“地形と気象”で解く!日本の都市誕生の謎

はじめに、文化の上部構造があり、下部構造には安全、食料、資源、交流の要素がある。そのベースには地形と気象がある。

1奈良盆地、安全、木材エネルギー、水資源→稲作、水運。

2桓武京都、奈良付近は800年までに伐採され尽くされた、疫病、長岡京は小椋池→氾濫、

3京都、30mの高台、淀川水域、街道が集まる、おおさか、山陰、山陽、東海道、中山道、北陸道

4平清盛が神戸、熊野古道、平安京は下水がなく不潔、方丈記で疫病、福原京、清盛は源平の戦いで死ぬが、権力と権威の分離の最初の例

5鎌倉、森と遠浅の海に守られる、頼朝は清盛に敗れ伊豆ヒル小島に流される。ひやま町、湘南ボーイ、都には人が流れ込みスラム化→疫病、鎌倉は盲腸ではない、甲府や高崎、小田原から東北にぬける場合に鎌倉をとおった。三浦半島は全体が港

6福岡、モンゴルを破った、日本人は牛馬を去勢しなかったため、発情期には牛は暴れ出してしまう。そのため車文明を進化させなかった。モンゴル軍が夜に船で寝た理由は藪蚊だとしている。日本の海岸線にはぬかるんだ泥の土地が広がっていて騎馬軍団が活躍できなかった。13世紀にはベトナムがモンゴルに攻められるが返り討ちにしている。これは海の民が味方したからで、日本でも海の民がわざわざモンゴル軍が戦いにくい土地に上陸させているからだ。

7信玄堤

8信長の比叡山

9秀吉の大阪城

10日本初の運が小名木川、日本武尊は国府台にたって西に広がる対岸、江戸一帯を制圧しようとした。源頼朝は国府台に腎を張り、北条氏石見氏が国府台を巡って合戦した、戊辰戦争では旧幕府軍は江戸奪還のために国府台で構えた。昭和には東京防衛のための陸軍砲兵隊の駐屯地になった。1590年に小名木川が建設された運河。船で兵隊を送り込むための運河を高速水路として使って関東一円の湿地帯を制圧した。佃村の漁師を江戸に連れてきて軍事船を漕がせた。

11禿山の関ヶ原、天下分け目の戦いでは退路のない関ヶ原で行われた。各陣営は丘から戦局を見つめていた。現在は木々が茂っていて見通せない。米国の歴史家コンラッド・タットマンはどの時代にどの地方から木材を持ち出していたか、という図では1550年には関西地域では木がなく禿山だった。戦国時代だけではなく明治から昭和にかけても禿山になっていた。京都の比叡山も禿山だった。

12家康、家康は1590年に江戸に入ったが、フィールドワークに徹した。2つの宝物を発見した。一つは利根川の森林であった。もう一つは関東平野を穀倉地帯に転換させる鍵となる地形だった。利根川は関宿の付近の大地で行く手をブロックされていた。家康は関ヶ原の戦い以前から利根川を銚子に向かわせる工事に着手していた。関ヶ原の戦いで中断したが征夷大将軍の称号を受けるとすぐに戻った。

13利根川東遷、下総台地は家康にとって危険な大地で、東北から南下するときにはこの台地を駆け下ってくる。この台地を南下すれば房総半島を抑えられる。日本列島において古代から房総半島は西日本と東北を結ぶ要であった。房総半島には船が接岸できる良港が多くあった。房総半島の南が上総と呼ばれ上がつくのは京都に近い東北の玄関口であったからだ。元々は防衛のために利根川東遷を開始したが、江戸時代を通じて利根川の工事は継続された。川幅が拡幅され、川底が掘り下げられた。不毛の湿地帯が乾田化され、穀倉地帯が誕生した。

14都市を支える水。広重は虎ノ門外あるい坂という絵を描いていて滝が描かれている。これは立派なダムであった。溜池という名前が残っているが貯水池で、江戸市民へ飲料水を提供した。隅田川の水は海水が混ざり飲料水にはならなかった。1590年に神田山から水を引いて飲み水を確保した。日比谷を埋め立ててここに家臣の住居を配置したことは有名だが、その裏で虎ノ門のダム工事が進められていた。飲み水の需要が増えると多摩川から導水する工事が行われ、玉川上水が完成した。溜池の水質は悪化し、不要になり、少しずつ埋め立てられた。現在は東京都は利根川から一日あたり240万m2の水を導水している。

15伊達政宗が作った仙台、311の翌日から仙台市では下水処理場が機能した。理由は仙台市の下水道システムではポンプが使用されていなかったからだ。自然の重力だけで仙台市の汚水は流下していた。伊達政宗は秀吉の大阪に街づくりを学んだ。

16家康の静岡隠居。1607年に江戸から駿府に隠居した。しかし西日本から東へ行く陸路は3本ある。北陸道、東山道(中山道)、東海道。北陸道と東山道は3−4ヶ月雪に閉ざされる。何ヶ月も卓軍が行き来できないような街道は日本列島を統一するにふさわしい街道でではない。東海道が東西を日本を統一する街道であった。その要が駿府であった。さらに防御と攻撃で一級の地形だった。背後は険しい山岳地帯。東西は峠に挟まれている。南の海は当麻な海岸を形成していた。

17堤防、日本人は堤防の中に川を収めて、八岐大蛇と戦ってきた。

18日本堤と墨田堤、隅田川は江戸湾に流れ込んでいたが、中洲の小丘にたつ浅草寺は1000年以上の歴史があった。これは安全な場所という証拠だった。この小丘から堤防を北西に伸ばし、三ノ輪から日暮里へ続く山手の高台に繋げるて、青眼の江戸市街を守る。という日本堤をつくった。1657年には10万人の命を奪った大火事で、抜本的な区画整理を行い、防火帯として広小路を各所に配置した。また隅田川の対岸に武家屋敷を移動して、下総国であった対岸は向島と呼ばれたが、橋をかけ両国橋と呼んだ。これに伴い隅田川の東側を洪水で溢れさせるわけにはいかないので、墨田堤、荒川堤、熊谷堤を建設し、日本堤で河川を囲み現在のダムにあたるシステムを作った。また吉原遊郭を日本堤の近くに移設させ、一年中江戸の男たちが日本堤をあるいて踏み固めさせた。

19明暦火災後の復興事業、ユーラシアの都市は城壁がある、日本の都市には外壁がなかった。木と紙で都市を作っていたので、1657年の振袖火事で10万人の焼死者を出す史上最悪の災害となった。関東大震災6万人、東京大空襲10万人の死者と比べてると悲惨さがわかる。主要な街路は6間(10.9m)だったが9間(16.3m)に拡張された。阪神淡路大震災では延焼と街路幅の検証が行われていたが、4mで90%、6−8mで50%、12mでは延焼がないという結果で、明暦の復興工事はこの結果をさきどりしていた。日本は地球陸面積の0.3%だが巨大地震の20%、活火山10% を受け持っている。災害大国の日本でインフラは重要である。

20日本列島の旅は歩くこと。1982年韓国のいーおりょん先生が「縮み思考の日本人」を出版した。日本人と西欧人を比較した日本人を斬り、中国人韓国人と比較したところ、日本人の縮め文化に着目した。扇子、オートバイ、ウオークマン、電卓、庭園、盆栽、茶室、幕の内弁当、おにぎり、俳句。理由は記していない。ユーラシア大陸では大陸を車で疾走していた。荷物は馬や牛やラクダに乗せて井いた。日本人だけが自分で荷物を背負い歩き続けていた。そのためいかに荷物を小さく軽くするかが重要であった。それを見つけたものは賞賛を浴びた。細工がないものは不細工とされ、詰め込まない人は詰まらない奴と軽蔑された。

21ギルガメッシュ叙事詩は森を守る妖怪を倒し、都市のために森林を伐採するというものである。広重の大はしあたけん夕立では川面を進む筏が描かれている。秩父の山々から切り出した木材が江戸まで運搬されていた。広重の東海道五十三次の33目の二川・猿が馬場では後ろの山は禿山である。26番目の日坂宿の中山峠なども禿山である。今は東海道新幹線から見る山はどこも鬱蒼と緑が広がっているが、当時の東海道筋には鬱蒼とした木々はなく、貧相な植生の禿山だったと考えられる。被疑は燃料だった。天竜川流域の木材も1700年にピークを迎え、その後激減している。後に神戸港に入港した外国人たちは六甲の禿山の凄まじい光景に息を呑んだと伝わっている。あらゆるところで森林は伐採され山の斜面は崩壊し、土石流となって消失していった。1853年ペリーの来航によって化石燃料にであう。森林を消失していた日本にとって黒船はエネルギーの救いの神となった。

番外編、日本の将棋は得意であり的のコマを取ると自軍のコマとして使用できる。その謎に木村義徳9段が挑戦し、盤上戦争ゲームの歴史を紐解いた。

昭和史 1926~1945

平凡社ライブラリー 2009 半藤一利

はじめの章 昭和の根底には”赤い夕陽の満州”があった

1853年にペルリの黒船が来る。近代がはじまって150年。それから3年後、国家建設を懸命に行い植民地にならないようになりました。1965年から国造りを始めて日露戦争に勝って1905年に完成した。その国を1945年には滅ぼす。アメリカに占領されて講和条約の調印を経て新しい国造りを始めたのが1952年。それから40年世界で1位2位の経済大国になり繁栄がはじける。1992年から40年は滅ぼす方向に向かっていっているようだ。
 日露戦争に買った日本は遼東半島を借り受ける。防衛ラインとなり、満州が生命線となる。関東州の旅順・大連二司令部を置いた関東軍が守る。資源を輸入しようと思ったが石油だけはでなかった。人口流出先として満州が重要視された。1914年には第一次世界大戦が始まり、列強の目がアジアから離れた時に中華民国政府に強引な要求を突きつける。反日運動も大きくなる。1926年には中国統一が完成に近づき、1917年にはロシア革命でソビエトで国造りが始まる。1922年にはワシントン海軍軍縮条約、1902年に締結した日米同盟が廃棄された。

第一章 昭和は”陰謀”と”魔法の杖”で開幕した

張作霖を支援して満州の大軍閥として育て、北京政府まで作ってしまい、言うことを聞かなくなる。関東軍が排除しようと列車を爆破する。天皇は陸軍が関与していないか確認するように田中首相に指示するが、ごまかす。そして辞職を求める。天皇は憲法を超えて政治に口を出したことを後悔して、今後は口を出さないことした。君臨するけれど統治せずという立憲君主の立場を取る。沈黙の天皇を作り出す。
 1922年のワシントン軍縮条約については海軍は反対する。それについて統帥権の干犯であると犬養毅や鳩山一郎が国会で言い出し、軍令部の意見に反して海軍省が勝手に調印したと息巻いた。海軍は条約賛成派と強硬派に2つに割れる。両成敗となるが、条約賛成派の海外経験が豊富で世界情勢に明るい秀才たちが海軍をさる。

第二章 昭和がダメになったスタートの満州事変

昭和天皇をとりまく元老、内大臣、侍従長、侍従武官長、宮内大臣は君側の奸と呼ばれる重臣グループ。公家の西園寺公望が唯一人の補佐になり、昭和前期の内閣総理大臣を一人で決めた。内大臣はハンコ持ち。侍従長は相談係。鈴木貫太郎が努めたときには天皇の拝謁スケジュールを管理して、影響力を行使した。
 1929年にウォール街の大暴落に続き、1930年のロンドン軍縮条約で、海軍軍人の整理が始まった。陸軍は機関銃も戦車も列強に劣った。石原莞爾という天才的な軍人が登場し、世界最終戦争論という大構想をまとめた。第一次世界大戦後、世界は平和になったが、列強は次の戦争を始める。最後はソ連、アメリカ、日本が残る。最終戦を前に日本はじっと国力を整えておけば準決勝でアメリカがソ連に勝ち、決勝は日本とアメリカが戦うというもの。日本は満州をしっかり確保し、発展させ国力を養う、中国とは戦わず、日中共同で満州を育てるという構想。1928年に旅順に赴任すると、関東軍満蒙領有計画などを書く。参謀本部は国策として満州に親日政権を樹立を目ざす。マスコミ対策も加味する。
 生命線、二十億の国費、十万の同胞の血などのスローガンが造られ、世論を作っていく。満州で中国の農民と朝鮮人農民が衝突する万宝山事件が起こる。昭和天皇はこの事態を憂慮していた。軍紀を厳正にせよと指示する。関東軍司令部はとどまるようにいわれるが、結局実行し、鉄道が爆発する。余計な攻撃をするなと命令があるが、吉林省に進軍する。国内では新聞は関東軍擁護に回る。天皇は戦争の拡大を認めず、朝鮮軍の越境も認めなかったが、政府は許可する。

第三章 満州国は日本を”栄光ある孤立”に導いた

石原莞爾が作った傀儡政権を作るという方針に沿った。新聞も煽る。満州では戦争が進められ、中国は権力争いに明け暮れていた。天皇は嘆いたが、占領範囲を広げていく。反日運動が広がる。中国は黙っていないし、国際連盟も眉をひそめる。好意的だったアメリカも不審表明をする。目をそらすために上海で事件を起こしたりする。上海を停戦で終わらせて、軍部には不満がたまり、暗殺事件が次々に起こる。
 1932年、5・15事件という犬養首相を暗殺する事件が起こる。そして斎藤誠という海軍大将が総理大臣になる。5・15事件の結果として、日本の政党内閣は尾張、軍人が政治や言論に君臨する時代になる。
 一方では満州国建設が始まっている。ラストエンペラー溥儀が元首に任命されたのち、満州国は独立宣言をする。イギリスのリットン調査団は好意的であったが、満州国から日本の撤退を要求した。1933年、内閣は強硬論が支配して、国際連盟から脱退だと外務大臣などが言い出す。国際連盟は満州国からの撤退韓国を国連で採択。松岡は反対し、脱退に至った。

第四章 軍国主義への道はかく整備されていく

防空訓練なども行われる。陸軍と警察のいざこざがあるが、力は拮抗している。軍部には統制派と皇道派に別れた。皇道派の小畑はソ連脅威論で今のうちに叩く予防戦争論、統制派の永田鉄山はまずは中国を叩く中国一撃論を唱えた。結局永田が勝ち小畑派を駆逐する。陸軍は天皇の軍隊として国家総力戦で戦うという統制国家を作る方向で統一された。
 天皇は国政には口出ししないが、陸海空軍の最高の指揮官であった。天皇機関説というものがあるが天皇は設題なので、天皇の権威と力を利用して国家を運営していくという形になる。言論界も天皇の位置づけについて議論し、天皇陛下が統治し給う国家であるとする。

第五章 二・二六事件の眼目は「宮城占拠計画」にあった

統制はの中でも中堅は憲法を停止して軍部が政治や経済をやるようなことを考えるが、エリート将校はそんなことをしなくても強固な軍事体制国家にすると言う。自由主義を否定した陸軍パンフレットというものが中堅により書かれる。
 1935年から皇道派の動きが明確になり、永田少将を切りつけて即死させるという事件がある。この皇道派の動きが青年将校運動として拡大して、1936年の2・26事件の革命運動につながる。天皇につながる人物を陸軍大臣だけにするという方向にするが、天皇に近しい人が殺されて、天皇はかなり腹を立てた。岡田首相が殺されたが、天皇の命令によって事件をおさめるという方針になった。天皇陛下をおさえる皇道派の動きは天皇陛下の理解をえることができず逆賊となり失敗した。皇道派は2・26事件で壊滅したが、軍部のテロの再発を脅迫の材料とした。
 事件がおさまり、岡田内閣は総辞職して広田弘毅内閣が発足する。この内閣は軍部に従属するような内閣になった。日本とドイツが防共協定を結んだ。これが日独伊三国同盟に繋がっていく。この内閣で北守南進の政策が基準となる。これあアメリカ・イギリスとぶつかるという政策だった。また言論弾圧もした。2・26事件は7月の17名の死刑で終わった。

第六章 日中戦争・旗行列提灯行列の波は続いたが

1936年に毛沢東の中国共産党と蒋介石の国民政府軍の戦いが終わる。軍閥の張学良が裏切り商会石を山上に追い込んで軟禁する西安事件が起こる。これにより対日抗戦が始まる。大日本帝国という呼称が決まる。1937年には国内は不穏な空気がある。盧溝橋事件が起こる。中国から銃弾が打ち込まれたというが、それで牟田口さんは独断で戦闘を始めてしまう。
 大軍が送り込まれて戦線は拡大し、中国軍は当時の首都・南京へ後退し、南京を目指して進撃した。南京戦史では戦闘による中国人死者は三万人、捕虜と一般人の死者はそれぞれ1万五千人ほど。軍紀は緩んでいたよう。石原莞爾は早くやめようと努力する。和平工作は頓挫し、国民政府を相手にせず、という奇怪な声明になる。

第七章 政府も軍部も強気の一点張り、そしてノモンハン

1934年には強硬派グループが穏健派グループの人を追い落とし、中堅クラスが強硬路線を切望する上申書を提出した。ワシントン軍縮条約から脱退が主。パナマ運河を通れない軍艦を作れとの指令が出る。アメリカにすると太平洋と大西洋を行ったり来たりできない。なので、アメリカに負けない。海軍は戦艦がぶつかり合って相手を撃滅するという、日露戦争の日本海海戦を思い描いていた。ワシントン軍縮条約は日本にとって要で日露戦争にも勝てた理由だった日英同盟を破棄したことが大きかった。
 1938年に近衛内閣で国家総動員法ができる。国民を好き放題に徴用でき、賃金を統制でき、物資の生産・配給・消費を制限でき、会社の利益を制限でき、賃金をせいげんできる。国民の権利を政府にゆずるというもの。これは国会で紛糾し、激論を交わした。左翼はこの法案に大賛成だった。国家社会主義的な議論を押し立てていけば資本主義を打倒できると思ったのか。
 1938年に東亜新秩序声明を発表する。これはヒットラーがヨーロッパ新秩序を作るといったことに呼応して、中国を叩き潰すとは言わずに、日本、満州国、汪兆銘政権の中号が仲良く手を結んでアジアに新しい秩序を作るという大名目。この声明でアメリカは硬化した。
 1940年にノモンハンを中心とするホロンバイル草原で大激戦をしてしまった。軍は戦争をして勲章をもらわないと出世しない。関東軍は独自の方針を作った。第23師団が偶発的におきたものを全力で対応していたが、スターリンはドイツと対戦する前に日本を叩きのめした方が良いと考え、これをチャンスとみて、最新鋭の戦車や重砲、飛行機を注ぎ込んできて、凄惨な戦いになり、2万人のうち70%が死傷して師団が消滅した。最前線で戦った連隊長はほとんど戦死あるいは自決だった。圧倒的な火力戦能力が足りないことが分かったが、顧みられなかった。ノモンハンの戦いを指揮したのは服部卓四郎中佐と辻政信少佐だった。二人は左遷されただけで中央に戻った。1944年にサイパンの戦闘で装備が悪いことが分かったが、今からでは間に合わないと服部が語った。

第八章 第二次大戦の勃発があるゆる問題を吹き飛ばした

1939年に平沼内閣が発足する。少し前からドイツから日独伊三国同盟が提案される。陸軍はソ連に対抗するために賛成したが、海軍大臣の米内光政と次官の山本五十六、井上成美がこれに反対した。1.対中国問題で英米との交渉に不利になる。2.日独伊に米英仏が経済的圧迫をしてきたときはどうするのか。3.日ソ戦の場合に独から実質的な援助はない。4.独伊に中国の権益を与える必要がある。海軍はイギリスから多くを学んできた。世論はドイツと日本の気質は似ているから良いのではないかという論調。山本五十六はテロリストに狙われるが、国家の百年の計で死ぬのならそれで良いと日記に残している。
 天津でイギリスが中国の容疑者を匿うという事件が起こる。泥沼の日中戦争の裏にはイギリスがいるとして反英運動に発展する。天皇は抑えようとするものの、新聞は反英の声明をする。イギリスと外務大臣が会談してイギリスが譲歩するが、その途端、アメリカが日米通商航海条約の破棄を通告してきて、はっきりと敵対の意思を表明する。
 1938年にドイツの物理学者オットー・ハーンがウランの核分分裂に成功する。アメリカも研究を始める。一方日本では1939年に零戦が誕生。満蒙に関東軍支援で青少年が送られたり、朝鮮戸籍令改正、国民精神総動員になり、生活刷新案として日常生活も制約される。またスターリンは日本軍総攻撃を命じ、ドイツと協定を結ぶ。三国同盟を推進していた参謀本部は驚く。推進していた平沼内閣は総辞職した。天皇は英米との協調を指示する。
 1939年9月にドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まる。三国同盟、天津事件問題もふっとび、アメリカからの日米通商航海条約の破棄の通告だけ残った。

第九章 なぜ海軍は三国同盟をイエスと言ったか

1940年、陸軍が強くなり議員を除名したり米内内閣を打倒したりする。天皇はこれを憂いた。また近衛内閣になる。カタカナ英語の改正や贅沢は敵だや、生めよ殖やせよとなる。
 ドイツは西部戦線に大攻撃をしかけて本格的な第二次世界大戦になる。英仏連合軍をドーバー海峡にまで追い詰め、イギリスは本国に撤退する。パリも占領される。ヨーロッパ戦争に不関与でアメリカとの関係改善を目指す米内内閣が軍部にとって邪魔だった。近衛は反映米主義者で、三国同盟を結びたかった。外務大臣は強硬な反英米派の松岡が就任する。
 ドイツから特使が来てアメリカのヨーロッパ参戦と日本との戦争を抑止するために三国同盟を推す。御前会議で決まってしまう。理由は海軍が政府に一任し事実上賛成してしまう。理由はアメリカの日米通商航海条約の破棄があり、石油がなくては動けないので、南進しなくてはならない。そうすると対米戦争は必死。あとは軍事予算獲得も理由にあった。山本五十六は「アメリカと衝突する可能性があるが、航空兵力は不足している。条約を結べば資材を失う。これについてどのような計画があるか」聞いたが、無視される。天皇もアメリカから石油が鉄くずの輸出を停止してくることを懸念する。内乱を危惧して了承したことが独白録にある。
 イギリスはチャーチルのもとに団結し、抗戦をはじめる。ヒットラーは英本土上陸作戦を遅らせた。イギリスを空爆するがイギリス空軍にやられる。英国の航空機スピットファイアは性能がよかったのもある。ドイツは英本土上陸作戦を放棄する。

第十章 独ソの政略に振り回されるなか、南進論の大合唱

ベトナムにあるフランスの傀儡政権と交渉し、ハノイ周辺に軍隊を送り込んだ。米英の軍需物資が中国に送られているのを遮断するためにここを抑える必要があった。交渉の途中に銃火を交えてしまい侵略となってしまう。1940年には鉄くずを全面的に輸出禁止にした。海軍は軍艦の比率の関係から1941年には対米戦争をしなくてはならないというようなことを言い出す。山本五十六は好戦的な石川大佐などが戦争へ流行っているのを憂いて進言している。ヒットラー好きの海軍国防政策委員会ができ、南進などの国防政策を牛耳った。
 民衆は困窮し、報道ではABCD包囲陣という言葉が踊る。紀元2600年を祝う祝典をする。元老の西園寺公望がなくなる。1940年の終わりにはアメリカのルーズベルトは明示的に三国同盟を批判した。1941年になると松岡洋右外務大臣は日独伊ソの協定のためヒトラーとスターリンに会うためにベルリンとモスクワを訪問した。ヒトラーはイギリス打倒のためシンガポールの攻撃を勧める。松岡はシンガポールの攻撃はアメリカの参戦を誘発するのでできないと伝える。松岡はドイツびいきになって帰ってきたと天皇が鼻白む。スターリンと松岡もあい日ソ中立条約が調印される。スターリンの期待通り、日本は東南アジアへ進出していく。チャーチルは松岡にイギリスとアメリカが手を組めば日独伊を潰せると書簡を送る。アメリカの諜報機関はスターリンが千島列島を欲していることを察知して、後に対日戦争に使う。
 1941年の6月にはドイツがソ連に進行し、日本の日独伊ソの提携は雲散霧消する。日本は三国同盟を脱退することもできたが、ドイツの有利を信じてそうしなかった。松岡はソ連を攻撃を進言する。

第十一章 四つの御前会議、かくて戦争は決断された

1940年11月ごろアメリカから二人の神父が日米国交打開策を持ってやってきて、首相ともあった。外務省の野村さんがコーデル・ハル国務長官と会い、案を作り日本に送る。近衛首相は決められない人で松岡が帰ってきてから決めようとする。松岡は日ソ中立条約を携えて帰国して、浮かれていて、アメリカの案には見向きもしない。アメリカは日独伊三国同盟からはずれろ、中国および北部仏印からの撤退、満州国もアメリカにも機会均等にしろ、というもの。そんなときにドイツがソ連に侵攻した。
 「大本営政府連絡会議」が開かれ、どうするかを議論したが結論はでない。松岡は直ちにソ連を攻撃を進言したが、木戸は南方の石油、ゴム、鉄を入手するチャンスと捉えていて、代表的な考え方だった。両方の意見を取るということで合意して、1941年7月に第一回の御前会議が開かれた。天皇陛下の前で政府と軍部が議論した結果を報告する。ここで南方進出と対英米戦を辞さないことを表明した。アメリカは1940年10月ごろから日本の外交暗号を解読していて筒抜けだった。そしてアメリカは日本の在米資産を凍結すると発表。イギリス、フィリピン、ニュージーランド、オランダもこれに続く。日本はかまわず南部仏印上陸を開始する。その途端、アメリカは石油の対日輸出を全面禁止する。海軍で1年半、陸軍で1年しか戦えなくなった。永野修身軍令早朝は政府が決めたとし、負けるなら早いほうが良いし、日本海戦ごとき大勝はもちろん、勝ちうるかどうかもおぼつかないと天皇に答えている。陸軍はソ連をも攻めようとしていましたが、極東ソ連軍が半分にならないと勝ち目はなかったが、ドイツとの戦いに訓練十分の部隊をヨーロッパに送るとともに満州との国境にも送り込んできたので、勝ち目はなく訓練するだけだった。
 こうして大変なことになったが天皇は松岡を辞めるように言ったと書いてあり、松岡外相を首にするため内閣総辞職に踏み切る。天皇はまいっていて近衛に真意を聞くと、ルーズベルトとの直接会談を行うと回答した。第二回御前会議の議題の事前打ち合わせでは米英に対して戦争準備、日米交渉を進める、10月上旬まで日米交渉成立に目処が立たない場合には戦争を決意する、とした。杉山参謀長は南方は三ヶ月で片付くと言ったが、天皇に根拠を問い詰められて答えられなかった。それでも御前会議は開かれ決定する。近衛は外交交渉を天皇から言われたので動き出す。しかしアメリカはすでに石油輸出を禁止し、フィリピンや中国や太平洋の島々での戦争準備を進めている。そのためルーズベルトからサミット断りが通達される。東條英機は中国からの撤兵は陸軍にとっては降伏なのでできないという。そして近衛は逃げて主戦論者の東條英機内閣が成立する。天皇と木戸が話し合って決めた人事だった。山本五十六はやれば負ける戦争なので、日本近海で海戦をしても負けるので、ハワイの奇襲作戦に固執した。
 海軍が戦争にノーと言わなかったかは、なんとか頑張れる対米比率が七割になるのが1941年12月だった。戦艦も飛行機も七割だった。大本営政府連絡会議の結果、対米戦争が決まる。天皇は悲痛な表情だったが採算会の御前会議が開かれる。日米交渉は続けられるがアメリカも回答を遅らせた。山本は最後まで交渉の妥結を願っていた。大本営政府連絡会議では戦争を集結できるかを検討したが、ドイツの勝利を当てにしているところがあった。
 アメリカは日本の案を蹴って、ハル・ノートを提出する。受け入れられない満州事変以前の日本へ戻れということだった。これを受けて第四回御前会議が開かれ、交渉決裂の確認と戦争を行うと決定する。

第十二章 栄光から悲惨へ、その逆転はあまりにも早かった

宣戦布告は一時間前を目指したが一時間遅れる。結果大勝利となる。開戦後に大東亜戦争という名になる。その後は毎日勝った勝ったと日本中が喜んだ。シンガポール、フィリピン、インドネシア、を攻め落として、長期の作戦を考慮していなかった。ミッドウエー島を攻略する作戦を立てる。アメリカは東京に空襲を起こす。空母の上からB25を乗せて飛び立たせ、中国大陸まで飛んでいって蒋介石の飛行場に降りることを行う。ミッドウェー海戦ではアメリカの奇襲攻撃を受けて日本の四席が全滅し、搭乗員の多数が戦死。という状態になった。敵機動部隊の出現を予期して搭載機の半数は即時待機の態勢にしておくようにと指示を無視していた。この大敗は公表されなかった。

第十三章 大日本帝国にもはや勝機がなくなって

アメリカ軍は反攻を開始し、1942年8月にガダルカナル島の争奪戦が行われる。爆撃機はかなりの飛行距離を持っているが戦闘機は短い。ゼロ戦は約に千キロの飛行距離あるが往復するなら千キロ。戦闘をするなら800キロ。その範囲で飛行場を作り円を作り戦争を進めた。日本本土の防衛にはサイパン島、テニアン島、グアム島のマリアナ諸島を守らなければならない、それにはさらに先のトラック等を中心とするカロリン諸島をと進んでいき、ラバウルを守らねばとなる。さらにその千キロ先にガダルカナル島があった。日本軍が飛行場を作り終わるころにアメリカ軍が上陸してきて、アメリカの一大基地となってしまう。海軍は24隻撃沈され、飛行機は893機が撃墜されベテラン飛行機乗りの2362人が戦士する。陸軍は兵力三万三千のうち8200人が戦死、戦病死1万1千でそのほとんどが栄養失調による餓死。撤退。天皇にどこに攻勢に出るのかと聞かれニューギニアと答え17万の兵隊が終戦の日まで戦闘を続け生還したのは一万数千という悲惨な状態だった。
 ミッドウェーは1942年6月上旬なので、半年はいい気持ちだったのですが、後半は敗北が見えていて、アメリカが北上の進撃をしてくる。次々とお問われる。ラウバルは占領する必要なしで終戦まで戦争の外にいて自給自足をしていた。ガダルカナル戦の後、日本海軍もアメリカ海軍も船艇がいたんだので日本は本土へアメリカは真珠湾へそれぞれ引き上げ、海の戦いはこれで一段落となる。アメリカは航空母艦を主体に増産して飛行機乗りも育成して戦力を整えた。1943年の1月にルーズベルトとチャーチルがあってルーズベルトは世界平和はドイツと日本の戦争能力の殲滅を持って達成可能として、無条件降伏を主張した。4月18日に山本五十六が乗った飛行機が撃墜される。5月に北の方のアッツ島で玉砕がある。でかい戦闘はなかった。1944年の春にはインパール作戦が実行される。牟田口廉也が推進した。その上にいたのが河辺正三で盧溝橋事件のコンビである。牟田口は功名心が強い突撃型の軍人。補給を全く考えておらず3月似始めたが戦力は40%になり中止すべきという雰囲気になったが攻撃を主張した。結果的に日本軍は乾杯。交代交代で多くの方が戦死した。1943年末から1944年にかけてフィリピンを目指して攻撃を開始してきた。夏になるとサイパン、テニアン、グアムなどのマリアナ諸島が米軍最大の目標になった。日本軍はB29で日本本土を空爆することは分かっていた。東条はサイパンの防衛は安泰といったが、上陸からすぐに飛行場は取られる。航空母艦同士の戦いになるが、惨憺たる敗北。395機の航空機は壊滅。サイパンを取り戻そうと会議をひらいたがどうしようもなく、特殊兵器を考えるほかないと1944年春ごろから考えていた方法をいつどのように使うかを考え始めた。特攻は現場が考えたということになっているが、それ以前に神風攻撃隊という名前が電報に残っている。1944年度の軍事予算は国家予算の85.5%を占めた。

第十四章 日本降伏を前に、駆け引きに狂奔する米国とソ連

三度の飯を食えたのは1944年10月くらいまで。とにかく腹をすかせていた。1944年11月末くらいから筆者も勤労動員で向上で働いていた。1942年は戦争の話、43年は向上や食い物の話、44年は闇や空襲の話、45年は何も話さなくなった。
 上の方でも何とかこの戦争をやめなくてはという動きが出てきて、近衛、吉田茂、岩渕達夫、皇道派のエース小畑が密かに相談して終戦工作を始めていた。しかしルーズベルトがカサブランカで決めた無条件降伏が足かせとなった。2月4日からウクライナの避暑地ヤルタでルーズベルト、イギリスのチャーチル、スターリンが階段した。ドイツはまもなく降伏することが分かっているので、ヨーロッパをどうするかが主題だったが、日本の降伏についても話し合われる。当時はすべて機密だった。日本についてはルーズベルトはスターリンに日本への攻撃を強く希望した。スターリンは日本がロシアからうばったものを奪い返したいと答えた。そんなことを知らずに2月には陸軍と参謀本部の首脳が本土決戦完遂基本要綱を決定する。人海戦術というもの。一方でサイパン、テニアン、グアム島からB29による本土空襲が激化し、昼間は日本の戦闘機が追いついて来られない高高度から、精密照準による爆弾攻撃がされた。しかし冬だと風が強くてなかなか当たらない。日本本土上空で損害を受けて養生に不時着する爆撃機のために緊急着陸できる滑走路が必要だということで、マリアナ諸島と日本本土との間の島として、硫黄島が狙われた。日本軍は2万9戦の兵を送り込み米海兵隊7万5千との間に凄惨限りない戦闘が行われた。2月19日から3月26日の夜明けまで、米軍の死傷2万5千人、日本軍の死傷2万人(戦死1万9千9百人)。米軍の手に落ちた。ヨーロッパ戦線でドイツの空襲で大活躍したカーチル・ルメイ中将が、夜間の低空飛行による焼夷弾攻撃。1500−2000メートル。今までは1万メートル。各機は個別攻撃。3月10日の東京大空襲が皮切りとなった。東京の下町は全滅した。3月18日天皇陛下が視察した。
 陸海軍は次は沖縄に来るというので、4月1日アメリカ軍は大部隊できた軍艦千三百7隻、その上の飛行機1727機、18万人。迎え撃つ日本軍は7万人。男子中学校の1600人、女学校の600人。4月6日に大和も出撃するが翌日に壊滅。そのころソ連が日ソ中立条約を破棄することを通告してくる。無策の小磯内閣に変わって、最後の内閣と言われる鈴木貫太郎内閣が成立する。78歳の御老体だったが昭和天皇から頼まれた。陸軍は最後の一兵まで戦うとしたが、国民はまったく戦意はない。4月13日にルーズベルトがなくなるがトルーマンも政策を踏襲したので、あきらめる。4月28日にムッソリーニがイタリア国民によって銃殺され、ドイツではソ連との市街戦の最中にヒットラーが自決。5月7日に無条件降伏をする。日本だけが残る。
 ドイツ降伏をうけて、鈴木内閣も最高戦争指導会議を持った。沖縄は激戦が続いていて表向きは徹底抗戦だった。戦争完遂が御前会議でもきまったが、木戸さんは天皇の態度を見て和平をもとめているのではと和平構想をねる。ソ連仲介による戦争終結案を具体的に進めようとする。天皇は満州とシナの兵力はほとんど無く弾薬も一回分しかない、と報告を菊。本土決戦など無理じゃないかと驚く。また天皇の命により視察した航空基地を三ヶ月特命で視察してきた報告の戦力がすべてなくなった海軍の現状を報告した。つまり本土決戦などできませんと報告した。そんなことであろうと思っていたと労をねぎらったという。6月15日天皇は病んで倒れる。
 6月20日天皇は東郷外相に速やかに戦争を終結せしめることを希望すると伝える。6月22日最高戦争指導会議で明に和平が言われる。ソ連の仲介する和平案を披露し、7月半ばを目指しているという。6月22日に沖縄は日本軍の壊滅で終了する。戦死10万9千人市民十万人がなくなる。女性の竹槍訓練を始める。日本は参戦の機会があるソ連を当てにした。ドイツの降伏後のヨーロッパの処理でソ連が横暴とわかり、アメリカはソ連参戦前に日本を降伏させようとする。そして原子爆弾が登場する。
 日本も研究をしていたがアメリカと予算がまったく違った。ソ連は原爆投下前に参戦しようとしていた。ポツダム宣言が7月26日にきて、天皇は東郷に受諾するほかないと言うが、政府はソ連の返事を待っていた。鈴木首相の黙殺を外国新聞はRejectとしたため、原爆投下されたと取れるが事実は24日に原爆投下の命令が下っていた。

第十五章 「堪へ難きを堪へ、忍び難きを忍び」

8月6日の広島に原爆が落とされる。ソ連の侵攻は8月下旬だったがアメリカの原爆製造が進んでいることが分かった時点で8月15日に改め、それを11日に早めていた。準備不足であるが8月9日に侵入するとした。スターリンは五人の原子力物理化学者を呼び、全力での開発を厳命した。トルーマンはチャーチルが原爆の使用に賛成すると言ったというが、チャーチルは知らないと言っている。アメリカのトップも使用になんのためらいもなかった。ただしラルフ・バードという海軍次官が日本への原爆使用に猛反対した。「どうしても使用するなら予告すべきであり、対処する時間を与えるべきである」と主張した。使用が決まるとバードは辞表を提出した。日本は相当の被害を受けたことだけを報じた。
 日本政府と軍部は一発で広島市街が吹っ飛んでしまう爆弾ができていることを翌日のアメリカからのラジオ放送で知り、他の都市への投下も示唆される。それでも日本のトップはソ連仲介による和平を待っていたが、8日に天皇は速やかに集結するように努力するように鈴木首相に伝えろという。さっそく最高戦争指導会議を開こうとするが9日朝にすることになり、9日の午前0時をすぎると、ソ連が満州の国境を突き破って侵入してきた。前日の晩に宣戦布告場を突きつけている。日本は中立条約を破棄せずに攻撃を受け続けることにした。鈴木首相は朝にそれをきくや何が何でもこの内閣で戦争の始末をつけると決めた。午前10時30分に会議が始まり、鈴木首相はいきなり、これ以上の戦争継続は不可能であるといい、ポツダム宣言を受諾するしかないと意見を聞いた。どのように受諾するかという議論になる。ポツダム宣言は世界征服の挙にでた権力の永久除去、日本本土の軍事占領、本州、北海道、九州四国の領地没収、外地の日本軍隊の完全撤収、戦争犯罪人の処罰と民主主義敵傾向の復活強化、巨大産業の不許可(財閥解体)、連合軍の撤収は平和的な政府ができあがったとき。一番の問題は「世界征服の挙にでた権力および勢力」というところ、これは天皇制ということではあるまいか、という疑問だった。
 議論はこちらからの条件などに移るが、東条外相は一条件にしようとして、紛糾するが、第二の原子爆弾が長崎に投下されたことが伝わる。次の日も話し合うが、4条件に固執する閣僚もいて結論がでず、鈴木首相は天皇の聖断を仰ごうとする。御前会議を開くには法的に参謀総長と軍令部総長の承認=花押が必要になる。初期の迫水久常が花押をもらってあったので法的にも問題なく、御前会議を招集できた。8月9日の午後11時50分に防空壕で開かれる。鈴木首相は天皇のご判断を仰ぎたいといい、軍部は発言しないはずの天皇に意見を求めるのはない、と思いましたが、天皇は発言しました。天皇は外務大臣の意見に同意、つまり一条件で良いとした。その後、「これ以上の文化の破壊を望まない、先祖から受け継いだ日本という国を子孫に伝えること。一人でも多くの国民に生き残って、将来ふたたび立ち上がってもらう他道はない。軍隊を解除するのも戦争犯罪人として処罰するのは忍び難いが、今日は汐見が滝を忍ばねばならぬ時と思う」と発言する。こうして日本は連合国に1条件のみ希望として伝えた。
 日本はスイスとスウェーデン駐在の日本公使を通して伝える。アメリカは困ったようだったが、イギリス、中国はこれ以上の流血の惨事より条件を飲んだほうが良いとした。ソ連とアメリカは議論が続き、8月12日の夜に連合国側からの回答が決まる。「日本国からの最終の政治形態は、ポツダム宣言に従い、日本国国民の自由に表明する意思により決定する」とした。それにつづき「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は、連合軍最高司令官にSubject toするもの」とした。これ対して軍部はがたがたいう。閣議をするが決まらない。
 こうしたなかで陸軍では強硬なるクーデタによって鈴木内閣を倒し、軍部によって内閣をつくる。これまでの動きをすべてご破算にして徹底抗戦に持っていかなければならない、と計画が侵攻していた。しかし14日の朝に阿南陸相と梅津参謀総長は反対し、計画は破断になり、中堅クラスだけでやるか、となったところ、天皇陛下から全員集合の通知がきて、最高戦争指導会議の構成員と閣僚全員による合同会議がひらかれる。天皇は自身はいかなろうとも国民の生命を助けたいという意思を伝え、そのまま受けいるとした。8月14日の午後に受諾をスイス、スウェーデン駐在の日本公使を通して伝えられた。
 しかし戦争は降伏の調印をするまで完全に終結していることをしらなかった。ドイツの場合は降伏を申し出て2日後に調印しているので、あっというまに戦争は終わった。日本の場合には本土にまだ兵隊がたくさんいるので、降伏調印に時間がかかった。それをソ連は利用した。8月17日大元帥陛下の命令にしたがって、関東軍も武器を投じて無抵抗になりました。そこへソ連軍が攻めてくる。悲惨な犠牲者を限り無く出した。戦死8万人。捕虜は57万人。シベリアで強制労働させられ10万人がシベリアの土の下に眠った。満州には150万人近く住んでいたとされていますが、一般民間人で満州でなくなった人は18万人とされちえる。9月2日アメリカの戦艦ミズーリ号の上で降伏文章の調印式が行われ、日本は太平洋戦争を降伏という形で終えた。アメリカの調整委員会は早くから日本占領の統治政策について研究し、アメリカが最初の3ヶ月間全土を統治し、次の9ヶ月間は米英中国ソ連の4過酷で統治、東京は4分割して統治するという案を8月15日に成分化していた。これは日本の降伏に寄って亡くなった。スターリンはトルーマンに極秘の文章を送っていて、降伏地域に千島列島全部、北海道の北半分を含めるというもの。トルーマンは真っ向から否定し、分断を免れた。

むすびの章 三百万の死者が語りかけてくれるものは?

昭和史は日露戦争の遺産を受けて、満州を国防の最前線として領土にしようとした所からスタートしました。最終的にはその満州にソ連軍が攻め込んできて、明治維新このかた日露戦争まで四十年かかって築いた大日本帝国をその後の40年で滅ぼす。日露戦争以前の50年間は無に帰した。第二次世界大戦での日本の死者は310万人を数える。
 日本人は熱狂しやすく、具体的な理性的な方法論の検討にかけ、縦割りの弊害、終戦の調印を知らなかった、対処療法的で大局観がなく複眼的な考え方がない、という昭和初期のトップの総括をしている。

こぼればなし ノモンハン事件から学ぶもの

司馬さんはノモンハンを取材したが書かなかった。ノモンハンの幹部が清潔な精神の持ち主ではなかったからでは。司馬さんは国を誤った最大の責任者である瀬島龍三大本営参謀と実に仲良く話していたの信用しないから書いてくれるな、と取材した須見元連隊長が手紙に書いてきたのもあった。ノモンハンでは分析をあやまるように書いたとしたが、火力千能力を速やかに向上せしむるにありという一行を書くことも大変なのだと旧陸軍にいた何人かはいう。一番まずかったのは多くの人が事実を知ることだったが、それをしなかった。天皇も戦力の70%を喪失したことを報告していなかった。つまり独断でことを運んでいたことが考えられる。作戦指導したのは服部卓四郎と辻政信。辻は議員もして本も出しているが、大本営とやりあい、引かなかったから負けたという論調。服部は意思不統一が拡大に繋がったと、した。また、人事的な処罰は現場の参謀は取らなくても良いという形になっていた。そのため辻も服部も一度引いたものの復活をしている。ドイツが勝ってハシャイで南進。辻は半年の研究と現地の作戦計画をねって数ヶ月で発動したのが太平洋戦争といっている。
 日本は明治38年にできた旧式武器で近代兵器と戦った。理由は作りすぎたため。戦車も装甲が薄いのは鉄道の狭軌が狭くて重戦車を運べないのと、港湾の起重機が弱くて戦車を持ち上げられないからと。

明治維新とは何だったのかー世界史から考える

第1章 幕末の動乱を生み出したもの

明治維新と呼ばれるようになったのは明治13−14年ごろ。それまで御一新など。大統領からペリーへの命令は親書を伝えること。イギリス、フランス、オランダに遅れていたので、石炭の供給地にしたかった。日本の開港が不成功の場合には沖縄を取ろうとしていた。列強に勝つために太平洋航路を開く必要があった。シーパワー、通商がメインだった。各国の経済規模の推移。ペリーは日本を研究していた。
 当時の首相=阿部正弘によって幕府が開国に舵をきることを決めた。安政の改革で開明を登用した。35歳くらいで開国ー>富国ー>強兵の道筋を作った。ペリーが来たとき吉田松陰は24歳。勝麟太郎は22歳で佐久間象山のもとで学んだ。中国では林則徐が学んだ文献を魏源に託し、魏源はそれをもとに「海国図志」を著した。
 徳川は石高で管理するために交易を禁止し鎖国した。徳川250年の末期には日本人の平均身長や体重は小さくなる(★食事??)経済もマイナス成長だった。朱子学は徳川のため?士農工商もそこまででなかった?
 幕府は開国に踏み切った途端に財政破綻する。薩英戦争で幕府は多額の賠償金を払う。ドルと金銀の交換比率も間違っていた。薩英戦争と下関戦争で長州薩摩も開国しかないとなった。武器商人たちはとんでもなく儲かった。絹や生糸の密貿易で薩摩や長州はお金をためていた。長州は身分制度もやめて軍も近代的にした。イギリスは金払いの良い薩摩に付いた。

第2章 「御一新」は革命か内乱か

 光格天皇の時に変化があり、幕府はお伺いをたてろということになった。帝ー>天皇としたのも光格天皇。朝廷の孝明天皇はキリシタン嫌いで、岩倉具視や三条実美が焚き付け、幕府は開国を勝手に決めたということになった。けれど京都にも黒船が来て朝廷も開国になった。明治維新は関ケ原の恨みを晴らした暴力革命。慶応元年などに新政府の方針を考えるべきだった。坂本龍馬の船中八策もそう。
 イカサマの錦の御旗を三条実美が作って、賊軍になった慶喜は戦意を失って戦線離脱。会津藩は防衛戦争だった。坂本龍馬は文久二年から慶応三年までの5年間で超人的な動きをした。他の人のアイデアをまとめて実行した。
 長岡藩は5万石を盗まれて、米百俵で教育に力を注いだ。会津藩は全部取られて斗南藩に行き、死んでいく。朝敵の藩名の県は一つもない。軍隊でも著しい差別があった。日清日露戦争での大正はほぼ薩長。華族になった数も違う。
 大久保利通が企画した岩倉使節団は大きい。攘夷を改めるために必要だった。残ったのは三条実美や山縣有朋のようなレベルの低い人間。西郷隆盛が引っ張り出される。西郷隆盛は毛沢東に似ている。漢詩も作るし、農業主義、永久革命家。西郷さんは軍人。リアリストの大久保利通とは違う。手段を選ばず殿様に取り入ったりして存在感を高める。西郷が去った後は首を切って小さい政府を支配した。著者はリアリストが仕切ったのは良かったと思っている。
 維新三傑の後をついだ伊藤博文と山縣有朋はこぶり。伊藤博文は大久保利通が考えたことを実行した。山縣は人格がなかったので、とんでもない軍事政権を作ってしまった。吉田松陰は膨張主義。
 幕府側の阿部正弘が描いたものを、大久保利通が引き継いだ、という構図。

第3章 幕末の志士たちは何を見ていたのか

 勝海舟は一番はじめの開明的な人、日本人になった人。西郷隆盛と会話をしつつ、イギリスとも交渉した。西郷と対立しないように征韓論からは逃げていた。西郷さんが好きで碑もつくった。勝海舟は江戸の町を燃やす覚悟で交渉に臨んだ。
 西郷さんは毛沢東と違うのは権力欲がなかった。廃藩置県では反乱が予想されたが、実際には起こらなかった。
 井伊直弼の暗殺と226事件は歴史を大きく動かすテロだった。
 大久保利通は破壊と創造、両方した。保守主義、漸進主義、鄧小平のような人。暗殺されて日本が軍事国家になった。開国・富国・強兵というグランドデザインを作った。斬進主義。
 桂小五郎は西洋かぶれで発言をどんどんした。政治力や策謀はなかった。性急なところがあったが人は殺さなかった。
 岩倉具視は策謀家。公家、幕府がにくかった。
 伊藤博文と山縣有朋。伊藤博文は大久保のビジョンを実現に動いた。仕事はできるが蛋白で伊藤派はいなかった。山縣は可愛い可愛いと取り込むが裏切ると首にする。下級武士だった。伊藤博文も下級武士だったが、それよりも低い。吉田松陰は伊藤と山縣の権威付けに利用された。門下の優秀な人は死んで伊藤と山縣だけが残った。吉田松陰は山縣を丸太ん棒と評した。
 板垣退助は後に語った。会津の白虎隊はよく戦ったが農民は逃げるばかりだった。それは農民を軽視した政治が悪かったのだと。
 アーネスト・サトウは西南戦争のときには薩摩にいて薩摩が勝つと思っていた。各地にいる西郷の信奉者たちが加勢すると思った。政府軍の勝因は武器のレベルと通信網。大久保は嫌い。正当な政府ができる前は個人プレイでいろいろできた。

第4章 「近代日本」とは何か

岩倉使節団はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツで、GDPの大きい順に訪れた。海外から先生も呼んだが東大教授の6倍の給与を払っていた。なので留学して学ばせる方式に切り替えた。和製漢語を作って教育を加速化した。
山縣は西南戦争呉にシビリアン・コントロールを外した。天皇直下の組織で政府は関係ない。プロイセンの影響。自分で作った参謀本部長に自らがなった。
 大日本帝国は薩長がつくって薩長が滅ぼした。乃木希典、児島源太郎、東郷平八郎も薩摩。近代国家になったのは薩長のおかげではある。日露戦争の講和でアメリカを逆恨みした。日本人は開国を捨てて、攘夷になった。
 薩長が始めた太平洋戦争を賊軍出身者が終わらせた。終戦時の総理大臣の鈴木貫太郎は徳川譜代の名門の久世家。海軍大臣の米内光政は盛岡藩士。第一次大戦あたりから日本のリーダーは世界をみなくなった(★ほんとうか??)原子爆弾のウランの同位体の分離方法も分からなかった。対中戦争の講和の相手として国民党を相手にしないとしてしまった。講和相手がいないと戦争が終わらせられない。
 幕府側で開国を志向した阿部正弘や勝海舟はもっと評価されて良い。阿部正弘が作ったグランドデザインを大久保利通が引き継いだ。阿部正弘が一番の功労者で、大久保利通が二番。
 

大和朝廷 VS 邪馬台国 ~ 古代、2つのヤマトの戦い

2024 星雲社 澤田健一

中国とも絡めてあるのと、広く文献を参照しているので、大変参考になった。

序章1 出アフリカー大いなる弓の民族の旅立ち

縄の発明、縛る、狩り(★縄の研究?)。縄を使った弓矢の発明、弓の民族、弓矢は6万4千年前。9万年前、銛。12年前、装飾品+屈葬。(★ホモ・サピエンスでも出アフリカは数回あった、別の民族?)中東の人骨は9万年−8万年以降はネアンデルタール人。それまでにホモ・サピエンスは通過している。弓は象徴的、神武天皇と長髄彦でも天孫族の証として見せあった。随書倭国伝には正月一品に射儀・飲酒するとかる(★射と宗教)。南アフリカのブロンボス同期つからアクセサリーや赤色顔料が発見されている。

序章2 南インド・スリランカ

アフリカから東に向かった大いなる弓の民族(★ちょっと待って、陸路じゃないかも??)ヒマラヤの南側を歩いてスリランカまで来た。外洋航海できる船も技術もなかったので北上。インドのタミルナドゥ州にはヒンズー教以前の古いお祭りがあり、日本と近い文化がある。大野晋著「弥生文明と南インド」。スリランカ南西部のジャングルに覆われたファヒエン・レナ洞窟から骨製の矢尻が見つかっている。スリランカで赤色顔料のビーズが発見されていて、日本の北九州の古墳壁がでも使われている、さらに日本がにも使われている。インドとのつながりは言語や餅の形でつながり。

序章3 カリマンタンとコロボッククル

スンダランドには原人は到達していなかったが、フローレンス島にはいた。アボリジニはオーストラリアに上陸したいた、一万年以上の前の前の話をユーカリの樹皮に描いて創世記として伝えている。アイヌでは物語をユーカラと呼ぶ(★アイヌ語確認)。アボリジニ、アイヌ、台湾のルカイ族もムックリを大事にしている。人類は7万年前までには東南アジアに達している。インド南部のジュワラプラーム遺跡では七万四千年前に大噴火したドバの火山灰層の下からも石器が出てきている。(★日本はどうなのか)インドネシアのスラウェシ島のリアン・テドング洞窟から4万5500年前の壁画が見つかっている。アイヌ犬は南方のカリマンタンにいる犬と同じ遺伝子を持っている。

序章4 刀部磨製石斧と丸木舟

石斧作れるようになり、大木で高速な丸木舟が作れるようになった。天の磐船と名付けられた。イザナギとイザナミが乗り込み、3万8000年前ごろ。大和朝廷は夷をつちぐもと呼んだ、首長は女性であることが多い。

1 イザナギ日本初上陸とヤマトの命名

カリマンタンから西表島まで船で漕ぎ、イザナギとイザナミは日本に着く。宮古島から沖縄本島まで220キロある(★海面とルート確認、南アフリカから)そして南九州におりたった。成功を本国に伝えるとカリマンタンから続々と新たな蝦夷が渡ってきた。そのころは氷河期(最終氷期)。ナウマンゾウ、オオツノジカ、ヘラジカがいた。

ニニギ、ニギハヤトが各地を回った。天孫降臨に随伴した神々は32柱と先代旧事本紀にある。ニューギニアの船も5,6人が乗って漕ぐので4艘か。石垣島の洞穴遺跡からは2万3000年前の人骨が出土。台湾から100キロ離れている。宮古島や沖縄本島でも3万〜2万年前の人骨がはっけんされている。サキタリ洞遺跡では3万6500年前と約3万7000年前の日本最古の化石人骨が見つかっている。沖縄のサバニという船でフィリピンまで行ってた。装飾古墳の分布は九州と東日本、有明海から八代海の沿岸に集中。船の舳先に鳥が止まっていて、太陽と鳥、月とヒキガエル、矢と矢をいれる道具である靭が描かれている。

2 日本の後期旧石器時代

日本列島は1万にもおよぶ旧石器時代の遺跡が確認されている。世界のどの地域と比べても圧倒的。シベリアにも旧石器時代の遺跡があるが、新しい。テント式住居が使われて竪穴式住居はあるが少ない。黒曜石を石器作りに利用していたが、日本全国で見つかっている。神津島産の黒曜石が静岡県の見高段間遺跡で見つかっている。槍や弓矢に加えて3万5000年前から落とし穴が使われている。2万8000年頃ナウマンゾウ絶滅、1万七千年頃マンモスも絶滅。ナッツの利用、オニグルミなどの貯蔵庫が見つかっている。すみ潰してもいた。鹿児島湾北部の姶良カルデラの大噴火が起き、東日本と西日本に異なる文化圏が生まれた(★なんで??)。2万4000年ごろ北海道で細石器が生ませ、広まっていった。

旧石器時代の遺跡は山地に多く、低地海岸線にほとんどない。ただし旧石器時代は最終氷河期にあたり海面が現在よりも100~130mも低下していた、海底にある可能性はある。細石器は古北海道半島で生まれ、土器は青森で生まれた。

3 縄文土器の誕生

土器は日本では多民族より1万年以上前に始まっている。最古の縄文土器は青森県の外ヶ浜町にある大平山本1遺跡から出土した1万6500年前の土器である。ただし縄文がない。西日本でも縄文時代後期頃から縄文が無くなる。ところが関東では弥生中期まで、東北では古墳時代以降まで、北海道では室町時代頃まで縄文が残るという地域差がある。様々な土器があるが、亀ヶ岡式土器は沖縄を含む全国から出土していて、奈良県橿原市の橿原遺跡からは大量に出土している。土器は煮炊きの道具として使われていて煤や焦げが付いている。文様はヘビや猪である、ただ猪には牙がない。
 縄文時代前期後半の5500年頃からヒスイの加工が始まる。北海道八雲町シラリカ遺跡ではヒスイ製品の出土していて、きれいな穴を開けることに成功している。ヒスイはナイフより固く加工しにくい。北海道で生産されるヒグマの毛皮は非常に高価な物資であり、物々交換により全国の宝物が北海道に集まった。南方の島々に限定される例えばオオツタノハ貝を利用したブレスレットなどである。
 縄文時代の集落は北海道・東北に多く、縄文遺跡の八割が東日本に存在している。縄文集落の周囲にはクリやドングリなどの堅果類(ナッツ)の人工林が植林されていた。原始的な焼畑農耕も開始されていた。それらを何種類も使って酒を作っていた。共通レシピもあった。福井県ではウルシ材が見つかっていて、1万2600年前にウルシ製品も作り始めている。北海道ではウルシ染の糸を使った製品や9000年前のウルシ塗りの土器も発見されている。ウルシ装飾品としては世界最古である。

 エドワード・モースは出土した土器をアイヌのものだと考えていた。アメリカ先住民のものと似ていて、大森貝塚の人々とアメリカ古代人は同人種としていた。立川型尖頭器は北海道を中心に分布しているが、誕生した後すぐに北米でも出動している。縄文式集落は存在帰還が長く、常呂遺跡も標津遺跡群も8000年という長期間にわたって畝井されていた。これほど長期間存続した集落は日本以外では一つもない。縄文人は弥生人よりも手足がながかった。熱帯アフリカの集団は四肢が極めて長く、その頃の体型をたもっていた。弥生時代になり米食が中心になると消化のために胴がながくなり胴長短足のスタイルに変わっていく。長髄彦は実際にスネが長かったのでは。風土記には八束脛と呼んでいる。

4 河姆渡

蝦夷は雲南省にもたどり着き、高床式建物、お歯黒、歌垣、納豆、下駄、畳、鮒鮓、赤飯など日本文化をもっている。一部の少数民族の言葉には日本語と同じ発音があり、ワ族と呼ばれている。(★要確認)ワとは倭ではないか。雲南省は西南シルクロードの起点となっている地域で3つの河川によって外界と繋がっている。人々は村ごとに新嘗祭を執り行っている。最初期の稲作文化で有名なのは上海市の南側にある浙江省の河姆渡遺跡である。縄文人と同じく編布を使い、死者は屈葬されている。中国南方でも一番東側、つまり一番本国日本に近い河姆渡を稲作文化の拠点とした。しかし水田には灌漑設備が整っていなかった。北方域の蝦夷は中原に入り夏王朝を築き、それを倒して商(殷)王朝を樹立した。

5 アマテラスの帰還

アマテラスは大陸で水田を試していて灌漑設備を完成させて、日本の九州北部にやってきて、人々を指揮して水田稲作を始めた。3000年前である。

 世界初の灌漑設備を完備した水田は朝鮮半島南端に登場しているが、1ツボ未満や三坪程度の大きさ。殷王朝滅亡、周王朝誕生と同時期である。その数十年後には北部九州に灌漑設備を完備した本格的な大水田が突然登場する。ちなみに江南地方の水田稲作が始まってしばらくして、突然メソポタミアでも小麦の灌漑農耕が始まっている。しかし、塩害で失敗する。なので、朝鮮半島南端の小水田は実験用だっと考えている。日本最古の水田、菜畑遺跡である。ここから出動した石斧や石包丁は半島南端で出土するものと区別がつかない。またアマテラスやスサノオはイザナギの子ではなく、3万5000年の隔たりがある。

6 スサノオの怒り

アマテラスが集落周囲のドングリ林を切り倒して水田を作り始めたので、怒る。この戦いは千年以上続く。スサノオには三柱の女性神の子が板。田心姫、湍津姫、市杵島姫命の三柱。筑紫の宗像氏によって奉斎され、宗像大社に祭られている。沖ノ島の沖津宮(田心姫)、筑紫大島の中津宮(湍津姫)、宗像市田島の辺津宮(市杵島姫命)の三社。そうしてヤマトは二分されていく。

 糸島市の曲り田遺跡で住居跡の床面から板状鉄斧が出土したが、日本列島でもっとも古い灌漑式水田が出現する紀元前10世紀となる。ところが中国で鉄器が普及するのは紀元前6世紀ので、菜畑遺跡では紀元前10世紀に杭を尖らすのに多くの鉄斧が使われているとう研究結果まである。本格的な普及は紀元前4世紀であり、燕で大量生産が始まるより一世紀ほど古い。日本の研究者は鉄の普及が中国よりも早いのでこの発見をないことにしてしまった。答えはインドにあるインドでは紀元前1100年頃に製鉄が行われていた証拠がある。インドの製鉄は紀元前10世紀よりも前に始まっている。日本の鉄はインドから輸入したものなのであろう。インド南部では紀元前3000年紀以降に新石器文化が起こっており、前1000年紀まで存続している。中国の鉄の歴史は紀元前2000年紀後半の商王朝中期の中原である。これは日本の夷、縄文人の子孫である。中国の礼記の王政編には「東方のことを夷という、夷とは根本の意味である」と記している。原住民の周王朝の支配が広がる紀元前1000年頃に、考案文明の人々が本国へ帰還するのと同じく、黄河文明の人々も本国へと帰ってきた。本国へ帰った後も公益活動を続けて、「商」の人々が売り買いする品が商品であり、商の人々が売る行為が商売であり、その人々は承認と呼ばれた。だからこそ商売繁盛の神様は夷神社なのである。(★夷=商人?、海の民??、書経を読み直す)商が滅んだのは約3000年より少し前であるが、その頃に青森を中心とする亀ヶ岡文化が始まっている。複数の遺跡から三足土器が出土しているが、その祖型は日本国内では見当たらない、商の三足の青銅器である鼎が祖型なのではないか?と考える学者もいる。

7 神武東征

ヒコホホデミは水田稲作を開始してから300年なっているので、夷たちとは対立していた。東に良い土地があるので、東征を開始した。日向を出て筑紫に移り一年過ごす。そこから安芸国にわたり次に吉備国に移って行宮に入った。数年をすごし水田作りの指導を行った。そして高島宮では武器や兵糧を蓄え、ニギハヤヒが支配する土地を目指す。畿内へ押し寄せたが長脛彦との戦いが原因で兄井イツセが命を落とす。紀の国から北上しエウカシも撃破し長脛彦も倒して畿内を平定した。紀元前660年のころである。ナガスネヒコの兄アビヒコは畿内から脱出し、東北に身を寄せる。アビヒコを祖とする東北安倍家は大和朝廷と激しい対立関係になる。(★東北安倍氏の歴史)畿内地方の弥生時代の始まりは紀元前600年代であり、弥生時代前期である。この時期に近畿地方の水田稲作が開始された。(★これがニギハヤヒか?)水田稲作は紀元前7世紀から前5世紀にかけて伊勢湾沿岸地域にまで広がっている。紀元前4世紀には中部・関東南部地方をのぞく本州全域にまで広がる。

 紀元前10世紀後半にはい待った水田稲作は前8世紀の終わり頃には九州の東部や中部でも本格的に開始されている。山陰側は前7世紀前葉に鳥取平野まで到達、四国側は前6世紀に徳島市まで到達。近畿では前7世紀に神戸市付近、全6世紀には奈良盆地で始まり、伊勢湾に伝わっていく。伊勢湾沿岸地域から先は近畿の日本側を経由して一気に東北北部まで北上、前四世紀前葉には青森県に到達。前4世紀代には仙台平野、福島県いわき地域でも水田稲作が始まる。一方、太平洋側ルートは全3世紀になってから中部高地、関東南部に到達すると、国立歴史民俗博物館の藤尾先生がまとめられている(★藤尾慎一郎先生の著作を読む)弥生時代前期後半(約2500-2400年前)のなら水田は当時全国最大規模である。
 天香久山のカグは天から降ってきたという伝承があり、火の神カグツチのカグであり、天の火の山という意味である。あんぎんは弥生時代には姿を消してしまう。

8 項羽と劉邦・前漢の成立

大陸の夷として楚の項羽が新たな夷王朝を築いた。稲作文化を作った苗族が樹立したのが楚である。第六代の王ゆうきょになると「我は蛮夷なり、周の爵位にあずからない」と宣言して、自ら王を称した。楚には特殊な巫祝文化があり、日本の巫女である。中原諸国は春秋戦国時代の楚・呉・越を夷狄扱いしていた。それらの国々では文身(入れ墨)などの中原とは異なる文化を持っていたのである。項羽は楚の国に生まれたが項という地に封じられたいたため項氏を名乗った。戦えば勝った。項羽は夷だけを厚遇したため、信頼されなかった。劉邦は前漢の初代皇帝になるが、匈奴の攻撃を受け女を差し出して逃げ、毎年多くの貢物を献上して許してもらう。

 匈奴は鉄の矢尻をもつ、機動力のある騎馬集団である。匈奴は史記によると夏后の末裔である。(★史記を確認)鉄器に漢軍の青銅器は刃が立たなかったのである。孔子が触れる君子は暁や舜であり、夏の聖王であり、商の聖王である。夏の礼や殷の礼を称える。君子は争わず射戯をして飲酒する、など言う。商は入れ墨の道具から作られた文字である。東ユーラシアには夷が9族いたとされるが、DNA分析によると縄文人こそ東ユーラシア人の祖先集団であり、日本から大陸に出ていった。

9 倭国王師升の後漢唐使

菜畑遺跡で最古の水田稲作が始まってまもなく、有明海北岸でも水田稲作が始まった。玄界灘沿岸と同時期に佐賀平野にも水田稲作が入ってきた。そして吉野ケ里が邪馬台国連合の中核となっていく。武器の生産などを行っていた、銅矛や銅剣の鋳型が出動しており、匈奴のものが祖型とみられる細型銅剣が吉野ケ里でも製造されていて、交流を伺わせる。一帯は青銅器の生産工房であり、青銅器祭祀を行っていた。ヒスイの勾玉、碧玉製の筒玉などを用いていた。人々はコメ作りも始めていたが、基本的には海洋民族として生きていた。海外まで行っては盛んに交易していた。佐賀平野全体では40面以上の鏡が出土している。
 紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて吉野ケ里遺跡には多くの甕棺墓が残されているが、戦死者が埋葬されていることが分かる。九州北部は邪馬台国連合が支配しており、大和朝廷勢力と直接衝突をする最前線であった。吉野ケ里遺跡は中国の記録では面土国とされている。古墳時代には米多国造が吉野ケ里周辺を治めていて、代表的な王が師升である。後漢書では倭面土師升となっていて、後漢に使者を送っている。
 商が周に滅ぼされると、商の人々は日本にも来たが、朝鮮にも残った。商の最後の王である紂王の親族である箕子は朝鮮にわたり紀元前1100年ごろ箕子朝鮮を建国した。その後、燕という国が滅びると衛満は箕子朝鮮に亡命し使えたが、前195年ごろ衛氏朝鮮を建国した。前漢の武帝の時代になると衛氏朝鮮と匈奴の連帯を警戒し、前109年から征伐軍を送り衛氏朝鮮を滅ぼす。新は紀元23年に倒れるが25年に光武帝が即位して全国再統一が36年、封禅の儀式が56年。その翌年に倭から使者がやってきた。光武帝は漢倭奴国王という金印を送った。次の記録が紀元107年の倭国王師升である。邪馬台国があった山門県が魏志倭人伝の邪馬台国である。

 魏志の倭国大乱は2世紀末のことなので、甕棺墓とは時代が違う。中国の爵位には決まりがあり、王は金印、侯がメッキ印、君が銀印、長が銅印。高句麗も銅印

10 黄巾の乱から三国時代へ

後漢は混沌としていた。外戚や宦官が権力を奪いあい、王族は親族でさえ信用できなかった。民衆はもっと悲惨で184年に太平道の教祖を首領にした黄巾の乱が発生した。混乱に乗じて各国の群雄が割拠する。遼東半島から楽浪郡にかけて公孫氏が台頭してくる。楽浪郡の南に帯方郡をおく。楽浪郡は現在の平壌あたりで、帯方郡はソウルあたりでここが倭国との窓口になってくる。曹操は200年に官渡の戦いに勝ったが、208年の赤壁の戦いに敗れる。魏の曹操、呉の孫権、蜀の劉備が睨み合う体制になる。呉は三国一の仏教国だった。公孫は魏と呉の間で外交で凌ぐが、238年に魏に滅ぼされる。

 日本は宦官を導入せず、中国のような混乱は回避した。李氏朝鮮は両班が特権階級を独占し世襲とし、民衆を搾取し続けた。外積の蘇我氏や平氏は滅ぼされた。魏書によると馬韓、わい、倭が鉄を採取して銭のように使っていた。後漢書でも魏書でも弁韓の南は倭に接しているとしていた。わいは倭人と同じで入れ墨の習慣があった。倭国は楽浪郡を通じて漢とつながっていた。公孫は燕という国を創立するが、山海経によると倭は燕に属すとある。魏志韓伝によると倭も漢も帯方郡に属すとされる。

11 卑弥呼が魏へ朝貢、そして卑弥呼の死

倭国は混乱し、180年女王卑弥呼が誕生する。菊池彦=狗古智卑狗だが、邪馬台国のすぐ南の菊池川一帯で製鉄を行い武力を蓄えて、もともと夷だが大和朝廷側になっていた。卑弥呼は魏に使いをだし援助をこう。魏は244年から高句麗に侵攻して高句麗を滅ぼす。247年には狗奴国は邪馬台国に攻め込んでくる。魏に助けをもとめ遣使を送ると、帯方郡から張政を派遣した。仲介に入ろうとするも卑弥呼はすでに殺されてしまう。張政は19年も伊都国に滞在する。そこで高齢者をたくさん見て驚き、魏志に記される。266年に魏が滅ぶと張政は帰る。邪馬台国は普に使いを出す。

吉野ケ里遺跡は後期以降に首長の墓がないことから権力が安定していなかったとされている。倭国大乱は梁書では霊帝の光和年間(178年から184年)と絞られている。そのため卑弥呼の擁立を180年ごろとした。新羅本紀では173年に女王卑弥呼が使いをよこしたとあるので、もっと早かった可能性あり。狗奴国は肥後国球磨郡であると考えられてる。菊池川流域にはおおくの製鉄遺跡があり、鋭い鉄器が出土している。魏から卑弥呼に送られた銅鏡100枚は三角縁神獣鏡だと学者は主張していた。それは三角縁神獣鏡が畿内地方の前方後円墳から出土するからであり、それが畿内説の有力な根拠だった。中国では三角縁神獣鏡が一枚も見つかっていないので説得力がない。そもそも古墳は卑弥呼の没後である。北部九州のダンワラ古墳から金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は2019年に曹操の陵墓から見つかった鏡と同型式である可能性がたかい。卑弥呼が大夫の難升米を送ったのは日本書紀が引用している魏志武帝紀の239年が正しいだろう。魏志倭人伝では使者は伊都国で留め置かれていて、その南にはいかせてもらえなかった。魏に邪馬台国が小国であることを知られたくなかったから、との説をとる。最後に小人の国に言及があり、これをフローレンス原人と一致する。

12 祟神天皇による四道将軍派遣

魏に支えられ邪馬台国は安定し、博多湾に面した西新町は国際貿易港となった。日本からは土器を輸出し、帯方郡からは魏の品物が届けられた。一方、奈良では弥生時代の中期には大集落になってくる。銅鐸をはじめ青銅器が鋳造される。その頃は三輪山信仰があり、雷槌の神大物主を信仰していた。三輪山の北西麓一帯が初期の大和朝廷の中心であり、飛鳥時代までの主な宮がここにあった。弥生時代の奈良盆地では首長墓とみられる大型の墳墓は明らかになっていない。弥生墳墓全体を見ても北部九州のような副葬品はほぼ皆無である。技術力では邪馬台国連合のほうが先行していた。それでも各地との交流は広がっており、西の方では吉備や瀬戸内のものが多く、北部九州のものも若干はある。それよりも東方の物が沢山あり、近江、伊賀、尾張、伊勢湾沿岸が多く、長野県・天竜川流域の時もある。西方地方の交流より東方地域との密に接していた。
 第十代の祟神天皇の御代に初めて本格的な古墳が登場する。280~290年頃に纏向(桜井市)に造影された箸墓古墳である。前方後円墳が大和町店の統治する国々に造営されていく。墓の主である倭迹迹日百襲姫命にも大物主との不思議な逸話が残っている。同時期に四道将軍を各地に派遣している。国内が安定してきたので、詔して戸口と人口調査を行い、役務を課した。出雲や吉備は二股外交をしていたが、ついに大和朝廷側につくとの立場を示した。

 大和の弥生大型遺跡の中で最も規模が大きく、調査が進んでいるのが唐古・鍵遺跡である。遺物から東日本との購入が多かった。纒向遺跡では東海系の土器が外来経土器全体の半分を占めて、鉄製品や青銅製品はかなり少ない。大和朝廷のシンボルであった銅鐸はその役割を終えたということか。これは祟神天王寺大の前方後円墳の拡張と、それに伴う三角縁神獣鏡の鏡祭祀の始まりへとつながるという指摘もある。天智天皇の7年に近江京では銅鐸が掘り出されたが誰も何か分からなかった。
 大和地域でも弥生時代後期前半から中期頃の高地性集落が多い。出雲では1984年に神庭荒神谷遺跡から大量の銅剣が出土した。それまで全国で300本ほどしか出土していなかったが、358本も出土した。そこからほど近い加茂岩倉遺跡でも39子の銅鐸が発見された。出雲は北部九州を中心とした銅剣・銅矛文化圏と、畿内を中心とした銅鐸文化圏と交流して独自の文化圏を形成していた。出雲で造影されていた墳丘墓は4つの角が飛び出している出雲独自のスタイルだが、三世紀後半になると姿を消してしまう。大和朝廷の支配下に入ったことで、ここでも前方後円墳が築かれるようになった。吉備も出雲同様、大和朝廷に匹敵する勢力であった。弥生時代後半から楯築墳丘墓に代表される首長の墓が築造された。箸墓古墳と同様の特殊器台型埴輪が出土している。
 任那の人が日本の聖王と会うために来日したが、長門にたどり着いてしまった。その後出雲を経由して大和朝廷に到来した。蘇那曷叱知という使者。新羅本紀によると、新羅建国のときの瓠公という重臣は倭人であり、第四代の王である脱解は(57−80年)は多婆那の国の生まれと描いてある。多婆那国は倭国の東北一千里のところにあると説明されていて、北部九州の倭国を基準として丹波のことを描いているのだと解される。新羅の人々は倭国と関係があったと、新羅人自身が記録している。三国遺事日本伝には第八代のあだつらの即位四年に東海の浜に夫婦あり、倭に行って王となったとある。

13 祟神天皇の治世と晋(西晋)の崩壊

265年に魏から禅譲を受けた普は280年には呉を滅ぼし中国を統一したが内乱が続き、河北には匈奴・鮮卑などの異民族が入り込んできた。そうして楽浪郡や帯方群の支配力も低下。高句麗の攻撃を受け続け313年には楽浪郡や帯方群は高句麗に編入された。邪馬台国は孤立無援となり、4世紀には博多湾の貿易港であって西新町は衰退し、4世紀後半には消滅する。垂仁天皇のち生に新羅の王子、天日槍が来日。妻を娶って子孫を残した。携えてきた宝物は但馬の国の神宝となった。蘇那曷叱知は赤絹を持たせて任那の王へ送ったが、新羅人に奪われる。

祟神天皇の時代に相撲が始まったとあり、治水事業も行った。任那国からの使者に任那(みまな)という国名を授けたとあるが、三国史記では急に説明もなく任那という地名が出てくる。普が滅びた後、倭国からの遣使が途絶え、邪馬台国も滅亡。150年間の間、中国の記録から倭国が消える。異民族王朝が東アジアを征していて、中国王朝はジリジリと領土を失っていく。

14 景行天皇とヤマトタケル

熊襲が背いたので景行天皇みずからが親征を行った。周防に入り平定し、筑紫に入り休養した。硯田国に入り平定し行宮を建てた。熊襲討伐に向かい平定し、日向から纏向に戻った。熊襲が背いたので小碓命を派遣し、平定した。纏向に戻ると東国の蝦夷が背き、日本武尊が再び征伐に向かった。

景行天皇の時代に日本再統一が現実のものとなる。日本書紀の景行天皇の記事では熊襲征伐が中心となっているが、風土記では土蜘蛛の征伐記事がたくさん記述されている。日本書紀に登場している速津媛は豊後国風土記にも登場している。熊襲征伐についても肥前国風土記に景行天皇が熊襲せお滅ぼす記述がある。肥前国風土記には祟神天皇の世に肥後国の土蜘蛛が180あまりの人を率いて反乱を起こしたので、征伐軍を送ったとの記事がある。常陸国風土記に記述があるが、大和朝廷側は夷のことを土蜘蛛と呼んでいた。

15 成務天皇の治世と東晋・高句麗の滅亡

成務天皇が国郡に造長をたてて、大和朝廷の基礎を固めた。大陸では普が滅ぼされ南方に逃げ、呉の首都であった建業を健康と改名した。東晋は外戚や功臣が政治権力を握り、混乱をしていた。河北中原は異民族の小国家が乱立する五胡十六国時代を迎えた。前燕は高句麗に攻め込み、高句麗は一将軍とうい地位に格下げされた。東晋や前秦に攻められた前燕は滅んだ。混乱の中で420年に南宋が建国された。

隋書倭人伝では国造が120人あり、80戸に一稲置を置き、10稲置は1国に属するとある。国造の120人は国造本紀とほぼ対応しているという。

16 神功皇后による邪馬台国滅亡

気長足姫尊を皇后とした仲哀天皇は熊襲を討つために船で穴門に向かい、敦賀にいた神功皇后を呼び寄せた。奴国や伊都国が天皇の臣下の礼をとった。香椎宮に入られた天皇と皇后は熊襲討伐に向かう。鉄器に阻まれ勝てないで帰ってくる。仲哀天皇は病でなくなるが、ふせられる。鉄器を持った吉備軍を呼び寄せ、熊野を打ち破り、服従させた。その後、皇后は香椎宮を出て山門県(邪馬台国)に入り、最後の女王の田油津媛をあっさり打ち破る。その後、田油津媛の兄,夏羽が率いる米多国(吉野ケ里遺跡)は大将を失って瓦解した。神功皇后が陣を構えた場所は前方後円墳があり、皇后が車を常駐させたことから車塚古墳と呼ばれている。その後、九州にも前方後円墳が築かれていく。邪馬台国は現在の藤の尾垣添垣添遺跡(瀬高町)一帯で、ここの遺跡群は弥生時代週末に終焉を迎えておる。瀬高町には権現塚と呼ばれる周囲140mの円墳があるが、卑弥呼の墓とされている。
 次は三韓征伐である。日本書紀には新羅を降伏させると百済と高句麗が降伏してきたとある。新羅はこの後に朝貢して人質まで差し出し、百済は2年後に朝貢を申し出る。そのため日本書紀は大筋では正しい。一方で新羅本紀には364年の条に倭軍大いに至るとあるが、大いに敗走するとある。重要な点は大和朝廷の正規軍が朝鮮半島に渡り、交流が始まることである。

仲哀天皇が筑紫に向かうとき岡県主の先祖の熊鰐が周防の沙麼でお迎えした。伊都県主の先祖、五十迹手が穴門の引島(彦島)でお迎えをした。両者とも船に賢木(親睦)を立てて鏡・県・勾玉を下げてやってきた。岡は奴国の須玖岡本であろう。香椎宮は古代には霊廟と位置付けられていた。邪馬台国の故地を藤の尾垣添遺跡としたが、断定できない。なぜなら遺跡の上を九州新幹線が走っているからだ。現在発掘できたのは細長い直線上の部分しかない。車塚古墳から藤の尾垣添遺跡の発掘地点の一番近い場所までは200mしか離れておらず、近すぎる。おそらく藤の尾垣添遺跡は広範囲に広がっていて、田油津媛の本陣は離れた場所にあったのだろう。この遺跡では幼児用の 棺墓が出土しており、それは縄文人の習俗である。もう一つの候補地は同じ瀬高町にある卑弥呼の墓とされる権現塚である。魏志倭人伝によると、卑弥呼の墓は径百歩とされるが、倭人が大きく伝えた可能性もある。田油津媛の兄が兵を構えていた場所は書かれていない。日本書紀には「移って山門県にいき、土蜘蛛ー田油津媛を殺した」だけあるが、重要なのは山門という音である。
 新羅討伐は仲哀天皇の時代になって突然はじまるが、理由があるはずだ。新羅本紀によると344年に倭国から婚を求むとある。この要求を新羅は断った。すると倭国から国交断絶を伝える書が届き、その翌年に軍隊が攻めてきた。日本書紀によると邪馬台国滅亡と三韓征伐は同じ年であるので、本書では364年と結論する。

17 大和朝廷と朝鮮半島の交流開始

366年に倭の使者斯麻宿禰が卓淳国に訪れた時に、百済の王が倭国を訪れたいと言っていた話を聞き、従者を百済に派遣すると厚遇された。367年には百済の使者が新羅の使者と共に訪れて、朝廷の朝貢した。半島が混乱していたため援護を求めた。百済王は371年に高句麗に攻め込み善戦するが、396年には大群に攻められ大打撃を受けた。これを挽回するために太子を大和朝廷に送った。高句麗は新羅にも圧力をかけて392年に王の人質を高句麗に送ったが、その後大和朝廷にも送っている。高句麗の19代王である広開土王は武力で領地を広げたが、石碑が残っている。
 朝鮮への渡航には沖ノ鳥島を通ったが、そこでの祭祀では畿内の古墳祭祀と同じである。交通は四世紀にさらに活発になり金官伽耶の王族の墓には倭の品々が副葬され、任那のちからは畿内と同じ銅器が副葬され、前方後円墳も築かれた。

卓淳国は任那七国の一国であり、新羅再征のときは朝廷軍が駐留している。卓淳国に使者を遣わした百済王は日本書紀では肖古王となっているが、年代があわないので、近肖古王の誤りと推定される。卓淳国は三韓征伐のときに朝廷に従うことになったのであろう。その年に百済からの使者が卓淳国に来ているので、三韓征伐の衝撃があったと推定される。新羅本紀には倭国には勝利したことになっているが、広開土王碑が正しいのだろう。この後、戦果で疲弊した朝鮮や大陸の人々が飛鳥時代の日本を目指して移民してくる。
 沖ノ島は邪馬台国連合の博多湾の西新町からのルートではよっていない。魏志倭人伝の航路でも沖ノ島は経由していない。

18 その後の呉王家と大和朝廷の交流

高句麗を虐待していた鮮卑族の前燕は東晋や前秦の攻撃により370年に滅びる。376年には前秦が華北を統一し、喜んだ高句麗は使者を送り、新羅の使者も同行させてた。382年には新羅単独で前秦に遣使を送っている。北方を目指した東晋は383年の淝水の戦いで前秦に勝利というか、自滅して華北は分裂状態に陥る。東晋は東晋で権力争いから禅譲が起こり劉裕が宋を建国する。皇帝になった劉裕は東晋の後続を殺しはじめ、異民族の地に逃げた。
 316年に西晋が滅んでから581年に隋が誕生するまで265年間も混乱が続いていた。記録上では413年の東晋へ遣使を送ったとされている。その国は10年前に一度滅亡して翌年に復興したばかり。遣使を送った数年後に臣下に皇帝が暗殺されている。
 大和朝廷は呉王家と交流していた。280年に滅ぼされたが、滅亡はしていない。熊襲の菊池氏を通して間接的に繋がっていた。有明海から江南まで海路で交流していた。日本書紀には朝廷の使者が呉から帰国した際に、有明間沿岸部に当たる水沼君の領域に上陸した。呉からの献上品であるガチョウが犬に食われ、かもの仲間と交換して許してもらったとある。呉王家と大和朝廷は繋がっていたが、魏晋南政権とはつながりがなく、記録には天皇の正式な名前が出てこない。

倭王武は雄略天皇で間違いない、というが、502年の倭王武から梁に送られた。5世紀の天皇が6世紀に遣使はできない。

19 大古墳建造から律令国家へ

大和朝廷は大古墳時代を迎え、各地に前方後円墳を築いていった。大陸からやって来る使者が通る海路と陸路から見える一の古墳は特に巨大に造られた。日本書紀によると第29代の欽明天皇の治世に仏教が伝来し、第31代の用明天皇の御代、587年に天皇は群臣を前に「仏・法・僧の三宝に帰依したいと思う」と相談した。反対派の物部氏を押し切って蘇我馬子がそれを支持した(★物部氏=秦系は古墳か)蘇我馬子が日本最古となる飛鳥寺(法隆寺)を完成さる。朝廷が仏教政策に力を入れるようになり、古墳は築かれなくなる(★背反的)この後、大和朝廷は中央集権国家として律令体制を築く。飛鳥時代は聖徳太子が大活躍する。同時に蘇我氏が力を付けた。馬子は甥に当たる崇峻天皇を暗殺し、その兄も殺害した。物部氏と対立し、物部守屋は仏殿を焼いた。馬子は聖徳太子とも深刻な対立関係にあったとされる。日本でも中国のように外戚が政治権力を握り始めたが、大化の改新で一掃され、整然とした律令国家を作っていく。飛鳥時代には中国が随によって統一され、奈良時代には朝鮮も新羅に統一される。隋書倭人伝では大和朝廷と邪馬台国を混同しているが、旧唐書や日本国伝では大和と倭国を分けて描いてある。

最古の前方後円墳は220年頃に纏向に築かれた石塚古墳(桜井市)である。そして280年から290年に築かれた箸墓古墳が完成形の前方後円墳となる。(★箸墓古墳は大物主と関係がある?)3世紀前半から6世紀末ごろまで約350年の間に、全国で5200基肄城の前方後円墳が築かれた。朝鮮半島に進出した大和朝廷は豊富な鉄資源を手に入れる。大和6号古墳からは872枚もの鉄挺(鉄の延べ板)が出土している。朝鮮の慶州市の5世紀の古墳からは約1300枚も出土している。おそらく朝鮮半島で採取した鉄を延べ板にして、大和朝廷が日本国内に大量移送していたのだろう。仏教伝来には2説あるが一般的な538年とする。この538年に百済は今日の夫余となる泗沘に二度目の遷都を遂げ、南方拡大を目論んでいた。神武天皇は正確でない推古天皇から天皇号が使われたとされている。

考察1 北方侵入説の幻想

細石器がシベリアで見つかっていたのでシベリアで誕生した細石器が北方から日本に入ったと思われていたが、実際は日本で見つかっている細石器の方が古かった。2万年前はシベリアは南下してきた氷河で住めなかった覚張助教授の「縄文人ゲノム解析から見えてきた東ユーラシアの人類史」という研究で、日本民族の起源は南方系の人々であるとしている。現在東ユーラシアにすんでいるすべての人々はヒマラヤ山脈以南ルートを通っていることを示している。

考察2 コメの国・日本

あずイネの起源は長江の中華流域にあることはほぼ間違いないよう。江南地方の浙江における新石器時代の文化は上山文化から始まる。墓から発掘された男性は屈葬されていて、縄文の葬送手法が見て取れる。また遺跡はすべて河川流域に存在しており、古代文化の担い手が水上交通を行っていたことに符合する。8000年前の貝塚が見つかっており、大昔には縄文人が活動していた。稲作が本格化したのは8000年前頃で新たな文化は河姆渡文化と呼ばれる。灌漑農業を試行錯誤して紀元前10世紀に日本に持ち帰ったと筆者は考える。日本のように畔で区画され、灌漑設備を備えた定型化した畦畔をもつ水田*は中国では見つかっていない。畔畔を備えた最も古い水田*は朝鮮半島南部で見つかっている。オクキョン遺跡にあるのだが、どれも小さい。この水田稲作は日本へはすぐに伝わっているが、半島内部には伝わらず水田稲作が始まるのは李氏朝鮮時代である。それまでは直まきで1年毎に土地を休ませる休閑法であった。
 縄文集落の周辺にあるクリ林やドングリ林は人工林だった。その実を貯蔵する貯蔵穴があった。石斧で原子のうほうが営まれていた。一万年前からイネがあったという非確定的な証拠もあるが、縄文時代から稲が存在していたのは間違いない。縄文時代の稲作は小規模な焼畑農耕で他の作物との混作であった。このような農耕はカリマンタンに残されている(★カリマンタンは縄文人?)ケニアでは米はバナナやサトウキビといっしょに栽培サれている。

考察3 東アジアの中期旧石器時代

世界の旧石器文化は南フランスにおける編年をもとに前期(原人による石器)、中期(旧人による石器)、後期の三期(新人による石器)に分けられている。東アフリカのエチオピア南部二位置するコンソ遺跡では175万年前頃の両刃石器が出土している。これはアシュール石器と呼ばれ、フランスのサン・アシュール遺跡が基準とされ、握り斧と呼ばれる。この旧石器時代の初期(前期)におけるアシュール文化は25万年前ころまで長期間大きな変化なく継続された。100ま年々以上もの間一度も技術革新が起きなかった。中期旧石器時代は旧人によるアシュール文化とムスティエ文化(ネアンデルタール人によるもの)である。石器を二次加工して三角形にした尖頭器と呼ばれる石器が特徴である。
 東アジアでは、中国西部の山地から60万年前と推定される原人が出土している。東北では北京原人、ジャワ島のジャワ原人は130年前に生きていた。日韓の共同研究によると50万年前までには人類は朝鮮半島に到達していた。韓国忠清北道の満水里では約57万年前近くまで遡る石器が出土している。同じく韓国の全谷里では約30年前の石器が出土している。ナウマンゾウは35万年前に日本列島に現れているので、その当時の日本列島は大陸と陸続きであった。約50万年前にはトウヨウゾウが日本列島へ入ってきている。50万年前〜30万年前に原人・旧人は日本に入ってきた。日本列島からも中期旧石器時代の遺跡がいくつも確認サれて、60程度の遺跡が発見されている。

考察4 縄と弓

投槍器・投矢器であるアトラトルは中央アジアでも使用されており、最終氷河期の時代には全大陸で使用されていた。弓矢は別次元の構造であるが、全地球規模で使用される。アボリジニだけはブーメランを使い、弓矢を使わなかった。考古学者は日本の旧石器時代に弓矢はなかったというが、台形型石器は三万八千年前から使用されていた。日本列島上陸と同時に弓矢を使用していた(渡来していた人か)南方にいた頃から弓矢を利用していた太鼓の東南アジアやオーストラリや北端で弓矢を使っていたのは日本民族なのである。

考察5 夷とは

近年の核DNA解析は非常に重要で、東ユーラシア陣の先祖集団であると結論が出された。今までは大陸から日本列島に人が渡ってきたと考えられていたが、まったく逆だった。夷という漢字。『説文解字』(★よむか)は後漢の許慎が紀元100年に著したもので、夷=「東方の人なり。由大、由弓会意」と解説されている。東方と人は日本民族であり、核DNA解析の結果と同じことを描いている。文字の文の✗は入れ墨を著していて、甲骨文字は日本から大陸に渡った縄文人の末裔が甲骨文字を作った。彦は『説文解字』では立派な入れ墨をした男性という意味をもつ尊号である。彦の本字の上は文であり✗がある。甲骨文字は商王朝の時代に生まれた。商という漢字は入れ墨を入れる時に使う針を机の上に置いた形から来ている。中国初期の2つの王朝の人々は東方からやってきた夷だった。商民族とは満州・朝鮮に及ぶ東方海岸諸民族の一氏族であり、古くは東方にあった夷と称されたが、ついに西方の夏王朝を滅ぼして商王朝をたてた。それを中国の記録から見て取れる。『通典』東夷伝序略(★よむか)には「夏の最後の皇帝ケツが宮廷内で暴虐を恣にしている間に諸方の夷が中原に侵入した。天命が改まって、商王朝の成湯(武王)(★発音)がケツを討ち滅ぼし平定した」とある。これは東夷伝にある。西安東部の半坡村の彩陶文化遺しの地域が、夏の地域だとされる。この遺跡では小児は甕棺に収めて居住地内に埋葬されている。初期の住居しは半地下式(竪穴式住居)であり、約200に及ぶ貯蔵穴群があり、縄文土器がある。ただし縄文集落にはないものがある、それは防御用の周溝である。
 後漢書東夷伝には夷に九種ありと記されており、禮記の王政編に「東方のことを夷という。夷とは根本の意味である」とある。漢書地理志の有名な「楽浪海中に倭人あり」の直前に孔子が道徳を守っている日本に行きたかったという論語の内容を紹介している。夷(縄文人)は東ユーラシア人の祖先集団である。それは中国ばかりでなく、満州地方や朝鮮半島にも及んでる。東方海岸地域がもともとの拠点であった。その人々は夫余や高句麗王家・百済王家の人々、粛慎や渤海の人々となっていった。老河深墓地は夫余の遺跡であり、副葬品として高坏(豆)が出動するのだが、それは『三国志』夫余伝の「飲食には俎豆を用いる」という記述と符合する。魏志倭人伝にも倭人は食事の時に高杯を用いることが記されている。魏志夫余伝には殷の正月をもって天を祭るとある。倭と夫余と商の関連性の片鱗が浮かび上がる。高句麗に関しては「通天」高句麗伝においても「旧唐書」高句麗伝においても、「新唐書」高句麗伝においても、高句麗は夫余の別種であると記されている。夫余の王に殺されそうになった東名王が南方に逃げ延びて高句麗王となった。そして夫余の建国神話位においても、高句麗の建国神話でも、弓が重要な要素となっている。百済に関しても通天百済伝・旧唐書百済伝・新唐書百済伝いずれにおいても夫余系の種族であると記されている。百済王朝では夫余系の高句麗の言葉が使われて、百済の民衆の単語と相違していたという記録がある(★どこ)百済系の人々も元は夷だった(民衆?王朝?)韓国人にも明らかに夷(縄文人)の核DNAが含まれている。

考察6 文字と記憶力

一人の舎人の稗田阿礼に旧辞を暗証させたが、暗唱は一人で行ったが編纂は複数人で行った。後漢書を引用した文献では面土国の記載があるが、現存する後漢書にはその語句が抜け落ちている。他の引用文献がなければ面土国とする国は永遠に失われてしまうところだった。また同じく邪馬台国は翰苑では邪馬嘉国となっている。文字のない世界では強力な記憶者がいて、今日のわれわれからは想像しがたいほど、先祖について長い伝承などを語ることができた。アイヌの長老は文字を教えられ、アイヌ伝承を誰も覚えられなくなってしまったことを嘆いた。文字を拒んでいたのは意図的だった(★音のほうが記憶に残りやすいか)北海道諸地方において異型の文字がある古器物を多く集めていた。この他にカタカムカ文字、ヲシテ文字、阿比留文字などが有名。

考察7 倭人の天寿

魏志倭人伝には寿命は8,90年とある。古代天皇の百歳をはるかに超える寿命は真実ではないが、改年という風習によってだろう。南朝・宋の歴史化、裴松之は多くの資料を使って三国志に注を書き加え「倭人は歳の数え方を知らない、ただ春の耕作と秋の収穫をもって年紀としている」としるした。この記述から春秋期という発想が出てくる。筆者もその考え方に賛同する時期もあった。だか、それは明らかな間違いだと気づく。大化以前の天皇紀は偶数年は春と夏だけ、奇数年は秋と冬だけにならなければいけない。あるいはその逆でなければならない。ところがそんな年紀は一つも見当たらない。初代神武天皇から大化の改新の皇極天皇まで、春秋期が当てはまる天皇はお一人もいない。紀元前7世紀に水田稲作の東方拡散がはじまっており、それは記紀の記す神武天皇の東征開始時期と符号している。記紀は改年を含んでいる年代となる。神武創業は記紀によると紀元前660年であるので、1.2で割って逆算すると紀元前550年になり、奈良盆地で水田稲作が開始された年代とピッタリ合う。
 帯広市の大正3遺跡から出土した爪形文土器についは1万三千年前という結果が得られ、それは酒をにて浮いている油を採取して、調味料や燃料として使っていた可能性が高いことが分かってきているのだという。これを魚油最終節と呼ぶそうだ。多民族と比較すると一万年以上も早く煮炊き料理を始めて、さらに出汁でコクを取って美味しく食べていた。狩猟も漁労もし、木の実などを蓄えて、豊かな食事をしていたので、長寿になっていった。

考察8 巨石文化の発祥

ロシア西北部のコラ半島で9000年前のピラミッドが発見された。年代は事実かどうかわからない。ロシア西部にある中部ウラルの東傾斜から世界最古の木星の彫像が発見されて、年代測定によると1万千年前のものと判明した。シギルの偶像と呼ばれているが、偶像の顔と体には無数の千が刻まれており、明らかに入れ墨を入れた人々である。日本にも巨石文化があり、三石神社の巨石、岩手県遠野市の続石、鬼の差し上げ岩など。この他にも夏至に太陽光が差し込んで三角形を描き出す巨石遺構(下呂市の岩屋岩陰遺跡)もある。三内丸山遺跡の六本の木柱列はクリの大木であるが、その柱は二十メートル近くもあるのだが、普通ならある程度の高さになると枝分かれしてしまう。そのような大木を探すと、ウラル西方のソチ近郊で見つかった。運んだのではないかということと、そこにも縄文人がいたのでは。

考察9 柱・鳥・蛇信仰

世界には柱信仰、鳥信仰、蛇信仰が多く見られる。環太平洋には山を崇拝し、玉を崇拝し、鳥を崇拝し、柱を崇拝し、蛇を崇拝し、天地の結合に豊穣を祈る共通の世界観があると指摘されている。縄文土器では蛇とイノシシが圧倒的に多い。イノシシ信仰はインドネシアあたりの南方系と、クマ送りは極北地方との強い関係性が見られる。メソポタミアでは鳥と蛇の思想があり、インドのガルーダとナーガに伝承される。中国には女媧と伏羲という男女の神がおり、下半身が蛇の姿をしている。この男女の蛇神は全人類の始祖とされて、下半身を絡み合っている。この図像は殷墟にも残されている。南ロシアの草原地帯に六世紀ごろに王国を建設したとされるスキタイ人も蛇を始祖としている。筆者はこれも夷の子孫とする。ヘラクレスは子供らのうち、この弓をこのように引き絞り、この帯をこのように締める者があったらならば、その子をこの国に住まわせよ、といって自分の弓を引いてみせ、帯の占め方をしめした。長男と次男はできなかったのだが、末子のスキュテスはこれを果たしてその国にとどまった。スキュテスがスキタイ人となったとされるが、弓が重要な要素になっている。日本の蛇信仰は台湾のパイワン族が持つ百方蛇信仰から来ている。女媧と伏羲の神話を伝える苗族が村を作るときには、必ず柱を広場の真ん中に立てる。この柱こそが、その集落の中心のシンボルとなり、その柱の上には鳥が止まっている。鳥は東の方向を向いている。日本の国生みでもイザナギとイザナミは天の御柱を一本立てて、国生みを行った。伊勢神宮の正殿の床下には心御柱が一本立てられている。しかし上端はどこにも繋がっておらず、なにかの荷重を支える構造物でもない。

考察10 東夷そして蝦夷そしてアイヌ

水田稲作が始まると大和民族と夷に別れた。紀元前10世紀頃。大和民族はアマテラスから始まった。邪馬臺国が滅亡した後に西日本の海に残った夷たちは海民という存在となり、海軍勢力となったり海賊行為も行った。熊襲や隼人も夷だが心中を繰り返しながら徐々に朝廷にしたがった。東夷の中でも蝦夷は強く、日高見国と称していた。7世紀に入っても抵抗を続ける東方の蝦夷を征伐するために阿倍比羅夫の遠征が開始され、北海道(渡島)までやってきて、シリベシに大和朝廷の成長を設置している。再度入ったときは大河に入っていて、これは大川遺跡のことである。ここは北海道の重要な輸出港であった。その後も東北の蝦夷は神武天皇と戦ったアビヒコの子孫である安倍氏を中心として、朝廷に対して反乱を繰り返す。安倍家は滅びるが、その血糖から奥州藤原家が誕生し、東北地方を支配下に治めた。鎌倉時代に入るとアビヒコの血統である安東家が蝦夷代官ににんめいされる。室町時代にはいると東北安東家は源氏である南部家によって劣勢に立たされ、北海道南端に中心拠点を移すことになる。この頃から「蝦夷地」とは北海道以北をさす。源氏に押され、安東家から独立した蠣崎家は次の天下人となるであろう松平(徳川)と前田から一字ずつもらって松前と称した。蝦夷人はアイヌだけなってしまった。現代のアイヌは縄文人の核DNAを七割近くも保持している。

あとがき

アイヌのクジラ梁とインドネシアのクジラ漁は離頭銛が使われており、全く同じだった。

「岩宿」の発見 幻の旧石器を求めて: 幻の旧石器を求めて

1973 講談社文庫 相沢 忠洋

古代史に興味があり、この本にたどり着いた。とにかく素晴らしい物語だった。

登場人物

相沢 忠洋先生が幼少期の体験や戦前・戦後をどのような生きてきたか。それは日本の歴史をひっくり返す「岩宿」の発見にどうやって行き着いたかを詳しく語っている。

物語のはじまり

相沢 忠洋先生は納豆売りをしてまずしく暮らしていた。両親と共にあった幼い頃からの記憶を辿っていく。

テーマ

興味があることに打ち込むとはどういうことなのか。人間世界には汚いこともたくさんあるが、真摯であるということはどういうことなのか。

最後に

戦前・戦後の情景も描かれているので、そのあたりも非常に興味深い。ただ何よりも相沢先生のお人柄、情熱が素晴らしく、かくも真摯に生きられるのかとも思った。幼少期から辛い体験をいくつも重ねており、その中でも希望を失わずに生きられていたお姿には何度も心を打たれた。厭世的なのは相沢先生の優しいお人柄がそうさせている気がした。この10年で一番感動した作品かもしれない。多くのひとにぜひ触れてほしい。

大人の学び直し 正しく読む古事記

2019 春燈社 武光誠

序章 古事記の始まり

712年に完成した。それまで神話を伝える「旧辞」や、和歌を伝える「旧辞」があった。「帝紀」もあった。古事記は上巻、中巻、下巻に分かれており、上巻は5つに分かれる。1神々の出現、2国生み、3高天原、4出雲の神々、5日向三代だ。スサノオノミコトと後継者のオオクニヌシに多くが割かれている。中巻は神武天皇から応神天皇までになっている。下巻は仁徳天皇から推古天皇まで、物語は顕宗天皇で終わる。仁賢天皇以下は系譜だけになっている。
 やまと言葉でかかれている。日本書紀との違いとしては、卑弥呼を神功皇后だと考えていた。神武天皇の時代以降は特定の日付があるが、推古天皇以前はあやしい。

第一章 国の創世神話

造化三神から始まる。神世七代に続く。日本書紀は神世七代から始まっている。(★島を作った話は島ができたという時期)
 秩父神社:知知夫彦命の祖先が八意思兼命。(八代神社:渡来系武士)高御魂神社:高御産巣日神の子孫と称した津島下県氏。

国生み。日本書紀にはヒルコは三歳になるまで足が立たなかったとある。大八洲を生む。淡路島では国魂と呼ばれた土地の守り神がいる。淡路市に古代のイザナギ信仰の流れを引くイザナギ神宮がある。天地の間を行き来する天鳥船神などを生んだ。鉱山の神。日本書紀には迦具土神が埴山姫と結婚してワクムスヒという食物の神を生む伝承がある。(★イザナギは淡路に関係するか)

黄泉の国訪問。帰ると、イザナギは筑紫の日向の橘小門のあわきはらで禊祓いを行った。宮崎市の阿波岐原町にある江田神社をその地とする説もある。様々な神が生まれる。綿津見三神は阿曇氏が祭る神で、住吉三神は津守氏の氏神。外交や貿易に従事した航海民を束ねる豪族。
 伊射奈岐神社@淡路市、花窟神社@和歌山県:イザナミの御陵。伊射奈美神社:海神信仰。西宮神社:ヒルコが西宮の海岸に戻ってきた。龍田大社:イザナミ・イザナギの子シナツヒコトトミコトという風の神=国御柱大神。

高天原。イザナミはアマテラスに首飾りを授けた。高天原にスサノオが向かう。イザナギは近江の多賀の地にお隠れになった。天ヶ原でスサノオは、福岡県宗像市の宗像神社で海の神として祀られている三柱の女神を生んだ。また皇室の祖先の五柱も生んだ。スサノオは事故を犯しアマテラスは天の岩屋にこもる。スサノオは献上品を差し出した。(★スサノオと高天原の関係)

ヤマタノオロチ。スサノオは出雲で進行された土着の神。くしなだひめを妻に。須賀ですがすがしいので和歌。2世紀ごろに出雲全域の豪族連合がつくられ、荒神谷遺跡で豪族たちの共同の祭事が行われるようになったと見られる。主導したのは神門氏の先祖。荒神谷遺跡に近い飯石郡須佐郷に須佐神社がある。現在の宮司家はクシナダヒメの親の足名椎の神の子孫だと称している。出雲氏は須賀で勢力を拡大し、意宇郡と呼ばれた島根県松江まで勢力を広めた。松江市の八雲町に熊野大社という有力な神社がある。出雲市は四世紀半ば大和朝廷と結んで神門氏を従えた。(★スサノオは出雲関連)
 祟神天皇の祭祀場を伊勢に移したと日本書紀。月読神社@長崎県壱岐市:壱岐は月神の子孫としていた。八坂神社@京都:スサノオ、クシナダヒメ。氷川神社@さいたま市:五代孝昭天皇に始まる、スサノオ、稲田姫。

オオクニヌシの迫害。いなばのうさぎ。オオクニヌシが焼けた岩を受け止めたのは赤猪岩神社@米子駅の近く。焼け死んだオオクニヌシに神産巣日神は女神を送る。紀伊の国の大屋毘古神を頼る。根の国のスサノオも訪れ、スセリヒメを娶る。出雲の伊賦夜坂を下って根の国に行くと信じされていた。オオクニヌシは因幡の八上比売や、越(北陸)に行って、沼河比売に求婚、中のよい夫婦になった。沼川郷(新潟県糸魚川市)の女神で奴奈川神社がある、ヒスイが取れた場所。この他に宗像大社の多紀理毘売命、建物の神、神屋盾比売命、鳥を取る職業の人々が進行する鳥取神の三柱が妻。オオクニヌシは少名毘古那神の助けを得て、国作りをした。日本書紀の異伝の中に少名毘古那神は高皇産巣日神の子神とするものがあるし、伊予国風土記にはスクナヒコが温泉に入って生き返った話が記されている。
 大国主神を祭る中心神社は出雲大社だが、中世以降に各地に分社ができた。少名毘古那神は対を成す神として人々に愛されてきた。赤猪岩神社@鳥取県南部町:大国主が赤く焼いた岩をやいてなくなった、淡島神社@和歌山市:神功皇后が帰りに難破して友ヶ島(神島)にたどり着いた。白兎神社@鳥取市:素兎が体を乾かした身干山につくられた。

 日本神話のルーツ。3つの道筋。1つめはオセアニア、インドネシア、フィリピン。2つ目は江南から中国の長江下流域から九州にいたる道。3つ目は中央アジアの草原地帯から中国東北地方を経由して朝鮮半島から日本に来る道。南方系神話は知らない海の向こうから神々が訪れる物語。古代の江南は南方の国々の公益の中心地として栄えていた。紀元前1世紀には江南の有力な航海民がまとまって日本に移住して同鏡を用いる祭祀などを伝えている。北方系の神話は神々が点から降りてくる。遊牧民の文化は5世紀末から日本に入ってきた。

第二章 皇室の起源

 国譲り。大国主神は大物主神の教えに従って国をよく治めた。ただ天之忍穂耳命に地上に降って日本を治める。天の浮橋からみると日本国は騒がしく、君主の命令のもとに、地方豪族が秩序だった政治をするのが望ましいととし、アマテラスは造化三神の中の高御産巣日神と会議をし、天菩比神の派遣を推薦した。四度に渡って高天原から出雲の大国主神の下に使者が送れた。出雲国風土記に天乃夫比命が意宇郡屋代郷(島根県安来市)に天降ったという伝説が記されている。彼は三年たっても連絡なし。天若日子に宝器を与えて送り込むが大国主神の娘を妻とし8年戻らず。鳴女をおくるが射殺される。剣の神の建御雷神が船を操る天鳥船神と共に出雲に向かう。この二柱は中臣氏が祭った神。二柱は出雲大社の近くの伊邪佐の浜(稲佐の浜)に降り立った。建御名方神と建御雷神が争って、諏訪に来てそこにとどまった。遷却祟神祝詞という朝廷の祝詞に、この話の原型が見られる。(★3番め、大国主神は高天原の関係)

 天孫の天降り。アマテラスが天之忍穂耳命を呼び地上を降りることを命じたが、子神の邇邇芸命に命じる。子神の母は高御産巣日神の娘の万幡豊秋津師比売命だった。つまりアマテラスの子神と高御産巣日神の子神が夫婦になって、その間に生まれた子が皇室の先祖として地上に降ったことになる。高御産巣日神は重要な神だがアマテラスと並んで国譲りの交渉を主導しており、日本書紀の異伝では高皇産霊尊の指導のもとに国造りがなされたと記すものもある。高御産巣日神を豪族たちが氏神として祭る国魂の神の上に置かれた農耕の守護神だとする説もある。古くは高御産巣日神がその子孫を地上に送る神話があったという意見もある。国魂の神の祭祀が行われた五世紀以前には産霊の神が信仰されていたと筆者は考えている。大和の大物主神を助けた産霊の神が高御産巣日神とされ、大国主の治めた出雲を守る産霊の神が神産巣日神になったと考える。王家の祭祀を担当する五氏を邇邇芸命に同行するようにいう。お供の神の多くは天の岩屋神話に見れる神であるので、天孫降臨神話とは一体のものとされる。また三種の神器の紀元にもなりアマテラスが邇邇芸命に三種の神器を授けたとしるしている。一行は猿田彦神の道案内によって高千穂の峰に降り立ったという。お供の天宇受売命に猿田毘古神まで送っていくのと、妻になるのを命じた。猿田毘古神は伊勢で古くから祭られていた神、中流豪族の宇治土公氏の先祖。宇治土公氏の下で祭祀の芸能を担当とする猿女氏によって中臣氏とつながりをもつ。猿女氏は猿田毘古神に仕える天宇受売命という巫女の神の子孫と称している。中臣氏は猿女氏の一部を大和に移住させて、神事の歌舞の担当とした。

高千穂の峰に降り立った邇邇芸命は「韓の国に向き合い、笠沙の峰(鹿児島県南さつま市)に一本の道が通じている。朝日のまっすぐに射す国で、夕日の照り輝く国である。この場所こそ最も良い土地である」。邇邇芸命は神阿多都比売(鹿児島県西部の阿多の地女神)に出会い結婚を申す今田が、石長比売とも結婚を希望するが断る。これは東南アジアに広く分布するバナナと石を選ぶバナナ型神話の変形である。
 鹿島神社@茨城県鹿嶋市:武槌大神。息栖神社@茨城県神栖市@岐神、天鳥船神。美保神社@松江市:三穂津姫命、事代主神は大国主神の最も格の高い子神。諏訪大社@諏訪市:四社、建御名方神、八坂刀売神。英彦山神宮@添田町:アマテラスの御子神。霧島神社@霧島市:邇邇芸命。猿田彦神社@伊勢市。
 三種の神器。銅鏡は紀元前1世紀後半、北九州に江南の航海民の集団が移住してきて魔除けの宝器として広めた。朝鮮半島あら銅剣。一世紀半ば頃から青銅器が国産化された。二世紀末に青銅器が量産。同時に鉄製の刀剣が輸入、鉄剣が宝器となる。大和朝廷の誕生は銅鏡と鉄剣と勾玉が祭器の中心に置かれた時代にあたった。(★時期が分かる)平安時代には賢所に安置されていたが、現在の皇居にも賢所がある。

木花開耶姫命は邇邇芸命の子供を日の中で生む。これは南方に広くみられる「火中出生説話」を元にしている。山幸彦と海幸彦の争いは南方に広く見られる「失われた釣針」の話にならった。山幸彦が瑞穂の国主となり、隼人を従わせるという内容につなげている。そのあと海神の娘の豊玉毘売が山幸彦の子を宿して地上に来て、鵜葺草葺不合命を生むが姿をみられたとして海に戻る。これも南方の伝説の異型である。豊玉毘売の妹の玉依毘売が地上にきて鵜葺草葺不合命と結婚し4人の子をもうけた。二人の姫は海神に仕える巫女であるとする。
 潮嶽神社@宮崎県日南市:海幸彦。若狭彦神社@福井県小浜市:山幸彦と豊玉姫。塩竈神社@宮崎県塩釜市:建御雷神が去った後、藍土老翁神がとどまり人に漁業や製塩を教えた。和多都美神社@対馬市:山幸彦、豊玉姫。海神の宮殿は対馬にあった。青島神社@宮崎市:玉の井という井戸で初めて山幸彦と豊玉姫が出会ったとされる。(★海神は島の豪族か?)

コラム:国造りはアマテラスを上位におくための神話。王家はかつて大物主神が大国主神の上位だったが、それを変えた。古くからある穀魂(穀霊)の降臨神話が国造りと結びつけられて天孫降臨神話がつくられた。邇邇芸命というのはもとは各地で進行されていた稲魂の神であった。高千穂は稲穂を高く積み上げたありさまであった。

神武東征:日本書紀では神武天皇の実名が彦火火出見で、邇邇芸命の子にあたる山幸彦の名前が彦火火出見尊である。古事記の中巻は伊波礼毘古命が高千穂宮で兄の五瀬命と話し合って、都とすべき地を探すために東方に行こうと決める所から始まっている。かれらはあちこちに寄港して大和に近づく。明石海峡を通る時、さ根津日子という国津神に出会い、道案内をさせた。この初代の稚根津日子は大和神社の祭祀を担当した倭氏の先祖である。倭氏の本拠地は大和朝廷を開いたとされる纏向(奈良県桜井市)のすぐ北に当たる奈良県天理市南部である。纏向遺跡から吉備(岡山県から広島県東部)特有の出土品が多く見つかっている。保久良神社の存在からみると倭氏は古くは保久良神社のある神戸市東部を治めた豪族であったと考えられる。220年ごろにそれまで何もなかったところに広さ一平方キロメートルの巨大な纏向遺跡を開いた。最初の大王と呼ぶべき人物。どのように神武東征に反映されているか不明。登美能那賀須年泥毘古という者が待ち構えていた。登美は地名。長脛彦は各地で祭られていた嵐の神を指すと言われている。五瀬命が重傷を負ったので船に戻って逃げたが、紀伊国の竈山でなくなる。
 高倉下が渡した神剣を伊波礼毘古命が手にすると熊野の悪神は退散する。この神剣は石川神社で物部氏が祭った布都御魂である。王家は三輪山の山の神である大物主神を土地の守り神として祭り始めた。大物主神は国魂と呼ばれる人々に水の恵みを授ける農耕神であった。物部氏と尾張氏の系譜を記した「先代旧事本紀」は高倉下を尾張氏の先祖としている。「高天原から降った邇芸速日命の長子を天香語山命という。彼は尾張氏の始祖で、別名を高倉下といった」(★別に降っている)この天香語山命の弟が物部氏の始祖とされた宇摩志麻遅命である。このような伝承によると建御雷神から降ろされた布都御魂は、高倉下から伊波礼毘古命に献上されたのち、高倉下の弟の宇摩志麻遅命に下げ渡されたことになる。神武東征伝説は継体天皇の時代に創作されたとされた説が有力であり、その次代は大連の大伴金村と物部アラカイが国政を動かしていた。高御産日神が夢に出て八咫烏を送ると告げている。八咫烏は葛野主殿県主という士族の祖先が見である。京都盆地の東方に本拠地を置き、賀茂大社の神職を務める賀茂氏は子孫である。葛野主殿県主は儀式の松明などの照明を担当していたために道案内の話がつくられたと考えている。
 宇陀の地は兄宇迦斯、弟宇迦斯(★発音)の兄弟が治めていたが、伊波礼毘古命を殺そうとしていた。弟宇迦斯は氷を管理する豪族。忍坂(奈良県桜井市)で八十建と呼ばれる豪族を騙し討ちする。
 邇芸速日命のみことは伊波礼毘古命に「故追いて参下り来つ」と行って従った。物部氏は「最初に王家に従い王家による日本統一を助けてきた」と主張した(★日本統一はすでにされていた、アレキサンダーか)古事記では邇芸速日命が長髄彦の妹の登美夜毘売と結婚して設けた宇摩志麻遅命が物部氏の祖先としている。
 長髄彦は嵐を起こす手長足長の神で縄文時代から祭られており、国魂の神とは土地の守り神で、稲などの作物を育てる農耕神であった。(★嵐の神:長髄彦→農耕の神:国魂→太陽の神:アマテラス)
 高千穂神社@高千穂宮町:十社大明神の祭神の三毛入野命は神武天皇の兄にあたり、常世国に渡った。(★常世国にわたった?)亀山神社@和歌山市:五瀬命を葬った。宮崎神社@宮崎市:神武天皇の孫の建磐龍命が伊波礼毘古命を祭ったのが始まり。保久良神社@神戸市:倭国造の祖である椎根津彦が青い亀に乗って近くの浜にやってきた。八咫烏神社@宇陀市:建角見命。刺田比古神社@和歌山市:戦士たちの指導官、道臣命。物部神社@島根県太田市:宇摩志麻遅命が天香山命と共に物部一族を率いて各地を平定した、美濃から越国を巡り、石見国に来た。石切劔サヤ神社@東大阪市:神武東征の後、饒速日命が祭られた。
 欠史八代とは。6世紀のはじめの時点で2代目綏靖天皇と10代祟神天皇の物語しかなかった。祟神天皇の物語は3世紀末に実在した「みまきいりひこ」という大王の事跡を下敷きにまとめられたと考えられている。5世紀の王家の人々は祟神天皇を始祖を意味する「はつくにしらすすめらみこと」と呼んでいた。しかし神武東征伝説ができたあと、神武天皇も「はつくにしらすすめらみこと」の敬称で呼ばれるようになった。2代目綏靖天皇と10代祟神天皇の7代の治世に関する記事が「旧辞」にはなかった。そのため古事記や日本書紀は開化天皇にいたる部分には物語を入れずに系譜だけを記した。

第三章 天皇と大和朝廷

五世紀までは三輪山の大物主神を自分たちの先祖神としていた。大物主神はお置けの先祖を指導者とする人間や動植物その他の霊魂の集合体だと考えられていた。必要な時に古墳に降りてくると言われていた。三輪山の登り口に拝殿が建てられて、大神神社の形ができたのは7世紀末。大和の地の守り神の「国魂の神」として信仰されていた。みまきいりひこ(祟神天皇)が三輪山の神の祭祀を始めた。(★祟神天皇が神道の始祖?)古事記は「意富多多泥古というものに私(大物主)を祭らせれば、疫病が収まる」と大物主が語る。祟神天皇は彼を探し祭らせ、伊加賀色許男命に祭りの土器をつくらせた。そして意富多多泥古の先祖の活玉依姫が大物主神の妻になる話が続く。意富多多泥古は大王の下で三輪山の祭祀を行った大神氏の先祖である。大三輪氏の祖先の女性が大物主の神となる話。これに対して日本書紀では王家の巫女が大物主の妻になる話になっていて、箸墓古墳がでてくる。箸墓古墳野跡にこの形式を真似た古墳が広がっている。これは王家が各地の豪族を組み込んでいったことを表している。

四大将軍の派遣。これは阿部氏の勢力は北陸地方や東海地方、吉備氏の協力を得て山陰地方まで及んだ。祟神天皇の子の垂仁天皇は沙本毘女を妻にしていたが、妻の兄が反乱を起こしたため、毘女と共に滅ぼされた。子供の本牟智和気王は話さなかったが、出雲を参拝して話すようになった。これは出雲の豪族が大和朝廷の支配下に入ったという史実を踏まえたものと見られる。垂仁天皇の治世に相当する330年頃から350年頃にかけて古墳が出雲の各地に広まっていることと対応している。
 豪族の始祖を祭る神社。田村神社@高松市:猿田彦大神、高倉下命を含む5柱を合わせた田村大神。大直禰子神社@桜井市:大直禰子命(意高多多泥古)、敢國神社@伊賀市:敢國津神(大彦命)。

倭健命の遠征。12代の景行天皇はおしろわけという名前を持っていた。4,5世紀には別という敬称をもっていた豪族が多く見られる。景行天皇は80人の王子をもうけて、若帯日子命、倭健命、五百木之入日子命の三人を手元に残し、あとの王子は国作りなどの地方官にした。倭健命は小碓命といい、大碓命という兄が言った。日本書紀には大碓命は蝦夷平定の将軍を言いつけたところ逃げ出したので美濃に領地を与えて王宮から追放した。これが美濃の身毛津氏と近江の守氏の祖先とある。古事記にも大碓命が美濃の宇泥須氏と牟宜都氏の祖先とする。筆者は近畿地方東辺部の近江、美濃、越前の三国に王家の子孫と称した中流氏族がいくつか見られることに注目する。4世紀はじめから有力な古墳が広まっているので、初期の大和朝廷と深い関わりをもった地域なのではと考える。
 西征。小碓命は叔母の倭比売命のもとをおとずれる。垂仁天皇の娘でアマテラスの祭祀を行ってきた。伊勢神宮は七世紀末にできる。七世紀半ばには太陽神を祭った笠縫邑に行く形だったとみられる。倭比売命は小碓命に女性の服と探検を与える。熊曾の地では除草して熊襲建の兄のそばに寄って短剣で刺し殺し、逃げ出す弟も殺す。熊曾は日向、大隅、薩摩を合わせた地域を支配した。しかしくまそなるものが存在したことを示す確かな文献はない。隼人との対立から話を創作したか。その後、出雲建と仲良くなり殺す。出雲建の和歌を読むが、日本書紀では同じ和歌を出雲氏の振根と飯入根の兄弟争いのときに読まれたものとしている。飯入根が兄の騙し討にあって命を落としので出雲たけると呼んでその死を悼んだ。
 東征。草薙剣の霊験譚として構想された。火に囲まれたところ草薙剣で助かり、手放したので伊吹山の神のたたりでなくなっている。かつては相手に対して相手が住む土地の神を祟ることによって相手に対して敬意を示した。景行天皇は息子に「東の方十二道の従わない豪族たちを説き伏せて来なさい」といっている。伊勢の倭比売命から火打ち石。尾張の美夜受比売。相模の火攻めで向火の話。房総へ船の途中で弟橘比売命が海神に身を捧げる。継体天皇は6世紀はじめにアマテラスの祭祀を始め、娘の大角豆皇女を太陽神を祭る斎宮とした。帰る途中に美夜受比売と会い夫婦になる。伊吹山で病気になり亡くなる。

 古事記では倭健命がなくなったので、弟の若帯日子が大王になり、葛城市や蘇我氏の先祖と言われる建内宿禰を大神に任命した。お時期は成務天皇が亡くなった後に倭健命の子、帯中日子が大王になったとある。仲哀天皇である。この天皇は息長帯比売命(神功皇后)を妻に迎えて、筑紫に赴いて熊曾を討とうとしたという。ここい記した成務天皇、仲哀天皇、神功皇后は7世紀末に新たに創作された人物と筆者は考えている。
 倭姫宮@伊勢市:倭姫命。焼津神社@焼津市:向火の場所。走水神社@横須賀市:日本武尊から授かった冠を御神体。橘樹神社@千葉県茂原市:弟橘比売命の櫛を葬った。
 コラム。常陸国風土記には倭武天皇を主人公にした伝承がいくつか記されている。また鹿島神宮の近くの乗浜は倭武天皇が来られたときに多くの海苔が干されているのをご覧になられた。そこで乗浜のち名ができた。

 神功皇后の三韓遠征。仲哀天皇が熊曾を討つために筑紫の香椎宮(福岡市)にいたときに皇后が神がかりになって神託を述べるが、それを疑った仲哀天皇はなくなる。改めて神託を伺うとお腹にいる皇女が統治する。三柱の住吉の神。新羅に向かいなさい。船団が津波お起こし新羅国の半分が瞬く間に海に沈んだ。新羅は戦うことなく神功皇后に降伏した。古代史の研究者の多くは37代斉明天皇という女帝をモデルに白村江の戦いを下地に構成されたのではとしている。神功皇后伝説の最も古い形は宗像三神の霊験譚であったと考えられる。4世紀なかばに大和朝廷と朝鮮半島南丹との貿易がさかんになったときに、王家による宗像三神の祭祀が始められた。対馬海峡の航路近くにある沖ノ島(福岡県宗像市)には祭事遺跡が多く見つかっている。

 神功皇后は新羅を従えて帰国した後、九州の宇美で王子を産んだ。しかし王子の二人の異母兄弟が反乱を企んでいた。反乱を鎮圧し、王子は伊奢沙和気。いざさわけは天理市の石神神宮に伝わる七支刀銘文に名前が出てきて「倭王旨に贈る」とあり。この後に宋書に賛・珍・・興・武の五人の倭王が続く。百済と国交が開始され、盛んに貿易が行われた。
 香椎宮@福岡市:仲哀天皇、神功皇后。高良大社@久留米市:高良玉垂命、筑後の国魂、武内宿禰と同一神としている。


 

新日本古代史

2021 育ほ社 田中英道

はじめに

三国志の倭人伝、魏志倭人伝の邪馬台国がやたら尊重された。卑弥呼神社は荒唐無稽。第一の神武天皇=ニギハヤヒノミコトによる第一大和国、第二の神武天皇=祟神天皇意向の第二大和国、聖徳太子による神仏習合の国の第三の大和国。西洋の中世は破壊されていて存在しない。中国も漢民族の歴史ではない。秦の始皇帝はユダヤ系。土偶は近親相姦による奇形。高天原の神々の話は日高見国の話。天孫降臨によって西に移動した。「大祓詞」に出てくる「大倭日高見国」の誕生。

第一章 日本を目指す太陽信仰と日高見国

大陸から太陽の昇る国日本に来た。東方信仰。太陽と月をシンボル化した勾玉なのでは?皇室の菊の御紋はエジプトやイスラエルでもシンボルとして使われている。菊は中国のもので日本に入ってきたのは奈良時代。本来は太陽紋だったのでは?日本は都市国家ではなく、自然とも調和していた国家。古事記、日本書紀、風土記でも高天原が扱われている。高天原が日高見国という国で縄文時代から発生している。ツクヨミノミコトはアマテラスオオミカミから命ぜられて、ウケモチノカミのところへいく。これをころしてしまうが、死体から牛、馬、蚕、稲などが生まれ、穀物の期限となった。これは日本書紀の話。
 日高見国の名前が土地に残っている。日高見国と通じる北海道の日高地方、日高見川といわれている東北の北上川がある。埼玉県の日高山、奈良県の日高山、大阪府の日高山。鹿島神社や香取神宮のそばに高天原という土地が3つも残っている。高天原には天地があり、最初にアメノミナカヌシノカミ(太陽神、最初の頭首?)、タカミムスビノカミ(高見?ムスビは統一?)、カミムスビノカミの三柱がうまれる。タカミムスビは、オモイカネノミコト、タクハタチジヒメという子供。アマテラスが天孫降臨を命じたアメノオシホミミはタクハタチジヒメと結婚し、子供がニニギノミコト。タカミムスビはニニギノミコトの外祖父、天皇家の祖父。古事記にはタカミムスビが7箇所も出てくる、勾玉は関東に多く発掘されている。

第二章 縄文文明と「神代七代」日高見国

縄文時代の遺跡は関東・東北に多い。千葉・東京には貝塚も多く、土器・土偶の出土も多い。具体的な地名が多いため縄文・弥生時代の記憶をもとにつくられた物語、歴史である。日本書紀の景行天皇の二十七年の記事に「東夷の中、日高見国あり、その国の男女、並びにかみをあげ<<みをもとうげて>>(入れ墨)、人となり、勇敢なり、これ総て蝦夷という」とある。ヤマトタケルノミコトの陸奥の戦い後の描写では、「蝦夷すでに平らぎ、日高見国より帰り、西南常陸を経て、甲斐国にいたる」と書かれている。鎌倉時代の釈日本紀には「孝徳天皇の御代つまり大化の改新の時代に、茨城に新しい行政区として信太郡が置かれたと風土記の常陸国編に残っていますが、この土地がもと日高見国と呼ばれた地域である」と解説されている。平安時代の延喜式に定められた祝詞「大祓詞」には、日本全体を示す「大倭日高見国」という言葉がある。中国の歴史書「旧唐書」には「倭国」と「日本国」とが別々に書かれている。
 日本最初の土器は一万六千五百年前で、縄目模様の特殊な土器。土器は調理器具でもあり大型なので定住した。1988年青森県の大平山元遺跡で世界最古の土器が見つかった。漆器も北海道の南茅部町で発見された。1950年三浦半島で世界最古の1万年前の貝塚も発見された。世界最古級の二万年前の墓陵が大阪府藤井寺市のはざみ山古墳。定住は日本が世界で一番はやかった?一万数千年前から栄えていた縄文文化の代表格は三内丸山遺跡。5500年前〜4500年前。
 関東地方で竪穴住居がある遺跡は65箇所。最大なものは東京都府中市の武蔵台遺跡。南関東では漁労もしていた。関東以外では北海道の函館の中野B遺跡に、縄文早期から中期と見られる五百棟以上の竪穴式住居跡。墓からは多数の土器。漁労を行う住居に即した土器、石皿。三内丸山遺跡は紀元前5100年から紀元前3800年に存続、常時600人と思われていたがそのごの調査で5000人が住んだ都市。1994年には大型建造物の存在を示す直径一メートルの6本の栗の木。
 黒曜石、琥珀、漆器、翡翠製大玉が日本各地で出土。交易によるもの。縄文遺跡を地図上で見ると、甲信越から関東・東北に密集。そこに道があったと考えらえる。
 紀元前5600年から紀元前4000年までは縄文中期だが、遺跡をみると東北・関東・北海道が発展していた。高天原=日高見国という国があり、中心地が来たから南へ、東北、関東、中部と変化した。常陸国地方、武蔵国地方、八ヶ岳周辺。高天原に三柱の現れ、タカミムスビ、カミムスビの二神が現れるときに<葦牙のごと燃え上がる物によりて成りし神>とあり、高天原に「葦牙(あしかび)」の存在を伝えている。葦牙は葦の芽のことで、ウマシアシカビヒコチノカミがそのことを示しているもう一つの神はトコタチノカミで、この二神が作った島々は<豊葦原の千秋の長五百秋の瑞穂の国>と言われている。葦はいずれも稲田を意味するが日本書紀では日本のことを豊葦原の国と読んでいる。
 エドワード・モースは「記紀の国生み、天孫降臨、神武東征は天皇の祖先が渡来し、先住民を征服した」という見方をしていた。司馬遼太郎も「異本列島は紀元前300年ぐらいに稲を持ったボードピープルがやってくるまで闇の中にいた」との見解を述べた。
 三柱の跡に五柱が現れ別格の天津神としている。その後にイザナギ、イザナミを含めた七神が現れた。この神世七代までが縄文早期に当たると筆者は考える。

第三章 イザナギの系譜と国譲り

縄文時代の中期から後期のはじめにかけては温暖な時代が続いていたが、後期からは日本はだんだんと寒冷化した。縄文海進で海が内陸に入り込んだ状態。寒冷化は今から三千年前から始まり、人口移動が始まった。当時の90%以上の人たちが関東、東北、北海道にいた。しかし人々は西や南、西南に移る。この時代、人口移動に伴い、島国としての日本の防御が問題になり、国生みにつながると筆者は考える。国生みは西半分だけである。東の日高見国は西の国大和国を作ったとする。大陸からの勢力に備え西の地方を防御するという。
 イザナギが同族婚をやめ、多くの別の家系と関係を持ち始めるのが縄文と弥生の変わり目。イザナギが生んだ三貴子、アマテラスは太陽、ツクヨミは月、スサノオは海。スサノオは命に従わずイザナミに会いたい。古事記ではスサノオはイザナミの鼻から生まれた。日本書紀はイザナギの手にした白銅鏡。スサノオの母はアマテラスとツクヨミの母とは異なる女性で、先住民系ではなく帰化人系なのではにか。スサノオの髪型がユダヤ人特有のみずらである。スサノオは黄泉の国に行く前にアマテラスに会おうとするが高天原を占領しに来たと思い臨戦態勢をとる。左右のみずらにかずらをつけた。みずらはユダヤ教徒たちが古代から続けている髪型である。中央アジアの仏教壁がにみずらをしている人物が描かれる。スサノオは高天原で8つの悪行をするが農耕に関するタブー。これはスサノオが遊牧民族だとする。逆剥は馬を逆さに剥ぐことだが馬のいなかった日本人にはできない。スサノオは中部・関東・東北の日高見国で悪行をしたと考える。スサノオが統治するはずだった海の国、大和国以前の西国、出雲を中心とした神が、東国=日高見国を破壊しようとした。
 アマテラスは天の岩屋に隠れて、世界が暗闇になる。日食は短すぎて古事記とは合わない。火山や噴火によって天空が闇に包まれる現象。富士山こそが高天原と葦原中津国を闇に覆うことができる規模の火山。紀元前15000頃〜紀元前6000年頃まで山頂噴火と山腹噴火など断続的に大量の玄武溶岩を噴出した。
 スサノオは高天原を追放されるが財産没収、髪の毛を抜く、爪を剥ぐ、という処罰がくだされる。財産は千座置戸の没収で、千の倉に入るほどの財産を没収されたとされているが、なぜスサノオが高天原に財産を追っていたかは記されていない。古事記によるとスサノオは出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(今の奥出雲町鳥上)に降り立ったと記されている。注目すべきは降り立ったところに具体的な地名があることです。オロチを退治したスサノオはクシナダヒメを妻にすると出雲の根の堅洲国(島根県安来市)の須賀の地へ行った。オオクニヌシが根の国のスサノオのもとにやってきて、娘スセリヒメと互いに一目惚れをする。スサノオは試練を与えたが克服しオオクニヌシという名を送った。古事記によるとオオクニヌシはスサノオの六世の孫、日本書紀ではスサノオの息子、葦原中国を作った神。葦原中津国を主要な活動の場にしている神々を国津神、アマテラスはじめ高天原の神々を天津神という。
 国譲りとは高天原のアマテラスが葦原中国、つまり地上の国・出雲を収めるオオクニヌシに向かって圧力をかけ、国の支配権を譲らせた神話。高天原から何度か使いを出すが葦語のタケミカズチノオノカミという剣豪が送られ、オオクニヌシの息子、タケミナカタノカミは国を譲る。タケミナタカは諏訪に連れて行かれる。オオクニヌシの降参を示すかもしれない遺物が発見されている。出雲大社近くの荒神谷遺跡から358本の銅剣、六個の銅鐸、銅矛16本が1984年に出土している。国譲りは銅vs鉄で銅が敗れたともみられる。

第四章 日高見国から大和国へー天孫降臨

天孫降臨はアマテラスの孫にあたるニニギノミコトが地上へ天降ることを指している。筆者は日高見国の中心地である鹿島から九州の鹿児島に統一に向かうという史実とする。ニニギノミコトの九州への天孫降臨より前、ニギハヤヒノミコトにより最初の天孫降臨があった。関東の鹿島から天の磐船に乗って伊勢から大和地方に入ったと伝えられるニギハヤヒノミコトを祀る神社は千葉や茨城に二十五社もあり、伊勢には三十から四十社あります。このようにニニギノミコトの天孫降臨より前に天孫降臨して大和に入ったニギハヤヒノミコトたちがいたことを証明している。鹿島から鹿児島(日向の高千穂峰)に天孫降臨したニニギノミコトは土地の豪族・オオヤマツミの娘コノハナノサクヤヒメを娶る。そこから生まれたのがホデリノミコト、ホスセリノミコト、ヒコホホデミノミコト=山幸彦である。山幸彦の三代目、ニニギノミコトの四代目にあたるのが、イワレヒコ=神武天皇です。のちに東征を行って、奈良・大和の地を平定する。
 神武天皇の再統一は大陸から来る帰化人たちが多くなり、北から南下して西に定住する人たちも増えて、関西が非常に重要になってきた。徐福も秦の始皇帝の命で日本にやってきている。中国の春秋戦国時代に入り戦乱で大陸から九州に流入してくる難民の人が多かったと想像される。イワレヒコの東征は大陸からの侵入に備えたものとと筆者は考える。徐福は三千人の男女と技術者を連れて船出した。日本各地に徐福伝説が残っており、京都府与謝郡の新井崎神社、三重県熊野市の徐福の宮など徐福を祀る神社もあり、熊野市には秦の時代の半両銭が出土している。日本の建国には常に外圧が関係していた。神武天皇の時代、聖徳太子以降の天武天皇から聖武天皇の時代、そして明治天皇の時代と日本には大きく3つの「建国」がある。それぞれに共通するのが「外圧」だった。
 ニギハヤヒノミコトは神武天皇の前に大和に天孫降臨されていた。「先代旧事本紀」によると、このニギハヤヒの天降りの時期は国譲り神話の前に書かれていることから、それ以前のことのことと考えられる。「旧事本紀」巻三「天神本紀」、第五の「天孫本紀」にニギハヤヒとその子、アマノカグヤマノミコト以降の子孫が十七代に渡って語られており、かなり長い間、大和地方を統治していことが分かる。
 イワレヒコは17年かけて大阪の難波に着きます。日本書紀には神武天皇が浪速国の白肩津で待ち受けていたナガスネヒコとの闘いをもって一段つく。ナガスネヒコはニギハヤヒノミコトに使えていたが、天神の子を名乗って土地を奪いに来るイワレヒコに意義を唱える。しかしニギハヤヒとイワレヒコは天の羽羽矢とかちゆきをふたりとも持っていて、ニギハヤヒが天孫であることを確認する。しかしナガスネヒコは闘い殺害される。ニギハヤヒが物部氏の先祖で、ニギハヤヒが国譲りをしている。帰順しなかった豪族は滅ぼされる。禁忌を平定し神武天皇となる。神武天皇は日本書紀にハツクニシラススメラミコトと号されているが、第十代崇神天皇も同じ意味の初国知らしし御真木天皇(古事記)、御肇国天皇(日本書紀)、初国所知美麻貴天皇(常陸の国風土記)と記されている。神武天皇=崇神天皇と考えられるとする。欠史八代はニギハヤヒとう存在をないものにしたところから来た調整。記紀には陵は奈良県橿原市大久保町の畝傍山東北陵(山本ミサンザイ古墳)と書いてあるわけですが、確定できない。欠史八代は東国との関係が非常に強い人達で記録が欠落したのでは?
 神武天皇の大和統一以降、興奮時代には数多くの古墳がつくられた。特に大和や川内にはひときわ巨大な古墳が築かれた。神武天皇の御陵は橿原市大久保町のミサンザイという場所にあるが、もともとは橿原神宮の敷地の中の畝傍山の中腹にあったとされている。小規模だが前方後円墳であったと見られる。前方後円墳は中国に破損ざんせず、朝鮮にもごくわずかし存在しない。奈良には原型はないが、関東の古墳には前方後方墳という形が見つかっていて一つ前の段階だと考えられる。

第五章 大和政権の確立

 祟神天皇は、オオビコノミコトを高志道(北陸道)に、オオビコノミコトの子タケヌナカワワケノミコトを東国十二国(東海道)に、キビツヒコを西道(山陽道)に派遣し、ヒコイマスノミコを丹波国(山陰道)に派遣し、その国を服従させた。この四人を四道将軍という。オオビコノミコトは戦に勝ち、山代国を平定して、高志国ヘ向かい、息子と合流したので、アイヅと呼ぶようになった。 即位十二年、戸口を調査して初めて課役を課したと記されている。この偉業をもって所知初国御真木天皇と呼んだとされている。この治世で大和調整は大八洲を統一した。弟のイクメノミコトを皇太子として、兄のトヨキノミコトには東国を治めさせる。即位62年灌漑事業を行った。65年任那が使者ソナカシチを遣わしてきた。

 景行天皇は息子のヤマトタケルノミコトは九州討伐をすると共に関東・東北を抑えるための東征を行っています。隼人は関東から鹿児島にやってきた人の子孫ではないかと考えている。理由は鹿島神宮、香取神宮と並んで東国三社に数えられる息栖神社と関わりがあると考えられるから。息栖神社に祀られているアメノトリフネノカミはタケミカズチノカミを助けて鹿島から鹿児島へやってきたとされる。アメノトリフネノカミは船の神であり、鳥の神。息栖神社は船の神社でもあり鳥の神社でもある。九州南部には熊襲もいた。この人も関東から来た人と考える。熊襲神社が関東・東北に多いから。紀伊半島の熊襲神社が有名だが、関東・東北に多く点在している。
 子のヤマトタケルはユダヤ人の血を引いていたのではないかと考える。記紀にある殺人行為は日本人的でない。兄殺し。熊襲兄弟を惨たらしく殺害。イズモタケルを卑怯な手口で殺す。更に東国十二国に派遣され、火攻めに会い、焼津と呼ばれる。実際には天皇の巡幸だったのでは。それは軍勢を率いていない。常陸風時の記述では天皇として書かれており、巡幸されたと書いてある。たしかに討つ話は2つだけで後の十七件は天皇の巡幸に関わる内容である。常陸国風土記にはともに狩りを行ったり、清水を飲み御膳を供する様子が書かれている。福島県の都々古別神社の社伝にもヤマトタケルは東征の折に千回戦って千回勝った、とあり後代の八幡太郎義家は社号を千勝明神と改めた。ヤマトタケルは神剣である伊吹山に向かうが、大氷雨にあい、病身になり三十歳の若さでなくなる。

 仲哀天皇はヤマトタケルの第二王子、皇后が神功皇后。熊襲が反抗的だったので仲哀天皇と神功皇后は熊襲征伐に赴く。神功皇后は朝鮮攻めを押すが、仲哀天皇はそのまま熊襲征伐を行い勝てず病気になり崩御する。神功皇后は船を集め、玄界灘を渡って新羅に攻めに行く。筆者はこれはユダヤ人の力があったと考える。海の道を作ったユダヤ人も日本に帰化して、三韓征伐をバックアップしたのではと。ユダヤ人は秦氏と呼ばれる日本人。新羅王は降伏する。高句麗と百済も降参する。神功皇后は身重の状態で朝鮮に渡ったが、その子が応神天皇。

 応神天皇と時代の仁徳天皇が古墳時代の日本で一番栄えた時代だったが、その財力の豊かな秦氏が支えたと筆者は考える。応神天皇の時代に弓月国から百二十県の人々を率いて渡来した弓月君が秦氏の先祖。百済からの渡来人であった。日本書紀によれば弓月君が百済から来朝したのは応神天皇十四年。軍勢を派遣し、新羅の妨害を除去し、渡来を支援した。平安時代初期の新撰姓氏録では弓月君は融通王の中で記録されており、秦の帝室の末裔と書かれている。秦始皇帝三世孫、孝武王の末裔。日本書紀と新撰姓氏録は共に弓月君が秦氏の祖先であると記している。実際に中国の西、ウイグル、カザフスタンのあたりに弓月国は存在しており、そこからユダヤ人たちがはるばる日本に渡ってきた。
 応神天皇は筑紫で生まれた。応神天皇は多くの渡来人を受け入れた。古事記によると王仁によって論語と千字文が伝わったとされている。応神天皇を祭神として弓月神社が丹波にある。秦氏が信仰していた八幡神社は中世に応神天皇と集合した。

 仁徳天皇は第十六代天皇で、日本最大の墳墓は仁徳天皇陵であり、世界最大でもある。これを作った人々は土師氏と言われている。土師氏の先祖は野見宿禰といわれている。巨漢で西方の人と考えられる。もともとは難波についた船から見える高台につくられた。民に慕われていた。秦氏に土地を与え太秦という名前を授けたのも仁徳天皇だった。五十八年の条に中国の東晋の時代だった呉の国と高句麗から朝貢してきた。古代朝鮮の遺物である好太王碑に何度も日本が攻めてきて倭の軍が高句麗と新羅の軍を破ったと書いてある。日本が百済、加羅、新羅を臣民となしたと書かれている。

 雄略天皇はヤマト王権の力を拡大させた。冷酷で貪欲な一面もあった。宋書や梁書に書かれている倭の五王の武であると考えられている。稲荷山古墳の鉄拳の銘や、江田舟山古墳の鉄刀に刻まれたワカタケル大王という銘によって、雄略天皇の実在性は具体的になった。稲荷山古墳の鉄剣の銘文では中華皇帝の臣下そていの王ではなく大王と明記されている。雄略天皇は478年に中国への遣使はやめている。雄略天皇は秦氏を厚遇した。果たしはもともとシルクロードとの関係が深く、機を営むことが多かった。絹、かたおりを朝廷に多く奉納していた。最後の遣使は478年で次の遣使は609年607年の遣隋使で、日本の自立性を示す。宋の順帝は倭王武に新羅・任那・加羅・奏韓・慕韓六国を治める倭王としている。

 武烈天皇は非道な天皇として描かれている。暴君として仕立てたい作者の意図が顕著である。

 継体天皇は58歳で即位した。武烈天皇は世継ぎがいなかったので、応神天皇の五世代孫で、越前国を治めていたおおどのおおき王を迎えた。日本はもともと朝鮮半島東武に大きな拠点をもっていたが、四世紀にあると高句麗が強くなり、南部では百済や新羅が台頭してくる。百済経由で鉄器や鉄の農具・兵器や漢字儒教などの中国文化が入ってくる。四世紀後半に百済が大和朝廷に救援をもとめてきて、救援の軍を九州北部に送ったが、新羅と通じた筑紫の磐井によって反乱が起きる。朝鮮での勢力が次第に衰えていった。

 欽明天皇の時代では大陸から日本にやってくる人が急増した。大陸では南北朝時代にはいり、小国が乱立し、不安定だったので日本に渡来する人がおおかった。百済王は仏像と経典を献上した。日本書紀には仏像がキラキラ輝いているのに驚いた欽明天皇がこの像を慕っていいのだろうかと臣下に訪ねたというエピソードがあります。仏教を受け入れを巡って争いがあった。受け入れる蘇我氏で、拒否するのが物部氏だった。蘇我氏が勝って政治の主導権を握った。

 敏達天皇は朝鮮半島南部の任那の復興を目指して、百済と協議しましたが、うまくゆかなかった。疫病が流行り始める。仏教を拒否してい物部守屋と中臣氏が勢いづいて仏教禁止令を出して仏像と仏殿をもやす。疫病は広がり敏達天皇も病に倒れる。後に蘇我馬子が願い出て仏教を許すとされる。二番目の皇后が額田部皇女だが、後の推古天皇である。

 推古天皇が即位して、甥の聖徳太子が摂政として蘇我氏と協力して仏教を受け入れた政治を行う。共同宗教の神道と、個人宗教の仏教を受け入れ、日本人の精神性は豊かになっていく。仏教の寺院がたてられ、巨大古墳が消えた。

アメリカの「オレンジ計画」と大正天皇

第一章 太平洋の遠雷

日露戦争に勝ったものの戦傷者は38万人。日本人は明治元年にハワイに移住したが、アメリカはサトウキビ植民地にしていたハワイを日本に取られると強引に併合していく。アメリカは過去にもインディアンを駆逐し、メキシコからテキサスを奪ったりもした。ドイツは日露を戦わせて、ロシアがドイツに来ないようにしてほしかった。同じようにアメリカを日本と戦わせようと暗躍した。

第二章 オレンジ計画

アメリカは1897年に「対日戦争のための戦争計画」であるオレンジ計画をスタートさせた。ドイツ向けの「ブラック計画」、ロシア向けの「パープル計画」、フランス向けの「ゴールド計画」をもっていた。
 それに先立つ1846年、ビットル提督は浦賀沖に軍艦二隻で乗り込んで幕府に通商開始を打診したが、断られて撤退した。それを弱腰だとして、1852年グレイアム海軍長官はペリーに日本遠征を命じた。ペリーは来日前に沖縄占領の承認を得ていた。報告書には「イギリスの極東における勢力と拮抗するため、沖縄に「アメリカ海軍基地」を建設すべきである」と意見を送っていた。1854年に日米和親条約を締結した。1861年から南北戦争をする。67年にはロシアからアラスカを購入。
 元海軍大学第二校長マハンは1869年ごろに来日したことがあったが来日した1869年ごろは日本の混乱期で軽蔑的な感情をもった。1890年にはマハンは「歴史に及ぼす海軍力の影響」を発表した。98年から南西戦争をする。98年にハワイ併合。97年にセオドア・ルーズベルト海軍次官が「オレンジ計画」を策定した。この計画は元海軍大学第二校長マハン大佐の指南をうけたものだった。当時のオレンジ計画の問題は日本を攻撃する理由がなかったことであった。
 日露戦争直後の1906年にセオドア・ルーズベルト大統領はオレンジ計画を更新。ロシアをやぶった日本を強大な陸軍を持つ国として、「海上から闘いを挑み、日本海軍を海戦で破る。アメリカの回文力で日本陸軍を打ち破る」とした。対日戦争を無制限経済戦争と位置づけ、「厳しい封鎖・港や船の破壊・通商上の極端な孤立により、日本を「完全な窮乏と疲弊」に追い込む。アメリカは、日本を打ちのめすまで闘いをやめず、日本に徹底的なダメージを与えて屈服させる。そして日本にアメリカの意思を押し付け、アメリカの目的に服従させる」と決意を述べた。アメリカは「太平洋で島々を確保して一歩一歩前進する」との基本戦術を立てた。また日本への威嚇と航海演習のため大西洋の大艦隊に世界一周航海をさせた。
 1911年版オレンジ計画では対日戦争工程表を定めた。第1段階は日本が有利に進め、太平洋のアメリカ領諸島を占領する。第二段階はアメリカ艦隊が日本の通商線を破断し、海戦により日本艦隊を圧倒する。第三段階はアメリカ海軍は海上封鎖によって日本を枯渇させる。さらに日本本土に戦略爆撃を加えて日本を屈服させる。第三段階の最大の洗浄が沖縄になることは、アメリカ海軍当局の一致した見解だった。日本の包囲のために沖縄占領が欠かせないとした。
 マハンは1913年に黄禍論の論文をロンドン・タイムズに寄稿。日英同盟を崩しにかかる。1920年代初期には「日本への戦略爆撃」が登場。陸軍航空隊副司令官ウィリアム・ミチェル準将(通商ビリー)は関東大震災から着想を得て「人口密度が稠密で、木と紙でできた燃えやすい日本家屋の街を、史上初の最大空爆目標とすべき」と提唱した。1928年の修正版では日本の本土の生産設備・輸送機関に対する戦略的大空爆計画を織り込んだ。
 1914年版オレンジ計画では「日本は太平洋諸島に軍事的関心をいだいたことはなく、日本がミクロネシアに求めたのは平和な通商だった」と素直に認めた。オレンジ計画はフランクリン・ルーズベルトに引き継がれた。
 第一次世界大戦が1914年に始まり、日英同盟に基づき英米陣営に参加。1921年には日英同盟は破棄され、1922年のワシントン海軍軍縮条約で軍縮を迫られる。これによりアメリカは補給をクリアすれば日本を征服できることになった。
 1923年版オレンジ計画では「迅速に太平洋の決戦場へ、日本艦隊を上回る優勢なアメリカ艦隊を結集させる」としたが、決戦場は未解決だった。対日戦争工程表の第三段階を具体化した。1936年版のオレンジ計画はフランクリン・ルーズベルト大統領のもとで活発に行われた。彼はマハンの真剣な研究者で、強力なアメリカ海軍の信奉者だった。必要な島々だけを「航空基地用」に占領し、サイパンこそ最重要戦略目標と見極めた。またサイパンやテニアンに航空基地を設営し、直距離爆撃機を飛ばして、日本の最重要目標を戦略爆撃することとした。しかし1936年当時、B17の航続距離は1600キロなので、そこでアメリカ陸軍は航続距離8000キロをもつ直距離爆撃機の設計に取り組みB29の試作機が1942年に完成し、太平洋戦争に間に合った。
 1937年にはオレンジ計画は十九世紀的な古典的な帝国主義の異物として扱われ、ドイツやロシアとの戦争計画が重要とされた。陸軍参謀本部次長塩ビック准将はフランクリン・ルーズベルト大統領に対して、オレンジ計画の極端な攻撃性は、アメリカの安全保障と両立せずアメリカ精神の真髄に反すると進言するに至った。
 1940年には日米通商条約破棄を通告し、ドイツは独ソ不可侵条約を締結した。日本はドイツによるソ連挟撃体制を作って満州の平和を維持するという甘い期待を打ち砕かれた。そのころにルーズベルト大統領は対日戦争計画を積極的に推進し、大義名分を模索した。最終的には黄禍が大義名分となった。
 1940年にはジェームズ・リチャードソン大将が、合衆国艦隊司令長官兼太平洋艦隊司令長官に就任した。アメリカ海軍きってのエースであったが太平洋戦争を回避しようと対日戦争におびただしい負担が生じるが得るべき利益は皆無だと印象づけるようにした。海軍作戦部長スターク大将はアメリカ海軍に対しオレンジ計画の廃止を厳命した。こうしてオレンジ計画はアメリカ海軍の国策文章から公式に抹消された。
 1941年にもリチャードソン大将はルーズベルト大統領に対して、日本との外交による和解こそ正しい解決の道であると進言した。日本海軍を刺激して海戦に至るのを回避すべく「太平洋艦隊」を真珠湾から西海岸のサンディエゴへ戻すべきであると直言した。それに対してフランクリン・ルーズベルトは彼を解任した。さらにスターク大将はオレンジ計画よりもイギリスを助けるために太平洋艦隊の一部を割いて大西洋艦隊を復活させた。これによりアメリカ太平洋艦隊は日本海軍の戦力を下回るようになった。1941年6月にはドイツはソ連へ進行し、独ソ戦争がかいしされ、ドイツのイギリスに対する軍事的圧力が低下し、大西洋の緊張は緩和した。自信を深めたフランクリン・ルーズベルト大統領は外交圧力を強め、7月にアメリカにおける日本資産を凍結した。さらに8月には対日石油輸出を禁止した。
 こうして強大化するアメリカ海軍により日本を打ちのめし、日本に無条件降伏を強要して太平洋制覇を果たす、とのセオドア・ルーズベルトによる十九世紀的な古典的帝国主義の夢はフランクリン・ルーズベルト大統領のもとで実現する。

第三章 帝国興亡方針

日本は日露戦争後は多数の将校を失い兵員補充も困難であり、再度の決戦は困難となっていた。帝政ロシアが復讐戦を仕掛けてくることを恐れた。それに備えて軍服を満州の黄土色の大地から浮き上がる黒からカーキ色に変更した。またロシア陸軍30個師団に対して83%の25個師団で防戦するとした。また1907年に横浜港に来た大西洋の大艦隊グレート・ホワイト・フリートは日本への威嚇と正しく理解した。
 日本の海軍は幕府海軍としてペリー襲来と共に創設されたが、海軍力整備のため幕府財政は破綻した。アメリカ東洋艦隊の約7割に達したが、アメリカ海軍はその後に猛烈なスピードで増強され1904年には世界第二の海軍国になった。1906年にはアメリカの戦艦は33隻、日本は14隻となり4.2割に低下した。日本海軍は戦艦8隻、巡洋艦8隻を目指した。
 1907年、枢密院議長陸軍元師山縣有朋は陸軍と海軍の要望を併記し、帝国国防方針として取りまとめた。日本陸軍は、少数の士族での軍隊を主張した薩摩士族グループに勝った長州奇兵隊を源流とする大村益次郎・山県有朋ら長州グループにより支配された。一方の幕府海軍を源流とする日本海軍は、日本陸軍と対立したため、双方の要望を併記した。また帝国国防方針では「ロシアからの再度の南侵を撃退し、日本の独立を守る」という北守論で統一した。また日本陸軍の中は吉田松陰・高杉晋作の国民平等思想を汲むフランス派と、山縣有朋・桂太郎らドイツ派が対立した。これは山縣有朋の人事権によりドイツ派が勝利し、日本陸軍の軍制はドイツ式に転換した。ちなみに日本陸軍が日露戦争に勝ち得たのは満州軍総司令官大山厳元帥の「包容力厚い将器」による。仇敵会津藩の家老の妹を妻に迎えたり、政敵のフランス派の巨頭三浦を渡欧使節団に加えるなど、敵を懐に抱え込む深い包容力を持っていた。日露戦争では日本陸軍を団結させ、一筋縄では御しきれない強烈な個性派揃いの各司令官を掌握した。

第四章 政党政治の開幕

陸軍の25個師団や海軍の8-8艦隊もあるが国民の生活もあった。日露戦争の戦死者8.8万人の遺族への生活支援、戦傷者38万人の職業訓練費もあった。明治38年は農民の出征や農耕馬の撤廃により大飢饉となった。外債は36億円に急増した。明治政府は富国強兵を唱えて地租改正をしたが、当初から税収不足になやまされた。士族の反乱もあった。明治十年には地租税率を2.5%に下げた。明治13年の国税収のうち地租は75%を占めた。酒税も作った。明治13年には酒税が40%地租が35%になった。
 明治34年の日露戦争3年前に第四次伊藤博文内閣が退陣すると、山縣有朋の腹心の桂太郎が第一次桂内閣を組閣した。これ以降、維新の元勲である藩閥指導者たちは元老となって、天皇の最高政治顧問として首相の推薦・決定や重要国務に参画した。なかでも山縣有朋は藩閥・陸軍・内務省・貴族院・枢密院などに山県閥を張り巡らせた。第一次内閣は日露戦争を完遂して勝利に導いたのち退陣した。しかし財政は逼迫。第一次西園寺内閣が発足。西園寺公望は伊藤博文の秘蔵っ子である。
 そもそも五箇条の御誓文から始まった明治維新政府は、広く会議を起こすというよりも大久保利通らによる「専制の中央集権」で運営されていた。その歪みから西南戦争などの「士族の反乱」と、板垣退助・後藤象二郎による「自由民権運動」が起こった。自由民権運動は明治七年「民選議院設立建白書」において国会開設を求めた。これにより国民運動として盛り上がり「国会期成同盟」が結成された。参議大隈重信は明治十四年イギリス型議会制度論を念頭に2年後の国会開設を求める「国会開設意見書」を明治天皇に上奏。一方の伊藤博文は議会制度の導入を難事と見て「国会開設の前に、憲法・衆議院議会選挙法・内閣制度・行政機構などを整備するべき」と主張し対立した。この中で「開拓使官有物払い下げ事件」が発生し、世論が紛糾し、伊藤博文は大隈重信を罷免し、十年後の国会開設を公約した。「明治十四年の政変」である。国会開設の時期が決まると、板垣退助は自由党を、大隈重信は改進党を結成した。伊藤博文は明治十五年、ヨーロッパ各国の憲法を調査するため渡欧。帰国した伊藤博文は華族令により旧公卿・旧大名や維新功労者を華族として「貴族院」の設置に備えた。立憲政治開始のために内閣制度を創設し、みずから初代総理大臣となった。第二代総理黒田清隆のもとで「大日本国憲法」が発布された。第一議会は民権派の政党が過半数を占めたが、自制した対応をとった。しかし第四代総理松方正義内閣のとき、軍艦建造費を大幅に削減するべく「軍事予算削減」を叫び、政府と衝突した。民権派も建設的な政策をもつために自由党と進歩党が合流して憲政党を結成。大隈重信と板垣退助が協力して隈板内閣を結成、大隈重信が総理大臣、板垣退助が副総理となった。
 山県有朋と伊藤博文はそれぞれ政府の施策が政党勢力から介入されぬような方策をとった。隈板内閣が内紛で倒れると、後を継いだ山県内閣は内務省勢力の確立のため文官任用令を改正。地方制度を改め治安警察法を制定、さらに「軍部大臣現役武官制」を定めた。これは西南戦争が三条実美のシビリアン・コントロールにより戦争がおこなわれたため現場が混乱したためである。軍部大臣現役武官制により日露戦争の際は陸軍大臣は寺内正中将、山本権兵衛中将になった。陸軍では旅順攻略に二十八センチ榴弾砲の使用を提案できたり、海軍では東郷平八郎中将を抜擢したりと、日露戦争勝利に大きく貢献した。また伊藤博文も自分の政党を作る方向に動き、腹心の西園寺公望らと政友会を結成、自ら初代総裁となった。西園寺公望はフランスに留学して自由思想や・文化を吸収。中江兆民らと親交を結んだ。伊藤博文の渡欧の際に同行し、フランスの憲法・行政の調査研究にあたった。西園寺公望は伊藤博文の後継者だった。
 第一次西園寺内閣では陸軍と海軍の予算確保と、政友会の地方開発の予算確保が対立したが、軍事予算を抑制する方向に定め、外交により国防脅威を緩和させ、陸軍19個師団体制で納得させた。しかし財政再建を目指す大蔵省と地方開発のため鉄道建設を促進したい政友会の調整ができないまま財政再建の道筋が見えず退陣した。
 第一次桂内閣と第一次西園寺内閣から始まる数年間は交互に内閣を組織したので、桂園時代と言われる。これは実に巧妙な統治システムだった。桂太郎は山縣有朋の後継者であり、西園寺公望は伊藤博文の後継者であり、止められない政党勢力の進出への対策のため政権をたらい回ししたものであった。これは明治政権内の権力が長州単独閥へ完全移行した結果であった。
 明治41年、第二次桂内閣が発足。緊縮財政を推進。徴税の都市化を推進。租税収入の構成比は都市型課税が44%、酒税26%、地租24%となった。こうした中、海軍大臣が軍艦建造費5億8千万を要求。8千万を予算化し6か年にわたり継続支出として納得させた。しかし財政赤字は改善せず生活は苦しく社会不安が増大した。社会主義勢力の活動も活発化した。一般労働者の労働条件改善のため、工場経営者・実業家らの反対を押し切って「工場法」を交付し、幼年少年少女労働者の保護した。しかし財政再建は一向に進まず退陣した。
 第二次西園寺内閣は財政再建のため大蔵大臣に勧業銀行総裁の山本達雄を任命。臨時制度整理局を設け、行政・財政整理に注力。新規事業をすべて拒否しようとしたが、政友会は選挙地板強化のため鉄道・港湾予算をゴリ押しした。政友会は陸軍の二個師団増設予算要求を門前払いした。一方で海軍予算は認められ、陸軍は激怒した。造船業が産業振興・貿易立国につながるため海軍予算に実業家が同調した。ここで西園寺内閣は陸軍と調整できず、退陣した。
 陸軍・藩閥・官僚勢力を背景とした第三次桂内閣が成立する。陸軍と海軍の要求を調整するために、大正天皇の勅語まで受けたが、それが憲政の観点から批判の的になり、護憲派の民衆も巻き込んだ騒動となり総辞職した。大正の政変である。西園寺公望は山本権兵衛を後継首相に推進し、元老会議は了承した。内閣の施政方針は政友会の意向に沿うことになった。山本権兵衛はその中で海軍増強を図った。軍艦購入の際に収賄事件がおこり退陣。
 ここで大隈重信が再登場し第二次大隈内閣を組織した。76歳。政友会の反対で二個師団増設が否決されると、衆議院を解散した。総選挙で勝ち政友会を野党に追いやり、安定与党として「政友会・海軍の連合」を打破し「陸軍・海軍の連合」に組み替えた。陸軍の師団増設は経済効果はないもののクーデターなどで内乱が起きれば政党政治がなくなるので、これを回避するという判断だった。また「国防の充実」と「行政・財政整理」のため「防務会議」を設置して、統帥権を内閣に取り込んだ。議会での陸軍と海軍の予算獲得抗争が歴代内閣をなやませてきたが、これを内閣主導とした。また第二次大隈内閣は日英同盟に基づき、第一次世界大戦に参戦。アメリカの友軍となったことで、オレンジ計画を封じ込めた。またロシアの友軍となったため、ロシアとの軍事的緊張も緩和した。また第一次世界大戦が不況、失業・社会不安、財政赤字、外積の償還困難、貿易赤字・外貨不足のご重苦を一気に吹き飛ばした。ヨーロッパ商品の輸入が途絶えたため、国産品への代替えが進み、貿易は大正4年から輸出超過に転換。11億円の債務国から27億円以上の債権国になった。軍需物資の海上輸送から船舶需要が増加して、日本の海運業・造船業が空前の公共となり、日本は世界第三位の開運国になった。農業国から工業国へ転換した。

第五章 伊藤博文遭難と韓国併合

明治42年に伊藤博文は韓国でロシアと会談した後に銃弾に治れた。明治天皇は山県有朋とは心打ち解けないところがあり、伊藤博文を信頼していたため悲しんだ。明治天皇は武断派の山縣有朋でなく、立憲制度を確立して議会政治への道を開いた文治派の伊藤博文を支持していた。
 大航海時代以前は海洋国家は弱小で、モンゴルが東アジアまで攻めてきて元寇になった。大航海時代には海洋国家が勃興し、各地で富の獲得競争を繰り広げた。1765年は上記期間、1807年に蒸気船、1814年に蒸気機関車を発明し、産業革命となった。トルコ・モンゴル・ロシアなどのランドパワーと、スペイン・オランダ・イギリスなどのシーパワーで構想が始まる。これをマッキンダー教授は地政学として確立した。
 李氏朝鮮は高句麗の武将が明国の指示を受けて高句麗王朝を倒して建国した明国の属国である。清国が建国されると清国の属国となる。そのうち外戚が勢力を握り、宮廷の浪費で財政破綻し、農民を搾取し、民衆は暴動を繰り返し、1894年に東学党の乱が発生する。蜂起は四千人余りに拡大したが、内政改革はならず、朝鮮大使はロシアの介入を防ぐために日本は清国を支援して朝鮮政府に内政改革を行わせる必要があるとした。政権は対処が不可能になり清国に出兵を要請し、東学党は戦闘を回避し、内政改革を約束させたが、何も行われなかった。
 日本は清国に共同で内政改革を行わせることを提案したが、拒絶された。日清戦争になり、朝鮮では内政改革(甲午改革)がスタートした。清国からの独立と改革を成分化した14条を宣布した。日清戦争に勝利して、清国は朝鮮の独立を認め、清国は遼東半島・台湾・澎湖諸島を割譲した。
 三国干渉により遼東半島を返還したが、朝鮮でも改革に反対する勢力により暴動が発生した。暴動鎮圧のため政府軍が地方に行くと、中央が手薄になり、朝鮮国王高宗がロシア公使館に匿われ、親露政権を樹立。改革勢力を逆賊とし、改革は頓挫し、農民を搾取する体制に戻る。
 日本が恐れていた事態になった。元寇はモンゴル兵に率いられモンゴルの最新武器を携えた高句麗軍だったが、同じことが起こるやもしれない。元寇はランドパワーの元がシーパワーの日本を征服しようとしたもので、朝鮮戦争もランドパワーのなせるものだった。そうしているとロシア軍が韓国領内で工事をしたり、軍事侵攻の前兆があるとして、ロシア軍を満州から追い出すという論調になってくる。
 ロシアが不凍港を求めて南下することを山県有朋が懸念した。1888年の軍事意見書でも懸念を表明している。1899年には場合によっては日露戦争が必要と意見しており、徹底したロシア不信主義者であった。一方で伊藤博文は1901年から日露協商によって戦争回避を唱えた。ロシア駐日公使は満州問題では妥協を希望していると伝えている。伊藤は推進のため1901年12月にペテルブルグにてロシア外相ラムスドルフと会談。日露協商は成立するかに見えたが日英同盟が1月に調印され日露開戦は不可避となる。
 1904年に日露戦争が開戦されると日本は日韓協約などを調印。日本海戦により日本の勝利が確定的になると、李氏朝鮮が清国に外交権を委ねたのと同じく、日本に外交権の移譲を要求した。韓国皇帝高宗はやむなしとしたが、1907年の万国平和会議での密使事件をおこし、皇帝を去った。
 山県と伊藤はともに長州の雑兵クラスの下級武士だったが、山県は権力志向が強く陸軍・警察を基盤とする「武断派」、伊藤は弱者に同情を示すような立憲議会政治を作った「文治派」と相反していた。二人は日露戦争後の『満州の門戸開放問題」で対立した。ポーツマス条約によると日露両軍は18ヶ月以内に満州から撤兵することとなっていた。ところが陸軍は南満州を日本の軍政下に置く態度をとっていた。1906年には大磯秘密会議が開かれ、結局児玉源太郎大正の撤兵反対・軍政推進が勝った。今度は満州問題に関する協議会を開き、伊藤博文が全面的に出て児玉を黙らせ陸軍撤兵・軍政廃止が正式に決定された。この2ヶ月後、児玉源太郎大将は急死した。
 伊藤博文は明治42年に暗殺されて、山県の軍国主義へ徐々に転換していく。伊藤博文は日露協商があれば、韓国はソフト・コントロールですむとしていたが、山県の朝鮮半島をハード・コントロール(軍政下において)して、兵站としてロシア軍と再度、戦うという方向になった。

第六章 老害としての山県有朋

 伊藤博文が暗殺され、文治派と武断派との間で振れていた振り子が山県に固定すると、国内政局に大きなマイナス硬化を及ぼした。老人は老害となり、老人ころがしの名手・原敬が手玉に取る。
 原敬は盛岡藩20万石の家老の家柄であり、下級武士出身の山県を心が卑しいと軽滅していた。両者は第二次西園寺内閣で『二個師団増設」で対立。政友会の原敬が却下したが、最終的には大隈重信が二個師団増設予算を成立させた。原敬の政友会が少数野党に転落すると、山県に近づいた。
 山県有朋は足軽以下の雑兵クラスで中元奉公に出され金銭出納事務などの実務につき、長州藩明倫館の用務員として同世代の藩士生徒が学ぶ姿を横目で眺めながら用務をするという屈辱を味わった。急進派が関門海峡でアメリカやフランスの船を砲撃し報復され、放題は破壊される。騎兵隊の募集が始まり入隊した。
 急進派は強く反発し、砲台を修復するだけでなく、対岸の小倉藩側にも砲台を構築した。イギリスは列強をさそい、フランス、オランダ、アメリカの四国連合軍を結成し、1864年8月から砲撃を開始し、砲台を破壊したあとに上陸し、砲台兵舎などを焼き尽くした。しかしイギリスの対応には2つの問題点があった。一つは砲撃された国の報復攻撃はすでに行われていて、イギリスは砲撃されていないのに攻撃をしたのは侵略ではないかとの疑念。2つ目はイギリスが講和条件として彦島の租借と賠償金三百万ドルを要求したことである。
 これに対して2つの見方がある。一つは徳川幕府側からは開国を完成して、無謀な攘夷戦争を回避したというもの。この見方からすると太平洋戦争は無謀な攘夷排外思想だ。2つ目は長州側からは日本は英米に侵略されて植民地化してしまうので政府を打倒し富国強兵を進めるのだというもの。太平洋戦争は祖国防衛・アジア解放戦争だったという見方である。山県は後者に属しており、戦争の恐怖に打ち勝って武人として栄進することしか頭になかったよう。騎兵隊で敗北した山県はイギリス嫌いになった。
 山県は1890年にはロシアに危機感を抱き、日清戦争前にはイギリス・フランス・ロシアに危機感をあらわにした。1895年に三国干渉を受けるとロシア・フランス・ドイツの白色人種連合に危機感を強め、日露開戦の前にはロシアの朝鮮半島の占領に危機感を抱き、場合によっては開戦やむなしとした。黄禍論ではまた白色人種連合に危機感をつのらせ、黄色人種連合の結成を訴える。山県から見ると、日中戦争は日本で軍事教育を受けた蒋介石がアメリカと組んで黄色人種連合の盟主日本の足を引っ張るのは裏切りだった。この黄色人種連合はアジア人民の指導民族としてシンガポール・インドなど東南・南西アジアをイギリス支配から開放すべきであるという大東亜共栄圏という思想につながる。
 山県は第二次大隈内閣を潰そうとするが、それは山県の黄色人種連合と、大隈内閣の外相加藤高明の英米との協調により平和と反英を希求するという外交方針が相容れなかったためである。加藤高明の経歴と親英派。加藤は①南満州から撤兵し②アメリカの日本人移民排斥問題は引き下がるが満州を特殊な勢力圏と認めてもらう③ロシアの友好国フランスと交渉し、ロシアを孤立させる④ロシアに韓国と満州における日本の一定の権利を認めさせる。こうして国防上の脅威を緩和させることを図った。加藤は児玉源太郎大将との激論に負け辞任するが、伊藤博文が①の陸軍撤兵・軍政の廃止を決定した。児玉源太郎が死去と伊藤博文が暗殺され、山県vs西園寺/加藤という構図になり、山県の撤兵反対・軍政推進が勢いを得てくる。山県の死後も撤兵反対・軍政推進が復活し、満州事変につながっていく。
 日本征服を目指すオレンジ計画から逃れるには2つしか方法がない。1つ目はアメリカ海軍に匹敵する大海軍を建設し、イギリス・フランスらと白色人種連合を組むなら、日本は中国・韓国と黄色人種連合を組んで戦う。昭和前期に日本人はこの道を選択し大敗北した。第二の道はイギリスの後ろ盾を得てアメリカを牽制する。イギリスを支援して対日開戦の口実を与えない。これが加藤高明の方針だった。山県が選んだ道が太平洋戦争敗北につながった。
 第二次大隈内閣成立の3ヶ月後に第一次世界大戦が勃発、イギリスから参戦要請が来ると大正天皇の支持を得て御前会議で参戦を決定。この決定で法的権限のない元老を排除した。山県は白色人種は後に襲来するので黄色人種連合を組むべきと日中連帯を唱えた。加藤は山県にお伺いを建てなかったため山県の怒りを買う。
 政友会の原敬は少数野党になっていたがチャンスとばかりに山県に近づいた。大隈内閣は買収事件を起こして、大隈重信は責任を取り大正天皇に辞表を提出したが大正天皇は慰留、却下した。山県は貴族院で予算案を否決にすると言って脅し、結局通すのと引き換えに辞任させる。大正天皇も頑張るが、山県の元老主権に負ける。
 寺内は黄色人種連合を推進するが中国は統一国家としての体をなしていなかった。黄色人種連合のためには①中国の中で抗争を続ける群雄の中から一勢力を選び②軍資金を送り中国を統一させ③その人物と黄色人種連合を組むという迂遠な道しかなかった。しかし中国統一を果たしたとしても日本と組むとも限らなかった。寺内内閣は段・瑞に決め予算の2割に相当する巨額を支援するが、統一することができず、第二次世界大戦が終戦となるまで統一政府は成立しなかった。山県の案は荒唐無稽な幻だった。
 山県は寺内のやり方が悪かったと攻めたところで原敬が同調した。寺内内閣はシベリヤ出兵も行った。シベリヤ出兵は列強から警戒された失敗と言われるが間違えである。その後、第一次大戦後に原敬内閣が撤兵を怠ったので警戒されたのである。シベリヤ出兵はアメリカと共同で行った後背陽動作戦で、第一次世界大戦の処理という相当な戦果があった。アメリカは撤兵したが日本は反革命親日派政権の樹立を模索して駐留を続けたために列強から警戒された。アメリカとは中国の権益などについて協定を結んだ。
 寺内は銃創を受け右手が不自由になる。補給戦専門家として裏方から戦争を支えてきた。日本はメッケルの補給軽視の電撃機動作戦が主流だったが、ドイツ陸軍は第一次世界大戦の持久戦で完全敗北に至った。第二次世界大戦も同様の経過となった。日本陸軍はドイツ陸軍が第一次大戦で大敗し、短期決戦型のドイツ戦術思想は時代遅れであることが明白となったのに、補給を軽視しつづけて、太平洋戦争の無惨な敗北に至った。日本では源義経のような短期決戦・先制機動作戦が称賛されたが、戦国時代を勝ち上がるには大舞台を指揮する必要があり、膨大な補給を確保する補給戦能力が問われた。補給戦の名手といえば豊臣秀吉であった。第二位は徳川家康である。織田軍に包囲された今川方の大高城へ兵糧米を搬入した。第三位は朝鮮出兵と朝鮮からの撤兵の補給実務を担った石田三成である。日清・日露の大戦役で補給戦を担い勝利に導いた裏方が寺内だった。
 第一次大戦のあたりから軍用米の需要増を見込んだ商人の買い占め・売り惜しみが噂され米価が上昇し始めた。問屋の焼き討ちにもなり、米騒動は沈静化するが、寺内内閣は世論の批判を浴びて退陣した。
 寺内内閣が退陣すると長州勢は山県の老害に辟易とし、腰を引いていた。山県外交を継続し、米騒動のような国内騒乱を未然に防ぐために、内務大臣として経験が長い原敬を後続首相に選んだ。原敬は外交に定見を持っていなかったので山県に迎合した。シベリアからは原敬内閣・高橋是清内閣が撤兵しなかった。
 イギリスにも日英同盟の継続派バルフォアがおり、バルフォア試案という日米同盟の予約契約を提示した。しかし原敬内閣が日英同盟の継続に熱意を示さなかった。ワシントン会議で海軍比率について話し合われたが、同時に日英同盟の存続問題が議論された。アメリカの四か国条約にのり、アメリカの思惑どおりに日英同盟を廃棄するに至った。1902年以降20年にわたり日本外交の基軸で日本の平和と安全に役立った日英同盟の代わりに四か国条約と九カ国条約をあたえられたが、日本の平和と安全にはなんの保証にもならず、孤立化に貶められた。そうして、朝鮮半島や満州へ膨張を続け、オレンジ計画発動の口実を与えるに至る。
 内田康哉は日本外務省の重鎮だった。山県外交を遵奉して日英同盟ははきされた。満州国承認と国際連盟脱退を推進した。

第七章 大正天皇と山県有朋の暗躍

山県は天皇を神として崇め奉っていたが、求めていたのは国家儀礼者としての天皇であった。明治天皇は病状が悪化して体調不良となり、枢密院の会議に臨席されたものの議事の途中で居眠りされた。議長席から見た山県は群島で床を強く叩き、明治天皇を目覚めさせ、議事を進行した。明治天皇は山県を嫌っていた。明治中期以降は山県と伊藤博文が元老の双璧だったが、山県は正確に暗いところがあり打ち解けなかったが、明治天皇は伊藤博文を最も信頼し、何事につけ相談相手にしていた。大正天皇のときは伊藤博文はいなかっために不満と鬱屈と悲劇があった。
 大正天皇は皇太子の頃から山県を嫌い大隈重信を信頼していた。大隈重信は嘉仁皇太子を自宅に招いたりもしている。嘉仁皇太子は日本の皇室史上、未曾有のことだが、家族一緒の幸福な家庭生活を営んだ。嘉仁皇太子は日本各地に巡啓を通じて多くの国民と触れ合った。それを山県は苦々しくみており、天皇は神格化された無機質な存在であるべきといっていた。山県から心理的圧迫をうけて嘉仁皇太子は心身のバランスを崩していった。大正天皇は山県を嫌悪して3回にわたり辞任を勧告。一方で山県は枢密院での自勢力を強化していった。原敬が首相に就任してまもなく大正天皇の体調は悪化し始めた。強度のうつ病になったらしい。山県は天皇の病状を折を見て公表していった。また幼少期から一貫したものと公表するように主張した。
 宮中某重大事件が起きる。裕仁皇太子(のちの昭和天皇)との婚約発表された久慈宮邦彦王の長女良子女王について、薩摩島津家に由来する色盲と系統があると指摘されたことを機に「婚約解消すべきか否か?」が問題になった事件である。山県と原敬は婚約解消を強硬に主張。久慈宮邦彦王はつっぱねる。山県は避難され身辺も危険になり失脚する。1年後に死去、国葬が行われたが参列者は少なかったとのこと。この1ヶ月後、同じ日比谷公園で大隈重信の国民葬が行われ、盛大・雑踏を極めている。
 大正天皇は山県との暗闘に敗れ、強度のうつ病に加えて軽度の脳梗塞を併発したらしく引退・廃帝となった。敗戦後、昭和天皇は人間宣言をしたが、これらは大正天皇が大正時代に実践したものなのである。大正天皇は天皇史上始めて側室を廃止し家族で一緒での円満な家庭を築き、四人の聡明な皇子たちと過ごした。大正天皇は心優しい人間天皇だったばかりでなく、大隈重信・加藤高明を支援し日英同盟によってオレンジ計画を空洞化させた。しかし政治的作為性の強い発表によって脳病を患った精神病者として後回された。

補論 大正陸海軍の軍縮

米英日の経済力を鉄生産量で比較すると10対2.6対0.2という格差があった。なので海軍比率10・10・6というのはアメリカがイギリスと日本に相当に配慮した数字だった。陸軍にも軍縮の波が訪れ、予算の関係上、山梨軍縮と宇垣軍縮によって総兵員の32%を減じた。それにより装備を近代化して、最優先は飛行機だった。フランスのサルムソン偵察機を改名し、戦闘機・爆撃機仕様に変更して937機を国産。同じくニューポール29型戦闘機を輸入し、634機を国産。88式系爆撃機も1117機生産された。インパール作戦ではイギリスに制空権を奪われていたので悲惨な結果となった。イギリス軍の円筒陣地へ爆撃できたら、日本陸軍はインド方面へ進出して援蒋ルートを遮断し、インド独立運動を拳、インド独立を危惧するイギリスから講和をさそって、太平洋戦争はそこで終結したかもしれない。そうならなかったのは一重に陸軍の航空機予算が不足していて、飛行機を十分に揃えられなかったからである。
 4個師団廃止で削減された兵員のうち6千余人は航空部隊や戦車部隊へ転属したが、多くは現役引退を余儀なくされた。失職を回避すべく学校配属将校制度を創設し、男子校へ配属し、軍事教育の指導にあたらせた。徴兵後の基礎訓練を少なくでき、人件費・諸費用も浮かさられる良い制度であったが、学校生徒や教育関係者からは理解されなかった。
 フランス式とドイツ式がったがフランスは国民軍、ドイツ式は諸邦連合軍で各国王が名誉を争った。ドイツ諸邦連合軍では諸王国が競っているので兵員削減が困難で近代化を進めるので軍備費が異常に増加する。
 それでも日本人は戦争を選んだのか?参謀長が経験しない事柄について、考えが及ばないという参戦立案の熱意と能力が乏しい人々だった。日本人は第一次世界大戦において、ヨーロッパ戦線への派兵を選ばなかったから経験を通じて学ぶことができなかった。
 東京裁判の解説ラジオ番組「真相はこうだ」というGHQ作成番組が作られて、歪められた歴史観で日本人を洗脳した。

世界史とつなげて学ぶ中国全史

2019 東洋経済新報社 岡本 隆司

非常にバランスがとれていてい良かった。

第一章 黄河文明から「中華」誕生まで

地理的な話から。乾燥地帯と湿潤地帯。農耕民と遊牧民。文化がまったく異なり、その境界で文明が生まれた。有名な文明地図。西方が開かれていて文化が流入してきていた。黄河流域で都市国家の成立。漢字圏。外夷に対する中華。秦のあとの前漢は匈奴に負けて和睦し毎年貢物を送っていた。前漢は匈奴を倒しシルクロードで発展した。金を送っていたが途中からシルクになった。最大の発展を遂げるが、これはローマ帝国はトラヤヌスの時代で、パクスロアーナの時期と重なり、東西で平和が訪れる。交易を通して発展した。

第二章 寒冷化の衝撃 ー 民族大移動と混迷の300年

三世紀あたりから寒冷化してくる。豊かでない土地での影響が大きい。民族大移動が起こる。西洋ではフン族の侵入からの大移動は克明にわかっているが、東洋ではどうであったか。乾燥地帯の遊牧民である匈奴は、かつて一大帝国を築いて漢王朝と退治していましたが、やがてバラバラになり、一部は中国の中心地に移住する。寒冷化は農耕民にも影響を及ぼし、農作物の生産量が低下し、飽和状態だった人口は淘汰される。城壁のない新開地である「邨(むら)」が点在するようになる。そこは荘園のようになり逃げ込んできた流民・移民を収容し、強制労働させる。三國志の曹操は屯田制を国家事業として行い、軍人に耕作させ、唐の時代まで続く。ローマでも没落農民を貴族が小作人として雇う農奴制が始まる。邨の時代では自給自足で手一杯で商業は衰退し、金銀よりも現物が重視される。こうして小さな政治ブロックで集中的に経済を支えるという形態が生まれ、地域が分断された。それが4〜5世紀の「五胡十六国」と呼ばれる時代である。五胡は漢人以外の5つの部族で、匈奴、けつ、てい、きょう、鮮卑を示す。5〜6世紀には南北朝時代に入る。華北・中原は北魏によって統一される。北の地の鮮卑は騎馬軍を補給できたので強く中原にいた他の胡を倒す。経済ブロックの統一はうまくいかずと東魏と西魏に分裂する。南朝は魏蜀呉を統一した晋が胡族の襲撃から南方に逃れて立てた王朝で、その後宋王朝に変わり、斉、梁、陳と交代していく。中心地は今日の南京と、長江の中流の江陵。実態は「五胡十六国」の自体と同様に小規模な勢力が分立していた。貴族が出現しコミュニティが形成される。
 紀元前後までもっとも豊かだったのは陝西省の長安周辺だった。山あいの高地であり、水が豊かだった。暮らしやすい乾いた土地で、生産性が高い場所だった。しかし長安も次第に乾燥し始める。代わりに開発が進んだのが大河周辺の平原だった。経済的に優勢になり、人口も増加する。ちょうど東魏のちの北斉が支配した地域である。一方山間部の西魏は貧しかったが徐々に力をつけ、最終的には北周が北斉を併合する。北斉は断絶し外戚に奪われ随を打ち立て南朝の陳を滅ぼし、南北朝時代は終わる。

第三章 随・唐の興亡 ー 「一つの中国」のモデル

随は北西の辺境に位置した北周政権が、東の隣国、北斉政権を滅ぼしたことから始まる。さらに南朝の鎮静件も合わせ、統一を成し遂げる。そのため中国の伝統的な歴史館では、隋は北朝の一つと認識されている。隋王朝は親子二代、30年ほどで幕を閉じる。隋を打ち立てた文帝・楊堅は大運河の開削という大事業を成し遂げた。それは黄河流域と長江を繋ぎ、さらに黄河流域から北京に伸びた運河だった。大運河で南北間の物流が促進され、文化・経済の南朝と政治・軍事の北朝と双方の役割分担が明確になった。秦や漢の時代は政治・経済・文化が中原に集約されていた一元的な構造だったが、隋により南北分業の時代が始まった。運河と長江の交差点である揚州は栄えた。塩産地が近くにあったことで唐時代は長安よりも栄えた。長安は秦・漢の時代から首都だったが山の中なので、長安を東の都とし、西の都・洛陽を建設した。文帝は外戚から皇位を継承した際に北周の皇族一門を根絶やしにした。その怨恨があり、煬帝は揚州に逃亡したあげく、背いた近衛兵に暗殺された。
 隋の混乱を解決する形で唐が台頭した。反面教師にした唐の二代目の皇帝太宗、李世民は武勇にすぐれており、武力を中心として中国全体の統治を進めた。李世民は中国屈指の名君とされ、貞観の治として知られている。唐は三国時代だった朝鮮半島にも介入し、新羅と組んで、百済と高句麗を滅ぼし、統一した。百済を支援していた飛鳥時代の日本にとっても対岸の火事ではなく、対抗できる国造りを急いだ。
 唐は広大な勢力範囲を誇ったが最も大きいのが北部であり、突厥が支配していた地域だった。突厥との力関係では南北朝時代の北周と北斉に分かれていた頃は突厥のちからは圧倒的で、突厥は両国を属国とみなしていた。しかし、7世紀になると突厥が中原の王朝に屈服する形になります。突厥は南方の人々とも積極的に交流を図っていましたが、シルクロードを掌握して、そこの商業民とタイアップしていた。その町業の担い手となったのがソグド商人であった。ソグド商人は中核のオアシスであるソグディアで巨大な財閥・多国籍企業のような存在になっていた。唐は突厥やその下のソグド商人なども取り込み、さらに様々な宗教も取り込んで多元的な国家であった。長安も国際都市として栄えた。しかし、その唐も安史の乱から栄華は衰えていく。ソグド人の安碌山の反乱を発端とした胡人と漢人の争いだった。
 その後、五代十国と呼ばれる時代に入る。北部は5つの王朝が受け継いでいき、南方では十の小国が乱立する。五胡十六国のときは南側は一つにまとまっていましたが、隋と唐の時代を経て、南側でも小国が分立できるまでとなった。

第四章 唐から宋へ ー 体外共存と経済成長の時代

8世紀から9世紀にかけて、唐は解体していき、中央アジアにも影響した。10世紀になるとウイグルはソグディアナの位置に移動した。その西側はトルコ系のカラハン朝があり、トルキスタンになっている。その西にはサーマーン朝があり、ペルシア系のイスラーム政権である。ウイグルにはイスラームは及ばす、マニ教や仏教が広く信奉されていた。
 なぜトルコ系遊牧民のウイグル人は東から西に移動して定住生活を始めたのか。一つの要因は温暖化であり、縮小していた草原地帯が広がり、遊牧民の活動が活発になった。東西に唐とイスラームの両帝国が成立したことは寒冷化の一つの到達点であり、温暖化と同時にあらためて多元化が進行した。ウイグルが抜けた東アジアではモンゴル系・ツングース系の遊牧民・狩猟民が力を持つ。モンゴル系では契丹、ツングース系では渤海という国が代表的だ。またこれらの勢力が勃興したのには中国側の事情も関係している。
 唐と宋の間でおきた変化を唐宋変革という。①エネルギー革命で、石炭が使われだした。②水田化と人口増大で、土木技術の進歩もあり低湿地を水田化できるようになり、人口も増大した。科挙も始まる。③貨幣経済の成立。花柄は唐の時代から作られていたが、宋では宋銭を大量に鋳造発行した。政府も現物で行われていた税金を少しづつ貨幣に切り替えていった。④商業化の進展。貨幣が潤滑油となり余剰生産物のやり取りが増えた。⑤都市化の進展。市場が発展し、市や鎮などの商業都市になる。宋の商業化の進展は日本にも影響し、平清盛による日宋貿易につながる。唐との貿易では贅沢品で正倉院にあるようなものだが、日宋貿易は民間ベースで陶磁器やお茶、生糸など庶民の暮らしに結びつくものだった。
 五代十国の時代では長安デルタ地域の低湿地を、呉越の時代に排水工事をし、一面の水田に変えた。以後は中国でもっとも豊かな地方になった。石炭や、ミョウバン、お茶など適地があり、経済開発が経済ブロックとなり政治ブロックになり乱立してくると、戦争が起こりやすくなる。宋王朝はそれに答えを出そうとして、官僚制・君主独裁制を導入した。宋政権は令外の官を系統立てて官僚化し、変化の激しい社会の実現への対応を各地方に任せた。軍事の指揮権は中央においた。君主独裁というと中央集権的なイメージがあるが、多元化・多様性を前提として、君主がそれを統制していた。また脅威の契丹は毎年の歳幣により不正だ。この時代は人口も増大し文化も発展した。唐宋八大家のような文人も登場し、朱子学の源流もできた。
 そうしているうちに遊牧民の住む草原地帯の状況が変わってくる。モンゴリアの草原の空白地帯からモンゴル部族が登場し、商業民のウイグルと結びついて、チンギス・カンの西征服が始まった。

第五章 モンゴル帝国の興亡 ー 世界史の分岐点

モンゴル帝国の改題。チンギス・カンがなくなるまでに中央アジア、西アジアの乾燥地域・草原地域を制覇した。トルコ系のウイグルやイラン系のムスリムを取り込み、ユーラシアの主要な草原地帯を抑えた。跡を継いだ息子オゴデイは濃厚のできる乾燥地帯を完全制圧した。華北全域を支配下に入れた。乾燥世界と草原世界に加え、農耕地域に勢力を拡大した。オゴデイの兄ジョチとその息子バトゥは南ロシアの草原地帯まで制圧した。オゴデイの死後10年のお家騒動の末、オゴデイの弟の血筋に変わる。カーンの地位についた長男モンケは征服事業を再開する。西アジアを担当したのが三男フラグでイランを制覇した。東アジアは次男クビライが南宋の長江上流域まで戦線を拡大した。モンケ自身も南宋遠征を敢行するも突如陣没し、お家騒動となる。最終的にクビライが継承者となる。フラグは引き返すが跡目争いに間に合わずイラン周辺でフラグ・ウルスとして自立する。同じようにジョチが征服したキプチャク草原あたりにジョチ・ウルスとして自立する。中央アジアはチャガダイ後筋が支配しており一旦カイドゥにうばわれますが、奪いかえす。クビライはモンケの時代から南宋の征服をめざし、最終的には南宋を接収する。そしてクビライは国名を大元ウルスと改め、首都を現在の北京の地に建設した。
 モンゴル軍の強さの要因の一つは宣伝。戦闘で徹底的に相手を殲滅することを宣伝し威嚇し、戦わずに降伏させていた。もう強さの一つの要因は商人との関係。草原地帯で攻められたウイグル商人から持ちかけられた協働にのり、資金・情報の提供と引き換えに、軍隊による保護と商売の権益を保護した。モンゴルは駅などを設置しシルクロードの交通を拡充した。また税を高度にシステム化していた。
 唐宋変革を通じて昔ながらの銅銭が主に流通していましたが、銅が不足して鉄銭や紙幣が代用された。クビライは銀を準備として政府が溜め込み、市場にはその兌換紙幣を発行した。クビライは紙幣の兌換として銀・貴金属だけでなく塩も準備した。政府は塩を専売にし課税しました。中国は広大な大地に対して海岸線が短いので塩の産地が限られていて、コントロールしやすかった。
 13~14世紀初頭のころ、アジアの物流や交易は海洋を通じても行われていた。主導したのはムスリム商人で、かれらはマラッカ海峡を経て、広州方面にも商圏を広げていた。代表的な存在としては広州に住み着いて福建省南部の泉州に移住した蒲寿庚である。クビライは国家主導で海洋商人たちを組織し、インド洋や中国沿岸での海洋貿易・海上交通に力を入れた。クビライはカーンに即位したあたりで軍事的な拡大を停止し、世界的スケールの経済圏の構築に力を注いだ。それはイラン系ムスリムやウイグル人たちであり、モンゴル系やトルコ系の遊牧民が軍事力でバックアップした。またその延長に元寇がある。
 そんなモンゴル・大元ウルスの経済力を根幹で支えたのが、南宋の豊かな生産力や経済力だった。隆盛をきわめたモンゴル抵抗ですが、14世紀半ばの直後から崩壊し始めた。主な原因は地球の寒冷化でした。この時期、ヨーロッパではいわゆる「黒死病」が大流行した。感染源は同じだろう疫病が、中国でも大流行した。農作物の作柄も悪化させ、生産量が落ちて、商業も振るわなくなる。シルクロードの幹線も支線も分断され、ユーラシア東西が分離された。その後は回復したが、中央アジア・シルクロードはローカル線と化した。中央アジアはイスラームしてくる。
 中国の経済も大打撃を受ける。紙幣や有価証券も紙くずになり、中国国内は物々交換のような現物経済の世界に逆戻りした。特に都市部では治安が悪化し、安全や食料を求めて農村部に移転する人が増えた。南宋の江南地域では抵抗勢力による反乱が各所で発生する。特にモンゴルに大打撃を与えたのは塩の密売人・張士誠による反乱だった。かれれはヤミ商売をして私腹を肥やしつつ塩を安く提供することで庶民のみかたであったが弾圧に失敗した。その結果、専売が運営できなくなり専売収入が途絶え、塩引の価値が暴落し有価証券が不渡りになり、信用不安を引き起こした。また張士誠が拠点としたのは蘇州で、中国最大の米どころだった。大都にいるモンゴルは塩の収入のみならず、米も手に入らなくなり、大打撃を被る。14世紀後半になるとモンゴルは明を建国した朱元璋によって大都を追われ、今日のモンゴル高原まで撤退した。モンゴルによって融合した東西と南北、農耕地域と遊牧地域は再び分断され、それまでの政治・経済・社会のシステムはリセットされる。

第六章 現代中国の原点としての明朝

 ティムール朝は4つに分かれたモンゴル帝国のうち、西方のチャガタイ・ウルスを相続して興った遊牧王朝。首都は中央アジアの真ん中に位置するオアシス都市・サマルカンド。かれれはそこから四方を征服し、一大勢力を築いた。一方、東アジアは南方の貧しい農家出身の朱元璋が明王朝を建国し、初代皇帝につく。当時の中国にはまだ多数のモンゴル勢力が残っていた。朱元璋が目指したのは農耕世界だけの分離独立で、華夷殊別と表現された中華と外夷の分断だった。象徴的なのが鎖国政策で、万里の長城で農耕民と遊牧民を明確に分けるのみならず、沿岸も出入りを制限します。漢人だけを「中華」として内部に取り込み、それ以外を「外夷」とした。中国内で交通または商取引したい外部の人は「朝貢」という手続きを踏むことを求めた。朝貢事態は秦や漢の時代からあったが、周辺国との付き合い方において、朝貢以外のすべての手段を禁じた。朝貢する側にもメリットはあり持参したお土産よりはるかに高額な引き出物「回し」を授かることができた。また朝貢団に随行してきた使節団には、儀礼の公式行事とは別に、中国国内の売買取引が認められたので、こぞって朝貢団に加わった。
 朱元璋は物々交換の世界を前提として、農業生産の回復に注力した。その一つが「魚鱗図冊」に現れる土地調査で年貢取り立ての前提を整備し、「編審」と呼ばれる国勢調査で成人男性の労役を管理した。これらは貨幣を介さない徴税の2本柱だった。明朝が構想した経済に商人や商業は登場しない。また南北格差の解消を目指した。モンゴル時代のクビライは、華北と港南を別の方法で統治していた。経済成長の源泉という位置づけで江南に力を注ぎ、商業が大きく発達し人口も急増した。明朝は江南を弾圧して貧しくさせ、華北の水準に合わせるという方法をとる。江南の地主や官僚にさまざまな嫌疑をかけ、連座制を理由に何万という単位で皆殺しにした。海禁で海路の交通も遮断した。経済界は打撃を受け、南方の有力者を弾圧したとミられる。二代目の建文帝は有力な朱元璋の四男・朱棣を倒そうとするが、逆に挙兵され永楽帝になる。ここで首都を北に移し北京と改称した。永楽帝も江南の地主たちを蹂躙する。江南から北京への大量の物資の移動のために大運河を回収したが、財政を圧迫した。北から南を支配しようと官僚の採用でも江南の人々を露骨に差別する。この時代のムスリム鄭和による七回の大遠征が有名だが、造船や航海技術はモンゴル時代の遺産に頼っていた。
 一方で明朝が構想した現物主義の財政経済システムはほころび始める。上海のある江南デルタは水はけが良くなりすぎ、稲作ができなくる。桑を植え生糸の一大産地に転換し、中国の一大ブランドとなった。この一体では工業化・商業化が進み、それに従事する労働者も急速に増えた。減った分の稲作は長江のさらに上流の湖広と呼ばれる地域を開墾し、水田とし、たちまち穀倉地帯になった。そうして自然発生的に地域分業体制が整った。ここで民間では私鋳銭が流通し始め、さらにモンゴル時代に流通していた銀が貨幣として流通する。さらに官僚の給料も銀で支払われるようになり、現物主義の財政経済は破綻した。中国で銀需要のため新しく銀山を開発させ、ヨーロッパやアメリカの一部、日本列島などから銀が中国に向かった。この民間貿易は日本の経済成長にも影響した。この時期、密貿易の弾圧により南の沿岸で倭寇が大暴れする事件がおき、同時に中国のお茶を欲しいモンゴルが長城を超えて侵入し、北京を包囲してた。どちらも明朝政府が折れて、モンゴルとは和議を無杉、内蒙古での取引を認め、日本との交易も、中国人が厦門から会場に出ていくことを可能とした。経済の活性化は社会・文化に影響を与える。民間での出版業の多様化により、経書・史書の解説本やダイジェスト版がたくさん出た。また有能な官僚であった王守仁が作った儒教の一派の陽明学を打ち立てた。政府権力から一定の距離をとって地域社会で民衆の指示を得たエリートを郷紳と呼んだが、政府と社会が乖離した高級官僚ばかりになり、民治の実部に手が及ばなくなってきた。それはデータにも現れており、人口三千人以下の都市が急増し、行政の目が民間まで行き届いていなかった。この民官の管理がその後の中国社会に尾を引いた。

第七章 清朝時代の地域分率と官民乖離

清国はマンジュ人が建国したアイシン国である。満州語のアイシンは金を表す。その後、1636年に大清国に改称した。かれらは狩猟民族であったがモンゴル人とにていてモンゴル帝国のような政権を目指した。満州人の西隣にはチンギス・カンの血筋を継ぐチャハルというモンゴルの部族が住んでおり、満州人はそこに攻め込み、モンゴル帝国から伝わったとされる正統の証とされる伝国璽という印章を譲り受けた。明朝が1644年に内乱で滅びると、万里の長城の最東端にある要塞を突破する。清朝は多種族からなる政権だったので、明朝のよる「華夷殊別」の方針を転換し、「華夷一家」を掲げ、漢人・満州人・モンゴル・チベット・ムスリムという五大種族の共存を図った。康煕帝の時代にはモンゴルとチベットを帰服させた。ムスリムの住地になっていた東トルキスタンも取り込んだ。この大きな版図をどうやって統治したかについては教科書では直轄領と間接統治の藩部、さらに朝貢国に分けたとしているが、正確ではない。基本的に政治的な組織には手を付けずに温存し、直轄と間接をことさら区別したわけではなかった。二代目の雍正帝は種々の改革を行ったが、目的は官僚・官界の腐敗撲滅であった。
 明朝は貿易を促進する制度を整え、朝貢国も本当に朝貢している国だけに整理した。日本とも同駅を認めるので中国の商人が日本へ出向けるようにし、日本では長崎が栄えた。またモンゴルが起伏したため北方の隣国は露になり、条約が結ばれ政府公認の貿易が始まった。交易により銀が必要になったがヨーロッパからアジアへの銀供給も途絶えて一大デフレに陥った。17世紀末には景気が回復し、イギリスが大量の銀を供給し、紅茶を輸入した。18世紀半ばまで一億人だった人口は19世紀初頭までに三億人を超え、19世紀なかばには四億人、20世紀初頭には四億五千万人に達する。一方で行政都市や官僚機構の数はさほど増えていない。行政の数少ない仕事といえば税金の取り立てと犯罪の取り締まりくらい。徴税も地主や大商人のようなコミュニティの、顔役がとりまとめ、支払っていた。増加し溢れた人口は、新開地に向かう。清代には東三省(遼寧省、吉林省、黒龍江省)の森林地や長江流域の山岳地帯などの開発が進んだ。新開地では生活か厳しく植えていたため不満がたまり、秘密結社のような宗教団体が多数生まれた。政府が弾圧すると武装して反抗し大きな反乱に至った。白蓮教徒の乱や太平天国などである。
 19世紀の半ば以降、清朝は富国強兵を目指し、軍事や技術面で西洋化・近代化をお勧めます。また銀価の下落から多種多様なものを輸出することになります。各地域が個別に各国と貿易をした。工業化した外国列強の旺盛な需要に答える中で、中国各地の経済力も個別に伸びた。それに伴い各省を管轄する地方官の監督はそれぞれ力を持つようになり、地域に応じた政策を個別に打ち出した。李鴻章や張之洞だ。ところが、日清戦争を経て様相が変わり、東アジア全域での権威も失われた。朝貢国は自主権があるため日本などに取られてしまう。清朝がバラバラになる前に国民国家の考えを導入し、国家の領土を明確にしようとする。このころから中国を名乗り始める。

第八章 革命の20世紀 ー 国民国家への闘い

1911年になると地方が独立し省政府を樹立した。1912年の元旦に代表者が集まり、南京臨時政府を樹立した。中華民国である。モンゴルもチベットも独立を目指す。中華民国は軍隊を送り込むが撃退された。理念は国民国家だったが、多元共存していた。また南北格差は縮まったものの、東西格差が大きな課題となった。これは国民国家建設や国内統合の問題と同じだった。中華民国は地域の軍閥同士で戦争を繰り広げた結果、全体像は少しづつ整理されてきた。1910年代〜20年代にかけて綿製品の製造に機械が導入される。中国版の産業革命がおきた。また第一次大戦が始まり、金本位制をいじできなくなると銀の価値があがり、輸入価格もあがり、自国生産の流れが起きたのが原因。この変化を利用して、国内の社会的・経済的な統一を果たそうと考えたのが、孫文の後継者と目されていた蒋介石だった。蒋介石の勢力範囲は経済の鍵を握る江南デルタ地帯だったので、軍閥は蒋介石には歯向かえなかった。全国一律に通用する紙幣を発行し、世界お基軸通貨のドルやポンドと交換可能にした。満州国はこれに乗らず、中国のナショナリズムの矛先は日本帝国主義の利権に向けられる。1928年、国民政府の北伐軍と日本軍の衝突が起きる。国民政府は国外に日本、国内に中国共産党という敵を抱えていた。共産党を潰そうとしたが説得され和解する。これにより日中の全面戦争に至る。当初、日本軍は先進地帯の沿岸部・都市部のみを支配していた。これに対して、蒋介石の国民政府は内陸の重慶に拠点を移した。毛沢東は農村の庶民の力で先進地域の都市部を奪い返そうと共産主義を標榜した。日中戦争で日本が敗北し、中国から撤退すると、中央政府に蒋介石・国民政府が戻って来るが、基盤社会の下層の人々と乖離する。下層の人々の心をつかんでいた毛沢東と、対立し内戦に発展する。経済運営に失敗し、都市部の有力者からも指示を失った蒋介石は大陸を追われる。台湾でも共産党や反体制派を弾圧したことから、毛沢東の評価が高まった。1949年に建国された中華人民共和国の基本理念は基層社会に降りることでした。農地解放や官僚の汚職の一掃運動などを展開し、ついに1966年から十年にわたる文化大革命に行き着く。上層の人々を叩きすぎた結果、国全体が疲弊して大失敗に終わる。
 その反動で打ち出されたのが、鄧小平による改革開放路線で、市場経済を取り入れ、海外貿易も推進して、豊かさを追求しようとした。これにより急速な発展を続け、富裕層も格段に増えました。ただ農民工など下層の人々に応じる有効な政策は見えていない。結局、中央と下層は乖離したままで、明代以降の中国が抱える構造的な課題は、むしろ増幅されて今日に至っている。習近平国家主席をはじめとする共産党がもっとも恐れているのは、下層の人々が政権から乖離するとともに、裕福層が諸外国と強く結びついて国家を顧みなくなることだ。それは今以上の格差拡大と政治・社会の分断を意味する。

結 現代中国と歴史

今日の中国社会の構造を端的に表すと、多元化と、上下の乖離である。分水嶺は寒冷化による「14世紀の危機」とそれに続く大航海時代だろう。バラバラで混乱と対立相剋を繰り返す社会を調整し、共存を図るかの答えは13世紀に登場したモンゴル帝国だった。しかし寒冷化には敵わず14世紀には解体され、多元的な世界に逆戻りします。その後、統合に向けた納得の行く回答が見つからないまま今日に至っている。
 14世紀には中央アジア・遊牧世界のプレゼンス低下と、海洋世界の比重増大を示している。南北よりも東西の格差が顕著になっていっている。つまり大航海時代の影響で、中国には南北の違いに加え、東西の違いも生まれいっそうバラバラになった。社会構造も多元化・複雑化した。17世紀以降に、さらに顕著化して、バラバラな社会をいかに秩序をたもって共存を図るかという、時々の政権による腐心の歴史である。清朝の小さな政府では産業革命以後の近代に対応できなかった。西洋や日本に対抗するために「国民国家」を目指したが、多元的な中国社会にはそぐわなかった。一つの中国というスローガンも欺瞞に満ちている。多元的な社会をまとめようとする試みはアジア史にも少なからずある。その手段として用いられたのが宗教だった。世界三大宗教はすべてアジア発症である。多元性をまとめるための秩序体型を提供することがアジアの全史を貫く課題だった。アジア各地では宗教という普遍的なものも、多元に共存していた。つまりアジア史において政教分離は成立しにくい。中国の場合も統合の象徴として儒教・朱子学が用意された。
 現代は欧米スタンダードが主流で、歴史というのも西洋中心史観に則っている。日本史と西洋史は近似した歴史課程をたどっている。もともと日本人と中国人は同じ東アジア人であり顔も似ているが、日本人は中国人の言動に、違和感や不快感を覚えることが少なくない。それは西洋史観に浸っている日本に対して、中国は前提条件がまったく違う中国史、アジア史を経過して今日に至っているからだ。日本人は中国という国家を異質な存在ととらえず、西洋化した日本人の既成概念をいったん削ぎ落として、中国の歴史に向き合う必要がある。

[復刻版] 大衆明治史

復刻版ダイレクト出版 1943 菊池寛

GHQが発禁にしたというのに惹かれて読んで見た。日本男子なら読んだ方が良い一冊。簡素で細かく章立てされていて、読みやすい。

第一章 廃藩置県

大久保利通が転向し公議政治を否定して、薩長連合をもって国内統一を図る。西郷隆盛という旧勢力の重鎮を呼び寄せ、廃藩置県を了承させ断行する。西郷隆盛がどういう存在でどういう役回りだったのかが良くわかった。

第二章 征韓論決裂

西郷は征韓論を唱えるが、決裂して、帰国する。

第三章 マリア・ルーズ号事件

支那の人をアメリカに売る奴隷貿易をしていた船が難破する。あえて公法をたてに日本で裁判にかけ清国に奴隷を引き渡した。

第四章 西南戦争

西郷は鹿児島に帰ったが、鹿児島で西郷王国を築くが如くである。内務改革のために鹿児島県の役人を更迭する人事が行われる。さらに西郷を暗殺する計画があるときき、軍を組織する。二百日も転戦するがついに西郷の自害とともに幕を閉じる。

第五章 十四年の政変

内務卿の大久保も刺客に殺される。その後釜とし伊藤博文か大隈重信ということになるが、大隈重信はその職を免ぜられるというクーデターがあった。これは北海道開拓使有物払い下げ問題に端を発して、薩長政府に批判が集中した。これを伊藤が利用して逆に土佐の政敵を葬ったとしている。

第六章 自由党と改進党

板垣退助も武人で、西洋との人民の在り方の違いを憂いていた。なぜ人民が国や地域のために戦わないのか?ということだ。また土佐の坂本龍馬以来の民権思想も引き継がれて、板垣退助は自由党を作る。またより穏健な政党として肥前出身の大隈重信が立憲改進党を作った。土佐と肥前が政府の薩摩と長州に対抗したとも見える。

第七章 国軍の建設

大村益次郎は軍政家として国軍の改革を進めていたが、保守主義者の刃にかかって死ぬ。その後を継いだのが洋行した山縣有朋であり、徴兵制をしく。土百姓や素商人に鉄砲をもたせて何ができるかという雰囲気だった。山縣は平民から組織された奇兵隊の力を見ていた。また大村は内乱鎮圧を目的としていたが、山縣は外敵を目的としていた。桂太郎はドイツで軍を研究していたが徴兵令を評価した。またメッケルを召喚し戦術を抗議した。

第八章 憲法の発布

伊藤は憲法の視察のために洋行するが、デモクラチック・エレメントが必要で、それは今までの日本にないものとしている。神武天皇以来の大きな変遷としている。日本に帰ると横須賀の夏島につめて秘密裏に井上、伊藤、金子とともに草案を書く。特に皇室典範を担当した井上毅の仕事が大きいとしている。明治天皇も一条一条を確認した。
 11月12日の会議中に四男が亡くなった知らせを受けた明治天皇が会議を続けなさったとのことに驚いた。他国では憲法の発布とともに流血があるというが日本がないというのは、いろいろ考える。

第九章 大隈と条約改正

大隈は鹿鳴館の猿芝居がこたえて、不平等条約改正のために再び政府に入って動き始める。自分が東京で交渉する形をとった。メキシコで成功すると、米国、ドイツと条約を改定していった。英国と交渉する段になり、秘密裏に進めていた条約の概要が英国の新聞に載ってしまう。条文に憲法違反になる項目があることがわかり、世論が沸騰し、ついに爆弾の被害に遭って、条約改正は頓挫してしまう。

第十章 日清戦争前記

朝鮮の扱いをめぐって支那と対立する。伊藤博文は李鴻章と会談を持ち天津条約を調印する。朝鮮に東学党が政治革命を企てるのに乗じて、支那は朝鮮に出兵する。

第十一章 陸奥外国の功罪

陸奥宗光のこれまでについて。伊藤は軍部と協調して、講和の交渉相手を残しつつ戦いをした。清国側から講和の申し出あり米国を仲介として下関に李鴻章一行を招き行われた。交渉三日目に李鴻章が狙撃される。伊藤はなぜ俺を狙撃しなかったのだと言ったという。一転、日本は不利な状況に転じたが、挽回して、下関条約を結んだ。
 伊藤博文が中国語を少し話せるのは驚いた。

第十二章 三国干渉

国民が戦勝に酔いしれている中、ロシアは遼東半島の放棄を求めてきた。その後、ドイツ、フランスも同一の覚書を持ってくる。イギリスも当初は同様な論調だったが、ロシアの拡大を懸念し、むしろ日本側につく。イギリスはインドでもロシアの脅威にさらされていた。結局、遼東半島を放棄する。著者はなぜ未来にわたっても遼東半島を他国が割譲しないことを約束させなかったのか?と悔しがる。

第十三章 川上操六と師団増設

三国干渉があり、軍拡が世論となった。川上操六は一人で日清戦争の陸軍を指導したと言われている。モルトケに指導された川上の話が続く。国防の観点から内地は元より、朝鮮や支那へも旅行している。川上は河野広中に六ヶ師団増設をロシアが想定するよりも早く準備することで優位に立てるとして認めさせた。
 権力に興味がなく、死ぬ頃には人当たりは益々柔らかくなり、給仕の少年にまで一々挨拶を返した、という人柄は心を打った。

第十四章 北清事変

列強たちは清国の利権を取得していった。ロシアは鉄道、旅順、大連。フランスは南全体、海南島。イギリスは威海衛や九龍半島、鉄道。民衆は政府は当てにできなかった。そんな中、山東省に起こった義和団は外国人駆逐に熱を上げて、支那全体に広まった。ついに天津居住地を攻撃し、北京の各国の公使館を包囲するに至った。各国は兵を持っていたが挙匪と官兵も加わっていて膠着状態になる。英国も日本も当てにしだす中で、天津で露独仏の連合軍が負けた翌日、日本が占拠した。日本を加えた混成軍が北京に向かい各国兵が功を急いぐ中、正面から撃破して、包囲された人々を救った。占領された清朝末期の北京は天下の宝物に溢れていたが、日本兵は保存のために尽力した。一方の列強の各国軍は略奪や破壊、婦女への暴行を尽くし、日本に助けを求めるほどであった。

第十五章 対露強硬論と七博士

韓国大使に任命された林権助は陸軍の参謀将校から対ロシアの観点で朝鮮の防衛が大事だと言われる。一年後、ロシアの艦隊が来ると基地を作ろうとしている場所を聞き込んで、その土地を商社に買い占めさせた。このような積極的な対露路線に対して、伊藤博文は消極的な態度をとっていた。満州でロシアの権益を認める代わりに韓国で日本の権益を見てめてもらうという満韓交換論である。軍も議会もロシアと開戦する時期を逸すと紛糾し、民間の学者も開戦を進言した。
 当時は軍も政府もかなり風通しの良い組織だったことに驚かされた。

第十六章 日露海戦

日本は日英同盟や満州還付条約など日露海戦への外交上の布石を打っていた。内政としても桂内閣と伊藤博文が和解をして外交の一本化を図った。桂首相も明治天皇へも報告を入れている。その折、露国参謀本部では対日作戦計画の裁可がおりて、増援部隊が到着し次第、日本に戦争を始めるという情報が届いた。日本は御前会議を開き満場一致で開戦を決議し、翌日に軍は勅諭を賜った。財政面も不安があるなかで、伊藤博文は金子伯をアメリカに派遣して、調停への布石を打っておくように頼んだ。その時の言が以下である。
 「いよいよロシア軍が海陸からわが国に迫った時には、伊藤は身を卒伍に落して鉄砲をかつぎ、山陰道か九州海岸に於て、博文の生命のあらん限り戦い、敵兵に一歩たりとも日本の土地はふませぬ決心である。昔、元寇の時、北条時政は、身を卒伍に落として敵と戦う意気を示した。その時彼は妻に何と言ったか、汝も吾と共に九州に来れ。そうして粥を炊いて兵士を労えと言った。今日伊藤も、もしそんな場合になればわが妻に命じ、時宗の妻と同様に九州に行って粥を炊いて兵士を労い、そうして斯く言う博文はは、鉄砲を担いでロシアの兵と戦う。」
 金子は伊藤の熱意に動かされて、アメリカ行きを承諾したが、参謀本部に児玉次長を訪ねて戦局観を聞いた。「まあ君がニューヨークで演説している最中、六度は勝報がいくだろうが、四度は負け戦の電報が行くものとして覚悟していてくれ」と答えた。海軍の状況を山本に聞きに行くと、「僕の方は半分は軍艦を沈める。又人間も、半分は死んでもらわねばならぬが、君もアメリカでどうかその心算でやってくれ」と言われる。

第十七章 児玉総参謀長

参謀次長がなくなり、降格になるが児玉がその地位に治った。前任の田村の作戦をさらに練りあって作戦を決定した。メッケルも児玉を英才としていた。台湾総督にも選ばれ混乱した台湾を建て直した。どの地位にあっても人ができない成果をあげている。
 第一軍は仁川から順次上陸させ、一気に北上し鴨緑江岸九連城付近で敵の軍とはじめて遭遇し、これを撃滅させ、全軍の士気を鼓舞した。第二軍は遼東半島の敵を駆逐するため、半島の一角へと敵前上陸を敢行し、旅順港内の敵戦を撃沈したりした。一軍が大勝したその時に第三軍の大将として乃木に声がかかる。乃木は児玉とは西南戦争からの知り合いで、反対の性格だったがウマがあった。第四軍まで編成されたが軍事司令官は維新からの歴戦者たちで、補佐する参謀長は士官学校の一期生二期生ばかりだった。満州総司令部が設置され、悠然と構える大山を尊敬していた児玉は人を食ったような態度はなく慇懃に務めた。
 第三軍は旅順を攻めた。第一回攻撃でも第二回攻撃でも大量の死傷者を出しながら戦況はまったく好転しなかった。歯がたたない旅順の要塞のために、二十八柵の巨砲を内地から運んだ。据えるのにも一二ヶ月かかるような大砲を横田大尉の超人的な努力でわずか九日で発射の準備ができた。しかし思ったような戦果はあげられなかった。ここでやっと正面攻撃を反省をして203高地という比較的手薄な場所を目標にする話も出てきたが、変更はまとまらず正面攻撃は続いた。203高地に目標が移されると、9昼夜連続の攻撃で屍山血河という言葉通りの戦場になる。児玉も戦況が良い時は冗談を飛ばすこともあったが塹壕内を往復し203高地の下を匐伏して戦況を視察した。203高地から旅順の街が見えると、二十八柵砲を中枢部や敵艦に向かって飛び、敵艦はほぼ殲滅した。これにより他の地域も占領し、開城を迫った。旅順に入場した第三軍は陣没将士の鎮魂祭をした。終わるとただちに奉天に向かう司令を受ける。

第十八章 奉天会戦

両軍の戦闘品は日本軍が24万、露軍が36万。当時世界でも例のない規模だった。日本は劣勢だったがとった作戦は包囲作戦だった。孫子に「十ならば即ち囲む」とあるが、十倍の戦力で初めて包囲は成功するのだ。ロシアでさえこの事実をなかなか認めなかった。しかし日本軍少数での包囲は危機的でところどころに綻びがあった。日本の右翼を餌にして左翼の第三軍を急進させて回り込ませるという作戦だった。ロシアは旅順を堕とした第三軍を心配していたが、右翼にいた第三軍11師団にロシアが気付き、予備兵をすべてこれに当ててしまった。正面左側の第二軍が半数を失う中、第三軍は急進行した。そんな中、敵の左翼は敗走し始め、第三軍の近くの鉄道から退却する列車が見えていた。戦闘はまだ奉天市内や郊外で行われていたが、日本軍は堂々と奉天入場式を行い、南門から入城した。東洋の地で、はじめて完全に武装された東洋人が、白色人種を完膚なきまでに叩きのめした。

第十九章 日本海海戦

くロシアの海軍は開戦時は戦艦七隻、装甲巡洋艦十隻であったが、開戦と同時に仁川港で二隻、旅順港の夜襲で三隻を失っている。陸上の敗走により士気が上がらないためにバルチック海にある精鋭艦隊を日本海に派遣することを決める。周到な準備を終えたロシア軍艦はクロンスタット港を出発し、紅海とアフリカを回る二手に分かれ、落ち合ったのち、日本に迎い、いよいよ津島海峡東水道を通過した。警戒をしていた日本はそれを発見する。日本戦隊の無線が激しくなったことでロシアが発見されたことを知る。
 日本も「敵艦見ゆとの警報に接し、吾戦隊は直ちに出動、之を殲滅せんとす。この日、天気晴朗なれど波高し」という有名な第一方が、まず大本営に飛んだ。敵艦隊と並進しながら報告し、その報告は、敵の戦列部隊が太平洋第一、第二艦全部に特務艦が七隻あること、その陣形が二列縦陣であること、その速力は十二浬であることなど詳細を極めた。そこで東郷提督は時刻と距離を計算して、午後2時ごろ、沖の島北方で主力艦隊が敵を迎える予定を立てた。敵艦は予定のごとく姿を現した。「皇国の興廃この一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」このまま進めば、両戦隊は縦陣を以てすれ違い、互いに敵を左舷に見る反航戦になる。利害共に等しいから、先頭としても平凡に終わりそうである。
 日本海海戦に於ける丁字戦法は有名だが、黄海海戦でも行ったことがあり日本海軍戦法の定石だった。ただこの日に、この戦法をやるには、あまりにも彼我の距離が近すぎた。それは朝来ガスが海上一面を蔽っていたため、遠望がきかず、敵影を認めるのが遅かったため、強いて旋回をすれば敵弾を浴びなければならず、むしろ避けなければならないのである。東郷大将は突然右手を真直に挙げ、左へ振ると、参謀長を見た。わが戦隊が敵八千メートルに於て、逐次旋回を試みるや、敵の旗艦にあったロジェストウェンスキーの幕僚たちは手を拍って「我勝てり、東郷狂せり」と叫んだという。先頭の三笠は敵の巨砲の前に暴露し、甲板に数弾を浴びた。しかし逐次旋回したわが第一第二両艦隊十二隻の精鋭は、敵の二列縦陣の戦闘を遮り、丁字先方が出来上がった。ここで形勢は逆転し、敵の二列の戦闘艦たるスウォーロフとオスラビーヤはわが片舷百二十七門の巨砲の前に、すっかりその全体を暴露することになった。この二艦を目指して打ち出した砲撃に二艦は煙に包まれて見えなくなった。日本艦隊はロシア艦隊に比べて速力は五割ほど優れていた。この快速を利用して急旋回をした日本艦隊は更に乙字型をなして、あくまで敵の先頭を圧迫するので逃げられない。スウォーロフは全艦蜂の巣のようになり列外に出て、オスラビーヤは炎上後に沈没した。開戦三十分にして、すでに勝利に対する確信を掴んだ。夜も魚雷攻撃で1艦は沈み、3艦は航海不能になる。翌日も五艦はそうそうに白旗をあげた。

第二十章 ポーツマス会議

 ニューハンプシャー州のポーツマスが軍港が整備されているという理由で講和の地として選ばれた。小村寿太郎が全権大使として選ばれれ、出発は国民の期待があり盛大なものだった。しかし政府関係者は困難な仕事として考えており、伊藤博文は帰還の際は自分は出迎えると伝えている。交渉相手は海千山千の王男ウイッテだった。小村は遅れて到着するが当てられたホテルの一室を二時間で事務所に改造した。初日の本会議で我が方の十二条よりなる講和条件を提示した。ロシアのまだ負けたわけでないという態度によって難航したが、講和は成立した。賠償金は放棄し、樺太の半分を獲得した。
 講和を成立させて日本に戻っていた小村に耐えられないニュースが舞い込んだ。米国の鉄道王ハリマンとの南満州鉄道を共同計画しようというハリマン協定である。小村は諸元老たちを説得してまわりついに協定の取り消しに持っていく。

第二十一章 明治の終焉

 日露戦争で勝利した日本は東亜で指導的地位をかくりつした。韓国での日本の宗主権が認められると、伊藤博文は総督として京城に赴き近代化を図った。伊藤は後藤新平で厳島で会談した。大アジア主義を唱える後藤を諌めたが、各国を回ることは了承し、人と会うためにハルビン駅に着いたが、そこで凶弾に倒れた。
 明治を通して日本は外国が二三百年かかってなした変革をわずか50年で成し遂げた。外国文化の接種においても常に日本の伝統が基調をなしていた。