ウイルス学者の責任 (PHP新書)

2022 PHP研究所 宮沢 孝幸

 宮沢先生はウイルス学の専門家だが、藤井聡先生といっしょにYouTube番組に出られたりしていた。初期の頃から政府の対策に疑問を呈していらっしゃったので、応援する気もあり、買ってみた。

本の構成

 本書は六章立てになっています。一章では国のコロナウイルス政策を批判していて、自身の考えと訴えた施策を説明している。二章ではワクチンの構造や仕組みなどと考え。特に子どもや妊婦に対しての影響を心配している。三章では先生が過去に実際に遭遇したDNAを書き換えるレトロウイルスにまつわる2つの事件に立ち向かった経緯と結果を紹介。猫ではありますが、ワクチンの中にレトロウイルスが入っていたというもので衝撃的です。会社側の不正義について書かれています。四章では自身が関わった今市事件についてです。唯一の物証である猫の毛のミトコンドリアの一致が鍵になっていて、その反証に携わり、国側の不正義を垣間見ます。五章では研究者として大切にしていること、六章ではネイチャーに論文が発表されたりしている自身の研究者としての歴史を語っている。

ポイント ー 世界的な国や会社の不正義

 先生が見つけた試薬の問題を放置する会社やアメリカの機関。日本でも猫のワクチンの問題について農水省は動かない。それで論文にして発表するという手段で対抗している。また今市事件については科学的にありえないことが”科学的に検証された証拠”として検察が提出して、一人の人の人生を左右している。

 統計もそうだが、一般の人が”科学的”というような言葉を聞いたら、自分では検証ができないので信じてしまう。そういうことを国が言い出したら、まずは疑わなくてはいけないのだと改めて思った。

ポイント ー 組織論

 五章では研究室の運営のことも書かれているが、恩師の姿勢などにならったりして自身の方向性も語っている。「ダメだと言われている人を大切にする組織が強い」というのは共感した。ダメな人を排除しようとすると次のダメな人を探してきて、組織として安定性がかける。ダメと言われている人を大切にして、その人にも役割を与えて、組織運営をするのが良いと。いろいろな個性が集まって仕事をするのが良いと至極まっとうなことをおっしゃられていた。

 きっと国とか大きな組織についても同じことが言える気がした。ダメと言われているような人も役割を与えられて幸せに暮らす国が良いのだと思う。国は良い研究でなくて、良い組織を作っている人にお金をもっと投入すべきだと思う。

最後に

 自分の能力を自分のためだけに使う人に対しては正直、残念に思う。長いものに巻かれている人も残念に思う。宮沢先生はそうではない。別のところで「能力のある人はそれを人のために使え」とおっしゃっているのを聞いたし、ご自身でもそれを実践なされていると思う。利他の精神を持った人が増えれば世の中が良くなると思う。そして利他の精神を持った人が多かったからこそ日本が発展したのだと思う。自分もこう有りたいと思う人に出会えてよかったと思う。

 コロナウイルスやmRNAワクチンについて知りたい人や、宮沢先生の歴史について知りたい人にはうってつけの一冊です。

 

文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの 上・下

2012 草思社 ジャレド・ダイアモンド(著), 楡井 浩一(訳)

 ジャレド・ダイヤモンド氏による「銃、病原菌・鉄」に続く著作であり、様々な文明の崩壊を考察する内容となっている。全体としては現代の環境問題への対応について問題提起をしている内容に読めた。

本の構成

 4部16章で成り立っている。文明の崩壊を招く要素として環境被害、気候変動、近隣の敵対集団、有効的な取引相手、環境問題への社会の対応の5つを挙げてこの観点で各文明を分析する。第一部「現代のモンタナ」では過去の鉱業からの汚染と、森林伐採の必要と経済的な効率、古くからの暮らしと土地開発の摩擦について、第二部「過去の社会」ではイースター島での森林資源の不足による崩壊、ピトケアン島・ヘンダーソン島での人口に対する資源不足による崩壊、アメリカのアナサジ族の森林伐採と旱魃による崩壊、マヤの敵と旱魃による崩壊、スカンジナビア半島から外海に進出し移住したヴァイキングの行く末、特にグリーンランドの興亡について、加えてニューギニア・ティコピア・日本の成功例について、第三部「現代の社会」では、ルワンダでの大虐殺の土地問題にまつわる背景、一つの島に隣り合うドミニカとハイチ、中国の人口・食糧・環境問題、痩せた土地を搾取するオーストラリア、第四部「将来に向けて」では、社会がなぜ壊滅的な方向に向かうか、大企業と環境対策の良い事例と悪い事例、十二の環境問題と反論やこれからについて語る。

気になったポイント – 支配者層の非合理

 支配者層が無駄なものを浪費したり自分だけ裕福な暮らしをしたりと、非合理的な決定をしていたのが社会が崩壊した原因の一つなのではないか、とあった。イースター島の社会階層やグリーンランドにも社会階層あり、それらによる弊害である。

 社会階層は社会のアイデンティティを維持するために必要なものだったのではないかというのが自分の考えである。滅亡した社会にはあったが多くの現存している社会にも存在する。それがないと集団としての物語が失われてしまい、人々が野生化してしまったら、それこそがら文明が崩壊してしまうのではないかとも感じる。

最後に

 崩壊した社会は環境が痩せていて人類が適応するのが難しい場所だったという印象で、度重なる旱魃などの環境変化で崩壊するケースもある。その地域がどのくらいの人口を養えるかが重要だったが、現在では地球規模のやりとりで養える人口が変わっている。

 その土地が持っている潜在能力が重要だったが、現在の地球はどのくらいの人口を養うことができるのか、興味は膨らむ。過去の文明崩壊や世界の環境問題に興味がある人にはおすすめです!

「王室」で読み解く世界史 教養として知っておきたい

2018 日本実業出版社 宇山 卓栄

 「王室」という目を引くタイトルで手にとった。

本の構成

 十部25章で構成されて、地域ごとに部に分かれている。第一部「世界の王室を理解するために」で世界に残っている王室の数、王とは何か、日本の天皇について説明している。第二部「ヨーロッパの君主たち」では王と皇帝の違いやドイツ・フランス・イタリアと、イギリス・ロシア・北欧の違い、さらに教皇について説明する。第三部「イギリス、フランス、オランダ」ではイギリス王室の歴史、フランスにはなぜ王室がないか、オランダ王室の歴史とイギリスとの関係を解説する。第四部「スペイン、ベルギー、ドイツなど」でスペインのハプスブルグ家、ハプスブルグ家とネーデルラントのベルギーをめぐるオランダとの関係とイギリスの思惑、ヨーロッパに残るミニ公国など、ドイツ・イタリアの王室の最後を説明する。第五部「北ヨーロッパ、東ヨーロッパ」ではスウェーデン王室、デンマーク王室、ノルウェー王室のルーツ、ロシアのロマノフ朝、欧州アジア境界の複合国家について説明する。第六部「中国」では中国の皇帝や万世一系を阻んだ易姓革命、清が王族を残さなかった理由と日本との関係、第七部「朝鮮」では日本による朝鮮の併合、李氏朝鮮による統治の実際、李氏と日本の関係を解説する。第八部「東南アジア、インド・中央アジア」では最も裕福なタイ王室の歴史、カンボジア・マレーシア・ブルネイ・ベトナムの王朝の最後、モンゴル系のティムール帝国・ムガル帝国を説明する。第九部「中東」で王室を持つサウジアラビアとアラビア半島の国家、ムハンマドの子孫が王となった国々、オスマン帝国とイランの王室を説明する。第十部「アフリカ、アメリカ」では残ったアフリカの王国、ラテンアメリカのインカ帝国の崩壊などを説明する。

気になったポイント1 – 日本

 第一部では少なくとも1500年続く日本の万世一系の天皇の特異性について説明している。その理由としては男系天皇と側室の子供の扱いをヨーロッパとの違いとして大きく取り上げている。その他、フランス革命では民衆が王を処刑したが、日本で民衆が天皇を処刑するなどはありえないと論じている。

 アジアでも側室の子供が王を継承するとなると、アジアの国家ももう少し長く続いても良い気がする。地理的な理由もあるとは思うが、他のところでも語られている日本は権威と権力を分離したというのも大きいと思っている。他の本では東南アジアで権威を持つ集団が王を追認したようなものも読んだが、なぜその国家は存続しなかったのかも気になるところだ。経済的な安定などだろうか…。

気になったポイント2 – ヨーロッパ

 周辺部の王国:イギリス・ロシア・北欧・東欧の違いとして、中心部の王国:ドイツ・フランス・イタリアと、王国の形成が周辺部は土着性・血縁性から自然発生的に生まれたのに対して、中心部は西ローマ帝国分裂から生まれている違いがあり、中心部の王国の王権が弱いと説明している。

 イギリスは王室をまだ持ちつづけEUからの独立を遂げたが、このような経済的なつながりかアイデンティティのどちらを優先するかに関わっていたりしないかとも思った。また国家が広範に及ぶと王の力が弱くなるというのは興味深い。ローマも領地の拡大に応じて、王政→共和制と変わっているのは関係があるような気もした。

気になったポイント3 – 市民革命

 フランス革命は民衆が王を処刑して王政を廃止したが、アジア・中東・アフリカも植民地からの独立の際には王政が廃止されている例がある。

 政権を倒すというような意味合いだと思うが、それぞれの王朝が地域によってどのように変わるのか。過去の王国はどのように倒されたのか、どのように存続したのかの傾向のようなものはを知りたい。

最後に

 内容が盛りだくさんであった。王室の歴史というのは支配者層の歴史かもしれない。支配者層がどう移動したり、どこをどのくらい支配したのか。現在の王室だけでなく古い王室についてももっと知りたくなった。

 いずれにしても世界各国の27の王室、特に日本の王室について知りたい人にはおすすめです!

「宗教」で読み解く世界史 教養として知っておきたい

2020 日本実業出版社 宇山卓栄

宗教は世界史の中で大きな要素であって興味があったので手に取った。一つ一つのチャプターが短いので、扱っている範囲は広いが読みやすく工夫されている。

本の構成

 四部32章で構成されている。第一部「東アジア」では、中華思想と宗教である儒教を信じる中国、小中華に服した朝鮮、成文や組織のない神道を重んじる日本、儒教・仏教の影響を受けたが中華に組み込まれなかったベトナム、清に制服されたイスラム教の新疆ウイグル自治区、中国とは別文化の仏教国の雲南、中国から逃げ逃れた道教が信奉されている台湾について説明。

 第二部「インド・東南アジア」では、選民思想をもったバラモン教は王朝が国をまとめるための仏教に押されたがヒンズー教に変遷し地方豪族が信仰するようになったインド、アンコール朝はヒンドゥー教だったもののその後仏教国として栄えたタイ・ミャンマー・カンボジア、中国の混乱で海上貿易の収益源を失った仏教国シュリーヴィジャヤ王国、王朝が自分と共に民と富裕層の利益を図り建設されたアンコールワットなどのヒンドゥー教の王国、インドで発展した商人に時事されたジャイナ教・宗教的に分断されたパンジャーブ地方で生まれた戦闘色の強いシク教、インドをイスラム化して統一できなかったムガル帝国、イギリス統治で分割させられたイスラム教国パキスタン、仏教のアーリア系シンハラ人とヒンドゥー教のドラヴィダ系タミル人との内戦になっているスリランカ、ムガル帝国を引きづいでイスラム教のバングラディッシュ、マラッカ王国のイスラム教を引き続き中国資本に対してイスラム主義で対抗しているマレーシアやインドネシアについて説明。

 第三部「ヨーロッパ」では、カトリックの教皇による緩やかな教皇の連合体による支配と腐敗による瓦解、教会との利権闘争に利用され印刷技術によって広まったプロテスタント、営利を推奨しブルジョアを取り込んだ経営者カルヴァン、資金が集まって大航海時代をスペインと新教徒が集まるアントワープを潰して没落した敬虔なカトリックのフェリペ2世、新教徒が毛織物産業で経済発展をさせてスペインを倒したイギリスとオランダ、ブルジョアを取り込むためプロテスタントも取り込んだイギリス国教会、メアリ1世が諸侯と和解するためにカトリックを復活させるがエリザベス一成がイギリス国教会を復活、カトリックのアイルランド人とイギリスの対立、プロテスタントを使ってカトリックを排除し王権を確立したデンマーク、オランダ新興勢力はハプスブルグ家との代理戦争を支援しついにオーストリアだけになったカトリックのハプスブルグ家、フランスはユグノーの支援を受けたアンリ4世に始まりそれを覆して新興ブルジョアの財を接収しようとしたルイ14世さらに反動で合理主義で混迷を極めたフランス革命、ローマの分裂で生まれたギリシア正教とビザンツ帝国崩壊で独立した各国の正教、東方正教会の最高祭祀者となったロシア皇帝、ポーランド・ハンガリーはドイツに近くカトリックが主流、プロテスタントが根付かずカトリックに戻ったチェコやスロバキア、イギリスの貧困層のプロテスタンとピューリタンが移住したアメリカ、カトリックのヒスパニック系。

 第四部「中東・中央アジア・アフリカ」では、通商を重視したイスラム教、アラブ人軍人のクーデターで生まれた軍人のウマイヤ朝、軍人の重用をやめたが分裂を招いたアッパース朝、イスラム商人に支えられた戦闘のプロのクルド人のサラディンは戦争で商機を失うのを嫌った商人たちに財政援助を止められ、利権を狙うリチャード一世に敗れる、トルコ人軍人のマルムーク朝はモンゴルの進撃を止めてインド洋交易の利権も抑えるがポルトガルの大砲に敗れ利権を失いオスマン帝国に吸収される、宗教民族に寛容なオスマンの発展と衰退、近代化を阻んだイスラムの要因と改革したトルコのケマル、シーア派の十二イマーム派のイランとアメリカその他の国とのグレートゲーム、中国マネーに支配されつつある中央アジア五カ国、イスラム教国でモンゴル系のティムール帝国、それを滅ぼしたトルコ系のシャバイニ朝、それを滅ぼした無神論でイスラムを弾圧した南下したロシア、その後ソ連は西側諸国への対抗するためイスラム教に懐柔的に対応、崩壊後はイスラムが復権したが弾圧によりイスラム信仰は緩やかに、富を肯定するユダヤ教とその不満から生まれたキリスト教、アフリカでの北のイスラム教と南のキリスト教の分断、コプト教の流れを汲むエチオピア

気になったポイント – 宗教は強力なソフトツール

 宗教は国内に向かっては「ソフトツールとして、思考や思想を共有し、一つの価値理念に向かって協働することができる」また国外に向かっては「公然性をもった対外工作ツールとして政治的に利用されてきた」というような、「宗教は救済」というようなナイーブなものでないと語っている。

 たしかに民族を超えて協働するには宗教という物語が一番成功してきた気がする。しかし今は資本主義というのはまさにソフトツールで思考や思想を共有し、一つの価値理念に向かって会社などを通じて協働している。

気になったポイント – 利子

 利子は以前から気になっていたが、イスラム教は利子は貧富を拡大するからとらないとあり、それが近代化を阻んでいると書いてあった。一方でカトリックは認めていなかったが認めた。カルヴァンは5%を許容して商業が発展。溜め込んだお金を外に回すために重要である気がする。利子についてはもっと勉強したい。

最後に

 「宗教地政学」の本と銘打っているが、国や地域ごとの宗教の遷移と対立などがよくわかった。宗教という切り口で世界史をみたい人にはおすすめです!

「民族」で読み解く世界史 教養として知っておきたい

2018 日本実業出版社 宇山 卓栄

 民族という切り口が面白そうで手にとったが、世界全体を民族の切り口で語っていて非常に面白かった。

本の構成

 8部24章で構成されている。第一部「民族はこうして始まった」では民族は人種や国民とどう違いのか、大まかな語族による分類、インドヨーロッパ語族の「白人」のルーツについてを説明する。第二部「東アジアと日本」では中国の王朝と民族について、中華思想、日本と渡来人・白村江の戦いについて、朝鮮半島の王朝と民族について説明しています。第三部「世界を支配したヨーロッパの国々」ではローマ人の末裔のラテン人・ビザンツ帝国の流れをくむスラブ人・ヨーロッパを開墾したゲルマン人について、ノルマン人による王朝、北欧信仰について説明しています。第四部「インド・中東・中央アジア」ではインドに流入したモンゴル人とカースト制、イスラム勢力に倒れたイラン人の国、非アラブ人の国とベルベル人、西に移動していってハンガリー・ブルガリア・フィンランドまで達したトルコ人、三系統のユダヤ人とイスラエル建国を説明している。第五部「複雑に入り組む東南アジアの諸民族」では東アジアの語族たち、ベトナム人・タイ人・クメール人のインドシナ半島の三勢力と流入したミャンマー人、マレー人・ジャワ人の王国について説明している。第六部「アメリカ、アフリカ、民族に刻まれた侵略と対立の傷跡」ではラテンアメリカ人、アフリカの4語族と奴隷貿易、ワスプとブラックインディアンについて説明しています。第七部「大帝国の成立ー民族の融和」では4つのモンゴル人の国とモンゴル帝国の経済モデルと西走、満州人のビジネスモデルと清帝国の宥和政策と民族主義、オスマン帝国の民族融和政策と民族ナショナリズムによる分裂と列強による分割とクルド人について説明しています。第八部「民族の血糖が教える世界」では、主権国家と国民国家の違いとグローバリズムに対する反動、アメリカで発展した白人優位主義と排日思想や黄禍論について説明しています。

気になったポイント – バスク人の先祖

 バスク人はクロマニョン人の末裔という説は興味深かった。モンゴロイドは原人と混血していないというが、本当なのだろうか…。

気になったポイント – 民族の移動の関連性

 ゲルマン人の第一の移動でローマ帝国の侵食したが、その後にウマイヤ朝のヨーロッパへの侵攻に対抗するためにバラバラだったゲルマン人が統合されてフランク族のカール大帝の帝国ができた。第二のゲルマン人の移動はヴァイキングの活動で、ノルマン朝やルス族によるノブゴロイド朝(ロシア)と説明されている。ゲルマン人を押し出したフン族は謎だが、トルコ人がはじめに西に移動して、その後モンゴルアジアではチベット人の国の南詔から派生したミャンマー人の流入やタイに流入した雲南の中国系など。

 世界史には民族の移動が様々な結果を生み出しているのだろうけれども、素人には関連性がはっきりと理解できて面白かった。

気になったポイント – 各民族のビジネスモデル

 インド・ヨーロッパ語族が小アジア中東で起こしたヒッタイト王国での製鉄技術の独占で儲けた。突厥も製鉄で儲けて中国に侵食していく。東ローマ帝国は東方貿易で儲けるが、温暖化とゲルマン人の開墾により東方貿易が縮小し東ローマ帝国も縮小していく。ノルマン人は海上の交易ネットワークを形成し巨万の富の蓄積した。モンゴル人はシルクロードの交易を整備して通行料をとって儲けた。大航海時代でシルクロードの交易が下火になってくるとインドに下ってムガル帝国を作った。満州人はモンゴル、明王朝、朝鮮との互市貿易で儲けた。クメール人の扶南やインドシナ半島のシュリーヴィジャヤ王国はインドと中国の海上貿易で栄える。アユタヤ朝はポルトガルなど大航海時代の交易で儲ける。砂糖・綿花の価格低下したり奴隷を再生産して奴隷貿易がなくなった。

気になったポイント – 文化の吸収

 文化の面でも統治の観点もあったとは思うが、文化を吸収するということが起こっていた。中国文化についてはモンゴル人の北魏の婚姻の奨励、突厥の中華思想の推進、清の中華同化制作などが見られる一方で、モンゴルのフビライは漢字を国家の公用語と認めなかったりしている。

最後に

 ノルマン朝がイギリスとフランスの一部を領地にしていたというのは古代日本の状況と似ていて興味深かった。やはり海洋民族はそのような支配になるのではないか。日本の勉強のためにも世界史は面白い。

 かなり広範囲の世界史を扱っているわりにコンパクトで図解なども多く読みやすいです。世界史の流れや各民族のルーツなどを知りたい人にはおすすめです!

ホモ・デウス:テクノロジーとサピエンスの未来 上・下

2018 河出書房新社 ユヴァル・ノア・ハラリ(著), 柴田裕之(訳)

ハラリさんのサピエンス全史の次の作品として気になったので、読んでみた。

本の構成

 飢饉と疫病と戦争を乗り越えたホモサピエンスには次の課題が必要だ。1つ目は死を乗り越えること。2つ目は幸福感を我が物にすること。加速する資本主義がもたらす科学の進歩は止められない。マルクスの思想が資本家の行動を変えたように、新しい知識も再帰的に未来を変えるために予測もできない。

 第一部では他の動物たちを比較して、共同主観とがホモサピエンスを特別なものにしていると説く。第二部ではホモサピエンスは共同主観によってお金、神、国家、起業を作り、科学でそれを強化してきたと説く。もっと力を得るために人生の意味を捨て、人の自由意思を権威とする自由主義的な人間至上主義を打ち立てた。第三部では自由主義的な人間は自由意志の存在を礎にしているが、自由意志はあるのか?感情を持たないアルゴリズムの方が首尾よく働くし正確で人々は心地よいので、社会システム全体がアルゴリズムやデータによって決定するような方向に変化していくと説明する。

ポイント ー 第一部:ホモサピエンスの特別性

 世界の大型動物の重さを比較すると3割が人類、6割が家畜、野生動物は1割。アミニズムでは人間は野生動物の一部だったが、農業革命によって人間が動物たちと話せなくなったアダムとイブの神話があるが、つまり家畜が生まれた。聖書などでは動物たちとの繋がりが廃されて、神を通して人は自然(動物)にアクセスする。農業革命が有神論の宗教を生み出し、神と人間の世界を作り、動物の残酷な利用を正当化した。その次に起こった科学革命は人間至上主義の人間だけの世界を誕生させた。(生物はアルゴリズム。感覚もアルゴリズム、ほとんどの決定をしている。)

 人は強力だがそれは豚の命より人の命が尊いことになるか?人間には不滅の魂があって、動物にはないからだと一神教は答えるが、科学的に人間には魂が発見されていない。人間には意識ある心があるからだと答えもある。魂は物語だが、心は主観的経験だ。心は存在理由が分かっていない。感情はなぜあるのか?記憶や創造や思考は結局アルゴリズムではないか。心も発見されていないとすれば、それはエーテルと同じ想像上の産物ではないか?心がなくてもアルゴリズムは目的を達成するので、なくても良いのではないか。では人間以外の動物には心はないのか?ラットにも心はある。チンパンジーも人間と同じように不平等を良しとしなかったりする。ではなぜ人間が優れているのか?それは大規模に協力できるからだ。共同主観とも言える「意味のウェブ」がそれを可能にしている。

ポイント ー 第二部:ホモサピエンスが作った世界

 「意味のウェブ」ではどんな物語が語られているか?動物は客観的世界と自分の感覚の世界で暮らしているが、人間にはお金、神、国家、起業の物語の世界もある。ファラオもエルヴィス・プレスリーも何もしていなかったが虚構のシンボルとして存在し、実際の現実を動かした。グーグルなどの企業という虚構も実際の現実を動かしている。貨幣が創造の産物の紙切れだ!と否定するとかなり生きづらいのと同じように十字軍が送られていた頃にキリスト教の聖典や古代エジプトでファラオの神聖を否定して生きるのは難しかった。現代でも紙切れが世界の価値観を作る。紙幣、学位、経典。それらの虚構は評価基準を提示するので、集団の目標も左右する。キリスト教が戦争を起こしたりして人々を苦しめる。現在でもふと気付くと虚構であるはずの国家や貨幣や企業のために人生を犠牲にしていたりする。

 科学は虚構に取って代わる普遍的な事実と思う人もいるが、虚構を現実に合わせるために科学は現実を変えることができるので神話と宗教の力を強めた。宗教とは霊性や超自然的な力、神の存在ではなく、変えることができない道徳律の体系に人類が支配されているという。それによって社会秩序を維持して大規模な協力体制を組織するものである。霊的な旅とはそれとは真反対のもので、道徳律から逃れようとする試みのことだ。また科学は幸せや良し悪しなどの人間の行動の判断基準を作るものではない。科学と宗教はどちらも集団的な組織としては、心理より秩序と力を優先する。両者は相性が良い。ということで、人間至上主義の教義は科学理論に取って代わることはない。歴史を通じて、科学は人間至上主義との間の取り決めを形にしていったと見ることができる。

 現代人は力と引き換えに人生の意味を捨てる約束をした。過去の虚構の中では人生に意味があったが、その世界観によって人の行動は制限されていた。現代は絶え間ない研究、発明、発見、成長を続けているが、意味もなく結末もない。しかし資本主義は信用経済を通じて経済成長を良いもの、優先すべきものと規定して、家族との絆よりも優先すべきものと価値判断を提供し、宗教の領域にも入ってきている。資本主義のサイクルに終わりはなく「これ以上は成長しなくて良い」とはならない。また原材料とエネルギーには限界があるが、知識に限界はない。北京の大気汚染など成長による不利益を富裕層は新しい方法で回避する。一方で温室効果ガスなどによる被害を貧しい人は回避できない。資本主義には経済破綻や生態系のメルトダウンというリスクはあるが、今の所起こっていない。グローバルな協力によって飢饉や疫病、戦争を抑え込んでいる。しかし競争のストレスが多く、意味のない世界を人間はどうやって生き延びているのか?それが人間史上主義だ。

 力を提供してくれる代わりに、人生の意味を与えてくれる宇宙の構想の存在を信じるのをやめる必要がある。意味を失う・神の死は社会の崩壊を招くが、今の所、力を維持しつつ、社会の崩壊を回避している。意味も神も自然の方もない生活への対応策は、人間至上主義が提供してくれた。かつては美や善、真実は人々が決めるものではなく権威が決めるものだった。人間至上主義では人々は自分の欲求に従い行動すればよいが、嫌な思いをする他人がいてはならないというのは規範である。政治は有権者によって決まり、製品は消費者によって判断される。教育も自ら考えることが重視されるようになった。神の世界には何もなくなり、自分の内なる世界が重視されるようになった。中世は知識=聖書x論理だったが、現在は知識=経験x感性だ。
 人間至上主義も宗教と同じように3つの宗派に分かれた。自由主義的な人間至上主義、ロシアに主導された社会主義的な人間至上主義、ヒットラーに主導された進化論的な人間至上主義である。自由主義は各人の自由のコンフリクトに対しては民主主義で解決しようとするが民主主義は基本的な事項で合意した集団が必要なため国家などの形態をとっている。社会主義は自分の欲望よりも国家や中間組織の意向を優先させる。進化論的な人間至上主義者は特定の国が人類を進歩させ、それを阻害する他の国を根絶やしにするべきだとした。社会主義も工業化についていけずに、自由主義が生き残った。

ポイント ー 第三部:ホモサピエンスの苦悩と未来

 自由主義の哲学は科学的発見がある。2016年の世界は個人主義、人権、民主主義、自由市場の自由主義のパッケージに支配されている。自由主義が個人を重視するのは人間には自由意志があるという前提があるからだ。一方で現代科学は自由を発見できておらず、選択に携わっているのは決定論とランダム性である。ダーウィンの進化論の前提は人の行動が遺伝子に依るという決定論で自由意志を否定している。また欲望に従うことが自由とされているが、人は自分の欲望を選ぶことはできない。そして研究室では電極でラットの欲望をコントロールできているし、人の脳を電極で刺激して鬱を改善させる実験もされている。

 さらに人間の自由意志の選択を権威としている自由主義の脅威は3つある。一つ目は高度なテクノロジーによって今まで必要だった仕事でも人が不要になること。2つ目は決定がアルゴリズムによってなされて、それを人は心地よく感じるようになるので、アルゴリズムが決定する世界になること。3つ目は人が経済力によってアップデートされたエリートと無用の人たちに二分されること。

 自由主義が崩壊したらどのようなイデオロギーが子孫の進化を支配するのか。1つ目はテクノ人間至上主義だ。テクノロジーによって人間の心をアップデートして第二の認知革命を起こしホモデウスを生み出す必要性を説く。しかし心の研究範囲は限られていてアメリカ人が大半でネアンデルタール人の感覚や他の哺乳類や生物の感覚なども研究できていない。また人間の感覚をコントロールできたとすれば人間至上主義が拠り所にする意思をコントロールできることになり、矛盾を抱える。

 2つ目はデータ至上主義だ。自由市場資本主義と国家統制下共産主義はデータ処理の観点でいうと前者は分散型処理、後者は集中型処理である。政治が世界の変化についてこれないからといって、市場に委ねると市場にとって良いことばかりをするようになり、温暖化やAIの危険への対処を怠る。また人類の発展をプロセッサによる分散処理とその接続というデータ処理の観点で捉えることもできる。データ市場主義者の中には情報の自由を説く人もいる。個人情報の自由はプライバシーの問題があるが、人はSNSを通じてすでに多くのデータを”シェア”している。結婚における伴侶の選択もキャリアの選択も”感情”に依るのでなく、アルゴリズムに依る方がよいのかもしれない。

 

人は自分の欲望を選ぶことはできないー哲学。電力、人口知能は過去のデータ。非論理的に選択しているかもしれない。

最後

 本書にかかれていることは可能性であるという。3つの問いがある。生物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?知能が意識から分離しつつあるが、知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?高度な知識を備えたアルゴリズムが自分より自分を知る時に社会や政治や日常生活はどうなるか?と締めている。

 いろいろ自分の視点からのツッコミができるので面白い。ホモサピエンスの分析では哺乳類との比較をメインにしているが、実は鳥類とか昆虫とかだって共同主観は持っていないかもしれないが重要な地位を占めないのだろうか。将来は知能をもったロボットとの戦争ではなく、カラスとの戦争になるとかだったら面白い。二酸化炭素の話が出てくるが、それも宗教じゃね?また人の自由意思についてスピノザなどがすでに考察している。
 最後にはアルゴリズムとデータを推しているが、そこまで推すほどのものでない気もする。世界を知覚するためにもっと多種多量のセンサがいるし、それを計算するために巨大なコンピュータが必要で、巨大な電力もいる。またデータを使った予想は過去の成功例からの結論に過ぎない。また人間の合理的でない部分は簡単にはモデルかできないと思うし、中央集中的なアルゴリズムでなく、分散並列的なアルゴリズムが良いとなった場合には人間の方が省電力で住むかもしれない。ただ核融合とかで人類が無限のエネルギーを手に入れたら、それこそ世界は一変するだろう。

 ハラリさんはマルクスの予言は偉大で世界を変えたと言っているので、ハラリさんも予言で未来を変えたいのではと思うけど、話がグーグルなどの最近の話なので、10年後に読んだら古めかしい話になっているのかしら。人類の未来について考えてみたい人や、ハラリさんの説にツッコミを入れたい人はおすすめです!

ばにらさま

2021 文藝春秋 山本 文緒

 大ファンの山本文緒先生の長編が出た後にすぐに短編が出ておどろいで即買った。

本の構成

 派遣社員と付き合っている中嶋の話(ばにらさま)/専業主婦の話(わたしは大丈夫)/胡桃と舞子の付かず離れずの生活(菓子苑)/祖母の昔話(バヨリン心中)/避暑地の作家の話(20×20)/結婚しない女性の生き方の話(子供おばさん)の6編の短編が収録されている。

物語の始まり

 中嶋はもてない新入社員だが、同じ会社の派遣社員の竹山さんに誘われて付き合うことになる。竹山さんは白くて手足が冷たいので友達は「バニラさま」と呼んでいる。デートをしているが、何かチグハグな感じである。

最後に

 繊細な内容なので細かく触れたくない。もちろん分析的なこともおこがましくてできない。ただ全編に人生の物悲しさというか、やるせなさのような詰まっていると感じる。さらに読み返すと、派遣社員などへの問題提起や、没落していく日本への警告も詰まっているようにも感じた。山本先生からのメッセージなのかもしれない。

 短編で読みやすいし、女性についての話だけど多くの人に読んでもらいたい。なんとも言えない読後感を味わってもらいたい。やはり女性におすすめなのかな。けど、ぜひ男性諸君にも読んでもらいたい!

インカとスペイン帝国の交錯 (興亡の世界史 12)

2008 講談社 網野 徹哉

 インカは大好きである。その出会いは幼少期にまで遡り、太陽の子エステバンというアニメで大きな刺激をうけて、大学卒業時には今しかないとマチュピチュまで行って神秘を感じてしまった。この本を読んで少しインカへの見方が変わったと思う。

本の構成

 第一章「インカ王国の生成」ではインカ王朝創始の場所から始まり第9代パチャクティの時代に外敵との戦いに勝利しクスコ周辺の一部族から帝国を築くに至る。12代の王朝や帝国が築いた6000キロ以上のインカの道の紹介をする。アンデスの相互に依存する経済とインカが帝国した後の変質と富の集約を語る。インカ王が神格化されて過去の王のミイラの信仰などの様子が確立されていくと共に太陽信仰や農耕の儀式に携わる様子が描かれる。
 第二章「古代帝国の成熟と崩壊」では帝国を拡大するために各地に赴き戦うと共に献杯の儀式により周辺の社会を従わせ支配する様子が描かれる。皇帝の統治下ではインカの平和が築かれたが、地方社会は国領・神領・民領に分割されて統治され、地方社会は重税や人の派遣を負い、太陽神の信仰を強制された。しかし第11代ワイナカパックのころには帝国の北端で敗戦しこれ以上の拡大に影がさしてくる。また帝国の末期を示唆する事象として、虐げられる地方の説明が続く。クスコから1600キロ離れたカニャル地方に太陽の神殿の建設のための石が運ばれたという。ワイナカパックが死ぬと継承争いが起き、より保守的なアタワルパが勝利する。その頃に海から肌の白い異邦人が渡ってきる。多くの民族がこの異邦人にアクセスしてきていたが、より痛めつけられていたカニャル地方の人が積極的だったという。異邦人がアタワルパ王に接見し王が死ぬまでの様子が描かれる。
 第三章「中世スペインに共生する文化」では視点を中世スペインに移す。1532年のキリスト教徒側から見たインカ帝国の最後を見た後に、異文化であるインカ帝国への接し方の根源にあると筆者が考える1391年頃にスペインであったポグロムと呼ばれるユダヤ人の虐殺について語られる。その背景として7世紀からのスペイン社会からゲルマン民族の侵入と共にユダヤ人への抑圧が強くなっていくが、イスラム帝国による支配下で緩和される。その中で翻訳などによりイスラム圏のアラビア語で畜された知性をラテン語に解放していきヨーロッパの知識人を集めた。そこから聖ヤコブ信仰によりエネルギーを得たレコンキスタでイスラム帝国が排除される。しかしキリスト教下でも当初は制限があるもののユダヤ教への許容があったことが示される。それでも14世紀末にポグロムを経てユダヤ教からキリスト教に改宗する人が出てくる。コンベルソと呼ばれるこれらの人々が社会の上層部に上がっていくと、都市トレドで富裕層であるコンベルソ商人に対する不満が噴出し、コンベルソ地区で略奪が起こる騒ぎになった。
 第四章「排除の思想 異端審問と帝国」では引き続きスペイン帝国でのユダヤ人問題を取り上げる。カスティーリャ王国のエンリケ四世は異教徒に対する宥和的な姿勢がありイスラーム文化愛好家と揶揄されたりユダヤ人のダビラ家のディエゴ・アリアスを重用した。エンリケの後はカスティーリャのイザベル女王とアラゴン王と婚姻が成立しスペイン国家が誕生した。イザベル女王はエンリケ四世と対峙するように非宥和的な強権的な王権を指向し、グラナダのイスラーム王国での虐殺や奴隷化をした。セビーリャでは異端審問が始まりコンベルソが犠牲になった。アンデスの征服を遂行した男たちが育った地方にあるグアダルーペは聖母マリア信仰がありコンベルソに宥和的な姿勢があったが異端審問が始まり拷問や火刑など残忍な極刑が執り行われた。1492年にはユダヤ人追放令が出せれる。キリスト教への転向を条件に帰還も許されるも、キリスト教を軸としてイベリア半島を統一する。ただその王国を統治する文民の中には多くのコンベルソが含まれていた。
 第五章「交錯する植民地社会」では、、、1532年までのスペインの征服者たちの足跡を追う。フランシスコ・ピサロは1513年にパナマに降り立つ。フェルナンド王はダビラ家のディエゴ・アリアスの孫・ペドラリアスを金の探索に派遣するも、現地のバルボアと対立し、バルボアは処刑される。新世界は本国の反ユダヤを逃れたコンベルソたちの活路だったが、ベドラリアスはニカラグアを目指したため、ピサロはコンベルソから資金を得て1524年から南方を目指した。2回の航海を終えて巨大な社会があることを確認した後に一度スペインに戻り征服の許可を得てから三回目の航海に向かう。1532年にインカ王アタワルパを捕虜にして、命と引き換えに金を集めるが約束を保護にして処刑する。そして擁立された第11代ワイナ・カパックの子はクスコに向かう途中に謎の死を遂げる。またワイナ・カパックの別の子マンコ・インカがインカ王候補として出現したためピサロはそれを認める。インカに支配されていた民族はスペインの支配を歓迎する動きを見せて国王に臣従を誓った。ピサロは征服者に周辺の部族の支配をそれぞれに委託し、この委託者により中間搾取が行われる制度だった。委託者に自分の臣下を取られたマンコ・インカはクスコの包囲戦に打って出るが失敗し、その後アンデスの熱帯地方ビルカバンバに拠点を移しスペイン勢力と対立する。同じワイナ・カパックの子のパウリュが即位するがスペインの支配の中でインカを存続させようとする。一方のスペイン社会も不安定でありアルマグロにフランシスコ・ピサロが暗殺されると、ゴンサロ・ピサロはスペインに反旗を翻すが失敗し処刑される。委託制度を恒久化しようとする動きもあるが、ドミニコ会は中間搾取を行う委託制度が地域社会の活力を削ぐ制度として反対して、各部族に対して啓蒙活動を行う。インディオの自主性を主張する言論の中でスペイン社会とインディオ社会を両立させるという思想が出てくる。一方でインカの存在が社会の不安定さの原因になるとまずはビルカバンバの反スペインのインカ族が武力により制圧される。また親スペインのインカ族も追放しようするが強い反発がありクスコに戻ってくる。
 第六章「世界帝国に生きた人々」では帝国の物理的な広がりとその広大な帝国内を行き交う人や物を描く。まずは帝国の広さの話から始まり、神聖ローマ皇帝カルロス五世の移動量や旅行記を書いた冒険家の移動量、帝国内を異動させられた官僚の移動量を描く。本国からの移民の制限についての説明。1540年代にポトシで銀山が発見され採掘された銀は財政難のカルロス五世のもとに送られた。銀山での労働は過酷だったが人口の1/7が送られたが徒歩でポトシに移動しなくてはならないためクスコの住人は片道三ヶ月かけて家族で移動した。過酷な労働はコカの葉と交換されてインディオは中毒になっていた。もともとコカは宗教的儀式と結びつき、生産も国家や共同体で厳密に管理されていたが、スペイン人がそれを手中に収めインディオ社会に大量に流通させた。マゼランが太平洋を超えアジアに達するルートが発見されると、ポトシの銀はアジアに流れて中国の陶磁器や絹織物と交換されてアメリカにアジア製品をもたらした。このルートにのって人の行き来もありリマに移り住んだ中国人や日本人もいた。
 第七章「帝国内の内なる敵 ユダヤ人とインディオ」ではユダヤ人とインディオに対する異端審問による迫害を取り上げる。南米のポルトガル系商人はコンベルソでリマで審問をうけて監獄で拷問を受けていた。また本国では無理やりに改宗されたイスラム教徒が大反乱を起こしたが鎮圧されカスティーリアの各地に強制移動させられるという一件があり異教徒を暴力で排除しようという動きがある。一方ドミニコ会の修道士などは土着の言葉を覚え彼らを理解してアンデスの統治権を先住民に返そうとする。しかし副王トレドの違和を強行に排除するという思想によってインディオ宗教に対する寛容さは制限される。加えてインディオ・ユダヤ人同祖論があり、インディオがユダヤの失われた10支族の末裔であるという言説があり、キリスト教から敵視されていたのもある。トレド副王が一線から退くと抑圧は一時緩和されるが、17世紀の初頭に再び不寛容思想が覆う。1609年に偶像崇拝を根絶するためにインディオの村を急襲し証拠を収集し拷問をするようなインディオを目標とした異端審問が始まった。
 さらに1639年には隠れユダヤ教徒として63名が裁かれ11名が火刑となる異常な状態になった。これは密輸で儲けたコンベルソたちだった。1492年に追放令でスペインを追われたユダヤ人はポルトガルでコンベルソを中心とする強力な商人階層を形成し、同郷者集団=ナシオンとして大西洋にネットワークを形成し密輸により富を集積した。特に16世紀の後半からプレンテーション経営で重要が高まった黒人奴隷の交易で幅を効かせた。その後ナシオンの人々はポトシやリマなど新大陸各地に定着していったが、王室もインディオに悪い影響がないかを懸念する。インディアス海路で行われていた正規貿易に携わる特権的商人は大きな打撃を受けナシオンを規制する組織ができたり、ナシオンがポルトガル人でありながらオランダを支援しているという陰謀論も語られた。これらの反ナシオンの動きが1639年の隠れユダヤ教徒の断罪として結実した。
 第八章「女たちのアンデス史」では女性たちの扱いを描く。スペインからの移住者に女性はほとんどいなかったために男性はインディオ女性と結婚しメスティーソが生まれた。インカ社会でも女性は地方の首長から王国のために差し出したり逆に後宮から恩賞として地方の首長に贈与するケースもあったが、スペイン人政府に対しても女性がやり取りされた。その後、純潔主義からスペイン人はスペイン人と婚姻を結ぶことが奨励されインディオ女性との内縁関係の解消が奨励された。またメスティーソの女性が修道院に入り習慣や作法を学んだ後にスペイン人向けの花嫁市場に投入されたケースもあった。このようなミソジニー社会では女性は魔術にすがり状況を改善しようすることもあり、薬草や薬湯などで男性をコントロールしようとしたりコカをつかった儀式をする動きもあった。
 第九章「インカへの欲望」では手短にインカの大反乱の前駆的な動きについて語る。インカ族はスペインと対立して武力抵抗して破滅した人々と、スペイン人と協調した人々に別れたが、後者はクスコに12の王家を再生させることに成功した。毎年7月25日にキリスト教にまつわる聖ヤコブの祝祭が開催されたが、そこにインカのようなゴージャスな衣装をまとって参加し、スペインの支配下であるがインカ王朝の歴史を再現し継承し続けた。また17世紀後半には非インカのインディオたちがインカ貴族になるための事件が起こったりした。この事件をめぐってインカの純血性が強調されたが、また一般のインディオに対しても純粋なインディオであるべきだという考えもあった。またベタンクールは1750年代からインカの継承権を求めて活動をしていたが、同じようにホセ・ガブリエル・コンドルカンキも1776年にインカ王の末裔であると活動を始めた。ベタンクール家はインカの継承権を得られるが、コンドルカンキは敗北する。敗北したコンドルカンキは1778年に息子にインカ王の衣装を着せてクスコの街を練り歩くというデモンストレーションを行なった。
 第十章「インカとスペインの訣別」では1777年にインディオが放棄してスペイン人を皆殺しにするという噂がまことしやかに流れ実際に計画をしている人々もいた。まずはこの背景を調べていく。16世紀後半以降インディオ社会はスペイン王国に納税を続け、ポトシ銀山付近へも人を送りこまねばならず共同体は疲弊していった。またカルロス三世の元で行われた財政改革で南米での徴税も強化され人頭税や消費税も上がり、税金の徴収のための地方官僚コレヒドールも派遣された。彼らは商品を強制的に分配し料金を払わせるようなことで私腹を肥やした。またコンドルカンキが首長を努めるティンタ地方はポトシ銀山へも遠く負担が重く、インディオは帰れたとしても死んでしまう状態だった。1780年に入ると徴税の負担が各地で限界に達してまずはアレキッパの街で暴動が起きた。
 その後、ラ・プラタ市の首長フロレンシオ・ルパが殺されるが、スペインの利害のためにコレヒドールと共謀しインディオを犠牲にしていた。ラ・プラタ市の共同体はコレヒドールを介さずに直接ポトシの税務官に納税することにより、中抜きのないより多い税を納めることでフロレンシオ・ルパに対抗した。またティンタ地方のマチャでも同じようなことで、トマス・カタリがコレヒドールと対峙して合法的に辛抱強く行動していたがついに殺されてしまう。そしてコンドルカンキも行動に出る。ティンタ地方のコレヒドールの身柄を拘束し処刑する。コンドルカンキの反乱軍はクスコに進み、11月にはサンガララでスペイン支配者側の軍勢に勝利し、6000人ほどだった反乱軍は5万人に膨れ上がった。当初はスペイン王国の王の聴訴院での法廷闘争でインカであることを拒絶されたコンドルカンキはインカであることにスペイン王権の権威が必要なくなっていたのもあり、スペインからの独立してトゥパク・アマルとしてインカの末裔を名乗った。しかしクスコ攻防で失敗し、処刑される。反乱は止まることはなくトマス・カタリの兄弟が過激化させて継続させるがラ・プラタ市で敗北する。同じようにフリアン・アパサもラ・パス市を包囲するが敗北する。そしてインディオと白人の深い溝を残して数年の反乱は終息した。インカを恐れたスペインによってインカの衣装も禁止された。1808年本国スペインでもナポレオンがカルロス四世を廃位させるのと呼応して、アンデス地域でも独立革命の動きが加速していく。しかしインカの時代がしのばれるも、その主役であったインディオについては尊ばれないようになった。

気になったポイント

 まず南米の地には以前も帝国があったことがさらりと図示されていたのが印象的だった。これらの帝国の遺産の上にインカの道や技術などのインカ帝国の文明があったと考えるのが自然だと思う。好戦的な部族同士の衝突がたくさんがあったが、インカはその中でも戦いにうまく勝ち上がり、部族の統合を成し得たように読めた。

 本書はちょっとユダヤ人の視点が多いような気がするが、ユダヤ人からみたレコンキスタは印象的だった。寛容なイスラム国家で活躍していたユダヤ人がキリスト教国では迫害されていくようすは興味深かった。

 また修道士の様子が何度か出てくるが、布教を通じて現地の言語や文化に通じるようになる修道士はリベラルな態度を持っているというのは興味深かった。それはキリスト教自体は寛容なものだということにも思えた。

 反スペインの蜂起はうまくいなかったのは悲しかったが、スペイン人が混血を持ち込んだりしていることで、社会が分断されてうまくまとまらないのに加えて、カニャル地方の人々など反インカの部族などがいたことも原因である気もする。

最後に

 インカとスペインについてや、インディオとユダヤ人についてより深く学べたのは非常に良かった。インカの文化やスペイン支配について興味がある人にはおすすめです!

スキタイと匈奴遊牧の文明 (興亡の世界史 02)

2007 講談社 林俊雄

本の構成

 「はじめに」では騎馬遊牧民という用語、スキタイ・匈奴を取り上げる意味、二人の歴史家からの視点を説明する。ヘロドトスの歴史と司馬遷の史記、それぞれでスキタイが取り上げられているが似通った特徴があるとのこと。

 第一章「騎馬遊牧民の誕生」では主に考古学的な観点から騎馬民族を追っていく。現地の人がヒルギスフール(キルギス=クルグス人の墓)と呼んでいる円形または方形の積石塚と鹿が彫り込まれた石柱である鹿石群からなる遺跡を発掘する。墓は王朝の初期では威光を示すため大きく、のちに小さくなるという。墓であるかどうかについては人骨が出たとのこと、周りの積石塚からはいっしょに葬られたと思われる馬の骨が出ている。大きいヒルギスフールは1367基の積石塚があるものもある。次に動物の家畜化について定住集落と農耕の確立によって生まれたとされる。初めは羊や山羊の食肉から家畜化されたとされている。馬についてはウクライナの前4000年の遺跡から馬の骨が出たので騎乗が行われていたと言う説が出たが、放射性炭素測定からは馬の骨は前800-500年と出て騎乗の年代は大幅に下げれた。
 次に遊牧の発生については定住から徐々に集落外へ日帰りで放牧に出かけるようになっていったという説が説明される。農耕牧地は草原地帯の西部には前6世紀に伝わったといわれているが、草原地帯の放牧化は遅れており、前3500年ころにメソポタミアで車が発明されて放牧化を促したとされている。ただしモンゴル北部では車を使わずヤクに荷物を引っ張らせる方式が取られている。また前3000年紀中ごろから気候が徐々に乾燥化してカザフスタンでは半砂漠と草原が形成され、牧畜に適した風土となった。さらに馬車より騎馬の方が早いとされ、メソポタミアを中心とした地域で馬に乗った人物の粘土板などが発見されている。騎乗者は馬の腹に巻いた帯を持ち馬の尻にまたがっている。これは骨があるのでロバの乗り方で乗ったとされている。とこれは広く普及することがなく前2000年紀の初めにスポーク付き車輪の二輪車が登場する。銜(くつわ)とその留め具は草原地帯で発明された可能性がある。西アジアや地中海では全十四世紀後半には銜につけた手綱をもつ騎乗者の浮き彫りがあるが、ロバ式騎乗ではある。前10世紀に入ると西アジアや地中海世界で牙を表現した資料が急増する。草原地帯では前九〜前八世紀になると騎馬関係の証拠が増え始める。これがスキタイ文化の始まりである。一つは世界的な気候変動が乾燥期から湿潤期の威光期、半砂漠だったところが草原に変わり始めている。

 第二章「スキタイの起源」ではスキタイ以前や以後の集団の動きを分析する。まずは語り継がれているヘロドトスやギリシア人による二説を取り上げている。二説は外来の神と地元の神の交わりに起源をもち末っ子が王族になったとしている。さらにヘロドトスが語る農民スキタイや農耕スキタイについて分析する。さらにヘロドトスが最もらしいと語る第三説ではスキタイは初めアジアの遊牧民であったが別の騎馬遊牧民に攻められかなり東の方から移動してキンメリオイを追い出し北カフカス・黒海北岸の草原に現れたという。スキタイ外来説は以前はマイナーな説だったがそれを裏付けるアルジャン古墳が見つかり今では内陸アジア説が有力とされている。アルジャン古墳からは銜も見つかったが炭素14年代測定法では前9から前8世紀の先スキタイ時代と出た。ヘロドトスによると黒海北岸にスキタイが現れる前にはキンメリオイがいたはずである。キンメリオイがスキタイに銜(くつわ)をもたらしたのではないか。ヘロドトスによるとキンメリオイはスキタイが迫り一部がシノベのある半島に逃げたとされる。アッシリアの資料ではギミッラーヤやイシュクザーヤの名前でキンメリオイやスキタイが出てくる。キンメリヤは前640年ごろアッシリアに敗れ、前七世紀ごろリュディアにも敗れ姿を消す。スキタイはアッシリアの資料では同盟関係を結んでいた。ヘロドトスによるとアッシリアの首都が包囲された時にスキタイ軍が救い出しが、その後アッシリアはメディアと新バビロニアの連合軍に負けてアッシリア帝国は滅亡する。またスキタイが28年間アジアを支配したとあるが時期は定かでない。メディア王キャクサレスがスキタイを宴に招いて酒に酔わせた大部分を殺してしまった。生き残ったスキタイは故郷にもどったとされるが北カフカスが黒海北岸が濃厚である。また彼の治世に本国から反乱を起こしてメディアに庇護を求めてきたスキタイがいたが当初は信頼していたが一度彼がキレてしまったのが原因でスキタイがリュディアに移動し、リュディアが引き渡しに応じなかったので、メディアとリュディアの間で戦争になった。スキタイがキンメリオイを追って西アジアに現れたというヘロドトスの記述を信じる人は現在ではいない。またギリシアの資料では略奪を目的に侵入してきたとあるが傭兵として雇われていた可能性もある。考古学資料では先スキタイ時代の武器や馬具がアナトリア中部や東部の遺跡で見つかっている。また先スキタイから初期スキタイまでの遺物はアナトリアやカフカス南部で続々と見つかっている。これらの資料からは北カフカス・黒海北岸の部族がカフカス南部とアナトリアに移動していることを示している。

 第三章「動物文様と黄金の美術」では遺跡から出土する遺物の特徴からスキタイ文化を見ていく。スキタイ文化を特徴づけるものは動物文様、馬具、武器である。武器は伝播しやすいが文様は伝播しにくい。元々はスキタイが西アジアを28年支配したという記述もあり”蛮族”も美術に目覚めたという説が有力だったが、南シベリアの一角にはやくも初期の動物文様が現れていることからスキタイ東方起源説が一気に有利な方に傾いた。一方で古墳から出土したものも西アジアのものもある。金製装飾が施されているアキナケスの剣と木製鞘などは鹿の表現をつぶさにみていくとスキタイのものと異なっていたり、複数の文化が混ざっているのが分かる。次は初期スキタイの美術を見ていく。東部の草原地帯では盗掘は稀だったがロシア人が来てから毎年のように行われていた。これらの遺物に文化的な価値を見出したのはオランダ人の学者ヴィトセンだった。彼はモスクワに一年滞在し地理、民族、言語などの資料を集めオランダに帰ってからも資料を集め続け大著『北東タルタリア』を著した。ピョートル1世はシベリア出土の金銀に美術的な価値を認識して金製品を集めるよう命令したり個人売買を禁止したりした。この時に集められた完成品はエルミタール美術館の黄金の間に展示されている。カザフスタンの東部にも重要な初期スキタイ時代の遺跡がある。1971年頃にアルジャン古墳が調査されて学会に激震をもたらせたが、その30年後にアルジャン二号墳で盗掘を免れた金製品が5700点も発見された。初期スキタイ時代のモチーフのつま先だった鹿や脚を折りたたんだヤギの動物文様の短剣などが見つかっている。出土品全体からは西アジアやギリシアのモチーフがまったく見られない。石室のカラ松から前619年〜608年の範囲ものとされる。鉄製品は前5世紀にならないと現れないというスキタイ東方起源説の弱点を解消すると共に、スキタイ美術の東方起源説がますます有利になった。次は後期スキタイの美術である。後期になると動物文様が写実的になり植物文様もみられる。ギリシア風からの影響がみられギリシア風スキタイ美術と呼ばれる。これらの作品は黒海北岸のギリシア人植民都市に住んでいたギリシア職人が作ったと考えられている。黒海北岸で見つかった金の胸飾りの文様では動物闘争文や花とつる草の文様がみられ、さらに搾乳風景などスキタイの日常生活が描かれている。
 前六世紀後半にイラン高原に起こったアカイメネス朝がアッシリアをしのぐ大帝国を建設した。アカイメネス朝は西方へ進出してギリシア諸都市と衝突もしていたが東方へも遠征を行い、中央アジアの草原でサカと総称される騎馬遊牧民と接触することとなった。イラン西北部の碑文によるとサカには尖り帽子のサカと呼ばれた人々もいた。またヘロドトスはサカをサカイと表記し、クセルクセス一世のギリシア遠征に参加した一部隊として尖り帽子のサカイについて言及してペルシア人はスキタイをサカイと読んでいると書いている。全体をサカ文化と呼んでもよいが中央アジアの騎馬遊牧民についてだけサカの名称が適用されている。この中央アジアのサカの初期の美術はピョートルのシベリアコレクションの大部分も含まれる。後期のサカ美術ではイッシク古墳の出土品がある。発見された以外は金ずくめで尖り帽子、上着、ベルト、ブーツ、剣と鞘などは金細工で飾り立てられ、黄金人間としょうされるようになった。特に注目されたのは尖り帽子であった。尖り帽子といえば尖り帽子のサカであったので、本拠地はこの遺跡のあるカザフスタン南部であるという研究者もいるが、尖り帽子ははるか西のクリミアのクル=オバ古墳のツボにも表現されており、カザフスタン南部に限定されるものではない。筆者は動物文様に注目し初期スキタイの変形とみなすことができ、また体をひねった動物表現がみられることに注目する。またアルタイは金山でもあるが重要なパジリク古墳群がある。1929年に一号墳が発掘された盗掘はうけていたが盗掘の穴から雨水が流れ込み墓室の底は水浸しになった。木や皮革、繊維製品などの有機質の遺物がよく残る条件の一つは水に浸かって空気にふれないことである。アルタイは冬が長く8月末には雪が降り始め真冬にはマイナス40度まで下がる。墓室内の水は凍結する。しかし翌年の夏になっても氷は溶けなかった。いつの間にか盗掘坑もふさがる。夏には雨水が浸水したが氷を大きくし地下墓室には巨大な氷が形成され、有機質の遺物は水浸しよりもさらに条件の良い冷凍の状態で保存された。バジリクでは大型古墳も発掘されたが、すべて凍結古墳であった。そこから木製の馬車、革製の鞍、色鮮やかな馬具装飾、ペルシア風絨毯、巨大なフェルトの壁掛け、馬の痛い、刺青された人間の皮膚など貴重な遺物が次々と出土した。その後1991年にアルタイのウコク高原で凍結古墳の再発見に挑んだが氷はほとんど溶けており遺骸は朽ち果てていた。そのごアルタイ高地で女性と男性の凍結墓が見つかり、モンゴル領内でもやや溶けかかっている凍結墓を発見して髪がブロンドの男性が発見されている。アルタイのスキタイ時代後期の文化は古墳群からとったパジリク文化と呼ばれている。高品質の絨毯も出土されているがペルセポリスの浮き彫りと構図がまったくおなじなのでペルシア産とされている。しかし文様帯にはヘラジカが描かれているがペルシアにはいないので本当にペルシアさんかどうかはかなり疑わしくアルタイ産の可能性が高いと見る。最後にフェルト製鞍覆いにあるグリフォンの尻の文様に見られるギリシアの影響はどこから来たのかを分析する。ギリシア人植民地の黒海北岸から草原地帯を進みアルタイに至るルートが考えられる。北京とローマを結ぶ最短ルートを地球儀上でみるとほとんどが草原地帯で超え難い大山脈もなければ砂漠もない。またその途中にアルタイがある。オアシスルートの200~300年前に草原ルートのシルクロードが開かれていた。

 第四章「草原の古墳時代」では先スキタイ時代から後期スキタイ時代までの主だった古墳を分析していく。まずはスキタイ文化が栄えた前8世紀から前7世紀にかけての他のユーラシア大陸の西部の金属工芸美術をもつ文化をみていく。ケルト人が残したハルシュタット文化、イタリア半島中部のエトルリア文化、バルカン半島のトラキア文化とダキア文化、アナトリアのリュディア王国とフリュギア王国、アッシリアの影響があったウラルトゥ王国などである。美術様式遺骸にも円墳を築く共通点がある。エトルリア、トラキア、リュディアと終末期のスキタイは墓室が切石造りであるがギリシア文化の影響と思われる。古いハルシュタットと初期スキタイ、フリュギアの墳墓では石室が木槨であり、馬の埋葬を伴う点で共通している。さらにハルシュタットとスキタイでは円墳の周りに石囲いをめぐらし、墳頂に石人をたてることもあった。そのため墳墓は起源的にかんけいがあるのではないか、スキタイ墳墓が影響を与えたのではないかとする説もある。スキタイ世界では前9世紀末から前8世紀初頭の王と王妃が埋葬されていたアルジャン一号墳がありこれより古い古墳は見つかっていないが、積石塚で井形に組んだ丸太の中央に墓室があり、墳丘の外に二重三重の小石堆がめぐっている。アルジャン二号墳でも多数の金製品をまとった男女と殉死者や馬が埋葬されていたので王と王妃の墓と言えるが同じような構造になっている。この後初期スキタイの古墳を草原地帯の東から西に見ると木槨墓室を地上か浅い穴の中に設ける王墓が流行していたと結論付ける。
 後期スキタイの古墳について分析する。まずはヘロドトスが記録した王族の埋葬や葬儀の方法についてさらう。黒海北岸では高さ14メートルの最大級の古墳が6基発掘されている。そのうちの芝土レンガを使っているチョルトムリク古墳の構造を見てヘロドトスの記述と比べる。この遺跡は前四世紀ごろのものだが、そのころにアタイアスというスキタイ王がいたことが知られているが、チョルトムリクがアタイアスのものだと考える研究者も多い。アルタイのパジリク古墳では有機物が残っていたためにヘロドトスの記述にあるミイラかの手順などが確認され、五号墳から出た四輪馬車も出土してヘロドトスの記述を通りであった。また王権の象徴としてスキタイ古墳に伴って発見される石人について触れる。アルタイから西に2500キロほどにある古墳から出土される石人は三番目の鹿石と特徴が似ているので西方の鹿石と呼ばれることがあり先スキタイ時代のものである。スキタイ時代になると人間の顔がはっきりと書かれた石人が古墳の中や周囲で発見される。後期になると武器や衣服などの表現がやや写実的になってくる。西方の鹿石と石人は共通点があり石人の起源は西方の鹿石とする説が有力だが定かではない。
 前四世紀の初めにカザフスタンから西に移動してウラル山脈南部に本拠を置いた部族集団が徐々に強大になり、スキタイを圧迫し始めた。以前は南ウラルにはサウロマタイと呼ばれる人がいたが、東方から移動してきた集団はサウロマタイと合流しサルマタイと呼ばれることになる。バシュコルトスタン共和国でサルマタイ時代の大型の古墳が見つかっている。サルマタイは紀元前四世紀後半にフン族が来襲するまでカスピ海北方から黒海北岸までの草原地帯を支配した。

 第五章「モンゴル高原の新興勢力」では匈奴の出現を遺跡と史記から見ていく。まずは匈奴の起源を司馬遷の史記には李牧の匈奴の侵入に悩まされる逸話に匈奴は初めて登場する。その後に匈奴は秦に一時押されるが始皇帝がなくなると元に戻る。また遺跡から出土する遺品をみると中国北方の前四〜前三世紀の中国騎馬遊牧民の文化はユーラシア草原と繋がっていることが確認できる。匈奴の冒頓は単干になり東胡征服する。月氏は匈奴に攻撃され西に移動し大月氏と呼ばれる。大月氏はバクトリアに侵入しローマの資料にも記録され、世界史上初めて東西が同じ出来事を記録する。月氏の領域について議論があるが考古学の観点からはパジリク古墳群は月氏のものではないかという説がある。またパジリクから南へ900キロ離れているスバシ遺跡は同じようなスキタイ文化が見られる。冒頓と劉邦は戦うが最終的には和親条約により漢を事実上支配下に起き、匈奴遊牧帝国が出現する。毎年の貢物と公主の降嫁を続けたが侵寇は止むことはなく漢を悩ませる。

 第六章「司馬遷の描く匈奴像」では匈奴の風俗習慣、経済、社会構造を紐解く。まずは天を重んじる文化、二十四長と十進法に基づく軍事組織、南を向いて東にいる左賢王と西にいる右賢王、刑法と暦などを見ていく。冒頓がなくなると子が継ぎ老上単干と名乗る。漢の文帝は新単干に公女に見立てた劉氏の子女を嫁がせる際に中行説と遣わすが匈奴に忠誠を誓って管理の手法などを教示する。匈奴は幼少期から訓練をつんで国民皆兵制度を施行していたので人口が漢の一群以下でも軍事的に対抗できた。また寡婦となった兄嫁を娶る習慣は他の地域でもみられるが軍事体制を優先する騎馬遊牧社会特有の合理性が見られる。中行説は単干に中国に侵入する際に有利な地点と探らせていたとされるが、前169年に14万騎という大軍で現在の甘粛省中心部に侵入した。その後長安から80キロしか離れていない甘泉宮に至り、単干は一ヶ月ほどとどまるが14万騎と10万の兵が戦闘することはなく戻っていった。これは漢の反乱分子が匈奴に援助を求めたものと考えられる。前166年以降毎年毎年匈奴は人と家畜を殺略したので再度和親条約が確認された。その後の恵帝でも同じように和親条約が結ばれた。
 前141年に武帝も和親条約を結ぶが月氏が匈奴に敵対心を持っていることを知り月氏と共に攻勢に出ようとする。月氏と連絡をとるために張騫が選ばれ出発したがすぐに匈奴に捕まり単干のもとに連れて行かれ妻も娶らされそこで10年の月日を過ごす。ついに脱出の機会に恵まれ部下と共に月氏に逃亡し、中央アジアに栄える大宛にたどり着く。大宛王は張騫を厚遇し、通訳を付けて大月まで送り届ける。大月は匈奴に王を殺されていて王か女王が立っていたが、漢との同盟には積極的ではなかった。張騫は1年の滞在後、南のルートで帰還するがまたしても捕まってしまう。1年余勾留されるが軍臣単干が他界し後継者争いが起こるさなかにまた部下と匈奴の妻と漢に逃れる。この際に張騫は漢に中央アジアの様々な情報を持ち帰り、次に烏孫との同盟を進言し自らその任に当たる。武帝は一方で張騫の出張後に匈奴おびき出し作戦をするが失敗する。その後正攻法で武将に騎兵を与えて何度か攻めさせるが一進一退を繰り返す。前126年に軍臣単干が高いすると形勢は漢に傾いていく。その後も互いの攻撃は続くが次第に匈奴の有力者が漢に降伏することが増えてきて、匈奴の劣勢がはっきりとしてくる。前119年春に漢軍は総攻撃をかけて一時単干が行方不明になるような自体になり匈奴と漢の両軍に多大な被害が出たが、漢は黄河の北まで領土を広げた。

 第七章「匈奴の衰退と分裂」では漢との関係や干ばつや継承問題で分裂する匈奴を描く。前119年の漢の総攻撃の後、武帝の息子の死と財政難から大規模な攻撃ができなかった。これ以降は匈奴に従属している西域や烏孫を匈奴から引き離すことを目指した。この西方作戦を進言した張騫は自ら烏孫に向かったが成果を得ることはできず帰国後に亡くなる。しかし烏孫から漢に連れてきた使者たちが漢の国力を理解すると漢からの公主を娶った。また張騫が西方に放った使者たちが答礼使節を伴って帰国し漢と国交を結んだ。そして中央アジアのほとんどの国が国交を結ぶことになった。また漢は張掖郡と敦煌郡を結ぶ河西廻廊を確保し西方とのやり取りを活発化させると共に匈奴が南の国と連絡が取れなくなった。西方には良馬や珍奇なものがあると聞き武帝は西方にしきりに黄金と絹を持たせた使者を派遣した。基本的に西域では匈奴の使者に比べて漢の使者は軽んじられた。大宛は善馬を多くもっていたが漢には渡さなかったため、李広利を派遣し最終的には善馬を手に入れられるも一度目は途中の西域諸国の協力が得られず引き返す自体にもなった。匈奴の西域支配では駅伝制のようなものや支配国の王子を人質と出させたりしていた。車師は天山の南北にまたがった戦略上重要な国だったが、漢は楼蘭に車師を攻めさせた時は匈奴の右賢王が救援に来たために漢は引き下がった。再度西域六カ国の兵を率いて車師を打たせてやっと降伏させた。その後漢に服従したり匈奴に服従したり行ったり来たりした。
 何人かの単干を経て且鞮侯になったときには親漢的な振る舞いを見せて捕虜などを開放したが、また漢の大攻勢が始まる。前99年に李広利が3万騎で天山の右賢王を撃つが敗れる。この頃に小説になっている李陵も匈奴とぶつかり捕虜になり以降は匈奴の右校王という地位で戦う。李広利はこの後に何度か匈奴と戦うが李広利の妻が起こした問題で功を焦り大敗し匈奴に投降する。狐鹿姑単于が他界すると単于継承で問題が起こり単于の求心力が低下した。前71年には漢と烏孫が共同で匈奴に攻勢をかけられ大ダメージを受け、単于は烏孫に報復を試みるが大雪などで逆に大きなダメージを受ける。この苦境にさらに烏孫・丁零・烏桓などの攻撃を受け弱体化する。さらに西域諸国と漢が共同して匈奴側についていた車師を攻撃し制圧する。虚閭権渠単于の後にたった握衍朐鞮単于は国内では残忍にふるまったために離反が相次ぎ自害させられる。その後単于が乱立し内戦になり最終的には郅支単于が勝ち、破れた呼韓邪は南下して漢の臣下となって逃れる。郅支単于は漢とは国交を絶ち烏孫に対抗するため康居と近づく。康居は烏孫王がいる天山西部の赤谷城を襲撃し勝利するが郅支を軽んずるようになったために、郅支は康居を制圧してタラス側のほとりに城を作らせた。郅支が力を付けたのを心配し漢の西域都護府の陳湯が郅支の城を攻めて滅ぼした。
 南下した呼韓邪は漢と親和的に接し栄えていく。しかし王莽が実権を握ると亡命者の投降をやめるように要求したり名を漢字一字にするように要求したりと締め付けがきつくなり、王莽が新を立てると不満がさらに強くなり両者は決裂する。王莽は殺され更始帝が漢を再興したが、呼都而尸道皋若鞮単于は盧芳を担いで漢に侵入した。呼都而尸道皋若鞮の後にまた継承問題で南北に分裂し、北匈奴はバイカル湖などの西域まで進出する。

 第八章「考古学からみた匈奴時代」では、、、匈奴の王の埋葬については史記に簡素に書かれている。ノヨンオール遺跡は方墳だが墓坑は9メートルある。出土品には動物文様が施されている絹織物もあったが、紀年銘のあるものがあり東匈奴が漢から受け取っていた贈り物が支配者層にも回っていたことが考えられる。その後殉死者をともなうイリモヴァヤバチ遺跡などが紹介される。これらの遺跡と史記の記述を比較して、これらが単干の墓であったか分析する。山中に目立たないように作られているので王の墓といえるが前一世紀から後一世紀のものばかりで前二世紀の匈奴の最盛期の王墳はまだ見つかっていない。
 継ぎに定住があったからを見ていく。遊牧は生産性が低いことが知られている。漢書の中にも農耕が行われていたとみられる記述がある。また誰が行っていたかについてを分析する。漢書や史記には匈奴の襲来によって金銀が奪われたという記述はなく人と家畜であったことから、この人たちが農耕に従事させられていたと考えられる。また匈奴に一族と亡命したものもあったが民衆でも匈奴に行くものがあった。モンゴル高原の北側では定住の集落が20箇所ほど見つかっている。イヴォルガ城塞集落が代表的だが四方が土塁に囲まれている。出土品の分析ではほとんどの土器が漢代のものであったり鋤や鍬などの鉄製農具も中国のものと類似していたことが注目される。結論としては漢人が農耕と手工業に従事し、匈奴人兵士が護衛と監視を担っていたと考えられる。
 また南シベリアでみつかった中国風の宮殿から中国文化の広がりについて分析する。李陵の宮殿とされていたがそれは否定されて、年代を考えると王昭君が考えられる。ウイグル自治区にある遺跡の出土品からはサルマタイや漢や匈奴など広い地域から影響されていることが見て取れる。アフガニスタン北部の遺跡からの出土品からも漢、インド、ギリシア、サルマタイなどの影響が見られ、各文化が国際的だったことが伺われる。

 第九章「フン族は匈奴の末裔か?」では、、、、18世紀中頃にフランスの歴史家J・ドギーニュにより発表されたフン族を匈奴とみなす説はその後に賛否両論がかわされてきた。後漢書では北匈奴と後漢の間で車師とその周辺地域をめぐっての攻防が繰り広げられ、151年に後漢が伊吾に派兵に呼衍王は去っていったという記述を最後に後漢の記録から姿を消す。魏書の西域伝に91年頃北匈奴の単于が後漢と南匈奴の連合軍に敗れた後なら逃走したたする記事がある。この年代を150年代まで下げて後漢の記録と結びつける考え方もある。この説は東胡の末裔と言われる鮮卑の指導者が150年代にモンゴル高原東部に勢力を確立して烏孫にまでその支配を及ぼしたことに裏付けられる。北史の西域伝にも奄蔡と一緒に匈奴が出てくる。ただソクドの国がかつての奄蔡と書いてあり混乱を招いている。後漢書の記述には奄蔡国が阿蘭聊国に改名したとあり、西方の資料ではサルマタイの東部で遊牧部族集団が覇権をとったという記述がある。
 その後376年に黒海西北岸にいた西ゴート族が東方から現れた強力な騎馬集団に打ち破られローマとの国境まで逃げてきたのである。四世紀の後半の西方の歴史家によるとフン族はヴォルガ川を超えてアランに襲いかかったようである。375年かその前にはフン族は東ゴートに襲いかかったようだが、東ゴードは別のフンを傭兵に雇ったとある。それでもフンは東ゴートを破り西ゴートに襲いかかる。西ゴートの一部はハンガリーに逃げるがローマに庇護を求めるが、トラキアの将軍が食料を十分に渡さなかったため飢饉が起こり反乱になる。東の皇帝ヴァレンスは援軍を待たずにトラキアでゴートと会戦をするがゴート軍の一方的な勝利となる。このゴート軍にはフンとアランが参戦してたようで、続く2年間はバルカンを荒らし回るが、フンは北方に帰っていったとみられる。395年にはフンの大軍がドン川やカフカス山脈を超えてアルメニア、ローマの属州、ペルシアまで侵入した。侵入の目的は人と家畜だった。
 この後、フン族の文化や馬に乗った生活、多色装飾様式と呼ばれた金製品の美術が紹介される。また鞍と鐙の発展の分析に続き、フン型の鍑(ふく、儀式用の釜)の出土の分布とその起源を分析する。
 400年ごろフンのウルディンという指導者がトラキアを攻めた。422年にはルアという指導者がコンスタンティノープルまで迫ったので東ローマは和平条約を結んだ。あとを継いだのはブレダ(兄)とアッティラ(弟)だが共同統治はうまく行かず、弟が兄を殺しアッティラだけの体制になる。アッティラは東ローマと交渉し毎年の支払いを倍増させた。その後アッティラはガリアに侵入しそこにいた西ゴードと西ローマと激突し、激戦を戦い双方とも大損害をだしアッティラは本拠地のハンガリーに帰っていく。アッティラはある朝に血だらけで死んでいた。その後フンは急速に衰退していく。フンが国家だったかは定かではないが、フン族の侵入が西ゴードの移動を促し西ローマ帝国を倒壊させたことは事実である。

気になったポイント

 ドイツ語のブルグ、英語のバラ、フランス語のブール、スラブ語のグラードは城壁を示しているというのは興味深かった。障壁の文化圏の広がりが言語で表されている。

 西アジアに侵入したスキタイがアッシリアなどの傭兵となっていたというのは少し気になった。ギリシア人などが傭兵として雇われていたがどういう条件で傭兵となるのだろうと思う。人口増加などだろうか?とすると生産性が高い国家だったのかとも思う。

 スキタイと同時代の文化の紹介でエトルリア文化が出てきた。ローマにも多大な影響を与えたエトルリア人だと思うが、言語系統不明というのは知らなかった。非常に長い文化的蓄積があったのだろうと思う。

 サウロマタイの辺りでヘロドトスが女性だけの戦士集団であるアマゾンの伝説は興味深い。スキタイが若い男を差し出して一緒に生活するようになって、その子孫がサウロマタイになったというのは何か民族を超えたつながりを感じて夢がある。

 匈奴の墓が見つからないということに関して、森の中に盛り土がない墓ということでかなり見つかりにくいものだと思う。まだ誰も見つかっていないものがあると思うと、早く見つけないとくちてしまうと心配になる。人工衛星などで探すことはできないのか、と考える。

 匈奴と中国の人的交流や匈奴よる人の略奪に関連し、自分で匈奴に亡命する農民もいたとあったが、長城は長城の中にいる農民を外に逃げないようにしているという意味もあったのではと思う。日本は海に囲まれているが、陸続きだと外の国に逃げる人たちもいたのだと思う。

最後に

 スキタイも匈奴も中央アジアの文明が中国やヨーロッパに与えた影響は多大だし過小評価されていると思う。モンゴル人もテュルク系の国々も今は中国の参加にいるような状態で世界の中ではぱっとしない。これからまた時代が変わってきてまた活躍してくるのかもしれない。とにかくスキタイや匈奴など中央アジアの文化や影響を知りたい人にはおすすめです!匈奴はフンです。

大学4年間の経済学が10時間でざっと学べる

2015 KADOKAWA 堀 利宏

 経済について知りたくて手に取った。思ったよりも難しかったがいろいろな概念を一つずつわかりやすい図で説明してくれていたので、読みやすかった。

本の構成

 第一部「経済学とは何か」ではミクロ経済学とマクロ経済学の二つの経済学を説明する。第二部「ミクロ経済学」では消費者、企業、市場、所得分配、独占、寡占、不完全情報の世界などをそれぞれ細かい概念に分けて説明する。第三部「マクロ経済学」ではGDP、財政、金融、景気と失業、経済成長、国際経済、経済政策などをこちらもそれぞれ細かい概念に分けて説明する。

気になったポイント

 まずは財政赤字をことされに悪いことと煽ったり、プライマリーバランスなどを強調したり、とMTTが流行っている現在では古く感じてしまう。一方では経済学という広い分野を網羅的に学べるのはよかった。一方理系の自分にとっては、複雑系である経済を数少ない簡便な数式で表すというのは流石に単純化しすぎと感じた。

最後に

 経済学者というのはどんな研究をしているのかがよく分からない。普通は自分の研究分野があって、その分野で第一人者であったりする気がするが、新発見などはあるのだろうか?そういう分野ではないのだろうか?そのあたりはいつもモヤモヤするところ。

 全体を通しては、本のサイズも分量もコンパクトにまとまっていて「10時間」と銘を打っているのは納得できる。ただ10時間で学べても10時間で理解できるかは分からないところがポイントかも。とはいえ経済学に初めて触れる私のようなビギナーにはコンパクトな教科書としておすすめできるとは思った。