レパントの海戦

1991 新潮文庫 塩野 七生

塩野七生の海鮮三部作の三部目はレパントの海戦である。歴史に疎い私は名前はきいたことはあったが、それがどんなものだか分かっていなかった。キリスト教がトルコ(オスマン帝国)に勝った海戦。

本の構成

 1571年のレパントの海戦に向かって、年を追って進んでいくが、1569年のヴェネチアから物語が始まる。キプロス島での駐在の任務が終わりヴェネチアに帰ってきたバルバリーゴはしばし腰を落ち着ける。また同じ時分、コンスタンティノープルに駐在するバルバロは大使として日々トルコとの連絡を続けていた。キプロス島にトルコを襲撃する聖ヨハネ騎士団の船が寄港すると難癖をつけて、キプロス島奪還に向けて動き出そうとしており、バルバロは本国ヴェネチア共和国に黄色信号を送る。またローマにいるソランツォはローマ法王ピオ五世をキリスト教諸国の連合艦隊を編成を呼びかけるための懐柔工作をして、ついに1570年に急ごしらえの連合軍ができる。しかし嵐やジェノバ海賊のドーリアなどの積極的でない姿勢から、キプロス島でのトルコ進行が始まっているのにも関わらず、その年はついに何もせずに解散する。
 そして1571年である。ヴェネチア海軍の総司令官にバルバリーゴが任命され、ローマでも法王の要請で今年も連合軍の編成された。編成軍の総司令官としてはスペインはドーリアを推したが、ヴェネチアは反対し、最終的にはスペインのフェリペ二世の腹違いの弟、ドン・ホワンという謎の人物で妥協した。しかしなかなか来ない。彼はジェノバで足止めされた後、ナポリで足止めされ、シチリアのメッシーナに来たのが8月。さっそうと入港した金髪の26歳のドン・ホワンは歓迎される。スペイン側はアフリカの海賊退治に向かわせたいという意向があったが、偵察戦の情報でトルコ船が向かうレパントに向かうことが遂に決定され、9月16日に出港することも決まる。途中で嵐に見舞われ、コルフ島に一度入港する。
 コルフ島での作戦会議にまたスペインの足止め工作などがあるが何とか10月には出港する。しかし南下中に一隻のガレー船からの情報で、8月24日にすでにキプロス島の主要都市ファマゴスタが陥落していたことを知る。トルコに開城すれば命を助けると言われ開城したファマゴスタの住人たちは全員皆殺しされて、ヴェネチアの武将たちは残忍な方法で殺されていた。艦隊のすべての人達がトルコの蛮行に怒りに震え復讐を誓う。これまでバラバラで遅かった連合艦隊が一つにまとまって、出港の準備を整えた。
 そして1571年10月7日。海軍史上、ガレー船同士の海戦としては、最大の規模の最後の戦闘である「レパントの海戦」の火蓋が切られる。

ポイント

 レパントの海戦の華々しい勝利よりも、その後のスペインの意向でグタグタになった連合艦隊と、それを見限ってトルコと単独講和を結んだヴェネチアの対応が印象的であった。

 小国の生きる道としてはそれが正解なのだろうと思うのと、日本もそのようなバランスをとった外交が正しいのだと思う。最近は地政学の中で外交の話題に触れていると聞いたので、読んでみたい。

最後に

 レパントの海戦の十四年後に日本から天正少年使節がヴィネチアを訪れた。トルコとの講和を結んだ平和の中でヴェネチアの富に目を見張ったという。トルコとの戦闘には勝てなかったが、経済的には勝利していたのだろう。結局、戦闘に勝つかどうかがポイントではないのだと思う。経済的に勝つか負けるかが戦いの分け目なのだろう。経済侵略される日本を悲しく思う。

 政治的攻防も多いいものの、手に汗握る戦闘シーンもある本書。レパントの海戦という歴史的な海戦を感じたい人にはおすすめな小説です。

ロードス島攻防記

1991 新潮社 塩野 七生

 22歳のメフメト2世が1453年のコンスタンティノープルを陥落させてがその後、1480年にメシヒ・パシャにロードス島を攻めさせるが、聖ヨハネ騎士団は守り切った。その70年後、1522年夏である。今度はメフメト2世のひ孫である28歳のスレイマン1世が直々にロードス島を訪れ、戦線を指揮する。様々な小説などになっているロードス島での攻防を小説仕立てにした歴史書籍である。

物語の始まり

 物語は20歳になったばかりで騎士団に入団しているジェノバ出身のアントニオから始まる。彼は古代にはバラの花咲く島として名付けられた楽園のようなロードス島に降り立つ。そこでローマの大貴族である25歳のオルシーニに出会い、交流を深める。それから騎士団の構成や歴史などが語られる。騎士団は徐々にトルコとの戦いに備えていくが、トルコ軍もロードス島に近づいてくる。戦いが始まると、オルシーニはギリシアの下層民に身をやつし敵陣に潜入などをする活躍をする。

 塩野七生の海戦三部作とされている一作目のコンスタンティノープルの陥落では、物語が複数の登場人物の視点から語られるので、ややゴチャゴチャしている感があったのが、本作ではアントニオ一人が全面に出ているのでスッキリと分かりやすかった。

気になったポイント – 技術者魂

 ヴェネチア共和国陸軍の技術将校だったマルティネンゴは1516年になって、クレタ島の城塞総監督としてクレタや周辺地域の城塞の強化と整備に力を注いでいた。そのマルティネンゴをロードス島の聖ヨハネ騎士団の騎士が訪ねて、ロードス島の城塞監督になってもらいたいという騎士団長の意向を伝えた。トルコの攻撃が迫りくる中、東地中海一に堅牢な城塞を強化するという仕事に魅力を見出したマルティネンゴは、国の任務を離れ脱出してロードス島に赴く。
 戦いが始まると、防御側はトルコの大砲を無力化する城壁で応戦するが、攻撃側もそれを打ち破る作を繰り出してくる。また攻撃側は坑道を正確に掘り進める技術を発達させ、地下から攻撃を進めていく。防衛側は城壁の下で爆発する地雷に悩まされるが、マルティネンゴはそれを検知する技術も導入する。しかし戦いが激化する中で、彼は右目を負傷する。それでも病室から城塞監督として戦いに参加し続ける。

 当たり前だが技術というのは目的を達するために使う道具であり、技術以前にマルティネンゴがその目的のために身を粉にして戦う姿は心を打たれた。城塞については、塩野氏の城壁や稜堡(りょうほう)の細かい説明が続いて、コンスタンティノープルと比べてどのような理由で何が違うかというのが解説されていてわかりやすかった。一方で地図が少なくて、どの場所をどの国の騎士団が防衛しているという記述は少し分かりにくかったが、読み終わったあとに巻末に地図があることに気付いた。

気になったポイント – トルコの経済力

 和平の途中でトルコ陣営に赴いたオルシーニは4ヶ月感でトルコ側の4万4千人の戦死者があり、ほぼ同数の病死者と事故死者がいることを知る。砲弾に至っては8万5先発も使っていうことが分かる。

 昔は人というものが今のようにたくさんいなかったと読んだが、現代にしたって万人単位の死者には異常を感じる。普通の戦いであれば大敗だと思う。途方も無い数の人々を動員して死んでも国が崩壊しないというのはトルコの経済力と中央集権的な力であったのか。最終的にはたくさんの人やモノを動員した物量作戦によってトルコは勝てたのを確認できた。トルコというのは近代の消耗戦を戦っていたのかもしれない。

最後に

 最後に聖ヨハネ騎士団のその後について書かれている。現在は独立国であり、現在の77代目の団長の下で、医療活動を続けている。その活動は世界中の赤字に変形十字のしるしを付けた病院や研究所に見ることができ、現代の”騎士たち”が今も活躍しているということである。赤十字の創設などもきっとこのような活動に影響を受けているだろうし、この騎士団が過去のものではなく、今にも繋がっている歴史であるというのには心を打たれた。

 ロードス島の戦いについて知りたい人はもちろん、今も世界で活躍している騎士団の歴史を知りたいという方にもおすすめである。

大日本・満洲帝国の遺産 (興亡の世界史 18)

2010 講談社 姜 尚中,玄 武岩

 少しづつ読み進めている興亡の世界史の中に近代日本を扱ったものがあったので手にとった。満州帝国とその中でつながってくる岸信介氏と朴正煕氏に焦点を当てて解説している。

 折しも孫の安倍晋三氏が銃殺されたのもあり、その祖父を知ることは意味がある。私は消費税を上げた安倍政権にはかなり否定的である。本書の著者たちも韓国系の方々であり大日本帝国を否定的に描いていし、それを率いていた岸信介を否定的に描こうとしているが、私は岸信介に否定的な印象は受けなかったのが正直なところである。

本の構成

 岸信介と朴正煕の生い立ちから始まる。清朝滅亡後に張作霖が日本の支援を受けながら満州は実行支配していたが、張作霖が殺されてしまい。息子の張学良に引き継がれるが彼は国民政府に、(TODO)、をしてしまう。満州を支配したい日本政府は1931年に満洲事変を起こして満州国を建国する。満州国建国の前から日本人を移住させようと夏目漱石に紀行を書かせたりして宣伝するがうまく行かず、植民地の韓国から満州国を成功する土地として移住者を募る。そして朴正煕も軍にはいるため満州国へ移住する。
 建国された満州国は立憲共和制の国だったものの日本の傀儡国であり、日本の官僚たちが送り込まれる。その中の産業部次長に岸信介が名を連ねる。そこで彼は宮崎正義からの着想を経て国家社会主義の実験を主導していく。そして戦後、岸は満州で行った国家社会主義を日本で実行していき、高い経済成長を実現する。
 一方で朴正煕は大統領になり独裁方向に傾いていくが、満州国を真似た国家社会主義や重工業への移行を成し遂げていく。

 どうも話の流れが追いにくいようにも感じた。誰しもが知っているだろうと著者が思うことについてはスッポリと抜けていて、突然に戦後に飛んでいたりする。岸信介が書いた文章などの紹介も多いのでそこは興味深いが初学者へも少し配慮があって良い気がした。

気になったポイント1 国家主導

 満州国での岸信介は国家社会主義の実験を行った。特殊会社法による満州に一業一社の特殊会社を作るとともに、資本を確保するために満州重工業開発株式会社を作るために裏で辣腕を奮ったのが岸信介だった。そして戦後に生き残った彼は、日本で保守合同を経て政権を取り「新長期経済政策」(1957年)を掲げる。それは池田内閣の「所得倍増計画」につながっている。岸は自由化の外圧に巧みに対応しながら、統制を温存してGDP12%の伸びを実現した。

 岸信介はCIAの工作員だったと記録も残っているが、国家社会主義によって日本の高度経済成長の基礎を作り出したというのは知らなかった。これはアメリカには特にプラスになっていないようにも感じるが、どういうことを命令されていたのかは気になるところである。この国家社会主義は今は日本では自由主義によって破壊されているが、特に中国では適用されて発展を支えている。この当時の国家社会主義については宮崎正義の研究があるようなので、勉強していきたい。

気になったポイント2 韓国と満州国の関係

 日本は韓国の経営はうまくできていなかったのか、新天地を求めて韓国全土から満州への移住者が増加していっている。満州での韓国人への圧迫も問題になっている。それもあってか満州国では日本・朝鮮・漢・満州・蒙古の五族融和が掲げられているが、建国で安定してさらに移住者が増加している。

 なぜ韓国の経営がうまく行っていなかったは気になる点である。台湾では日本人が祀られていたりするほど、(全てとは言わないが)一部では慕われていることもある。韓国人の反日はもちろん民族独立の道具として使われているのもあるとは思うが、こういう経営の失敗もあるようにも感じた。このあたりの事情はもう少し知りたいところである。

最後に

 全体的な感想としては、申し訳ないがとにかく読みにくい。何か文章に凄みをだそうとしているのか、鬼胎などのパワーワードが頻出したり、鉤括弧が多用されていたり、「人口に膾炙する」とか2連続で出てきたりしていた。構成ももう少し工夫してほしかったが、何とかそこに耐えられれば岸信介の業績を知ることができるのは良いと思った。朴正煕についてはあまり知識も興味もなかったので、さらっと流してしまったが、知りたい人にとっては有意義な書籍だと思う。

 岸信介が日本再建連盟で出していた5大政策は、真の独立、反共産主義、米アジアとの経済・通商強化、地方復興と中小企業の育成、憲法の改正。憲法の改正についてはどう改正するのかが重要だが、他は特に異論がなく、現在の日本で実行してほしい政策である。このようなことができる政党が出てきてくれることを祈りたい。もちろん祈っているだけでなくて、政治に積極的に関わることは大切だし、投票を超えてボランティアなどもがんばりたい!

コンスタンティノープルの陥落

2009 新潮社 塩野 七生

「スルタン・マホメットは二十二歳、均整のとれた身体つきで、身の丈は、並より高い方に属する。武術に長じ、親しみよりは威圧感を与える。ほとんど笑わず、慎重でいながら、いかなる偏見にも捕われていない。一度決めたことは必ず実行し、それをする時は実に大胆に行う。

 アレクサンドロス大王と同じ栄光を望み、毎日、ローマ史を、チリアコ・ダンコーナともう一人のイタリア人に読ませて聴く。ヘロドトス、リヴィウス、クルティウス等の歴史書や、法王たちの伝記、皇帝の評伝、フランス王の話、ロンゴバルド王たちの話を好む。トルコ語、アラビア語、ギリシア語、スラブ語を話し、イタリアの地理にくわしい。アエネーアスが住んだ土地から、法王の住む都、皇帝の宮廷がある町、全ヨーロッパの国々などが色分けされ印しを付けられた地図を持っている。

 支配することに特別な欲望を感じており、地理と軍事技術に最も強い関心を示す。われわれ西洋人に対する誘導尋問が実に巧みだ。このような手強い相手をキリスト教徒は相手にしなければならないのである」

p.128のヴェネチア共和国特使マルチェッロに随行した副官ラングスキの報告

 ローマ帝国から続きビザンツ帝国に引き継がれた首都コンスタンティノープルの陥落。それは1000年のローマ帝国の終わりであり、ローマ文明の終焉をも意味していた。数多くの記録が残っている歴史的な瞬間を両方の陣営から描いた物語仕立ての歴史小説である。

 ローマ帝国の終わりにつながる戦闘を22歳の若いスルタンであるメフメト二世が主導していたというのは驚異である。後世に月日まで明確に伝えられているコンスタンティノープルの陥落を知りたいと手にとった一冊である。

本の構成

 物語は49歳のビザンツ帝国のコンスタンティヌス11世とトルコ(オスマン帝国)の22歳のスルタン・マホメット、それぞれの生い立ちから始まる。後世に記録を残した6人の人々を紹介し、彼らそれぞれから見たコンスタンティノープルの陥落を描く。そのうち一人はマホメットの美しい小姓トルサンでスルタン側の視点を担う。序盤はビザンツ帝国側が三重の城壁に守られてトルコ側が劣勢になるが、スルタンの奇策も功を奏し、ビザンツ帝国側が押されてくる。

 塩野先生の文章は読みやすく、分量も多くはないので、物語はすらすらと読みすすめることができた。一方で物語さを出しているためか地図などが少なく戦闘の全体像などを捉えにくい。ローマ人の物語のような戦場の地図などがあればもっと良かったが、他の資料などを見るしかない。

気になったポイント1ー 大砲という技術革新

 この戦闘ではスルタンが巨大な大砲の開発に成功することで、何度も敵を撃退したコンスタンティノープルの三重の城壁に挑もうとしている。さまざまな技術革新はローマでも重要だったが、新しい技術に投資できる国力があったからこそ、この戦闘を有利にできたと読めた。この他にもジェノバ人の船をコントロールする技術や、坑道を掘る技術とそれを探知する技術。

 火薬から始まって、コンピュータ、レーダー、GPS、インターネットなど。戦争を有利にするために生まれた技術はいろいろあるが、この時代も戦争によって技術は発達し、技術に投資ができる経済力がある組織が勢力を拡大していたことを確認できた。

気になったポイント2 ー それぞれの弱さ

 ジェノバ勢とヴェネチア勢の仲間割れや、なかなか応援に来ないヴェネチア軍など、商人たちはトルコとの通商が先立つのか単純に反トルコでまとまることができず折に触れて反発し合う。一方のトルコも陸上戦は混成部隊だが背後に構える常備軍のイエニチェリに切られるのが怖くて前進するしかない。そうして決死での前進が強さを生み出している。ただ常備軍を持たない海戦では急ごしらえの海軍ではジェノバなどの海の民たちには太刀打ちができず敗戦を経験する。

 包囲されるビザンツ帝国も消耗戦だが、包囲しているトルコも10万の兵の食料を調達したり、士気を保つのも簡単ではない。どちらかが優勢というわけではなく、ギリギリの戦いだったというのは印象的だった。

最後に

 包囲を50日続けていても、砲撃を絶え間なく続けていても、外壁を越えた人は一人もいなかった。そんなときにカリル・パシャは説得する。「攻略は断念し、包囲は解くべきである。亡きスルタンも経験したことだから、撤退は決して恥ではない。無謀こそ、大国をひきいる者の、してはならないことである。」と。しかしそれでもスルタン・マホメット諦めなかった。そしてコンスタンティノープルを陥落させ、キリスト教世界に衝撃を与えた。

 ところで、アレクサンドロス大王に憧れたスルタン・マホメットが憧れた人のように”大王”として扱われているかというと、今のところそうでもない。それは彼の功績というよりも後世への伝え方だったりするのかもしれないとも思うが、学者を連れて遠征をしていたアレクサンドロス大王ほど伝える努力をしていないからなのかもしれないし、世界がもっと複雑になっていたからかもしれないし、積極的なスルタンと消極的な官僚機構が拮抗していたからもれないし、現在のギリシア文明から派生している西欧文明に情報が支配されているからかもしれない。スルタン・マホメットは相当な実力者であると感じるが、彼の世界一の地位と財力を持って、明確な目標に向かって努力しても叶わないこともあるのかもしれないとも感じた。

 短くて読みやすいので、ローマ帝国の最後の日に触れたい人におすすめな一冊である。

大英帝国という経験 (興亡の世界史 16)

2007 講談社 井野瀬 久美惠

ブレグジットで話題になった国はどういう国なのか?かつてどのように帝国になってどのように植民地を失ったのか?同じ島国としては気になるので読み始めた。奴隷やアイデンティティなどの興味深い問題が深く掘り下げられていて非常に勉強になった。

本の構成

 18世紀の「アメリカの喪失」の経験から始まり、「連合王国と帝国再編」でスコットランドとの関係を描き、「移民たちの帝国」でアメリカ・カナダ・オーストラリアに移住していく人たちを描き、「奴隷を開放する帝国」で奴隷貿易でも受けた過去を精算して奴隷解放を主導したクラークソンと歴史を紐解く。「モノの帝国」では紅茶の歴史を植民地支配とともに振り返り、1851年の万国博覧会から続く商品文化の発達を語る。「女王陛下の大英帝国」ではプライベートのイメージを作るヴィクトリア女王とその奴隷解放に進む上を描く。「帝国は楽し」でエジプト展やトマス・クック社による商業化される旅行・ミュージカルなど文化面をカバーし、「女たちの大英帝国」で女性の移民・フローラショウやメアリキングズリなどのレディトラベラ・メアリシーコルの海外での活躍に触れる。「準備された衰退」で南アフリカ戦争とそれに関係したフーリガン・ボーイスカウト運動とさらに日英同盟の始まりと終わりを語り、最後に「帝国の遺産」でガートルード・ベルとイラク建国の顛末に続き移民とアイデンティティで締め、大英帝国の歴史と現在の問題にもつなげる。

気になったポイント1 ローマ帝国衰亡史

 ローマ帝国衰亡史は哲人皇帝マルクス・アレニウスが亡くなるところからビザンツ帝国が滅亡するまでの帝国が縮小していく過程を描いたギボンによる歴史物語だが、国会議員でもあったギボンのローマ帝国衰亡史がアメリカの喪失の体験と関わりがあったというのはまったく知らなかった。ギボンも参戦したというフランスとの七年戦争で積み上がった負債の一部をアメリカに追わせようとしたところからアメリカとの対立が始まっているが、ローマ帝国衰亡史がアメリカ独立の同時期に描かれていて、さらに国会議員としてアメリカ喪失を間近で見ていたというのも驚いた。

気になったポイント2 アイデンティティ

 スコットランド人の徴兵やジャコバイドの反乱やスコットランド帝国を作ろうとしたが失敗して、イングランドの経済的な締め付けにより大英帝国に取り込まれていったことなどは、イングランドを理解するうえでは非常に重要なピースであった。またそれが風と共に去りぬの下地になっているというのも興味深かった。
 植民地にいた奴隷も現在につながる重要な問題で、奴隷問題に対して尽力したクラークソンは素晴らしい人物に映った。しかし紅茶も奴隷によって支えられていたもので、紅茶のリプトンのブランド名にも「帝国」の文字があるのは知らなかった。インドや南アフリカ戦争など帝国と敵対した外国人たちの扱いのツケもイングランドは払っていて、現在の国内問題にも通じているのは興味深い。思えば日本の在日朝鮮人問題も同じような構造かもしれない。

最後に

 奴隷や女性などに関連するテーマを掘り下げて書いてあるので、非常に興味深く読めた。細かい文化的なテーマにも触れていて楽しめるのと共に、主にアイデンティティに関わる大英帝国に生きる人々の思考も理解でき、ブレグジットの背景に横たわる大きなものも感じることができた気がする。また、女性の著者だからか女性の活躍にスポットが当てられていたのも良かった。

 ということで、近代のイングランドの歴史や文化を知りたい・学びたい人にはおすすめです!

ヘルシンキ 生活の練習

2021 筑摩書房 朴沙羅

「日本との最大の違いは、保育園に入る権利は、保護者である親の労働状況にではなく、子供の教育を受ける権利に紐付いていることである」

フィンランドの保育園のことが書いてあると読んで手にとった。日本の保育園の利用者としては気になるところだ。二児の母であり社会学を専門とする筆者のフィンランドへの移住体験を中心としたエッセイ。

本の構成

 著者は父親が在日韓国人で母親が日本人の”ハーフ在日”である。6歳と2歳の子を持つ母親でもある。話はヘルシンキの職場に採用され、フィンランドへの移住を決意するところから始まる。ヘルシンキに降り立つと、家探し、銀行口座解説、保育園探し、と外国での生活に必要なことを行う。その中で保育園や就学前教育の制度なども説明される。外国人IDはカードのプラスチック(ラミネートフィルム?)がないということで2周間のところが4週間待たされたりして、最悪だというような感想も漏らす。決してフィンランドが日本よりも素晴らしいというような論調ではない。
 中盤は保育園の内容や、子育てなどで精神的に追い詰められて外国人向けの相談所に電話した話。後半は自分の過去の生い立ちなどを中心に語られる。

 口座が作れての保育園のことを越えて日本や自分の生い立ちについても書かれている。

 筆者は在日社会にもなじめず日本社会でもマイノリティーとして暮らしていて、もともと生まれなどを気にしなくても良い外国への憧れもあったことが語られている。日本で在日+女性+母親というのはハッキリ言って三重苦だ。日本社会は在日を嫌い排除し、女性を嫌い排除し、母親を嫌い排除し、おそらく(舌打ちされたり)子どもも嫌っている。筆者が外国を目指すのは理解できる。もしかしてユダヤ人も同じようにして世界中に散らばっているのかもとも思う。一方で社会学が専門なので細かい社会制度などが客観的に語られて、日本と比較されている。

気になったポイント ー 日本社会の息苦しさ

「私は日本にいるとき、ずっと息苦しいような、とてもひどい社会に生きているような気がしていた。その感覚はうそではない。実際に、2020年の3月から4月にかけて、日本に住んでいた知人の心理的な負担感や閉塞感は、紛れもなく本当で、それは自殺者の数となって現れている。」

 2020年5月のオンライン調査によると、日本の指導者の評価は世界で最低、逆にフィンランド政府は概ね評価されていた。一方で人口あたりの死者は日本のほうが少なく、補償の規模も日本の方が多い。筆者は日本人たちが苦しいと感じている理由は政府・政治と別なところに起因しているのではない?と疑問を呈している。

 私も息苦しいと感じているのを見ることがあるので、これは重要な点だと感じた。個人的には多くの人が暗黙的に作り出す”世間”の狭量なスタンダード(標準化されたルール)などが生きにくくしている気もする。そのスタンダードの一つが”おもてなし”だ。タクシーやコンビニでも海外のサービスに慣れると日本の”おもてなし”的な対応は異様さすら感じる。一昔前は少しぶっきらぼうでも良かったのではないか。社会が個人に求めるハードルが変に上がってしまい、適応障害者を生み出しているのだとしたら、”おもてなし”は消えてなくなってほしい。

気になったポイント ー 共助と公助

「京都で通っている保育園は、(中略)保護者の共同体でもある。(中略) 保育園だけを比較するなら、おそらく京都の保育園のほうが、子供と親を育てる共同体としてのスキルの蓄積と保護者・保育士・経営者の団結力と友情において、この、ヘルシンキの畑の学ん赤にある保育園絵より優れているように感じる。
 でも、そんな共同体も、保育園の先生たちの情熱や努力も、保護者の熱意や協力も、もしかすると必要ないのかもしれない。保護者の労働時間が短く、保育が労働者の福利厚生でなく子ども個々人の権利として制度化されているならば。そして皆がある種の『あたたかさ』を求めないのであれば。」

フィンランドの保育園は朝の八時から八時半までの間に登園すると、給食の朝ごはんが食べられる!行事もほぼなく、保護者どうしの交流もない。日本の弁当文化を「すごいねー」と言われる一方で「それはいつ必要なの?」と聞かれる。公助を充実させる運動をせずに、自助や共助で何とかしようとしてしまう日本。それが今の不幸な日本を演出している一要素だとも私には読めた。

気になったポイント ー スキル

「『正直さ』『忍耐力』『勇気』『感謝』『謙虚さ』『共感』『自己規律』などなどを『才能』でなく『スキル』ととることについて、なんとなく狐につままれたような気分だった。(中略)
 私は、思いやりや根気や好奇心や感受性といったものは、性格や性質だと思ってきた。けれどもそれらは、どうも子どもたちの通う保育園では、練習するべき、あるいは練習することが可能な技術だと考えられている。」

 保育園の面談で子どもが練習が足りているスキルはどれかとスキルが書いてあるカードを並べだした。日本では性格や性質と理解されているものが”スキル”として理解されていて、保育園の先生たちは「いいところ」「悪いところ」という発想を持っていなくて、「練習が足りていること」「練習が足りていないこと」と捉えている。

 この発想は面白い。このような発想で子どももそうだが、親とかマネージャの上司など、暗黙知になっているようなスキルを可視化して練習するようにすれば世の中もっと良くなるのではないか。よくよく考えると私の所属するスーパーホワイト企業はマネージャーに対してかなり頻繁に研修をしている。何度も練習を重ねているのかもしれない。

気になったポイント ー 在日コリアンと平和

「中学生あたりから、何度か『日本と韓国が戦争になったら、お前はどちらにつくのか?』と質問されるたびに、くちでは『どっちでしょうねー』と言いつつ、心の中では『私がどうしたらいいかオロオロしている間に、お前みたいなやつが私を殺しに来るだろうから、私がその質問の答えを考える必要はない』と思っていた」

 たしかに在日コリアンの人は関東大震災でもデマが流れて殺されたらしいので、有事の際に在日コリアンの虐殺は起こりうる。筆者の両親が子どもよりも自分の人生を優先し、戦争反対の集会やデモにをしたことを作者は苦々しく記憶している。けれど、上の話にあるように有事に命の危険にさらされるのであれば、戦争などを避けようとする運動を積極的に行うのはもっともな気もする。筆者は戦争は辛く苦しいことという戦争反対な立場をとっているが、戦争は誰かの経済的な利益のために行われ、一般国民が犠牲になる。そして残念なことにそのような経済的な利益のために一般国民が犠牲を強いられるのは戦争だけではなくて、現在の日本や世界で現在進行系で見かけることである。

最後に

 作者は最後に『たくさん友達を作って、粘り強く、できる範囲で、みんなで力を合わせて社会を変えていこう』と呼びかける。人々が助け合う制度のある社会や”公”がある国があることで、それは人々の力で作っていけるのだと感じた。

 フィンランドの諸制度や保育園などを知りたい人だけでなく、保育園・幼稚園を使っている子育て中の親たちには響くないようがあるはずなので、ぜひに読んでもらいたい。

地図でスッと頭に入る古代史

2021 昭文社 瀧音能之(監修)

日本の古代史は日に日に興味が出てきてるので、図書館で見かけて薄くてわかりやすそうな本だったので手にとってしまった。

本の構成

 第一章で「縄文・弥生時代」、第二章で「古墳時代」、第三章で「飛鳥時代」、第四章で「奈良時代」にフォーカスして、トピックを取り上げて、図を伴って解説していく。途中にクローズアップ古代史という章を設けて、従来の説から変わっているものについて、最新の説を解説している。

気になったポイント 従来説と新発見

 教科書でも語られているという最新の説で知らなかったことはいろいろあったので興味深かった。仁徳天皇陵とされていた古墳が築造時期と天皇が活躍した時代と合わないことから、大仙陵と改められていたのは驚いた。一方で聖徳太子が実在しなかったという説はさすがにありえない気がした。

最後に

 あまり詳しくないのもあり、聞いたことがあるなぁという感覚で、綺麗な絵を見ながら流し読みしてしまったところもあったが、目を引くところもあった。黒曜石の分布や、古代の出雲大社がかなり高層の建物だったことなどは興味深かった。

 詳しくない人も気軽に手にとって読み進められるので、初心者への歴史の解説本としておすすめです!

地図でスッと頭に入る古事記と日本書紀

2020 昭文社 瀧音 能之(監修)

 やはり古事記はロマンが溢れている。図書館でちょっと目に入ったので借りてしまった。

本の構成

 古事記と日本書紀が5章に分かれて解説されている。序章は「はやわかり古事記・日本書紀」で記紀の成り立ちについて、第一章「天地の始まり」はスサノオによる大蛇退治まで、第二章「神々の物語」はオオクニヌシの話から初代天皇の誕生まで、第三章「ヤマト政権の誕生」ではヤマトタケルやホムダワケの皇位継承まで、第四章「古代天皇の躍動」ではオオサザキの仁政からアナホノミコ殺人事件まで、第五章「日本の誕生」では武烈天皇から壬申の乱を経て日本誕生まで、それぞれ見開きで分かりやすい図で説明されている。

気になったポイント – 神話

 オオクニヌシの話も伊予や播磨の風土記にも記載があるという、またオキナガタラシヒメも日本書紀では一章かけて解説しているというので、当然に存在したのだと思う。
 この神話を神話でないという考古学的な発見などがあったらいいなぁと多くの人が思っているとはおもうが、やはり自分も考えてしまう。シュリーマン的な投資や発見は常に憧れる。天の岩戸の話も皆既日食とかは調べようと思っていて、調べていない…。

気になったポイント – 高天原

 天津神が住んでいる高天原。イザナギとイザナミは高天原の神々と相談しながら国作りを勧めいる。アマテラスは高天原からオオナムチに使者を遣わしたりしている。
 高天原とはどこなのか?何なのか?は気になる。海洋国家だった昔は海の向こうだったのかなとかも思ったり、妄想が止まらない。

最後に

 とにもかくにも古事記・日本書紀は日本人のアイデンティティに関る物語であるのは間違いないが、なかなか読む機会がないとは思うので、まずはこのような取っ付き易い書籍を手に取るのはおすすめです!

21 Lessons 上・下

2019 河出書房新社 ユヴァル・ノア・ハラリ(著), 柴田裕之(訳)

ハラリ氏のサピエンス全史で過去の歴史を読んで、ホモデウスで人類の未来を読んだ。21 Lessonsでは「今、ここ」にフォーカスしてハラリ氏が現代の課題について語る。

本の構成

全21章で構成されており、それが5つのテーマに分類されている。第一部「テクノロジー面の難題」で自由市場資本主義の窮地について語り、第二部「政治面の難題」では第一部で取り上げられた問題についての対応を詳しく考察する。第三部「絶望と希望」では直面するテクノロジーの問題の難題は政治的な対立を生むもののうまくすれば人類は難局に対処できると展望し、第四部「真実」ではポスト真実という概念に取り組み、悪行と正義の区別、現実と虚構の境界についての理解を問う。最後に「レジリエンス」でこの混迷の時代に人生において何をなすべきか?どのような技能を必要とするか?何を言えるかを考える。

ポイント – テクノロジー面の難題

 (幻滅) 世界では反自由主義が進んでいるが、自由主義は経済、政治、個人と分けることができるので、各国で自由主義の範囲を選択して採用するかもしれない。自由主義は経済的な成長によって人々を統合してきたが、生態系の危機の原因になっている。新しい物語が必要になっている。
 (雇用) 人間には身体的な能力と認知的な能力の二種類があり、過去の機械は身体的な能力を使う仕事を奪ってきた。人工知能は認知的な能力を使う仕事を奪っていくと考えられている。人間の「直感」を必要とする課題でもAIは人間を凌ぎうる。芸術分野の音楽でも個人にあった曲や大衆が好む曲を作曲できるようになる。何もする必要がなくなった人類は存在意義の喪失と戦う必要がある。そういう人たちに向けて最低所得保障をするというアイデアがある。もう一つは最低サービス補償であり、政府が様々なサービスを無償で提供する共産主義が目指してたものだ。
 (自由) 多くの人は「自由意志」を信じる自由主義者だ。人々は神々に権限を託しすごしていたが、最近になって人々に権限を移した。しかしまたアルゴリズムに権限を移すかもしれない。身体の管理もバイオメトリックセンサが検知する異常に対応することになり、個人の趣味嗜好も自分異常にアルゴリズムが理解するようになるかもしれない。しかし自動運転では事故の際、運転者を助けるか歩行者を助けるかの選択に迫られるケースではアルゴリズムでは選択できない。アルゴリズムとバイオメトリックセンサによる監視社会や個人差別も危惧される。
 (平等) 一部の集団のみがグローバル化の成果を独占していき、不平等が進んでいる。バイオテクノロジーによって身体的能力や認知的能力をアップデートする場合には富裕層のみその恩恵を味分けて、生物的なカーストに分かれかねない。一部のエリートに富と権力が集中するのを防ぎたいなら、データの所有権の統制が重要だが、政府が国有化するとデジタル独裁国家になりかねない。

ポイント – 政治面の難題

 (コミュニティ) SNSにより自分の感覚よりオンライン上の人がどう感じるかを気にしている。人類は教会や国民国家なしで生きてきたので、それらはなしでも生きられるが、自分の身体や感覚と疎遠になったまま生きると混乱を覚える可能性がある。
 (文明) 民族も宗教も個人も変遷を経て変化し続ける。生物の文化とは対象的に、人間の部族は時とともに融合し、次第に大きな集団を形成する。現在は大きな集団を形成するばかりでなく、各国は等しく地図帳に記載されて、政党や普通選挙があり、人権を尊重するような国民国家で構成されている。それらには同じようなフォーマットの国旗や国家があり、一つの文明を構成している。
 (ナショナリズム) 人々はナショナリズムによる孤立を支持するようになってきている。国民国家はサピエンスの歴史の中では新しいもので、部族などでは対応できない難題に対応するために生まれた。ナショナリズムを信じる人は喜んで戦地に赴いたが、核兵器が使われたことで彼らも核戦争を恐れるようになった。ナショナリストの中には孤立主義を訴える人もいるが、多くの国では輸入なしでは自国民に十分な食料を提供することさえできないし、製品の価格も高騰する。核兵器がある中ではナショナリズムの権力政治に逆戻りするのは危険である。気候変動、サピエンスが技術によって変化していくような課題に対しては国家レベルでの答えはない。
 (宗教) 宗教は農業や医療が得意でなかったから科学に譲った。宗教が得意だったのは解釈することだった。宗教は経済も得意でなかったがどんな経済政策が選ばれても、それをクルアーンの解釈で正当化できる。人類がAIに大きな権限を与えることがあっても、賛成でも反対でも教義の中から解釈を見つけて正当化するだろう。とはいえ、人類の力の源泉である集団の協力は集団のアイデンティティに依存しており、多くの集団のアイデンティティは未だ宗教的な神話に基づいている。カーストや女性嫌悪の差別を支持するような宗教もあるが、人々を分割する宗教伝統は人々を団結させる。日本は近代化を成し遂げるにあたり神道を国家神道に作り変えることで熱狂的な忠誠心を生んだ。今日では多くの国家が日本にならって宗教に頼って独自のアイデンティティを維持している。
 (移民) 移民には様々な議論がある。移民受け入れは義務か?移民はその国の文化に同化するひつようがあるか?移民が社会の正員になるのにどのくらいの時間がかかるか?などである。移民反対派は人種でなく文化によって差別している。(外国人への義務)

ポイント – 絶望と希望

 (テロ) テロは「恐怖」というこの言葉の文字通りの意味が現しているように、物的損害を引き起こすのではなく恐れを広めることで政治情勢が変わるのを期待する軍事前略だ。国家がテロリストの挑戦を受けて立てば、たいてい彼らを叩き潰すことに成功する。テロによって生じた物的損害は微々たるものなので、それについて何もしないことも可能だが、荒々しく公然と反応し、テロリストの思う壺にはまる。国家がこうした挑発に乗らないでいるのが難しいのは、現代国家の正当性が、公共の領域には政治的暴力を寄せ付けないという約束に基づいているからだ。けれど国家はいつか核兵器を入手しようとするかもしれないとかといった理由で、反体制派のあらゆる集団を迫害し始めたりしないように、なおさら用心するべきだ。
 (戦争) 世界の緊張は高まっているが、2018年と1914年の間には重要な違いがあり、1914年には世界中のエリート層は戦争に大きな魅力を感じていたが、2018年には戦争による成功は絶滅危惧種のように珍しいものに見える。21世紀に主要国が戦争を起こして勝利を収めるのがこれほど難しいのは経済的な性質の変化がある。過去は経済的な資産は主に物だったが、21世紀では技術的な知識や組織の知識からなる。そして知識は戦争ではどうしても征服できない。だが戦争が損でも愚かな人間は戦争を起こすかもしれない。ただ新たな世界戦争が避けられないと決めてかかるのは自己実現的予言になってしまうので危険だ。
 (謙虚さ) ほとんどの人は、自分が世界の中心で、自分の文化が人類史の要だと信じがちだ。筆者のルーツであるユダヤ人も人類の歴史にさほど影響を与えなかった。多くの宗教も謙虚さの価値を褒め添えておきながら、けっきょく、自らがこの宇宙で最も重要だと考える。
 (神) 人は自分の無知に「神」という大層な名前をつける。そしてなぜかこの「神」と呼んでいる宇宙の神秘によって人の行動を規定しようとする。道徳とは「神の命令に従うこと」ではない。人間は社会的な動物であり、そのため、人間の幸福は他者との関係に大きく依存しているため、他者の悲惨さを自然に気にかける。道徳的な生活を送るためには神の名を持ち出す必要はない。
 (世俗主義) 世俗主義は宗教の否定ではなく、首尾一貫した価値基準によって定義され、世俗主義的な価値観の多くは様々な宗教にも共有されている。宗教の機関がその理想から外れているように、世俗主義の機関もその理想に遠く及ばないことがある。世俗主義の理想とは真実に対する責務であり、真実は観察と証拠に基づいているというものだ。苦しみを理解する思いやりも重要な責務である。この2つの責務は、経済的平等や政治的平等への責務にも繋がっていく。責任も大切にしており、大きな崇高な力が世界を救ってくれると信じてはおらず、生身の人間である自分たちが自分たちのすることに責任を負うと考えている。世界が悲惨な場所であれば、解決策を見出すのは自分たちの義務である。宗教やイデオロギーには影の面があるが、世俗主義の科学の良いところは誤りを認めるところだ。

ポイント – 真実

 (無知) 個々の人間はこの世界についてわずかしか知らないし、歴史が進むに連れて、個人の知識はますます乏しくなっていった。人間が地球の主人になれたのは、大きな集団でいっしょに考えるという、比類のない能力のおかげだったのだ。集団思考と個人の無知の問題につきまとわれているのは、大統領やCEOも同じだ。世の中を支配しているときには、忙しすぎて真実を発見するのは難しい。さらに巨大な権力は必ず真実を歪めてしまう。権力とは、現実をありのままに見ることではなく、周囲の空間そのものを歪めるブラックホールのような働きをする。もし本当に真実を知りたかったら、権力のブラックホールから脱出して、たっぷり時間を浪費しながら周辺をあちこちうろつきまわってみる必要がある。ただ周辺部にはすばらしい、革新的な見識がいくつかあるかもしれないが、主に、無知な憶測や、偽りであることが証明されているモデル、迷信的な心情、馬鹿げた陰謀論で満ちている。
 (正義) 複雑なグローバルな世界で正義を実行に移すのが難しい。さらに因果関係が細かく分岐していて複雑で、具体的な因果関係が理解できない。近代以降の歴史上で最大級の犯罪は、憎しみや強欲が招いただけでなく、無知と無関心におうところがなおさらお大きかった。イギリスの淑女足し費は地獄のようなプランテーションのことをしらずに角砂糖をお茶に入れた。グローバルな問題を論じるときには、不利な境遇にあるさまざまな集団の見地よりもグローバルなエリート層の見地を優先する危険がある。世界の様々な道徳的な問題を理解しようとしても理解できない。規模を縮小したり、人間ドラマに的を絞ったり、陰謀論をでっち上げたりする。最後の方法は全知というドグマに導かれるままについていく方法だ。
 (ポスト・トゥルース) 歴史にざっと目を通すと、プロパガンダや偽情報はけっして新しいものではないことがわかるし、国家や国民の存在をまるごと否定したり、似非国家を作り出したりする週間さえ、はるか昔までさがのぼる。実際には人間はつねにポスト・トゥルースの時代に生きてきた。ホモ・サピエンスはポスト・トゥルースの種であり、その力は常に虚構を作り出し、それを信じることにかかっている。私達は、非常に多くの見ず知らずの同類と協力できる唯一の哺乳類であり、それは人間だけが虚構の物語を創作して広め、膨大な数の他者を説得して信じ込ませることができるからだ。人々を団結させる転では、偽りの物語のほうが真実よりも本質的な強みを持っている。集団への忠誠心がどれほどのものかを判断したかったら、人々に真実を信じるように頼むよりも、馬鹿げたことを信じるように求めるほうが、はるかに優れた試金石になる。真実と力が手を携えて進める道のりには、自ずと限度がある。世界について真実を知りたければ、力を放棄しなければならない。信頼できる情報が欲しければ、たっぷりとお金を払わなくてはならない。自分に重要な問題に対しては、関連する科学文献を読む努力をすることだ。
 (SF) 21世紀初頭における最も重要な芸術のジャンルはSFかもしれない。今日のSFの最悪の罪は、知能を意識と行動する傾向にある点かもしれない。この混同のせいで、SFはロボットと人間が戦争になるのではないかと、過剰な心配を抱いているが、実際に恐れる必要があるのは、アルゴリズムによって力を得られた少数の超人エリート層と、力を奪われたホモ・サピエンスから成る巨大な下層階級との争いだ。『マトリックス』の中に閉じ込められた人間には正真正銘の自己があり、その事故はテクノロジーを使ったありとあらゆる操作に影響されずに保たれるし、マトリックスの外には本物の現実が待ち受けていて、主人公が一生懸命試みさえすれば、その現実にアクセスできると決めてかかっている。現在のテクノロジーと科学の革命が意味しているのは、正真正銘の個人と正真正銘の現実をアルゴリズムやテレビカメラで操作しうるということではなく、新正性は神話であるということだ。だが私達の精神的経験は、それでもやはり現実のものだ。痛みは痛みであり、恐れは恐れであり、愛は愛だ。『すばらしい新世界』では世界政府が先進的なバイオテクノロジーとソーシャル・エンジニアリングを使い、誰もがつねに満足し、誰一人反抗する理由をもたないようにしている。読みてはまごついてしまう。それがどうしてディストピアなのかはっきり指摘するのが難しいからだ。

ポイント ー レジリエンス

 (教育)今日私達は、2050年に中国や世界のその他の国々がどうなっているか、想像もつかない。21世紀の今、私達は膨大な量の情報にさらされているので、必要としているのは情報でなく、情報の意味を理解したり、重要なものとそうでないものを見分けたりする能力、そして何より、大量の情報の断片を結びつけて、世の中の状況を幅広く捉える能力だ。それでは私達は何をおしえるべきか?多くの教育の専門家は、学校は方針を転換し、「4つのC」、すなわち「Critical thinking」「communication」「collaboration」「creativity」を教えるべきだと主張している。より一般的に言うと学校は専門的な技能に重点をおかず、汎用性のある生活技能を重視すべきだという。変化し続ける世界で生き延び、栄えるには、精神的柔軟性と情緒的なバランスがたっぷり必要だ。自分が最も知っているものの一部を捨て去ることを繰り返さざるをえず、未知のものにも平然と対応できなくてはならないだろう。とういうわけで、15歳の子供に私が与えられる最善の助言は、大人に頼りすぎないこと、だ。代わりに何が頼れるだろうか。テクノロジーだろうか。アルゴリズムはあなたがどこに行き、何を買い、誰に会うか見ている。アルゴリズムの方があなたのことをより理解しているのであれば権限はアルゴリズムに移る。
 (意味) 私は何者か?人生で何をするべきか?人生の意味とはなにか?筆者はイスラエルに生まれたがユダヤ教が訴える物語をどうも信じられなかった。長くても3千年の歴史しかもたないユダヤ民族が1万3年後にも存在することすら疑わしく、2億年後はサピエンスがいるかどうか不明と感じた。何かしら魂か霊が自分の死後も生き延びると思えない人は何か実態のあるものを残そうとする。しかしそれもなかなかうまく行かない。筆者の祖母の親族はひとり残らずナチスに殺された。何も残せないとしたら、この世界をほんの少しだけでも良くできれば十分なのではないか?ロマンスや恋もつましい物語だ。ほとんどの物語は、土台の強さでなくむしろ屋根の重みでまとまりを保っている。物語を信じさせるために儀式がある。孔子が作り出した儒教の儀式への執着は時代遅れの現れとみなされてきたが、周辺に長命の社会構造を生み出した。人生の究極の真実を知りたければ儀式は大きな障害となる。だが孔子のようにもし社会の安定と調和に関しがあるのなら、真実は不都合なことが多いのに対して、様々な儀式はおおいに役に立つ。特に自己犠牲は説得力があり殉じる人抜きで維持できる神や国家や革命はほとんどない。また人は物語を複数同時に信じてきた。その一つが自由主義だ。それは宇宙は自分に意味を与えてくれず、反対に自分が宇宙に意味を与えるものだ。自由主義の物語は自己を表現したり実現したりする自由を追い求めるように私に支持する。だが、「自己」も自由も共に、古代のお飛び話から借りてきた架空のもので、「自由意志」も欲することには自由があるが、選ぶことことには文化的な圧力があり自由はない。自分の頭に浮かんできたことはどこから浮かんできたのか?それを選んで浮かんできたのか?私達は外の世界を支配していない、天候も決めていない。体の中のできごとも支配していない。自分の血圧も支配していない。自分の脳さえ支配していない。ニューロンがいつ発火するかもしないしていない。そうして自分の欲望も支配していないし、自分の欲望に対する反応もしないしていないことに気付くべきだ。自由意志を信じていないと何にも関心が持てないのではないかという思う人もいるが、反対に深い好奇心が湧いてくる。自分の頭に浮かんでくる思考や欲望が自分と思っている間は自分について深く知ろうとする努力をしなくなるが、「この考えは私ではない」と悟ると自分が何者かがまったくわからなくなる。これはどんな人間にも胸躍る発見の旅の始まりとなる。現在ではSNSで粉飾された自己を作ることで本当の自分だと誤解する人もいる。幻想の自己は視覚的で本当の経験は身体的である。ブッダの教えによると宇宙の3つの基本的な現実は、万物は絶えず変化していること、永続する本質を持つものは何一つないこと、完全に満足できるものはないことだという。というわけでブッダによれば、人生には何の意味もなく、人々はどんな意味も生み出す必要はないという。私たちは、意味などないことに気づき、それによって空虚な現象への執着や同一化が引き起こす苦しみから解放されるだけでいい。ただ現実と虚構を区別するのが得意でない。区別が難しいときはそれが苦しむか?を問うと良い。戦争で国家は苦しまないが人々は苦しむ。政治家が犠牲、永遠、純粋、救済とか言い出したら注意が必要だ。
 (瞑想) 筆者は重大の頃は歴史や宗教や資本主義なども聞き、本も呼んだがそれらはすべて虚構だと思い、真実を見つけられるか見当もつかなかった。大学では真実を見つけられると思ったが、人生にまつわる大きな疑問に対する、満足の行く答えはあたえてくれなかった。趣味で哲学書をたくさん読み議論もしたが本当の見識はほとんど得られなかった。親友のロンがヴィパッサナー瞑想の講座を受けることを勧めてきて、はじめは断っていたが、ついに10日環の講習に行くことにした。瞑想について知らなかったので込み入った神秘的な理論を伴うものだと思っていたが、瞑想の教えがどれほど実践的なものかをしって仰天した。自分の呼吸を観察していて最初に学んだのは、これまであれほど多くの本を読み、大学であれほど多くの講座に出席してきたにもかかわらず、自分の心については無知に等しく、心を制御するのがほぼ不可能だということだった。どれほど努力しても、息が自分の鼻を出入りする実状を10秒と観察しないうちに、心がどこかへさまよいだしてしまう。自分は永年、自分が人生の主人であり、自己ブランドのCEOだとばかり思い込んでいた。だが、瞑想を数時間してみただけで、自分をほとんど制御できないことが分かった。じぶんはCEOではなく、せいぜい守衛程度のものだったのだ。筆者は自分の感覚を観察する10日環のこの講習で、そのときまでの全人生で学んだことよりも多くを自分自身と人間一般について学んだように思った。そしてそれにはどんな物語も学説も神話も受け入れる必要はなかった。

最後に

 あまりにも重要な要素が多く、要素を抽出するのも大変な内容量で、かつ、その間に古今東西の歴史的な事象が折り挟まれている。膨大な知の結晶であるのは間違いないのが、最後は瞑想で締めくくられているのが面白い。
 私はどちらかというと進歩主義者だが、筆者はもしかしたら非進歩主義者なのかもしれないとも思う。人類の未来は生産活動が機械に置き換わって、仕事の意味も変わって、デジタル共産主義が一部取り入れられるかもしれない。それでも今までと同じように強いものと弱いものの対立や多少の行き来もあったりする世界なのかもしれない。さらにもしかしたら人類は5万年後も生きている可能性はあると思う。10万年後も生きている可能性もある。その時の人から見ると、そして今は時代の進歩が遅い、原始の時代を生きているのかもしれない。宇宙には終わりがなく永遠に発展的に続いていき、人類の範囲はどんどん拡大していき、宇宙の泡の周辺を伝って銀河を移動するのかもしれない。その時からすると今はアフリカを出る前の人類にような地球を出られない人類なのかもしれない。そして地球を出る人類は何世代化に分かれていて、5万年後に地球を出る人類は10万年後に地球を出る人類に倒されるかもしれない。
 その時は人類はどのように発展しているだろうか。とりあえずよく眠れるベットや究極のヨガやストレッチやマッサージで身体的なバランスは完璧になっていて、ほとんどの病気や精神疾患からも解放されて、うつ病は風邪のようになっていて、認知症や総合失調症も治せるかならないようになっていたりするのだろうか。

 とにかくいろいろ考えさせられて面白かった。ぜひ多くの人に読んでいただきたい作品です!

ウイルス学者の責任 (PHP新書)

2022 PHP研究所 宮沢 孝幸

 宮沢先生はウイルス学の専門家だが、藤井聡先生といっしょにYouTube番組に出られたりしていた。初期の頃から政府の対策に疑問を呈していらっしゃったので、応援する気もあり、買ってみた。

本の構成

 本書は六章立てになっています。一章では国のコロナウイルス政策を批判していて、自身の考えと訴えた施策を説明している。二章ではワクチンの構造や仕組みなどと考え。特に子どもや妊婦に対しての影響を心配している。三章では先生が過去に実際に遭遇したDNAを書き換えるレトロウイルスにまつわる2つの事件に立ち向かった経緯と結果を紹介。猫ではありますが、ワクチンの中にレトロウイルスが入っていたというもので衝撃的です。会社側の不正義について書かれています。四章では自身が関わった今市事件についてです。唯一の物証である猫の毛のミトコンドリアの一致が鍵になっていて、その反証に携わり、国側の不正義を垣間見ます。五章では研究者として大切にしていること、六章ではネイチャーに論文が発表されたりしている自身の研究者としての歴史を語っている。

ポイント ー 世界的な国や会社の不正義

 先生が見つけた試薬の問題を放置する会社やアメリカの機関。日本でも猫のワクチンの問題について農水省は動かない。それで論文にして発表するという手段で対抗している。また今市事件については科学的にありえないことが”科学的に検証された証拠”として検察が提出して、一人の人の人生を左右している。

 統計もそうだが、一般の人が”科学的”というような言葉を聞いたら、自分では検証ができないので信じてしまう。そういうことを国が言い出したら、まずは疑わなくてはいけないのだと改めて思った。

ポイント ー 組織論

 五章では研究室の運営のことも書かれているが、恩師の姿勢などにならったりして自身の方向性も語っている。「ダメだと言われている人を大切にする組織が強い」というのは共感した。ダメな人を排除しようとすると次のダメな人を探してきて、組織として安定性がかける。ダメと言われている人を大切にして、その人にも役割を与えて、組織運営をするのが良いと。いろいろな個性が集まって仕事をするのが良いと至極まっとうなことをおっしゃられていた。

 きっと国とか大きな組織についても同じことが言える気がした。ダメと言われているような人も役割を与えられて幸せに暮らす国が良いのだと思う。国は良い研究でなくて、良い組織を作っている人にお金をもっと投入すべきだと思う。

最後に

 自分の能力を自分のためだけに使う人に対しては正直、残念に思う。長いものに巻かれている人も残念に思う。宮沢先生はそうではない。別のところで「能力のある人はそれを人のために使え」とおっしゃっているのを聞いたし、ご自身でもそれを実践なされていると思う。利他の精神を持った人が増えれば世の中が良くなると思う。そして利他の精神を持った人が多かったからこそ日本が発展したのだと思う。自分もこう有りたいと思う人に出会えてよかったと思う。

 コロナウイルスやmRNAワクチンについて知りたい人や、宮沢先生の歴史について知りたい人にはうってつけの一冊です。