサマルカンドをはじめ多数の都市国家があるが豊かな土地で前6〜前5世紀に発展し、5〜6世紀に大発展期を迎える。人口増加に対してオアシス農業には限界があったので交易に従事する者が出てきたと分析する。そしてこの地は東の中国、東南のインド、西南のペルシア・地中海地域、西北のロシア・東ヨーロッパ、東北のセミレチエ〜ジュンガリア〜モンゴリアへと通じる天然の交通路たるシルクロードに続いてたので、ソグド人は国際的なシルクロード商人に発展し、広い範囲にコロニーを築いた。
 ソグド人はコーカソイドであり白皙、緑や青い目、深目、高鼻などの身体的な特徴を持つ。ソグド語は今は滅びたが中世イラン語の東方言であった。紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアのキュロス二世の制服を受けて、アラム語がアラム文字で書かれるようになりアケメネス朝滅亡後にアラム文字でソグド語が書かれるようになり、さらにアラム文字が草書化しソグド文字となった。ソグド文字は突厥・ウイグルに伝播して、ウイグル文字やモンゴル文字へ、そして満州文字になった。ソグディアナはアレクサンドロスの遠征の東の最終地点になり、セレウコス朝シリア、バクトリア王国の領域に含まれるが、その後は8世紀前半にウマイヤ朝の支配を受けるまではほぼ独立を保っていた。その後はイスラム帝国の支配を受けゾロアスター教からイスラム教、ソグド語もペルシア語に変わっていく。9世紀終わりのサーマーン朝はペルシア人王朝でありアラビア文字ペルシア語が主流となり現在のタジク語に繋がっていく。10世紀後半からは草原からトルコ人王朝が支配を強めてきてトルコ語が優勢となる。
 ソグド人が商業をしている記録は漢文史料やイスラム資料にあり、商いを良しとすることや紙を生産している記述がある。またソグド語の古代書簡は312~4年くらいの5通の手紙がみつかっているが、中国国内からサマルカンドの親族に当てたものであり、中国の政治的な動きや中国内のサマルカンド人などの言及がある。これにより匈奴がフンと呼ばれていたことが確証された。また郵便制度があったこともわかる。また敦煌の遺跡のミイラが履いていた紙の靴から偶然見つかった書簡は商業税に関するものであり、課税や取引の実態を示していて登場する象がんの多くがソグド人でありソグド人商人の存在感を表している。社会構成としては自由人と非自由人が別れていて、商人の地位が高く聖職者が重視されていない。男女とも財産を渡せば離婚できるなど女性の地位は比較的高かった。私兵として奴隷の軍人がいたことがうかがえる。
 漢文史料の中で商胡など胡と付けばイラン系商人や西域商人とみなしてよいとされてきたが、本書ではこれらの多くはソグド商人であるという説を打ち出す。特に唐代では興生胡や興胡とあれば100%、それ以外でも十中八九をソグド商人と見て良いとする。ただし後漢から魏晋南北朝時代ではそうではない。またサマルカンドなら康国というよに、漢文書の行政上の必要からソグド人は出身国によって姓を持たされていて、安・米・史・何・曹・石などであり、ソグド姓と呼ぶ。東方に発展したソグド人商人の足跡は四世紀前半には中国に及んでいることは明白だが、古くは後漢から三国魏の時代まで遡ることは疑いがない。河西地方だけでなく長安・洛陽や四川でも活躍した足跡を見る。ソグド人が残した遺跡や墓地、碑文や岩壁銘文からその集団での居住跡をたどると、同郷の仲間や家族、親族を各地に配置しネットワークを構成していた様子が見えてくる。
 ソグド人の軍事面は積極的だったという説が最近に定着しつつある。三国志にも支富が月氏を康植が康国の軍団を率いて参画した記述がある。彼らは西域商人のリーダーであるばかりでなく軍団長になりうる人物だったのかもしれない。また初唐のソグド人の墓では被葬者は大夏月氏人也と書かれたので月氏も広義のソグド人に含まれていた可能性がある。また外構ネットワークにも寄与したことがわかっており、安吐根という人物は柔然や北魏の実力者と通じ、東魏と柔然の政略結婚に尽力し、さらに北斉で高位高官まで上り詰めた。また酒泉胡は西魏の公式使節団の長として突厥を訪れた。また虞弘墓から発掘された墓誌によると父は柔然の官職で北魏に来た経歴があり、虞弘も柔然の官職でペルシアや吐谷渾国を訪れてその後北斉に派遣されたときに関係悪化から勾留され北斉・北周・隋に仕える。彼もソグド人だったと推測される。また当時ソグド語は国際語であり、突厥のモニュメントにもソグド語で記されていて公用語だっただけではなく、突厥の政治・経済・外交の顧問としてソグド人が使えていたことが判明している。ソグド人にとって重要な地域は河西地方だが重要な都市としては敦煌が挙げられるが涼州は河西最大の都市として玄奘の伝記にも挙げられている。439年には河西地方を支配していた北涼は北魏に整復されて、ソグド人も奴隷の身分になったとされるが、ソグド王は奴隷の身分からの解放に尽力したと予想している。東方に向かったソグド人は北魏〜隋では薩宝という官称のリーダーに率いされていたことがわかっており、これはソグド語のサルトパウに由来する言葉でキャラバンのリーダーという意味だがこれが転化したものだと判明している。唐の建国に多大に尽力した安興貴の祖父も涼州薩宝だったことが知られている。隋末617年に三万の兵を率いて太原を出た李淵は長安城に入り618年に唐朝を創業し武徳と改元した。そのころ涼州薩宝の家系に生また安修仁は他の漢人胡人と涼州に李軌政権を擁立した。兄の安興貴は唐に使えていたが李軌を唐朝に帰属させるために涼州に戻り説得したがうまく行かず胡人集団を率いてクーデターを起こし李軌を捕らえ、武徳二年に河西地方を唐に献上した。この安一族は最初から両者を天秤にかけて一族の安全保証を計っていたと見られる。最近この安修仁の墓碑銘が見つかり隋朝の武官として涼州在住の胡人集団を統率して、李軌政権を傀儡とできた背景にはこのソグド人軍団がいたことを指摘した。この新説は隋王朝に五胡以外のソグド人が府兵制の一部を担っていたという新事実を明らかにしている点で意義深い。安興貴の息子の安元寿は李世民のそばで秦に仕え、元武門の変の際にはソグド人兵力を動員したこともわかっているがその後官職を辞し涼州で家業の東西貿易や馬の生産を継いだと考えられる。このように馬を生産し馬とラクダを機動力にした東西貿易に従事する一方で騎馬を中心とする武装集団として発展し、さらにトルコ系や漢人軍閥へも軍事力を提供して政治にも関与していたと読み解ける。

 第三章「唐の建国と突厥の興亡」では、、まず唐までも当時の異民族の王朝として拓跋国家と呼ばれ、中国国内でも同じような認識である。また現在の中国内の少数民族の定義の中に匈奴、鮮卑、柔然、突厥などは含まれていないが、それは魏〜唐までの間にこれらの民族が漢民族に融合したからである。唐の国際性・開放性はこのような異民族との血と文化の融合によって生み出されている。突厥やソグドなどの異民族たちも漢語を話した。この唐帝国の創建を担ったのは北魏の武川鎮に由来する鮮卑系集団であることが定説である。この武川鎮は北魏が配置した辺境軍鎮六鎮の一つである。孝文帝が洛陽に遷都すると六鎮の将兵への待遇が悪化して不満が六鎮の乱となった。そして混乱によって北魏は東魏と西魏に分裂し、西魏に入った武川鎮出身の少数派は在地豪族と手を組み胡漢融合集団を形成し、それを基板にして北周の宇文氏、隋の楊氏、唐の李氏が相次いで政権の座についた。隋の煬帝が三度の高句麗遠征に失敗すると、煬帝と同じ胡漢融合集団出身の李淵が617年に挙兵して長安を目指した。618年に煬帝の孫の楊侑が殺させると李淵は初代皇帝・高祖となった。そこから5年かけて各地の群雄が平定されて国内が統一させる。また霊州・夏州を擁するオルドスは重要な地でありオルドスを支配していた匈奴系の集団が李淵を支援したと考えられている。唐の最大のライバルは突厥第一帝国であったが、北斉・北周の時代はほぼ属国で貢物をしたり血縁関係を結んで何とか耐え忍んでいた。しかし隋の時代になると突厥を東西に分断させることに成功し、北の突厥が南の分裂中華を操っていた時代を逆転させ、北中国を再統一した隋が分立した突厥を操るようになる。東突厥の突利可汗は懐柔策に乗せられて漠南に移って自立し隋本土を転々とするが最終的には隋の後押しで東突厥可汗として返り咲いた。しかし突厥第一帝国の第十二代可干の始畢になると周辺の王国を臣下において勢いも増してきた。中華では反乱が相次ぎ分裂状態になったが群雄は突厥には服従し可汗の称号をもらっており、突厥が中華を上回っていた。また西突厥も隋の影響を脱して勢いを回復してきており、中央アジアを制圧してくる。またかつて突厥に嫁いだ義城公主が隋の末裔を呼び寄せて隋の亡命政権を漠南においた。漢文資料には唐を興す李淵は突厥の大可汗の臣下だったとは書かれていないが、あとから消されたと推測される。ソグドは李淵への帰属を決断し唐を軍事的にも支えたので、その反映が約束された。
 建国直後の唐は各地の群雄を制圧していったが活躍したのは次男の李世民であった。李世民はクーデターを起こし最終的には大宗という最高指導者になる。突厥分離政策で唐への投降を促し東突厥を弱体化させ隋の亡命政権も撃破する。こうして建国から10年を経た630年に国内の群雄や隋の亡命政権、東突厥を制圧し統一を果たす。唐に投降した旧東突厥人の扱いで意見が別れたが、オルドス長城地帯の農牧接壌地帯に遊牧民として集住させた。ところが639年に反乱を起こしたので、故郷の内モンゴル草原地帯に帰した。
 唐の太宗は草原遊牧地帯の族長たちから天可汗と称されていた事実を捉えて、これは農耕中国では皇帝として草原地帯では大可汗として世界帝国になったという解説も見られる。しかし古代トルコ語資料ではタブガチという拓跋から訛ったと思われる名称で認知されていたので、北魏以来の拓跋国家の天子はトルコ=モンゴル系遊牧世界から見れば唐の太宗は北方の拓跋国家の血を正当に引いているので、天可汗と呼ばれることは自然なことだった。筆者は太宗とその皇后の墓である昭陵に団長として調査にあたった。山陵の中腹にある外国人の石像が遊牧国家やオアシス国家のリーダーであることを解説し、遊牧世界からの認識を裏付ける。646年太宗は薛延陀を打倒し鉄勒諸部を内属させた。そして緩やかな支配地域である羈縻(きび)府羈縻州をおいて支配し、馬や食料を備えた郵駅をおいて使者の往来の便を確保した。一方で西方に目を向けると東トルキスタンにはオアシス国家と、ハミ地方にはソグド人やゼンゼンの植民都市が形成されておりインド=ヨーロッパ系言語の住民が占めていた。それらの諸国はすべてトルコ族の間接支配をうけていた。唐が東突厥を滅ぼすと西域情勢は唐に傾き、ソグド人国家も唐に来降した。648年に安西四鎮を設置してトルコ勢力排除を完了した。天山以北に西突厥がいたが617年頃に即位した統葉護可汗の時に大発展した。玄奘に安全保障を与えたのはこの人物である。西突厥は一旦は唐に属したが太宗の死去の651年にトルコ系所属が統合して唐に反旗を翻し、唐支配が瓦解した。しかし唐は討伐軍を派遣し6年かけて西突厥を敗北させた。この戦勝に功績のあった西突厥王族を可汗として冊立し、太宗時代以上に西域支配を安定させた。7世紀後半以降は北上してきたチベット帝国の勢力も加わり、唐とチベット、トルコ所属が三すくみになって争っていく。筆者は唐の太宗までが遊牧国家に似た武力国家であり唐が世界帝国であった時期とする。

 第四章「唐代文化の西域趣味」では胡姫を中心とした文化について説明する。唐代は胡風・胡俗が大流行した時代であり、それゆえに国際的であったとされる。胡服・胡帽だけでなく、胡食・胡楽・胡粧さえも歓迎された。ここで言われる「胡」は前漢までは匈奴を指し、五胡十六国時代では匈奴・鮮卑・ 羯 ・ 氐 ・ 羌の遊牧民を指し、後漢時代からはソグド人を始めとする西域人を含むようになり、隋唐時代にはオアシス都市の人々を指すのが優勢になる。場合によっては突厥・ウイグルを指すこともある。次に胡を含む言葉を取り上げる。胡桃や胡瓜、胡麻に加えて、胡椒、胡食、胡服について分析する。胡姫と呼ばれるダンサーに金持ちが通う様を唄った詩を取り上げる。胡姫は従来ではペルシア系の女性と思われていたが、ソグド人の墓から胡姫をモチーフにした石製葬具が発掘されており、ソグド人であると変わってきている。この胡姫が踊ったとされる小さな円の絨毯の上で回りながら踊る胡旋舞や跳躍する胡騰舞の様子や詩を紹介し、これらの胡姫たちのパトロンであった貴族や玄宗が作った梨園などの国家的な機関の説明が続く。

 第五章「奴隷売買文章を読む」では、、筆者がウルムチの博物館で女奴隷売買契約文章を見つけたところから始まり、様々な困難を乗り越え1989年の出版に至り、その後様々なところで参照される文章となった。内容は売主はサマルカンドのソグド人、買主は漢人の仏教僧侶、トルキスタン生まれの女奴隷をいくらで買うというものである。それより100年以上前の漢語で書かれた契約書もあるが、それらもソグド人が売主である。ソグド語の文章の中には「彼女を好きなように打ったり、酷使したり、縛ったり、売り飛ばしたり、人質としたり、贈り物として与えるなり、何でもしたいようにしてよい」という文があるが、同じ時期のバクトリア語の契約書の中にも似たような文章があることが発見された。
 ここから奴隷の説明が始まるが、基本的には奴隷は主人の所有物であったが以前は精密機械であり、生産奴隷、家内奴隷、軍事奴隷に分類される。国によるが男性の場合には主人の部下や代理人として重要な地位を占めるものもいたり、女性は貴族や富豪の家内奴隷の場合には主人の性交渉もさせられる悲惨さはあるが一般の女性よりも裕福な暮らしをしたものもいた。後漢時代でも賄賂として馬や奴隷が使われていたことや、胡姫などは私奴隷であったと筆者は推測する。唐代の人民の身分は戸籍を持つ良民と持たない賎民に別れていた。さらに賎民は上層と下層があり、下層は官と私に別れていた。官賎民は犯罪者や戦争の捕虜などであり、私賎民は奴婢であった。良民の売買は禁止されていたが実際にはあり、賎民を良民として放つことは善行とされていたり自身で蓄財して良民となることもあり、唐代の良賎の身分は固定的なものではなかった。
 また奴隷市場の存在を示すトゥルファン出土の漢文文書や敦煌文章でも人身売買が行われた例がある。良馬は現代の高級車に匹敵するが、そのくらいの値段で現在の精巧なロボットとも言える奴隷が売買された。それらは口馬行と呼ばれる店舗で売買され、口とは奴隷のことであった。唐前半の安定期では普通の普通の馬<普通の奴隷<名馬<高級奴隷のような値づけだったという研究がある。馬を持つことができるのは王侯・貴族・官僚・富豪などに限られていて、突厥馬などの外来馬は今で言えば高級外車とも言える。一般庶民はロバを使っており国内馬にも手が届かなかった。
 唐代の胡姫・胡児の売買は遠距離間で行われたので近代アメリカの奴隷貿易のケースに似ている。ソグド人が唐帝国内を奴婢を連れて旅行していたことは兼ねてから指摘されていて、これらは商品であった可能性がでてきている。また大量のソグド姓を持つ奴婢が一つの家で同居生活したような資料もあり、奴婢の寄宿舎のようなものであったと考えられている。シルクロードでは絹馬交易だけでなく絹奴交易も行われていたと説を紹介している。

 第6章「突厥の復興」では、、、、630年に滅ぼされた東突厥は679年に旧東突厥の王族を擁立し復興のために反乱を起こした。周辺の突厥集団も呼応し一時は唐を圧倒するが唐は30万の勢力を投入し翌年に鎮圧された。また同じ年にソグド系突厥集団は六胡州に置かれる。旧東突厥は翌年また反乱を起こし鎮圧されるも682年の反乱は成功しイルテリシュをリーダーに東突厥第二帝国を復興させる。一方でソグド集団は721~722年に反乱を起こすが失敗し独立できなかった。突厥第二帝国は漠南の山陰山脈地方に本拠地を置いたが、漠北にも勢力を拡大し、漠北に勢力を移した。この突厥復興に大きく寄与した第二のリーダーであるトニュククは突厥として初めて碑文を残す。碑文によるとイルテリシュとトニュククが蜂起した勢力はわずか700人で2/3が騎馬、残りは徒歩だった。こうして唐の羈縻支配体制は崩壊するが突厥にとっては630年以降の50年間のタブガチという異民族による支配は屈辱の時代として記憶される。次のカプガン可汗が即位して中国の武州革命の時期で則天武后に対して中国侵略と和睦を繰り返した。696年には中国に残っていた突厥降戸の変換と単干都府の割譲と、その地での農耕のための種子と農具を要求し、則天武后は憤激したものの6州と農具を与えた。またカプガン可汗は中国に婚姻を求めたのに対し、則天武后は自分の一族を派遣して彼にアプガン可汗の娘を娶らせようとしたが、アプガン可汗は唐の王族の李氏ではないと激怒し、華北各地に入寇させて大量の漢人男女を略奪した。これは内モンゴルの可耕地に従事させるためだと思われている。706年以降では突厥は北方・西方経営に忙殺され、南方の漠南に隙が出て唐の張仁愿が黄河大屈曲部に受降城をもうけると形勢が逆転した。一方の突厥は西方にいる旧西突厥系や他のトルコ系の部族や唐支配下の東部天山北麓への遠征など兵を出し、国家は拡大していた。アプガン可汗の次に即位したビルゲ可汗は南の唐とは宥和政策をとり東西に勢力をふりむけ、唐とトルコ族が南北を分け合い、草原の道の支配権はトルコ族に戻る。この頃のソグド人資料はあまりない。そこで唐の玄宗期に大反乱を起こした安禄山の生い立ちに関する資料にあたると、716年にカプガン可汗がなくなると多数の突厥人・ソグド人・ソグド系突厥人が党に亡命してきたことがわかり、その中に安禄山やその養父がいたことがわかる。また安一族の中で唐に使える胡将軍がいたことが注目される。701年には突厥軍がオルドスに進軍し六胡州を経略したことからソグド人・ソグド系突厥人が唐から突厥に移動したとみられる。
 ここで25歳で夭折した突厥可汗の王女の墓碑銘を紹介する。カプガン可汗の死後、その娘は唐に亡命した。唐はビルゲ可汗を包囲攻撃しようとするが失敗して敗退する。そしてビルゲ可汗は唐に公主降嫁を求めてきたが唐側は選定に苦慮し、後宮にいるカプガン可汗の娘を唐の公主にしたてた。しかし嫁入り準備をしていたが何の前触れもなく死去してしまう。筆者は王女が自分の父を殺した一家の宿敵に嫁ぐことを憂いで自殺したのではと想像する。

 第7章「ウイグルの登場と安史の乱」では、、、ビルゲ可汗の没後、突厥第二帝国は急速に衰える。742年にはバスミル・カルルク・ウイグルの三者連合がユーラシアの東半分の覇者であった。744年にはバスミルを撃破し、745年にはウイグルが漠北を100年間を支配する。シネウス碑文によればセレンゲ河畔にソグド人と漢人を駆使してバイバリク城を築いたとある。古代ウイグルが果たした歴史的役割は安史の乱の鎮圧し唐を延命させたこととマニ教の国教化だ。家畜の解体を常とする放牧民族が殺生を戒めるマニ教に改宗したかは謎である。またソグド人商人はウイグルと結びついて絹馬交易を行なっていたが、状況を考えるとソグド人とマニ教が結びついていた影がみられる。牟羽可汗は強い抵抗を押し切って改宗を進めたが、ソグドネットワークの利用という経済的・政治的な理由があったように思われ、779年にクーデターによって殺される。第七代懐信可汗のときにマニ教を名実ともに国境にしマニ教徒ソグド人を優遇した。
 安史の乱の安禄山は10代で突厥から亡命し、山西地方の安貞節の元に腰を落ち着け、六種類の弦を操り、国際商業市場の仲介者になり、軍事にも通じて武人としても成長していった。張守珪に抜擢され契丹・奚討伐で活躍したことで彼の養子となり武人として出世して玄宗や楊貴妃の恩寵を受ける。755年安禄山は玄宗の側近にある奸臣楊国忠を除くことを目的として兵を挙げる。親衛隊8000騎を中心として10万から15万の大軍を率いて河北地方を南に降り洛陽を陥れた。756年玄宗は蜀(四川)に、皇太子は郭子儀の本拠地であった霊武へ向かい粛宗として即位する。粛宗はウイグルに支援を求めるためにモンゴリアに敦煌群王承寀やトルコ系・ソグド系の武人を派遣する。オルホン河畔にある首都オルドバリ区で会見が実現すると第二可汗である磨延啜 は喜んで承寀に自分の妹を娶らせる。安史勢力は突厥・同羅・僕骨車5000騎を率い、長安より北方へ進軍し、唐の支配下で河曲にいた九姓府・六胡州らの勢力数万と合流し、粛宗のいる霊武を襲わんとした。郭子儀は、可汗の磨延啜自身が率いてきたウイグル本軍を陰山から黄河流域への出口に当たる呼延谷出迎え、これと合流して安史勢力を退け、河曲を平定した。757年に安禄山は実子の安慶緒や部下によって暗殺された。安禄山の盟友である史思明は独立分離し范陽(北京)に帰還した。粛宗は鳳翔まで南進しさらに派遣された葉護に率いられたウイグル軍を加え15万に膨れ上がり、広平王を総帥とし鳳翔を出発した。唐の郭子儀軍やウイグル軍によって都市を奪還しついに洛陽まで奪回した。粛宗は葉護を労い司空の位を与え、金銀器皿を下賜し、毎年絹二万匹を支給することを約束した。758年ウイングルの使者一行が長安に来て、公主降嫁を要求した。粛宗は幼少であった実の王女を寧國公主に封じて降嫁させた。759年史思明は安慶緒を殺し大燕皇帝として即位する。同年ウイグルの磨延啜可汗が急逝すると、長男葉護は罪で殺されていたので、末子の移地健が第三可汗として即位する。史思明は洛陽に入城し、再び東西対立する政権が誕生した。しかし史思明は長男の史朝義に変わって妾腹の子・史朝清を溺愛し貢献者にしようとしたため長男の史朝義の部下が史思明を捉えて幽閉し、761年には史朝義が即位した。762年に玄宗が死去した10日後に粛宗が崩御し代宗が即位する。ウイグルの牟羽可汗は唐の君主の崩御に乗じて10万の兵を率いて南進する。同じ頃、代宗は史朝義を打倒するためにウイグル軍を要請する使者・劉清潭を派遣していた。劉清潭はゴビ砂漠に入る前に牟羽可汗と遭遇し、思いとどまるように説得するもうまくいかず、妻の実夫である僕固懐恩が説得し再び当側に着く。ウイグル軍と僕固懐恩の軍が共に戦い、ついに洛陽を奪還する。763年に追い詰められた史朝義は自殺し、安史の乱が落ち着く。牟羽可汗はそのままモンゴリアに戻る。これらの経緯はオルホン河畔に残されたカラバルガスン碑文に断片的に残されている。この碑文はウイグル語・ソグド語・漢文で書かれており、シルクロード東部でのソグド語の重要性を示している。この碑文では牟羽可汗の方が磨延啜より大きく取り上げているが、それはマニ教との関わりが深かったからだと分析する。
 安史の乱は唐帝国に大きな影響を及ぼし、安史の乱の前は自力で軍事力を調達する武力国家であったが、安史の乱の後では経済力で平和を維持する国家になったという研究もある。筆者は安史の乱を10世紀の中央ユーラシア型国家優勢時代の先駆けとなった現象と捉え、安史の乱の時代にはまだ安定的な征服王朝が構築される要素である文字などが整備されていなかったことを安史王朝が維持できなかった理由として挙げている。

 第八章「ソグド=ネットワークの変質」では、、唐の初期までのソグド人と、太宗高宗時代のソグド人では中国での扱いが変わってきているという研究がある。かつては中国内に大人数で住もうとも外国人であったが、唐がソグディアナを羈縻支配し外国人ではなく興胡という地位を与えた。これにより道途でさまざまな公的なサービスを受けることができた。牟羽可汗とソグド人の分析が続く。
 次に、五人のホル人の報告を書き写したという敦煌出土のペリオ=チベット語文章1283番の更新版の全訳とその分析が続く。中に出てくる安禄山に見出された張忠志は762年に支配下にあった五州をもって唐に帰順した。唐の後半は張忠志のような節度使に半独立国家に割拠されるようになる。このホル人の報告はシルクロード東部から唐本土を除いた全地域になり、ホル王国・ホル人の情報網の広がりが分かる。そして筆者はこのホル人とはソグド人であるとしている。
 シルクロードではソグド人が高額貨幣として金銀に加えて絹織物が使われていたことが漢文文書から明らかになっている。780年になると納税には銅銭が使われていたものの、遠距離を運ぶ必要がある場合には軽貨と呼ばれていた絹織物が使われていた。絹馬交易の研究では突厥・ウイグルにとって絹織物が重要なものであったとされている。この絹織物をさらに中央アジア・西アジア・東ローマに送っていたと考えられる。しかし筆者は唐に売られた馬に比べて対価として流入した絹が多すぎると感じていたが、輸出の中に大量の奴隷があったとしたら納得できるという。またソグドの胡旋舞を学んでサロンで気に入られた武延秀の逸話にもあるように、突厥宮廷の文化もいけていたと言える。またウイグルのソグド商人は絹馬交易を担いウイグルマネーで唐本土の金融資本を支配した。

 終章「唐帝国のたそがれ」では、、、筆者は中央アジアの大勢を決した関ヶ原の戦いは八世紀末のウイグルとチベットで行われた北庭争奪戦と考える。八世紀を通じて中央ユーラシアの真ん中にある中央アジアの覇権を争ってきたのは、東の唐帝国、南のチベット帝国、西のイスラム帝国、そして北のトルコ帝国(途中からはウイグル帝国)の四者である。西のイスラム帝国にはパミール声の余力がなく、東の唐は安史の乱で西域支配の手を緩めざるを得ない。残ったのは北のウイグルと南のチベットである。ウイグルは安史の乱以降に唐とは友好的だったのに対して、チベットは敵対的だった。チベットは一時的には北庭を襲撃しウイグルをモンゴリアまで退却せさるが、最終的にはウイグルが勝利し、唐が退場した中央アジア東部を南北に分け合う。
 821年ごろに唐とチベットが講和条約を結んだことはよく知られている。安史の乱後に唐とウイグルは密接な関係にあったので、ウイグルとチベットが講和を結んでいれば三国が会盟を結んでいれば大きな出来事なので筆者はその証拠を探していた。ペリオ文章の断片とサンクトペテルブルグにある敦煌文書の断片がぴたりと接合し、三国会盟の証拠になり、チベットの国境線まで判明した。ゴビ砂漠が三国の国境となっている。また関連してゴビ=アルタイ東南部のセブレイにカラバルガスン碑文があり、ウイグル語・ソグド語・漢語で書かれているが、筆者はこれを三国会盟をウイグルで記念したものと解釈している。漢王朝でも明朝でもゴビ砂漠は国境であり、国境でなかったのはモンゴル帝国・元朝・清朝だけである。
 ウイグルは830年代の終わりに自然災害と内訌につづき、キルギスの侵攻を許して崩壊する。西に向かったウイグル人たちは東部天山山脈に落ち着き、840年代にチベット帝国が内部瓦解し河西回廊から撤退すると、ウイグル族は南進し甘州ウイグル王国を建てる。ここから中央アジアのトルキスタン化が始まったとする。一方でソグド人はソグディアナがアッバース朝の支配下になりイスラム化してくるとソグド人の宗教的文化的な独自性が失われていった。西部天山の北麗には11世紀までソグド人集団が確認されているが、彼らはトルコ語を話しトルコ服をきていた。シルクロード東部のソグド人は西ウイグル王国、甘州ウイグル王国などの中で商業経済を支えるものや武人として生き残っていった。ソグド文字はそのままウイグル文字となり、ウイグル文字がモンゴル文字となって、モンゴル文字が改良され満州文字となっている。

 「あとがき」では、筆者は文明の発展の中で中央ユーラシアの騎馬遊牧民の重要性を確認し、西洋中心主義も中華主義思想も不要とする。また「世界史」に値するのは14世紀初頭の「集史」でありイスラム圏で生まれている。日本は明治維新以降に西洋中心史観をそのまま需要した。一方で明治体制への復古を願う刻主義者などは極端に日本民族と日本文化の純粋性を美化する方向にはしっているという。『民族も文化も元も全ては長い人類史の中で互いに混じり合いながら生成発展してきたものであって、純粋という名の排他的思想に学問的根拠は微塵もないと認識すること、これこそが人類の未来を切り開く道である」と筆者は信じているという。また世界史の教科書が肥大化しすぎているので西洋史を大幅に削減して、近隣の挑戦・北アジア・東南アジアの歴史と遊牧騎馬民族の動向についても記述をふやしてはどうかと提言する。

気になった点

 途中にゴビ砂漠がなくなっていた時期があったとあったが、そこのところを詳しく知りたいと思った。ゴビ砂漠が国境になっていたというのであれば、そのような地形の変化は国家の関係に影響すると感じた。
 言葉には興味があるので胡服についてや、洋服の起源・発展などは興味深かった。麺が小麦というのは知っていたが、餅については知らなかった。しかし、なぜ日本ではあれが餅(モチ)なのか。店舗の並びを”行”とよび、それが銀行の行になっているというのも知らなかった。
 ソグド人については奴隷貿易があったのは衝撃的だった。ソグド人がそれで儲けていたというのであれば納得できる。
 遊牧騎馬民族などの軍事国家は国を維持するために他国への進攻を続けなければならず、兵を休められず生産性が低いというのは興味深かった。国の結束が弱ければ弱いほど他国への侵攻を続けなければならないのは理解できる。

最後に

 序章から作者の思いが爆発したような書籍で楽しかった。何か上品な他人事な典型的な本よりも新しい視点を積極的に提案しているので刺激が多かった。冗長な部分もあるのでちょっと長く感じたりするかもしれませんが、中央アジアの歴史や脱西洋中心主義に興味がある人にもおすすめです!

遊牧民から見た世界史-増補版

 スキタイや匈奴など世界史に大きな影響を及ぼした遊牧民のことを知りたくなって手に取った。著者からの自分のバイアスがかかった歴史観を突きつけられて新鮮な読書体験だった。

本の構成

 第一章「民族も国境も超えて」ではまずアフロ・ユーラシアの地形をつぶさに見ていく。海に近い周辺部の湿潤な地方を除くと、内部は乾燥する地方があり、上から森林・森林草原・草原・半沙漠・沙漠と分けられている。東西に広大な地域が同じ気候に属し、草原から沙漠に遊牧民がいた。次に遊牧民の生活を見ていく。騎乗の技術やそれに伴う騎射の技術の発達し、騎馬遊牧民を産む。紀元前800年から18世紀の中頃までの2500年は騎馬遊牧民の時代で、遊牧国家は遊牧民だけの国家ではなく遊牧民以外をも含んだ民族を超えた国家だった。ただし国家と言っても近代の国家とは性質を異にしているもので、この国家という概念も本書のテーマである。また広くは西洋文明に規定された文明という型も文字を残してこなかった文化から相対的に見ていく。

 第二章「中央ユーラシアの構図」ではまずは広大な中央ユーラシアの大地を北側と東側と西側に分けて見ていく。北側のシベリアはアジア人が住んでいたが東に目を向けたロシアの支配が17世紀までに太平洋まで達する。東のモンゴル高原は東の興安嶺と西のアルタイと北のバイカル湖に挟まれている。南側は乾燥ステップの華北に繋がっているが、中華文明を産んだ乾燥農耕の土地である。このモンゴル高原は匈奴、東胡、鮮卑、柔然、高車、突厥、ウイグル、キタイ、モンゴル、ジュンガルなどの遊牧国家を産んだ大地であり、北側は森林と草原が入り混じっているのでここの放牧民は放牧狩猟民でもあった。西側はパミールで区切られるが、その東にある天山は南北を区切る。南は極度の乾燥地帯となり雪解けの水を頼りにするオアシスが点在する土地となるが、北側は緑が深く、肥沃なイリ川とその渓谷は遊牧民の争奪となった。この北側には中華政権が入り込めなかったが、東西のユーラシアのハイウェイは南側のオアシスを点々と進むいわゆるシルクロードではなく、天山の北側であった。1757年になって清の乾隆帝のジュンガル王国を倒して住民を皆殺しにし漢族の民を入植させ農耕地帯とした。パミールの南東にはチベットの高原があり、かつては王国がチベット仏教を権威として国をまとめ、チベット仏教は周辺に広まった。
 ユーラシアの西側はアム河とシル河に挟まれたオアシスが肥沃であり東西南北の交通と商業の十字路となって、諸勢力の焦点になった。古くはソグドと呼ばれる人々がいた。この辺りの土地はマー・ワラー・アンナフルと呼ばれるが基点としたクシャーナ朝、エフタル、十世紀からはトルコ系のガズナ朝、ゴール朝、14世紀からのトゥグルク朝、ティムール朝とそれにつづくムガル帝国について語られる。マー・ワラー・アンナフルの西に進んだイラン高原は痩せた土地だが文明が起こりモンゴル帝国時代にはイルハン国の本拠地となった。アケメネス朝には蛮族の地トゥーラーンに対して文明世界はイーラーンと呼ばれた。アケメネス朝は今知られている限り軍事・行政・徴税・交通・輸送の制度/組織を整えた世界史上初めての巨大国家であり、イーラーンはこの栄光を含んでいて、シャーはアケメネス朝由来の王の称号である。マケドニアの王はこのアジアの帝国に憧れて、はしからはしまで行進した。ギリシア文明のアジアへの影響というヘレニズムは虚像に近く、アジアのギリシアへの影響の方が大きい。アゼルバイジャン高原の北にはカフカズ山脈が南北の壁としてある。ザグロス山脈の西にはチグリス・ユーフラテスからシリアに達する。シナイ半島まで西アジアとしているが西洋からみた中東という故障が使われる。以上がユーラシアの西側の南方世界だが、シル河の北にはカザフ・ステップが続き大草原はヴォルガを超えて、ドン、ドニエプル、ドナウ河まで続く。この大草原は多くの遊牧民を育んだが、キプチャクハン国はこの地を本拠地とした。大草原はハンガリー平原まで広がり、ローマ帝国を恐怖に陥れたフン族はここを本拠地とした。巨大草原の北側には森林が帯状に広がっているが西北のすみにルースィという農民世界があった。ロシアは1552年にヴォルガ中流域のカザン、1556年に下流域のアストラハンを攻略するがキプチャクハン国の流れを汲む国家であった。カザフとカフカズを19世紀半に制圧し、マー・ワラー・アンナフルに達するのは1881年だった。そして清と同じように農民の入植をさせて遊牧民たちの土地は接収された。カザフで水爆実験をしたり、中央アジアで綿花栽培を拡大しアラル海は干上がりつつある。

 第三章「遊牧国家の原型を追って」ではまずスキタイを分析する。スキタイはヘロドトスの歴史の中でダレイオスの北進の敵として登場する。黒海沿いに北上する70万もの軍は攻撃すると逃げるスキタイを追う。スキタイは退却するごとに一帯の土地を焼き払う。次第に力を失う軍を矢で攻撃し、軍の損害が大きくなってたダレイオスはついに退却を決定する。この戦い方はナチスドイツに対するロシアの退却作戦を思わせるが、その後ダレイオスはスキタイには手を出さず、ギリシアに注力する。この後、ユーラシア西半では北にスキタイ、南にアケメネス朝ペルシアが並び立つ形成となった。従来は対ギリシアに対して東西対立が注目されるが、南北対立もあった。この後、ヘロドトスの記述を見ながらスキタイという遊牧国家について分析していく。ギリシア系スキタイが居たことから、民族ではないことが分かる。アレキサンドロスの北進については撃退したが、サマルタイにより西に追いやられ前三世紀ごろには解体したらしい。サマルタイも紀元後四世紀ごろにはフンに吸収される。スキタイの動物意匠に特徴がある青銅器文化があるがハンガリーやドイツまで影響が及ぶ。スキタイ国家とペルシア帝国という二つの国家パターンが生まれていることが注目される。ペルシア帝国の中核をなしたのは10の分族からなるアーリア系の遊牧民集団だった。両者の違いを産んだものとしては農耕文明を取り入れられた立地と、歴史にある。ペルシア帝国の前にはアッシリア、メディアという国家があり、ペルシア帝国は多核の連合国家であり王はその中を移動して統治した。また20州に分割しての分割委任方式や非人種主義、宗教への寛容、統一税制、幹線道路、駅伝制、貨幣経済と国家の中の原点がダレイオスの国家建設事業には含まれている。
 東方における遊牧国家の原型である匈奴は史記の中で詳しく書かれている。漢は劉邦から武帝までは匈奴の属国だった。匈奴は古くはオルドス地方に暮らす小集団だった。イラン系とも言われる月氏を除くといずれもトルコ系であり、西半はインドアーリア系、東半はアルタイ系の人々が点在した。東方の遊牧民は足で歩く集団で軍団としても弱かったが、紀元前四世紀後半には西方より騎馬技術が伝わり、急速に軍事化した。その頃に趙の武霊王は遊牧方式の騎射戦術を取り入れると共に騎乗に合う胡服を取り入れた。遊牧民の軍事化が中国統一を促した。中国本土にも遊牧民が暮らしていた節がある。周や秦も谷ごとに分散して居住する広い意味での遊牧民であったとする説もある。匈奴が一部族だったに過ぎない頃に秦が統一されるが11年で終わる。その後に項羽によるゆるやかな列強同盟である西楚ができるが騒乱状態に陥る。新しい時代の王は匈奴の太子であった冒頓(ぼくとつ)であったが彼の父殺しの逸話が語られる。まずは東胡を倒し、西の月子を討ち、南のオルドスを併合した。この後に漢王朝が成立ということにはなっているが、まだ広大な領国を保持した王も多く統一政権というにはまだ足りない状態だった。その一人の韓王信を山西に移封した際には韓王信は匈奴にくだって、そして晋陽を攻めた。劉邦は自ら兵を率いて迎撃したが、匈奴はいつわりの敗走をして平城に誘い込む。白登山に囲んで包囲する。包囲された劉邦は包囲して冒頓の正后に贈り物をして命を救われる。その後、漢は匈奴に公主を送ると共に毎年貢物をする。ここから匈奴国家の構造についての説明になる。漢帝国は内地と属領という二重構造になっていたが、匈奴国家は24人の万騎に率いられた24個の万人隊が左・中・右に分かれて一体を支配していた。東方部は朝鮮半島の北に達し満州を含む地域、西方部はタリム盆地・天山方面まで達する地域であった。中央部はモンゴル平原だった。匈奴の国家構造が以後2000年続く放牧民国家の源流となった。

 第四章「草原と中華をつらぬく変動の波」では漢は武帝の時代に入ると匈奴との50年戦争に入る。対匈奴作戦をつぎつぎと実行するが成果に繋がらないのでタリム盆地にあるオアシスを攻め、財源であったオアシス支配がゆらぎ匈奴の経済面の苦境が軍事面にも及び弱体化した。一方の漢も経済的に疲弊して住民は重税に苦しむ。結局は武帝が死ぬと漢側からの申し出により終戦を迎えた。その後、両国は対等な立場で和親し平和共存する時代になった。この農耕世界と遊牧世界が棲み分ける大枠ができる。一旦新によって対匈奴路線に戻るが敗れて元に戻る。前漢・後漢を通しておおむね匈奴と共存する時代だった。漢と匈奴は徐々に衰退をしていくが匈奴は東西に分裂し、東の匈奴はさらに南北に分裂し、南匈奴はオルドス地方に広がり漢から経済援助を受けながら周辺防衛を請け負った。一方で天災によって弱体化した北匈奴は一世紀の末に漢と南匈奴連合軍に攻撃されて、一部はシル河に達した。追われた北匈奴がフン族であるという説もある。
 次は晋の時代に浮上してきて南匈奴の末裔である劉淵という王子である。牧畜地帯である山西に小王国を形成していた。劉淵は冒頓の末裔で漢の劉邦の娘を冒頓に嫁がせていたために漢の血も流れていたプリンスの中のプリンスであった。漢文化の教養も武芸も備えていたがそのために危険論もあり洛陽に人質としてきていた。父の他界と共に山西に帰還した。その後、司馬一族が争う八王の乱が起こった。その混乱の中で山西匈奴集団は自立に向けて劉淵が大単干に推される。司馬一族の成都王に仕えていた劉淵はなんとか山西に戻り304年漢王の位についた。308年に皇帝を宣言するものの310年に他界する。この後いわゆる五胡十六国の時代となるがこの名称は唐時代の歴史書作成過程に作為的につけられたものという。

 第五章「世界を動かすテュルク・モンゴル族」ではテュルク・モンゴル族による東方の支配について語る。柔然の社崙は鮮卑の檀石槐いらい三世紀ぶりに草原を統一し、丘豆伐可汗(キュテレブリ・カガン)と名乗った。これがハン・カンの由来とされている。同じ頃の5世紀から6世紀半ばにかけてイラン系の言葉を使うエフタルとよばれる軍事集団が強大になった。エフタルは西北エンドに進出し仏教を圧迫されたとされるが、関係ないという説もある。そしてこの二つの集団の間に高車という匈奴以前の丁零に遡るとされるテュルク系とみられる集団による遊牧国家を起こる。この三国がならんだが、東の拓跋国家の北魏、西のササン朝ペルシアにはさまれていた。さらに6世紀半ば突厥が出現する。まずは高車を併合し、ついで北魏との戦いで弱まっていた柔然をやぶり、さらにササン朝とむすびエフタルを撃破した。またカスピ海の北側にいたアヴァールと呼ばれる放牧集団がいたがそれを駆逐した。ちなみにアヴァールはハンガリー平原に移動したが東方から来たマジャール族に飲み込まれる。そうして二十年も経たないうちに東のマンチュリアから西はビザンツ帝国まで広がる世界史上初めての巨大な政治権力が出現した。拓跋国家の北斉・北周は突厥の属国となった。その後北周は華北を統一するが亡くなり外戚の楊堅が実権を握り隋朝と改めた。楊堅は突厥を分裂に誘導し動きがとれないなかで南伐に打って出て589年ついに中華統一がなされた。しかし2代目で高句麗遠征の失敗から崩壊し、李淵・李世民が唐朝を建てる。おそらく成立当初は東突厥の属国であった。突厥内部の独立運動に乗じて東突厥を従わせた。青海地方の鮮卑系の吐谷民を屈服させ、アジア東方全体を支配した。これはテュルクモンゴル系と繋がりがある拓跋国家だから成し得たことだと筆者は言う。さらに3代目の高宗が政権を握ると西拓跋を制圧しパミールの西のイラン系の人々をも支配した。ただ唐の世界帝国も25年ほどしか続かなかった。またイスラームも勃興してきたがイラン高原の帝国の伝統の影響を受けた宗教を超えた生きていく形・文明形態であった。こうして東の唐帝国、中央に離合集散する突厥、西にイスラームという帝国が支配することとなった。
 徐々に国力に翳りが差してきていた唐と東突厥は協調していたが、東突厥はテュルク系のウイグル族を中心とする集団にたおれる。組織は変わらず支配層が変わっただけと見ることもできる。唐も中央アジアでアッバース朝に敗れたり、安禄山の乱により混乱しウイグルの援軍に助けられるが、地方政権の力が強くなり中央政権は無力化してくる。一方のウイグル族は中央アジアも制圧して東方世界の最強国として君臨する。経済の面でも唐とソクド人を使った貿易で利益を上げて遊牧国家を運営していく。しかし天災に起因する内乱を機に西北モンゴリアのキルギス連合がウイグルを倒すがキルギスは草原世界をまとめることができず政治的に混乱した。ウイングル族は中華本土の北境などに移動した。テュルク族は西に移動し、中東・西北ユーラシア・東インドでもイスラーム化したテュルク族が占めることになる。それはムガル朝やオスマン朝であり一千年に及ぶテュルク・イスラーム時代の始まりであった。旧ウイグル族の中の甘州に住んだものは牧畜と抽象を組み合わせた小王国を形成した。また西方に移動したものはカルルク族に吸収された。それぞれの国家は牧農複合型で通商国家でもあり多人種・多文化・多言語であった。支配者はテュルク語を使い、住民は漢語・ベルシア語、ソグド語、ティベット語を使った。パミール以西はイスラーム地域となっていてムスリム商人が活動していた。9世紀になるとアッバース朝の承認を受けたサーマーン朝が興り、イランが蘇りマー・ワラー・アンナフルがイスラム化してイスラム化したテュルク系の中東への進出を促した。サーマーン朝はテュルクの若者奴隷を教育して親衛隊を作ったが次第ににこのような白人奴隷が政治・軍事の実権を握った。シル側の東や北のテュルク族のセルジュール朝もアッバース朝の都のアッバースに入城した。こうして中東地域へも遊牧国家のシステムが導入された。
 東方の唐朝消滅後の華北ではテュルク系の沙陀族とモンゴル系のキタイ族が中心となり三百年の多様化の時代に入る。沙陀族は唐末の龐勛の反乱を鎮定し唐朝から李の姓を賜り、存在価値を高めた。その後に反乱軍あがりの朱全忠と軍事抗争を繰り返し華北を政治統一して唐と名乗った。その後は沙陀族内部で権力争奪が繰り広げられた。一方、長城線の北ではキタイ族が主役となった。安禄山の周辺で放牧していた集団だが強力な騎兵で知られていた。ちょうど十世紀の初めに耶律阿保機が小型の権力体を形成し頭角を表した。キタイの王が他界すると選挙交代制を廃止し、自らを君主として大キタイ国と称した。その後モンゴル高原に進出したり渤海国を滅ぼしたりした。2代目の耶律尭骨のときに沙陀が混乱すると援助して見返りに燕雲十六州を割譲させ、後晋となった沙陀はキタイの属国となった。後晋は独立しようとした時にキタイに倒されたが統治がうまくできず東に戻っていく。こうしてキタイ国家は東は日本海・マンチュリア全域、南は北京・大同一帯、西はモンゴル高原の半分ほどの広大な領域で、北宋との平和条約も結び巨額の年貢により潤った。キタイ国家は遊牧社会と農耕社会を取り込み都市と放牧の共存関係を築くだけではなく、全域に渡り城郭都市を築いたことで放牧社会のシステムとしてより持続可能な国家になっていった。十一世紀には成果が出現するが軍事大国のキタイ国家の属国であった。十二世紀の初めにトゥングース系の女真族の族長がマンチュリア東半の女真系集団を統合して大金国をつくった。この女真国家の攻勢にキタイ帝国は内紛でじゅうぶんにたいおうできずに首都が陥落すると自己崩壊する。女真国家は燕雲日北だけでなく北宋も倒した。キタイ帝国と北宋を引き継いだ金朝はキタイ国家の大半の者たちを含んだ多種族混合の複合国家となった。キタイの崩壊の際に王室の一人が逃れて中央アジアに西遼をを作る。十二世紀は東に女真族の金、中央アジアにキタイの西遼、その間に西夏、江南に南宋、西アジアにはセルジュク朝の諸国家という図式になる。

 第六章「モンゴルの戦争と平和」ではモンゴル時代を鳥瞰する。1203年はケレイト部のワンカンの地位を奪取したテムジンは1206年に即位式を行なってチンギス・カンと称し牧民戦士集団を率いて外征に乗り出す。まずは西部の大勢力であるナイマン部族を打倒吸収する。1211年から6年かけて金帝国を攻め金の力を半減させると共にキタイを接収した。キタイは金朝の軍事力の機動部隊をになっていたためキタイが寝返りが大きく影響した。その後2年の休養の後1219年から6年かけてマーワラーアンナフルを本拠地にホラムズ・シャー王国を叩いた。西征後、西夏打倒作戦に赴き興慶開城の三日前にチンギスは他界する。モンゴル・ウルスの中でモンゴル人は特別扱いされず95の千人隊で構成されていたが、キタイを接収しチンギス他界時には129になっている。テュルク系のホラムズ・シャー王国が崩壊し広い地域のテュルク系の集団がモンゴルに組み込まれる道が開け、テュルク系諸族を準モンゴルとして取り込んだ。モンゴルこうして広く仲間を増やして民族を超えた集団として拡大していった。
 モンゴルは1260年頃に変遷を遂げる。第四代モンゴル皇帝モンケの後の帝位継承戦争の中から出てきた人物がモンケの弟クビライであった。政権が確立したころには50歳となっていたクビライであったが、多人種・多言語・多文化のブレイン群を駆使して、かつてない新しいタイプの帝国建設を目指し、政治・軍事・経済・流通・生産・交通のさまざまな分野で変革を行う言わば第二創業を行った。それは軍事力を全面に出さず自由貿易・重商主義を推し進め、モンゴルを世界連邦にしていくことだった。南宋国を接収して、中国全土を縮図に収めた。海への進出も見据えて物流のターミナルとして巨大な新帝都の大都を造営した。草原の軍事力と中華の経済力にムスリムの商業力をプラスし、軍事を背景とした経済通商超大国と大きくシフトした。人類史上、商業に関わるさまざまなシステムや手形・証券、銀行・金融業・資本の運用、経営のノウハウは東地中海行きが他の諸地域を引き離していたが、8世紀なかばアッバース朝の出現によって東方にイスラームが拡大していった。商圏も拡大していったが、陸上ばかりでなくインド洋などの海にも広がっていった。南宋は貿易を取り締まったり利潤を吸い上げるだけのそしきであったが、クビライ政権は反対に政府主導で海外交易に乗り出すために、江南の海洋起業家・蒲寿庚と結託した。
 さらにムスリムやウイグルの商業経済組織であるテュルク語のオルトクは資金の共同拠出と国際経済活動に特徴づけられ事業規模も大きかった。現代で言うところの企業や国際的な企業グールプのような存在である。また各種の国家規模の大型プロジェクトを企画・立案・実行の中はムスリム経済官僚で、オルトクの出身者であり、クビライはオルトク群を政権内部に取りこみ国家管理の中においた。オルトクたちは国家が運営する交通や宿泊施設を准公務員として利用することができた。次は経済を動かす貨幣としての銀についてである。ローマやビザンツは金本位制でインド圏は金銀両用、中華圏は銅だったが古代ペルシアやそれを引き継ぐイラン文明圏は銀が流通した。四グラム、四十グラム、二キログラムと言う三段階の重量単位をつくった。また財政の観点では歳入の80%が塩引と呼ばれる塩の引換券による収入と10~15%が商税であった。政府は塩の専売で巨額の歳入を得ていたため、私塩と呼ばれた闇の塩を売る武装組織が反政府勢力となっていた。また塩の引換券が貨幣として流通していた。商税は最終的に商品を売った土地で3%程度の売上税がかけられて、国を超えた時の関税はかからなかった。大カアンに集められた銀はユーラシア大陸の帝室・諸王・族長にばら撒かれモンゴルに繋ぎ止める役割を果たしていた。そこから各中華王朝が農国型や牧畜型という観点からの分析をする。

 第七章「近現代史の枠組みを問う」では、、、19世紀後半から20世紀の西欧による戦争の世紀であり人類史史上もっとも野蛮な時代であった。それは陸と騎射の時代から海と火器の時代への転換だった。モンゴルなどが野蛮という考え方もあるが近代の西欧の方がよっぽど野蛮である。また歴史の学習では西欧優位の歴史を学び、西欧の海洋進出が東西を結びつけたというのは間違いで、少なくとも前一千年紀ころにはユーラシアの東西の連絡はあった。8、9世紀にはインド洋の東西が結ばれていた。また近年の経済万能の風潮もあり過去の軍事権力の要素を軽視する傾向がある。国家や民族も歴史上の生成物であり変質もするし、ほとんどの場合、国家が先にあった。民族も作為的であるし、少数民族も多数民族が作り出した国家という幻想の中で作為的に作り出されてたものである。ユーラシアというものも大きく括りすぎという考えもあるが地域に分けるもの現実に即していない。既存の世界史が語る構造・イメージ・概念などの枠組みを疑ってかかることが重要である。

気になったポイント

 匈奴の勢力範囲は、朝鮮半島にまで及んでいて、百済でも右賢王、左賢王という称号を使っていたというのは驚きだった。匈奴の影響を受けていて騎馬的なものもあったりして、崩壊と共に日本に亡命して吉備国や一部は関東にそして武士に、、とか妄想は尽きない。
 遊牧民を虐殺した歴史はおそろしく感じた。清が放牧民ジェンガルを根絶やしにしたという話やスターリンによるカザフ人の虐殺によって人口は半分にもなったという説など農耕民族の方が凶暴なのではないか。今の中国によるウイグルの迫害なども同じだ。
 国家の形についても興味深く読んだ。ダレイオス型の統治や遊牧民型の統治など。するとやはり日本列島での統治の形があったのではないかと夢想してしまう。ロシア語のキタイやペルシア語でヒタイといえば中国を表すという話も面白い。あのキャセイパシフィック航空のキャセイも中国の意味というのも知らなかった。それにしてもキタイとスキタイは似ている…。
 チンギスハンは戦闘をすることで一つの国に属するという意識を作った、というのは非常に納得できた。ローマなども始終対外戦争に明け暮れていたのは国をまとめるという意味もあったのかもしれない。モンゴルに対してキタイは体で勝負して、ウイグル人は多言語に通じて頭脳を提供したというのは興味深い。文化的な厚みがあったギリシア人的なポジションにも思えた。ウイグルにはどのような文化的な歴史があるかをもっと知りたい。
 シンドバットはシンドバッドがヒンドゥーバードというインド風という意味だったと言うのは知らなかった。マルコポーロもそうだと書いてあって、そういう話は聞いたことがあったがちょっと夢がなくなる。一人のひとであったほしい。

最後に

 ヨーロッパ史と中国史に挟まれて主役でなかったユーラシア歴史。そこに登場する諸民族に対する愛に溢れた濃厚な書籍だった。なんとか内容をフォローしていった程度で自分の中でもう少し深く考えるために学びを進めたいと思った。
 とにかく今までのヨーロッパからの世界史や、中国史とも違うユーラシアという視点からの歴史はさまざまな示唆があり、興味深い。極東のアジア人としてはぜひ読んでおく書籍であることは間違いないので、おすすめです!

ロシア・ロマノフ王朝の大地(興亡の世界史 14)

 そろそろロシアについて読んでみても良いかと読み始めた。キエフ公国のあたりから現代の最近の歴史まで網羅できたのは非常に有益だった。

本の構成

 序章では、1550年頃のモスクワ公国から植民政策を通して領土を拡大した歴史、ピョートル大帝によるヨーロッパ化など大きな流れをさらう。第一章「中世ロシア」では、ノルマン人によるキエフ王国の建立からリューク朝による統一までのロマノフ王朝以前の歴史をさらう。
 第二章「ロマノフ王朝の誕生」からは民主的なミハイルと専制的なアレクセイの時代を説明する。第三章「ピョートル大帝の革命」ではピョートルの時代のヨーロッパ化をさらう。第四章「女帝の世紀」ではエカチェリーナ時代の地方政治の整備などを主に語る。第五章「ツァーリたちの試練」ではナポレオンの進軍からクリミア戦争の敗北までをさらう。第六章「近代化のジレンマ」では、リベラルな思想を持ち農奴解放を行ったアレクサンドル二世の治世を取り上げる。第七章「拡大する植民地帝国」では中央アジア・極東への帝国の拡大を見ていく。第八章「戦争、革命、そして帝政の最期」ではニコライ二世が日露戦争・第一次世界大戦を経てロマノフ王朝の終焉に向かう様子を描く。
 第九章「王朝なき帝国」ではロマノフ朝の後のレーニンからゴルバチョフまでを解説する。つづく「結びに変えて」ではいくつかの作者がポイントをさらう。

第一章「中世ロシア」

 ノルマン人の移動により8〜9世紀ごろにキエフ国家をたてコンスタンティノープルと通商条約を結び交易して栄えたところから始まる。ノルマン人は少数派でスラブ人と同化した。キエフ太公ウラジミールはビザンツ帝国のバシライオス二世に反乱鎮圧を要請され、交換に妹アンナを妻にすることを同意されたが、その際にキリスト教への改宗をした。15の公国に分裂したキエフ国家は12世紀後半には事実上解体した。その中で交易で栄えた共和国のノヴゴロドが力をつけた。
 13世紀前半に東方のタタール人の攻撃に合い、略奪と殺戮により徹底的に荒廃させられる。信仰の自由を認められたが人頭税を始め厳しい税を課される。240年のモンゴル人のロシアの支配は団結を促したものと肯定的に捉える研究家がいるもののキエフの人口は数百世帯まで減少したなど都市を荒廃させたため文化的に200年も後退したと見積もられている。
 その後、地の利もあったモスクワ公国が勃興する。クリコーヴォの戦いでキプチャク・ハン国を敗走させた後、イヴァン三世はノヴゴロドに勝ちロシアを統一しツァーリを名乗る。国を失ったビザンツ皇帝の姪ソフィアを妻にし、正教ロシアがビザンツの遺産を引き継いだともされ、コンスタンチノープルからの技術者の流入や文化的にもイタリアとの交流も活発化した。次のイヴァン四世は専制を志向した特殊な皇帝だったがカザン・ハン国を制服し、タタール人貴族たちを従属させた。しかしイヴァン四世の子は世継ぎを残さないままなくなりリューリク朝は途絶えた。

第二章「ロマノフ王朝の誕生」

 リューリク朝断絶による混乱から始まり、1612年ゼムスキー・ソボールという全国会議が開かれ波乱があったもののミハイル・ロマノフが選出される。戦乱と混乱の時代には国民の支持が必要でゼムスキー・ソボールは毎年開催された。ポーランドとの和解が成立しミハイルの父フィラレートが帰国するとゼムスキー・ソボールは開催されなくなる。新軍が結成され西部の国境の町を取り戻そうとポーランドと戦闘になるがその中でフィラレートは命を落とし戦いにも敗北する。敗北の直接の原因がタタール人の侵入との知らせにより士族が戦線を離脱したことだった。これによりロシアの万里の長城であるベルゴロド線が20年かけて建設された。ミハイルがなくなり子のアレクセイが後を継ぐ。すぐに税制改革に反対した国民の一揆により改革を主導していた寵臣モロゾフの更迭を余儀なくされる。同時に1648年にゼムスキー・ソボールが開催され都市と農村の再編を促した。農民は移転の自由があったが士族には不利なものだったため、士族は移転の自由の禁止や不法な移転を取り締まりを認めさせ最終的には農奴が成立した。この農民問題が解決されたことと、士族の役割の変化と、都市民の中の富裕層が生まれ、ゼムスキー・ソボールも開催されなくなった。17世紀後半の軍政改革により士族的は地方をまとめる騎兵軍から将校になることで地方との関係が薄れ、地方はモスクワから派遣される地方長官による統治に置き換わった。貴族会議は残っていたものの人数が増し形式化し、アレクセイは専制君主として国を治める。
 ロシアが正教の正当性をコンスタンティノープルから引き継ぐという重圧からキリスト教の形式を正すことになって行ったが、土着の宗教形式を弾圧した徹底的なものだった。ある修道院が蜂起して軍と戦闘が行われた。また古い儀式を守り集団自決をした地方もあった。地方ではこの強引なキリスト教化に加えて地方長官の不正も重なり、1670年にコサックを主体としたラージン軍の反乱が起こるが政府軍に倒される。

第三章「ピョートル大帝の革命」

 1676年にアレクセイが亡くなるとアレクセイが再婚したナルイシュキナ家の子供として生まれたピョートルは後継者争いに巻き込まれるが、正妻の息子フョードルが亡くなり正妻の娘ソフィアをおいやり最終的に実権を手にする。軍事に興味があったピョートルは一度は失敗したものの1696年にオスマンの要塞アゾフを落とすことに成功する。1697年から250人を連れて大使節団をヨーロッパに送り出す。ただしピョートル自身もコッソリと入っていた。アムステルダムで船大工として働き、ロンドンに移動し造船所やその他博物館などを見学したり買い物をしたりして、ウイーンを訪れ、一揆の知らせを受け帰国する。その後、北方同盟で対スウェーデンの準備を整え宣戦布告するものの若いカール12世の奇襲を受け初戦で大敗北を喫した。カールはポーランドに向かい7年を費やし傀儡政権を建ててからロシアとウクライナで対峙する。7年の準備期間も幸いし、ウクライナの裏切りがあったものの首尾よく処理し、スウェーデン軍を全滅させる。そこでバルト三国を手に入れる。ピョートルの時代は戦争の連続だったために村単位の徴兵制や貴族の軍人化、人頭税の導入などを中央集権化が進められる。また強引なサンクト・ペテルブルグの建設、参議会の発足、教会の従属化、バルト海貿易ルートの開拓などが行われた。世継ぎがない状態で世を去る。ピョートルの時代はロシア人にもっとも誇りを感じる時代という。

第四章「女帝の世紀」

 まずピョートルの側近のメーンシコフが擁立された皇帝を介して支配するようになるが反発を買いすぐに終わる。名門貴族ドルゴルキーも同様に支配を試みるが最終的には失敗する。アンナの次にエリザヴェータが実権を握るが、跡継ぎとしてピョートル大帝の孫のペーターがエカテリーナ二世を妻とする。ピョートルはドイツ贔屓でクーデターで失脚させられ、皇后が帝位につく。コサックの反乱があり何とか鎮圧したが、再来を防ぐために地方の強化を急ぎ、県や群を増やして発展を促した。ポーランド分割に関わり、その後クリミアを併合し、クリミア視察旅行にも出かける。エカテリーナ二世のあとは息子のパーヴェルが継ぐが反発を買いクーデターで殺害される。
 第五章「ツァーリたちの試練」ではナポレオンの進軍からクリミア戦争の敗北までをさらう。

第五章「ツァーリたちの試練」

 即位したパーヴェルの子であるアレクサンドル1世は初期はリベラルな思想を持っていたが、統治の基盤を固めるために保守的な思想を採用する。ナポレオンとの戦いでは初戦では破れ、プロイセンとのイエナの会戦で対照しプロイセンと和平を結ぶ。ナポレオンのモスクワ遠征に備える中、1812年に両軍は動き始める。短期決戦を望んだナポレオンに対してロシアは後退し一度対決するが再度後退する。ついにモスクワからも後退し住民も避難する。ナポレオンが入ったモスクワが蛻の殻で、その後数カ所で火の手が上がり五日間燃え続け3分の2が灰になり、ナポレオン軍は焼け野原への野営を余儀なくされる。さらにゲリラ的な攻撃により今度はナポレオン軍が退却を余儀なくされるが、飢えと冬将軍で兵を減らす。最後はべレンジ川渡りでロシア軍の攻撃によりナポレオン軍は壊滅する。ナポレオン失脚の立役者となったアレクサンドルはウィーン会議をリードしてポーランド王国とフィンランド大公国を統治下においた。
 そのアレクサンドルは1825年の初めに48歳の若さで亡くなる。子の後継者がいなかったため生前に継承者を指名していたが本人に知らされていなかったために混乱があったが、結局は指名どおりにニコライが継承する。立憲制を導入させようという若い貴族将校たちは目論んで近衛軍に皇帝への誓いを拒否させようとしたがうまく行かず、軍が蜂起軍に一斉射撃をして56人が亡くなることとなり特別法廷では121名がシベリア流刑になった。ニコライは即位とともに検閲など治安の強化や専制肯定の教育・国歌の整備も進める。インテリの間ではロシアの後進性の優位という議論からビザンツからロシアが受け入れたものは愛と自由と真理で結ばれた共同体の精神だという議論につながる。そこからゲルツェンは共同体的社会主義の思想を見出す。
 貴族に不信感を強めたニコライは官僚の拡充を図り人数としても5倍以上になる。またピョートル時代からの伝統のヨーロッパの文化と技術に明るい人の東洋を進めた結果、30〜50%がドイツバルト系が占めた。経済方面ではモスクワでの起業や鉄道の導入が行われた。1843年から6年をかけてモスクワーペテルブルグの650キロが完成し、その効用が明らかになり1861年には1500キロに拡張している。農奴問題。対外政策についてはポーランドの憲法と軍を廃止し、ハンガリー革命を鎮圧したり強硬に対応した。エカテリーナ2世の時代に獲得した黒海の通商権を巡って、イギリスとフランスと対立し、クリミア戦争に発展する。ロシアの帆船は最新の蒸気船にはかなわず、一年近くの攻防で50万人を失い敗北する。ニコライはその最中に亡くなる。またこの戦争では徴兵制の他に国民義勇軍を募集したが応募した者の家族が開放されるという噂が広まり志願が増えて領主や地方当局との衝突が各地で発生した。ニコライの時代に進捗がなかった農奴問題が、クリミア戦争で顕著化した。

第六章「近代化のジレンマ」

 リベラルな思想を持ったアレクサンドル二世は農奴解放は待ったなしと1861年に農奴解放令に著名した。人格については無償、土地に着いたは有償とされて、結婚、裁判、売買などについて自由が与えられた一方、土地については国がお金を貸し付け領主から土地を買い、農民は国に対し分割ローンで返済する形となった。貸付は村単位で行われたので制限はあったが10年後には農民の3分の2は土地を買い戻した。一方で領主である地方貴族からは反感を買った。その他では情報公開、軍制改革、地方自治制度の整備を進めた。一方でポーランドの民族解放の蜂起には強硬に対応した。その最中1866年に銃撃されたこともあり、リベラル路線から治安への強化にシフトしていく。
 地方自治組織ゼムストヴォでは教育、道路、保険、医療などで成果を上げて、医者や教師の数は増えた。ゼムストヴォで活動する人々には聖職者が多かった。1874年夏頃に技師・医者・教師などインテリたちが農村に入って革命と社会主義について宣伝を初めたが、農民には理解されず政府には厳しく取り締まり1500人の逮捕者が出て失敗に終わった。二年後にこの運動を引き継いだ若者は自らをナロードニキと名乗った。この組織は三年後に分裂したが、皇帝暗殺によって政治革命を目指す組織「人民の意志」はが生まれた。またこの運動には女性が15%ほど占めていて女子の高等教育が西欧よりも先進的であったという背景がある。1870年代は異常な社会的緊張につつまれていたが、78年には市長狙撃事件がおこる。皇帝暗殺も79年から二年間で7回も暗殺未遂事件に遭遇したが、1802年には遂に「人民の意志」党員に狙撃され絶命する。彼の子供アレクサンドル三世が即位して事態の収集にあたる。人民の意志の関係者6人が公開処刑されるとともに大学の自治の制限や高等女学院の閉鎖などの措置がとられ検閲も強化された。そんな中でアレクサンドル三世の暗殺未遂事件がおき10月革命の指導者レーニンの兄であった。皇帝暗殺に関与した組織にユダヤ人がいたと公表したあとからユダヤ人攻撃が増えた。ウクライナでは血なまぐさい殺戮を引き起こした。また地方を活性化したゼムストヴォも制限され地方司政官により社会の引き締めが図られた。
 農奴解放は専有農民を使っていた工場では一時的な停滞をもたらした。1860年代後半から工業化が本格化し、鉄道は65年に3800キロだった鉄道が83年には24000キロに達した。また65年に3万人だった民間労働者は四半世紀語には25万人に達した。また農奴解放は出稼ぎ農民を生んだが、彼らは都市に住まずに夏には農村に帰った。その動きは家族制度に影響を与え、家父長制の大家族から核家族に変化していった。モスクワは商人の街だったが敬虔な正教徒でだったので寄進や寄付などを積極的に行った。貴族は資本家的経営者になれたものは一握りで中小の貴族は雇用などで細々と農業を続けた。また貴族から軍人や官僚になる特別な近道も失い都市で専門職業人として暮らした。

第七章「拡大する植民地帝国」

 中央アジア・極東への帝国の拡大はカフカス地方への拡大から始まる。エカテリーナ二世のころからクリミアに続いてカフカース地方への侵略を進めるがイスラム教徒の山岳民族の抵抗が終わることはなかった。1834年に宗教指導者になったシャミーリのもとで25年に渡る抵抗が続いたが1857年の総攻撃によって遂にカフカースを平定する。アゼルバイジャンはイランと二分するがバクーで石油産業が栄える。
 中央アジアにも進出し1847年にカザフスタンを併合する。1881年には中央アジアを制圧した。中央アジアの綿花栽培が鉄道と結びつき発展し、アメリカの南北戦争で暴騰した綿花の供給源になった。シベリアにも植民が進み10人に9人だった先住民が1905年には10人に9人がロシア人になった。イルクーツクの商人は中国との貿易で茶の文化をロシアに広めた。1891年にはシベリア鉄道が着工され1901年にはバイカル湖を船で渡るがモスクワーウラジオストークを13人で結ぶ鉄道が完成する。政府は移民を促すために海路を利用すると共に税金の免除や移住費を負担するなど積極的に対応した。

第八章「戦争、革命、そして帝政の最期」

 ロマノフ王朝最後の皇帝であるニコライ二世は1890年に世界各国をめぐる旅に出たが日本で刀で襲われ日本での予定を打ち切り、シベリアを数カ所回り帰途につく。その後にアレクサンドル三世が倒れると皇帝を継ぎ、すぐに結婚する。経済政策では1890年代はヴィッテを頼るが、工業化は農業の衰退を促し、町に浮浪者や乞食が溢れたことからヴィッテを解任する。そんな中でマルクス主義が広まっていくが、1903年のユダヤ人が殺害され家が破壊された事件もあり、帝政に反感を持ったユダヤ人がマルクス主義の活動に参加するようになる。
 日露戦争が開始される中で教会司祭に率いられた嘆願書をもったデモ隊が武力で鎮圧される血の日曜日事件が起こり、ニコライ二世のイメージが悪化する。日露戦争は日本海海戦で敗北し戦況が決定的になった。講和はヴィッテが主導しサハリンの半分を割譲するという小さな損害に抑えた。反専制の流れは止まらず国会開設のために選挙が行われるが皇帝側は第二の議会を作って対抗する。農業の生産性低下に対応するためにストルイピンは一揆の主体である共同体の解体と、自主性を引き出す個人農業の推進のために1906年に個人の私有化を認める土地改革が行われた。彼は5年後に銃撃され死ぬ。
 ニコライ二世の即位以来、ロシアの近代化は進んでおり穀物輸出も世界一で工業生産も4倍になり、文化的にも各方面で逸材が活躍した。そんな中でロマノフ朝300年記念祭が行われたが、1914年には第一次大戦が始まりニコライ二世は総動員令を発するが物資の不足になやませれる。一般市民にも大きな影響が出て配給制が敷かれる。1917年に女性労働者の労働に対するデモが反皇帝デモになり再び軍による鎮圧を試みて150人以上が倒れるがこれが労働者代表による臨時政府樹立の革命につながりニコライが退位しロマノフ王朝が終わる。

第九章「王朝なき帝国」

 47際のレーニンが帰国して土地を国有化して農民に委ねるボリシェヴィキ革命を始める。土地に関する布告が出て10月革命が達成された。穀物供給を拒否した共同体の富裕農民たちには労働者舞台を差し向けて強制的に挑発をした。列強の軍事干渉も始まる。内戦になりつつある。新政府首脳は皇帝一家を銃殺した。赤軍が志願制で結成されたがドイツ軍の信仰が始まると徴兵制になり、54万人に達する。レーニン自身も標的になり反革命の白軍もモスクワに迫り農民軍でかろうじて防いでいた。1920年末には内戦は落ち着いた。一方で国外脱出する文化的エリートは150万人に達した。またこの混乱の中でも共産主義の理想が追求され、計画経済も開始される。ソヴィエトが連邦化して参加する国を増やした。
 レーニンは参加国の平等を重視したが後を継いだスターリンは中央集権的な体制を目指した。工業製品輸入のために穀物輸出を増やしたが、国内の穀物は少なく穀物危機がおきた。これを解決するために集団農場により農民を拘束し生産性をあげようとした。また大学も教育を制限され、教会の文化も破壊され修道院や聖堂も閉鎖された。政治面では反対派や反対派と目される人が4万人以上も半数が逮捕され銃殺され大テロルと呼ばれる事態を引き起こした。1941年にナチスドイツがレニングラードを包囲したが二年間耐え、最期にはベルリンに入りナチスドイツを破ったが、2700万人という大量の犠牲を出した。
 1952年にスターリンが倒れると、ウクライナ生まれのフルシチョフは頭角を表し、スターリン批判を行い大テロルで標的となった人の名誉回復を行った。1957年には人工衛星の打ち上げ成功で世界を驚かすできこともあったが、アメリカには生活水準は及ばず生産力で追いつこうと七カ年計画を策定した。穀物生産もあげようとするがうまく行かず1964年に職を解かれる。ブレジネフが第一書記になっても穀物生産はアメリカの三分の一で、人々の無気力・無関心やアルコール依存による労働規律の低下などが顕著化してきた。1980年にオリンピックが華々しく開催されたものの事態は好転せず1982年にブレジネフが亡くなる。短命政権が続いた後に1985年にコルホーズ農家で生まれたゴルバチョフが党書記長となり立て直しと情報公開を推進する。1986年にはチェルノブイリの原発事故が起こる。社会の民主化を進め1988年には宗教政策を改め、過去の政権の宗教政策の誤りを認めて千年祭を境に信仰が公然となった。経済が混乱し貧しいままの15の共和国ではゴルバチョフ批判があり独立の動きがあった。1991年クーデター騒ぎがあり12月にはゴルバチョフは職を辞してソヴィエト連邦は終了した。

「結びに変えて」ではいくつかのポイントをさらう。まず社会と民衆によりフォーカスして書いたこと、ロシアの拡大政策により200もの民族がいた多民族国家であったこと、国家の中枢には非ロシア人が少なくなかったこと、植民政策により人口圧がなく農業革命が生まれなかったこと。筆者は、欧米と比べてタタールのくびきによる都市の衰退によって都市文化が育まれなかったと推測する。

気になったポイント

 まず確認できたのはロシアのもとのキエフ王国が交易を得意とするノルマン人由来だったことである。しかしタタール人のキエフ攻撃でその文化は失われてしまったのかもしれない。そしてタタール人を防ぐためのベルゴロド線はロシアの万里の長城と書かれていたが、騎馬民族対策で東西に壁があったのは興味深い。

 士族統治からの中央政府の地方長官による統治へ転換が描かれているのは興味深かった。どの帝国でも同じような地方vs中央のような構図があり、中央集権化していくのは難しいと感じた。

 ノーベル賞のノーベル家はダイナマイトを開発した一人の人がいたのだと思っていたが、ロシアの油田事業に参入して技術的に様々な新しい方法を取り入れつつ利益を上げていたのを初めて知った。科学的技術的な視点と商業的な才覚をもった類稀なる一族だったのだと気づく。

 フランス革命も大変な犠牲を出したが、ロシアの共産主義革命も死亡者数だけでなく文化的破壊も含めて甚大な犠牲を出したのだとわかる。ピョートル大帝の革命の方は、明治維新と似ているように感じたが、犠牲がすくなく済んでいる。革命というよりも維新だったのかという印象。

最後に

 ロシアというと全体主義的で領土を拡大していった帝国というイメージがあったが、リベラルな思想をもった皇帝などによってリベラル方面にも改革がなされていた時期があったことなどを知ることができて有益だった。タタール人の攻撃の教訓から防衛を軸としている国家運営というのは理解できるが、それだけで植民国家のすべてを理由づけるのも少し無理があるとは思う。とはいえ中国もロシアも長城を築くほどタタール人に悩まされていたのは同じである。中国もどちらかというと全体主義的だが内部が他民族でないのはロシアとは違うと感じた。

 まだまだ理解ができないことがたくさんあるがロシアについて初期から最近までの歴史を皇帝だけでなく民衆などの反動なども含めてある程度みることができたのは貴重だった。ロシアについて理解したい人にはおすすめの一冊です!

イタリア海洋都市の精神(興亡の世界史 08)

2008 陣内 秀信 筑摩書房

ローマ人の物語も読み終わったので、イタリアも読んでも良いかなと思って、手にとった。

 本書はイタリアの海洋都市、ヴェネツィア、アマルフィ、ピサ、ジェノバを都市の建築の観点から読み解く。各都市を歩きまわって建物や広場をつぶさに観察していく手法はまさに観光しているような臨場感があって心地よい。それぞれの都市は国家として西ローマ帝国滅亡以降にゲルマン人などの進出を恐れて、山や湿地に囲まれ海に開けた場所に人々が逃げ込み、主に交易で発展し富を蓄積した。
 また「海から都市を見る」ということもテーマにしていて、海から都市にアプローチしていた当時の人と同じように海上から都市を見ていくことも強調している。たしかに航空機はもちろん陸上交通も今のように堅牢なものでなく、海は国と国を遮るものでなく繋いでいる道だったと考える方が自然だ。

 まずはアドリア海の花嫁・ヴェネツィアの探索から始まる。「水の都」と言われているのはしっていたがラグーナ(潟)の島に作られた街という基本的なことも知らず、地図を見ると本当に島であるのは驚いた。海と近い文化なので本書で触れられている「海との結婚」という土着の海洋信仰についても古代から海洋民族だったように思え、1000年続いたヴェネツィアの基礎を感じた。街の成り立ちやヴェネツィア共和国の発展の説明の中ではオスマン帝国などイスラーム文化圏との交流による文化の影響は強調される。建物にもその影響が確かに残っているのも見て取れる。一方で輸入していたイスラーム圏の工芸品をヴェネツィアで生産できるようになり工芸品の産業も発展した。
 その後ヴェネツィアの中を歩いていく。不思議な形をしたサンマルコ広場、メインストリートのカナル・グランデ、交易の中心になっていたリアルト市場、外国人の交易の拠点であったフォンダコ、ユダヤ人地区のゲットー、造船所のアルセナーレ。それぞれをつぶさに観察していく中で、商売を保護した独特な文化や外国人に寛容な姿勢が垣間見える。

 次は険しい崖がせまる渓谷に作られた都市アマルフィに移る。まずは著者と地元の歴史家ガルガーノ氏との出会いから始まるところが良い。その後5世紀くらいにゲルマン系の異民族から逃れるために街が作り始められ、交易により力をつけ七世紀ごろにナポリ公国から独立すし1000年頃に最大の繁栄を誇り、12世紀前半にノルマン人の攻撃により国家として終わりまでの歴史が語られる。その間に技術にも寄与があり、羅針盤・海法・製紙技術などの改良や普及に貢献した。その後に海中に沈んだかつての防波堤、街に残るフォンダコ、積層的に増築されたアルセナーレなどが語られる。公共エリアでは間口の狭いドゥオモ広場と大聖堂の歴史、船乗りの壊血病予防に使われたレモンの栽培の説明が続く。
 続く低地の商業エリアの説明では中庭を持つ個人邸宅ドムス、高台に立つサンピアジオ教会、アラブ式の風呂、メインストリートと順番にフォーカスされていくが、一階の店舗の上にある住宅へは脇にある階段から入るようになっている構造の説明は立体図もあり分かりやすく非常に興味深かった。脇に入る階段もデザイン的に建物に埋め込まれているようになっているというのも観光にただ行ってもよく分からなかったかもしれない。また積層されていった石造りの建物とその様式によって時代を知ることができるのは驚いた。そして斜面に発達した街を登っていき、テラスのある住宅や渓谷の向かい側の眺望などを紹介していく。最後に現代のまた脚光を浴びているアマルフィの紹介で終わる。

 次は川辺に栄えた海洋都市ピサ。ローマ以前に遡る都市の成り立ち、11世紀には大きく発展し、アラブ勢力・ノルマン勢力やアマルフィと競ったりして、最終的にはジェノバに海戦で敗れ、地中海の覇権を失うまでの歴史をおさらいする。その後、アルノ川沿いのルンガルノを歩き、ヴェネチアに似ている構造や川沿いで船が荷揚げできる構造についても語られる。また建築物に注目すると、徐々に高層化していて搭状住宅と呼ばれる4層5層と高層化した住宅の石とレンガで建てられた住宅や、メディチ家に支配されていた時代の新都市リヴォルノや造船所がある。運河沿いのルンガルノは機能が変わりパラツィオが並ぶようになる。最後に今も憩いの場として利用されているアルノ川と、守護聖人聖ラニエリの宵祭りに触れて終わる。

 最後の都市はコロンブスを排出した都市ジェノヴァである。港町ジェノヴァを研究するポレッジ教授・ジェノヴァの都市計画局長を努めていたガブリエッリ教授との出会いから始まり、カステッロ地区のジェノヴァ大学から見ていく。廃墟となっていた地区を再生するために大学の建築学部を移転するという発想は驚かされる。海に張り出して市庁舎として建設されたパラッツォ・サン・ジョルジュの中を見学する。ジェノバの歴史を簡単にさらう。十字軍での活躍でアンティオキアに居留地を得たジェノヴァは、地中海の交易を大きく伸ばし、協力関係にあったピサを打ち破り繁栄をしていったが、ヴェネチアとの抗争を繰り返しコンスタンチノープルが陥落して衰退していったが、カトリック世界のメイン銀行として金融業で生きながらえ、最終的にはサヴォイヤ王国に組み込まれる。
 港に歩いていくとポルティコと呼ばれるアーケードのある建物が800メートルも続き小さな店舗が集まる。建物の上部は住宅になっていて搭状住宅として建物が高く城壁の役割をしていたという合理性には舌を巻く。ポルティコには現在も魚・ラジオ・コーヒー・鍵・携帯電話など様々な店舗があるが、かつてはあらゆるものが手に入ったという。過去の桟橋が発掘されたり、港の入口を示す灯台も再建されり、歴史を重視する姿勢が見られる。世界文化遺産に登録された高台のパラツィオと歴史的な建造物を活用しつつ再生が進む古い港を見て、ジェノヴァを後にする。その後ヴィーナスを祀るジェノヴァの要塞都市ポルトヴェーネレにて、海沿いに要塞化のために建てられた搭状住宅を見る。

 最後は4都市の衛生都市を回る。1つ目はイタリアのプーリア地方のガッリーポリ。古代ギリシアの衛星都市であったが、17~18世紀にはオリーブオイルの生産で富を築いた。城壁に守られた迷宮的な都市には富を築いた資産家が建てた格調高いパラッツォが特徴的だ。2つ目はアマルフィ・ヴェネツィアとも深い関係があるモノーポリ。アマルフィ人が建てた教会やヴェネツィア人が作ったカフェなどがあり、マリア信仰が深く、聖母マリアが海から到着する祭りもある。ギリシアに移動して3つ目の都市はヴェネツィア時代はレパントと呼ばれていナルパクトゥスで、ヴェネツィア人が作った旧港がある。4つ目の都市ナフプリオンも古代からの歴史があるがヴェネツィアやトルコに侵略され高台には要塞がある。その後クレタ島の2都市ハニア・イラクリオンでヴェネツィア時代の足跡を追う。 

 研究者は文献を追ったりするタイプと実地の調査をするタイプの2種類がいて、自分は現地に赴くタイプの方が圧倒的に好きだが、著者は実地の調査をするタイプで各章とも臨場感があって非常に楽しかった。地元の人とのつながりやお宅に訪問したりと貴重な体験が綴られている。そこまでできなくても行って見てみたい。どの都市にもとにかく行きたくなる!各都市も自治を失ったりもしているが、人や文化が途切れたわけではなく、その中でも発展を続けた様子も描かれていて心強い。ヴェネチアやアマルフィも今も発展を続けているに違いないが、どの都市も歴史的な事物を取り入れながら発展していってほしい。
 仁和寺にある法師にならないように、イタリア旅行の前に読んでおいた方が良い一冊かもしれないです!

女の子だから、男の子だからをなくす本

2021 エトセトラブックス ユン・ウンジュ

 娘がいると女性の制約は気にあるので子供にも読んでもらいたくて買ってみた。男女にまつわる社会規範について可視化して変えていこうという韓国の書籍の翻訳。

本の構成

 子どもたちに向けて書かれている。「女の子たちへ」「男の子たちへ」で社会規範などについて、その後、「男女の職業」や「家の中の男女の役割分担」「性的指向」についても広く触れられている。子供にも分かりやすいように漫画のような特徴的な絵柄の挿絵が多く書かれている。

ポイント

 基本的なスタンスとして社会を変えていこう!という姿勢がある。変だと感じたことには「なんで」と聞くとか、「いいえ」「イヤです」と言うとか、「ケンカをおそれないで」、などのNOというメッセージを伝えていこうと呼びかけている。

 この姿勢は非常に難しいけど大切だと思う。やはり社会に対してNOと言わないと何も変わらないからだ。問題はオフィシャルにケンカしようとすると、訴訟・裁判ということになるがお金がかかる。そうすると強いものが勝ってしまう。結局、弱いものが戦うこと、そして勝つことには大きな障害がある。

最後に

 家庭内の男女の役割分担にも触れていた。まず、女性ばかりやっているようであれば、男性もやろうと呼びかけていた。私の意見としては、もし仕事を理由にやらない男性がいたら、「仕事ができる人は家事もうまくできる」と伝えたい。自分(男)の方が得意であるし時間的に可能なので、自分が家事や育児、学校関係も回している。それに加えて、最近思うのは家庭内の仕事も実は誰にでもできる簡単なものではないのでは?ということで、男女ともに家事が難しいと感じる人もいると思う。
 もう一つ気になるのは韓国では2015年から新しいフェミニズム運動が始まっていると書いてあったが、それと同期したように韓国の出生率が下がっていることである。サムスンでは子供の大学費用の100%が補助される制度があると聞いたが、それでも経済的なことやその他の様々な原因はあるとは思う。私は男女の平等・公平や社会的な抑圧の減少を切に願っているが、サピエンス全史で提示されているように個人が安寧に生きるのと、人類の発展に相反する関係があるかもしれない。とはいえ韓国の女性の地位向上が著しいとも感じない。最近も韓国にも行って人とも話したが、何か人々が抑圧されているようにも感じる。一方で台湾は抑圧が低く高齢の女性がミニスカートで闊歩していて社会規範の緩さは低いように感じる。とはいえ、ここも出生率は下がっている。占いで結婚の相手や時期なども決める社会だからかもしれないが。
 女の子が仮面ライダーを見て、男の子がプリキュアを見たら、男女の恋愛は成立するのか?と言っていた人がいたが、社会規範が男子->女子、女子->男子のプロトコルを作っている可能性もある。個人的にはこういうのは嫌いだが、このプロトコルを失うとコミュニケーションが高度になるのではないかとも感じる。

 娘も読んでくれたのでくれたので、特に女の子にはおすすめかも。いろいろ考えるキッカケにもあるし、子供と話し合うキッカケにもなると思う。名誉男性を目指している人や、20代を気持ち悪いオジサンに仕えつつ乗り切って、マッチョな男を捕まえて結婚して、家事育児を手伝わない旦那に文句を言いながら、楽しく暮らしたい人は読まなくて良いかもしれません。

オスマン帝国500年の平和(興亡の世界史 10)

2008 講談社 林 佳世子

私の世代だと”オスマン・トルコ”には馴染みがあるが、”オスマン帝国”という響きには馴染みがない。”トルコ”と付くと見えなくなるものがあると筆者は説く。この国はトルコではなく「何人の国でもない」帝国であり、「イスラム帝国ではない」でもないと。この自称「オスマン家の国」の興亡を描いた書籍である。

「イスタンブールの陥落」を読み終わり、この帝国がコンスタンティノープルを征服し、あのローマ帝国に続くビザンツ帝国の1000年の歴史に終止符を打ったのだ。その時のスルタンであったメフメト2世は五つの言語を操るわずか21歳の青年であった。オスマン帝国がどのように生まれてどのように発展していったのか?その強さに興味が沸々と湧いてきて、本書を手に取った。

本の構成

著者は現在トルコがあるアナトリアの状況から説明を始め、一地方豪族だったオスマン家からメフメト2世の親のムラト2世までどのよう周りの部族を統一していったかを解説する。その後、スルタンによる征服の時代がはじまり、最大の領土を迎えるスレイマン1世の時代まで続く。そこで法や世論についての話を挟み、オスマン官僚による支配の時代への変遷を明らかにしていく。その後、オスマン社会の農民や商人の生態、異教徒たちの生態、女性や詩人などに触れた後に、国際情勢と国内の変遷、さまざまな帝国内の問題と近代国家への対応と限界を描いていく。

帝国の歴史に加えて、その統合の方法と文化や他宗教・女性についても触れていて、オスマン帝国のありようやシステムの変遷がよく理解できた。文化財や資料の写真も随所に折り挟まれ、地図やシステムを説明した図などがありより楽しみながら読み進めることができた。先のメフメト2世に興味があったが、欧州に脅威を与えて知名度の高いスレイマン1世に多くのページが割かれていた。

気になったポイント1 ティマール制の変遷

興味深かったのは国家を統合する仕組みとして在郷騎士たちを取り込むためのティマール制だ。日本の戦国時代に似ている気がするが、領地とそこに紐づく税収を分配して、それと引き換えに領地の管理と軍役を課せられる。しかし時代が進み火器の導入に伴い、在郷騎士の重要度が低下してくる。それと共に徴税請負制が広がり、システマチックに徴税が行われるようになり中央にお金が集まる。戦力も在郷騎士から常備軍に100年かけて徐々に移行していった。また徴税権の売買が起こり、富が偏在していく過程で官僚組織やイエニチェリの弱体化が起こっていった。

筆者はこの徴税システムの移行を、戦費で膨らんだ財政赤字を解消するための「偉業」として、好意的に官僚の見えない手柄と見ている。一方で在郷騎士の力が落ちてくるのは地方の経済力の低下を招き、そこに住む農民などにも文化的経済的な影響があったのではないか?と感じてしまう。現在の日本が抱える富の偏在と、企業という中間組織の力の低下、地方の疲弊などを見ていると他人事ではない。官僚と結びついた大商人(グローバリスト)が国家のシステムを変えていったのではないかと考えてしまう。この自然に生まれてくる富の偏在をどう抑えていくかが国家経営の肝であるように感じる。その辺りは別に勉強を進めたい。

気になったポイント2 「何人の国でもない」オスマン帝国

「イスラム帝国ではない」オスマン帝国についてはイスラム法の中にスルタン法を位置付け、政府・税制・軍・非イスラム教徒の処遇などが明文化されていたと説明されている。もう一つの「何人の国でもない」オスマン帝国だが、章が設けられるわけではなく、大宰相にどのくらい多様性があったのかなど客観的なデータなどは示されていない。一方で人材の登用などは固定的でなく、能力のある人が出世できたというのは理解できた。それが「何人の国でもない」という多様性流動性を支えていたのではないかと感じた。以下は印象的な文章だった。

トルコでは、すべての人がうまれつきもつ転職や人生の幸福の実現を、自分の努力によっている。スルタンの素で最高のポストを得ているものは、しばしば、羊飼いや牧夫の子であったりする。彼らは、その生まれを恥じることなく、むしろ自慢の種にする。祖先や偶然の出自から受け継いだものが少なければ少ないほど、彼らの感じる誇りは大きくなるのである。

p.122 パプスブルグ家のオスマン大使ビュスペックの書簡の一部

最後に

筆者の一番言いたいことはタイトルにある「500年の平和」であるはずである。「『何人の国』でもなかったオスマン帝国のあとには、『民族の時代』が訪れた」とあるが、民族運動の中で統合されていた地域は国民国家として独立し、最後に残ったトルコも国民国家となっていく。この異民族支配から独立を果たした「近代化」の200年の過程でバルカンで流された血はいかほどか。民族単位の国ができあがっているか。バルカンはアナトリアは平和なのか。筆者は民族の時代の中で否定されてきたオスマン帝国時代をバイアスなく位置付けようと本書を締めている。

国民国家の理想に侵されている人にはぜひ読んでほしい。私はトルコ建国の父と呼ばれているケマルアタチュルクを素晴らしい人と見ていたが、どうもそんな簡単なものではないと変化した。最新のオスマン帝国の研究にもぜひ触れてみたいと思う一冊だった。

レパントの海戦

1991 新潮文庫 塩野 七生

塩野七生の海鮮三部作の三部目はレパントの海戦である。歴史に疎い私は名前はきいたことはあったが、それがどんなものだか分かっていなかった。キリスト教がトルコ(オスマン帝国)に勝った海戦。

本の構成

 1571年のレパントの海戦に向かって、年を追って進んでいくが、1569年のヴェネチアから物語が始まる。キプロス島での駐在の任務が終わりヴェネチアに帰ってきたバルバリーゴはしばし腰を落ち着ける。また同じ時分、コンスタンティノープルに駐在するバルバロは大使として日々トルコとの連絡を続けていた。キプロス島にトルコを襲撃する聖ヨハネ騎士団の船が寄港すると難癖をつけて、キプロス島奪還に向けて動き出そうとしており、バルバロは本国ヴェネチア共和国に黄色信号を送る。またローマにいるソランツォはローマ法王ピオ五世をキリスト教諸国の連合艦隊を編成を呼びかけるための懐柔工作をして、ついに1570年に急ごしらえの連合軍ができる。しかし嵐やジェノバ海賊のドーリアなどの積極的でない姿勢から、キプロス島でのトルコ進行が始まっているのにも関わらず、その年はついに何もせずに解散する。
 そして1571年である。ヴェネチア海軍の総司令官にバルバリーゴが任命され、ローマでも法王の要請で今年も連合軍の編成された。編成軍の総司令官としてはスペインはドーリアを推したが、ヴェネチアは反対し、最終的にはスペインのフェリペ二世の腹違いの弟、ドン・ホワンという謎の人物で妥協した。しかしなかなか来ない。彼はジェノバで足止めされた後、ナポリで足止めされ、シチリアのメッシーナに来たのが8月。さっそうと入港した金髪の26歳のドン・ホワンは歓迎される。スペイン側はアフリカの海賊退治に向かわせたいという意向があったが、偵察戦の情報でトルコ船が向かうレパントに向かうことが遂に決定され、9月16日に出港することも決まる。途中で嵐に見舞われ、コルフ島に一度入港する。
 コルフ島での作戦会議にまたスペインの足止め工作などがあるが何とか10月には出港する。しかし南下中に一隻のガレー船からの情報で、8月24日にすでにキプロス島の主要都市ファマゴスタが陥落していたことを知る。トルコに開城すれば命を助けると言われ開城したファマゴスタの住人たちは全員皆殺しされて、ヴェネチアの武将たちは残忍な方法で殺されていた。艦隊のすべての人達がトルコの蛮行に怒りに震え復讐を誓う。これまでバラバラで遅かった連合艦隊が一つにまとまって、出港の準備を整えた。
 そして1571年10月7日。海軍史上、ガレー船同士の海戦としては、最大の規模の最後の戦闘である「レパントの海戦」の火蓋が切られる。

ポイント

 レパントの海戦の華々しい勝利よりも、その後のスペインの意向でグタグタになった連合艦隊と、それを見限ってトルコと単独講和を結んだヴェネチアの対応が印象的であった。

 小国の生きる道としてはそれが正解なのだろうと思うのと、日本もそのようなバランスをとった外交が正しいのだと思う。最近は地政学の中で外交の話題に触れていると聞いたので、読んでみたい。

最後に

 レパントの海戦の十四年後に日本から天正少年使節がヴィネチアを訪れた。トルコとの講和を結んだ平和の中でヴェネチアの富に目を見張ったという。トルコとの戦闘には勝てなかったが、経済的には勝利していたのだろう。結局、戦闘に勝つかどうかがポイントではないのだと思う。経済的に勝つか負けるかが戦いの分け目なのだろう。経済侵略される日本を悲しく思う。

 政治的攻防も多いいものの、手に汗握る戦闘シーンもある本書。レパントの海戦という歴史的な海戦を感じたい人にはおすすめな小説です。

ロードス島攻防記

1991 新潮社 塩野 七生

 22歳のメフメト2世が1453年のコンスタンティノープルを陥落させてがその後、1480年にメシヒ・パシャにロードス島を攻めさせるが、聖ヨハネ騎士団は守り切った。その70年後、1522年夏である。今度はメフメト2世のひ孫である28歳のスレイマン1世が直々にロードス島を訪れ、戦線を指揮する。様々な小説などになっているロードス島での攻防を小説仕立てにした歴史書籍である。

物語の始まり

 物語は20歳になったばかりで騎士団に入団しているジェノバ出身のアントニオから始まる。彼は古代にはバラの花咲く島として名付けられた楽園のようなロードス島に降り立つ。そこでローマの大貴族である25歳のオルシーニに出会い、交流を深める。それから騎士団の構成や歴史などが語られる。騎士団は徐々にトルコとの戦いに備えていくが、トルコ軍もロードス島に近づいてくる。戦いが始まると、オルシーニはギリシアの下層民に身をやつし敵陣に潜入などをする活躍をする。

 塩野七生の海戦三部作とされている一作目のコンスタンティノープルの陥落では、物語が複数の登場人物の視点から語られるので、ややゴチャゴチャしている感があったのが、本作ではアントニオ一人が全面に出ているのでスッキリと分かりやすかった。

気になったポイント – 技術者魂

 ヴェネチア共和国陸軍の技術将校だったマルティネンゴは1516年になって、クレタ島の城塞総監督としてクレタや周辺地域の城塞の強化と整備に力を注いでいた。そのマルティネンゴをロードス島の聖ヨハネ騎士団の騎士が訪ねて、ロードス島の城塞監督になってもらいたいという騎士団長の意向を伝えた。トルコの攻撃が迫りくる中、東地中海一に堅牢な城塞を強化するという仕事に魅力を見出したマルティネンゴは、国の任務を離れ脱出してロードス島に赴く。
 戦いが始まると、防御側はトルコの大砲を無力化する城壁で応戦するが、攻撃側もそれを打ち破る作を繰り出してくる。また攻撃側は坑道を正確に掘り進める技術を発達させ、地下から攻撃を進めていく。防衛側は城壁の下で爆発する地雷に悩まされるが、マルティネンゴはそれを検知する技術も導入する。しかし戦いが激化する中で、彼は右目を負傷する。それでも病室から城塞監督として戦いに参加し続ける。

 当たり前だが技術というのは目的を達するために使う道具であり、技術以前にマルティネンゴがその目的のために身を粉にして戦う姿は心を打たれた。城塞については、塩野氏の城壁や稜堡(りょうほう)の細かい説明が続いて、コンスタンティノープルと比べてどのような理由で何が違うかというのが解説されていてわかりやすかった。一方で地図が少なくて、どの場所をどの国の騎士団が防衛しているという記述は少し分かりにくかったが、読み終わったあとに巻末に地図があることに気付いた。

気になったポイント – トルコの経済力

 和平の途中でトルコ陣営に赴いたオルシーニは4ヶ月感でトルコ側の4万4千人の戦死者があり、ほぼ同数の病死者と事故死者がいることを知る。砲弾に至っては8万5先発も使っていうことが分かる。

 昔は人というものが今のようにたくさんいなかったと読んだが、現代にしたって万人単位の死者には異常を感じる。普通の戦いであれば大敗だと思う。途方も無い数の人々を動員して死んでも国が崩壊しないというのはトルコの経済力と中央集権的な力であったのか。最終的にはたくさんの人やモノを動員した物量作戦によってトルコは勝てたのを確認できた。トルコというのは近代の消耗戦を戦っていたのかもしれない。

最後に

 最後に聖ヨハネ騎士団のその後について書かれている。現在は独立国であり、現在の77代目の団長の下で、医療活動を続けている。その活動は世界中の赤字に変形十字のしるしを付けた病院や研究所に見ることができ、現代の”騎士たち”が今も活躍しているということである。赤十字の創設などもきっとこのような活動に影響を受けているだろうし、この騎士団が過去のものではなく、今にも繋がっている歴史であるというのには心を打たれた。

 ロードス島の戦いについて知りたい人はもちろん、今も世界で活躍している騎士団の歴史を知りたいという方にもおすすめである。

大日本・満洲帝国の遺産 (興亡の世界史 18)

2010 講談社 姜 尚中,玄 武岩

 少しづつ読み進めている興亡の世界史の中に近代日本を扱ったものがあったので手にとった。満州帝国とその中でつながってくる岸信介氏と朴正煕氏に焦点を当てて解説している。

 折しも孫の安倍晋三氏が銃殺されたのもあり、その祖父を知ることは意味がある。私は消費税を上げた安倍政権にはかなり否定的である。本書の著者たちも韓国系の方々であり大日本帝国を否定的に描いていし、それを率いていた岸信介を否定的に描こうとしているが、私は岸信介に否定的な印象は受けなかったのが正直なところである。

本の構成

 岸信介と朴正煕の生い立ちから始まる。清朝滅亡後に張作霖が日本の支援を受けながら満州は実行支配していたが、張作霖が殺されてしまい。息子の張学良に引き継がれるが彼は国民政府に、(TODO)、をしてしまう。満州を支配したい日本政府は1931年に満洲事変を起こして満州国を建国する。満州国建国の前から日本人を移住させようと夏目漱石に紀行を書かせたりして宣伝するがうまく行かず、植民地の韓国から満州国を成功する土地として移住者を募る。そして朴正煕も軍にはいるため満州国へ移住する。
 建国された満州国は立憲共和制の国だったものの日本の傀儡国であり、日本の官僚たちが送り込まれる。その中の産業部次長に岸信介が名を連ねる。そこで彼は宮崎正義からの着想を経て国家社会主義の実験を主導していく。そして戦後、岸は満州で行った国家社会主義を日本で実行していき、高い経済成長を実現する。
 一方で朴正煕は大統領になり独裁方向に傾いていくが、満州国を真似た国家社会主義や重工業への移行を成し遂げていく。

 どうも話の流れが追いにくいようにも感じた。誰しもが知っているだろうと著者が思うことについてはスッポリと抜けていて、突然に戦後に飛んでいたりする。岸信介が書いた文章などの紹介も多いのでそこは興味深いが初学者へも少し配慮があって良い気がした。

気になったポイント1 国家主導

 満州国での岸信介は国家社会主義の実験を行った。特殊会社法による満州に一業一社の特殊会社を作るとともに、資本を確保するために満州重工業開発株式会社を作るために裏で辣腕を奮ったのが岸信介だった。そして戦後に生き残った彼は、日本で保守合同を経て政権を取り「新長期経済政策」(1957年)を掲げる。それは池田内閣の「所得倍増計画」につながっている。岸は自由化の外圧に巧みに対応しながら、統制を温存してGDP12%の伸びを実現した。

 岸信介はCIAの工作員だったと記録も残っているが、国家社会主義によって日本の高度経済成長の基礎を作り出したというのは知らなかった。これはアメリカには特にプラスになっていないようにも感じるが、どういうことを命令されていたのかは気になるところである。この国家社会主義は今は日本では自由主義によって破壊されているが、特に中国では適用されて発展を支えている。この当時の国家社会主義については宮崎正義の研究があるようなので、勉強していきたい。

気になったポイント2 韓国と満州国の関係

 日本は韓国の経営はうまくできていなかったのか、新天地を求めて韓国全土から満州への移住者が増加していっている。満州での韓国人への圧迫も問題になっている。それもあってか満州国では日本・朝鮮・漢・満州・蒙古の五族融和が掲げられているが、建国で安定してさらに移住者が増加している。

 なぜ韓国の経営がうまく行っていなかったは気になる点である。台湾では日本人が祀られていたりするほど、(全てとは言わないが)一部では慕われていることもある。韓国人の反日はもちろん民族独立の道具として使われているのもあるとは思うが、こういう経営の失敗もあるようにも感じた。このあたりの事情はもう少し知りたいところである。

最後に

 全体的な感想としては、申し訳ないがとにかく読みにくい。何か文章に凄みをだそうとしているのか、鬼胎などのパワーワードが頻出したり、鉤括弧が多用されていたり、「人口に膾炙する」とか2連続で出てきたりしていた。構成ももう少し工夫してほしかったが、何とかそこに耐えられれば岸信介の業績を知ることができるのは良いと思った。朴正煕についてはあまり知識も興味もなかったので、さらっと流してしまったが、知りたい人にとっては有意義な書籍だと思う。

 岸信介が日本再建連盟で出していた5大政策は、真の独立、反共産主義、米アジアとの経済・通商強化、地方復興と中小企業の育成、憲法の改正。憲法の改正についてはどう改正するのかが重要だが、他は特に異論がなく、現在の日本で実行してほしい政策である。このようなことができる政党が出てきてくれることを祈りたい。もちろん祈っているだけでなくて、政治に積極的に関わることは大切だし、投票を超えてボランティアなどもがんばりたい!