世界文学全集〈第3〉赤と黒 (1965年)

1965 河出書房新社

 

身分は低いが野心を持った美しい主人公ジュリアン・ソレルは、その頭脳の明晰さを買われて町長・レナール家で家庭教師として雇われる。やがて、ジュリアンはレナール夫人と恋におちる。さらにパリの神学校に行き、大貴族のラ・モル侯爵の秘書にまで上り詰めるが、そこで起きる事件によって出世の道は閉ざされる。スタンダールの代表作。

モーム10選に入っていたから読んだが、素晴らしく面白かった。気持ちよかった。

生物と無生物のあいだ

2007 講談社 福岡 伸一

 

「遠浅の海岸。砂浜が緩やかな弓形に広がる。海を渡ってくる風が強い。空が海に溶け、海が陸地に接する場所には、生命の謎を解く何らかの破片が散逸しているような気がする。だから私たちの夢想もしばしばここからたゆたい、ここへ還る。」

文章が美しい。学問的な説明の中に、詩的な情景が差し挟まれる。分子生物学の歴史をひもときながら、生命を定義しなおすという大きな命題に立ち向かう。「聖杯」を探して、分子生物学を前に推し進めた科学者たちの人物や、そのスキャンダルやセンセーショナルな発見の物語。

自己複製がDNAの本質であり、生物の定義だと思っていた。しかし本書によると、DNAですら「動的平衡」に支配されていて、それが生物の本質だという。また生物はなぜ原子に比べてこんなに大きいのか?というシンプルな問いにも言及されていて興味深かった。私は人が集まりである組織と生物とを比較するのが好きであるが、食物の摂取によるエントロピーのコントロールや、大きいことによって統計的な安定を確保するという考え方は興味深いものがあった。

生きることについて―ヘッセの言葉 (1963年) (現代教養文庫)

ヘルマン・ヘッセ 社会思想社 1963

 

「私は闘争や行動や反抗をいささかも支持しません。世界を変革しようとする、すべての意思は、戦争と暴力へ導くものだと思うからです。従っていかなる反対にも組することができません。私は簡単に割り切った考え方を是認できませんし、地上の不正と邪悪が取り除き得るものだとも思っていません。私たちが変えうるもの、そして変えなければならないものは、私たち自身です。私たちの性急さ、利己主義(精神的なものも)、すぐにむきになること、愛と寛容との欠如などです。それ以外の、一切の世界の改革は、たとえどんなに善意から発していても、私は無益だと思います。(書簡)」

書籍や書簡などから抜き出されテーマ別に編集されたヘッセの言葉たち。

小僧の神様・城の崎にて

2000 新潮社 志賀 直哉

 

小僧の神様などの代表作を含む志賀直哉の短編集。

印象に残ったのは「佐々木の場合」「赤西蠣太」「焚火」「雨蛙」不倫がどうのこうのというのはあまり好きではない。赤西蠣太は何度も読んだ。映画もあるみたいだから、見てみよう。

食品を見わける

岩波書店 磯部 晶策

 

「北海道の帯広市の町村農協が集まって設立した乳業メーカーがある。そのバターのよさに引かれて工場見学におもむいたとき、工場の庭に黒色のえたいのしれないごみの山を見かけた。たずねてみると、コーヒーの出し殻ということである。牛乳工場にコーヒーの出し殻がボダ山のようにうず高く積みあがっている。『なにに使ったのですか』という質問に、『もちろん、コーヒー牛乳の材料ですよ』という答えを聞いたときには、文字どおり仰天、空を仰ぐほどおどろいた。麻袋づめのコーヒーを焙り、適当な粒子に挽き、それを煮出してコーヒーをつくる現場を見てさらにおどろいた。」

30年も前に出版された食品の本だが、まったく色あせていない。バイブル的な書ということだ。

とにかく筆者の知識の深さと広さに驚いた。トマトジュースの歴史や、鶏卵をはじめ、酒、ジャム、バター、はちみつ、チョコレートなどの知識の他にも、海外の食品やスーパーマーケットの成り立ちなどカバーしている範囲が広い。“日本ではチョコレートを溶かして飲むという習慣がないために海外のチョコレートよりも添加物を入れやすい”などは文化的背景も絡んでいるので興味深かった。食品については大騒動になったことが何度もあるが1、2年すれば忘れ去れるということだ。ここ最近の中国産の食品についても同様だろう。

「味と安全性を守るという信念のもとに努力している製パンメーカーが、合成保存料を断乎として添加しないために、湿気が多く暑い季節には、自社製カステラにかびが生えることで悩んでいた例がある。消費者の苦情があるたびに、謝りにいったり保健所に始末書を出しにいかなければならない。『合成保存料が許可されているのだから、それさえ添加すれば……とふと思うたびに自分自身を叱り付けているのですよ』と語っていたが、メーカー側には、このような人知れぬ苦労もある。」

アメリカひじき・火垂るの墓

1972 新潮社 野坂 昭如

 

「アメリカひじき」「火垂るの墓」を含む野坂氏による6つの短編集。短編といってもいいのかと思うような重さ深さ。

実は「火垂るの墓」は映画をまともに見たことがなかった。とにかく子供には弱い。読後は、やるせなさすぎてヒドいことになった。もうね、割腹して土くれに帰りたかった。「燃土層」「死児を育てる」「ラ・クンパルシータ」なども言葉に表せないものがある。それにしても「火垂るの墓」を映画化したのは素晴らしい決断だ。こんな形で子供が死ぬことは世界のどこでもあってはならない。ああ必殺思い出し泣きが発動…。三宮駅で黙祷をささげたい。

読書について 他二篇

1983 岩波書店 ショウペンハウエル, Arthur Schopenhauer, 斎藤 忍随

 

「読書で生涯をすごし、さまざまな本から知識をくみとった人は、旅行案内書をいく冊も読んで、ある土地に精通した人のようである。こういう人は報告すべき材料をいろいろ持ち合わせているが、その土地の様子についてはまとまった知識も、明瞭な基礎的知識もまったく欠いている。」

「思索」「著作」「読書について」の3部だて。読書よりも思索しろ。内容がないのに書こうとするから量増ししたような文体になる。10年後に消えるような悪書を読むな、古典を読め。

本は思想を得るだけのものじゃないから、思索とはまた別の価値があると思う。文体については保守的な気がした。たしかに美しい文体はある。だけど言葉は変化しつづけるものだ。古典を読めというのは、基本的に同意。人生は短いから歴史が評価したものは確実だ。けど現代の書籍でも100年後に残っているものがあるはず。それを読まないのはあまりにも悔しい。ともあれ、さすがにボコクソに言っているだけあって、氏の文体は理路整然としていて美しく読みやすい。古典を読んでない…。

「読書に際しての心がけとしては、読まずにすます技術が非常に重要である。その技術とは、多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである」

魂がふるえるとき

2004 文芸春秋 宮本 輝

 

「いい小説をよみたいのだが、宮本さんはどんな小説を進めるかと、たまに若い人から聞かれるときがある。そんなとき、私は若い人がとっつきやすく、なおかつ小説としてさまざまな深みを蔵したものを勧めるのだが、(略)最近になって、その青年の好みに合わなくても、途中で読むのを放棄しようとも、私は意に介さず、いくら勧めても読む人は読むであろうし、読まない人は読まないであろうと考えて、私の好きな小説を教えてあがればそれでいいのだと思うようになった。」

宮本先生が勧める16の日本文学の短編。

飛ばしたのもあったけど、面白いものもあった。永井荷風などの日本文学はまだまだ私には早い気がした。読んでみたかった国木田独歩の作品が入っていたが、やはり波長が合う気がした。また文語調のリズムも素晴らしいと思うに至った。